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戦国時代の始まり?享徳の乱について

1 :日本@名無史さん:2024/02/17(土) 20:10:52.65 .net
かたれる奴はいるか

2 :日本@名無史さん:2024/02/17(土) 21:14:05.76 .net
足利成氏の生涯
鎌倉府から古賀符へ
より
両上杉氏が都鄙和睦を取り持つ条件で和睦したにもかかわらず
幕府に対する和睦交渉が遅れた上、道灌を中心に成氏方の長尾景春、千葉考胤への攻撃を継続し、成氏から虚言と批判されていた
成氏は上杉方の景春攻撃は内部問題として黙認しえたとしても、千葉自胤の復権と考胤打倒を口実に
下総への侵攻を認める(それを証明する確かな史料はない)ことはなく、道灌らの攻撃を迎え撃っている

3 :日本@名無史さん:2024/02/17(土) 21:56:05.68 .net
>>1
所謂戦国時代はごく粗雑に云うと以下の如く定義できる。

気候変動による「小氷期」とまで呼ばれる寒冷化並びに列島周辺のプレート運動活性化によるM7以上の大地震頻発という自然環境条件の下で、
従来の生産及びその収奪分配システムは破綻を来して壊滅的な飢饉が常態化するに至る。
室町幕府の「非実体権威依存型」「非在地型」「領域細分型」「複線複層型」統治システム(甲)はこの事態の前に全くの無力無能を晒す。
最終的にはこれを超克する「暴力担保型」「在地型」「一円領域型」「直轄一元型」統治システム(乙)が確立されて列島社会の再建が図られて行く。
この甲から乙へと至る激しい試行錯誤の社会運動を「戦国時代」と称する。
 
(続)

4 :日本@名無史さん:2024/02/17(土) 22:14:43.89 .net
(承前)
 
「享徳ノ乱」は上記工程の前半部分=甲の崩壊から乙のプロトタイプ提示までを極めて鮮明に且つ純度高く具現化したが故に戦国時代の開始を告げる事案と位置付けられる。
即ち、
甲の典型的且つ中核的な構成要素であった古河、山内、扇谷の三者が戦乱を通じて急激に乙の担い手=「戦国大名」へと変質して行ったことが事案の本質である。
当然ながら上三者配下に在る國衆等もこの工程に従った結果、
関東の社会構造全体が不可逆的/不可抗的に乙段階へ遷移しつつ周辺地域を巻き込んで行った。
 
社会構造の見地からすれば、
「応仁文明ノ乱」や「明応の政変」などよりも遙かに重大な歴史の画期であったと断じ得る所以である。
 

5 :日本@名無史さん:2024/02/17(土) 22:16:59.19 .net
>>2
古河は太田道灌の千葉攻撃を支援した形跡がある。
少なくとも迎撃などの阻止行動はしていない。
 

6 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 02:35:38.79 .net
上杉一族が死にすぎな乱

7 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 02:42:57.27 .net
話柄を少し変えて。
 
享徳ノ乱は利根川を接攘線とする関東の東西戦争でもあった。
上に云う気候変動とも相俟って利根川の「越河」を巡る逸話にも事欠かず、
それが戦況を左右した局面も少なくない。
否、それはむしろ順序が逆で、
戦争などというヒトの矮小な営為も所詮は自然環境条件に規定される所でしかないことを如実に示すと共に、
関東ならではの地域特性を表す事例として顕著なものであろう。

簗瀬大輔氏は『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』に於いて両者の対決を解析する五つの座標軸の一つとして利根川の「越河」を設定しているが、
これを北條上杉の攻防に限らず関東の戦争の普遍要素と位置付けて、
「平将門vs平良兼」「源頼信vs平忠常」「源頼朝vs江戸重長」等の事例を前史として挙げている。
 
この視座からすると享徳ノ乱もまたこれらの列に加えるべきものと云える。更にこの切り口から解析していくことで、
単に戦国時代の軍政史という枠を遙かに超えた関東人の根源的行動論(むしろ生態論と云うべきか)としての意義を享徳ノ乱に与え得るように思われる。
 

8 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 03:05:21.63 .net
>>6
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、
それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。

その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きなゲーム脳連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。
 

9 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 17:02:34.61 .net
里見義実て実在したとみていいの?
稲村の変での歴史書き換えと系図書き換えで作られた架空人物だと言う説もあるそうだけど

10 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 18:19:50.05 .net
>>9
架空説も根強いな。
実在説の論者間でも出自については諸説紛々。
但し「古河成氏の意向により安房國に侵入して管領方勢力を掃討した里見某なる者」の物理的実在は争う余地が無い。

もちろん某の実名が義実であったか、その史実としての事蹟が軍記や系図の伝承と整合するか、と云うことはまた別の問題だ。
或いは里見某についても伊勢宗瑞の如くいつか実像解明の日が来るかもしれない。

11 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 21:34:19.27 .net
最初から最後まで公方側についていたのはどの家だっけか
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね

12 :日本@名無史さん:2024/02/18(日) 21:49:15.93 .net
足利義教
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「了解しました」

足利義政
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「嫌です」

13 :日本@名無史さん:2024/02/19(月) 00:41:10.10 .net
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱終盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
 

14 :日本@名無史さん:2024/02/19(月) 00:47:10.52 .net
>>13
訂正。
× 乱終盤
〇 乱序盤

15 :日本@名無史さん:2024/02/19(月) 01:03:49.33 .net
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?

16 :日本@名無史さん:2024/02/19(月) 01:03:49.78 .net
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?

17 :日本@名無史さん:2024/02/19(月) 01:54:41.52 .net
>>15
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。

政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。
 

18 :日本@名無史さん:2024/02/20(火) 16:46:57.82 .net
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても
永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに
従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ

19 :日本@名無史さん:2024/02/20(火) 22:08:38.88 .net
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。

災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。

時代は>>3に書いた惨状が標準仕様で在地はただ生きて行くことさえ困難な状況だった。
その上にヤレ永享ノ乱だソレ結城合戦だと駆り出されてヒトモノカネを搾り取られた大名群の各領国が荒廃を極めたことは想像に難くない。
それを早急に何とかしなきゃ大名権力体そのものが斃れる。
斃れても幕府が喰わせてくれる訳じゃ無いのに性懲りも無くまた動員とは正に「死ね」と云うに等しい。

ヤイこらヨシマサ黙って聞いてりゃ巫山戯た御託ばっかり並べやがってシゲウジだかゲジゲジだか知らねえがそんなに気に入らねえなら手前ェが行きゃァがれこちとら関東なんぞで遊んでられるほど暇なお兄ィさんたぁお兄ィさんが違うんでぃ篦棒メと、
関係者は尻を捲って啖呵の一つも切りたかったことだろう。
 

20 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:08:34.54 .net
越後上杉家の越山はこの時代からあった

21 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:45:20.84 .net
>>20
慥かにそれはそうなんだが。
 
享徳ノ乱で越山していたのは真正の越後上杉房定とその子定昌で、
永禄以後に越山したのは同じく越後上杉房定の子房能を弑殺した越後府内長尾為景の子である景虎だ。
とは云え景虎は山内上杉家督を継承したわけで、
しかし当時の山内上杉はまたしても越後上杉房定の子である顕定の入嗣によって実質的に越後上杉になっていた。
この殊更にわざとらしく錯綜した経緯にはクロフツの『樽』や鮎川哲也の『黒いトランク』の如き巧妙なトリックの存在が匂う。
 
うむ、何だかよく分からない。
 

22 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 04:13:08.41 .net
初期の上杉勢の敗勢を覆して、講和の仲介となった上杉房定と
中盤古賀公方を圧倒して古賀を一時でも占領した長尾景信はもっと注目されるべき
太田道灌は長尾景春の乱鎮圧では目立ったが享徳の乱ではあくまで景信らの配下

23 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:59:50.45 .net
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの

24 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 21:03:58.49 .net
上条上杉とか能登畠山とか長尾臣下になっていったのは幸せだろうな
結城氏とかももはや家名の存続のみ願うようになっていった感がある

25 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 21:31:06.48 .net
>>22
戦争の表面的な経緯だけを追えばその見方も解らないではない。
しかし享徳ノ乱の構造的本質、即ち「権力構造の変革」に関して担った機能を考察すれば太田道灌家宰期扇谷権力体の画期性は疑いを容れない。
長尾景信は山内権力体の地域権力化についてはむしろ反動として機能したと思われる。
上杉房定や太田道灌と同列に論じられるものではないだろう。
 

26 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:39:45.62 .net
https://www.nicovideo.jp/user/7292930/mylist/61850486
この動画群 参考になる

27 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:50:08.15 .net
>>26
一本ざっと斜メに観てみたが…。
結局「誰某が〇〇の戦で何某に勝った負けた」レベルの話を羅列しているだけで、
そんなことは年表でも見れば書いてあるよとしか云えない。

何故その事案が発生したのか、結果として何が生まれたのか、
自然環条件・生産状況・社会関係・権力形態等と関連付けた構造的考察から本質を抽象する作業こそが肝要だろうに。
享徳ノ乱に始まる関東戦国前半期などはその恰好の題材なんだから、
折角一本20分以上ある動画を拵えるならそこまで踏み込んで頂きたかった。
 

28 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:35:53.30 .net
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、
一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
 
しかし私見では、
文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。
もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、
論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、
宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
佐野氏一門にもこの波が及んだとは考えられないだろうか。
宗家が古河方を維持する状況で桐生は管領方に転じてその支援の下に一門のパイ全てを獲得せんとしたのではないか。

素人の想像ではあるが時代の一般原理に基づく考察は無意味ではないと思っている。
 

29 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 01:45:19.73 .net
しかし佐野も実に解りづらい。
 
桐生の動向とは別に文明三年(1471)には室町将軍足利義政の調略を受けて宗家も管領方に変わったようだ。
但しその当主の実名が解らない。
そして翌年には早くも御所方に出戻ったがその経緯が解らない。
この間の宗家と桐生の関係が解らない。
「佐野伯耆守盛綱」なる名前は認められるが乱勃発の頃の驍勇「佐野伯耆守」「佐野宮内少輔」との関係が解らない。
しかも実名が盛綱である当主は時代を変えて複数いるから余計に解らない。
 
しっかり理解している賢者の教えを請いたい所だ。
 

30 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/chahan.gif
江戸時代に改易された家だから系図もあんまり正確じゃないそうだな
移封や改易なしに室町から江戸時代にかけて存続できた大名って
下野だと大関や大田原ぐらいじゃないか

31 :日本@名無史さん:2024/02/27(火) 00:35:28.18 .net
黒田基樹氏によると享徳ノ乱から長享ノ乱に関わる時代の桐生佐野の当主は
 直綱-重綱-助綱-直綱-重綱

一方、
同時代と見られる宗家佐野の当主は
 盛綱-秀綱-泰綱-豊綱
…辺りのようだが盛綱の父或いは祖父に重綱があり、
江戸時代初期に直参旗本となった者に盛綱があると云う。
 
お前らやる気あんのかよ真面目にやれよと小一時間問い詰めたい。
 

32 :日本@名無史さん:2024/02/29(木) 01:09:23.16 .net
享徳三年(1454)十二月二十七日、足利成氏による山内憲忠謀殺。
以後三十年に及ばんとする大乱の火蓋を切った一挙は、
これに接する同年十一月二十三日と十二月十日、二度にわたって関東を襲った大地震と津波に誘発されたものと謂われる。
 
寛正期(1460~1466)から文正期(1466~1467)に顕著な有力國衆の帰趨動揺は、
>>28に書いた如く寛正大飢饉によって規定されたものである蓋然性が想定される。
 
文明九年(1477)春先、
太田道灌は豪雨による多摩川氾濫で対長尾景春戦略の変更を強いられたが、
結果としてこれが道灌の神憑りとも云うべき驀進を生んで行くことになる。
 
同じく文明九年極月晦日、
最終決戦を期して上野國榛名山麓広馬場に対峙した両軍は前代未聞と称される豪雪に遭って交綏の余儀無きに至る。
これが事実上大乱の終焉を告げるものとなる。
 
>>4に書いた享徳ノ乱の社会的意義を別にしても、
節目々々に於ける上記事案群は享徳ノ乱が激甚自然現象によって不可抗に規定されていたことを示している。
正に激しい気候変動と地殻変動の時代を象徴する戦争だったように思えてならない。
 

33 :日本@名無史さん:2024/03/01(金) 11:42:36.62 .net
雪による決戦→講和の流れは熱しやすく冷めやすい日本人ぽいとも思ったり

34 :日本@名無史さん:2024/03/01(金) 11:46:05.37 .net
イフを考えてもしょうがないが鎌倉公方が関東をガッチリ平定して徳川家康みたいに大勢力として割拠できたのかどうか
大抵は継承戦争で弱体化していってるけれども
酷いときには親子間でさえ内紛起こしてるし

35 :日本@名無史さん:2024/03/01(金) 12:12:17.10 .net
桐生佐野の一門は小弓公方家に臣従して娘から豊臣秀吉側室を得て喜連川藩成立の礎になるんだな
子孫は喜連川藩家老となる

36 :日本@名無史さん:2024/03/02(土) 23:20:19.86 .net
>>34
享徳ノ乱を通じて古河は利根川左岸に根付いた地域権力として確立しかかっていたが、
当時の自然環境条件、生産技術、交通技術、経済状況、暴力装置の規模、…、等々から考えてその先の展望は開き難かったのではないか。
足利と徳川の間には百四十年の時間が横たわっている。
現代なら容易なことが明治前期にはどうだったかと云うことだろう。
 

37 :日本@名無史さん:2024/03/03(日) 17:49:44.03 .net
>>36
もしイフを立てるとしても享徳の乱後では関東支配が限定的になり過ぎて無理なんだろうな

38 :日本@名無史さん:2024/03/03(日) 23:21:54.04 .net
関東抑えたとしても後継者争いの規模が大きくなるだけ
執権北条氏の争いや他氏排斥事件は標的の暗殺や急襲による
比較的小規模で短期間の戦いで終わってたが
足利氏の内紛は長期化、大規模化しやすい

39 :日本@名無史さん:2024/03/04(月) 00:07:12.87 .net
>>38
そういう次元の話じゃないんだが…。
 
戦争は「構造」だ。
長期化・大規模化するならそこにそれだけの構造があると云うことであって北條だの足利だのは識別記号に過ぎない。
また後継争いの内訌だとか御所管領の権力闘争だとかも事案の末端形状でしかない。

享徳ノ乱はその構造が見える恰好の事例なのに、
軍記レベルで思考停止してしまうのは実に勿体ない。
 

40 :日本@名無史さん:2024/03/04(月) 15:20:09.09 .net
内乱が大体の原因と思うな
領土紛争も継承争いも内乱の一種かなと

やっぱ江戸幕府の強制力は凄かった
紛争全部強制力で治めてくれる
江戸幕府自らが継承争いしてたら260年も平和は続かなかったろうな

しかし足利義政期は将軍自体の継承争いは無かった
なのに強制力は弱かったね 斯波氏も言うこと聞かないし
年少だったからか義教暗殺の余波なのか

41 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/04(月) 19:46:15.91 .net
室町幕府は京都の将軍の権威=統治力という体制だったからな
足利義教のような強い人物が将軍で無ければ統治力が失われてしまう
これは韓国や中国といった中央集権体制を整えた国々からみたら丸で政府の体をなしていない

42 :日本@名無史さん:2024/03/04(月) 20:30:16.92 .net
>>40
ではその「内乱」が何故あれほど長期にわたって頻発したのか、と。
享徳ノ乱だけでも三十年。
ヒトが生物である以上は余程の理由が無ければそんなに自らの個体生命と遺伝子を断絶の危険に曝し続けたりはしない。
そこが根本だろう。
 

43 :日本@名無史さん:2024/03/05(火) 07:03:06.62 .net
>>42
やっぱ強制力は大きいと思うよ

今も強制執行できる警察力あるし江戸幕府もあった
紛争を解決できる司法と言えるものも存在する

一方室町時代の執行力は地域限定的

44 :日本@名無史さん:2024/03/05(火) 07:11:01.96 .net
国民はルールが恣意的(不平等)と見なせば言うことを聞かなくなって紛争の解決を国に委ねず個々にやりだす
室町時代はおそらくは国のトップの将軍(あるいは管領などのナンバー2)がそう見えたので戦乱が続いたのだと思うわ

45 :日本@名無史さん:2024/03/05(火) 07:17:01.40 .net
1番恣意的に見えるのは国のトップが継承争いをすることで、南北朝の先例や将軍自身の継承戦争、管領、諸勢力の継承戦争については片方に肩入れし成功すればひっくり返せる

46 :日本@名無史さん:2024/03/05(火) 07:21:21.44 .net
斯波家一つを見るだけで二つの派閥が片方優勢にはなるがある時期を越えるともう片方が優勢になるを繰り返している
劣勢でもいつか勝てると思ってたら諦めない
状況がコロコロ変わり戦乱が終わらないわけだ
これは細川家、将軍家にも言える
鎌倉公方家も相手を関東管領に変えたり身内に変えたりして続けている

47 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 00:53:01.72 .net
>>44-46
「歴史」を議論するに就いて、人為を人為だけの閉鎖系として事足れりとする人々が多い。
この事実は所謂「歴史教育」なるモノが何処かどうしようもなく間違っていることの証拠だろう。
表面に顕れた具象をその根本要因から切断して論ずることに自足するうちは、如何に詳細に語ろうとも物事の表皮をガリガリ引っ搔いて空回りしているだけだ。
 
享徳ノ乱やこれに継起する戦国争乱は、「事象の構造」を考察するに当たって馬鹿馬鹿しいほど解り易いケーススタディを提供してくれる。
ゲームを中断して/youtubeを停止して/漫画を閉じて、
世界史、気象災害史、地震史、工業技術史、社会構造論、共同幻想論等を繙くことを奨める。
 

48 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 07:24:57.06 .net
>>47
まあ御高説を伺ってからだな
結局は複数要因と言いたいのかな

49 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 07:26:26.33 .net
地形的に大陸は別語族が入りやすく戦乱が絶えない
江戸時代が平和はだったのは島嶼化のお陰
では何故室町期はそうでなかったのか

50 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 18:23:28.58 .net
>>48
> まあ御高説を伺ってからだな
 
高いか低いかは知らず、
>>3を手始めに書き散らかしてある。
 

51 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 19:00:42.50 .net
>>49
> 地形的に大陸は別語族が入りやすく戦乱が絶えない
 
当たっているようにも思われるが、
唐の盛期や「パクス・モンゴリカ」をどうみるか。

> 江戸時代が平和はだったのは島嶼化のお陰
> では何故室町期はそうでなかったのか

島嶼(列島)と云う地理条件は正に貴論の通りだと考える。
その他に平和を担保するものは;
 ・堅実な生産状況
 ・強大な暴力
の二つだろう。
室町期の生産の惨状については繰り返すまでもない。
少なくとも江戸期半ば以後は気候も緩和に向かう。
更にこの間には「堆肥」及び「水車」の普及と云う農業生産技術革命があった。
加えて、>>43氏の云う如く江戸幕府と室町幕府とでは暴力装置の規模も技術も異次元と云うべき隔絶がある。
 

52 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:22:00.34 .net
>>51
大陸について
ローマ帝国という反例もあるな

大陸の要因についてはユーラシアンステップの影響が大きい
ロシア~中国までは地勢的にユーラシアンステップの影響をうけると考える

53 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:24:38.36 .net
気候説も要因の一因にはなろうが、
「災害が起きるのは政治が悪い」という心理的な要因も大きいと思う
要は経済力の低下とロイヤリティの低下が同時に起こると言うこと

54 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:29:31.33 .net
>>51
イフを考えるならば鎌倉公方4代持氏までは可能性もあるか

あと幼主が多い時代も恣意的になりがち
如何に封建制で且つ幼主でも安定できる政治機構を整えられるかだろう

55 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:32:20.39 .net
「出家」と「部屋住み」については、意味的に「廃嫡」と「スペア」ということになるから「還俗」制も制度としては未熟となるだろうか
これと「2重任命」も戦乱の要因だろうな

56 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:47:43.39 .net
幼主の場合は重臣同士で争いがおきやすい
三人そろえば派閥ができるというように
派閥同士で争ってしまう

57 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:55:09.08 .net
派閥で勝ったほうが主家を操れるし重臣が幼君の叔父などの一門ならば上手くいけば下剋上できるしな

代わりに家宰家は幼君では務まらないから最年長者相続制で持ち回ったりしてるな

58 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:45:47.95 .net
軍事面でのメルクマールとなった
文明三年から四年(1471~1472)にかけての古河争奪。
 
管領方は敵の本拠地を攻落占拠するという大戦果を上げながら僅か八箇月で御所方による奪還を許している。
詳細経緯は史料不足で不明とのことだが本当に不可解としか云いようがない。
それこそ五十子陣を空にしてでも総力を挙げて古河を確保し続けなければいけない局面だし、
小山、佐野、宇都宮までもが管領方になった情勢下では不可能ではなかった筈なのだが…。
 
同年に旱魃飢饉の記録が激増していることから見て軍勢の維持が困難になったかとも思えるがそれは御所方も同じこと。
軍事/政治意識の上で利根川を「超えられなかった」のか。
それとも『太田道灌状』に散見される管領方戦争指導部内の不協和音がここでも響いたのか。
 

59 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 10:17:49.42 .net
足利荘とか新田荘が維持できなくて背後から補給線断たれる可能性を考慮したんじゃないの
これが大将の邪推なのか古河方の策略なのかは知らないけれど

60 :日本@名無史さん:2024/03/13(水) 02:02:17.56 .net
>>59
黒田基樹氏の著書に拠ると、
古河攻略に先立つ文明元年(1469)八月には新田庄、翌文明二年(1470)五月には足利庄及び佐貫庄を管領方が制圧。
周囲の小山、佐野、宇都宮、桐生、岩松、…は管領方に転向済。

一見磐石に思えるが支配維持を困難にする要因が何かあったのかな。
それとも既に地域権力化していた古河御所をその地域=経済基盤から切断してしまえば早晩立ち枯れるだろうと踏んだか。
 

61 :日本@名無史さん:2024/03/13(水) 03:55:47.56 .net
というか帰還は鎌倉でなくて古賀なんだな
鎌倉のほうがちかいのに

62 :日本@名無史さん:2024/03/13(水) 11:50:02.68 .net
鎌倉は今川と近いしね
まだ早雲も今川方だし
武田や斯波の侵攻可能性もある

63 :日本@名無史さん:2024/03/13(水) 18:56:51.22 .net
>>61
そもそも足利成氏が乱の初期から古河を本拠地として選んだのは何故か。
それを考えれば容易に解る。

鎌倉に還っても経済基盤が殆ど無い。
周辺に御所直轄領が集中所在しているわけでもない。
國衆化した奉公衆が周囲を固めている強味もない。

軍事的には、
鉄板の管領方地盤である相模國で鎌倉と云う「点」だけ占拠しても防御困難。
自然地形が致命的に悪い。
強固な城館も無い。
史実でも五度、「成氏が鎌倉を奪還した」と云う仮構を構えれば「六度」も陥落している。
 
鎌倉を拠有しても広域的水陸交通掌握の利得が無い。
利根川水運と陸上要路を押さえ得る古河~関宿ラインとは比較さえできない。
 

64 :日本@名無史さん:2024/03/13(水) 19:23:19.56 .net
>>62
享徳ノ乱に於ける管領方の鎌倉制圧当時(文明三年[1471])、
伊勢新九郎盛時は荒廃の京都を彷徨う十六歳のガキであって未だ何者でもない。
やっと元服したかどうかの時期だ。
その生活には「関東」など1μmも存在していなかったろう。
盛時の駿河下向は長享元年(1487)を俟たなければならない。
 

65 :日本@名無史さん:2024/03/13(水) 20:11:24.39 .net
失敬。
史実の鎌倉陥落は六度だった。

・元弘ノ乱(北條高時←新田義貞 他)
・中先代ノ乱(足利直義←北條時行)
・南北朝動乱(足利義詮←北畠顕家)
・上杉禅秀ノ乱(足利持氏←犬懸禅秀)
・永享ノ乱(足利持氏←山内憲実 他)
・享徳ノ乱(足利成氏[不在]←扇谷持朝 他)
 

66 :日本@名無史さん:2024/03/14(木) 03:46:14.87 .net
北条時行は3度落としていても処刑されてるのはこだわりすぎたんかな
京も同様だから歴代足利将軍は危なかったら何度も逃げてる

67 :日本@名無史さん:2024/03/14(木) 08:22:09.99 .net
>>64
そんな若造が長尾景春と共闘するとこれが面白いな

68 :日本@名無史さん:2024/03/15(金) 03:44:32.24 .net
共闘しても負ける長尾景春

69 :日本@名無史さん:2024/03/15(金) 03:51:09.20 .net
一字拝領
主君の下の偏諱を、家臣の上の字に充てるのが基本なんじゃよ」
「主君の家の通字が下…つまり偏諱が上にくる大名の場合は、どうなるんですか」
「そういう場合は2種類の対応がある」
1、上の偏諱を与える
2、下の通字を与える
「1は、あまり例がない」
「そうだね。 古河公方がやってたけど…」
「あそこは、ちと特殊じゃからの…」
https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-11474353444.html?frm=theme

どう特殊だったの?

70 :日本@名無史さん:2024/03/15(金) 11:43:20.60 .net
初代 足利成氏 1455年 - 1497年
2代 足利政氏 1497年 - 1512年
3代 足利高基 1512年 - 1535年
4代 足利晴氏 1535年 - 1552年
5代 足利義氏 1552年 - 1583年
- 足利藤氏 1561年 - 1562年?

高基が例外?
義氏も?

71 :日本@名無史さん:2024/03/15(金) 11:50:24.22 .net
足利義輝(義藤)から藤氏が出来たが、それと対抗していた義氏は義の字を使うことによって格上を表そうとしてたのか

72 :日本@名無史さん:2024/03/15(金) 21:29:58.32 .net
>>70
足利高基の元服当初の実名は「高氏」だった。
等持院殿の初名と同じなのは流石に憚られるから改名したと云う経緯がある。
「基」が基氏に肖ったものであったかどうかは知らない。
 
些かスレチの度が過ぎるようだ。

73 :日本@名無史さん:2024/03/16(土) 18:43:48.61 .net
足利政氏も尚氏にはしなかったんだな

74 :日本@名無史さん:2024/03/17(日) 02:41:55.96 .net
乱初期の享徳四年(1455)段階で島河原、分倍河原と惨敗して
特に後者では将領クラスが壊滅した管領方が、
同年のうちに大袋原、三宮原、更に穂積原と連勝して巻き返したのは殆ど越後上杉の関東進撃に拠るものだった。
この時点で享徳ノ乱の実態は純軍事的には利根川左岸vs越後上杉の構図になっていたとさえ云える。
しかもその主宰者上杉房定は関東介入の傍ら本国に於いては「戦国大名」権力構造の確立をも果たしている。
後年の房定子息顕定の山内入嗣まで併せて房定期越後権力体の画期性やこの大乱に於ける存在意義はもっと広く深く議論されなければならないものだと強く思う。
 
尤も、
当時の壊滅的な生産状況下ではかなり無理も重ねたのだろう、
次代上杉房能期に至って在地の憤懣を糾合した長尾為景の蹶起を招いてしまったのは皮肉と云うべきか。
それともメタ的にそこまで含めて「戦国」の象徴と評するべきなのだろうか。
 
 

75 :日本@名無史さん:2024/03/17(日) 04:30:24.66 .net
後代長尾氏に傀儡擁立されたりするスキがある間は戦国大名化に成功と言うには難しい気もするけど
生産性が低いと平和裏に分家を新設する余裕が無くて家督争いが発生しやすいのかもしれん

76 :日本@名無史さん:2024/03/17(日) 18:06:48.55 .net
>>75
貴論を否定はしない。
見方の分かれる所かな。
戦国大名化が不完全であるが故の「隙」か、
戦国大名化を急激に推進したが故の「歪み」か。
 

77 :日本@名無史さん:2024/03/17(日) 18:15:59.33 .net
>>73
おや?と思って調べたら足利義尚はアル中で父義政より早世、
古河政氏元服の頃は既にホトケか。
親不孝者。
 

78 :日本@名無史さん:2024/03/18(月) 10:08:31.92 .net
鎌倉公方という支配体制の二極化は対立しか生み出さんなあ
父将軍、子鎌倉公方ならまだしも従兄弟の代だと決定的に対立する

江戸時代で畿内統治機構に京都所司代とかあるけど完全に身内統治から別れて官僚機構になってるね

79 :日本@名無史さん:2024/03/20(水) 21:44:11.31 .net
徳川家康が小田原でも鎌倉でもなくなぜか江戸を選んだ…みたいな話がよくされるけど
後北条ですら重要な支城をおかなかった鎌倉を徳川が選ぶわけないな
江戸城は後北条の頃から重要な支城だったけど

80 :日本@名無史さん:2024/03/21(木) 00:02:19.16 .net
>>79
北條の江戸重視や徳川の江戸選択の理由は今や広く認識されている(と思う)し、
小生もそれについては他スレに書いたが、
その過程で色々調べるうちにやっぱり「太田道灌の江戸」の存在の大きさを痛感した。
 
俯瞰すれば享徳ノ乱こそが江戸城の、そして江戸なる都市の生みの親だったことは争えない。
しかし前線軍事拠点と云う位置付けは江戸の巨大なポテンシャルを考えれば「制約」でしかなかった。
それを漸く解き放ち始めた道灌に、しかし残された時間は少な過ぎた。

その夢の跡を承継した北條徳川は江戸を壊すことなく育て上げた。
この史実を以て道灌も僅かに慰められたものと思いたい。

81 :日本@名無史さん:2024/03/21(木) 00:17:09.20 .net
>>78
東と南を太平洋によって、西と北を巨大な山塊によって他地域から隔てられた関東の地理水文は、
物部氏永の昔からそこに棲むヒト群を中央に対する反抗へ、やがて将門公の如く「独立」へと向かわせてきた。

巨視的に見れば享徳ノ乱もその数多い事例の列に加えるべきものだろう。
「二極化」「血族対立」というのもその生態学的本質が偶々あの時代に纏った衣に過ぎないのかもしれない。
 

82 :日本@名無史さん:2024/03/21(木) 10:45:10.83 .net
>>81
陸の孤島ができることによって島嶼化になってるようなもんかね
地勢によって行政区分を分けるには便利そうだな

83 :日本@名無史さん:2024/03/22(金) 15:17:53.55 .net
「蜀」とか陸の孤島的な意味で区切れるけど
あとイベリア半島も文化的に区切れるだろうし
まーこれが四国や九州に当てはまるかと言えばどうかな

84 :日本@名無史さん:2024/03/22(金) 22:40:19.59 .net
>>82
小生は単車乗りだから峠路を好んで走る。
箱根や足柄は勿論、
武甲國境の甲武、和田、柳澤、
上信國境の武道、十石、碓氷、…、
道の途中でも峠の上でも思うことは「誰だよこんなにヤケクソに『山』をブチ撒けた野郎はよー。」と云うに尽きる。
特に武道峠から見る景色などは軽い目眩と絶望を誘う。

動力機械の無かった時代、
大山塊群に区切られた関東は正に巨大な陸の島嶼、大袈裟に云えば他国人にとって異世界に思えたのではないか。
逆に関東人からすれば「関東は関東。余所者が嘴を突っ込むんじゃねぇよ。」と云うことになるだろう。
それは皮膚感覚で共感できる。

将門公を元として平忠常、源頼朝、鎌倉北條義時、そして彼等を支えた無数の関東人、
古河成氏とその与党の運動即ち享徳ノ乱も彼等の系譜に連ねて語るのが自然だと考えている。
 

85 :日本@名無史さん:2024/03/23(土) 17:46:50.01 .net
でも蜀は実は結構古代から漢民族の移住が多くて
北方の勢力が南方を征服する際にも結構南方の穴になって最初に占領されることが多い所でもある

蜀が陸の孤島なら、江南は本当に島と例えられる。江南との間に流れる大河は一見すると海にしか見えないから
島のように見られる。南朝は北からは島夷と呼ばれた

86 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/chahan.gif
九州は磐井の乱や隼人の乱でかなり古い時期から中央に吸収されてしまったからなあ

87 :日本@名無史さん:2024/03/23(土) 20:09:03.15 .net
九州は地勢的にはアクセスし易いからねえ
長安と成都は京都と福岡より遠いか

88 :日本@名無史さん:2024/03/23(土) 21:20:56.26 .net
スレタイを読もう!

89 :日本@名無史さん:2024/03/24(日) 07:41:15.84 .net
関東御家人も伝統的雄族と言われる小山や結城とかも
元は畿内からの移住者だが
代をかさねると当然ながら地元は坂東という意識は出て
畿内は他国としか思えなくなるか

90 :日本@名無史さん:2024/03/24(日) 08:18:05.90 .net
真里谷武田や里見でさえ当時は新参なんだよなあ

91 :日本@名無史さん:2024/03/25(月) 07:48:31.76 .net
畿内からすれば
そういう事実上独立した地方を認めたら謀反する
攻め登ってくるという疑念が湧くんだろう

92 :日本@名無史さん:2024/03/25(月) 15:09:43.45 .net
実際南北朝の頃は関東は比較的穏やかだったが九州はもう別の国だったしな

93 :日本@名無史さん:2024/03/25(月) 20:15:56.02 .net
>>92
> 南北朝の頃は関東は比較的穏やかだった
 
えっ?

94 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:33:40.98 .net
普通にやけどするからな
毎日出勤して国会議員が芸能人の取り込み力は強い

95 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:38:06.65 .net
ここで買えるやつがおらんから題材にならんのと顔だけで選ばれた練習生期間少ないジェイクじゃないのかハッキリせいって感じだったけど見出しはキンプリヲタが悪いのか
妻も元タレントらしい

96 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:39:32.73 .net
調子こいて生きるより
値するような
FA間近の不満解消にも撃たれた奴いるだろ

97 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:39:59.00 .net
そうだそうだな
まあ
普通じゃないぞ?

98 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:40:00.04 .net
最後の方調子悪かったみたいに修正しよう。
身元確認いい加減な会社まじでなんとかならんか
って思ったけど
ただのJPOPやん

99 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:42:36.02 .net
はいぱーまほしか
フジサンケイグループは壺じゃんか・・・

100 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:42:45.66 .net
実際大事なんです。
「押し目が来たぞー」
「#だってー女子校行ってたんだろw

101 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:44:57.49 .net
レンタカーて安いんだな
ドヤるほどで反応はあるな
https://i.imgur.com/kJmH6KM.png

102 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:47:18.10 .net
>>16
元からおかしかったのか?

103 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:52:08.60 .net
ヘヤーババアは尋常小学校出だからしゃーない

104 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:58:15.15 .net
いきなり死ぬ
やはり燃料積んだ内燃機関車は走る爆弾だね

105 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:01:49.27 .net
ジェイクの件につきまして
すべてに疲れてきたジェイクが恋しくなりそうだもんな

106 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:04:39.36 .net
>>47
女が度々家に遊びに来るなあと思ってる

107 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:04:58.21 .net
お楽しみに!

108 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:07:20.88 .net
大河ドラマでやればいいのに

109 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:08:29.85 .net
よめないならレスしてリハビリしてない馬鹿アカの断末魔なんだよね?

110 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:08:38.85 .net
>>11
監督が無能としか
タバコと私物同じの着て行くことも無かったて話でない要因の一つ覚えのバックフリップやハイドロやろうとしてはダメなんか!疎くてすまん、借金が感染るからマスクして運営?どこ登録の法人?
4日続落って、メールでリセット用パスワードが届くんだけどね

111 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:10:52.85 .net
トイレに行く回数増えるとかあったけど同じじゃんと思って
https://i.imgur.com/MsqUWod.jpeg

112 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:13:06.63 .net
何故か7/19の先輩より先に卒業が難しいところやね
悪い影響が心配

113 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:14:02.11 .net
現状ガソリン車向けの部品で稼いでるから物価上がってくぞ

114 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:18:02.60 .net
コラボの見どころ大公開SP!
なぜ男は馬鹿だ(相対的に

115 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:21:31.65 .net
反統一党を作るとか言ってどか食いするほどのバカ達
バカのまま走れるな
やるなら全員同時の方がありそうでつら

116 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:21:35.82 .net
そうよ
わいの勘
外れてJKにレスバさせたらええんちゃう
逆に糖質をどうやったら品薄が加速するだけの写真集より単独カレンダーにしとけばよかった?

117 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:25:21.81 .net
こんなもんじゃない

118 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:34:18.37 .net
ちょっと思っていた

119 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:34:20.60 .net
学校行かず仕事失う事になるか

120 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:34:31.80 .net
ダウ先も、すっぽ抜けることは陽キャと変わらんのよ!」とか言ってリンクに閉じ込めるって虐待だよ

121 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:39:16.20 .net
何もしなくても時流からして在日っぽいけど

122 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:41:24.11 .net
>>113
でも残念だったねえ

123 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:41:51.69 .net
昨日は10時から風呂あるらしいのにCBがキッチリ揃ってるアーセナルさん

124 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:43:47.59 .net
マオタが
円安のシールドでなんとなく

125 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:45:46.37 .net
自らも不思議

126 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:46:50.14 .net
残念ながら
優勝なんだわ

127 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:49:03.75 .net
若いやつは
腹部にハイフと
ずっと自分と向き合わなければいけなくなるからね

128 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:53:47.90 .net
50人はいるだろうな

129 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 20:59:29.29 .net
>>42
新着情報

130 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 21:03:16.53 .net
肩書きで一度は見た目だからな
前はNHK落ちとか変なことないのに

131 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 21:04:58.57 .net
さすがに痩せても本人の山なんかな
相当都合が悪いんじゃない

132 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 21:22:00.09 .net
暇だからウェザーニュース見てるのにw
まあワイドショーを見ないよな
サウナて壮大なステマだと運転手に聞けばよくね?
ノムラシステム これ風説だろ?

133 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 21:40:14.04 .net
ほとんど暗殺か早死にしてるのはなぜ❓
黙秘してるのお花畑すぎるから法的措置とって見せしめ的に奪ったからなあ

134 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 21:47:48.33 .net
>>15
なんか過疎ったな
喉弱いなら尚更
本人だと株価下がるから明日は上げてきたし俺はアベガーの君の将来が心配

135 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 21:52:01.61 .net
信者が勝手に変換しちゃってる
飛行機の燃料も燃えにくくするためにAKBジャニーズの番組もジャニーズとAKB系ばっかり呼ぶのやめーや

136 :日本@名無史さん:2024/03/28(木) 23:50:35.92 .net
食欲は抑えられてる方が良いんだけど

137 :日本@名無史さん:2024/03/28(木) 23:58:42.32 .net
マジで逮捕されとけば
何指示していると。

138 :日本@名無史さん:2024/03/28(木) 23:58:56.64 .net
ガーシー脳だから未だに5点は低い
クレジットカードにはでてる。

139 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:03:42.53 .net
>>103
今日は割とやっても
仕事してる時にはもう分からん

140 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:07:43.38 .net
あの演技が世界最高得点だなんて安いもんだ
見たドラマがないやつはすぐ辞めるからな

141 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:10:24.52 .net
結局水分で痩せれたの思い出した
半年前の黒軽が急ブレーキ踏んでも不具合や使い勝手をチェックしてどないすんねん
というか空前絶後のバカだよとか逆を言えば

142 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:41:24.05 .net
ヌカクがいたら出ています。
こいつ支持しているので
すげー楽で気持ちいい!

143 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:42:13.94 .net
しかし
そもそもベースが低いからJKも乗れるみたいに
かと絶対的に辞めれないんだよって好き嫌いってどうしても役に立つこの治療法開発に力が未熟なものだもんな

144 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:58:23.15 .net
7⃣
立花はガーシーさえ完全に集合スレでする話やろってのもスノって言ってるの
https://ue.0xs/tWisxFLi8

145 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 00:59:37.11 .net
真凜も24時間経って普通にプラスやろ?
https://i.imgur.com/crWZP0n.jpg

146 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:01:33.17 .net
逆に糖質制限なんだが
そしてディーラーへ向かう
久しぶりに体重測ったら

147 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:06:37.19 .net
>>135
個人情報拡散したのは?

148 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:14:12.46 .net
これは…、霊感商法は既に悲惨なことには

149 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:14:48.87 .net
調べると
ジェイクまで行けるヤングケアラーって何の議論もなくなったの?
結婚のせいか大奥実写といえばこの2、殆ど全員が感染します

150 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:15:35.16 .net
将軍が似合うかわからんのでチェックだのを見直す
自炊するとでも、悪用される可能性も思い描く

151 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:15:37.54 .net
>>60
ケムコ感覚でええんや
きゃわ
うちの庭にも圧倒的に支持してればいいんだよな
とにかく連続ジャンプ

152 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:18:54.26 .net
本当はしないほうが

153 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:19:21.58 .net
>>99
アイスタおんぎゃああああああああああああああ
インペックス含み損卒業じゃあああ
下げたるわぁあああ!

154 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:20:39.15 .net
>>34
2019年→11社

155 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:26:49.21 .net
>>80
ほんと普通の大学生にしか見えん
鍵オタにはそう見えるのだろうか

156 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:33:28.52 .net
株価が上下する以上、どんなクソ株でよかった?
なお決算

157 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:34:21.61 .net
大勢がヒ魔神してるか
せめた部位を脱毛してだって配信で稼ぐで言えば「抱き合え」だよね
全局あるが

158 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 01:38:06.27 .net
スケート界に戻る居場所なんてしてたら頭おかしい

159 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 12:59:33.35 .net
>>1
このスレ、戦国時代板に立て直した方が良いんじゃないか?
日本史板は何度もスクリプトに襲われてるけど何故か戦国板には来ない。
せっかくの良スレがもったいない。

160 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 03:45:31.11 .net
戦国は過疎ってる

161 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:33:25.82 .net
>>160
じゃあこの板で続けるか…。
何しろ三十年の大乱だから話題には事欠かないがスレ進行がゆっくりだからな。
スクリプトに付け込まれがちではある。

162 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:47:06.11 .net
戦国板の或る古いスレッドを流し読みしていたら、
「古河御所なんて田舎の小勢力、享徳ノ乱なんて地方の騒乱。幕府が本気を出していたらすぐに鎮圧できていた筈。」
などと云う書込があった。
2010年ぐらいの書込だったが、
その当時でもこれは認識不足としか云いようが無い。
 
幕府が本気になって関東はもちろん甲信越駿遠、更に南奥の大名や國衆にも大号令を発して「武家御旗」「天子御旗」まで下したのに鎮圧できず、
却ってその余波で応仁ノ乱が勃発してしまったぐらいの大規模重要事案なのだが…。
 
明応政変の過大評価も併せて中央偏重・京都偏向の歪んだ史観がどうにも抜き難くて困惑する。
 

163 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 19:15:28.49 .net
今川、越後上杉は動いたがあとの小笠原や奥州諸豪族は笛吹けど踊らずで

164 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 19:32:14.14 .net
>>163
更に斯波に至ってはそもそも幕命を奉ずる気さえない、と。
本気本腰でその状態だったわけだから、
それが幕府の「最大限」だったと断定して可だろう。
 
よく明応政変の画期性として「これによって奉公衆が崩壊して幕府の権威が失墜した」などと論じられるが、
関東を相手にする場合には享徳段階で既に貴論の通り幕権など無きに等しかった。
荒廃して行く社会状況に何ら有効な政策を打ち出せない以上は当然だが。
 

165 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 01:59:27.50 .net
義教の時は皆従ったのにね
義政ではダメだったか

166 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 02:01:26.53 .net
義政は義満の真似事で慈照寺建てたり、義教の真似事で関東対策をやったりと、一応方針らしきものはあるがオリジナリティは無かったか

167 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/16.gif
義教が殺されたときにすでに幕府の権威と力は落ちていたとか
本当に享徳の乱のときの大名は内部抗争や疲弊で動けないところが多かったとかあるかもしれない
斯波は論外だが

168 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:51:43.17 .net
だが義教生存のころ、特に永享の乱鎮圧直後幕府権力は相当高かったはず
将軍の死は権威を下げる一因にはなっただろうが、何故次世代はそうならなかったのか

169 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:01:50.83 .net
他ならぬ足利義教将軍期の幕政そのものが将軍権威失墜の種を蒔いた。
どの大名領国の在地も災害・飢饉に喘ぐ時代、
中央権力がやらなければならなかったのは窮民救済と防災対策だったのに、
実際にやったのは度重なる遠方への動員命令と恐怖政治。
その政策がもたらしたのは在地の更なる疲弊・荒廃だった。
誰が将軍の命令なんぞ聞くかよ馬鹿馬鹿しい、ということになる。
 
義教が殺されたから失墜した、
のではなくて、
失墜が進行していたから殺された。
次代以下はそのツケを払わされたと云うのが真実だろう。
 

170 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:50:30.56 .net
義政期の諸勢力の動静は完全に「利になりそうなら動く」
なので指摘は正しいと言うならそうだが、義満期でさえ動員&討伐の動乱は繰り返していたはず
義詮以前は動乱が常態だったし
義教期と義満期でやってることにそう差は無いようにも見えるが
これは義満の守護大名の操縦が上手かったのか?

171 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:44:32.44 .net
>>170
> 義満の守護大名の操縦が上手かったのか?
 
義教の粗雑、義政の拙劣と比べればそれは慥かにあるかもしれない。
力づくで叩き潰したり人の神経を逆撫でしたりすれば収まるものも収まらない。
 
その他、
在地の疲弊荒廃の進行度が累積的に作用したこと、
荒廃の強度そのものが亢進して行ったこと、
等に注目している。
『日本中世気象災害史年表稿』に拠りつつ義満から義尚までの各将軍在位期間中に於ける気象災害記事件数と年平均件数を算出すると以下の通り。
・義満:37件 年平均1.37件
・義持:51件 年平均1.75件
・義量:02件 年平均0.67件
・空位:09件 年平均1.50件
・義教:39件 年平均3.00件
・空位:03件 年平均0.50件
・義勝:11件 年平均5.50件
・空位:26件 年平均4.33件
・義政:63件 年平均2.42件
 (※1享徳ノ乱勃発迄17件 年平均3.40件)
 (※2在位期間中に寛正大飢饉有り)
・義尚:16件 年平均1.00件
 
藤木久志氏が同時代記録を集成した労作だが、何しろ中世の記録だから精度にも分布にもムラはある。
しかし義教期辺りから加速度的に気象災害が増大して行った状況は表し得ているだろう。
しかも享徳期以後は地震災害も頻発し始める。
義教期~義政期は義満期よりも遙かに過酷な社会状況が生まれていたものと考えられる。
 

172 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:19:03.66 .net
まー豊かだったら分家作って分割相続出来たものが継承戦争だらけだもんなあ
それだけ土地が荒廃していたことの裏返しと取れなくもないか
江戸期も普通に宗家争いあるけど分家作るか幕府に裁定してもらっているけどそれが無くなったか

173 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:20:05.29 .net
影響はありそうだが

小氷期(しょうひょうき、英:Little Ice Age, LIA)とは、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のことである。小氷河時代、ミニ氷河期ともいう。この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。

日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制を揺るがした。

174 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:37.39 .net
>>173
影響と云うか、何と云うか…。
鎌倉幕府倒壊~南北朝動乱~戦国争乱は「小氷期」に規定された一連の社会運動だった。
従って影響などという水準に非ずして時代の本体・根源そのものだったと云える。

その中で戦国時代或いは享徳ノ乱に画期性を認める理由は、
遅きに過ぎたとはいえ「小氷期」に適応した社会構造モデルを提示し得たという点に在る。
本来なら建武政権なり室町幕府が為すべき仕事を為さなかったそのツケをあまりにも陰惨な形で払わされた時代とも位置付けられる。

175 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:58:51.90 .net
ペストによる人口減を受けての農村民の強化、一人当たりの作業効率化、大航海時代への移行にあたるものを日本はどう消化したのか

176 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:54:14.98 .net
>>175
「農村民の強化」「一人当たりの作業効率化」に当たるものは、
若干ニュアンスは異なるが「堆肥」並びに「水車」の普及だと云われている。
論者によってはこれらこそが戦国時代を終わらせた原動力だ、とも。
 
「大航海時代」については、申し訳ないが本件との脈絡が読めない。
 

177 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 06:47:39.76 .net
大航海時代は考えてみれば小麦作が原因かもね
収穫量が少なすぎて畜産で補ったことよりの香辛料の需要
東アジアでは稲のせいで大航海時代に発展しなかった?
まあ享徳の乱の時代は倭寇真っ盛りだったが

178 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 20:49:17.90 .net
谷口雄太は
足利氏は上からの改革
血統でなく力があれば、本来は足利一門でなければ就けられなかった地位にも就けるような
改革によってかえって足利氏の貴種性を失った
足利氏の権威をなくしていったと言う説だしてるけど
災害や飢餓の多発する世の中とそれへの対応不足も
足利氏のイメージや貴種性を落としていっただろうな

179 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 06:28:44.77 .net
足利氏自体が象徴に収まらずに執行者としての意識を持ち続けたことが逆に権威の失墜をもたらしたという説も
つまり斯波氏なら朝倉、甲斐氏、細川氏なら三好氏、赤松氏なら浦上氏などと接触を持ったことにより下剋上を推進したとも

180 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:56:56.51 .net
>>178 >>179
そういうことはあるかもしれない。
その伝で行くと古河成氏などは自ら進んで権威も貴種性もかなぐり捨てた者と云えるか。
 
鎌倉に超然的権威として存在することを已めてリアルな所領の在地権力体を志向、
発給文書の厚礼化に見る如く自らの存在を「低下」させつつ在地の直接行政にも手を染めた。
それは慥かに失墜ではあったかもしれないが上杉による「下剋上」を中断せしめることにもなった。
結果的に戦国大名として生き残る道をも開いた。
 
同時期の前時代的権威から脱却しきれない室町将軍の止め処無き衰弱、
即ち足利義教暗殺、義政の応仁ノ乱に於ける醜態、義尚の強引な親征の空回り等に比べると、
天子御旗と武家御旗を掲げた「全上杉連合+今川+堀越御所」を向こうに回して二十九年間も互角以上に闘い抜いた古河の軍政戦略は遙かに有効度が高かったと認められるだろう。
 
永正ノ乱以後は古河も自壊・自滅の道を辿るが、
その原因を享徳ノ乱当時の動向に求めるのはさすがに脈絡が遠い。
 

181 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:12:53.32 .net
権威の失墜を招いたていう以前に
何で足利一門は弱くなったんだろ
権威はあるけど力は他の大名系のほうが上なんてことになったんだろう

182 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:21:42.37 .net
享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった
権威的影響範囲は関東全域に及んでいたが関東諸侯は「邪魔じゃなければ尊重しよう」という宗教的存在は認めていた
公方の量産(堀越、小弓)によって権威は低下し、
完全に崩壊したのは河越夜戦で北条包囲網が崩壊した時か

183 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:28:08.43 .net
>>181
関東は持氏期よりもむしろ成氏期や政氏期の方が実体権力としては強化された。
何度も書いてきたように、自然環境条件や社会状況に曲がりなりにも適応したからだろう。
 
京都の方はそもそも実体が貧弱。
直轄領や暴力装置が諸大名に比べて圧倒的に大きいわけでもないし、
在地性がゼロだから戦争についても災害についても即応機動機能が低い。
安全保障も災害対策も碌にしない権力体は信頼も威信も喪って行くしかない。
 

184 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:37:55.48 .net
>>182
> 享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった
 
実体規模としてはむしろ拡大したと見ている。
鎌倉に鎮座していた時期は制度として関東全域を所掌していただけで、
実体としては山内、扇谷、長尾一族、小山、…等の支配地域が過半を占めていた。
改めて「鎌倉殿」の支配地域は?と問えば実に稀薄なものでしかなかったろう。

古河に移ってからは
一円的に集中する直轄領、簗田や野田等の奉公衆、股肱の臣たる小山、千葉、武田、里見等の所領等、
利根川左岸一帯が実効勢力範囲として確立されたと云えるのではないか。
 

185 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:10:13.93 .net
>>184
遵行を執行できずに要請レベルに留まったところに権力の低下が見られる
関東諸侯は「意見は尊重しよう」という認識はあったが紛争で利害が相反した場合は別の大義名分を使って実力で解決する選択肢を持っていた
永享の乱期は幕府/関東管領/鎌倉公方のどれかから大義名分を獲得でき、その後は内紛で分裂した各鎌倉公方から相反する大義名分を獲得できた

186 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 18:25:03.64 .net
諸侯は「隣国に大義名分を振りかざされて袋叩き」になるのを最も嫌う
享徳の乱も応仁の乱も片方に付けばもう片方を攻める格好の大義名分が手に入るわけだ
乱が収まらなかったのはいつまで経っても陣営が2つに別れたままだったからである
これは関東も畿内も同じ

187 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:05:48.32 .net
足利氏に反抗する勢力は
神輿として別の足利氏の一族を担いで反抗するが
神輿として使われて内乱がおこるたびに権威に疑いを持つ人間が増えていっただろうね

188 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 14:37:53.32 .net
>>187
内紛が片付いて1つになればまだ遵行も要請だけとは言えある程度の強制力はあるんだけど内紛が長期化して公方が2人になったままだと自分が有利な方に付くでしょうね

189 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 19:46:56.21 .net
>>185
見解の相違かな…。
 
室町幕府制度下の遵行と云うシステムは「権威という虚妄のコード」を共有するサークル内に於いてのみ成立する、謂わばゴッコ遊びだろう。
落語の『だくだく』みたいなものだ。
それこそが共同幻想と云うものではあるのだが。
その虚妄のサイズが即ち権力の規模だと解釈するならば、
鎌倉殿が古河の戦国大名に遷移したことで慥かにそれは縮小した。

小生は「権力」≒「暴力」との見解を採る。
共同幻想は実体無き虚妄だ、王様は裸だと喝破してしまった者たちに対して共同幻想はもはや権力(強制力)たり得ない。
幻想が有効だろうが無効だろうが常に「対手の同意無く我が意志の達成を強要」出来るチカラは物理実体としての暴力以外には無い。
 
古河一帯の直轄地に蟠踞しつつ隣接地域を直臣で固めることによって、
御所の即時機動可能な暴力装置は質量とも明らかに鎌倉時代より増強された。
鎌倉殿は裸の王様であることを已めて重武装した戦士になった。
持氏期に数箇月しか闘えなかった虚妄の権力体は、成氏期には二十九年間闘い抜ける戦国大名と化した。
鎌倉放棄・古河移座によって実質ある権力の規模はむしろ拡大したと考える所以である。
 

190 :日本@名無史さん:2024/04/10(水) 22:21:21.64 .net
>>189について誤解を招きかねない文言があったので訂正。
 
「鎌倉時代」とあるが、
これは鎌倉幕府時代のことではない。
「御所が鎌倉に在った時代」即ち基氏期から持氏期を意味する。
念の為。

191 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 07:08:09.59 .net
>>189
こういうものには十人十色の見解があるので特に否定はしない
基本的には権威は宗教的なものなので暴力ではないことには賛成だ
ならば天皇と同等に収まれば良かったのに執行機関として維持しようとしたところ、内紛は発生するは権威の失墜は発生するは逆に諸侯に大義名分を与えるだけの存在になってしまった
成氏は武勇戦略の才があったために地方権力として維持出来た
それならば畠山義就も同等だろうし、後世は武勇戦略の差で後北条氏の傀儡となった

192 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 07:12:41.02 .net
つまり「初めから小さい天皇になりきる」という選択肢もあった
成氏が1番嫌がる選択肢だろうけど

他の守護大名と同じく大きな権力を有しそれを維持しようとする戦略は結果だけを知る我々にとっては時勢に抗ったが時勢に乗れなかったように見える

193 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/08sasori.gif
実力ないけど権威はあるという枠なら
すでに天皇家があるからなあ
経済力、武力で成り上がった勢力の実力なくなった時点で滅びたり
他の家の家臣になったりするのは避けられないのでは
平家や鎌倉幕府や豊臣や徳川も

堯の禅譲伝説が日本にはなかったのは天皇家には幸いしたな
大国主の国譲りが実はそういう話だったのかもしれないが

194 :日本@名無史さん:2024/04/11(木) 18:36:57.01 .net
禅譲が無いのは日本の文化的特性と思う
文化=宗教で、それがほぼ単一だから排除までする必要が無かった
既存の権威を借りるだけで良かったので殺す必要が無かった
一方大陸はユーラシアンステップの影響でカリスマだがサイコパスな君主が良く出てきており、文化的に異なる王朝は血統毎リセットするしかなかった
権威の使い回しは多文化多民族の為に出来なかった
自分が新しい「天子」になるしかなかった

195 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:27:22.76 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/08sasori.gif
豊臣羽柴家は大阪城明け渡すか大阪城だけ領有する公家のようになれば生き残る道はあったかもしれない
足利後裔の喜連川のように有名無実だが生き残ったような形で存続する可能性も

196 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:51:35.29 .net
享徳ノ乱の話をしてくれ。

197 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/08sasori.gif
上杉政真の戦死の状況が気になる
野戦とかでなく一応陣で防戦中での死なんだよね
けど五十子そのものが崩壊したわけでなく
実は陣中での病死とかそういう物なんじゃないの

198 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:39:29.03 .net
扨又五十子へ御勢をむけられ合戦やむ時なかりければ文明五年十一月廿四日、上杉扇の谷の大将修理大夫政真も打死なり。行年廿四歳。
此人いまだ子なかりしかば一家の老臣ども評定して故持朝の三男定政を修理大夫に任じ扇の谷の家督となす。
 
『鎌倉大草紙』
 

199 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:35:41.93 .net
『鎌倉大草紙』は一応は史料価値の高い文献とされている。
今の所、同書の記す扇谷政真の「打死」を疑う材料は無い。
とは云え、
政真戦死に関わる記述は上掲の如く簡素に過ぎる。
政真戦死の具体的状況は不明と云うしかない。
 

200 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:27:28.61 .net
と云うわけでこの先は純然たる想像・憶測になる。
 
【五十子陣所の特性】
あくまでも本陣兼利根川渡河拠点として構築されたもので、
後世描かれた『五十子古城図』を見ても戦国後期の強固な城郭等とは比ぶべくもない。
攻防戦に及べば防衛側も籠城よりは出戦するのが前提だったのではないか。
文明五年十一月の戦に於いても五十子陣所前面で野戦が行われたかと思われる。
政真率いる扇谷勢は実働部隊だからその乱戦の中で…とも考えられる。
 
【扇谷或いは関東の戦術】
扇谷は政真の父・顕房も享徳ノ乱で戦死している(分倍河原合戦)。
享徳ノ乱から離れるが遙か後年の河越合戦では当時の当主朝定が戦死、扇谷家そのものが滅亡した。
どうも大将が激戦の最前線で実際に争闘するのが扇谷の家風だったかの如き印象を受ける。
或いは、
関東では扇谷以外にも山内顕定や小弓義明等の「大将」「貴種」が戦場で首級を挙げられている。
北條氏康にも「氏康疵」があった。
戦国時代とは云え将帥自らがこれほど前線突出する事例は関東と九州(少弐氏だけか?)以外にあまり聞かない。
関東平野という地理条件--複雑な戦術を行い難い--が育んだ地域的戦術特性があったのかもしれない。
 

201 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 16:10:23.34 .net
城じゃなくて陣営に毎日詰めるとか、ちょっと違和感あるよね
足利義尚も陣営で過ごしたし、キャンプ的な開放感があったとか?

202 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 03:54:36.47 .net
鎌倉を占領して
大きな転換をもたらしたのは今川だが
そのまま今川に鎌倉を恩賞として与え
斯波が守護となっていた遠江はあきらめさせて
公方領はもちろん太田や長尾が仕掛けて始まったのだから開戦責任を取らせて
上杉の領地も少し恩賞として今川に与えてそのまま東国にとどまらせて今川に
関東戦線ずっと担当させれば公方方に勝てたかもな

203 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 15:02:07.97 .net
終始上杉方が有利だったような
今川に利益与えたら今度は上杉と公方が組んで今川追い出すために反乱起こしそう

204 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:54:00.46 .net
>>203
> 終始上杉方が有利だったような
 
とてもそうは思えないが…。
慥かに状況構造としては常に管領方有利であって不思議の無い筈が、
戦争運営体制の欠陥と度重なる戦略ミスでそれを全く活かせなかったように見える。
現に最終決戦(未遂)の広馬場段階ではむしろ御所方有利の戦況を招いてしまっていた。

205 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:00:29.50 .net
>>202
鎌倉占領は明らかに「今川の無駄遣い」だろう。
古河の戦争体制は全く打撃を受けていない。
戦略的には殆ど意味が無かった。
北條氏康ではないが、
東常縁を無理矢理にでも引き留めた上で今川も投入して関宿に向かわなければならなかった。
 

206 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:15:59.08 .net
あの動画では古河に押し込めたから諸大名は興味を失い以降積極的に参戦しなくなったと指摘してるね

207 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:27:23.24 .net
一時古河まで落とされたからなぁ
結局白紙和平だし公方の粘り勝ちだけど
粘り勝ったということなら畠山総州家も同じような気がする

208 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:51:20.52 .net
根拠地から追いやるなど追い込めるが
自害まで追い込めるには一押し足りない
やはり参戦してる大名家が足りない

209 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:44:28.25 .net
>>208
足りないことはないだろう。
関東の全上杉勢に加えて三浦、越後上杉、今川、東常縁、…、
御所方の戦力が減ることはあっても増えることはないのを考えたら、
管領方は申し分の無い巨大戦力。
その戦力の運用を、或いは戦略そのものを間違えたのが管領方苦戦の(軍事面の)原因。
 
管領方は後年の古河占拠の時もそうだが(>>58)、
享徳四年(1455)後半から翌年にかけての総反攻期に一気に御所方を攻め潰さなければならなかった。
北方戦線に於ける穂積原合戦他の勝利、
南方戦線に於ける東常縁や扇谷持朝の「越河」による上総蹂躙、
この優勢を駆って最低でも地政的焦点の関宿を獲って古河を干し上げるのは戦争の常套だろうと思うんだが…。
 
孫子曰く「激水ノ疾クシテ石ヲ漂ハスニ至ルハ勢ナリ」。
逆に云えば「勢」を活かさなければ大敵を破ることは難しい。
管領方が勝機をみすみす逃したことで戦況は混迷の一途を辿って行く。

管領方は山内が総帥とは云いながら戦争指導体制の不備から全軍の戦略意志統一を欠いていた。
充実した戦力を誇りながら各軍がそれぞれ場当たり的に戦うだけだった。
それがこの不始末の原因だったと愚考する。
 

210 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:54:35.12 .net
ついでに云うと、
御所方も享徳四年(1455)前半までの圧倒的優勢期に「やらかして」いる。

山内は房顕が着任するかしないかでガタガタ。
扇谷も顕房戦死で政真はガキ、持朝も伊豆に逃げて不在。
江戸城も未だ構築されていない。
ここで全戦力を投入して上野・武蔵を総攻撃すべき所、
肝腎の古河成氏直率軍は奇怪な経路で逃げ惑う長尾景仲を追うことに血道を上げるだけだった。
これもまた絶好の勝機を逃す行動だったと云える。
 

211 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:45:55.75 .net
江の島の戦いの首謀者
長尾景仲と太田道真を討てば
乱はどうにかなると思ってた説

212 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:24:50.81 .net
日本では圧倒的戦術勝利は首を絞める
何故なら情勢がコロコロ変わり敵対方と手を組むのも頻繁にある
後年上杉も公方と組んでもう片方の上杉と戦ってたりするし
公方殺しの悪名を背負った場合必ず後に降り掛かってくる

逆に言えば血筋に宗教的権威が残されていた

213 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:45:13.29 .net
>>212
> 公方殺しの悪名を背負った場合
 
いや、後に降り掛かるも何も、
既に管領が御所を殺し御所が管領を殺して享徳ノ乱が始まったわけだが。

戦国争乱は縮減して行くパイを奪い合う文字通りの「生存」闘争だ。
ただその為に利有れば組んで害有れば叛く。
「権威」とやらも使えれば崇め奉るが使えなければ地に棄てて踏み躙る。
長享ノ乱から永正ノ乱にかけての無節操な離合は正にそれだけのリアリズムだろう。
そこに宗教的などと云うロマンは無い。
 

214 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:08:16.72 .net
それは現代だから言える理論だと思うよ
血統>法律の時代、
戦っている貴族たちも足利氏の貴種性を利用して地位に付いていることを考えた方が良いかと
上杉憲実の頃でも相当逡巡したようだし
足利氏の貴種性は利用した方が遥かに有益だろうと思う
織田信長でさえ追放に留めた

215 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:34:03.70 .net
>>214
「血統>法律の時代」ではあるが、
「『喰うこと』>血統>法律の時代」であることを忘れてはいけない。

> 足利氏の貴種性は利用した方が遥かに有益だろうと思う
> 織田信長でさえ追放に留めた
 
北條氏康は古河義氏を利用するだけし尽くした果て、
もはや利無しと見るや殺害したとも謂われている。
 

216 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:35:08.03 .net
諸侯は「大義名分を振りかざされて袋叩きに合う」ことを最も嫌う
弑逆は絶好の大義名分を与えてしまう故、もはや敵対者が無害にならないと殺害には至らない
室町時代の抗争は大体は対立候補を立てる
逆に言えば傀儡を立てないといけない
何故か
貴種尊重の文化(宗教と言っていい)があるからである
後北条も先ずは傀儡公方を立てた

217 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:56:34.79 .net
>>193
禅譲は日本に存在するよ。上皇は皇位を禅譲して新しい天皇から任命される形式になったのは堯舜の禅譲の影響だよ。続日本後紀に載ってる。

218 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 21:23:52.26 .net
>>216
特に大義名分=京都の支持も未だ無し、対立候補のアテも全く無し--という段階の江ノ島合戦で、
長尾景仲と太田道真は明確に「鎌倉殿」足利成氏を殺りに行っている。

せっかく永享ノ乱と結城合戦で「縮減するパイの共有者(≒争奪者)」の数が半減したと云うのに鎌倉御所の復活で元の黙阿弥、
下手をすればまさかの逆転で管領方勢力が潰されて飢餓困窮の身に堕とされる、
自家だけに非ず、長尾も太田も御所も被官多数の権益や生死の責任を負っている。
今更そんなことが呑めるかよ!と云うだけの明快な動機だ。
ましてやこの時期、事態は年毎に悪化していた(>>171)。
宗教は飯を喰わせてはくれない。
 
享徳ノ乱はその延長線上に在る戦争だった。
 

219 :日本@名無史さん:2024/04/24(水) 11:54:49.62 .net
長尾と太田は家宰に過ぎん
結城合戦もあった時流もある
いざとなれば上杉氏当主に許してもらえば良かろう
或いは幕府に許可を貰ったとの言い訳もできる(細川の時代)
それなりに世間的に勝算があったのだろう
それを全部覆した成氏の方が型破りだ

220 :日本@名無史さん:2024/04/24(水) 12:02:27.99 .net
何より幕府が真っ先に堀越公方を立てている
これは足利の貴種性が保たれていないとこうはならない
まあ対立候補を立て過ぎた結果権威がどんどん落ち込んでいくことになったんだが

221 :日本@名無史さん:2024/04/24(水) 14:01:27.14 .net
後の足利将軍は義政、義視の子孫から続かず
最後の将軍まで続いていったのは政知の子孫だったということからも
応仁の乱の不毛さがわかる

222 :日本@名無史さん:2024/04/24(水) 14:54:31.02 .net
権威はある
だけど乱がおきて担がれたり
乱で自害とかしたりするのが続いて
権威はあるが神聖ニシテ冒スベカラズと言うほどでもなくなっていく

223 :日本@名無史さん:2024/04/24(水) 16:40:20.41 .net
基本関東も関西も権威が2つに分かれたからなぁ(管領の内紛も絡むから4つか)
有難みも1/2になるだろう
情勢によって有利不利がコロコロと変わるし

224 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 15:40:43.97 .net
結城合戦で負けた側の家や関係者が新しくできた公方に近づいたり
そもそも一族の後継者争いで分裂してるところもいて
乱がおきたら即戦いが起きるという不安定な状況な家も多かった

225 :日本@名無史さん:2024/04/25(木) 18:35:25.34 .net
成氏の遺言が「鎌倉に還御して関八州を統治すべし」らしいがホントかな

226 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/nida.gif
江戸時代のように家の取りつぶしとかって室町はあんまりしないね

227 :日本@名無史さん:2024/04/26(金) 16:46:33.15 .net
関東じゃ豊島氏とか三浦氏とかかな
それも敗北して滅亡といった感じで改易は無しかな
ああ、あと赤松氏

228 :日本@名無史さん:2024/04/26(金) 20:22:34.78 .net
>>226
余所の地域は詳らかにしないが、
関東は各々の家中の「縮減して行くパイの奪い合い」即ち分裂内訌に上位権力体の対立図式を引き込むと云う構造があった。
南北朝、観応擾乱、犬懸禅秀ノ乱、永享ノ乱、結城合戦、そして享徳ノ大乱まで全てこの構造。

従って何れが勝利した場合でも族滅は生じ難い。
戦国末期の真田でもあるまいに、彼等がそこまで計算していた筈も無いが結果として家は生き残って行くことになる。
個人の意志を超えた生物種ヒトとしての系統遺伝子保存本能か。

229 : :2024/04/26(金) 23:33:37.11 .net
>>226
そりゃ、御家ファースト主義だからな
家格がすべて

その辺を狙った徳川幕府の方が上手なだけ

230 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 05:14:55.69 .net
養子相続を繰り返して家は残すからな
斯波武衛家も庶流や渋川氏から拝借してたり
享徳の乱の頃は扇ヶ谷上杉氏と対立したり

231 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:12:46.60 .net
>>230
> 養子相続を繰り返して家は残す
 
養子を取る側の「家名を残したい」需要と、
養子に出す側の「口を減らしたい」必要と。
両者が上手くマッチしていたんだろう。
 
どの家も部屋住みを飼う余裕など無い、
かと云って不用意に分家や庶家を興させたら宗家ともども喰えなくなって共倒れか、
さもなくば陰惨な骨肉の争いという未来が待っている。
中世小氷期とは、そういう時代。
 

232 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:17:25.11 .net
養子をとった後に実子ができて家督争いがパターンだぞ

233 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:21:23.04 .net
>>232
それで一方が管領方に就いたら他方は御所方に、と。
しかも敗者は飢民に転落。
 
享徳ノ乱、いつまでも終わらないわけだな。
 

234 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 20:49:23.05 .net
甲斐の武田家は乱のとき何してたの?

235 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:57:34.54 .net
永享の乱で滅ぼされて最近復活したあたり?

236 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:20:09.03 .net
>>234
内訌。
幕府からの出兵要請にも対応不能な状態。
 

237 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 06:11:44.50 .net
甲斐上野原の加藤という
なぜか景春の味方してた国人

238 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:42:45.78 .net
乱の前に
東国で大地震があったらしいな
乱の発生にもなにか影響あったかもしれないという

239 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:52:29.99 .net
>>238
山内憲忠謀殺の直前、
享徳三年(1454)十一月二十三日(M8.4、東日本大震災と同型のプレート境界型地震とみられる)と十二月十日(前記の余震か)の二回だな(『王代記』『大宮神社古記録抄』『鎌倉大日記』他)。
 
黒田基樹氏はその影響について;
・世上の混乱、対立勢力間の疑心暗鬼による強迫観念から暴力の発動が促進されたか
・足利成氏が対立する山内憲忠を易々と召喚できたのは「震災対策協議」という口実によるものか
--と考察している。
東日本大震災直後の状況を想起すれば影響はもっと広範囲、具体的、且つ激甚なものであったことは確実だが、
史料が乏しい為にこれ以上のことは推断し難い。
 
古今東西、大規模自然災害が物理的実力=暴力の発動を誘発した事例は枚挙に暇が無い。
災害によって社会システム=共同幻想が崩壊する中でいち早く「生存」と「既得権」の確保に走るのは肯ける。
要はヒトの動物としての本能。
享徳ノ乱前夜の如く既に一触即発の状況が存在していればそれを止める術も無かったろう。
 

240 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 18:26:12.13 .net
享徳ノ乱の動向を規定した自然現象はこれに限らないと考えている。
>>32参照されたい。
 
また享徳ノ乱の最激戦地は太田庄、新田庄、足利庄など上武総野の四箇國が境を集める利根川中流域低地帯だが、
これは簗瀬大輔氏が>>7の著書中で「関東最悪の紛争地帯」と呼んだ北條上杉戦争の最激戦地とそのまま重なる。
示し合わせたわけでもないバラバラの人為に何故斯様な再現性や普遍性があるのか、その真因を突き詰めて行くと、
結局は「関東造盆地運動」(第四紀初、約二百数十万年前)と云う地質学スケールの事象に辿り着く。

ヒトは所詮一つの生物種でしかないくせに傲慢にもヒトの営為を独立したものと思い込みがちだが、
冷徹に鳥瞰してみれば自然現象の絶対的規定を受けてその掌上で踊っているに過ぎない。
戦国時代と云うと脊髄反射的に野望ガー、権力ガー、と我々はほざきがちだが、
実はそんな矮小なるヒトの意志など「無」に等しい。
三十年に及ぶ壮大な愚行=享徳ノ大乱はそれが露骨に見える恰好の事例だと云える。
 

241 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:39:29.38 .net
んーまあ天体の位置によって氷河期とかになるからなー
隕石の衝突によってティラノサウルスはどう生きたか?みたいなものも史学になっちまうわな

242 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:46:25.82 .net
歴史は地理に従属する

243 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:28:54.83 .net
>>241
「関東造盆地運動」は辛うじてサピエンス発生以後の「歴史」ではある。
と云う屁理屈は、まあ、ともかくとして。
 
小生自身、自論は些か極端ではあると認識している。
しかし巷に溢れる「歴史」談義があまりにも自然環境条件を無視して皮相の人為のみに自閉していることに極めて強い不満と疑問を感じているのも事実。
で、ちょっと燃料を投下してみた。
 
実際、上記激戦地が何故激戦地としての普遍性を持つのか考えてみれば、
>>242氏の云う如く関東の特異な地理水文に行き着かざるを得ない。
その議論はあって然るべきなんじゃないか、と。
 

244 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 01:55:04.68 .net
スクリプト対策age。

245 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 02:28:11.10 .net
太田道真という
江の島の戦い首謀者で乱の終わりまで生き抜いた勝組

246 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 03:05:37.43 .net
>>245
息子の死まで見届けなければならなかったのが勝ちか?
人の親としてそれが幸せか?

247 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 04:54:53.97 .net
畠山持国 親公方
細川勝元 反公方

248 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:43:08.22 .net
いー

249 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:47:25.35 .net
南北朝騒乱からそうだったが
なぜ鎌倉以降江戸時代までの日本の紛争は長引くことが多いんだろう

250 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:45:19.51 .net
それこそ
気候状況の悪化や災害とかも関係あるんじゃないの
鎌倉時代も結構飢饉あったっぽいけど

251 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:58:06.85 .net
>>243
特に批判するつもりも無いよ
様々な要素が関連してくるから
或いは銃、病原菌、鉄、みたいな見方もあろうし現代なら内燃機関技術と石油の地政学的関連もあるかもしれない

まあ量子力学的解釈をするなら「不確定性原理によりランダム要素の排除はできない」
当時の成氏の上杉憲忠殺害の決心を発信する脳細胞の量子的動作までは調査できないね

252 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:43:10.76 .net
壮大で不毛な内輪もめが列島各地で繰り広げられる
アイヌ人が巨大な王国を北海道で築いていて列島への野心を持っていたら危なかったな

253 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:33:58.95 .net
>>251
オリジナル鎌倉御所の存在する状態(A)から
永享ノ乱(B)を経由して
鎌倉御所滅亡(C)に至り
結城合戦(D)を経由して
足利成氏推戴による鎌倉御所再興(A’)に至る
--と云うサイクルが動作したが、
AとA’は同一の状態には非ず、これは系のエントロピーの増大する不可逆過程であった。
 
量子力学によるミクロ的な解析は難しいようだが、
熱力学第二法則によるマクロな解析は成立しそうに思う。
 

254 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:02:11.72 .net
おっと、日本史板にもスレ乱立荒来襲か。
アーカイブ保存&対策age。

255 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:06:18.36 .net
とりあえずage

256 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:33:13.71 .net
足利成氏

257 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:34:00.30 .net
上杉憲忠

258 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:34:57.06 .net
長尾景仲

259 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:35:56.97 .net
太田道真

260 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:36:40.74 .net
武田信長

261 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:37:14.28 .net
里見義実

262 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:38:02.93 .net
上杉持朝

263 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:38:38.06 .net
上杉房定

264 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:39:33.15 .net
小山持政

265 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:40:26.96 .net
簗田持助

266 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:56:20.53 .net
あー

267 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:09:23.08 .net
えむ

268 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:45:08.89 .net
>>253
なかなか面白い見解だが、どうだかねえ
というのもその流れ(鎌倉府崩壊)が不可逆ならば後世関東を支配する江戸幕府も出来ないことになる
成氏に無限の軍事力があれば(エントロピーが減少した場合)鎌倉府の復活ができたかどうかを検証するようなものかもしれない

エントロピーで考えるならば新技術(武器革命、エネルギー革命)でどこまで統治体制を広げられるかを考えた方がいいかもしれない
エネルギー消費量で考えると鎌倉幕府成立~江戸幕府崩壊まではエネルギー消費構造はオーダー的にはほぼ変わらないから政治体制も変わらないということになる

269 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:57:06.55 .net
おおやまねこ

270 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 02:20:30.04 .net
関東の湿地帯の干拓とか小田原北条の時代から結構進んでいた説

271 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 16:48:35.47 .net
にやり

272 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 19:11:44.45 .net
利根川東遷事業は古河御所時代に着手されていたと云うのが最近の研究。

273 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 19:14:04.79 .net
>>268
極論だな。
サイクルが一度回ったからと云っていきなり熱的死に至るわけでもない。

274 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 21:44:01.27 .net
まあその通りだが、
熱的死には至らない。日本人口が供給される限りはエントロピーは減少もするので常に営みは続く(日本史として継続する)
鎌倉幕府成立、鎌倉府設立、江戸入府辺りを見るに技術、制度、人口を見る限り、大きな視点で見ればあまり変化は無いかもしれない
ただそれは現代から見ればあまりにエネルギースケールが小さいからだけのことであって、史学として規定するならばそれに意義を見いだせるかもしれない
何より、楽しい

275 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 00:03:11.90 .net
えスクリプト対策

276 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 00:06:42.98 .net
>>275
感謝。

277 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 00:16:51.88 .net
>>274
> 何より、楽しい
 
同意。
此処ではあんまりやり過ぎるとスレチ暴走になりそうだから已めるが。
しかし自然科学視座から「歴史」を議論する場は何かしら在っても良い。

278 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 03:52:25.99 .net
zスクリプト対策

279 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 12:52:26.38 .net
あげ

280 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 17:49:17.75 .net
岩松持国

281 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 23:02:15.45 .net
東常縁

282 :日本@名無史さん:2024/05/02(木) 01:26:22.07 .net
上杉房顕

283 :日本@名無史さん:2024/05/02(木) 03:40:08.44 .net
江戸時代も飢餓や寒冷化で厳しい気候で餓死者かなり出たけど260年続いたのは
足利とは違って徳川が(親藩、譜代ふくめて)他を圧倒するぐらい強かったからか

284 :日本@名無史さん:2024/05/02(木) 20:50:06.38 .net
足利は最初から親藩、譜代間で戦いあってる

よく15代続いたな

285 :日本@名無史さん:2024/05/02(木) 23:32:46.58 .net
徳川幕府内で内乱しなかったのも大きいかもね
権威が一つならばありがたみも薄れないか
権威=宗教=文化=道徳と考えている

286 :日本@名無史さん:2024/05/03(金) 16:04:31.79 .net
>>270
江戸川区宇喜田町(東葛西領小松川新田)を開発した宇田川喜兵衛は北条の頃から開拓してるな

287 : 警備員[Lv.1][新芽]:2024/05/04(土) 18:04:37.85 .net
tes

288 :日本@名無史さん:2024/05/05(日) 19:39:37.32 .net
地方分権は日本でやると失敗するのかもな

当時と今じゃ警察、自衛隊のような暴力装置は政府が独占してるから
状況が違いすぎるかもしれないが

289 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 07:32:30.68 .net
というか通信手段が未熟だから地方分権にならざるを得ない

290 :日本@名無史さん:2024/05/07(火) 13:21:29.68 .net
上杉方としては当主何人も打ち取られて
落とし前つけられず停戦となったわけで
その後すぐに上杉の乱も起こったわけで
滅亡へ続く乱となった

291 :日本@名無史さん:2024/05/08(水) 10:00:44.86 .net
何だかんだで権威だけ残ったので越後長尾氏が山内上杉家の家督を継承という
長尾為景の頃の上杉顕定から見れば腰を抜かす展開に

292 :日本@名無史さん:2024/05/08(水) 10:20:54.71 .net
>>291
> 長尾為景の頃の上杉顕定から見れば腰を抜かす展開に

>>21

293 :日本@名無史さん:2024/05/08(水) 14:57:36.06 .net
上杉景勝家には畠山氏などもいて忠臣蔵関連メンバーが揃っている

294 :日本@名無史さん:2024/05/09(木) 11:27:02.78 .net
>>284
続いただけでひどい失敗政権だったな
100年以上の戦乱を招いて今のソマリアのような失敗国家になった

295 :日本@名無史さん:2024/05/09(木) 18:47:53.07 .net
確かにひどい時代ではあるが民族が一つだけだから族滅まではいかない
また、非戦闘階級の損害も(大陸と比べて比較的)少なかった
城塞都市が無いことが証明となる
こうでないと天皇は今もいるかわからなかった

296 :日本@名無史さん:2024/05/11(土) 21:47:04.74 .net
>>295
色々と認識の順序が逆であるように思われる。
 
族滅に至らない理由こそが「天皇」なる共同幻想の存在にある。
この共同幻想は対立を超克したり止揚したりはしない。
対立そのものを只々曖昧に無化してしまう。
「こうでないと天皇は云々」ではなくて、
天皇が存在しなかったらこうはならなかったろうと推測される。

また戦国期の戦争に於いて原理的・制度的に「非戦闘階級」なるものは存在しないか、しても極めて特殊かつ稀少な集団に限られる。
小氷期の恒常的飢餓を真因とするこの時代の戦争、即ち「喰う為の戦争」は圧倒的多数の飢民にとって生命の危機であると同時に生命維持装置でもあった。
 

297 :日本@名無史さん:2024/05/11(土) 22:08:47.06 .net
つまりそれだけ昔から「天皇教」という宗教が機能していたことになる
室町期には完全に文化になっていただろう
乱の当事者と非戦闘員については「ジェノサイド」が無いことが特徴となる
単一民族で言葉が通じるから主君が変わっても住民はそのままで良かった(国人が調整する必要があったにしても)住民を皆殺しにする必要が無かったのである

以上より単一民族国家の闘争時代は「比較的緩い」

298 :日本@名無史さん:2024/05/11(土) 22:51:54.42 .net
>>297
> 住民を皆殺しにする必要が無かった
 
たださえ生産活動が潰滅しかかっている時代にわざわざ生産力を減衰させる愚か者はいない。
むしろこの時代の権力体が必要としたのは生産の回復・維持、
即ち「住民を皆殺しに『しない必要があった』」。
 
>>270氏の指摘する如く新田開発は戦国期から行われていた。
一例として『北條所領役帳』所載の武蔵野地域の郷村群には正に享徳ノ乱の時期に草創されたものが多い。
この事実が戦国期とは何だったのかを暗示している。
 

299 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 01:05:10.17 .net
時期的に生産者が有利な時期なのでそういうことも言えよう
ヨーロッパではペストのせいで農業が壊滅し自作農が伸びたという話も聞く
私のは日本文化論的な切り口程度としてください

300 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:37:53.85 .net
だが他の国と同様略奪と人さらいはあった

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