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邪馬台国畿内説 Part1017

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/26(金) 22:37:31.57 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713864841/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

246 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:34:37.32 .net
>>245
寺澤

247 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:35:44.96 .net
>>219
>土器や前方後円墳など文化や宗教の伝播に過度に政治的意味合いを持たせる古い畿内自生説的見解には、考古学界でも近年急速に見直しが入っている

単に、先進文化を持つ倭人(阿波勢力)が各地へ進出していっただけのこと。   @阿波

248 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:40:20.29 .net
>>246
寺澤は本も纒向学研究など掲載の論文も読んだが私は畿内説にはならなかったな
ただ、畿内自生説が成り立たない確信は持った

249 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:52:53.41 .net
>>248
>ただ、畿内自生説が成り立たない確信は持った

そりゃ、鉄器も作れない寒村湿地だからな。   @阿波

250 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:55:43.27 .net
せっかく九州の元脚本家が九州文学九州小説という新たなビジネスを切り開いたので
初心に立ち返って、といっても今は小説は売れないので、
3兆円市場といわれるアニメで九州説を作れば
世界中で見られるし曲も売れるし外国人観光客も増えると思う

251 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:04:55.16 .net
寺澤は東遷を濁してるんだっけ?

252 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:06:57.16 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

253 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:08:08.40 .net
九州説はコピペ荒らしするような奴しか居ない

254 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:11:36.72 .net
自生説が成り立たないなら、畿内の人たちは外部勢力により侵略され土地と労働力を奪われ巨大古墳を作らされた事を、自治体までが率先して必死に主張しているの?
それとも内容はともかくひとまず畿内説というものを宣伝しといてこっそり自生説的に粉飾していくの?

255 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:12:49.62 .net
寺澤は、
「西日本の部族的国家のどれか一つでもない、
全く新しい融合的統一体である 「倭国」 として
その権力中枢が 「ヤマト」 に樹立されたのだと考えるべきなのである。」
という説

256 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:16:06.05 .net
文身の風習のある海人の国が融合的とか笑うわ

257 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:19:06.58 .net
池上曽根遺跡や亀井遺跡は融合的と言えるが

258 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:24:39.32 .net
>>255
寺澤って、詐欺師みたいだな。   @阿波

259 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:44:31.51 .net
後漢書に書かれた大倭王が統べる伝統的な倭国(大乱前)を完全スルーか

260 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:51:16.26 .net
>>259
後漢書には大乱前に大倭王が統べる倭国のことなんて書いてないよ

261 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:53:51.31 .net
邪馬台国の初出は3世紀。
大和王が住む都邪馬台国は5世紀以降の認識。

262 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:00:07.06 .net
とうとう畿内説に倭國王帥升の存在すらなかったことにされてしまったな

263 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:12:28.08 .net
>>261
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)

264 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:20:06.15 .net
30国が連合して卑弥呼を立てたのが倭人伝の記述なのに
漢代から30国は皆王を称して(世世伝統)その大倭王は
邪馬台国に居ると後漢書にはあると
つまり大戦前後で倭国の体制が何か変わったわけでは無い
それは九州説畿内説どちらにも有利不利は無いんじゃないの

265 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:21:33.34 .net
魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、





《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》




《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》





桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。

桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年

倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる

最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる

266 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:26:30.26 .net
>>262
倭は古の倭奴国だし朝貢に来たのも倭国の極南界の倭奴国だと書いてあるのに
倭の奴国って解釈をするのはなぜ?

267 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:29:31.67 .net
>>264
>>266と言う事なんだろう
おかしな解釈するんだよね

268 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:33:14.52 .net
>>265
天皇の話しなんて要らんから

269 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:42:44.55 .net
漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國は
魏志倭人伝にも漢時有朝見者今使譯所通三十國で整合性は取れてるし
ずっと三十國はおかしいと思うなら魏志の資料が古いと考えた方が良いんだけどな

270 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 20:07:17.31 .net
大倭王は邪馬台国王だけ。代々王を称した30国の倭王達とは別者。

271 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:08:01.17 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ

天皇の歴史はこれだから

272 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:38:07.25 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことだ!

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和
隋書倭国伝の邪靡堆=来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同した阿蘇外輪山

273 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:45:48.75 .net
もとい、
魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇山麓。裴世清が来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

274 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:04:33.59 .net
3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれの時代の倭王都(筑紫→大和→阿蘇)を倭人に確認してちゃんと書いてるんだよ
それがみんなヤマトという発音だから、現代人はみんな大混乱というわけw

275 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:11:35.37 .net
>>274
出典元がいつの時代かわからんのよ
編纂時に必ず確認したと思ってるみたいだけど

276 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:17:09.58 .net
各時代の倭国王都ヤマトの由来

筑紫邪馬台(吉野ヶ里)=脊振【山】南麓の舌状【台】地
大和=山門▲二上山▲
阿蘇邪靡堆=阿蘇外輪山

277 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:17:31.79 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

278 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:21:53.44 .net
>>276
邪馬台と邪靡堆はともかく大和と山門は漢字で書かれると俺には物凄く違和感がある
当時文字は無いから

279 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:26:59.12 .net
>>278
河内平野から大和盆地へ出入りする時、▲二上山▲がまるで門(柱)みたいでしょ?
だから大和は(あくまで意味的に)山門もしくは山戸だったわけ。

280 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:30:53.14 .net
>>279
なぜそれが大和になるの?

281 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:36:26.66 .net
意味が山門か山戸であるならそのままでいい訳で
倭が和になったのなら既に意味は変わってた

282 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:37:08.16 .net
元々奈良湖のある時代亀さんが住んでいた
始まりは大和の亀さん
石亀さん

283 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:39:56.61 .net
五色に輝く玉を持つ石神さま
暴風の神さま
始まりだな

284 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:40:58.83 .net
>>279
(あくまで発音はヤマト。意味は)山門もしくは山戸(河内平野▲二上山▲大和盆地)
>>112
266年筑紫邪馬台国女王台与がヤマト王権初代大王「複立男王並受中国爵命」へ王権を禅譲し、彼は外交上の混乱を避けるため、地名ヤマト(▲二上山▲山門)に「倭(邪馬台=脊振【山】南麓の舌状【台】地・吉野ヶ里)」の漢字を充てる
→5世紀の倭の五王が「倭(ヤマト)」に「大」を加えて「大倭」と表記だけ変更する
→6世紀に厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」に表記だけ変更する

285 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:42:15.20 .net
旧石器時代、石器の特徴から5つの文化圏に分けられる

佐賀の腰岳を含む九州

大分の姫島、隠岐の黒曜石、五色台や二上山のサヌカイトを使っていたグループ、福岡大分の東岸、四国、中国、近畿

茂呂型ナイフ石器のグループ、三重から東北の太平洋側

諏訪の近くの和田峠の黒曜石を使っていたグループ、石川から青森の日本海側

北海道

286 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:45:22.35 .net
ヤマトの語源は3世紀からではわからないだろう。

287 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:46:15.00 .net
そんな難しい話ではない
唐の時代の倭人がはっきりコメント残してる
「日本は元小国だったが倭の地を併合した」
「しばらく倭国を名乗っていたが雅でないので改名した」
「日の出の方角にあるので日本とした」

その後、日本書紀と食い違うと都合が悪いので
「九州から東遷して倭国が日本を併合したのだ」
と改竄された

288 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:49:09.32 .net
日本列島に1番最初に住み出したのは神さま
旧石器時代の人々
1番大切なこと
先住民を尊重する、これを忘れたらかつて多民族国家だった日本は崩壊する
スサノオを追放するとかありえない話
大国主でもない存在が大倭王を名乗ることなどあり得ない話だ

289 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:49:36.09 .net
>>287
日本の読み方はヤマトでしょう
倭もヤマト

290 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:50:24.57 .net
>>286
ヤマト(河内平野▲二上山▲大和盆地)は、自然の地形だから旧石器・縄文・弥生の昔からでしょう。
それが偶然にも筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の所都・吉野ヶ里(脊振【山】南麓の舌状【台】地)と同じだったため、畿内説と言う悲劇がうまれたわけ。
山島に依りて国邑をなす倭国列島ならでゎw

291 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:56:13.67 .net
>>289
倭をヤマトなんて当の倭人ですら読んでなかったろ
七世紀ごろの日本語のヤマトは夜麻登とか耶馬騰とか八門跡とかだ

292 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:59:49.89 .net
倭人が自分のことをワと呼ぶので倭国と付けたのは古代中国人w
倭人は自分たちの国をヤマト(筑紫邪馬台→大和→阿蘇邪靡堆)と呼んでいたんだんだよw

293 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:10:30.28 .net
筑紫邪馬台どこ?

294 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:20:48.08 .net
九州説はまず九州説スレで邪馬台国と投馬国の場所の結論出せよ

295 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:21:00.33 .net
隋書の畿内が魏志倭人伝の邪馬台国で後漢書の大倭王が居る都邪馬台国な。

296 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:31:27.15 .net
久墨タケオ「伊都国・奴国、邪馬台国

近日発売!
//twitter.com/T_Kusumi057/status/1784204697970315682


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297 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:35:07.44 .net
崇神のときに疫病で国民の半数が死んだ。だから三輪山に大物主を祀った
これ因果が逆じゃない?
大物主が外から疫病持って入ったんだろう。幕末に外国人がコレラ持ってきたのと同じ

298 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:35:45.89 .net
纏向は1-2世紀の実態が無いからどうもならん
東倭種の都だ

299 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:53:15.12 .net
巻向遺跡は低い土地との標高差が40mほどある。
高地性集落だね。

300 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:01:58.96 .net
>>298
なんでそんな実績が必要なの?
いらないでしょ?

301 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:07:23.59 .net
結論を纏向に固定したためにあちこちに齟齬が生まれて後漢書もスルーせざるを得なくなった畿内説

302 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:08:16.67 .net
魏志倭人伝の方位通りに海の中へ進んでも、何かがおかしいと思わないのが九州説

303 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:09:30.29 .net
時間稼ぎができればいいのよ
炭素、酸素ときて次は窒素とかじゃないか
知らんけど

304 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:11:15.08 .net
里数戸数と大きく盛られているのに日数は正確だと思い込む畿内説

305 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:16:24.93 .net
纒向纒向と言うやつ多いが、

奈良盆地の中心遺跡と云えば唐古・鍵遺跡 面積は約30万平方メートルで、
第1段階 初期(弥生時代前期初頭から前半)から古墳時代まで続く重要な遺跡。

奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある弥生時代の環濠集落の遺跡。
国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。

306 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:18:28.18 .net
ちょうど卑弥呼の時代には唐古・鍵遺跡の大環壕は埋められていたそうな
平和な東倭種の集落らしいはなしだ

307 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:48:23.85 .net
里数・戸数・日数が大きく盛られてると勝手に思い込む畿内説

308 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 01:31:49.19 .net
>>307
そんなこと誰が言った?
九州説また根拠なき妄想?

309 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 01:34:48.75 .net
>>301
>結論を纏向に固定したためにあちこちに齟齬が生まれて後漢書もスルーせざるを得なくなった畿内説

どんな齟齬?
どうして具体的なこと何も言えないの?

九州説とは学問じゃなくて、イメージの漠然とした政治思想だってことかな

310 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:05:04.53 .net
伊勢遺跡→纏向遺跡だって
古代日本を考えると逆に移転してない方がおかしい

311 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:05:23.53 .net
>>284
音韻学(甲類と乙類の別)くらいは調べてから書き込みなさい。

312 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:06:53.83 .net
>>303
だったらどうやって年代を調べるんだ?
考えも無いくせにいい加減な事を言うな

313 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:11:02.76 .net
>>265
「倭国大乱」は大陸人の認知の表現に過ぎない。
考古学実証から想定される「弥生末期の戦乱」最末期の数十年に該当する。
従ってその開始期について大陸側文献の記述を鵜呑みにしてはならない。
 

314 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:14:25.27 .net
痕跡があって初めてあったと言えるわけで無いものをあったと言い張るのは違う

315 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:29:23.76 .net
>>314
何だ?俺に云ってるのか?

「弥生戦乱」はその蓋然性を担保するに足る物証あっての想定で、広く共有されている。
文献(笑)なんてヤワなものとは違う、ハードプルーフに拠る。
少し調べればすぐに知れる。
 

316 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:32:47.96 .net
伊勢遺跡の首長館ないし迎賓館

【精緻な粘土の焼床(やきどこ)】
この建物は規模の大きさだけでなく、
使われている建築技術も国内では他に例を見ない先進的なものでした。
この建物の床は約30cmの土をきれいな粘土に入れ替え、
叩きしめています。さらに精良な粘土を8cm張ったうえで、
表面が赤く発色するほど焼いて仕上げていました。
使われている上質の粘土は、この近辺で取れるものではなく、
わざわざ取り寄せたもののようです。
このような建築技術は類例がなく、しいて類例を挙げれば
中国や朝鮮半島の竪穴住居の床や壁に用いられた
「紅焼土(こうしょうど)」と呼ばれる建築技術に似ています。
当時の朝鮮半島には、壁や床を意図的に焼くものがあり、
伊勢遺跡の大型竪穴建物は東アジアの建築技術の
流れを汲む可能性があります。

317 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:56:01.58 .net
>>302
それは解決済み
中国側の研究では文体から挿入あったりの写本時の改竄ある。古い写本が見つかっていない
じゃあ陳寿が使用した原典を研究するようになって九州北部から出ないと分かった

318 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:02:23.90 .net
>>315
どこでそれがあったの?

319 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:06:03.04 .net
>>316
東アジアに神明造があるの?

320 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:11:32.68 .net
>>319
これは大型建物が円周上にならんだ遺構の
外側にあった大型竪穴建物なので
祭儀のための建物ではないようです

祭儀のための建物は円周上の大型建物と、
円周の中心にあった数棟の大型建物
これらは神社建築に似ていて、
大きさは内宮の本殿とほぼ同じみたいです


首長館あるいは迎賓館の復元想像図

https://dec.2chan.net/up2/src/fu3408528.jpeg

321 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:18:32.65 .net
たくさんある建物の中にたったひとつ大陸系の技術が取り入れられてた
それがなんなのよ?

322 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:22:50.07 .net
これらの一つ一つは神明造に似ています

https://i.imgur.com/u3NEcoi.jpeg


建物の長辺の真ん中に開口しているので
神明造なのだと思います
これは想像図ですが、遺構の区画が
長辺を正面に据えるかたちになっているんでしょう

323 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:23:04.76 .net
全体として和風なのになにか大陸系の物があるとすぐ渡来人がーとか言い出すでしょ
あれってなんなのよ?
そんなに渡来人のおかげって事にしたい?

324 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:29:15.77 .net
先のNHKの番組は見られたでしょう
あれは卑弥呼の晩年の話でしたが
渡来人というより邪馬台国の国力の強化に
魏の関与が大きかったという話です

伊勢遺跡が卑弥呼に先立つ男王の邪馬台の場所とは
思えませんけど、卑弥呼の即位から纏向建設までの
期間においては王権にとって重要な場所であり
そこでもすでに大陸の技術が「取り入れられて」いました
そのルートは日本海が想定されます

325 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:42:38.14 .net
>>317
>じゃあ陳寿が使用した原典を研究するようになって九州北部から出ないと分かった

そんな研究した人はどこの誰?
実在する?

326 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:48:22.84 .net
そんな研究結果があるなら九州説が嬉々としてその論文なりなんなりを出してるはずだから嘘

327 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 04:49:39.37 .net
つまり九州説はウソ

328 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 05:40:52.23 .net
>>324
>卑弥呼の即位から纏向建設までの期間においては王権にとって重要な場所であり

纏向遺跡ごときのショボい遺跡に、どこに魅力を感じるのか理解できない。   @阿波

329 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 05:51:28.09 .net
>>328
阿波ご自慢観音寺遺跡の何倍の規模だと思ってるんだ
23区と美馬市くらいちがう

330 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 06:00:40.06 .net
>>329
規模でも、鮎喰川下流域が圧倒的だ。   @阿波

331 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:30:21.26 .net
九州説ってニセ情報と中傷以外に何かあるの?

332 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:57:23.05 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです!⇩

3世紀魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
5世紀後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
7世紀隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3箇所ともすべて「ヤマトyamato」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけ、OK?w (๑•᎑<๑)ー☆

333 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:57:48.75 .net
>>302
A:帯方郡から狗邪韓国までの7000里
現実の帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

B:狗邪韓国から対馬までの1000里
現実の狗邪韓国から対馬までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

C:対馬から壱岐島までの1000里
現実の対馬から壱岐島までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

D:壱岐島から末盧国までの1000里
現実の壱岐島から松浦市までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

ABCDで概ね同じ単位が導き出せるならそれが一里の距離と考えて間違いがない
その一里の距離を使えば魏志倭人伝に書かれた国々の場所は概ね比定出来る

334 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:03:32.56 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

335 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 08:08:44.94 .net
九州には立派な半島甕棺文化が在ったのだよ。
それを素直を受け入れようとしないのが今の九州
卑弥呼以前には柱を立て鏡をぶら下げ光の元で地上の生物は全て悦び合う祭祀を行っていたのだな
その巫女が平原の日巫女。2世紀に新羅に行ってるとされてる巫女はおそらくこの平原の巫女。朴信仰。
漢中のごとき従い人々が集まって畿内に拠点を築いたのが纏向の卑弥呼。
今日、京都で祭りごとが行われ天皇制が発揮される
吾輩は八世紀以降の政権を否定しない。がこの時代まで八紘一宇は無いでしょと考えているだけ

336 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:19:33.67 .net
>>335
手応えあった?
賛同してる人見かけないけど

337 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:19:51.43 .net
>>333
>・・・で割ると一里何メートルとしていたか分かる

それを計算できなかったのが
九州説の敗因

338 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:33:04.62 .net
>>334
吉野ヶ里から三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡がたくさん出てこれば、邪馬台国吉野ヶ里説でも良かったんだが

339 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 08:40:08.30 .net
336.馬鹿の数のほうが多いいからな。

340 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:43:21.87 .net
東は青、北は黒、西は白、南は赤、真ん中は埴安大王とかしこねの命が采配した

青は弥生時代山陰北陸琵琶湖北部を縄張りにした勢力じゃなかろうか?
山陰はまた孝霊天皇の時代の牛鬼伝説が残る地でもある
琵琶湖はにほの海、琵琶湖北部は息長氏の本拠地、にほ鳥のは息長や葛飾の枕詞で牛留鳥とも書かれた
息長鳥は猪名や安房の枕詞でもある

沼津の高尾山古墳周辺は弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて北陸や琵琶湖北部の土器が流入する
京都北部など日本海側の墓制であった舟形木棺が高尾山古墳から見つかっている
古墳時代に入ると静岡東部の土器は関東の太平洋側に拡散し、高尾山古墳とよく似た形の古墳が千葉で作られる
弥生時代末期日本海側の勢力が静岡東部を経由して、千葉に移り関東を治めることになったのではないか?
茨城はまた牛伝説の宝庫でもある
成務天皇の時代に定められた関東の国造は出雲臣の系統が多い

竹内宿禰に敗れた五十狭茅宿禰も出雲臣の一族で、東国に援軍を求めた話がある

341 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:52:11.63 .net
纏向遺跡などにいた朱を好む海人は赤で南、九州を治めるよう采配されたのではないだろうか?
赤の海人は九州
九州では東部を中心に円墳が流行っていた
四世紀後半には円墳は奈良や大阪に侵入する
竹内宿禰の話じゃないだろうか?
竹内宿禰はその後東国を平定して回り鳥取で消えた話が伯耆国風土記逸文にある
熊襲を討ちタケルの名を奪いその後東国を平定したヤマトタケルの話は竹内宿禰のエピソードと円墳の動向とぴったりと重なる

342 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:53:40.13 .net
謎の四世紀の枠組みが見えてきたんじゃないか?

343 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:56:24.02 .net
泉州には堅い木でできたお地蔵さんが悪い奴らに攫われ海に捨てられる伝承が残っている
九州の円墳の勢力を引き連れた竹内宿禰は、畿内にいたかしこねの命、樫の姫を攫い東国平定に向かったのではないか?

344 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:58:03.77 .net
奪う者たち蝦夷は九州東部の円墳の勢力か?
不弥国のタモは蝦夷の頭と同じ名だ

345 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:59:50.06 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ

346 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:09:06.14 .net
>>334
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の誤認(辻褄合わせの蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GMNebCPaAAAPEAS?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)で、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤認)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...........................↖投馬国(都萬・耳川)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認

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