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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

156 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 21:04:45.75 ID:zfqn+QZUr
もう一柱いらっしゃいましたね。
父親はN国王と明記され、
おそらくカ系で、A大神がワ国重臣に出世したのと同期してブ国女王となった。
I姫。
卑弥呼は女性ですから、女系相続とすればこのお方ですね。
T姫が遥拝していたのも、琵琶湖も、竹〇島ですし。

157 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 21:05:25.78 ID:zfqn+QZUr
銅戈・広形銅矛戦争の顛末にて、ワ系がワ国皇后とブ国女王の実権を握った。

失脚したカ系A大神の長男は145を相続したが、大元のブ国東部の地方領地に押し込まれて、
ワ系ブ国女王の配下としてある意味監視下に置かれた。

カ系女王165の相続女子は、現代と感覚が逆ですが、はるか東方に転封された。

158 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 21:11:51.21 ID:zfqn+QZUr
明記はされていませんでしたね。
上2人はNが結婚しましたが、下1人はしていません。
中細形銅矛将軍から娘婿の中広形銅矛将軍に将軍職が譲られたと考えた場合には、
Nの娘になりうるという話でしたね。

そう考えると、T姫は中広形銅矛将軍の二人目のワ系奥さんと父親が同じということになりますね。
母親はワ系とカ系ですから違うことが明らかということになります。

159 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 23:18:34.00 ID:zfqn+QZUr
>>149
女系だとこうなりますね。

T姫→I姫(→?姫)
→A大神失脚に連動して大山津見領域の東端である琵琶湖へ
→?姫数人?
→カ系地域女王・卑彌呼の旧領=女王国(=府庁不彌國千家+奴國)
→倭共立女王・卑彌呼(邪馬台国首都=魏代伊都、平原遺跡)

160 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:06:51.06 ID:6EHNkogi6
出雲国風土記に登場する御穂須須美命(ミホススミ)についてです。

島根郡の条、美保郷
『所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命而
 令産神 御穂須々美命 是神坐矣 故云美保』
大国主命が、高志國にいらっしゃるヌナカワ姫(沖津クライの子の、辺津クライの子)を娶って産まれたのが、
ミホススミの神である。
ミホススミの神がいらっしゃるので美保と云う。

親が同じタケミナカタは出雲国風土記に登場しませんから、
ミホススミはタケミナカタと同神とも言われていますね。

祀られているのは、
肝心の島根では、美保神社の境外社(地主社)に1

日本海沿岸で東に進んで、
能登半島の東端で、石川県珠洲市1、富山県氷見市1
新潟県沿岸に13(出雲崎町2長岡市11)

そこから内陸に入って、
長野県5(中野上田千曲市各1佐久市2)
群馬県8(中之条東吾妻町各1、渋川市2、前橋市4)
先奥が、埼玉県さいたま市岩槻区1

161 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:08:57.98 ID:6EHNkogi6
ミホススミとタケミナカタは活動領域が明らかに被っているのにも関わらず、
二人が同時に登場したり二人が絡んだりする話が残っていないことから、
ミホススミとタケミナカタは、同一神と考えるのが妥当ですね。

別々であれば、出雲国風土記にヌナカワ姫の祖先まで書かれているのだから、
タケミナカタも登場するはずですし、
逆にタケミカヅチに敗戦して諏訪に逃げる途上でミホススミが登場したり、
諏訪での地元勢力とタケミナカタとの伝承にも必ず絡んだはずです。

タケヌナカワ命とタケミナカタ命のように名前がかぶっていれば、
それぞれ領地が別の兄弟と考えられますね。

ミホススミとタケミナカタは別系統の名前ですので、
ミホススミが若い頃の名で、出世してタケミナカタになったのだろう、
と推測されますね。

162 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:10:43.82 ID:6EHNkogi6
そう考えると、奴国王と土井ヶ浜遺跡女王の間で、20年代に出生。
母の山口県所領は兄が相続。

30年代中ごろに元服して、外部からの派遣領主として美保に赴任してきたわけですね。

>>131
当時の状況としては、
西の出雲市には、ワニ系部隊が常駐。
荒神谷遺跡に埋納してまだ数年ですから、万一場所を特定されて掘り返されて反乱されないよう、
見張っている必要がありますね。

東の松江市の、
北部:佐陀川流域に旧燕人
南西部:カモ系(神後田遺跡など)
南東部:土笛斉人(西川津遺跡とタテチョウ遺跡)

王を倒された燕人や、銅矛銅剣戦争で敗北したカモ系などは、
復讐心に燃えていた盛りでしょうから、
反乱一揆が頻発して騒然とした地域だったことでしょう。

海上輸送が主体の弥生時代において、現出雲は、
日本海沿岸において若狭湾に次ぐ要衝ですから、
奴国王からすれば、カモや燕系ではない領主を置いておきたかった。

そこで選ばれたわけですね。

163 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:11:38.89 ID:6EHNkogi6
美保に坐したということは、
現出雲の西部、つまり出雲市については、ワニや吉武高木王系の東征将軍の統治下のままで、
ミホススミの所領は、現出雲の東部のみ、つまり松江市とその周辺であった、
ということでしょうね。

現出雲の全域を支配するのなら、出雲市にいれば安全なはずですが、
わざわざ美保に坐した。

ということは、ミホススミの所領は、現出雲の東半分のみであり、
わずかなお供の者たちと一緒に乗り込んできた。
敵意丸出しの旧燕人やカモ族から寝首をかかれないようにするため、
美保の先端にいて、
準構造船の軍船と漕ぎ手を常備しておいて、
何かあればすぐに脱出できるような態勢は整えておいたわけですね。

美保の根もとにいるのはまずは斉人ですから、
旧燕人やカモから見ると、やや敵であり、
敵の敵は味方で、ミホススミから見ると緩衝材になってまだ安心だったわけですね。

164 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:14:23.15 ID:6EHNkogi6
ミホススミの分布を見ると、
紀元前から吉武高木王家が押さえている丹後半島や、カモ琵琶湖沿岸を飛び越えて、
能登半島に前線基地を築き、
能登半島東岸から新潟までの沿岸部を押さえています。

(富山市〜上越市にミホススミが無いのは、後に銅戈軍が諏訪攻略に来た時に追われたからでしょうね。)

そこから内陸に入って、諏訪の守屋氏など有力現地氏族と同盟あるいは婚姻を進めていった。
ということですね。



と、いうことは、
美保に着任したミホススミは、現出雲の統治に見事成功した、ということを意味しますね。

若い身でありながら、自らの出身部族とは異なる人々の元へ派遣され、
しかも複数部族がそれぞれ恨みつらみを抱えながら暮らしている。
それらをまとめあげて、さらに東方へ発展していく、という実績を残したわけですね。

165 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:15:29.73 ID:6EHNkogi6
元は日本海沿岸の有力部族で豊国カモをも凌駕していた、
古代越=山口県日本海沿岸を中心とする地域の八岐大蛇。

吉武高木大王が誕生して、その王族東征将軍に平定されてからは、
北部九州を頂点とする文化ヒエラルキーにおいて、
伊都倭人、豊国倭種、よりも辺境の部族にすぎませんね。

しかもその次男でしかないわけですから、相当の逆境の中で東方開拓していたわけですね。

この東方開拓にはおそらく伏線があり、
そもそもは銅矛銅剣戦争があったわけですね。

中広型銅矛は北部九州奴国から、東へ攻めます。
瀬戸内を中心とする銅剣女王国と戦い、祭祀型銅剣型石剣木剣領域も潜在的には敵ですね。

よって、挟撃を狙うために、その先の、
畿内毛人や、東国蝦夷、と、ある程度の誼を通じていた時期があったのでしょう。
南の裸国と同盟したのもその一つですね。

その時の交流を足がかりとして、乗り込んでいったわけですね。

166 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:16:58.10 ID:6EHNkogi6
ミホススミ時代に既に諏訪など東国調略していた。
タケミナカタ時代には本人が諏訪に移動している。
にも拘わらず、東国からは中広型銅矛が出土しませんね。
これは、九州西部の長崎県(壱岐対馬を除く)についても同様ですね。

一方で先に出た、裸国=古代土佐からは中広型銅矛が大量に出土しています。

と、いうことは、
祭祀型青銅器武器を旗印に使って地鎮祭を行うというのは、
豊国人の風習であった、ことになりますね。

一方で『意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命』とあることから、
沖津・辺津の風習が、越のヌナカワ姫にもある。

ここから原始神道について考えると、
砂丘墓地の女王祭祀で、沖津・辺津で祭る、というのが最も原始的・初源の祭祀形態で、
山鹿貝塚女王の頃から沖ノ島祭祀として日本海沿岸に広く存在していた。

そこに銅剣や銅矛を旗印として地鎮祭に使う、いわゆる鳥居の原型、
というものが後から豊国に持ち込まれた。
とも考えられます。

167 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:17:31.03 ID:6EHNkogi6
それを誰がいつ持ち込んだのか、ということを考えると、
108年に燕王族が青銅器工人を伴って亡命してきて、
カ系に受け入れてもらったわけで、

田〇山遺跡の開始時期、
祭祀型銅剣の開始時期、
銅剣を主兵装としていたこと、
などなどを考えると、
銅剣というものを祭器として特別視するという概念は、燕さんたちが持ち込んだ、
あるいは燕さんたちの銅剣重視姿勢をみたカ系が昇華させたのではなかろうか、とも考えられますね。

それが転じて、ワ系が対抗して祭祀型銅矛となった、のではなかろうかと。

168 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:18:13.04 ID:6EHNkogi6
タケミナカタの妃である、八坂刀売神は安曇の女性と伝承にあります。

タケミナカタと共に諏訪に移動した八坂刀売神が安曇の女性と伝わるのであれば、
タケミナカタが諏訪に移動する前に、既に安曇が存在していた、
ということですね。

祭祀型青銅器について考える場合、
男系もある程度は関係しますが、むしろ豊国の女系を示すものであり、
銅剣→銅戈がカモ
銅矛はワニ
となります。

となると、中広型銅矛の段階で、安曇が関係していたのだろう、
とも考えられますね。

169 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:18:56.91 ID:6EHNkogi6
秀吉が半島出兵するまでに、1582から1592まで10年ですね。

銅矛銅剣戦争が20年頃として、
抵抗勢力との小競り合いも鎮圧して、
だいたい30年頃から鉄資源へのルート(魏志韓伝)を目指して半島出兵が始まります。

対外戦ですから、
北部九州はもちろん、瀬戸内資源や、丹後半島の水軍など、
倭国関連のものは総動員されたはずですね。

170 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:23:58.27 ID:6EHNkogi6
そのように情勢が動いている中で、
ミホススミは、複数部族が混在してどうにもならない地域をあてがわれて、
なんとかまとめあげていた。

複雑な地域とわかっているから、大本営からもハナから戦力外とみなされていて、
出兵要請も来ない。

そんな中、斉人だけでなく燕人やカモ系もうまく説得して、
手付かずの東国に権益を作りに行ったわけですね。
特に、もう北部九州倭国では出世の目が無い、斉人や燕人には、新天地領土は魅力的な話だったのではないでしょうか。

大国主に許可を求めたら、西で忙しいから、
資源も何もない東の最果てなどどうでもいいから死なない程度に勝手にしろ、という感じだったのでしょう。


で、東で成果を上げていったわけですが、
大事なのは鉄資源ですから、
東国をどれだけ切り取ろうとも、タケミナカタには成れなかった筈です。

それがタケミナカタになって、しかも国譲りの際に、ワニ筆頭のコトシロヌシと並ぶ存在にまで出征した、ということは、

171 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:25:18.16 ID:6EHNkogi6
半島出兵が苦戦したのですね。

当初は家柄血統だけで将軍隊長を選んで出兵したのが、
実力勝負の海外出兵では通用せず敗戦を重ねた。

重要武将が討ち取られる事態が起きて、
「実力のある隊長」が必要となる場面が生じた、ことになります。

そこで、出自の全く異なる混成部隊をまとめあげ、
方向はちがうけれども東の異世界を着々と攻略している、
若き天才軍神に白羽の矢が立ったわけですね。

172 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:25:53.70 ID:6EHNkogi6
ワニ安曇族の八坂刀売神と結婚して、
ムナカタ、つまり古代出雲の兵を与えられ、対馬から出陣した。

軍神の投入によって戦局が一気に打開され、鉄資源入手ルートが確立して、
鉄資源⇔対馬海峡⇔北部九州⇔瀬戸内高地性集落群侏儒国⇔淡路島五斗長垣内鉄工房
という国家運営が可能になったわけですね。

その功によって水軍大将に抜擢され、下関に名前が残り、
56年には五斗長垣内遺跡まで楽浪郡史の里程測定(金印合格判定試験)の案内をして、
大夫として57年洛陽へ渡った。

173 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:27:34.52 ID:6EHNkogi6
ワニ女性と結婚して、古代出雲の兵を率い、立身出世するというのは、
父と同じサクセスストーリーですね。

また、自らの部族を率いるだけであれば、部族長としての権力は有りますが、
大王となった場合、他部族の反発が予想される。
ワニ系大王になるとカモが困りますし、逆もまたしかりですね。

その点で、若くして複数異民族を束ねた手腕が高く評価された。

ということで、金印を持たされていたわけですね。

ワニ女性と結婚して古代出雲の兵を率いるということは、
本来は吉武高木王族東征将軍のことであり、
奴族の父は、吉武高木大王にはなれないので、
東征将軍になった上で、金印で権威を補完しようとした。
そしてそれを世襲しようとしていたのでしょうかね。

174 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:28:09.42 ID:6EHNkogi6
ミホススミの東国調略が、ミホススミを祀る神社の分布域まで進んだところで、
西に召集されたわけですね。

そのまま西で出世して仕事していたのが、
70年に突然東へ落ちのびることになります。

ですから、何もない場所に突然逃げてきたのではなく、
若い頃からの誼がある場所に逃げてきて、
そのまま地域の主導権を握ったわけですね。

>>91
追って侵攻してきた銅戈軍を、兵力分散した上で、
銅戈軍本隊を埼玉県熊谷市まで深追いさせて撃破した。

ミホススミ時代に既にさいたま市まで調略していましたから、
友軍地域の中で軍略に嵌めた、ということで祭祀分布と考古学出土物の整合性が取れる。ビンゴですね。

175 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:28:31.84 ID:6EHNkogi6
軍神はそのまま諏訪で東国をS字甕領域にまとめて、
朝日遺跡まで進軍してきた銅戈軍と、
お互いに銅鐸配備して愛知で睨み合いをしますね。

軍神の古くからの配下に斉土笛人もいますので、東国の範囲で移動して、
静岡に痕跡が残った、ということですね。

176 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:38:03.55 ID:s+h1iLelX
邪馬壹國(邪馬壱国)と邪馬臺國(邪馬台国)ですが、
古代竹簡木簡への墨書において、画数の多い壹と臺は滲んでしまい、いくらでも転写間違いが起きえますね。

よって、
邪馬壹國しかなかったかもしれないし、
邪馬臺國しかなかったかもしれないし、
どちらも存在したかもしれないわけです。

一つの手がかりとしては、後世の注釈で、
後漢書の邪馬臺國については、『案今名邪摩惟音之訛也』とあり、
やまゆい→邪馬壱國、だった可能性が高いですね。

一方の魏志倭人伝の邪馬壹國については、隋書にて『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』とあり、
やびたい→邪馬台國、だった可能性が高いということになります。
あべこべですが。


ちなみに隋書の記載を論理的に解釈するなら、

魏志倭人伝の世界観では、北部九州倭国=邪馬台国において、
女王卑彌呼が都とする所が、伊都。

隋書倭国伝の世界観では、より広域の日本列島を支配する倭において、
倭王が都とする所は、古の北部九州邪馬台国(含大宰府)である。

177 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:38:51.99 ID:s+h1iLelX
後漢書
『倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統
 其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里
 去其西北界拘邪韓國 七千餘里』

倭について云々〜。
大倭王は邪馬壱国に居て、邪馬壱国は楽浪郡から一万二千里。
倭の西北境界の拘邪韓國は、楽浪郡から七千余里。

つまり、
後漢書の邪馬壱国は、
魏志倭人伝の邪馬台国とは別物というか、
邪馬台国の中の一部地域であった、ことになりますね。

178 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:39:34.66 ID:s+h1iLelX
過去スレで検討した通り、
日田の鉄鏡が曹操鉄鏡と同型であった
→魏志倭人伝の卑弥呼への賜品目録に鉄鏡が無い
→鉄鏡は邪馬台国卑弥呼勢力に渡されたものでは無い
→鉄鏡は曹操から狗奴国王に贈られた
→『漢時有朝見者』は狗奴国王
→狗奴国王が「魏王」曹操と同格の鉄鏡を入手するには「漢委奴國王金印」が必須
 かつ対馬海峡を領有している必要がある
→狗奴国王が対馬海峡を領有していた時期(免田式土器が伊都から出土)があり、「漢委奴國王金印」を保有していた時期があった
→「漢委奴國王金印」が長崎に秘匿されていた

という流れですね。

179 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:40:59.94 ID:s+h1iLelX
全て過去スレで検討した通り、

軍神が金印を保管していたが、奴国王失脚時に軍神は東へ、
金印は軍神の息子が西へ。

その嫡流子孫である難升米父が、
奴族同族の狗奴国王と同盟して、狗奴国勃興に協力。

対馬海峡を占領して、外交ルートを確保。
金印の力で、鉄鏡を入手。

鉄鏡にて王位が得られた狗奴国王にとって、金印が必要なくなり、難升米父と疎遠に。

難升米は狗奴国王と離反して、卑彌呼と手を結び、大率長官に就任。
「対馬海峡をそのまま領有」=『有如刺史』

※だから対馬海峡には卑狗・卑奴母離しかいないし、
 狗邪韓國と末盧國には官すらいない。

魏の命運をかけた、司馬懿の遼東攻略にて、
長雨にて兵糧不足に陥って敗退危機にあった司馬懿の魏軍に、
大率難升米が兵糧を補給して、勝利へと導いた。

その際に司馬懿と陣中にて親交を深めた難升米からの情報が、
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

180 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:43:11.04 ID:s+h1iLelX
70年頃の地名としては、時計回りに、

吾田=阿多 唐津
日向 糸島平野
高天原(日本) 早良平野
葦原那珂津国 福岡平野
磯城 阿志岐山城神籠石
大倭 旧三輪町〜高良 筑後
阿邪訶 佐賀

倭国乱が起こり、倭国内での混乱に乗じて、
東では、日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國、が勃興。
(魏代=次の男王によって滅亡)

倭国内では、漢末に、
大倭長官の大物主が、伊邪國=長崎の難升米父と同盟して、(小さい蛇=蛇鈕)
狗奴国が勃興して、
阿邪訶→阿多→対馬海峡を占領して、曹操鉄鏡入手。

181 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:43:45.11 ID:s+h1iLelX
大混乱の倭国側では、
若き卑彌呼が所領の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」をまとめて、
南の狗奴国の侵攻を防ぐ。

その運営手腕を買われて、
倭国=邪馬台国の全体の女王として共立されて、
卑彌呼が倭国王となるわけですね。
ここまで後漢書に記録されているので、後漢代の出来事になります。

「至」はその境界に至る、「到」はその中心地点に到着する、
という法則に従うと、
楽浪郡から「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」までは、
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
となりますね。

対馬海峡についても、
渡海部分3000に対して、島部分1400ですから、無視するわけには壱岐ません。

182 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:44:14.89 ID:s+h1iLelX
北部九州から大量の硯が出土して、
案、刀子、も出土していることから、
北部九州で文字が使われていたのはほぼ確実ですね。

よって、記紀の古代表記は倭人自身が使用していた表記であることになります。

そうなると、中国側の文献において、ほとんどの固有名詞は、
倭人自身が使用していた固有の表記であった可能性が高くなり、
逆に漢魏人が当てた表現というのは、

倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬台國 247年 来倭した魏の張政

くらいになり、

倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬台國 やまと 訓読み

ということになりますね。

183 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:45:49.52 ID:s+h1iLelX
卑彌呼所領の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」が、
中国側の記録に残っている、ということは、
後漢代の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」が、楽浪郡帯方郡と交流していた時期があった、
ということになり、

順番としては、
狗奴国王と難升米が仲違いした
→難升米が卑彌呼に寝返った
→卑彌呼が対馬海峡を使用できるようになった
→邪馬壱国の地方女王として楽浪郡帯方郡と交流した時期がある(難升米と対等同盟)
→卑彌呼が倭国王に共立された(難升米が配下に入った)

ということになります。
ここまでが後漢代ですね。

その後、魏代に入り、公孫氏が独立し、
司馬懿が遼東遠征して、難升米が司馬懿と交流するわけですから、
続きとしては、

倭国王卑彌呼が、佐賀平野を奪還した
→邪馬嘉と名付けた
→司馬懿に難升米が兵糧補給
→漢魏から倭末蘆に上陸して南に邪馬嘉、西南に伊邪國(伊邪分國・伊耶國)があるよ

184 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:47:44.62 ID:s+h1iLelX
またはっきりすることは、
卑彌呼は親魏倭王であって、親魏奴國王ではありませんから、
卑彌呼の男系は奴族ではなく、
まずまず倭王系列、つまりは天神族であった、ということは確実になります。

185 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:48:08.74 ID:s+h1iLelX
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ

伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

阿邪訶 あざか

邪馬嘉國 ざまか(さまか)

栄国=佐嘉 さか

佐賀 さが

つまり、
卑彌呼の旧所領が邪馬壱国 ざまい
卑彌呼が奪還した旧・阿邪訶につけた名前が邪馬嘉國 ざまか

ということは、卑彌呼は女系カモ系と推定されるので、
邪馬國はカモ系の国ということになりますね。
キ龍紋鏡からは、中間市などが候補になってきますね。

186 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:48:39.75 ID:s+h1iLelX
邪馬壱國 ざまい

佐馬壱 さまい

雀居 ささい

187 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:34:12.57 ID:O7SPllHJ4
>>91
>四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
>それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。

群馬県安中市の長谷津遺跡にて、竪穴住居跡から銅鏡片が見つかっていますが、
これも落ち武者狩りの収穫品の一部でしょうね。
初期の銅戈軍が携行していた身分証ですから、指標として高い価値がありますね。

連弧紋の小型?製鏡ですから、男系は奴国の可能性が高く、
古代出雲に無く、古代伯耆から出ているので、女系はカモ系の可能性が高い。

これが後には狗奴国領域に多く出てきます。

188 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:35:30.98 ID:O7SPllHJ4
魏王曹操側の動向からは、鉄鏡入手の候補年が216年

220年 後漢滅亡

公孫氏が遼東太守になるのが189年、帯方郡の設置が204年。
ですが、最初から後漢〜魏と反目していたわけではなく、基本的にはその配下であり、
228年に実権を握った公孫淵から独立路線が強くなり、
236年に魏への不服従を明確にして燕王を自称し始めますね。

ですから、対馬海峡を使用できたのは、
〜215年 倭国 卑彌呼ら
215〜225頃 狗奴国 難升米・狗奴国王
225頃〜 倭国 難升米・卑彌呼

ということになります。

後漢書にて卑彌呼は共立されていますから、卑彌呼共立は220年よりも前ということになって、
やはり前スレでも検討した通り、
後漢書に記録された卑彌呼、つまり前任地の「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王から、
倭国全体の共立女王になるまで、というのは、
215年までに卑彌呼が楽浪郡と外交していた記録が楽浪郡役所に残っていたのを、
景初年間に楽浪郡を奪還した魏が接収したものである、
ということになりますね。

189 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:37:45.12 ID:O7SPllHJ4
細かく詰めると、
倭国乱が、桓霊間146〜189年ですから、
それを収めるために卑彌呼が共立されたのであれば、
189年以前には既に「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王として実績を上げていたことになります。

倭人卑彌呼が魏志倭人伝にある通り長寿だったとすると、
247-90=157生まれと仮定して、
壹與が13歳で女王になっていますから、これが卑彌呼の前例を踏襲したとすれば、

卑彌呼が189年に32歳。
13歳なのは170年ですから、そこからだと19年。
20歳177年に地方女王になっても、189年までは12年あり、
「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」にて実績を積むのに十分な年数があった計算になります。

ということは、189年というのが一つの節目で、
倭国では倭国乱が一旦終了して卑彌呼が共立女王となった。
遼東から朝鮮半島も乱れていたが、公孫氏がやってきて楽浪郡まで押さえた。
ということで、東アジアの戦乱は一息ついたわけですね。

以上から、
170年代〜189年の倭国乱中は、
卑彌呼は「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王で、後漢楽浪郡と外交していて記録が残っていた。

189年頃に倭国王に共立されて、

189年〜215年は、
卑彌呼は倭国共立女王として、公孫氏楽浪郡帯方郡と外交して、同じくその記録が残っていた。

215年に狗奴国が勃興して、
大倭(筑後)→大阪(佐賀)→末蘆→対馬海峡を占領された。
ということになります。

190 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:38:28.47 ID:O7SPllHJ4
『其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里』
これは卑彌呼を指すことが明らかですね。

そもそもからして、後漢書に七千里や一万二千里が出てくる時点で、
里数が測定されたのは後漢代以前であり、
57年金印後漢使のための倭地出張ロードマップ(往路確認専用)であった可能性が非常に高い。

なぜならその後には、考古学的にも倭王は新伊都=糸島の三雲井原遺跡へ遷都していますから、
里程を測定するなら末蘆から伊都は百里になるはずです。
それが旧伊都の到達ポイント=吉武高木宮殿の五百里のままであるということは、
57年金印の時の測定値だからですね。

よって、魏使もまた里数は測定できておらず、
魏使が残したのは張政の旅行日誌からの日数だけであったことになります。

191 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:39:56.90 ID:O7SPllHJ4
『其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里』
にて、
倭国共立女王の卑彌呼は、
後漢代には「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」に留まっていたことになります。

と、いうことは、後漢書に記された、
『有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁
 事鬼神道 能以妖惑?
 於是共立為王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語
 居處宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 法俗嚴峻』
の部分は、
「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」領域における卑彌呼の状況記録であり、
宮室樓觀城柵があるのは不彌國だということになりますね。

卑彌呼が新伊都に移動したのは220年代後半以降。
難升米が対馬海峡と金印を手土産に帰順してきて、邪馬嘉国(佐賀)を奪還して、
新伊都の安全が確保されてからですね。

魏志倭人伝の記録は後漢書と同じ部分は転載の可能性が出てきますから、
新伊都にも宮室樓觀城柵を作り直したかもしれないし、
旧倭国王の旧居館(高祖宮や細石神社)を使用していたかもしれません。

192 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 07:37:35.90 ID:O7SPllHJ4
>>125
基本的には、
後漢と奴族が親密で、奴国王が里程測定を後押しした上で、57年金印
倭国は本来は親燕でやや反漢
という傾向ですので、

卑彌呼時代の前半についても、
倭国王卑彌呼の前半はやや反漢で、燕地で独立しつつあった公孫氏と連携した。
一方の狗奴国王は親漢で、後継者筆頭の魏王曹操に接触していった。
ということですね。

倭国王卑彌呼は一旦は対馬海峡を奪われて連携が断たれ、
225年頃から難升米と一緒に軍事行動を起こして、
肥前川上の当時の狗奴国首都を陥として、邪馬嘉国(佐賀)と対馬海峡を奪還。

220年代後半から対馬海峡経由の外交を再開しますが、
228年からの公孫淵は叔父からの簒奪ですし、ひどい二枚舌外交で信用なりませんでしたから、
疎遠にしているうちに、
238年に司馬懿の大軍がやってきた。

193 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 07:39:54.96 ID:O7SPllHJ4
遼東攻略と同時進行で、楽浪郡帯方郡は魏が太守を派遣して制圧していますから、
(『又潛軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服』)
大率難升米は司馬懿と接触開始していた。

兵糧不足に陥った魏軍から兵糧補給の打診があり、
ここで卑彌呼はゲームプレイヤーとしてどちらを勝たせるかの選択権を握っていたわけですね。
兵糧補給を断って、司馬懿を時間切れ敗退させ、ひいては魏滅亡させることもできた。

けれども、公孫淵の蝙蝠外交を見限って、魏と手を結ぶことに決定し、
見返りに金印を求めたわけですね。
国産の超巨大内行花文鏡に加えて、
狗奴国王の鉄鏡に対抗する舶載威信材を増やすために。

まだ三国の一つに過ぎない新興の魏からしてみても安い買い物であり、
お互いにWinWinの取引だったということでしょう。

194 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 22:01:19.65 ID:O7SPllHJ4
持衰については、後漢書にも記載されていますから、
倭人の長らくの風習ですね。

壱岐対馬の倭人は『乖船南北巿糴』ですから、
当たり前ですが、倭舟で対馬海峡を渡海していました。

後漢書においては、
『安帝永初元年(107)倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見』
ですので、これも当たり前ですが、
倭舟で数百人の倭人や生口が洛陽まで渡海しています。
(160人の生口を後漢の舟で運んでもらったらもはや嫌がらせですね)

魏志倭人伝においては、
『其行來渡海詣中國〜名之爲持衰』
とありますから、
持衰倭舟で中国まで渡海しています。

ただ、『「到」其北岸狗邪韓國』とありますから、
対馬海峡渡海は特別部分で、
狗邪韓國の船着き場から、末蘆國東端の船着き場(深江)までは、
渡海専用の特別仕様の準構造船に乗り換えて、
渡海したことになります。

195 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:19:46.22 ID:PFiVUuoK8
>>190
>57年金印後漢使のための倭地出張ロードマップ(往路確認専用)であった可能性が非常に高い。

時節柄引きこもることが多いですが、
渡海に適した「夏の朝」に家の外に出て、登り始めた太陽の方角を見れば、
真東からはずっと斜めにずれているのが一目瞭然ですね。

方位磁針の無い弥生時代に、後漢からの往路を示すのが目的のロードマップであれば、
(金印を届ける出張にて、楽浪郡史の記した通り倭にきちんと向かってるか確認するため)
早朝の出発時に方角確認するのには太陽が最適です。

196 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:20:36.23 ID:PFiVUuoK8
卜占の出土についてです。

前3世紀くらいから朝鮮半島南部(15遺跡)、そして日本に伝わっていますね。

弥生時代前期から、壱岐、古浦遺跡(島根県松江市)、阿方遺跡(愛媛県今治市)、唐古鍵遺跡
と広範囲に分布。

中期には、上記に加えて、
青谷上寺地遺跡(日本最多250点)、大阪湾沿岸、三浦半島房総半島
からも出土します。

後期に入ると、
上記のうち、壱岐、古浦遺跡では途絶。畿内も唐古鍵の後期前葉までで途絶。

佐賀市、岡山から出土し始めるのと、
長野と、静岡〜房総半島の沿岸に、卜占面焼灼面一致型の独特の傾向を持つものが分布します。

倭国乱〜邪馬台国時代には、青谷上寺地遺跡が途絶。
佐賀市、岡山(上東遺跡など)
静岡〜房総半島の沿岸、
石川県金沢市、佐渡島、群馬県
などからの出土になります。

あとは、古墳時代中期ごろから各地で出土してきますね。

197 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:21:16.45 ID:PFiVUuoK8
卜占は骨ですから、消えてしまうこともままあるでしょうし、
砂丘の古浦遺跡や、脳も残っていた青谷上寺地遺跡などでは保存状態が良かった、
とも考えられ、
卜占が出土しないからと言って、卜占が無かったとは言い切れません。

が、全国各地で、出る所からはそれなりの量が出ているわけですから、
広域における一部で集中出土するという卜占の出土分布を見ると、
一般倭人が日常生活のあれこれを占っていたとは思えないわけですね。

特定の場所で、卜占の専門家が集中的に請け負っていた、
と考えられます。

198 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:21:37.02 ID:PFiVUuoK8
邪馬台国論争に使うにしても、
単純に卜占出土地=倭人の地、とするならば、

邪馬台国時代に卜占が出土している地で考えるなら、
佐賀市(吉野ヶ里ではない)、岡山市、静岡〜房総半島の沿岸、そして朝鮮半島南部、
といった限られた場所しかなくなり、珍妙なことになります。

199 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:22:33.27 ID:PFiVUuoK8
文献を読んでみると、得られる情報としては、

後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

魏志倭人伝
『其俗 舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶
 先告所卜
 其辭如令龜法 視火?占兆』

舉事=挙兵する、出兵する、武装蜂起する

倭人の風俗としては、
出兵して軍が移動する際に、気になる点について、
出兵のたびに、骨を焼いて吉凶を占う。
先に占うポイントを告げておく。
卜占で使う呪文は、中国での令亀法のものに似ている。
火で焼いてできた裂け目を見て吉凶を占う。

200 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:23:45.83 ID:PFiVUuoK8
卜占の出土地が局所に集中している。
文献では、弥生水軍の軍事遠征についてのようである。

魏志倭人伝では、里程の狗邪韓國あるいは日程の投馬國の時点で倭地に入っており、
倭人の勢力範囲の広さにしては卜占の出土地が少なすぎる。

等から考えると、
卜占というのは、倭人がある程度以上の規模で出兵する際に、
出陣前に行っていたゲン担ぎの儀式だったのではなかろうか、
と考えられます。

記紀でも戦の前のあれこれを吉兆として鼓舞したり、
戦国武将もそうですね。
現代でも戦勝祈願、我々がトンカツを食べたり、といったように。

ですから、豊国人の出陣前儀式が、祭祀型武器の埋納。であったように、
倭人つまり壱岐〜伊都人の出陣直前の儀式が、卜占。であった、
と仮定してみます。

201 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:24:20.30 ID:PFiVUuoK8
出陣する倭軍があるとします。
その軍の母体となる勢力、国あるいは連合国家の勢力範囲、がありますね。

自軍勢力範囲の中で軍が移動集結して、
侵攻対象地域への、最終出発地点あるいはそのごく近傍で、
出撃前日に卜占をする、
ということになります。

202 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:25:24.24 ID:PFiVUuoK8
卜占が伝わったのが3世紀頃ですから、伝えたのは、
それこそ殷の流れを持つとも言われる箕子朝鮮の人々か、
あるいは燕の人たちか、が候補となります。

・卜占が朝鮮半島南部に多い
・殷末裔の卜占なら甲骨文字の記入があるはず
・古浦遺跡から最初期に卜占出土
から、燕人の可能性が高くなります。

>>112
燕人が渡来してきたと考えるなら、
前314年に斉によって燕が滅ぼされた時、
前222年に秦によって燕が滅ぼされた時、
が考えられ、
燕による朝鮮半島への影響力がまだ低かった、前314年が候補になりますね。

この時に鉄器も一緒に持ってきたと考えれば、日本側の鉄器出土も説明がついてきます。
扇谷遺跡など遠方の丹後に工房を作って、
本国倭国の森林資源を保全し、
遠隔地の森林で工場経営、
という国家経営戦略も、燕人の助言があった、と考えれば納得いきます。

倭には燕人が先にやって来ていたのだったから、
後からやってきた土笛斉人は倭国に足がかりを作らせてもらえなかった、ということになりますね。

203 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:26:07.23 ID:PFiVUuoK8
伊都説ならば、の仮定空想の話ですが、
イザ〇ギ・イザ〇ミについても、
壱岐対馬〜菜畑遺跡〜糸島の倭人男系と、
山鹿貝塚からの豊国女系とが、血縁同盟をして、

>>117
天浮橋、古代の長浜半島から、その先の能古島に渡り、
お互いの軍を集結させて、
最初は倭軍が反時計回り、豊軍が時計回りに博多湾を統一しようとしたところ、
それぞれ自らの国に近いので親類縁者が多く、なかなか攻めきれなかった。

そこで、卜占したところ、それぞれ逆回りで攻める、
つまりそれぞれの国から遠い地域をそれぞれが攻めれば、しがらみが薄いので
気兼ねなく統一できる、
という助言をもらって、
北部九州沿岸地域を統一して、
吉武高木大王が誕生したわけですね。

それが吉兆の前例となって、
倭軍出陣の際には、卜占を行うことが儀式として慣例化したのでしょうかね。

204 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:27:02.23 ID:PFiVUuoK8
卜占は、時代を経るにつれて、準備段階で骨を削って薄く加工していくようになります。

これはつまり、割れ目の出来方を、削り具合と、焼く部分で、ある程度意図的に操作できるようにしていった、ということですね。

王からの命令で、人を集めて軍船を集めて武器を集めて兵糧を集めて準備して、
さあ出陣だ、という武人にとって、
卜占は出陣前の景気づけでもあり、
基本的には吉兆を出すことが要求されたはずです。

ですから、卜占をする占師も、社会的に洗練されていって、
上手く削って焼いて、基本的には良い知らせを出す。
いつもいつも良い知らせばかりだとあれなので、
「今回は兵糧の管理に気を付けるように」
「勝つ、のですが、病人が出るとの相が出ておりますな」
など、
こちらの軍と、攻め込む先の情報を考慮しながら、
おみくじのように注意点を盛り込んでいったら、ありがたくなる、
という感じでしょうか。

205 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:27:32.57 ID:PFiVUuoK8
卜占についてこう考えると、
燕系と思われる卜占集団は、
斉に一時的に滅ぼされた際に、半島北部には箕子朝鮮があったので、
まず半島南部に流れてきて、卜占を始める。

北部九州沿岸統一=吉武高木大王の際に、吉武高木勢力に味方して、
卜占で吉兆を与えたことで、
吉武高木政権に登用されて、鉄器生産の国家運営を助言した。

206 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:29:27.10 ID:PFiVUuoK8
北部九州倭国の軍

<北>ツク〇ミ
壱〇対まに集結してから、出陣。
出陣前夜に一岐で卜占してから出撃。
中広型銅矛将軍転じて奴国王の時代に半島南部領土が安定し、
倭勢力範囲が北上したため、
以後は出陣前夜の卜占は半島南部で行われることとなる。

<東>スサ〇オ
田熊石畑遺跡将軍が東征。
当初は宍道湖中海が出撃直前地点。
後に青谷上寺地遺跡に占師が移動。(燕王末裔がやって来たためどいたのか)

弥生時代の青谷上寺地遺跡周辺は、潟湖であったので、
軍舟を係留する良港であった。

日本海沿岸を征服していった。

207 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:30:12.38 ID:PFiVUuoK8
古浦遺跡、青谷上寺地遺跡は金属器など北部九州と密に交流しており、
北部九州倭軍そのものの前線拠点であったことがわかりますね。

が、
畿〇や、完投については、まだ交流が非常に乏しく、
おそらく独立した開拓勢力。

前者は女系カ〇系主体で、縁組その他で付随して卜占者が入ったのでしょうか。
多鈕細紋鏡の鏡片が副葬されない状態で出土しており、
北部九州での勢力争いに敗れた者の可能性があり、
おそらくス〇ナヒ〇ナもそれで身分証明されたのでしょうか。

後者はおそらく敗北勢力が落ちのびたもの。

208 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:31:46.78 ID:PFiVUuoK8
70年に軍神が長野に落ちのびますね。

ワニ女王系女性と結婚するまでは、祭祀型銅矛も卜占も無関係の
地方領主として東国攻略していましたが、

結婚してからは倭国将軍として半島出征に参加しますので、
ゲン担ぎの卜占は息で習慣付いていたわけですね。

ただ、逃げ込んだ先の長野には卜占専門家がいなかったので、
軍神の配下の燕系人が担当者として卜占を新規開始した。
だから、長野と、静岡〜房総半島の沿岸には、卜占面焼灼面一致型の独特の傾向を持つものが分布するわけですね。

北部九州の主力となった銅戈軍は、朝日遺跡まで進軍して軍神軍と睨み合い、
前線の味方集落に近畿式銅鐸を配備して、
東海で卜占して出撃。

軍神は、長野から出撃して東国制圧して銅戈軍と睨み合い、
前線の味方集落に三遠式銅鐸を配備して、
静岡〜房総半島の沿岸で卜占して出撃。

軍神が亡くなると、東国は征服されて、遠征事案は無くなり、
畿〇〜房総半島の一帯の卜占は一度終了したわけですね。

倭国乱から邪馬台国の長い戦乱時代を経て、
台与の頃になって北部九州が統一され、軍神子孫も支配体制に組み込まれ、
静岡〜房総半島の沿岸で卜占が再開したのは、東北蝦夷への遠征が始まった、と考えられます。

209 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:32:27.90 ID:PFiVUuoK8
そう考えると、
倭国乱〜邪馬台国の間も、壱岐はほぼ無風ですから、
半島南部の運営は安定した居たわけで、卜占分布からもやはり投馬國だったかと。

佐賀、岡山、から出土しており、
倭国乱〜邪馬台国狗奴国の争いのものでしょうね。

青谷上寺地遺跡は四隅突出墳丘墓が無く滅ぼされているので、
銅戈系だったから銅戈・広型銅矛戦争時に滅ぼされたか、
70年頃から中国山地から出てきた、奴国王の兄達の子孫が、
倭国乱の混乱に乗じて燕系拠点を襲った、などが考えられますね。

210 :日本@名無史さん:2022/09/04(日) 11:34:03.22 .net
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg

211 :日本@名無史さん:2022/09/04(日) 19:01:04.47 .net
ト骨の事が魏志倭人伝にあります。
さてどこですか?

212 :日本@名無史さん:[ここ壊れてます] .net
有明海沿いですね。
現糸島市は伊都国ではありません。
墓地公園です。

213 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 14:19:23.25 .net
>>87
瀬戸内海の平型銅剣はそれより後の時代のものだから、銅剣勢力範囲が変わったと見るべきでは?

おそらく出雲のそれと同じ成分になりますよ
鋳直されてるはずです

214 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 14:26:48.30 .net
>>81
〉・銅鐸は同笵が多いのに対して、荒神谷銅剣は同笵が無い

銅剣は研磨が入るから判定は難しいが、47本に関しては同范と判断されているはずですよ

我が国の青銅器は何を持ってして国産なのかと言うと、国産の銅か否かの事ではないかと考えられます

錫と鉛は最後まで輸入のはずです

つまり、本当の意味での国産なのかどうかの話としては分析が考察不足ではないですか?

215 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:36:17.47 ID:2xfQGHIb1
>>199
『其辭如令龜法』
倭の卜占で使われる祝詞が、
中国の令亀法で使われている祝詞のようである。

大きな一文ですね。

と、いうことは、
漢魏使が体験した倭の卜占は、
<漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

もし<倭語>で行われていたとしても、
逆に倭語であるにも関わらず中国の令亀法の祝詞に近いと感じられたということは、
<内容>は中国の神事や故事そのものであったはず、
ということですね。

漢語で、倭の神々の内容、
あるいは
倭語で、倭の神々の内容、であれば、
『其辭如令龜法』にはなりませんから。

216 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:37:04.53 ID:2xfQGHIb1
タカミムスビ

吉武高木遺跡 宮殿


カミムスビ

原の辻遺跡 カラカミ遺跡 勒島遺跡

少名毘古那 常世國

唐古鍵遺跡

217 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:37:48.19 ID:2xfQGHIb1
記紀を解析していくと、
少名毘古那が、鵝ガチョウの皮を剥いで作った衣を着て、天之羅摩船で渡海して現れます。
久延毘古に問い合わせると、カミムスビの子であると答え、
そこでカミムスビにも問い合わせると、私の子である、と答えます。

少名毘古那は大国主と一緒に国造りをした後、
常世國へ去っていきます。

その後に、光海から御諸山上~がやってきますね。

218 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:38:55.16 ID:2xfQGHIb1
伊都説で解析してみます。

ガチョウの皮衣を着ているということは、
養蚕して絹が特産品だった北部九州倭国の外、四国あるいは本州から渡海してきた。

タカ〇ム〇ビは高木であり吉武高木遺跡の宮殿で政策決定する殿上人。

では、カ〇ム〇ビとは。

ガチョウの皮衣を着て東方から渡海してきた名も知れぬ人物が、
カ〇ム〇ビの子孫であると断定できるには、
一つは多鈕細文鏡(片)がありうると考えていました。
しかしそれでは、譲渡や盗掘、たまたま拾った、などが考えられますね。

次に文身。
東方へ移住した一世、つまりカ〇ム〇ビの実子であれば、
(カ〇ム〇ビが倭人であれば)倭人貴族ですから文身で判断できるわけで、
それであれば、一目見たらカ〇ム〇ビの子と判断がつきますね。
問い合わせるなら、いきなりカ〇ム〇ビでよく、クエ〇〇を介する必要はない。

219 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:41:14.60 ID:2xfQGHIb1
そう考えていくと、
>>202
前314年に半島南部に避難してきた、燕系の卜占占い師(貞人)の家系であった。

男系の倭人吉武高木王家とは親しいものの、倭大王の配下でしかなく、
女系の倭種カ〇系と婚姻してカ〇系祭祀型銅剣地域に飛び地的に迎えられていった。
その一つが唐〇カ〇遺跡。

壱岐対馬はもちろん、古浦遺跡(島根県松江市)、阿方遺跡(愛媛県今治市)であれば、
北部九州に近いことから、
その支配層(支配官)の人となりは北部九州でも把握できていたはずですね。

中広形銅矛将軍が銅剣女王国を降伏させ(荒神谷遺跡)、
奴国王となって淡路島まで進出して五斗長垣内遺跡を建設するに至り、
唐〇カ〇遺跡と友好関係を結ぶことになった。

唐〇カ〇遺跡出身で奴国王に重用されることになる、身体障害者の賢人。

粗末な身なりをした、辺境集落出身の賢人の身元を証明したのが、
『其辭如令龜法』。

卜占で用いる祝詞が、壱岐の貞人が用いる秘伝の祝詞とほぼ同じであったことから、
同じ燕系の貞人であることは疑いの余地がなく、
貴種として重用される足がかりになった、ということになりますね。

220 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:42:04.71 ID:2xfQGHIb1
ヒコ、がつくので、北部九州倭国で官職についたことになりますね。

また、この時点でヒコがいることから、
ヒコの成立は大国主時代までは遡れることになります。

細かく解析していくと、
まずはクエ〇〇が判定していますから、クエ〇〇も貞人であり、
ヒコだから倭国の官ですし、
倭国領域では卜占が壱岐からしか出土しませんので、
自動的に、一大国の原の辻遺跡もしくはカラカミ遺跡の官だったことになります。

となると、カ〇ム〇ビについては、
クエ〇〇をカラカミ遺跡として、カ〇ム〇ビを原の辻遺跡とするか、
クエ〇〇を原の辻遺跡として、カ〇ム〇ビを勒島遺跡などとするか、
となりますね。

221 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:44:15.38 ID:2xfQGHIb1
考察を進めると、
北部九州からの東進が何波かに分かれているように、
燕人の渡来(亡命)も複数の波があり、

>>202
前314年に第一波(甲波)が卜占の貞人を伴って、半島南部へ。
吉武高木大王樹立に助力。

・壱岐・古浦・阿方にも拠点を持つ。
・中央にも進出したが、ために却って政変に巻き込まれた集団が、倭種〇モ族に匿われて唐〇カ〇遺跡へ。

>>112
前108年に燕系の衛氏朝鮮が滅亡し、
旧燕王族末裔が青銅器職人や燕復興資産を伴って来倭。(乙波)

これも倭種〇モ族と親しくして、女王一族と婚姻しながら、
古浦遺跡&田〇山遺跡に拠点を築く。

一方の甲波も、衛氏朝鮮滅亡によって半島南部を追われ、
勒島遺跡から青谷上寺地遺跡へ亡命移住。

・勒島遺跡と青谷上寺地遺跡の卜占相似
・勒島遺跡から北部九州系漁具や土器
・青谷上寺地遺跡のDNA解析で、男系は渡来+倭縄文、女系は渡来系

甲波と乙波には約200年のタイムラグがあったので、
同じ燕系ではあっても、同一ではなかった。

222 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:53:16.11 ID:2xfQGHIb1
>・中央にも進出したが、ために却って政変に巻き込まれた集団が、倭種〇モ族に匿われて唐〇カ〇遺跡へ。

>>133
その例が、歴史書に呈示されているわけですね。
女系カ〇族は、他族であっても、貴種を匿う風習があった。

甲波の貞人は、唐〇カ〇遺跡に匿われ、その子孫が『其辭如令龜法』によって、
一時的に中央政界に返り咲くことが出来た。

須玖遺跡の末弟お坊ちゃんは、太田黒田遺跡に匿われ、
そのままなら紀伊國風土記に名が残ったかどうか、であったけれども、
兄弟が武装して押しかけたことで、
田熊石畑遺跡将軍の元へ送り返され、中広形銅矛将軍から奴国王となった。

223 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:56:53.59 ID:2xfQGHIb1
銅矛銅剣戦争にて、
乙波は銅剣女王国側で参戦しようとして、中広形銅矛将軍に制圧される。
 田〇山遺跡の北西部住居焼け落ち
 荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡

甲波は逆に、中広形銅矛将軍と同盟して、銅剣女王国を挟撃しようとしていた。
だから、銅剣銅矛戦争が終了してから、甲波の唐〇カ〇遺跡出身の賢人が取り立てられた。

甲波と中広形銅矛将軍転じて奴国王の連携があったからこそ、
国内情勢が落ち着いてからの、
半島出兵に繋がっていったわけですね。
>>134

224 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 22:12:56.02 ID:2xfQGHIb1
初代については、
豊国王の娘の子らで、
長男は東征中に戦死
次男は渡海して、母の国=豊国に戻ってからワニ系=銅矛の王になった
三男は渡海して、常世國=唐〇カ〇遺跡へ
四男は宗像→遠賀川遡上→阿志岐山城の神籠石→御笠側を攻め下って那珂比恵遺跡まで制圧

225 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 22:26:04.24 ID:2xfQGHIb1
甲波は半島南部を足場にしていて、魏代には彌彌と彌彌那利がいる。
東に離れてその一族がいるから、耳成山があるわけですね。

魏志倭人伝は倭人の習俗を伝えるので、
半島南部は倭の勢力範囲ではあっても、
住人がイコール倭人ではないので、生活描写はない。

卜占を倭人が使うのは、魏志倭人伝を正確に解読すると、
「出兵して軍が移動する際に、気になる点について、骨を焼いて吉凶を占う。」

卜占を占う燕系貞人がいるのが、考古学的には漁村ばかりですから、
「倭人は、出兵して弥生水軍が移動する際に、気になる点について、燕系貞人に骨を焼いて吉凶を占ってもらう。」
「燕系人は、出兵以外のあれこれについても集落内で占う。」
と考えれば、
倭国乱において、北部九州倭国で卜占が乱発されていないことも説明できます。

226 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 22:31:10.38 ID:2xfQGHIb1
乙波は奴国王時代は没落しますが、
若き軍神の所領になって、軍神と一緒に東方攻略しましたね。

>>208
よって、東方へ移住した人や、軍神が東国へ落ちのびた際に同行した人がいた。
甲波ほどは卜占の専門家ではないので、見よう見まねで微妙に違うやり方で行っていた。

元々燕(卜占)や斉(土笛)は沿岸地域の人ですから、
北部九州から銅戈軍が攻めてくる日本海側ではなく、
南の温暖な静岡〜伊豆に新天地を求めたわけですね。

227 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/09/07(水) 23:07:52.42 ID:LtqOnqo7J
(崇神)七年春二月丁丑朔辛卯 詔曰昔我皇祖大啓鴻基 其後聖業逾高
王風轉盛 不意 今當朕世數有災害恐朝無善政 取咎於神祇耶
蓋命神龜以極致之所由也於是 天皇乃幸于神淺茅原 而會八十萬神以【卜】問之

228 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:56:05.49 ID:6ZpfiSst0
故從其國上幸之時 乘龜甲爲釣乍 打羽擧來人 遇于速吸門 爾喚歸
問之「汝者誰也」答曰「僕者國~」又問「汝者知海道乎」答曰「能知」
又問「從而仕奉乎」答曰「仕奉」故爾指渡槁機 引入其御船 卽賜名號槁根津日子
此者倭國造等之祖

號槁根津日子(椎根津彦)は、
亀の甲羅に乗って釣りをしていた。

古事記では吉備の国を出たところで、
日本書紀では東征出発直後に筑紫國菟狹(伊都説だとウサ=宗像)より手前で、
神武一行と出会いますね。

229 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:56:45.82 ID:6ZpfiSst0
亀卜については、考古学的には古墳時代後期の6世紀以降しか出ていません。
しかし、

<記録で明らかに卜占が行われていたのに、出土が伴っていない>
・各地の神社で卜占が行われているけれども、必ずしも考古学的に残っていませんね
・壱岐対馬も延喜式に記録され、現代まで続いているのに、考古学的には伴っていません

人骨のほとんどが残らないのと一緒で、骨卜や亀卜も残りにくい。
よって、たくさん出土する遺跡で盛んに卜占が行われていたことは明らかだが、
出土しないからと言って、無かったとは言い切れない。

<亀卜を示唆する記録>
・『其辭如令龜法』という時点で、ベースは亀卜であるわけですね。

漢魏使が見たのが骨卜であっただけで、その祝詞は亀卜のそれであった。
 当時の倭人にとって、亀が神獣であって、生きた亀を卜占に使うのは憚られ、
浮き甲、つまりたまたま見つかる海亀の死骸しか使えなかった可能性。
 亀卜は大王直属の高位神官のみに許された特別な祭祀であり、
下々の者達は、骨卜しか許されず、漢魏使はそれを目撃した可能性。

・上のような記紀の記載も亀卜が存在したことを示しています。

いずれも古墳時代初期あるいは遥か前であることが明らかで、
その頃から亀卜が存在したことを示唆しています。

230 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:57:52.62 ID:6ZpfiSst0
前者を伊都説で考えるなら、
過去スレで検討した状況としては、
筑後にいた伊都国王が、卑彌呼死去に際して、
北の卑彌呼長期政権首脳陣と、
南の狗奴国と、
に挟まれて絶体絶命のピンチに陥り、
狗奴国王妃あるいは元王妃で現狗奴国王の母である、叔母に頼んで、
狗奴国との同盟を仲介してもらった。


昨日までの敵国と同盟するには理由付けが必要であり、
亀卜をその根拠とした。

古代中国の殷と同じく、神権政治のごとく亀卜を利用した、ということになりますね。
もちろんケズリを入れて、伊都国王の望む結果が出るようになっているわけですが。

となると、
元大倭長官の狗奴国王、
もしくはその妃の叔母、
のどちらかが、神権政治レベルの亀卜を行う技能があった、ということになります。

231 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:58:31.87 ID:6ZpfiSst0
さらにそうなると、過去スレで検討した通り、
邪馬嘉國つまり佐賀が、狗奴国王と邪馬台国との鍔ぜり合いの場で、
邪馬台国時代に卜占が出土。

考古学的に残っているのは骨卜だけだが、
狗奴国王の決定に関わる事案に関しては亀卜が行われていた可能性がある。

佐賀の卜占は、筑後肥後→佐賀→唐津→壱岐対馬→曹操から鉄鏡
の全盛期の狗奴国王あるいは妃が行っていたもの。

232 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:59:01.17 ID:6ZpfiSst0
後者については、
亀の甲羅に乗って釣りができようはずもなく、
亀卜に使うために集めた亀甲を積んだ舟に乗って、釣りをしていた、
ということになりますね。

ヒコとして倭国官に登用されたということは、
単なる亀甲集めの漁人ではなく、
それなりの血筋の国津神であるということ。

初代は亀卜を扱う集団と連携して、
東征していった、ということになりますね。

233 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:59:24.80 ID:6ZpfiSst0
松江の古浦遺跡
横に孝霊山

久留米に高良
筑後に旧三輪町

孝霊天皇
黒田 久留田 久留米

亀卜
亀甲
甲羅 こうら

234 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:01:48.26 ID:+cAOF/6mW
そもそもからして、
漢字の元となった、甲骨文字とは、
卜占の結果を、骨や亀甲に刻み込んで成文化して記録するためのものですね。

・卜占で占う内容は複数ありますから、それらを忘れないよう記録するため。
・卜占で出た結果を、王に文字で伝えるため。
・卜占で出た結果を、公式文書として残すため。

しかし、日本で出土する卜占史料には、甲骨文字が刻まれていない。

と、いうことは、
日本での卜占は、

・その場で占って、その場で結果を共有した
>>225
出陣直前の吉兆

・卜占の結果を、大王に報告した
>>51
絹布に帛書

などであった、と考えられます。

235 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:03:22.33 ID:+cAOF/6mW
我々日本人の母系である田〇山遺跡を貶めるかのような、
相変わらずの偏向軽薄記事が見受けられますが。

そもそも硯で墨を解いて、その目的は何か?

一つは、文字を書いていた。
木簡竹簡に墨書したり、
帛書に墨書したり、ですね。

もう一つ考えられるのは、
近くの古浦遺跡からも卜占が出土していますから、
卜占結果を強調してよく見えるようにするため、
の可能性も高いですね。

現代に伝わる亀卜の流儀には、
亀甲を焼約してできるひび割れを強調するために、
墨を垂らす、
という作法がありますね。

236 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 03:22:37.92 ID:+cAOF/6mW
卜占を行う一族の、男性を、
自らの舟に乗せて、
水先案内をさせ、
最終的には成果を上げたので、褒美を与えた。
(北部九州倭国でヒコになった)

>>191
後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

237 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/09/10(土) 21:33:40.75 ID:fU6mRurCk
  〜〜37:32〜

https://www.youtube.com/watch?v=JxF6ub7LvV8&list=PLs6xnxTmbWh0iZkyPUOYEFhqxsMPlpF2v&index=27

238 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 13:40:15.29 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

239 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:17:54.48 .net
>>238
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
今どき水行陸行の意味すらわかってないとかw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

240 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:18:07.00 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

241 :日本@名無史さん:2022/09/18(日) 15:11:19.84 ID:wo4UJOzPX
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」

台湾へ水行

242 :sage:2022/09/19(月) 07:17:21.92 .net
>>240
伊都国から方向も里数もないんですけど?

243 :日本@名無史さん:[ここ壊れてます] .net
>>242
方位と日数が書いてあるが

244 :日本@名無史さん:2022/09/22(木) 06:15:53.60 ID:RIqFAUeFg
>>239
>水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
>これを押さえておかないと正解には辿り着かない

>>241
>台湾へ水行

里程●●日程▲▲という表現は、「里程ならば●●掛かり、日程ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえると正解である平原遺跡に辿り着く。

245 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:36:16.08 ID:N9t/XXqbM
日本列島で最古相の卜占出土

新撰亀相記 壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部
       壱岐卜部の祖が天比登都柱命(あまのひとつはしらのみこと)
       対馬卜部の祖が押見命(おしみのみこと)
       伊豆卜部の祖が雷大臣命 東国卜部の祖とも

延喜式 壱岐対馬伊豆から卜占の神祇官を選出 905-927-967

現代対馬 地方国として唯一の亀卜が行われている


卜占というのは、祝詞も秘伝、卜占技術も秘伝、でどちらも高等難解ですから、
一度途絶えると再開は極めて困難ですし、
平安時代の京都政権に壱岐対馬の卜部が採用されたという点だけでも、
壱岐対馬、特に対馬の卜占というのは、
日本最古から連綿と行われてきたことが明らかですね。

246 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:37:31.69 ID:N9t/XXqbM
>壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部

魏志倭人伝の里程にて、
對海國が方可四百餘里。
一大國が方可三百里。

島の大きさと合致していない、という指摘がありますが、
これも過去スレで検討した通り、
島の大きさではなく、國の大きさであった、ということですね。

対馬島には、後の上県・下県の元となった、
對海國と、おそらく魏略の對馬國、の2国があったことになります。

またそれぞれ到ではなく至ですから、
渡一海千餘里で至るのは、それぞれ對海國や一大國の国境までであって、
方可四百餘里=800里余と、方可三百里=600里の、
合計1400里も、対馬海峡渡海部分そして女王国までの12000里には、
合算する必要がありますね。

247 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:38:02.54 ID:N9t/XXqbM
>>215
>『其辭如令龜法』
>倭の卜占で使われる祝詞が、
>中国の令亀法で使われている祝詞のようである。
>大きな一文ですね。

>と、いうことは、
>漢魏使が体験した倭の卜占は、
><漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

なれば、魏使は倭人の卜占を実際に体験しているわけで、
その観点から、
魏使が体験した卜占とは、魏使が到達した伊都までの卜占。
つまりは壱岐対馬の卜占であったであろう。

倭人の卜占の祝詞は、当時はまだ卜占を伝えたおそらく燕人の祝詞を使っており、
漢語だった。

と、いうことは、
文字で伝えるか、
もしくは漢語を話す人が周囲にいる環境か、
でなければ漢語の祝詞を伝えることは困難であり、

「硯の分布域」
もしくは
「楽浪土器の分布域」
における卜占であったことが、『其辭如令龜法』からわかってきますね。

そうなると、
壱岐対馬〜北部九州〜田〇山遺跡のエリアがそれに該当し、
倭人倭種が居住するという魏志倭人伝の記載とも対応します。

248 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:53:38.78 ID:N9t/XXqbM
倭人の卜占が、<漢語>で行われていたからといって、
卜占を行っていたのが中国からの渡来人(おそらく燕人)の貞人であった、
とは言えませんね。

その強力な実例が、
後に伝来した仏教の『お経』です。

仏教の最初期には渡来人の僧侶が伝えたのかもしれませんし、
鑑真和尚や隠元和尚のような感謝すべき中国僧もいたことでしょう。

しかし、日本の仏教を支え、その宗教世界・哲学世界・知識世界を発展させたのは、
紛れもない多数の日本人僧侶ですね。

にもかかわらず、
遅くとも6世紀の仏教伝来から、現代の我々に至るまで、
1500年間の長きに渡って、我々日本人は、
『お経』を漢文体で敬っていますね。

つまり、
天皇家すら崇拝した仏教の経典『お経』においてすら、
日本人僧侶が漢文体での『お経』を使用し続けることに何の違和感もなく、
それどころか逆に有難いものとして敬い続けてきているわけですね。

よって、
『其辭如令龜法』だからといって、
卜占を行っていた貞人が、中国からの渡来人(おそらく燕人)によって独占されていた、
ということにはならない、ということになります。

249 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:54:24.05 ID:N9t/XXqbM
仏教の『お経』は、漢文体であり、
経典のみならず、中国伝来の最先端知識も習得することが、
長らく日本人知識層の教養であった。

のと同じく、
卜占の祝詞は、伝来当初から漢文体であり、
祝詞のみならず、中国(亡命燕人)伝来の最先端知識も習得することが、
長らく倭人知識層の教養であった。

250 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:55:12.12 ID:N9t/XXqbM
それが故に、逆にわかることもあります。

・仏教の『お経』は1500年間に渡って、漢文体で使用され続けている。
・前3世紀に伝来した卜占の祝詞も、少なくとも後3世紀まで600年間は漢語で行われていた。
・にもかかわらず、現在の卜占の祝詞は、日本語の祝詞になっている。

・現在の卜占の祝詞は、基本的には記紀、特に古事記の天孫降臨に焦点を当てた大祓祝詞である。
・記紀編纂の主たる勢力は中臣氏であり、延喜式の神祇官も中臣氏の息がかかっている。

以上の条件から見えてくることは、
仏教ですら漢文体のお経を長らく使用しているのに、
卜占の祝詞を倭文(日本語)に変更した、あるいは少なくともそれを許容した、
ということは、
中臣氏は卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)の末裔では無い。
ということがわかりますね。

251 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:56:03.12 ID:N9t/XXqbM
中臣氏は
卜占の祝詞を、中臣氏が天皇家に奉公した天孫降臨をメインテーマとしたものに変更し、
卜占を国家祭祀に取り入れさせた。

中臣氏の首脳陣は伊豆・壱岐対馬であり、それはすなわち雷大臣の子孫である。
その他の神社の卜占も、国家命令によって、それまでの祝詞から、中臣氏指定の祝詞に変更させた。

卜占はケズリによって調整できるので、
国家の重要案件は、中臣氏によっていかようにもコントロールできる。

非常に合理的な、国家支配体制の確立の一部が見えてきますね。

252 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:56:52.73 ID:N9t/XXqbM
時期としては、白村江の戦の敗戦直後ですから、
太平洋戦争末期の鬼畜米英と同じで、
敵性言語を使用するとは何たることか、
というのが、
卜占の祝詞を日本語に変更する大義名分だったと思われます。

そうなると、
白村江の戦の敗戦後の国家再建が、唐占領軍による指導の下に行われたという説は
明確に否定され、
むしろ半島利権を喪失したけれども、
日本列島一丸となって、唐には屈しない、という覚悟の表れが、
卜占の祝詞が、
魏志倭人伝の『其辭如令龜法』から、
日本語の祝詞へ変更されたことに凝縮されている、ということになりますね。

253 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:52:11.08 ID:N9t/XXqbM
では、卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)から、
燕人以外へ卜占が伝えられた事案とは何か?

>>131
山鹿貝塚女王から始まる、豊国(古代出雲+古代伯耆)の沖ノ島祭祀が、
カモの東方入植に伴って東方拡散してきますね。
その一つが田〇山遺跡。

一方で、燕系亡命人が、各地のカモに受け入れられ、
特に古浦遺跡には、衛氏朝鮮滅亡に伴って亡命してきた、旧燕国王族末裔がやってきて、
カモ女王系の女性巫女と婚姻を続けます。
卜占が出土していますね。

>>235
田〇山遺跡に硯が出土しており、
旧燕国王族末裔の夫→田〇山遺跡の豊国カモ女王系の妻
に、卜占が伝えられた。

254 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:54:11.26 ID:N9t/XXqbM
>>134
奴国王がT姫にAタカヒコを産ませたことで、
T姫を豊国女王に推薦した。

この時点では、
豊国元首女王はT姫。
豊国首相事代主はAタカヒコ。

古浦の燕貞人と切り離されたT姫が、
Aタカヒコに、卜占を伝えたわけですね。


しかし軍事力を背景に実権を握るのはワニのス〇リビメ。

255 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:55:15.62 ID:N9t/XXqbM
ス〇リビメは子を成さぬまま逝去し、
N国王支配下での勢力弱体を回避したいワニの強い圧力にて、
豊国女王はワニ系のT2姫に。

T姫は失脚して、柏崎遺跡の〇津国玉神の元へ。

既にN国王の子を身ごもっており、〇ワカヒコを出産。
それが>Aタカヒコそっくりと、>国津神の子では?の伏線。

豊国元首女王がT2姫になり、
豊国首相事代主もT2姫とN国王の息子になる。

さらに半島出兵で勝利するために、辺境豪族の次男坊だが軍略に長けた、
軍神が招聘され、ワニ女王系女性と婚姻して、
女系ワニの一員となる。

256 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:56:34.87 ID:N9t/XXqbM
よって、カモとワニの古代豊国有力氏族争いにおいて、

前夜において、
豊国女王はワニT2姫。
豊国首相はワニT2姫の息子。
金印保持はワニ女王系女性と婚姻した軍神。

>>144
事が成った後は、
豊国女王はカモI姫。(T姫とN国王の娘)
倭国王妃はカモK姫。(T姫とN国王の娘)
倭国首相はカモAタカヒコ。(T姫とN国王の息子)

だった可能性が高くなりますね。

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