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邪馬台国畿内説 Part1010

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:19:30.56 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712200110/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

885 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:39:13.70 .net
>>884
畿内説のねw

886 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:40:03.67 .net
>>758
それ、魏志倭人伝にかかれている里程は正確無比であるという仮定を出発点にしてるけど、その仮定は最初から崩れてて使い物にならないからな

887 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:40:36.87 .net
畿内説は普通すぎて面白みが無いからな
逆張り妄想ファンタジーに浸りたいバカが九州説

888 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:41:16.81 .net
>>877
公的機関から科学的調査結果が出ると理由もなく「デマ」と言い
自分は平然とデマを流す
それが九州説

(例)
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代がほとんど変わっていない図を自分で公表

889 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:42:34.39 .net
畿内説のデマが続くなw

890 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:47:18.61 .net
>>880
俺も同様

古ー田氏(ス?)の説はおかしいことに気付かされて転向した

891 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:51:22.34 .net
最初は短里とか伊都国は糸島で奴国は那の津で博多でとかそれが当たり前だと思ってる
でも勉強するとそれが当たり前じゃ無くなって誰がそんなもん決めたの?って感じになる

892 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:58:32.32 .net
九州説では、土器・三角縁神獣鏡・前方後円墳・銅鏡・埴輪などの編年も全て100年ほどずらして考えるが、
そうすると、箸墓・行燈山・桜井茶臼山・西殿塚・黒塚・メスリ山なども100年ずらさないといけなくなる。
そうすると、大仙陵古墳や誉田御廟山古墳などのほぼ絶対年代が確定している古墳とバッティングしてしまう。

それは今で例えるならば、2024年の100年前は1924年であるから、スマホもテレビもプリウスも新幹線も旅客機も、1924年に存在したということと同義である。

九州説は幾何級数的にあり得ないのではないか?
あるいは、この編年を克服する証拠を提示しなければ、素人は騙せても、学者レベルでは全く九州説の採用は不可能であると考えなければならない。

893 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:58:44.39 .net
>>889
>畿内説のデマが続くなw

九州説は嘘がバレても弁明しない
ただ次の嘘をつく

このように

894 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:05:29.54 .net
九州説って、どうしてそんなにウソつくの?

895 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:12:42.14 .net
壱岐から糸島に直接船で行けば良いってのは誰でも思う疑問で
松浦に行って歩く理由なんてどう考えても無いんだけど
そう書いてあるからしようがねえじゃんで済ますんだよね

896 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:25:35.02 .net
九州の年代も畿内に年代に押されて前倒しされてる気がするな

897 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:28:17.13 .net
素人に毛が生えると畿内説になるのかw

898 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:40:44.24 .net
畿内説の嘘の歴史は千年以上だが

899 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:47:14.81 .net
>>885
それだけじゃなく
山門郡に邪馬台国がある説だと
どうしてUの字で行くのか
松浦の下にあるのに

900 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:47:22.55 .net
>>895
末盧国に魏の大型船が着岸できる天然の良港でもあったのかもしれん
倭人の手漕ぎの丸木舟なら直接伊都国や奴国に行くだろう

901 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:51:35.98 .net
>>897
>>898
反論がまったく出来ず、ただ悪口だけ言う敗者
それが九州説



w

902 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:51:51.47 .net
>>900
あまりにも不自然だよな
九州説にせよ、畿内説にせよ(畿内説ならなおさら九州に入る必要はなく出雲に行けばいい)
なぜあんなに九州の西の端に

903 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:57:15.32 .net
>>902
だから、「末盧国」は福津市(万津浦)辺り だと、何度言えばww   @阿波

904 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:04:34.14 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

905 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:08:05.53 .net
伊都国に一大率があることから分かるように、アクシデントがなければ壱岐から直接伊都国の港に入っただろう。
壱岐から松浦目指して南下、南東に向きを変えて500里ってところだろう。
前に行く人の背中が見えないなんてアクシデント感が満載。末盧国の官の記載ないことも末盧国に寄らなかったことの根拠になるんじゃない。

906 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:08:58.46 .net
>>903
そんなこと言ってる学者は一人もいない
伊都国、奴国は畿内説でも九州説でも争いなし

907 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:13:24.20 .net
ため池は弥生時代に始まりあちこちに作られたり作り直されたり江戸時代の新しいものと古いものが混在している
稲作の為に作られるのがため池
皿池タイプとダムタイプがあるが、凹地の一部を堰き止めるタイプの池が1番簡便
弥生時代末期の水田跡、地形をじっと睨んだらこいつは古い池だというのが自ずと見えてくる

908 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:15:33.32 .net
糸島に遣唐使船が出港したという唐泊(からどまり)という港がある
その頃の港の整備力とか分からんけど糸島にも大型船は留まれるんだなと思った
まあそこは伊都国ではなく斯馬国に当たると思うが
いずれにしても末盧国に行く合理性はないよね
台風が来たからとかそんな理由じゃないかい

909 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:18:02.80 .net
>>906
>そんなこと言ってる学者は一人もいない

ボンクラ学者だからな。   @阿波

910 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:38:19.02 .net
フルショウさんによると、シマとイトは、しと神社の辺りで繋がってただけだったらしい。

911 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:51:44.81 .net
龍神は海神
普通に博多辺りは海の勢力がまだ混在していて制海権を確立していなかっただけだろう
壱岐からは龍の絵画土器が見つかっている

伊都国は佐賀だと思うよ

912 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:58:30.31 .net
海に棲む龍もたまには雲を起こすのだという明治天皇の歌があるな
河内は奈良から降りてきた龍神が柏原の地で大和川の治水を行ったという伝承がある
奈良の奈良湖の龍の話の続きだな
奈良湖があったのは弥生時代中期まで
弥生時代後期橿原や唐古・鍵遺跡から壱岐と同じ龍の絵画土器が見つかっている
河内の龍神の伝承は弥生時代後期、柏原の大和川の辺りと現在の堤防の下から弥生時代後期の大規模な遺跡が見つかっている
河内と関係が深い博多は弥生時代後期龍神の影響下だろう
その後卑弥呼の時代に完全に龍の影響を排除できたわけではあるまい

913 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:11:10.12 .net
九州の勢力が大阪にやってきたのは弥生時代前期だな
弥生時代前期雁屋遺跡などから板付式土器が見つかっている
稲作が広がる時期やね
那津の人々がやってきたんだろう
雁屋遺跡も鳥形の地で、松江の西川津遺跡、鳥取の青谷上寺地遺跡、池上曽根遺跡と同じ形の鳥形の地やね

914 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:41:45.22 .net
>>903
おまえはずっとそれ言ってるな
確かに行程的には筋は通ってるが伊都国が内陸なんだよな?

915 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:46:03.50 .net
青谷上寺地遺跡、雁屋遺跡、亀井遺跡、登呂遺跡、etc
卜骨は興味深いよな
壱岐や青谷上寺地遺跡早くから卜骨があり弥生時代中期には大阪に広がり後期には登呂遺跡など東国にも広がっていく
雁屋、亀井、登呂遺跡などは鳥形とセットだな

吉備で卜骨を認めるようになるのは遅く弥生時代末期頃で倭国大乱の後辺り
逆に大阪平野は弥生時代中期頃まで
青谷上寺地遺跡は卜骨が盛んで弥生時代全期を通して行われていた

916 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:47:45.45 .net
>>911
東南500里は吉野ヶ里方面に向かったと考えると無理がない

917 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:49:15.82 .net
遠賀川には卜骨がないんだよな
稲作集団も複数のグループがいたのかもな
土地の取り合いになるわ

918 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:55:03.61 .net
鳥形の集団は卜骨の集団のいる集落に巣を作ることが多かったようだな

919 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:57:01.75 .net
鳥形は滋賀守山の下之郷遺跡からも出てる

920 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:59:27.36 .net
鳥形の集団の縄張りに稲作技術を持つ卜骨の集団を呼び込んだとも言える

921 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:04:23.81 .net
鉄の輸入ルートだけでなく、稲作技術と土地の奪い合いが倭国大乱の引き金かもな

女王国は文身の風習を持つ海人中心の国
稲作民を呼び込んで栄え始めていた狩猟採集民の縄張りに海の民が入っていこうとしたのが対立のそもそもの原因かもしれん

922 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:08:00.03 .net
何で突然天理大学の鳥形の分類の論文がネットで閲覧できなくなったのか?
鳥形という視点を足すとより鮮やかに色々時代の動きや人々の移動が見えてくるんだけどな

923 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:09:50.39 .net
>>915

吉備は後期前葉から

924 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:09:52.16 .net
あまだむは軽の枕詞
天飛ぶやは雁や軽の枕詞

925 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:18:13.61 .net
弥生時代の食事は遺物からわかっていて、大阪辺りでは弥生時代後期になると食糧が豊富になり食べる対象が限定されるようになる
主食は米、魚は鯛、果物は山桃が好んで食べられていた
清水風遺跡では米と魚介類の雑炊が食べられていた

926 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:32:04.71 .net
各地に残る羽衣伝説みたいなことが実際に倭国大乱で起きたのかもな
松や岩にかけてあった羽衣

927 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 01:20:27.47 .net
3世紀の瀬戸内の荒れた海、海賊の危険がある海を貴重品を積んで航海するなど、まったく馬鹿げた話だ

928 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 02:05:30.69 .net
>>927
海賊っつうのは、たいていのは、通行料を払えば通してくれるどころか、ほかの海賊に襲われないように守ってくれるものやぞ
私掠船型の海賊とか、梁山泊の山賊みたいな海賊とかは特殊型

929 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 02:14:32.06 .net
世世伝統の王=世襲王の有る国
これを女王国とは言わない。

女王に属する21国の王が
共立した女王の国である。

死後も争乱になる不安定政権で
大和朝廷にはならない。

930 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 02:24:10.63 .net
>>929
権力を持ってると倒されるよ
中国のように、幕府のように

931 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 06:58:06.37 .net
>>914
>確かに行程的には筋は通ってるが伊都国が内陸なんだよな?

なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。
理由は、大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なるから。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。 
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  
ちなみにその朝鮮半島・大陸への出航地は、平戸市周辺。   @阿波

932 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:20:38.80 .net
>>767
12000里に合わせる為に一里80メートルに設定したのかもよ
帯方郡から邪馬台国までの距離÷12000里が一里80メートル前後

933 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:23:33.83 .net
>>932
つまり、直線距離。   @阿波

934 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:23:38.56 .net
>>788
なんで畿内説の人は嘘をつくんだろう?
或いは無知なのか?馬鹿なのか?
無知で馬鹿だから畿内説なのか?

https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg

935 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:27:21.03 .net
>>886
>>617-618

936 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:27:55.05 .net
>>892
ずらしてるのは畿内説だろw

937 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:28:48.50 .net
>>929
中国語の動詞には過去形とかがないので、王がいると書かれたのか王が続いてきた(が、現在ではいない)のかは分からんよ
文脈から見ると、過去形で解釈すべきではないか

938 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:39:48.35 .net
>>935
つまり短里なんてものは逆算で出なかったって事だね

939 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:43:54.89 .net
漢と交流のあったのは三十国ほどである
国はみな王を称し、代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国に居る

各国の王たちがいてさらに大倭王がいたと考えるのが自然かなー
だからこそ男王が立っても従わないし台与の時も共立に動く
各国に王がいればこそだ

940 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:45:05.00 .net
>>937
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
これは魏代にも続いてる

941 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:06:51.02 .net
>>936
>ずらしてるのは畿内説だろw

証拠でもあるの?
それはウソで九州説がズラしてるって証拠はあるんだけど

>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない

942 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:20:44.68 .net
つまり3世紀突然現れたとする邪馬台国畿内説は脳死学者によるオレオレ詐欺でしたと

943 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:27:05.47 .net
四世紀以降は漢化の時代。邪馬臺国は桓武天皇様の御代で漢化がピークに達するのだ。

944 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:32:48.87 .net
邪馬臺国が漢化した姿が大和王朝。
国名が雅になり王が男化した文字通りの漢化。

945 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:42:35.30 .net
>>941
180新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:10.72ID:D6BEFyx20⋮
>>150
詳しいことはこちら
畿内説は位至三公鏡の年代を中国側の記録より100年くらい前倒ししている

http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。

> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7-1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半~三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265~316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。

946 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:43:02.62 .net
>>941
181新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:42.29ID:D6BEFyx20⋮
>>180続き

> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265~316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。

947 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:44:47.10 .net
>>938
単里とか長里は現代人が便宜上使ってる言葉

948 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:45:34.61 .net
お稲荷さんのある森ノ宮も卜骨が見つかっているな

それより興味深いのは亀井遺跡だな
亀井遺跡の主人は相当好奇心が旺盛だったようだ
松江の西川津遺跡と同じ形の鳥形、卜骨、強力な弓、弥生時代前期の分銅の製作。弥生時代でも石棒祭祀が脈々と続いていた遺跡でもある
河内湖の縁で元々は豊かな狩場だったんだろう
亀さんのコロニーだったとしたら興味深い

949 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:58:47.05 .net
>>946
>> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。

というのもウソ
岡村編年は鏡の制作時期
写真集の解説の訳は遺跡の年代
まったく矛盾しない

まぁ、たとえ本人の書いた論文と他人の書いた解説の翻訳で言ってることが違ったって
それを矛盾だと思うのは知能たりない人なんだけどね

950 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:01:31.84 .net
>>949
じゃあ今は訂正して三角縁神獣鏡は4世紀の鏡に分類してるんだよね?
ソースは?

951 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:02:13.22 .net
畿内説ってこんなんばっか

952 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:03:57.66 .net
役に立つもの、興味深いものはどんどん取り込む
明治も昭和も弥生時代も日本人の特徴はあまり変わってないのかもな

様々な福を持ってきてくれるえべっさん。事代主のえべっさん、大黒さんのえべっさん、ひるこのえべっさんの世界観やな

953 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:04:22.37 .net
もはや宗教
畿内説が正しい
という教義が大前提で
畿内説を肯定する意見は盲目的に信じて
畿内説を否定する意見は些末な部分の揚げ足とって否定したつもりになる

954 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:07:18.90 .net
じゃなくて九州説の嘘を暴いてるだけ

955 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:08:32.34 .net
https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/recommended-relics/ippin346/

956 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:08:37.34 .net
>>950
>じゃあ今は訂正して三角縁神獣鏡は4世紀の鏡に分類してるんだよね?

誰が?
なんでそんな変な訂正をする理由があるの?

もしかしてあなた気が狂った?

957 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:15:35.88 .net
つまり畿内説は事実を嘘と呼び、妄想を推定と呼び、南を東と読む宗教でしたと

958 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:18:46.14 .net
>>944
おまえマジか?
邪馬臺は日本の言葉に中国人が文字をあてあてたんだぞ

959 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:22:58.58 .net
>>956
頭悪すぎだよ
3世紀末から4世紀初めに作られた位至三公鏡は2世紀や3世紀中頃までの卑弥呼の時代の古墳に埋葬することはできません
それが何故なのか君には理解できないみたいなので教えてあげます
2世紀や3世紀中頃の古墳を作る人にとって
位至三公鏡は未来に作られる鏡だからです。
あなたも100年後に作られる鏡を今墓に入れることは出来ませんよね?
そして三角縁神獣鏡は使われている銅は魏ではなく呉の銅
デザインも魏ではなく呉の鏡
邪馬台国畿内説に立っている考古学者、石野博信氏ですら
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして四世紀にヤマトで創作した鏡である」
と述べている。

960 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:24:49.07 .net
位至三公鏡が3世紀末から4世紀の鏡と認めるなら
それより新しい三角縁神獣鏡は4世紀以降の鏡になる
それが理解できないのが畿内説信者

961 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:28:36.77 .net
グーグルマップで九州地図を見てみた。
平野部に人がいたことが想像できる。
末羅国なんかは唐津市にあったんだろうとわかる。
伊都国は糸島市。
奴国は福岡市。
対蘇は鳥栖。躬臣國は豊後国玖珠郡。

全部九州北。

962 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:29:31.88 .net
>>959
>3世紀末から4世紀初めに作られた位至三公鏡は2世紀や3世紀中頃までの卑弥呼の時代の古墳に埋葬することはできません

位至三公鏡が3世紀末から4世紀初めに作られたなんて説はないでしょ?

963 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:38:19.29 .net
>>962
Σ( ゚Д゚)
おまえ全然人の書き込み読まないんだな

>>945
「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。

964 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:41:18.10 .net
>>928
阿波の海賊は餌食にするらしいぞ

965 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 10:02:56.35 .net
位至三公なるものを親魏倭王に渡すわけないだろ
馬鹿馬鹿しい
どっか市場で集めたもんであろう。
神仙思想には関係無い鏡
九州に渡すにはまぁ相応しい類い

966 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:05:49.13 .net
>>963
位至三公鏡、後漢で検索すると出て来るが?

967 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:07:40.62 .net
日本の言葉ヤマト国と中国の文字倭国が融合して大和国
女王は漢化(オトコ化)して男系継承化

968 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:12:14.55 .net
>>966
それが畿内説の捏造なんだよ
畿内説の為には三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であることを証明したい
だから位至三公鏡を漢の鏡に分類した
畿内説のゴッドハンド捏造分類
それが>>945-946の指摘

969 ::2024/04/09(火) 10:13:40.29 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

970 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:14:04.45 .net
>>968
中国ではこの鏡こそ卑弥呼に渡した鏡だろうと言われてると書いてあった

971 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:14:39.60 .net
>>965
「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、
大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
佐賀新聞社の取材に応じた。

潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で
「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、
公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、
鏡の総称として用いたのだろう。
そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。
「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520#goog_rewarded

972 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:15:34.26 .net
てか中国で出てる鏡なんだからこれは誤魔化しようがないだろ?

973 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:20:05.74 .net
100枚全部国宝級の鉄鏡な分けないから
ほとんどは銅鏡だったんだろうな
親魏倭王用には国宝級の鉄鏡

974 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:21:55.77 .net
>>963
>おまえ全然人の書き込み読まないんだな

だから
位至三公鏡が3世紀末から4世紀初めに作られたなんて、一体誰の説?

975 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:24:28.34 .net
>>971
>金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
曹操の墓からも同形式の鉄鏡が出土しているし、中国の専門家ですらそれを認めているもんね。
冊封の褒美としてふさわしいほどの細工、美しさ、造形。
この一枚を作り上げるのにどれだけの工数、手間、時間がかかったのかというぐらい素晴らしい。
明らかに贈答用の品とわかる一品。
神獣鏡は所詮は国産の量産鏡だから、出土しても特に邪馬台国との関連はまったくないわけだし、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と比較するとあまりにもみすぼらしい出来栄え。

976 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 10:24:58.21 .net
墓を荒らした仲間だわ

977 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:24:58.79 .net
九州説て投馬国、邪馬台国、狗奴国の比定バラバラだよね
全然結論出てない

978 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:28:02.10 .net
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡には当時非常に貴重だったトルコ石まで使われてる。
現代においても産地は限られているもの。

979 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:30:23.32 .net
>>977
畿内説もバラバラだよ

980 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:30:43.24 .net
>>974
だから読めよww

>昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には

『洛陽銅華』「監訳」「日本語版」
この単語があれば中国側の資料と分かる
洛陽銅華でググればAmazonで買えるよ
中国語の奴がね

981 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:42:52.72 .net
>>980
持ってるよ
位至三公鏡が3世紀末から4世紀初めに作られたなんて、そんな説は書いてない

982 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:48:20.85 .net
日田の鉄鏡は五世紀の古墳だろ。漢魏じゃなくて北魏だなwww
曹操の墓も北魏の墓と混同して七十二偽塚伝説が生まれたw
唐太宗曰く後世の人はまんまと曹操に嵌められたということ。

983 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:53:11.51 .net
九州説の反学問は末期症状

984 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:55:33.29 .net
漢式鏡の化学的研究 (4)
一後漢中期以降の漢三国晋鏡の原材料産地-

馬淵久夫
http://www.jssscp.org/files/backnumbers/KandSvol66_1.pdf

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