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邪馬台国畿内説 Part1014

1 ::2024/04/17(水) 20:57:01.47 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713161550/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

88 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:02:24.80 .net
>>78
銅鏡は?w
ほんと都合の良いところだけ取り上げて無理やりストーリー作るよなあ

89 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:02:39.10 .net
崇神天皇の代に疫病が大流行し、国民の半分ほどが死亡
幕末にもあったが外国人が来るとそうなる
帯方郡からの亡命者?
神武東征?

90 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:03:55.27 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>88
銅鏡も個人の威信財だぞ

91 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:05:44.95 ?2BP(1000).net
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えっもしかして「銅鐸祭祀から銅鏡祭祀へ」みたいな半世紀前に流行った説を未だに信じてるんですか?
個人墓に副葬され続けてきた中国鏡と、土中埋納されてた後期の武器型青銅器・銅鐸とじゃ社会的機能がまるで違うじゃん

92 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:05:46.83 .net
邪馬台国は奈良、狗奴国は河内湖と大和川の南の河内和泉でいいんだよ
弥生時代末期河内和泉には船橋遺跡や池上曽根遺跡で龍の絵画土器が見つかっている
弥生時代後期から一世風靡した龍の拠点だな
河内と播磨の土器が大量に見つかっている博多湾岸も龍の絵画土器の地
壱岐も同じ
古墳時代、九州北部で急増するのは河内の土器だ
狗奴国の河内和泉が古墳時代に続くヤマト政権の母体だな
卑弥弓呼は香の孝昭天皇のモデルだね

93 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:06:23.31 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
銅鐸と武器型青銅器と銅鏡の区別もつかないやつが邪馬台国論争に参加してるってマジ?

94 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:08:43.81 ?2BP(1000).net
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ガチもんのバカのために教えてやるんだが、銅鐸が個人墓に副葬された例は皆無なのよ。銅矛も中広形段階はともかく広形からは個人墓に埋葬されず土中埋納されるようになる。つまり銅鐸や銅矛は個人の所有物じゃなくて共同体のマツリの道具なの

銅鏡や勾玉とは全然機能が違うの。

95 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:09:27.45 .net
今のところ『隋書』と『旧唐書』を覆す証拠はない
『隋書』には魏の時代の倭国は30国とある。30なら九州のこと。九州の外には畿内までに70国ある
その70国は魏に朝貢せず『魏志』には「別の倭種」と記載されている
『旧唐書』ではその70国を日本と呼び、倭国とは別と述べている。では倭国とは何かというと古の奴国とある。
そもそも卑弥呼は朝貢した30国の中にある。畿内までのその他70ではない。
魏志のあとの『広志』にも邪馬台国は伊都国のすぐ南とあるので九州北部の範囲を出ないと分かる
今のところこれらの記述を覆す証拠はない。これらの記述を無視することで畿内説は存在している
(続く)

96 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:11:03.59 ?2BP(1000).net
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旧唐書ってそもそも別種説と同種説の両論併記だから。旧唐書原文読んでないバカが騒いでるだけじゃん

97 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:11:04.37 .net
(続き)
倭が古の奴国というのは『旧唐書』『新唐書』の両方に書かれている。しかし
『旧唐書』には小国だった日本が倭を併合したとある。日本=小国
『新唐書』では倭が小国の日本を併合したとある。日本=小国
この二つは矛盾しない
例えば西郷隆盛は東征して明治政府を作ったが明治政府に西征されて自害している
『新唐書』は物部氏の東征を意味する。神話上はニギハヤヒ東征。小国だった日本は物部氏が乗り込んできた瞬間から大発展していく。例えば茶臼山古墳
『旧唐書』の方は物部氏が大国に作り変えた後の畿内が九州を併合したことを言っている
畿内説は「大久保利通も明治天皇も東京に住んでいたんだから薩摩は都内にあった」と言うようなもの

98 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:13:33.15 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
なにがニギハヤヒだかw

99 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:14:10.67 .net
そういえば奈良盆地でも南大和に大和の起源があるのも興味深い
南大和から遅れた北へ北へと北の平地を開拓していった日本の歴史もあるし

100 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:15:29.76 .net
>>95
>魏志のあとの『広志』にも邪馬台国は伊都国のすぐ南とあるので

ないよ

101 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:15:35.32 ?2BP(1000).net
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中河内と中勢が纒向建設に関与してたからじゃね?奈良盆地東南部は比較的生産力が高くてポテンシャルあったというのもあるだろう。

102 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:19:07.38 ?2BP(1000).net
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大王だけ見れば北へ北へ開拓していったようにも見えるんだけど、纒向王権初期の段階で先遣隊(椿井大塚山:彦坐王)が山城に行ってるんすよね。
おそらく彼等の根拠地は奈良盆地北部で、後に倭王が東南部から北部に移動すると合流することになり佐紀王権が誕生する。

103 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:19:34.50 .net
空船の逸話の成り立ちは
今の交野市あたりは当時は海沿いで
そこに船でニギハヤヒが来たんだろ

それで「船で王様がきた」というエピソードだけが交野市に残って
後世の人が「こんな内陸部に?船で?」って困ったあげく
「船で空を飛んでやったきたに違いない!」ってなったわけだ

神話の成り立ちを「合理的に」想像すると面白いよ

104 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:20:02.45 ?2BP(1000).net
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ちなみに椿井大塚山古墳にも中国製の小札革綴冑がある。魏から貰ったやつ

105 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:22:20.36 .net
>>87
まったく、その言い方が下品だとは思わないのか?
こんなに長々とテンプレを連ねるのはやめた方がいいと言っただけだ

106 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:23:27.44 ?2BP(1000).net
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視野狭すぎ。
たまたまニギハヤヒの話が記紀に採用されたから有名なだけであって、本来はいくらでもニギハヤヒに類する祖神はいただろうよ。
古事記の元ネタになった旧辞の文書化時期が継体から欽明で、ちょうど物部氏の全盛期だったから物語になってるって考えつけよアホ

107 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:23:53.72 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

108 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:24:00.32 ?2BP(1000).net
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>>105
じゃあ別のスレ立てれば?(笑)

109 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:26:06.99 .net
>>106
つまり群雄割拠だったってことだろ

物部氏の神社に「倭王旨」の鉄剣が収められてるし

物部氏が倭王だった時代があるということじゃん

110 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:28:16.99 ?2BP(1000).net
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>>109
物部の「部」がどういう意味か理解してたら物部倭王説なんてあり得ないことわかると思うんだけどな

111 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:31:11.61 .net
奈良盆地の南大和に大和の起源があるのも興味深い
神武天皇が未開な部族を制圧した東方征伐のすえ
南奈良盆地の橿原市で神武天皇が日本国を興したのも象徴している
そして南大和から文化程度が劣る遅れた北へ北へと北の平地を
開拓していった日本の歴史も面白い

112 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:34:05.32 .net
>>110
もとから物部と名乗ってたわけじゃないだろ
王位争いに負けて仕方なく物部を名乗りだしたと考えたほうが自然

113 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:47:34.64 .net
魏略で北九州の南に狗奴国があると書いてあったから熊本だろう

魏志で初めて九州以外の国名が出て来る

114 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:53:34.89 .net
>>113
えーーー魏略で北九州という文字が出てくるなんて初耳だわ!

魏略のどの辺に北九州なんて文字が出てくるの!

教えて教えて調べてみるから!!

115 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:55:49.50 .net
畿内説は大嘘つきが多そう「

116 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:59:46.51 ?2BP(1000).net
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畿内説はもう確定だから、その後の王権の歩みについて迫りたいな。そもそもここは畿内説スレであって九州論者が来るのはルール違反だし
そう思わんか?

117 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:01:48.34 .net
このスレ回してるの九州説の人たちやん

118 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:02:51.16 ?2BP(1000).net
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日本史板にもどんぐりシステム導入してもらうように運営に頼んでみるか
俺UPLIFT入ってるから荒らしBAN出来るわけだし

119 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:03:01.62 .net
>>116
苦しいんなら現実を直視してラクになりな

120 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:04:42.15 ?2BP(1000).net
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それか、出来れば次スレはどんぐりレベル制限して立ててほしい
コマンド使えば出来るっしょ?

121 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:07:55.30 .net
>>120
トナカイよ、お前のXのアカウントを教えてくれないか?

122 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:08:39.58 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>107
いやぁ黒塚の被葬者は男だな
「大海」という地名が近辺にあるから尾張系という指摘があったりw

123 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:15:19.78 .net
弥生時代後期、遠賀川、博多湾、壱岐、五島列島、九州全県、松江、広島香川岡山兵庫大阪奈良三重愛知静岡京都滋賀石川富山、神奈川東京に一斉に龍の絵画土器が誕生する
東京湾岸、三重奈良大阪、岡山広島香川、九州北部壱岐では特に流行っていた
九州から関東まで影響を及ぼす勢力がいたということだ
黒い龍神、トミの勢力だろう
遠賀川には南方刀美があちこちで祀られている
柏原の弥生時代後期の遺跡である船橋遺跡からも龍の絵画土器が見つかっている
柏原は奈良から降りてきた龍神が留まり大和川の治水を行った伝承が残る
安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
各地の首長たちが集まり夜に水の祭祀を行っていた伊勢遺跡の特徴や大和風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻の記述とも矛盾しない諡号だね
安寧天皇は龍やトミと関係があるかもしれない

124 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:19:40.66 .net
>>114
末路~不彌までが北九州

125 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:20:17.55 .net
龍の絵画土器の密集地、壱岐には竜宮への信仰が篤い夫婦が暮らしていて、龍の女神から禿童、萩原のことか?を授かり繁栄したという伝承が残っている

遠賀川の香月に生まれた小僧の鎮西上人は立派に育ち飯塚の伝承となった
鎮西上人伝説は南方刀美の伝説じゃなかろうか?

126 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:25:40.90 .net
倭国大乱前の倭国の版図は南は九州全域から北は東京湾迄広がっていたんじゃないか?
倭国王帥升の時代だな

127 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:37:46.60 .net
隋書の阿毎多利思北孤と記紀の推古天皇
記紀が正しいと思う奴は話しにならん

128 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:39:07.41 .net
NHKはヤマト政権の始祖は邪馬台国の卑弥呼であると放送したがそれは誤りでは無かろうか?
卑弥呼より100年以上前から九州全域、吉備、近畿、東海、東京に及ぼす龍をシンボルとする枠組みがあった
倭国王帥升の記録も中国に残っている
龍神伝承の地柏原は安寧天皇の宮の位置とも重なる
既にヤマト政権は卑弥呼より前から始まっていたと考えるのが妥当だろう

129 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:43:55.06 .net
>>126
↑何だか倭人伝の筆者みたいな独自の方位感覚の持ち主がここにいるようだ。

130 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:45:46.28 .net
>>128
面土国は飽くまで倭王ではないだろう

131 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:49:12.74 .net
>>130
帥升は倭王だと書いてある

132 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:49:27.01 .net
長らく朝廷があった京都
朝廷の直轄地畿内の内3つを占める大阪

国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究によれば、東北富山石川和歌山は同じグループで、京都大阪が一番近かったのもこのグループだった
東北は黒い龍神伝承の地だな

三内丸山遺跡からは大量のヒスイが見つかっているが楔状耳飾りも見つかっている
三内丸山遺跡は遼河文明そのものの遺跡で、遼河文明は龍をトーテムとし楔状耳飾りも使われていた
日本でも縄文時代日本海側を中心に各地で楔状耳飾りが見つかっている
旧石器時代からのサヌカイトの採集地である二上山
その麓の藤井寺の国府遺跡は旧石器時代からの人々の営みが残る遺跡で、縄文時代前期の早い時期に5体の楔状耳飾りをした人骨が見つかっている
旧石器時代からサヌカイトの石器を使っていた集団と楔状耳飾りの集団は縄文時代の早い時期に既に出会い共に暮らし始めていたということだな

133 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:49:56.20 .net
>>130
倭国王だったかな?

134 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:50:34.20 .net
>>113
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。
よって狗古智卑狗=菊地彦の解釈は誤り

135 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:55:58.93 .net
魏志の南は間違いだけど、魏略の南は正解です。

136 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:57:48.44 .net
狗奴≠クマ
拘右智≠キクチ

137 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:01:22.02 .net
>>135
方位はこの地図が正しい↓

方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

138 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:03:59.36 .net
>>137
弥生時代にこれだけの地図を想像するのは絶対無理

139 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:15:02.75 .net
新嘗祭や大嘗祭の翌日に行う豊明の節会に使う三角柏
葛城の磐の姫の時代は熊野に生えていて取りに行く話がある
朝廷の儀式に不可欠なものが当時は熊野にあり、葛城の磐の姫はその所在を知る人物だったということだな
因みに奈良時代に書かれた志摩国風土記逸文に、当時は堺に三角柏が生えていて行基が志摩国にも三角柏を植えた話が残っている

弥生時代末期熊野の阿須賀神社の境内とその周辺に突然集落が誕生する。古墳時代前期迄営みがあったようだ
その集落跡からは大阪湾岸と同じ形の製塩土器が見つかっている
倭国大乱以降の国内の騒動から逃れる為、ヤマト政権の核となるものは一時熊野に逃れていたんじゃないか?
そして古墳時代中期には再び畿内の中枢に戻ってきたと考えられる
三角柏は別名隠れ蓑の葉や大谷渡りとも言う
熊野の神は初めゴトビキ岩に降臨しその後熊野川の対岸の阿須賀神社の地に移ったという

140 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:17:40.74 .net
>>139
弥生時代末期熊野の阿須賀神社
この一文で脱力するわ
ねえわそんなもん

141 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:19:44.71 .net
>>140
読解力ないね

142 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:21:30.16 .net
>>141
とりあえず弥生時代の狛犬の一つでも掘り出してきて

143 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:30:30.04 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
龍の絵画土器は実際興味深い。人口増大と鉄器生産普及と交易活動の活発化が起きていた弥生時代後期に、中国から北部九州へ齎された情報が断片的ながらも東進していった事を語ってくれてるんだろう。
新羅本紀に、旱魃の時に龍を描いて降雨を祈願したという記事がある。おそらく弥生人が龍の絵画土器を描いたのも似たような理由だと考える。

144 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:35:58.28 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
圧倒的な抗い難い超自然の力を実感していた弥生人にとって、自然に干渉出来る(降雨を操作できる)生物の登場が齎したインパクトが絶大であった事は想像に難くないのだな

145 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:41:09.74 .net
>>138
弥生時代に現在の地図を作るのも不可能

146 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:48:02.04 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ちなみに龍の絵画を西日本連合政権の誕生の根拠と見るのは明らかに飛躍な

147 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:53:34.35 .net
>>137
なるほど
山鹿郡=邪馬台国とその東南にある菊池郡=狗奴国の関係もその45度回転でキレイに南北に補正されるな

148 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:59:11.64 .net
龍の絵画土器は楽浪郡との交流が始まった事を意味している

149 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 03:39:42.67 .net
>>147
倭国の東は山口県を突き抜けて日本海になるけどな

150 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 05:40:36.71 .net
https://i.imgur.com/UUcsnVT.jpeg
方角のズレは日の出(アガリ)を東にすれば良い

151 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:00:05.63 .net
https://yamataikokunokai.com/tousennsetu/image/ryuukoku.jpg
https://smtgvs.weathernews.jp/s/topics/img/201901/201901160215_box_img1_A.jpg?1547541956
古代日本列島は何か時空が歪んでたとしても、プレート構造的におかしくはない

152 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:22:58.64 .net
列島ぐるぐる

153 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:27:16.94 .net
>>128
NHKではない
寺澤がそのように発言した
寺澤はアンチ畿内自生説なので、ヤマト王権の初代の王を卑弥呼とする

他方、畿内自生説を採る岸本直文などは、帥升も畿内とは断定しないまでも、畿内ではないか?というスタンスなので、畿内自生説なら帥升を初代の王と見ることもできる

154 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:32:57.89 .net
倭面土は「ヤマト」の発音に極めて近いので、ヤマトと同義だろう
ただ、時代がかなり後の史書の引用なので、何とも言えない

155 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:42:19.83 .net
>>79
前スレでも書いた
上石津ミサンザイ古墳、津堂城山古墳、仲ツ山古墳、五社神古墳、築山古墳、摩湯山古墳と富雄丸山古墳はほぼ同時年にあり、これらの古墳は富雄丸山よりもはるかに大きい

そして、上記古墳の後に誉田御廟山古墳→大仙陵古墳となる

富雄丸山の被葬者はヤマト王権内の王ではないが位の高い人物

156 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:43:34.43 .net
同じ議論を繰り返す馬鹿のふりし続けないといけない病気か何かか?w

こりゃAIに置き換わっていくはずだわw

157 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:46:31.58 .net
大仙陵古墳は仁徳天皇陵だよ
仁徳天皇の没後に作られたとされてるのは
仁徳天皇より後の天皇の没年が長く盛られてるから結果的に
仁徳天皇陵作られた時より前に死んだように思われてるだけ
日本書紀の天皇没年捏造問題を何とかしないと日本の古代史は滅茶苦茶なまま

158 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:46:54.21 .net
>>116
語り合おう
それと畿内自生説も

159 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:49:54.34 .net
>>131
倭面土国 主帥だから、倭王ではない

160 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:52:04.85 .net
生口となった哀しい歴史
ドナドナドナドーナー

161 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:52:34.15 .net
日本書紀の天皇没年は捏造じゃなくて、本当の年代が分からなかっただけ
卑弥呼と台与の在位期間だけは中国の記録で分かった(201~269年 神功皇后)

162 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:53:56.12 .net
自ら出陣した神功皇后は卑弥呼ではありえない。
偽装するにしても違いすぎ。
あるとしたら台与かな。

163 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:59:40.13 .net
>>161
分からなかったから捏造したんだろ
そもそも2~9代の天皇には国を統治したことを示す事績がない
実在したかどうか疑わしい

164 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:01:35.28 .net
記紀編纂当時でも、3〜4世紀は、
不確定な伝承ぐらいで後は創作と思うけどね。

165 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:01:45.60 .net
幕府があったから直接統治はしてなかったのだろう。

166 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:18:12.24 .net
>>159
倭國王帥升と書いてある
倭面土国は日本語に文字をあてたんでしょう

167 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:20:49.75 .net
>>161
隋書の阿毎多利思北孤と記紀の推古天皇
記紀が正しいと思う奴は話しにならん

168 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:31:10.93 .net
>>165
一大率でしょう
各地の豪族がその役割を担ってた

169 ::2024/04/18(木) 07:33:10.29 .net
キクチヒコ? コウチヒコ? 誰ですか、それ?

珍彦こと、槁根津日子 ← コウコンツヒコとも読めるねw

人物比定も明確にまるっと考察済み!

>天津サイド
初代卑弥呼 アマテラス
曹魏    タカミムスビ
・黄憧   オモイカネ(卑弥呼と思いを兼ねる魏の皇帝)
・黄幢   ヨロズハタヒメ(万のハタに匹敵!)
載斯烏越  サイシウ・エツ→祭主サイシュ・フツ(ヌシ)

VS

>国津サイド
卑弥弓呼  ヒミコト(日命。ニギハヤヒ)
狗古智(拘右智)卑狗 ウヅヒコ(珍彦。槁根津日子。東征中の神武に従属)

170 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:40:09.41 .net
基地外の脳内世界をわかりやすく体現

171 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:50:12.89 .net
スカイネットのAIがこのスレ見たら、このバカども滅ぼさなきゃって結論に至るのかな?w

172 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:54:07.00 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

173 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:56:05.25 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

174 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:02:50.20 .net
つまり記録文献のどっこにも畿内説を思わせる記述はありませんと

175 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:03:16.83 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

176 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:03:24.48 .net
>>173
そんな姑息なことをしているから、だからいつまでたっても、トンどものまま。   @阿波   

177 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:05:28.68 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

178 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:12:57.82 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺(見た目は老人、頭脳は小学生)

179 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:14:29.67 .net
>>177
旧唐書  四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之

180 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:15:52.16 .net
九州説がなぜ滅亡したかよくわかる

181 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:16:04.15 .net
⇩不弥国から「南水行十日陸行一月」の真相
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

182 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:21:37.15 .net
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗=菊地彦の解釈は誤り
よって狗奴国=熊本も誤り

183 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:24:34.14 .net
帯方郡、百済との繋がりで畿内の勝ちだ!

184 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:26:46.13 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

185 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:35:35.36 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

186 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:53:02.16 .net
>>182
>よって狗奴国=熊本も誤り

当り前。 そんな熊本に超大国「狗奴国」など興る訳がない。   @阿波

187 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:53:26.50 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

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