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南京大虐殺はなかった

1 :イカ天の寅次郎:2024/03/14(木) 10:18:06.85 ID:6XCiUul00.net
よね。

677 :浮月斎:2024/04/28(日) 04:32:18.11 ID:fHKrIZOn0.net
>676 自己レス

これはオマケだ

南京の孤児と日本兵(画像)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Orphan_and_Japanese_soldiers_in_Nanking.jpg

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 07:49:03.57 ID:7UTOkExP0.net
>>676
80年以上前のプロパガンダ写真にコロッと騙されんなよ恥ずかしい

マッカラム安全区国際委員(1938年1月9日)
難民キャンプの入口に新聞記者が数名やってきて、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は1枚も撮らなかった

ジョージ・フィッチの手紙(「南京大残虐事件資料集第2巻 英米資料編」P42)
12月30日
今日の午後、私が日本大使館を訪れた時、大使館員たちは新年の祝賀について約60人の中国人(多くがわれわれの収容所の幹事)に指示を与えるのに忙殺されてました。旧来の五色旗が国民党の青天白日旗にとって代わることになり、彼らは五色旗約1000枚と日本の国旗約1000枚を、新年の祝賀用につくるように命じられました。
1000人以上を収容している収容所は代表を20人出すことになり、小さい収容所は代表10人を出すことになりました。元旦の午後1時に五色旗が鼓楼に掲揚されるとともに、(プログラムによれば)適当な演説と音楽が行われる予定です。
もちろんこの旗を振って新体制を歓迎する幸せな人々がニュース映画に撮影されるのです。ところで市内の焼打ちはつづき、12歳と13の少女の強姦と誘拐が3件発生したとの報告が入りました。

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 12:16:08.53 ID:fHKrIZOn0.net
>678

マッカラムやフィッチが嘘を書いているとは少しも考えないんだな。特にフィッチは、プロパガンダ本「戦争とは何か」の第一章と第二章を書いていることが分かっている。

それぞれの写真が、従軍記者・カメラマンにとって、日本軍の公正な態度を国民にアピールする意図をもって撮影されていることは確かだろう。しかし、中には、ごく自然に陥落後の南京市内の情景を撮影されたと思えるものもある。

幾つかの写真からは、南京市民の安堵した表情すら感得される。無理やりやらせているなら、そこに恐怖の表情があるはずだ。

また、毎日何千人と殺害されている同じ市内(南京城内の面積は鎌倉市とほぼ同等)で、これらの写真撮影が可能だとは、常識的判断を以てしては有り得ない。特に、大通りの雑踏などは、毎日何千人と殺害されている市内で撮影は不可能である。

まあ、おまえさんが納得せえでも、これらの写真を目にすれば、南京事件など存在しないと、多くの日本人は納得してくれるだろうと思う。

五毛党やその類は処置のしようがないから、放っておくしかない。

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 13:03:41.07 ID:7UTOkExP0.net
>>679
どうもお前は勉強が足りないようだな
上丸洋一「南京事件と新聞報道」でも読んでみろ
既知の内容も多い書籍だが、お前にとっては目から鱗だろう

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 14:29:57.64 ID:fHKrIZOn0.net
>680

他の人の意見も聞いてみたい。

682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 14:38:24.22 ID:fHKrIZOn0.net
>680
>上丸洋一「南京事件と新聞報道」

で、この本のなかには、何が書いてあるんだ?
別に読みたい意欲は湧いてこないんだが。

683 :浮月斎:2024/04/28(日) 16:10:01.41 ID:fHKrIZOn0.net
南京陥落後の市内を撮影した写真(時系列のならべたもの)を再掲する。

https://www.howitzer.jp/history/page11.html

これほど反証となる写真の数々がありながら、なおも「南京大虐殺はあった」と言い張る神経は、いったい、どこから来るのだろうと考え込まざるを得ない。

また、これら虐殺とは相反する写真の数々に対する反論が、「おまえは勉強不足」であり「何々の本を読め」とはこれ如何に。この高慢なものの言い方は、精神病理学上の何かの病いに該当するのではないか。

人を有罪にするには「合理的な疑いの余地がない」程に起訴内容が真実相当とされないといけないんだぞ。

これら虐殺とは相反する写真の数々の存在は、明らかに虐殺の存在について「合理的な疑い」を生ずるではないか。

684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 16:23:22.93 ID:z5XaJwwD0.net
>>683
じゃあお前はコレをどう思う?
https://i.imgur.com/DjcK5mF.jpeg

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 16:42:40.50 ID:z5XaJwwD0.net
>>683
令和にもなって戦前のプロパガンダ写真を信奉するとか頭弱いにも程がある
多発する日本軍の強姦対応に追われていたマギーも当時の新聞のプロパガンダにかかるとコレ

「教会からオルガンの音に乗つたのどかな讃美歌の声がもれて来る。アメリカ人のジョン・ マギー牧師が戦火が去つてほつとした支那市民信者を集めて礼拝の最中で、ああけふは日曜だつたかとこちらが教へられるほどの落つき振りだ。軍の宣撫工作も着々と進み、この日は 日本大使館裏の広場で兵隊さんたちが菓子や煙草を避難民にも配給してゐるのを見た。〔略〕 かうして抗日排日のお題目を忘れた支那人たちと日本の兵隊さんたちとの交際は日とともに親密さを加へて行く」(12月2日付香川新報「慕ひ寄る支那民衆 平和に帰った南京市」)

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 16:43:52.27 ID:z5XaJwwD0.net
>>685
誤)12月2日
正)12月21日

687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 16:53:45.11 ID:z5XaJwwD0.net
>>682
こんなのもある
まさにお前や阿羅に捧げたい

歩三六記念誌刊行会『歩兵第三十六連隊戦友会誌』88年刊
鷹尾正
「私自身それに手を染めなかったばかりでなく、現場を目撃したこともない。当時の戦友達と語り合っても同様の答が返って来る。ある戦友は難民区を訪れて焼餅を軍票で買った思い出や、ささやかな加給品の菓子を子供に与えて喜ばれたことを懐かしげに語るのである
(中略)
要するに〔虐殺を〕『見なかった』『やらなかった』ということと『無かった』ということは別なのである」

688 :浮月斎:2024/04/28(日) 18:16:52.56 ID:fHKrIZOn0.net
一方、虐殺派の巨頭・Iris Changが出してきた写真がどれほどイカサマなのかを下記のWebページに示す。俺は英語ができるので、説明を英語で書いてしまったが、状況は分かるだろう。

https://www.howitzer.jp/nanking/page01.html

Example 1
キャプションの書き換えは笠原十九司の「南京事件」(1997年刊 岩波)と同じだ。笠原は、これを国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(1938年刊)に所収されたものからの転載とし、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」というキャプションを付けた。
 が、元のアサヒグラフ1937年11月号では同じ写真に「我が兵士に護られて野良仕事により部落へかえる日の丸部落の女子供の群」とある。

Example 2
冬に占領したのに刀を振るう日本兵が夏服を着ている。

Example 3
目隠しをされて二本の棒に括り付けられ、日本兵の銃剣刺突の練習に使われる哀れな男 ――― 9月28日付Baltimore Sun紙(つまり、占領前)に既に記載。しかも、場所は天津とのこと。要するに、あっちこっちで使われているニセ写真の使い回しである。

Example 4
どこかの写真館で撮影された写真を加工して「日本兵が女の下着を脱がせてお土産のポルノ写真を作成」と偽っている。日本兵の服装が異常で、おそらくは支那兵。

Example 5
右の黒っぽい日本兵のくるぶしを見よ。足の甲が扁平で異常。人の陰の付き方も異常。刀を持った日本兵が奇異なチョッキを着ている。明らかに合成写真。

Example 6
南京戦史資料集Uの折り込み写真12月16日の流用。元の史料では既に平穏を取り戻し、「兵民分離」のために日本兵が中国人の身体チェックをしている写真が、笑顔の南京市民、子供の姿、通りの古着屋の露店と共に映っている。チャンはこの写真に「市内の大量殺戮で恐れおののき、誰も声を挙げない中国市民の集団を検査する17人の日本兵」というキャプションを付けた。

Example 7
場所の特定を困難にするための写真の切り取り。
撮影場所は兵士の記憶から明らかに三叉河河口付近で鹿児島45連隊が遭遇した江東門の戦いの現場と判明。つまり、死体の山は全員が支那兵。チャンはこれに「南京市民たちの屍体は揚子江の岸辺に引きずられて来て、川に投げ込まれた」とキャプションを付けた。


以上、南京大虐殺が真実であれば、これほどに世間の目をあざむく技巧を施す必要はないはずである。アイリス・チャンが書いた文章も全て真偽を疑ってかかる必要があり、鵜呑みにはできない。

689 :浮月斎:2024/04/28(日) 18:22:06.67 ID:fHKrIZOn0.net
>684

支那共産党のプロパガンダ写真だろ。

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 21:11:07.08 ID:TQjOH5FK0.net
決めつけw
片方の傾向の写真だけ採用するってのは恣意的過ぎる。

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 21:40:40.32 ID:z5XaJwwD0.net
>>689
共産党と何の関係があるのか詳しく説明してみ?

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 22:05:22.09 ID:fHKrIZOn0.net
>687
>要するに〔虐殺を〕『見なかった』『やらなかった』ということと『無かった』ということは別なのである

ふん、いろいろとヘッポコ理屈を考え出すものだな。いや、感心した。

しかし、お前はひとつ見逃しているぞ。何千何万、いや数百人でさえ、まとめて殺していたら、近傍にいる人間はその事に無関心ではいられない、ということだ。

15日に安全区内で佐藤振寿氏が撮影した写真のうち、三人がテーブルに付いて水餃子を食っている写真があるだろ。氏が手記に「十五日の南京は自宅で食事を作れない難民が多かったせいか水餃子を食べる難民が多かった」と記している写真だ。

東京裁判の判決文は「これらの無差別な殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女、子供が死んだ」と述べているが、この判決文が真実ならば、13,14,15日は修羅の巷のはずだ。傍らで人がどんどん死に、ワー、ギャーと悲鳴が聞こえる中で水餃子を食ってる中国人三人は、どーゆー神経なんじゃい、ということになる。

安全区外にも民間人がいて、そいつらを一万二千人殺しているなら、それは、いつ、どこで起きたのか。その主張を支える史料的根拠は何だ、ということになる。少なくとも、自分の知る範囲で、安全区外で一万二千人を殺している事件に触れた史料は存在しない。

12月24日、金陵女子文理学院の副学長室に起居していたミニー・ヴォートリンは金陵大学近くの教会で開かれたクリスマス・ディナーに招かれて出かけているではないか。30万人なら7千人/日、20万人なら4千7百人/日が殺されている南京市のど真ん中で開かれたクリスマス・ディナーに招かれたミニー・ヴォートリンが、何千何万という殺人や8千の強姦事件(ベイツの見積り)を、彼女の日記に書き残しているのか? 否、そんなもの、ミニー・ヴォートリンの日記のどこを探してもないよ。

朝日新聞だけで80人、読売新聞は50人の特派員を派遣し、同盟通信やその他を含めて130人以上の特派員が占領後間もなく南京入りしている。安全区には20人を超える欧米人が2月初旬まで留まっていた。

彼らの目を掠めて、何千何万という南京市民を、日本軍がこっそりと殺していた、とでもいうつもりかね、君は。

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/28(日) 23:00:32.03 ID:kzXuE31a0.net
>>692
> ふん、いろいろとヘッポコ理屈を考え出すものだな。

イチャモン派はどうして揃いも揃って読解力が足りないんだろうか
【要するに〔虐殺を〕『見なかった』『やらなかった』ということと『無かった』ということは別なのである】は歩兵第36連隊の鷹尾正の言葉なんだが?

694 :浮月斎:2024/04/29(月) 03:58:49.81 ID:nGonDVXu0.net
>693

それでも、「要するに〔虐殺を〕『見なかった』『やらなかった』ということと『無かった』ということは別なのである」という言葉にお前が共鳴し、自分の主張の論拠に使えると思ったからこそ、わざわざ引用したのだろう。だからこそ「まさにお前や阿羅に捧げたい」などと皮肉っぽい書き方をしたのだ。

歩36は13日に光華門を破った後、連隊主力は城内に入らず、光華門近くの防空学校に集結・宿営して、そのまま24日に東方・嘉定に向けて転進して行ったので、城内見学を許された者以外は南京城に入っていない。

入城式に参列を許されなかった近藤平太夫氏(伍長)が城内見学をしているところを見ると、全員でないにせよ、かなりの数の兵員が交代で城内の見学をしているのかもしれない。

だから、同部隊の元兵士が1970年代の朝日新聞による南京大虐殺キャンペーンを経て88年の部隊史に上述のような感想を述べたとしても不思議はない。

それをお前はわしや阿羅氏に「捧げたい」そうだ。お前が自説の論拠に使おうとした以外、何の意味があるのだ?

695 :浮月斎:2024/04/29(月) 04:14:11.85 ID:nGonDVXu0.net
>693

で、その『歩兵第三十六連隊戦友会誌』に、「自分が城内見学をしている時に(他の部隊によって)南京大虐殺がありました」という回想なり報告があったのかよ? なければ、14日から23日までは虐殺事件はなかったということになるが。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 07:40:27.24 ID:ZgZXpjoG0.net
>>694
>>695
お前の言いたいことがマジで分からん
歩36Rの兵士の手紙を貼ることの何が【へっぽこ理屈】なんだ?

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 14:49:15.38 ID:6PyqD50+0.net
酷いアラシだなw

698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/29(月) 16:05:26.03 ID:0L3t2aBT0.net
いちゃもん派のあほぼんとかへっぽこ爺さんとか、
新たなお笑い芸人がぞくぞく誕生している。

699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 09:55:01.94 ID:Fi45bag40.net
荒らしが始まったら無かった人の書き込みも激減

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 14:26:11.17 ID:UE5DmPFt0.net
あげ

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 14:40:56.03 ID:IBcthTeK0.net
否定派はずっと昔から同じ連中だろ?
「あったという証拠もってこい、俺が認める事はないから俺の勝ちな!」
自分でいちゃもんつけて勝手に自分で審判も兼ねて自分有利に判定して自分で勝ち名乗り上げてるだけ
それが他人からどう見られてるかなんて考えないパッパラパーだから
20年以上も前から否定された!勝った!言い続けてもちっとも歴史学の世界では相手されない

でもそうやってずっとバカ踊りし続けないと否定論なんてすぐ消えちゃうから
顔真っ赤にしながら寿命尽きるまでずっと踊り続ける気だぞこいつら

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 14:42:37.11 ID:HMdBu2kT0.net
書き込み数が700になったので、これまでの状況を「まぼろし派」(虐殺がなかった派)であるわしの観点で、いったん整理する。

1)虐殺があった派(「虐殺派」という)は、これまでに虐殺があったという証拠を示せていない。示された「証言」なるものは全て伝聞であり、証拠能力がない。

2)宇都宮六六連隊への投降兵1500余人殺害命令は戦闘継続中に出されたものであり、捕虜を取っている余裕がない状況でやむなく命令が出され執行された。これは国際法上合法である。

3)南京攻略戦が開始された時、ほぼ全ての民間人は安全区に集められていた。虐殺が発生したとすれば、安全区内でしか発生し得ない。安全区外に住民が残留していた可能性は(笠原十九司のダーディンへのインタビューにより)否定しえないが、安全区外の住民に対し、いつ、どこで虐殺事件が発生したか、虐殺派は示せず、史料的裏付けもない。

反論は歓迎する。

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 17:06:35.88 ID:Fi45bag40.net
>>702
1) 柳条湖事件なんかは証言しか証拠がないぞ。主に花谷氏の証言だ。でも、日本軍の関与は歴史的事実とされている。
刑事事件なみの証拠を歴史検証に求めるなよ。

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 22:25:37.75 ID:IsRZRjZD0.net
>南京攻略戦が開始された時、ほぼ全ての民間人は安全区に集められていた
それは疑問だと思う。南京は100万都市なのに安全区には20万。80万はどこに行った?
安全区外に市民はいないと言ってる者は、実際に安全区外を調べたわけではない。それこそ伝聞証言でしか無かろう。

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/04/30(火) 23:19:56.78 ID:Dl6cRhf60.net
>>702
66Rは助命を約束して投降させたんだからそんなイチャモンが通用するわけなかろうに
どうにもイチャモン派のレベルが低い

706 :浮月斎:2024/05/01(水) 00:51:02.87 ID:N/IcLiYV0.net
>704
>南京は100万都市なのに安全区には20万。80万はどこに行った?

まだ、こんな初歩的な問題でもたついている奴がいるのかよ。

君、疎開という言葉を知らない?

ラーベ日記 12月6日の条

「ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。お前ら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?」
(出典:ジョン・ラーベ著「南京の真実」講談社刊 p.85)

↑これに対応する英文↓

And so people who had to stay behind because they didn’t have the money to flee with their families and a few small possessions, the poorest of the poor, are supposed to pay with their lives for the military’s mistakes! Why didn’t they force the well-off inhabitants, those 800,000 propertied citizens who fled, to stay? why is it always the poorest people who must forfeit their lives?
(出典:“THE GOOD MAN OF NANKING” pp51-52)

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 00:53:57.91 ID:N/IcLiYV0.net
>705
>66Rは助命を約束して投降

状況が変わったというしかない。

708 :浮月斎:2024/05/01(水) 03:06:21.92 ID:N/IcLiYV0.net
>704
>安全区外に市民はいないと言ってる者は、実際に安全区外を調べたわけではない。それこそ伝聞証言でしか無かろう。

南京陥落時、人口が安全区に集中していた、また、安全安全区外に市民はいなかったという論拠

(1) 12月8日付 NYT ダーディン発電報
「12月8日、唐生智は、全城門を閉鎖した。[中略] そして唐生智は、城内の市民に対しては安全地帯に集結するよう、そして黄色の腕章に特別の印のある特別許可証を携帯するもの以外、安全地帯の外を出歩かないよう命令を発した。」
(出典:12月8日付 NYT ダーディン発 電報)−「南京事件資料集 @アメリカ関係資料編 (南京事件調査研究会/編 青木書店)」p.389)

(2)  「ヴォートリン日記」12月8日の条

(翻訳)「今夜は、初めて避難民を受入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。」

(原英文)
“This evening we are receiving our first refugees and what heartbreaking stories they have to tell.
They are ordered by Chinese military to leave their homes immediately; if they do not they will be considered traitors and shot. In some cases their houses are burned.
Most of the people come from near South Gate and the southeast part of city.”
(出典:"Terror in Minnie Vautrin's Nanjing" by Minnie Vautrin p.69)

(3) 南京安全区档案・第九号文書(12月17日付)
(翻訳)「言い換えると、帰国軍隊が本市に入城した13日、私どもは市民のほぼ全員を安全区という一地区に集合させていたが、そこでは、流れ弾による被害は殆どなかったし、全面退却中であっても中国兵達による略奪もなかった。」
発;ジョン・H・D・ラーベ 宛:日本大使館
日付:1937年12月17日
(原英文)
LETTER TO JAPANESE EMBASSY
December 17,1937
“….In other words, on the 13th when your troops entered the city, we had nearly all the civilian population gathered in a Zone in which there had been very little destruction by stray shells and no looting by Chinese soldiers even when in full retreat….”
JOHN H.D. RABE Chairman

(次に続く)

709 :浮月斎:2024/05/01(水) 03:11:54.45 ID:N/IcLiYV0.net
(708の続き)

(4)  Robert O. Wison(金陵大学病院医師)の家族宛12月18日付の手紙
(翻訳)「南京市の九割の地から中国人が居なくなり、掠奪を働く日本兵の集団がうろつくだけになっている。残りの一割の地に恐れおののく二十万人の中国人がひしめいている」
(原英文)
…Nine-tenths of the city are totally deserted by Chinese and contain only roving bands of plundering Japanese. The remaining tenth contains almost two hundred thousand terrified Citizens….
(出典:"Eyewitnesses to Massacre" edited by Zang Kaiyuan p.394 )

(5) 「ヴォートリン日記」12月21日の条
(翻訳)「南京に住んだ事のある者なら、街なかが今どうなっているか、想像もできないだろう。見るも無残なものだ。バスや自動車が腹を見せて道端に転がっている。顔が既に黒くなった死体があちこちに転がり、脱ぎ捨てられた軍服がそこいらじゅうに散乱している。家々や商店は燃やされていないまでも掠奪か破壊の憂き目にあっている。安全区の街路は混雑しているが、安全区の外で日本兵以外の人影を見ることは滅多にない。」

(原英文)
“Those of you who have lived in Nanking can never imagine how the streets look ? the saddest sight I ever hope to see. Buses and cars upset in street, dead bodies here and there, with faces already black, discarded soldiers’ clothing everywhere, every house and shop looted and smashed if not burned.
In the Safety Zone the streets are crowded - outside you seldom see anyone but Japanese.”
(出典:"Terror in Minnie Vautrin's Nanjing" by Minnie Vautrin p.89)

(6) ティンパーリ著「戦争とは何か」
(翻訳)「ここに記録した事例は南京安全区を対象にしたものに限られていることに注意が必要である。安全区の外は、1月末まで事実上の無人地帯であった。」
(原英文)
…It is to be noted that the incidents thus noted cover only the Nanking Safety Zone, and that the rest of Nanking was practically deserted until the end of January….
(出典:”What War Means” by H.J. Timperley, Victor Gollancz Ltd. 1938, p.143)

710 :浮月斎:2024/05/01(水) 03:14:56.47 ID:N/IcLiYV0.net
(709の続き)

上記の、「南京陥落時、人口が安全区に集中していた、また、安全区外に民間人はいなかった」という事実は下記の日本側の記録とも符合している。

歩二〇の掃蕩
「城内掃蕩では、難民区以外の城内には殆ど住民を見ず、婦女子は煉瓦壁のある建物金陵女子大学か?に収容され、難民区には多数の中国人が集合していたが、入城当初から立入禁止区域として厳重に警戒されていた」
(南京戦史本文 p.167)

歩三八の戦闘詳報12号(12月14日)
「南京城内には避難民相当多数有りしたるも之等(これら)は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し」
(南京戦史資料集I p.590)

(終り)

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 09:35:23.14 ID:SmV/50Rw0.net
おじいちゃん、また認知症が出てるの

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 20:35:02.45 ID:N8oSRuvq0.net
>>708-710
では80万人はどこへ行ったのか?
当時の中華民国の輸送力や生産力で80万の「難民」を別都市に吸収出来るとは思えない。
安全区に入れなかった80万は、南京城内にいないとすれば、周辺郊外にたむろするしかなかろう。
つまりは戦場に、だ。
南京虐殺は陥落後ではなく陥落前に終わっていたのかもしれない。

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 22:14:40.12 ID:JBj2FRUX0.net
>>709
お前はヴォートリンの日記にこう書いてあることは知ってるのか?

南京事件の日々(ミニー・ヴォートリンの日記)
四月一五日―――紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた―――彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八○パーセントは民間人であった。
城外ではこの時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三汊河の地域は含まれていない。

714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 22:18:04.63 ID:JBj2FRUX0.net
>>708
ラーベはその後こう書いてることは知っているのか?

ラーベの日記(1938年1月17日)
南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したと言ってよいだろう。
日本軍は安全区から出るようにとくりかえしいっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。今は道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物もまじっている。
難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。

(『南京の真実』文庫版p216)

715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 23:21:53.07 ID:JBj2FRUX0.net
>>710
夏淑琴は事件当時どこにいたのか知ってる?

夏淑琴『南京大虐殺と原爆』
南京市内に当時、外国人が避難できるように作られた「安全区」という地域がありました。南京市内の状勢がずい分安定してからですけれども、私の母方の伯父が、その安全区から私たち二人を迎えに来ました。 そして、孤児院から私たちを引きとってくれました。
あとになって知ったことですが、私たちの家族だけではなく、私が住んでいたのはほんの小さい地域ですが、その地域だけで一日のうちに二百人前後もの人がいっペんに殺されたのです。赤ん坊から老人まで無差別に。

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/01(水) 23:24:14.20 ID:JBj2FRUX0.net
>>709
安全区外が危険だから安全区内に人が殺到しただけ

H.J.ティンパーリ『戦争とはなにか』
市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。 南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体がかぞえられたほどです。死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。
恐怖と興奮にかられてかけ出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものは、だれでも即座に殺されたようでした。その苛酷さはほと んど弁解の余地のないものでした。南京安全区でも他と同様に、このような蛮行が行なわれており、多くの例が、外国人および立派な中国人によって、はっきりと目撃されています。

717 :浮月斎:2024/05/02(木) 15:10:31.29 ID:HfkjLk3X0.net
>716
>H.J.ティンパーリ『戦争とはなにか』

この本は立命館大学の北村稔教授の研究で、国民党の国際宣伝処がカネを使ってティンパーリに書かせたことが分かっている。学術書の体裁をとった南京大虐殺のプロパガンダ本だ。そんなことは、南京事件の研究者としては初心者レベルでも知っていることだ。

718 :浮月斎:2024/05/02(木) 15:13:04.30 ID:HfkjLk3X0.net
>712
>安全区に入れなかった80万は、南京城内にいないとすれば、周辺郊外にたむろするしかなかろう。

それは、おまえさんの単なる妄想ないし憶測。

国民政府は、日本軍が南京に近づく前に南京市から半径10マイルの民家その他の施設を焼き払っている。1)堅壁清野作戦といって、城を囲む敵兵に何も利用できるものを残さないことと、2)銃砲の射界を確保するためだ。

そんな焼け野原に80万人が何日もたむろせるわけがない。南京城の周囲で民間人が大量虐殺されたという史料・記録も存在しない。

アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」も東京裁判判決も、日本軍による軍民無差別の殺人(女子供を含む20万以上の死亡)は、あくまでも13日に南京城が陥落した後から、ということになっている。

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 17:50:17.92 ID:pVPzNsTq0.net
>>717
お前がティンパーリを出してきたからティンパーリで返したんだろうが

この本は駿河台大学の井上久士教授の研究で、国民党の国際宣伝処がカネを使ってティンパーリから買い取ったことが分かっている。学術書の体裁をとった南京大虐殺目撃実録の本だ。そんなことは、南京事件の研究者として初心者レベルではわからないが初級レベルなら知っていることだ。

720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 21:24:51.90 ID:HfkjLk3X0.net
>719


?????????????? NANIO AHOKOITERUKA SAPPARI WAKANNAI

721 :浮月斎:2024/05/02(木) 21:46:52.94 ID:HfkjLk3X0.net
https://www.youtube.com/watch?v=cwJAohwSqpc

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 21:53:06.34 ID:pVPzNsTq0.net
イチャモン派は定期的に壊れる義務でもあるのか?

723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/02(木) 21:53:55.97 ID:HfkjLk3X0.net
>721 自己レス

コピペミス。すまんm(__)m 正しくはこれ↓

北村教授が入手した「曾虚白自伝」にいう

「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。そういうわけで彼が南京から上海に到着すると、我々は直ちに彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに連絡して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕このあとティンパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕二冊の書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」
(出典:『南京事件の探究 −その実像を求めて』北村稔 文春文庫 p.43)

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 07:38:29.76 ID:7Mul+A7I0.net
>>718
じゃあ80万人はどこに行ったの?
1−2カ月で女子供老人を含む80万人を非難させ受け入れさせる輸送力や余剰生産力が中華民国にあったと言うのか。
計画的に行わないと南京の都市機能もマヒする。それだけの行政能力が中華民国にあったと言うのだろうか

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 09:49:07.58 ID:mYHm4hZ80.net
>>723
そんなものは井上久士『南京大虐殺と中国国民党国際宣伝処』でとっくに論破されてるよお爺ちゃん

726 :浮月斎:2024/05/03(金) 12:35:19.31 ID:2hz5Eov90.net
>725

同じ結論になっているようだが、どんな風にロンパされとるんや。

727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 12:38:32.55 ID:2hz5Eov90.net
>724

下のラーベ日記からの引用で、何で納得しないの?この引用は前に提示したはずだが。上海から南京まで半月以上の行軍を要しているから、南京市民が疎開する時間は充分にあった。

ラーベ日記 12月6日の条
ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。お前ら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
(ジョン・ラーベ著「南京の真実」講談社刊 p.85)

728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 12:44:21.93 ID:+Cpioysz0.net
>>726
>>719

729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 13:11:01.37 ID:+Cpioysz0.net
>>727
お前はどうにも知恵が足りないんだよ
逃げるったって家族全員でどこに逃げるんだ?
遠方に親戚がいるならいざ知らず、精々近郊農村や山の中で攻城戦が終わるまで一時的に避難するくらいだろ
それが陥落後8ヶ月たった1938年8月の人口で30万人前後、1940年11月ですら40万人前後
相当悲惨な状況だったことはちょっと考えただけでもすぐわかる

取り敢えずもう少し本を読め
この辺りの事情は『難民たちの日中戦争(芳井研一)』がおすすめ

730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 13:28:12.35 ID:2hz5Eov90.net
>729
>逃げるったって家族全員でどこに逃げるんだ?

知らん。俺の問題ではない。

731 :浮月斎:2024/05/03(金) 13:54:18.96 ID:2hz5Eov90.net
>729

陥落直前の南京市の人口は20万人と述べたところ、南京市は百万人の都市だったと云ったものがあったので、ラーベの日記の「80万人を退避させた」という記述を引用して人口減の事情を示した。

すると、城外に居て日本軍に殺されたのではないかという者がおり、国民政府は日本軍と戦うに際し、南京市から半径10マイルを焼いているから、焼け野原に80万人が数日でも留まって居られるはずはない。そのような記録もないと俺は言った。

すると、80万人はどこへ行ったのか?という問いがあったので、そんなことは俺は知らんと言っている。それだけのことだ。

732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 15:51:12.35 ID:+Cpioysz0.net
>>731
南京市っつっても広いんだよ
スマイス調査の対象となった地域だけで6,315㎢あるんだから

しかも10マイルというとたかだか新宿駅→三鷹駅くらいの距離だ
お前は新宿駅でテロが発生したとして三鷹駅辺りを安全と思えるのか?
ましてや南京攻防戦は日本軍は20万人もの軍勢で攻めこんでるんだから、避難するのに10マイルだけとかあり得んわな

733 :浮月斎:2024/05/03(金) 18:55:05.79 ID:2hz5Eov90.net
>732
>しかも10マイルというとたかだか新宿駅→三鷹駅くらいの距離 
>お前は新宿駅でテロが発生したとして三鷹駅辺りを安全と思えるのか?

人間には足というものがあるんだから、逃げるでしょ。草木じゃあるまいし、根っこが生えて動けないわけじゃないんだから。

それに、この「三鷹駅辺りを安全と思えるのか?」という問いの前提がおかしい。あんたの云うのは、80万人が城外に居て「とばっちり」で殺された、という話。つまり、城内での大量殺人が最初にあって、それが城門を通って、外に染み出てきたということ。

それでは、偕行社「南京戦史」が記録するような、12月10日から13日にかけての各城門(中山門・光華門・武定門・中華門・水西門・挹江門・和平門、etc.)をめぐる支那国民政府軍(約五万)と日本軍(約八万)の銃砲撃戦のとき、(あんたの想像では)焼け野原10マイルゾーンに居たはずの80万人は、銃砲撃戦を避けもせず、そこに居たということか?つまり、流れ弾に当たって80万人が尽く死んだのか?

最初に城外で民間人80万人が殺された可能性を言っていた人物は、南京城の陥落までに既に殺されていた可能性を言っていたから、それはおかしい、アイリス・チャンの本でも東京裁判判決でも、集団殺戮は陥落・占領後に城内で起きたことになっている、と俺は云ったのだ。

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 19:03:28.86 ID:MxBhwLga0.net
>>733
上海から南京への進軍中に殺された人は数十万人はくだらないだろうな
なんせ20万人もの日本軍が現地調達しながら南京を目指したわけだから
南京事件に限定せずに時期や範囲を広げれば犠牲者30万人なんて簡単に超えてしまうんだよ


第10軍に出されたトンデモ命令くらい知ってるだろうに

平松鷹史「郷土部隊奮戦史1」(大分合同新聞社)
第六師団が抗洲湾に上陸、崑山に直進中、第六師団司令部に「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という無茶苦茶な命令が届いた。

朝香進一「初年兵日記」
南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」という軍命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。婦女子は特にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を実演して見せるのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。

梶村止『観測小隊長の日記 大陸を戦う』
思ふに国民党の徹底抗日の教育充実し、ここ江南地区がもっとも抗日思想激しき処と聞く。この附近不審の土民は射殺すべしとの内命すらありゐたり。

太平洋戦争研究会「南京虐殺で対立する証言者たち」
「上陸すると、手当たりしだいにぶっ殺す。銃剣で刺すなんて生やさしいものではなく、棍棒でやるんだな。男も女も、バリッとなぐられ、ブワッと血を噴き出して死ぬんだよ」
みんな殺せという命令が、抗州湾上陸の直後に出された。河野さんは、たしかに命令伝達書を見た。

石井清太郎「いのちの戦記」
この兵は抗州湾に上陸して、上海戦線の腹背を衝いた柳川兵団の兵士であった。私はその兵士から、兵団長の命令なるものを聞いて暫らく信じられなかった。それは、生ある者は皆殺せ、家は悉く焼け、と言うのである。
兵には命令は常に至上命令である。上官の命令は天皇陛下の御命令である。と耳に胝が出来る程教えこまれている我々である。始めの内は半信半疑だったが、事例を聞いている内に、疑う余地のない事を知った。

秦郁彦「南京事件」P70
また国崎支隊の歩四十一連隊に従軍した宮下光盛一等兵は、抗州湾上陸時に、「我が柳川兵団は上陸後 (1)民家を発見したら全部焼却すること、(2)老若男女とわず人間を見たら射殺せよ」(宮下手記『徒桜』)との命令を受けたという。

735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 19:17:08.18 ID:MxBhwLga0.net
>>733
ついでに俺は80万人の件でお前と話してる人ではない
ただお前があまりにもおかしな事を言ってるから横槍入れてるだけ
だいたい俺は「10マイルより先に逃げてる」って言ってるのになんで「10マイルの間に80万人がいた」ことになってんだよ

そういうところだぞ、お前

736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 22:44:38.49 ID:2hz5Eov90.net
>734
>上海から南京への進軍中に殺された人は数十万人はくだらないだろうな

具体的に何と言う名前の都市で大量殺人があったというのだ? 上海―南京間の都市で大虐殺があったというのは初耳だ。全部隊が南京に急行したので、途中で集団殺害などやっているヒマはなかったはずだが。

737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 23:17:12.10 ID:2hz5Eov90.net
>734
>第10軍に出されたトンデモ命令くらい知ってるだろうに

知らん。

738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 23:47:46.66 ID:MxBhwLga0.net
>>736
これも想像力の問題
20万人からの敵国軍隊が補給も無しに現地調達で約1ヶ月にわたり進軍する
その間に様々な虐殺記録が残っている

一兵士の日記内だけでもこれだけのことをしてるのにこれが20万人とか地獄すぎるだろ

牧原信夫日記(歩兵第20連隊)

11月26日7時40分頃、自分達が休けいしている場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、1名は残念ながら逃がし、あと3名を捕らえた。兵隊達は早速2名をエンピや十字鍬で叩き殺し、1名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。8時半宿舎に 就く。3小隊は早速豚を殺していた。全くすばやくやるのにはおそれ入った。夕食を終わり、2食を炊飯す。

11月27日 支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家にかくれていた敗残兵をなぐり殺す。支那人2名を連れ11一時出発する。鉄道線路上を前進す。休憩中に5.6軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり気持ちがせいせいした。

11月28日 或る橋梁に来た時、橋本与一は船で逃げる5.6名を発見。照準をつけて1名射殺。自分達が前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。

11月29日 武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとはず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより全く浮足立って戦意がないのか、或いは後方の強固な陣地に立てこもるのかわからないが全く見えない。この町は今までに見た事のない様な立派な町だった。支那人苦力も立派に入城す。
3時過12中隊は5.6人の支那人を集め手榴弾を投げて殺していた。壕にはまった奴は仲々死ななかった。

739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/03(金) 23:48:28.58 ID:MxBhwLga0.net
>>736
毎日やり過ぎだから2回に分割

11月30日 武進の前夜の宿舎に引き返す。直ちに米やその他の物資徴発に行く。昨日昼食したところへ行って見ると、昨日殺した支那人がまだ橋の下にぷかぷかと浮いて居た。米、芋、シイタケ、ギンナン、その他色々と徴発し、2時間の後重い荷を人力車に乗せ、やっと半分程引き返したところで四方宏が俄かに出発ですと言ってきたので、残念にも支那人に全部をひかし、 早速自分は帰り出発準備をする。
昼食を終えて午後一時南城を出発することになった。本道路上の休憩中チョット見ると焼跡に双児の死体が土にうずもれて全く可愛想である。

12月1日 途中の部落を全部掃討し、亦舟にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、或いは火をつけて部落を焼き払って前進す。
呂城の部落に入った折すぐ徴発に一家屋に入った所、3名の義勇兵らしきものを発見2二名は クリークに蹴落とし射殺する。1名は大隊本部に連行し手渡す。

12月3日 仮眠した部落を出発する時に家に火をつけたのが大事に至り、後程大隊長にきつく叱られるにきまっていると思っていたが、叱られずに終わった。防毒面2個と鉄帽2個を火事のため失った。

12月4日 2.3日は滞在の予定だと言うので今度こそは一ぷくだという事で早速徴発に出る。自分は炊事当番で岡山、関本と共に昼食を準備する。徴発隊は鶏、白菜等を持って皈り家の豚も殺して昼食は肉汁である。 午後五時同村を出発・・・・・・約一時間は六軒行軍である。苦力も重い荷物を背負ってよくもついて来たものだと感心した。

12月5日 午後8時準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時は最早全村火の海である。南京街道を右廻りして高原地帯に入る。
南京に近いのだろう。一軒屋に乾いもが目についた。吾先にとまたたく間に取り尽した。6時頃後方に敵方のらしい銃声が聞こえたが、自分達には南京攻撃を前にして物の数ではない。6時安らかに故郷をしのび寝につく。

740 :浮月斎:2024/05/04(土) 02:34:04.16 ID:fLwJ/7Ck0.net
>738

見たところ戦闘の記述と日々の雑事の記録しかない。
民間人を殺してこその虐殺であり不法行為だぞ。

741 :浮月斎:2024/05/04(土) 03:21:55.78 ID:fLwJ/7Ck0.net
>734
>上海から南京への進軍中に殺された人は数十万人はくだらないだろうな

集団虐殺が発生した都市の名を挙げられないようだな。しかも証言としては個々の兵隊の日記のみで、数人の敵兵との戦闘の記述のみ。

それを針小棒大に拡大解釈して空想を拵えているだけ。数十万人も殺したら、同一の事件について複数の記録がないとおかしいんだよ。都市の名前は挙げられないだろう。師団別の行軍経路は明らかになっているから、たちまち偕行社『南京戦史』『同資料集I及びII』と照合されてしまう。

そもそも、兵隊は無駄弾を持つ余裕がないんだよ。上海戦の後、兵一人あたり100発の銃弾が配られたという。それらは敵兵のために使わないと、いつ敵襲があるか分からない状況では補充の小行李が近くにいないと不安でしょうがない。

東京―名古屋間にほぼ匹敵する距離を銃弾100発のみで行軍する、しかも敵地の中を移動する、日本の兵隊さんは、さぞ不安だったろう。

742 :浮月斎:2024/05/04(土) 05:06:54.63 ID:fLwJ/7Ck0.net
>713
>お前はヴォートリンの日記にこう書いてあることは知ってるのか?

南京事件の日々(ミニー・ヴォートリンの日記)
四月一五日―――紅卍字会の本部を訪ねると、・・・・

南京城内のうち、安全区以外の場所で起きた集団虐殺事件を特定(いつ、どこで、どのように、を明らかに)する内容ではない。

743 :浮月斎:2024/05/04(土) 05:10:09.01 ID:fLwJ/7Ck0.net
>714
>>708
ラーベはその後こう書いてることは知っているのか?

ラーベの日記(1938年1月17日)
南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、・・・・・
(『南京の真実』文庫版p216)

南京城内のうち、安全区以外の場所で起きた集団虐殺事件を特定(いつ、どこで、どのように、を明らかに)する内容ではない。

744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 11:00:16.94 ID:tFF46ish0.net
>>741
どうにもお前はちょいちょい嘘付くよな

第114師団12月15日付戦闘詳報
小銃・機関銃用の弾薬残数:約380万発

戦闘が終わったにも関わらず一人当たり100発以上の弾が残ってるんだが?
日本軍は補給なしで進軍してたのにおかしいねぇ

上海→南京間での主要都市の人口推移を調べてみたよ
ざっと難民数が170万人以上
この内、何人が無事だったんだろうか・・
・嘉定:6万人→3万人
・太倉:3万人→3000人
・常熟:10万人→1万人
・蘇州:38万人→10万人
・杭州:60万人→13万人
・松江:39万人→4万人
・嘉善:4万5000人→2万3000人
・嘉興:5万人→4000人
・無錫:14万人→4万人
・常州:13万人→200人
・丹陽:6万人→1350人
・楊川:10万人→4万人
(出典:難民たちの日中戦争)

745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 11:01:42.33 ID:tFF46ish0.net
>>744
難民というか帰来していない人たちね

746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 11:02:43.24 ID:tFF46ish0.net
>>742
城外で起きた民間人虐殺はノーカン理論か
もはや恥も外聞もないな

747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 11:04:26.33 ID:tFF46ish0.net
>>743
> 難民の数は今や約二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。かれらは、どこに行ったらいいのかわからないのだ。

ラーベはこの5万人は城内の安全区外から来たって書いてんだけど・・

748 :浮月斎:2024/05/04(土) 18:23:36.98 ID:fLwJ/7Ck0.net
>747
>ラーベはこの5万人は城内の安全区外から来たって書いてんだけど・・

だから何だと言うのか。「南京城内のうち、安全区以外の場所で起きた集団虐殺事件を特定(いつ、どこで、どのように)する内容ではない」ことには変わりがない。

749 :浮月斎:2024/05/04(土) 21:27:23.51 ID:fLwJ/7Ck0.net
そうだ、南京大虐殺しよう
https://www.howitzer.jp/topics/site20.html

750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/04(土) 21:46:58.08 ID:OSkOL2U10.net
>>748
小学生かよw
歴史検証なら日本兵に殺されたと想定できる…で十分だろ。

751 :浮月斎:2024/05/05(日) 04:20:50.63 ID:8L5XAYOS0.net
>750
いつ、どこで、どのように、がなければ、単に空想ないし憶測でしかない。
空想や憶測で人の罪科を断定することはできない。やれば魔女狩り裁判と同じことになる。

752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 07:39:51.89 ID:oaGGFZfu0.net
>>751
それ刑事裁判の基準何だけど。

753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 07:57:51.33 ID:OMjUg4q50.net
>>748
これぞイチャモン派の真骨頂

史実で南京事件ほど証拠の揃っている事件も少ないだろうに
なにせ発生時から世界でセンセーショナルに報道された事件で、東京裁判では「あの」パル判事でさえ「証拠は圧倒的」と言わざるを得ないレベル
加害者、被害者、第三者、後世の歴史学者が揃って「あった」と言っているのに、唯一イチャモン派だけが「無かった」と言い続けている

なんとも滑稽な図式だな

754 :浮月斎:2024/05/05(日) 16:40:43.48 ID:8L5XAYOS0.net
下記に元福知山第二十連隊第三大隊・大隊長代理・森王琢(もりおう・みがく)氏が1992年に岡山市で行った講演録(復刻)を掲示する。

https://www.howitzer.jp/history/box3/a27.pdf

福知山第二十連隊は、1937年12月13日、中山門から中央ロータリー付近まで進み、漢口に遁走し無人となった中央官庁街付近で残敵掃討を行った。森王琢氏は、その後、一か月に渡って現地に留まり残務整理をしていたが、その間、「南京大虐殺」など、見たことも聞いたこともない、という。

結局は、良心ある先人の言葉を信じるか、裁判という形式をとった連合国の日本に対する復讐劇のなかで行われた証言及び提出記録を信じるか、という問題である。その選択は、このスレッドを見ている現代の日本人がしなければならない。

以上

755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 21:53:29.45 ID:f1iwTJD60.net
>>754
https://i.imgur.com/YLpwhAj.jpeg

756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/05(日) 23:57:03.47 ID:wx6s0Gy10.net
>>754
こんなことしでかした20Rが言うと説得力あるよな

笠原十九司「南京事件」
句容は、南京外囲防御陣地線の主要な県城であり、東部はトーチカで防備をかため、城内には砲兵学校があった。国民党軍が倪塘村の西の句容に通ずる橋を爆破したため、進行を阻まれた第一六師団所属の歩兵第二〇連隊の部隊はその日、倪塘村に宿営することになった。そこで、村民虐殺事件が発生した。
(中略)
日本軍は逃げおくれた村民と他所から避難してきていた人など四〇余人を捕まえて、倪安仁という村民の家に押しこめて火をつけ、焼き殺してしまった。翌朝の八時か九時ごろ、日本軍の一部隊が、国民党軍の捕虜もふくめた他村の村民約八〇名を捕縛して句容公路(丹陽-句容道路)沿いに連行し、機関銃で全員殺害した。
このとき、溜め池の土手で一人の若い女性が八名の日本兵に輪姦され、その後精神に異常をきたし、まもなくして死亡した。日本軍は村を去る前に村落を放火していったため、村の公共の建物(祠、油絞り場、製粉所)以外、全村八〇余戸は全部焼失した。倪塘村虐殺事件では一二〇余人が殺害されたが、多くが他村の農民で、倪塘村民は七人が犠牲になり、そのうち二人は女性だった
(『句容県誌』、「日軍侵占句容期間暴行録」。

757 :浮月斎:2024/05/06(月) 05:23:10.94 ID:7HfpmxFY0.net
>756

笠原十九司と言えば、「虐殺派」学者の総帥みたいな人物ではないか。その他の中国から出てきた史料は信用がおけない。先頃、「三十万人という被害者数にこだわらずに、実際の史実に基づいて研究をしよう」と主張した中国人教師が当局に拘束され軟禁された事件も記憶に新しい。言論の自由がない中国で自由な研究ができるはずがない。あらゆる証拠や証言に、政治的な潤色がされている可能性は否定できない。

ここでは、笠原十九司の「つまみ食い」について述べよう。「まぼろし派」の研究者の間では、笠原十九司は「つまみ食い」の名人として名を馳せているが、わしとしては、次の事柄を提示したい。

笠原十九司の著書に「南京難民区の百日−虐殺を見た外国人」という本があり、その中に「地獄の中のクリスマス」という項がある。その項を開いてみると、次の文言がある。

「クリスマスがきた。街には、いぜんとして殺伐、強姦、掠奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている。ある宣教師は“地獄の中のクリスマスだ”と言った」とヴォートリンの日記にある。」
(笠原十九司「南京難民区の百日」p.311)

(続く)

758 :浮月斎:2024/05/06(月) 05:26:34.69 ID:7HfpmxFY0.net
(757からの続き)

そこで「ヴォートリンの日記」のクリスマスの日のエントリーを見てみる。

12月25日
クリスマスディナーのときにサール・ベイツが、「地獄のクリスマス」題して記事を書いているところだ、と言った。実際のところ、この金陵女子文理学院ではそのようなことはない。このキャンパスは多少なりとも天国である。とはいえ、ことしのクリスマスは、これまで金陵で経験したクリスマスとはたしかに違う。
昨夜も平穏な一夜だった。校門に警備兵二五人が配置され、漢口路と寧海路を巡回してくれた。ここ何週もの間で初めて朝までぐっすり眠った。
(「南京事件の日々」大月書店 p.79)

確認のため、一応、原英文も参照してみる。

Saturday, December 25
At Christmas dinner today Searle Bates said he had been trying to write an article on “Christmas in Hell.” It really has not been that for us here at Ginling; in fact we have had some bits of heaven on our campus – although the day certainly has been different from any Christmas I have ever experienced at Ginling.
The night again was one of peace – with our guard of twenty-five at the gate patrolling both Hankow road and Ninghai Roads. For the first time in weeks and weeks I slept soundly through the night.
(Source: “Terror in Minnie Vautrin’s Nanjing Diaries and Correspondence 1937-38” by Minnie Vautrin)

(続く)

759 :浮月斎:2024/05/06(月) 05:30:27.76 ID:7HfpmxFY0.net
(758からの続き)

笠原十九司の本では、ベイツが「地獄の中のクリスマス」と言った主旨になっているが、ヴォートリン日記では、そのすぐ後で、そんなことはないとヴォートリンがベイツの文言を否定している。
 これは、引用の仕方として、問題があるはずだ。ヴォートリンが否定したことは隠し、ベイツの文言だけを取り上げて引用するのは読者の誤謬/曲解を招くはずである。いわゆるcherry picking(つまみ食い)というやつだ。自説に都合のよい証拠または証言だけを取り上げ、それとは矛盾する不都合な証拠または証言は隠すという行為をしているのだ。
 しかも笠原十九司は「南京事件の日々」の解説者として「あとがき」まで書いている。その中で、日記の著作権継承者から、「ヴォートリンは事実だけを書いた。日本の人々は、その事実を知るべきである」という手紙を添えて、翻訳出版の快諾を得たと述べている。
 ならば、なおさら、ベイツが「地獄の中のクリスマス」という記事を書こうとした事実と、ヴォートリンがそんなことはないと否定した事実とは一対のものとして記述しなければ、日記の著作権継承者の意図に背き、史実を正確に伝えることにはならない、はずである。
笠原は故意に「つまみ食い」をやっており、単なるケアレスミスで済まされる事ではない。

(終り)

760 :浮月斎:2024/05/06(月) 05:40:22.19 ID:7HfpmxFY0.net
>756

要するに何がいいたいかというと、こういう、学者というより反日活動家みたいな人物の記述を史実だとして出してくる神経は余程にピントが外れていて、検討するに値しない、ということだ。

761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 09:33:53.29 ID:ZwsV2olS0.net
>>757
つまみ食いかどうかは出典を調べればよろしい
『句容県誌』「日軍侵占句容期間暴行録」と書いておるだろうが

762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 10:19:34.50 ID:wEKJeTrE0.net
劣等種族に大虐殺できる能力は無い

763 :浮月斎:2024/05/06(月) 15:07:27.21 ID:7HfpmxFY0.net
>761
そんな、入手不可能な中国語の資料を持ち出すより、

「街には、いぜんとして殺伐、強姦、掠奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている」中でクリスマスディナーの食事会をしたり、ヴォートリンが「ここ何週もの間で初めて朝までぐっすり眠った」り、笠原の記述の整合性がおかしいとは思わないのかよ。

764 :浮月斎:2024/05/06(月) 15:14:31.48 ID:7HfpmxFY0.net
>762

そんな劣等民族が「南京大虐殺」を行っている間、優秀な漢民族である支那国民党軍は、どこで何をしていたんでしょうねえ?

うまいものでも食って、のんびりしていたんでしょうか。

765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 15:47:28.60 ID:0Z+FJeTd0.net
>>763
よく分からん奴だなぁ
ヴォートリン日記は南京で大規模な虐殺や強姦があった動かぬ証拠の一つなんだから、お前がそれを認めちゃうと笠原の著書との整合性関係なしに「南京事件は史実」で決着しちゃうんだがそれがお望みなのか?

766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 15:58:56.89 ID:0Z+FJeTd0.net
>>763
だいたい笠原が12月25日のヴォートリン日記の引用を間違えたところで大勢に全く影響はない
お前こそヴォートリン日記読んだことあるのか?
日本軍の強姦、掠奪、虐殺が満載だぞ?

南京事件の日々(ミニー・ヴォートリンの日記)
四月一五日―――紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた―――彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち一月の中旬ごろから四月一四日まで、紅卍字会は城内において一七九三体の死体を埋葬した。そのうち約八○パーセントは民間人であった。城外ではこ の時期に三万九五八九体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約二五パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三汊河の地域は含まれていない。

767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 19:35:01.74 ID:0Z+FJeTd0.net
>>763
なんか違和感があったから家帰ってきて「南京難民区の百日」を見返してみたよ
結局笠原云々もイチャモン派のいつものイチャモンでしかなかったな

笠原十九司「南京難民区の百日」現代文庫版あとがき
ところで、本書『南京難民区の百日』に引用した日記スタイルの「ヴォートリン文書」と翻訳書『ミニー・ヴォートリンの日記』の記述が一致していないところがある。前者は彼女が“To Dear Friends”で始まる日記スタイルの報告書を伝道団や金陵女子文理学院の理事会や同窓会に定期的に送っていたものを引用したからである。『ミニー・ヴォートリンの日記』は、前者の報告書とは別の形で、彼女の個人の日記として整理され、保存されていたもので、後日見直して点検し、加筆・修正がほどこされた箇所がある。

768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 20:52:23.35 ID:Np8cAzrp0.net
笠原への濡れ衣も晴れたことだし、改めて「南京大虐殺を見たことも聞いたこともなかった」福知山第20連隊のその他の所業をどうぞ

笠原十九司「南京事件」
一二月五日朝、八時か九時ごろ、日本軍の一部隊が句容県域の北にある本湖村に食糧徴発と部落掃蕩のためにやってきた。これを遠くから見た村民は、てっきり国民党の軍隊と思いこみ、村の自衛団約三○名に招集をかけ、槍や刀をもって集合し、整列して歓迎しようとしたところを全員捕縛されてしまった。
付近で捕まえられた青壮年男子も加えて、四○余名が村の酒醸造小屋(藁葺きで三部屋あった)に押しこめられて、火をつけられた。小屋の外へ逃げ出そうとした者は射殺され、全身火だるまになって小屋から飛び出し、近くの池に飛びこんだ者も射殺された。当時満一六歳だった万仁勝がただひとり、小屋から逃げだして垣根の中にかくれ、火傷を負いながらも生き延びたほかは、みな殺害された(「日軍侵占句容期間暴行録」)。

769 :浮月斎:2024/05/06(月) 22:13:35.97 ID:7HfpmxFY0.net
>765
>笠原の著書との整合性関係なしに

「整合性関係なしに」じゃなくて、整合性こそ大いに問題にしているのだよ。

「殺伐、強姦、掠奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている」中でクリスマスディナーの食事会をやるって、どう考えてもおかしいだろ。しかも、この食事会に出席したヴォートリンは、外から聞こえたであろう阿鼻叫喚について、全くに日記に記述していない。そのうえ、「久しぶりに、ぐっすり良く寝られた」なんて更に々々おかしい。

食事会が行われたロッシング・バックの家は南京大学の近傍にある(”Rape of Nanking” by Iris Chang p.217)から、中山路からさほど遠くない位置と考えられる。だから、「殺伐、強姦、掠奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている」状況が安全区のなかであろうと外であろうと、聞こえないはずがない。

平穏を伝えるヴォートリンの記述がおかしいか、笠原の「殺伐、強姦、掠奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている」記述がおかしいかの二者択一の問題だ。

4月15日、紅卍会による遺体埋葬について

遺体埋葬数1793体の80%が民間人であったとのことだが、そういう説明が紅卍会からあったというだけ。確証なし。更に、その80%の民間人の死が日本軍による不法殺人によるという証拠もない。12月12日、南京保衛軍の防衛体制が崩れ、皆が脱兎のごとく下関に押し寄せた時、挹江門付近に陣取っていた支那督戦隊が機銃を発砲しており、それによる死亡も多かったことが分かっている。支那兵が民間人の服に着替えて逃げて、味方の督戦隊に撃たれて死んでいるケースも相当多かったと想定される。

むしろ、このヴォートリン日記のこの部分に、「崇善堂による遺体埋葬数」の説明がない事の方が、俺には気になる。

770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 22:24:50.56 ID:pDr18Rz40.net
>>768
ミニー・ヴォートリンによると12月5日に村を焼き払ったのは中国軍だそうですがw
日本軍は焼き払われて無人の村でどうやって徴発したんですかねw
また一つ笠原の捏造が明らかになりましたねw


ミニー・ヴォートリン
12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。

771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 22:50:51.14 ID:e5mxms4c0.net
>>770
虐殺された村は清野作戦の城壁16kmよりずっと離れてるんだよなぁ

772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 23:24:23.13 ID:pDr18Rz40.net
>>768
笠原の捏造その2w


最高裁百人斬り訴訟判決文より

エ 冨山大隊の動向について,歩兵第十九旅団司令部旅団通信班長少尉であった犬飼総一郎(以下「犬飼」ともいう。)は,要旨以下のとおり述べている(甲115)。

草場旅団司令部は,同月5日,賈崗里に進出した後,歩兵第二十連隊をもって,その西方約10キロメートルの地点にある砲兵学校に向かって進撃中,上海派遣軍司令部の直協機(旧式の偵察機)が旅団司令部の上空に飛来して通信筒を落とした。
犬飼は,これを読み,句容は既に第九師団がその南西に進出し,句容西方の退路が遮断されようとしていることが分かり,その通報を受けて,草場旅団長は,

【 【 【歩兵第二十連隊に対し,句容を攻略することなく,迂回転進するよう命じ,】 】 】

歩兵第二十連隊の予備隊であった第二大隊が真っ先に転進し,砲兵学校に向かい,同第三大隊が追及し,更に句容北東の飛行場を攻撃中だった同第一大隊が最後に追及した。
冨山大隊は,同日,賈崗里にて一泊し,翌日,草場旅団に追及し,砲兵学校に至った。


福知山第20連隊のその他の所業???

福知山第20連隊は攻略攻略せず迂回転進した句容で徴発や掃討が可能だったんですねw

正に不可能を可能にする軍隊ですねw

773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/06(月) 23:47:55.13 ID:pDr18Rz40.net
>>771
清野作戦は南京の城壁16kmどころか上海〜南京間で行われているんだがw

第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、
蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、
蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、
住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める。

第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長大杉浩氏
上海から南京へ行く途中のある部落で、
稲の堆積されたものが、焼き棄ててあるのを見た。
部落民にその理由を尋ねたところ、
それは支那軍が退却の際、日本軍に渡さない為、焼却したと説明を受けた。

『ニューヨーク・タイムズ』 1937年(昭和12年)12月7日 南京発 特電
テイルマン・ダーディン記者
―――――――
湯山と南京の間、公路沿いに、
だいたい1マイルおきに堡塁 (ほうるい) が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。
敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。

774 :浮月斎:2024/05/07(火) 00:02:17.39 ID:wjdgJNYB0.net
>766
>お前こそヴォートリン日記読んだことあるのか?

読んでいるからこそ、笠原の記述との整合性や「つまみ食い」を指摘している。

>(ヴォートリン日記は)日本軍の強姦、掠奪、虐殺が満載だぞ?

はてなマーク?なんか付けちゃって、自信なさげな主張だなw

ヴォートリン日記に記載されている強姦・虐殺事件はすべて伝聞情報で、ヴォートリン自身が目撃したものはない。ソーンやフィッチ、マギー、ベイツから吹き込まれた内容ばかり。このスレッドでさえ、「UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは」とか「家が焼き払われる場合もあるそうだ」(770の指摘)など、人から聞いたことを記述している箇所がある。

「掠奪」は、城外で数万人の日本軍が寒空の下にテント生活をしていて、食糧・日用品・寝具等の徴発が必要だったことを、ヴォートリンは無視している。

ヴォートリン日記は、むしろ、2月2日の条が問題。

二月二日
[中略] まったく奇妙な話だが、わたしたちとしては、こんなことになるとは思ってもみなかった。わたしたちの多くは、(日本軍の)長期にわたる包囲攻撃と、中国軍兵士による掠奪を恐れていた。いやむしろ、日本軍はきわめてよく訓練されているから掠奪や放火はしないと確信していた。
[中略] 太平路では商店がほとんど軒並み焼かれてしまった。徹底的な掠奪の証拠を隠蔽するためだ。[中略]すべての避難民に帰宅を強制する命令が出されていることについて彼(日本大使館の福田篤泰氏)に手短に話し、また、最近二日間に発生した何件かの強姦のことを伝えた。

上記に対応する英文
Strangely enough we were not prepared for this. Many of us had afraid of a long siege and of looting by Chinese soldiers – we were rather confident that the Japanese would be too well disciplined to loot and burn.

(考察)
前段でヴォートリンは「掠奪や放火」には触れているが、「虐殺」と「強姦」には触れていないのはなぜか。「虐殺」数は、東京裁判判決によれば「20万人以上」とされ、強姦件数はベイツの見積りによれば「内輪に見積もって8千件」だったはず。ウィルソンによれば、一個連隊による強姦もあったという。当時の日本軍の一個連隊は約三千人。何百人か何千人かわからないが、生白い尻を12月、1月の寒風に晒してモゴモゴやっている光景は、さぞ印象的だったはずだが、なぜ、ヴォートリンは掠奪と放火のみ触れ、これに触れなかったのだろうか。若い女は安全区の中でも金陵女子文理学院のキャンパスにしか居なかったはずだ。

2月2日といえば、日本軍の南京占領も終局を迎えている。東京裁判でいう12月13日の南京陥落から「六週間の狂宴」も終わりの方だ。その頃のヴォートリンの発言として、「20万人を超える殺人」や「8千件の強姦事件」に触れず、「掠奪」と「放火」のみ触れているのはなぜか。

「集団虐殺」「大量強姦」について、ヴォートリン自身が仲間から聞かされたことに疑問に思っていたから触れなかった、と見るべきではないだろうか。

775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 00:02:52.00 ID:e/nCxVNk0.net
>>772
お前は馬鹿なんだからあんまり絡んでこない方がいいぞ
可哀想になる
句容が点だとでも思ってるのか?
中島日記を読んでみろ
草場部隊が12月5日に止まった祝家辺はどこなんだ?
その後草場部隊とは連絡が取れなくなった、とも書かれてある
むしろ迂回したせいで周辺農村に多大なる犠牲が発生したんだろうに

776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2024/05/07(火) 00:04:39.69 ID:kp+kCKpG0.net
>>768
ミニー・ヴォートリンによると12月5日に村を焼き払ったのは中国軍だそうですがw
日本軍は焼き払われて無人の村でどうやって徴発したんですかねw
また一つ笠原の捏造が明らかになりましたねw


ミニー・ヴォートリン
12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。

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