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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

255 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:55:15.62 ID:N9t/XXqbM
ス〇リビメは子を成さぬまま逝去し、
N国王支配下での勢力弱体を回避したいワニの強い圧力にて、
豊国女王はワニ系のT2姫に。

T姫は失脚して、柏崎遺跡の〇津国玉神の元へ。

既にN国王の子を身ごもっており、〇ワカヒコを出産。
それが>Aタカヒコそっくりと、>国津神の子では?の伏線。

豊国元首女王がT2姫になり、
豊国首相事代主もT2姫とN国王の息子になる。

さらに半島出兵で勝利するために、辺境豪族の次男坊だが軍略に長けた、
軍神が招聘され、ワニ女王系女性と婚姻して、
女系ワニの一員となる。

256 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:56:34.87 ID:N9t/XXqbM
よって、カモとワニの古代豊国有力氏族争いにおいて、

前夜において、
豊国女王はワニT2姫。
豊国首相はワニT2姫の息子。
金印保持はワニ女王系女性と婚姻した軍神。

>>144
事が成った後は、
豊国女王はカモI姫。(T姫とN国王の娘)
倭国王妃はカモK姫。(T姫とN国王の娘)
倭国首相はカモAタカヒコ。(T姫とN国王の息子)

だった可能性が高くなりますね。

257 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:57:30.60 ID:N9t/XXqbM
つまり、N国王失脚時に詰め寄ったのは、
Aタカヒコであり、人物をぼかすために、
武器や船の名前になっている。

家族で考えると、父を子が、という構図ですが、
部族で考えると、ワニとカモの生存競争、ですね。

>>142
>その直後に、父親が死去した、あるいは不服な兄の一部に〇された

おそらく後者であり、
2代続けて、そのようなことがあった。

Aタカヒコは、新伊都2代目の兄と手を組んだ結果、失脚してしまいますから、
2世紀からしばらく、親〇氏として、
ワニ勢力から攻撃され続けていたのでしょう。

それを払拭するために、ぼかしてスッキリしたかったのでしょうね。

258 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 22:00:00.77 ID:N9t/XXqbM
古浦旧燕国王族末裔の夫
→田〇山遺跡の豊国カモ女王系の妻
→息子のAタカヒコ=大物主?
→狗奴国王とその妃
→雷大〇


259 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 22:03:41.44 ID:N9t/XXqbM
>>256
男女の双子でない限り、

倭国王妃はカモK姫。(T姫と柏崎遺跡の〇津国玉神の娘)

でした。

260 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:45:04.83 ID:NazgEnPA8
いわゆる「幕府」であった、と考えれば辻褄が合いますね。

伊都説で解析すると、
旧伊都に吉武高木大王がいて、宗像に田熊石畑王族東征将軍がいた。

奴国は渡来人の密集地帯であり、
その貴族男性の一人が出世して、東征将軍まで登り詰めた。
吉武高木大王にはなれないので、「幕府」の形で実権を握った。

後漢から金印を貰って、権威強化したが、
那珂川の治水に失敗して、大洪水土石流で失脚した。

糸島平野の新伊都に三雲井原大王が出現したが、
これも「幕府」であった。

そう考えると、「倭国」ならびに「倭国王」というのは幕府になりますから、
伊都国王が本来の元首であり、
倭国王は伊都国王に任命された幕府将軍であった、
ということになります。

261 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:45:46.27 ID:NazgEnPA8
>>82
のように考えると、
元々日本(ひのもと)があって、日本大王がいた。

奴国王は将軍で、幕府。
日向の三雲井原大王や平原女王も将軍で、幕府。

日向前者三代の子孫が日本国王になったので、この三代は記録には残されたが、日本国王の代数にはカウントされない。
後者の子孫はそうではないので、日本国の正史には載せてもいいし載せなくてもいい。

262 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:46:07.62 ID:NazgEnPA8
漢書・王莽傳上
元始五年(後5)秋

『莽既致太平 北化匈奴 東致海外 南懷?支 唯西方未有加
 乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌 使獻地 願?屬
 憲等奏言「羌豪良願等種 人口可萬二千人 願為?臣 獻鮮水海 允谷鹽池 平地美草皆予漢民 自居險阻處為藩蔽
 問良願降意 對曰『太皇太后聖明 安漢公至仁 天下太平 五穀成孰 或禾長丈餘 或一粟三米 或不種自生 或?不蠶自成
 甘露從天下 醴泉自地出 鳳皇來儀 神爵降集
 從四?以來 羌人無所疾苦 故思樂?屬』 宜以時處業 置屬國領護」
 事下莽 莽復奏曰「太后秉統數年 恩澤洋溢 和氣四塞 ?域殊俗 靡不慕義
 越裳氏重譯獻白雉
 ?支自三萬里貢生犀
 東夷王度大海奉國珍
 匈奴單于順制作 去二名
 今西域良願等復舉地為臣妾 昔唐堯被四表 亦亡以加之
 今謹案已有東海 南海 北海郡 未有西海郡 請受良願等所獻地為西海郡
 臣又聞聖王序天文 定地理 因山川民俗以制州界
 漢家地廣二帝三王 凡十三州 州名及界多不應經 堯典十有二州界 後定為九州
 漢家廓地遼遠 州牧行部 遠者三萬餘里 不可為九 謹以經義正十二州名分界 以應正始」
 奏可
 又摶@五十條 犯者徙之西海 徙者以千萬數 民始怨矣』

263 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:46:45.58 ID:NazgEnPA8
論衡
『周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉 服鬯草 不能除凶』
『武王伐紂 庸 蜀之夷佐戰牧野 成王之時 越常獻雉 倭人貢暢』

越裳と倭人は度々セットになって記録されており、
漢書と論衡は同時代の書物であることから、
漢書についても論衡の記載を前提にしていると考えられていますね。
つまり漢書の東夷王は倭人である。

論衡の倭人は縄文時代の話で、暢草を献上していた。

漢書の東夷王も倭人を意味していると思われるが、
論衡を前提にして、越裳が白雉を献上しているのにも関わらず、
東夷王が奉ったのは國珍と書かれているので、暢草ではない。

つまり
漢書の東夷王は、論衡の倭人と同系統のように思われるのだが、
論衡の倭人とは別の場所に居て、暢草が特産品ではなくなっていたのだろう、
ということですね。

264 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:47:27.63 ID:NazgEnPA8
『越裳氏重譯獻白雉
 ?支自三萬里貢生犀
 東夷王度大海奉國珍
 匈奴單于順制作,去二名』

このメンツで、後5年に「大海」を渡ってくる東夷王、となれば、
倭王しかありませんね。

そして考古学にも、三雲南小路1号大王+2号妃の、
圧倒的な副葬品
 東夷世界あるいは当時の中国を含めてもダントツの銅鏡数
 ガラス璧
 金銅四葉座金具
によって、
漢書の東夷王が、倭王であったことが証明されます。


ちなみに?支自「三萬里」貢生犀とありますので、
四夷は一万二千里で統一されていた=一万二千里は里程の合算ではない、
という主張は完全に否定されます。

魏志倭人伝の一万二千里は、奴国に至る。
女王國=邪馬一(ざまい)國=卑彌呼の前任地=奴国+不彌國+α、に至るですね。

265 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:48:08.45 ID:NazgEnPA8
洛陽から漢鏡を大量入手する機会は以下のようになります。

5年 東夷王
57年 奴国王
107年 倭国王師升
後漢末 狗奴国王
239年以降 卑彌呼壹與が複数回

基本的に各銅鏡は、王が外交して入手した権威の証ですから、
奴族が入手した銅鏡を倭王が重宝することはありませんね。
しかし、倭王が入手した銅鏡を臣下である奴族に下賜して墓に入ることはありえることになります。

洛陽焼溝漢墓による漢鏡の年代分布も検討すると、
三雲南小路王墓の銅鏡はほぼ全て5年の時のものとなり、
5年 連弧紋鏡(清白銘、日光銘、昭明銘、星雲紋)
となります。

266 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:49:36.03 ID:NazgEnPA8
5年に旧伊都の大王が入手した銅鏡群が、旧伊都では出土せずに、
新伊都の大王の墓に入っている。
と、いうことは、
5年東夷王の死去時には、
東夷王を盛大に葬ることが出来ない、状況であった、ことになります。

>>118
>>134
伊都説で解析すると、5年であれば吉武高木大王の時代ですね。
奴国王はまだ子供。
平形銅剣女王が高地性集落群を開発中。

10年代中旬〜後半に奴国王が平形銅剣女王と結婚後離別して銅矛銅剣戦争が発生。
20年代に銅矛銅剣戦争が終結。

その後奴国王の時代も挟んで、
70年に新伊都へ遷都。
という流れですね。

5年東夷王が田熊石畑将軍であった場合、
奴国王が義父から実権を受け継いだ際に、義父の親族がバックなのだから、
宗像で銅鏡群も盛大に副葬されていた筈。
そう考えると、5年東夷王は吉武高木大王自身であった。

一方で、中広形銅矛は伊都から出土せず、伊都を飛び越えて壱岐対馬から出陣している。
ということは、幕府を開くにあたって、
奴国が伊都を武力制圧したのではなく、
クーデター的な政変によって、吉武高木大王が失脚する事態が生じた、可能性が高くなりますね。

267 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:51:24.51 ID:NazgEnPA8
中広形銅矛将軍が伊都王家を倒した場合、
そのまま自らが大王になればいいわけですし、
伊都に命令できる立場になって、
伊都からも中広形銅矛が出土する(=伊都を占領あるいは伊都からも出陣)はずですね。

それが無いということは、
中広形銅矛将軍が王になってからも、伊都が独立性を保っていたことになります。

このような条件を満たす経過としては、
5年東夷王=吉武高木大王が銅鏡群を入手する

10年代に田熊石畑将軍がクーデターを起こして5年東夷王が失脚する。
<伊都王家内の勢力争い>

田熊石畑将軍には娘しかおらず、5年東夷王には5人の息子達。

10年代後半に田熊石畑将軍が死去。
田熊石畑将軍には娘しかいないので、
娘婿の奴族中広型銅矛将軍が実権を握って奴国王に。
<伊都とは戦わずして、田熊石畑将軍後継の奴国王が実権を引き継いだ>

70年に奴国王が失脚したので、
5年東夷王の銅鏡群と共に、孫が新伊都へ移動して新幕府・倭国王となった。

268 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:51:46.24 ID:NazgEnPA8
57年奴国王については、既に洛陽に存在していた筈の、
方格規矩鏡がまだ倭地にもたらされていませんね。

想定されるのは、
銅鏡を重宝するのは倭人、であり、
奴族は銅鏡を重視していなかった、のではと考えられます。

ですから、奴族が希望する威信材は、金印や鉄鏡であり、
57年奴国王の主目的は金印であり、キ龍紋鏡は贈り物の一部。
後漢末狗奴国王の主目的は鉄鏡であり、画紋帯神獣鏡の鏡職人が贈り物の一部。
であったのだろうと推測されます。

269 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:52:38.18 ID:NazgEnPA8
107年師升から、大量の方格規矩鏡と、連弧紋のいわゆる内行花紋鏡とがもたらされます。

と、いうことは、
連弧紋鏡〜内行花文鏡というのが、日本(ひのもと)の後5年東夷王の権威鏡。
方格規矩鏡が、日向の幕府倭国王の権威鏡。
と推測されますね。

270 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:53:05.27 ID:NazgEnPA8
三雲南小路1号大王に清白銘連弧紋鏡。
2号妃に日光銘と昭明銘ですから、
伊都国王男系の最高権威の銅鏡は、清白銘連弧紋鏡ということになります。

これが出土する墓というのは、
伊都国王男系の墓である可能性が高くなりますね。

70年に土井ヶ浜遺跡英雄などの貝輪製作一族、つまり軍神の親族が追われますから、
貝輪をつけているならまずまず1世紀以内。
銅釧をつけているなら間違いなく70年以降、だとわかります。


非常に興味深いのは、
香川県高松市の双方中円墳の、猫塚から、三角縁神獣鏡と共に、
清白銘連弧紋鏡や蝙蝠紐座内行花文鏡などが出土しており、
双方中円墳は狗奴国系だと想定しつつありましたが、
実は伊都国王系だった可能性も高くなってきますね。

271 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:54:04.90 ID:NazgEnPA8
須玖岡本遺跡D地点の王墓からも、清白銘連弧紋鏡が6枚ほど出土していますから、
最期に古代出雲(旧狩尾神社)で捕縛されて失脚した奴国王の墓ではなく、
伊都国王族の墓であったことになります。

さらに、
・107年師升と想定される井原鑓溝遺跡と同じ、希少な草葉紋鏡の連弧紋鏡が出土している。

・洛陽焼溝漢墓だと2世紀後半になる、?鳳鏡(キホウ)が出土している。
(墓に2世紀後半なので、107年に入手できた可能性あり)

・井原鑓溝遺跡が大量入手している方格規矩鏡が無い。

ということから、
須玖岡本遺跡D地点は、三雲井原倭国王の王族であるが、
日向の幕府将軍系ではない。
つまり、
吉武高木系の伊都国王であった、可能性が高くなります。

272 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:55:05.36 ID:NazgEnPA8
須玖岡本遺跡D地点と、籠神社、は、共に昭明銘連弧紋鏡を保有しています。

丹後国風土記に、大穴持命が高志国に坐していた時に天火明神に丹後の国を治めるよう詔したとあります。
ので、
大穴持命は東征将軍でしたから、職務として各地の武官任命権があり、
天火明が若い頃に、丹後国で若狭湾水軍大将を勤めていた時期があった。
その名残りが昭明銘連弧紋鏡なのではないか、ということですね。

伊都早良平野の王ですが、投降した奴国福岡平野を占領支配するため、
そこにいたということですね。

273 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:58:31.68 ID:NazgEnPA8
5年 東夷王 連弧紋鏡(清白銘、日光銘、昭明銘、星雲紋)
57年 奴国王 金印 キ龍紋鏡
107年 倭国王師升 方格規矩鏡 四葉方格規矩鏡 キ鳳鏡 草葉紋鏡
後漢末 狗奴国王 金銀錯嵌珠竜文鉄鏡 画紋帯神獣鏡(の鏡職人)
239年以降 卑彌呼壹與が複数回 方格規矩鏡など

274 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 12:11:51.83 ID:NazgEnPA8
〇火〇神については、
5年東夷王の孫であり、
若い頃に中広形銅矛将軍に命じられて丹後若狭湾水軍大将を勤めていた。

吉武高木遺跡(=魏志倭人伝の到伊都地点)から、
70年に、弟は西の糸島平野へ。柏崎遺跡のカモ系姫と婚姻。
夫婦とも兄より先に亡くなり、三雲南小路1号2号へ埋葬された。(短命長命神話)

70年に、兄は伊都国王に。
奴国も領地に追加され、早良平野(天)と福岡平野(地)の洪水被害からの復興に尽力する。
福岡平野には?馬觚(シマコ)を配置し、旧領主奴族の妹との間の息子ウマ〇〇ジを任命する。

大倭を介した東方交易など、福岡の発展に長らく尽力して、
甥の107年師升から銅鏡を贈られて、
107年以降に死去。(70年に30代だとして107年に70前後)

275 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 18:59:23.73 ID:NazgEnPA8
清白銘連弧紋鏡

立岩遺跡10号甕棺墓(福岡県飯塚市)
 清白銘3、中細形銅矛、絹、朱、鉄剣、砥石?2

稗田地蔵堂遺跡箱式石棺(山口県下関市)
 清白銘1、鍍金蓋弓帽(漢王族クラス)

東小田峯遺跡10号甕棺墓(朝倉郡筑前町)
 清白銘1、日光銘1、ガラス璧、鉄戈、鉄剣

二塚山遺跡15号甕棺墓(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)
 清白銘1

猫塚

276 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 19:19:03.64 ID:NazgEnPA8
こう考えてみると、
やはり倭人というのは、山海経に記されたように親燕であり、
であるから、反秦であり、微妙に反漢。
反漢の王莽が有力になると、誼を通じようと出向いた。朝貢ではない。
師升も朝貢ではなく、出向いただけ。新銘の方格規矩鏡を入手。

倭地の覇者であるから、倭王には自然と神性の権威が備わっており、
求めるのは銅鏡。
倭王の権威の元に、銅鏡を入手して、外交権威の証としただけ。

日本(ひのもと)の証が、連弧紋鏡〜内行花文鏡
日向の証が、方格規矩鏡

その希少性が故に、
倭国王の鏡は、盗掘悪用されないように、破鏡とした。


奴族は漢と同調して楽浪郡開設時に勢力伸長した。
親漢。グローバリズム。
倭地においては渡来系の一部族に過ぎず、
後漢の権威を求めて、里程測定を許可し、金印や鉄鏡を求めた。


倭人と奴族
ワニとカモ
全ての二面性を併せ持つ
卑彌呼とは、不思議でありだからこそ魅力的であるのですね。

277 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 17:49:59.66 ID:lYOAX7JeK
同じ三雲井原王墓群で、井原鑓溝で方格規矩鏡を重宝していて、
平原女王墓でも方格規矩鏡を大量副葬していますから、
57年に伊都勢力が遣使したのであれば、方格規矩鏡も入手していた筈ですね。

三雲南小路1号2号において、
方格規矩鏡無しで、前漢鏡(連弧紋鏡)のみを大量入手している、
ということは、
方格規矩鏡が出現する前の、
5年東夷王が伊都勢力であった、としなければ説明がつきませんね。

278 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 18:02:49.94 ID:lYOAX7JeK
さらに三雲南小路1号2号において、
方格規矩鏡無しで、前漢鏡(連弧紋鏡)のみを大量入手している、
ということは、
57年奴国王は伊都勢力とは別である、
金印が主目的で、方格規矩鏡など銅鏡にはあまり興味が無かった、
の2点も強く示唆されますね。

そうなると自動的に、
107年倭国王が方格規矩鏡を入手しないと井原鑓溝の説明がつかなくなります。

平原遺跡に八葉の超巨大内行花文鏡が作られるためには、
国産での開発期間が必要ですから、
107年の段階で、四葉内行花文鏡がもたらされる必要がある。

また蝙蝠ではなく八葉ですから、
蝙蝠内行花文鏡は、後漢末狗奴国王か、239年以降の卑彌呼壹與か、
が入手したことになりますね。
九州内での蝙蝠出土分布はほぼ邪馬台国側ですから、
まずまず卑彌呼の銅鏡百枚の一部だったかと。

279 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 18:21:43.77 ID:lYOAX7JeK
>>278
こちらの推論は、伊都説が前提の場合ですね。
伊都説を外して考えると、

5年東夷王が三雲南小路1号2号勢力であることは確定。

57年金印王が伊都勢力と仮定すると、その時に方格規矩鏡を入手することになり、
井原鑓溝が金印王になりますね。

須玖岡本遺跡D地点は方格規矩鏡が無いので、
どちらにせよ三雲南小路1号2号の一族で、その下であることになります。

107年倭国王が浮きますが、四葉内行花文鏡はこの時に入手しないと、
八葉超大型内行花文鏡ができない。

どちらにせよ蝙蝠内行花文鏡がもたらされていますから、
蝙蝠が来るのは卑彌呼壹與時代であろう、ということにはなります。

平原遺跡に蝙蝠が入ってないのは、
八葉超大型内行花文鏡を権威鏡として作ったのに、<大型化>
中国では<蝙蝠>方向へ進化していたので、
平原女王からしたら面白くなかったからでしょうね。

280 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 20:38:42.33 ID:lYOAX7JeK
大事な条件を忘れていましたね。

後漢書 東夷列傳
『桓霊間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主』
魏志倭人伝
『其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國乱 相攻伐?年』

桓霊間が146-189年。
其國=倭国ですから、倭国の男王時代の上限が、
146-80=66年。
つまり57年金印王は、倭国王とは別王統、なのでしたね。

よって、
>>278
となりますね

281 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 22:52:27.25 .net
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)


・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)


・文部科学省検定済教科書

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

282 :日本@名無史さん:2022/10/14(金) 21:59:19.37 .net
纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、その建物群をあえて「大型建物群」と呼んでいる
本来であれば「建物群」ないしは「大型建物一棟を含む建物群」と呼称すべきであろう。
一般人が「大型建物群」という言葉を聞けば、複数の大型建物の集合体であると勘違いするのは至極当然のことである。

これに対して纏向説論者は

>大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
>建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
(邪馬台国畿内説Part540>>880

という実に見苦しい言い訳をしているが、
纏向遺跡を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を意図的に使用していることは明白である

纏向遺跡にはその調査のために多額の税金が投入されており、
その遺跡の実態を虚飾する行為は日本国の納税者、日本国民に対する重大な背信行為である
纏向説論者は詐欺師集団、反社会勢力も同然と言えよう
日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニと言い換えても良い

纏向遺跡関連の予算は大幅に削減し、発掘調査は早急に中止すべきであろう

283 :日本@名無史さん:2022/10/15(土) 00:21:39.21 .net
スクラ■ン■■ブルまだか

284 :日本@名無史さん:2022/10/15(土) 15:07:22.72 .net
スクールランプル?

285 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:39:33.77 ID:r3vux1zYK
>>228
其年冬十月丁巳朔辛酉
天皇親帥諸皇子舟師東征
至速吸之門 時有一漁人乘艇而至
天皇招之 因問曰「汝誰也」
對曰「臣是國~ 名曰珍? 釣魚於曲浦 聞天~子來 故?奉迎」
又問之曰「汝能爲我導耶」
對曰「導之矣」
天皇 勅授漁人椎?末 令執而牽納於皇舟 以爲海導者 乃特賜名 爲椎根津?(椎此云辭?)此?倭直部始?也

行至筑紫國菟狹(菟狹者地名也 此云宇佐)
時有菟狹國造? 號曰菟狹津?・菟狹津媛 乃於菟狹川上 造一柱騰宮而奉饗焉
(一柱騰宮、此云阿斯?苔徒鞅餓離能宮)
是時 勅以菟狹津媛 賜妻之於侍臣天種子命
天種子命 是中臣氏之遠?也

この下りを読むと、中臣氏自ら、
「是時=出発前」に菟狹津媛を娶ったのだから、元は日向〜宗像(筑紫の宇佐なので古代宇佐=宗像)に居た。
おそらく椎根津?は中臣氏の一族もしくは配下で、亀卜に用いる亀甲を採っていた。
と告白しているようにも見えますね。

286 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:40:14.64 ID:r3vux1zYK
>>180
そう考えると、
三雲南小路1号大王が全体の倭国王ではあるが、
直轄地としては新伊都(=糸島平野)+唐津+対馬海峡

三雲南小路1号大王の兄が、旧伊都の伊都国王=〇本国王であり、
直轄地としては旧伊都(=早良平野)+旧奴国(福岡平野+筑後)
ということになりますね。

287 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:40:42.79 ID:r3vux1zYK
昔我天~ 高皇産靈尊・大日?尊 舉此豐葦原瑞穗國而授我天??火瓊々杵尊

抑又聞於鹽土老翁 曰『東有美地 山四周 其中亦有乘天磐船而飛降者』
余謂 彼地必當足以恢弘大業・光宅天下 蓋六合之中心乎
厥飛降者 謂是饒速日歟 何不就而都之乎

卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
因登腋上?間丘而廻望國?曰「?哉乎 國之獲矣 ?哉 此云鞅奈珥夜 雖内木錦之眞?國 猶如蜻蛉之臀?焉」
由是 始有秋津洲之號也
昔 伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國 細戈千足國 磯輪上秀眞國 秀眞國、此云袍圖莽句爾」
復 大己貴大~目之曰「玉牆内國」
及至饒速日命乘天磐船而翔行太?也 睨是ク而降之 故因目之曰「?空見日本國矣」

288 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:41:38.82 ID:r3vux1zYK
であれば、豐〇原瑞〇國とは、
伊都説であればすなわち
大王の全領土と考えるなら、北部九州倭国のこと。
大王の直轄地と考えるなら、新伊都(〜唐津〜対馬海峡)のみを指す。

289 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:42:53.36 ID:r3vux1zYK
東にある山に囲まれた土地とは、すなわち筑後。
旧三輪町があって、硯が出土していて、
1世紀から2世紀にかけて各種工房鋳型が大量に出現し、
そして南方の熊本トンカラリンからの木材など、
急成長を遂げていた地域。

博多湾経由ならびに、日田街道を抜けての大分経由、にて、
瀬戸内畿内交易圏とも繋がり、
成長著しかったこの地域を、
新伊都の倭国大王が差し押さえにかかった、ということでしょうね。

290 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:44:18.67 ID:r3vux1zYK
>>274
ウマ〇〇ジは、ヒコやミミがついた名を持ちませんから、
北部九州倭国の内にも外にも領地を持たなかったことになりますね。

瀬戸内畿内経済圏の覇権争いの結果なわけですから、
奴族の長〇ヒコ(庄内式)から、
伊都国王族のウマ〇〇ジに、大倭長官職が移された。

交易には、鉄器つまり武器や、生口つまり労働力であり兵力にもなる、
が含まれ、
しかも海上交易ですから、そのまま海運力=水軍力でもある。
よって、領地領民はもたないけれども、潤沢な兵力は持っている。

だから、長〇ヒコは戦うことができたし、
ウマ〇〇ジも越や美濃を平定したりできたわけですね。

三雲南小路1号大王の兄は福岡県内にいて、その部下の長〇ヒコがあちこち出張していた。
その息子くらいから、東方へ足しげく訪れるようになりえます。

291 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:45:51.44 ID:r3vux1zYK
>>180
イザ〇ギが、細戈千足國と言っているのですから、
紀元前に精巧な武器が満ち足りている国、となれば、
考古学的には、吉武遺跡群が筆頭候補になってきますね。

つまり、
初代が東征した新領土=南小路1号大王の兄の領土とは、
旧伊都(=早良平野)+旧奴国(福岡平野+筑後)ですから、

初代東征による新規獲得領土の各地について、
お三方がそれぞれ、
旧伊都の吉武遺跡など早良平野、
狭義の奴国の福岡平野、
広義の奴国(倭國之極南界也)の南方部分である筑後、
について残したコメントであり、

東征にてそれらを総括したものを譲り受けて、
伊都国王として、日向領土+伊都国王領土を史上初めて統一統合した、ということになります。

292 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:47:11.39 ID:r3vux1zYK
秋津洲は、山に囲まれた部分ですから、
〇〇ということになり、
第6代の秋津嶋宮もそこにあって考古学的に整合性が取れる、ということになります。
大倭の役所が三輪にあって繁栄していたので、
大倭=瀬戸内畿内経済圏の争奪戦が繰り広げられたわけですね。

293 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 19:58:29.22 ID:RWcyaZi50
腋上は〇後を見渡せる場所で、
阿志岐山城神籠石(筑紫野市)=古代磯城と被らないためには、
もう少し進んで、筑紫神社の辺りになりますね。

筑紫神社、竈門神社、宇美八幡宮、といった、内陸に、
なぜか玉〇姫がおわすのは、
ご本人は移転したけれども一緒に祀らていた母君は母系の氏神すなわちその地の人々の母系祖であったがゆえに
残さざるを得なかったのでしょうかね。

294 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 19:59:23.19 ID:RWcyaZi50
香椎、博多(那珂比恵遺跡)、春日(須玖遺跡群)、阿志岐山城神籠石(隈・西小田地区遺跡群)

久留米久留田・高良大社(祇園山古墳)

旧三輪町(薬師ノ上遺跡・大己貴神社・平塚川添遺跡)、朝倉市三奈木・美奈宜

295 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:55:45.44 ID:RWcyaZi50
>>274
70年の時点では、
旧伊都(早良平野)も奴国(福岡平野)も洪水土石流疫病で悲惨な状況で、
それらを併せて受け持った、
三雲南小路1号大王の兄=須玖岡本D地点被葬者は、
長兄として悲壮な覚悟を持ってそれらを担当した。

その名残りが、伊都に爾支。
 伊都(天)の副知事に泄謨觚と柄渠觚。
 奴国(地)には?馬觚。

泄謨觚(せつも・こ) 下水処理:排泄物を計画的に処理する
柄渠觚(へいきょ・こ) 上水整備:水渠を統括する

河川を整備し、排泄物を処理する、つまり都市機能を整備することで、
洪水の再発防止ならびに、疫病の予防を講じたのですね。

296 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:56:23.51 ID:RWcyaZi50
また奴国弥生銀座には?馬觚(しま・こ)を配置し、
経済復興を推し進めた。

「しま」は、「島」のほかに、「縄張り」の意味もありますから、
各種工房群の密集する奴国は、
貴重な収入源の集合体でもあったわけですね。

特に、洪水被害を免れた、「広義の奴国」の南部、
つまり、魏志倭人伝に「〇奴国」と分割記載された筑後領域については、
70年当時すぐに稼働できる経済特区として、
三雲南小路1号大王の兄=須玖岡本D地点被葬者が、重点的に開発をすすめていった、
ということでしょうね。

297 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:57:56.31 ID:RWcyaZi50
一方の、三雲南小路1号大王は、洪水被害から脱出して、
西の日向に新伊都を建設した。

対馬海峡を保有していますから、
銅原料、鉄原料、を始めとして莫大な安定利益が約束されています。

三雲南小路1号大王の兄が存命の間は、
三雲南小路1号大王を中心に伊都王家がまとまって、他族に付け入られる隙を作らない、
という目的意識が共有されていましたが、
107年〜125年の間に三雲南小路1号大王の兄が亡くなって、須玖岡本D地点に埋葬された後に、
〇向と〇本のバランスが崩れたわけですね。

なぜ125年かというと、延光四年、つまり室見川の銅版ですね。

渡来系の有力部族複数が、それぞれの秘伝の書体で、
室見川にいた王、つまりは三雲南小路1号大王の兄の息子の一人、
を褒め称えた。

まあ当たり前といえば当たり前で、
元々栄えていた早良平野福岡平野が復興して、
さらに筑後も新興経済地域として大発展。

東方では銅戈軍が朝日遺跡まで進軍して、その先のこれも前世代の東国軍神が死去して、
東日本も降伏。

なんでいつまでも対馬海峡に従っていなくちゃならないんだ、
となったわけですね。

298 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:03:42.30 ID:RWcyaZi50
魏志高句麗伝

「本有五族 有涓奴部 絶奴部 順奴部 灌奴部 桂婁部
 本涓奴部爲王 稍微弱 今桂婁部代之」

高句麗には有力五族があり、元々は涓奴部が王になっていたが、弱体化して、
魏代の今は、桂婁部が高句麗王の座をとってかわっている。

何らかの政争に敗れた涓奴部は単に衰えたのかそれともどこかへ行ったのか?

299 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:04:24.15 ID:RWcyaZi50
能登国一宮の気多大社。

元は万行遺跡の七尾市にあったそうですが、
崇神天皇の御代に現在の羽咋市に遷座したそうです。

祭神は大己貴命。

孝元天皇の御代に、大己貴命が出雲からやって来た。
あるいは、
孝元天皇の御代に従者を率いて渡来した異国の王子。
と伝えられています。

300 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:05:52.97 ID:RWcyaZi50
>>135
解析するならば、

20年頃、奴国有力者の御曹司兄弟が、平形銅剣女王に求婚競争をしましたね。
末弟が見初められて、結婚した。
それに不服な兄達が、末弟を付け狙う。

武力=金属製武器が、伊都勢力>>奴国>平形銅剣女王なので、
伊都国王系東征将軍の、田熊石畑遺跡将軍に末弟が預けられた。
末弟は将軍娘と懇ろになって、軍事力を得た。

>>132
末弟は逆襲に転じて、兄達を追い落とし、
兄達の一部は現出雲から内陸に逃げ込んだ。

末弟は奴国王となり、その息子の軍神が美保関にいたので、
兄達一族は内陸で蟄居しているしかなかった。
男系女系奴族なのと、中央政界と切り離されていた=在地勢力に気を使う必要が無かった、ので、
オリジナルの四隅突出型墳丘墓を継承していた。

301 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:07:16.62 ID:RWcyaZi50
>>152
70年に奴国王が失脚し、軍神は諏訪へ逃走した。

奴族の主流はAタカヒコとなり、ある意味、敵(ワニ系奴族)の敵は味方。

世代が代わったし、
そもそもの親族で、もはや利害関係も特に無くなったため、
仲直りして次第に日本海沿岸に出てくる。

丹後の伊都国王系丹後若狭湾水軍大将に取り入って、
なんとか縁戚を結び、配下として組織に組み込まれていく。

302 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:08:07.86 ID:RWcyaZi50
倭国乱が起きる。(第7代の時か)

日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國
を設立。

拘奴國は、西の有力女性指導者=卑彌呼「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」と同盟しており、
互いに協力して勢力拡大していく。

西谷墳墓群から次第に勢力範囲を広げ、
第8代の時に、一族の水軍を束ねる有力な若手水軍大将が、
能登半島を攻略して落とした。
当初は彼が祀られていた。
つまり奴国王の兄の子孫。

西の卑彌呼も倭国共立女王に抜擢される。

303 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:09:25.11 ID:RWcyaZi50
九州南部の狗奴国に協力していた、
長崎伊邪国の難升米が、対馬海峡領有権を手土産に、
倭国共立女王卑彌呼に寝返る。

難升米は大率長官となり、中国の刺史の如く、普段は伊都細石神社に勤めながら、
末盧〜対馬海峡〜狗邪韓國を領有する。

難升米は、越後〜東日本を支配する軍神一族の本来の嫡流であり、
難升米が卑彌呼邪馬台国に所属したことによって、
東日本も卑彌呼邪馬台国へ帰順する。

元は奴国同族である、四隅突出型墳丘墓国家=拘奴國も、
軍神一族と手打ち。

304 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:12:01.58 ID:RWcyaZi50
正始八年(247)卑彌呼死去。
邪馬台国軍大将の難升米は、筑後肥後境界での対狗奴国戦で、
衆目の中、ド派手に討ち死に。

次の男王。第10代。
北の伊都卑彌呼残党勢力と、南の狗奴国に挟まれて絶体絶命。

叔母の狗奴国王妃に仲介を依頼して、狗奴国と起死回生の同盟をすることで、
卑彌呼勢力を撃破。
さらに軍を進めて、親卑彌呼の四隅突出型墳丘墓国家・拘奴國を滅ぼす。

伊邪国難升米一族ならびに、東日本軍神一族は、
難升米の喪に服していたため、男王からはむしろ香典を頂くしんみりした関係。
邪馬台国勢力下の地方豪族として、そのまま男王配下に収まった。

男王の指導の下、万行遺跡に東日本からの年貢を納めることとなり、
祭神は、奴国王にしておきましょう。

305 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:32:26.75 ID:RWcyaZi50
>>297
池上曽根遺跡ですね。

同時代に驚くほど巨大な大型建物は、
炭素年代が100年ほど新しくなったので、従来通りの1世紀後半になるはず。

すぐ傍の、曽祢神社の祭神が、饒速日命と伊香我色雄命なわけですね。
後者は、魏志倭人伝の伊聲耆掖邪拘に比定する方もいますね。

7世紀の改革時には、池上曽根遺跡の繁栄は跡形もなく、
ただの小集落に寂れた曽祢神社があるだけだったので、
奇跡的に曽祢神社が残ったのでしょう。

306 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:02.98 ID:RWcyaZi50
少なくとも紀元前からあって、
三雲南小路1号大王の兄の時代には大型建物があって、
3世紀銀印の伊聲耆掖邪拘の名も残っているということは、
サンドイッチ理論で、
少なくとも「銅戈時代」には、三雲南小路1号大王の兄の勢力の、
大阪湾における主要拠点であったはず。

鉄工房もあったことから、
ますます三雲南小路1号大王の兄の勢力の拠点であり、
舟木遺跡から鉄器を融通してもらっていた。

環濠で防御はしていたが、
鉄器を保有していたから、
現地毛人の襲来があって銅鐸を鳴らして引きこもる必要はなく、
むしろ盛んに出撃したり、
場合によっては、周囲の倭種カモ系銅鐸環濠集落からの救援要請に応えて、
救出出陣もしていたでしょう。

307 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:35.79 ID:RWcyaZi50
それだけ重要な拠点であったのに、銅戈が出土していないんですよね。

と、いうことは、
祭祀型銅戈軍は、三雲南小路1号大王の兄の勢力ではなかった。

なればその候補は、
銅鐸Jアラート+環濠集落で先に畿内に入りこんでいた、カ〇勢力。
を女系として、
70年政変で北部九州の有力勢力にのしあがった、
Aタカヒコの勢力であったのではないか。

308 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:34:52.80 ID:RWcyaZi50
戈とは捕獲用兵器であり、
銅戈を奉じて勢力拡大して、107年に160人の生□を贈るまでになったということは、
つまりは新天地の原住民を戈で捕獲して、
船行一年かけて本国へ輸送していた。

なぜ一年かというと、船足の遅い輸送船での輸送。
途中の生□シマでの滞在。

巡り巡って、数百年後に、まさかのその新天地に新都を構えることになり、
生□の歴史をどうにかする必要が生じたのが課題の一つだった。

生□シマの名が残ったのも、当時はそんな島の名前をいちいち記載するほど
正確な地図は無く、
ごくごく地元の人々がそう呼んでいただけだったので、
これも奇跡的に中央の監視の目から漏れて、名前が残ってしまったのでしょう。

309 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:42:04.01 ID:RWcyaZi50
稲作の無い時代の土器の流れは、開拓者の流れ。
遠賀式土器ですね。
数十年で当時の稲の育つ北限まで達し、稲作にて繁殖していきました。

稲作が普及して稲作集落の発展した時代の土器の流れは、
租庸調。

供献土器が〇〇式だから、〇〇地方の祭祀が取り入れられた、
などもありえませんね。

数百年数千年経って、土器だけが残っているだけのことであり、
供献された当時は、
土器ではなく、土器に盛られた品々がメインだったわけですから。

冠婚葬祭でのお供えや、
神社での祭祀で、収穫米や、お酒、塩、などをお供えするのに、
中国製の器を使おうが、ドイツ製の器を使おうが、
中国人やドイツ人に支配されたわけではありません。
単なる器ですね。

310 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:47:25.08 ID:RWcyaZi50
武器にも威信材にもならない土器は生口に作らせた。
ついでに供献土器も生口に作らせた。
供献の主品はお供え品であり、土器は単なる器に過ぎない。

ですね。


庄〇式は海上輸送用。要するに北部九州倭国への貢物輸送用。
舟に積んで輸送するため、
薄手で軽量化。
尖り底を木枠に嵌めて固定。
次第に規格化されていくのは、大倭の輸送船が運送を一手に引き受けていたから。
それを作る土器製作者が他の土器も作ったから同じ系統の陸上土器もできただけ。

ですね。

311 :日本@名無史さん:2022/11/02(水) 20:27:13.71 ID:uEo+wQckf
なるほど。天才的ですね。

神々はA島にいた。A大王家もずっとA島にいた。
B勢力が資源に乏しい東の土地を先行侵略して、資源の代わりに先住者を奴隷にして儲けた時代があった。

数百年後、
A大王家が対外戦争で敗北し、弱体化して東遷する事態となった。

A大王家を迎えて東に本拠を構えるにあたり、
東の地における怨みによって、糾弾されて失脚する事態を予防するために、
B勢力が主体となって奴隷をこき使っていた歴史を消去しておく必要があった。

一つに、そのような事実を文字記録から抹消する。

しかし人々の言い伝えまでは消去できないので、
仕掛けたもう一つのカラクリが、

A1系統が先に東遷していて、
A2系統が次に東征してきて、その時にB勢力もやって来たことにした。

一見すると、先駆者の座を譲っているように見えるが、
主犯をA1系統になすりつけた。

312 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:23:20.72 ID:hyPx5R89C
>>221
青谷上寺地遺跡が一つのポイントになりますね。
・勒島遺跡との関係
・襲撃されている
・近畿型(樋分離型)銅戈片

卜占の流派で検討すると、
前314年に亡命燕第一波
神a派:勒島遺跡→前108年に青谷上寺地遺跡
神b派:勒島遺跡→旧伊都吉武遺跡での中央政争に敗れて唐〇カ〇遺跡へ

甲羅派:前108年過ぎに古浦遺跡

313 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:25:13.95 ID:hyPx5R89C
神a派と神b派は、
20年過ぎの奴国王の国内整備時代に共に協力的ですから、
親奴国王だったわけですね。

一方の甲羅派は、100年ほど田〇山姫と婚姻を重ねているうちに、
田〇山姫にも次第に卜占が伝えられていきます。

後10年過ぎの銅矛銅剣戦争後半において、
劣勢になった平形銅剣女王国から救援要請を受けて、
参戦することを決定します。

平形銅剣女王国領域からの銅鐸供出と、古浦の燕復興資金の青銅と、を溶かして、
銅剣を製作しますが、
露見して、
中広形銅矛軍の16尋の大軍によって制圧されますね。

誰がチクったんでしょうね?
西隣りに常駐していたであろう、東征将軍配下のワニ系部隊でしょうか。
東隣りの、神a派でしょうか。

314 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:26:34.80 ID:hyPx5R89C
20年頃に荒神谷遺跡で降伏調印式。
古浦の燕系貞人はおそらく粛清された可能性が高いですね。

ただ、甲羅派の卜占技法は、田〇山女王→Aタカヒコと伝えられていきます。
もはや男系女系共に燕とは無関係になってしまいますが。

奴国王時代になって、
30年頃から、古浦周辺は若き軍神領に。
青谷上寺地遺跡は親奴国王ですから、軍神とも親しかった筈ですね。

70年に奴国王が失脚しますね。
軍神が持ち去った金印を追って、銅戈軍が血眼になって追いかけていきます。

(金印は軍神の長男が西へ秘匿して比良夫水軍→難升米へと繋がっていきますが)

315 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:30:50.15 ID:hyPx5R89C
卜占の技法における、ケズリに注目してみます。

要するに、単なる神事で結果が何でもよければ、
何も加工せずにただ焼灼してヒビ割れを見るだけでいいのですが、
政治的要求が高くなればなるほど、
コントロールする必要性が高まりますから、
ケズリをしっかりと入れて規格を整える必要があるのですね。

この観点から見ると、やはり古浦遺跡出土の卜占は、
いきなり最終形のケズリDが入っています。
骨を両面とも完全に平坦に成形する高度な技法ですね。
燕王族お付きの貞人が一緒に渡来して来たのでしょう。

(弥生前期となっていますが、ケズリDが出現するには早すぎるので、
おそらく前108年以降なのでしょう)

甲羅派秘伝の高度なケズリ技法(焼灼V+ケズリD)が、
田〇山姫→Aタカヒコ→カ〇系大倭長官と伝わり、
肥前の牟田寄遺跡(狗奴国王妃)
倉敷の上東遺跡(狗奴国王族) 楯築墳丘墓の領民集落
唐〇カ〇遺跡(大倭カ〇関連)
などに出土して、
その後全国に広がっていくことになります。

基本的には大倭長官であることが多いので、土器もその系統が絡んできますね。

316 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:34:09.04 ID:hyPx5R89C
70年に奴国王が失脚して、軍神が古代出雲(宗像)から、諏訪まで逃走する際に、
金印捜索隊によって、軍神逃走経路上の関係者が次々にとばっちりを喰らったわけですね。

平和を愛する貝輪職人であった、軍神の兄=土井ケ浜遺跡英雄
もその一人ですし、
青谷上寺地遺跡の人々も、そうなのでしょうね。

軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。

よって、
東国の軍神領域での卜占は、青谷上寺地遺跡の前半の技法がメインとなりますし、
軍神は、銅戈軍に負けないための現実的な即効性のある政治や軍事をしなければなりませんでしたから、
神権政治は必要なく、
卜占はあくまでも形式的な祭祀レベルでよかったので、
原初的な卜占面焼灼面一致型の卜占で事足りたわけですね。

中には焼いただけでヒビすら入っていないものも出土しているので、
青谷上寺地遺跡から連れてこられた人の子孫が、神事の際に形式だけ真似れば十分だったということでしょう。

317 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:37:11.77 ID:hyPx5R89C
青谷上寺地遺跡は一度滅亡した後地に、銅戈系の人々が入り、
ケズリDの卜占も出現したのでしょう。

近畿型(樋分離型)銅戈は、近畿→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡と侵攻したわけですね。
柳沢遺跡に攻め込んだ将軍は軍神に撃破されてしまいましたが。

祭祀型銅戈の中では初期に属しますので、
おそらくAタカヒコ本人あるいはその有力な部下が、近畿にいて、
初期にはそこから軍を発したのでしょう。

Aタカヒコはそのまま北部九州倭国の遷都建国の重鎮になりましたから、
すぐに北部九州倭国各地から九州型(樋結合型)銅戈が活動を開始することになりましたが。

318 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:50:09.53 ID:hyPx5R89C
青谷上寺地遺跡に銅戈系の人々が入って、
持ち込んだ近畿型(樋分離型)銅戈を、
占領の証に地鎮祭埋納してあったか、あるいは祀ってあったのを、

後の銅矛銅戈戦争時か、倭国乱時に、青銅原料として再利用して、
銅鏃などを作ったわけですね。

>>209
青谷上寺地遺跡には四隅突出型墳丘墓がありませんから、
後漢書の拘奴國=日本海沿岸倭種の四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
とは敵対もしくはそれまでに衰退していた。

70年まで三次市に押し込められていた、奴国王の兄達の末裔である拘奴國は、
どちらかというと、ワニ系奴国王と敵対だったわけですから、
奴国王を打倒したカモ系銅戈勢力とは敵の敵で味方のはずですね。

そう考えると、
青谷上寺地遺跡は本来は神a派で、勒島遺跡の人々も受け入れたりした。
奴国王の側についていた。
70年奴国王失脚時に一度滅ぼされ、跡地に甲羅派(焼灼V+ケズリD)が入った。
その甲羅派も、銅矛銅剣戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。
と、いうことになりますかね。

319 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 23:15:18.44 ID:hyPx5R89C
>>317
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

>>318
その甲羅派も、銅矛銅戈戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。

銅矛銅戈戦争であれば、
金属器ルート上流の新伊都2代目VS大倭経済圏の構図ですから、
金属原料が枯渇して、
手持ちの青銅器を供出しなければならなかったのですね。
>銅戈片→銅鏃

320 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:46:26.01 ID:qV1ymmbMb
>>79
古代豊国=古代出雲+古代伯耆の、
西の有力部族がワニ
東の有力部族がカモ

それぞれ相手が邪魔になるので、
ワニは対馬海峡〜半島権益を志向する傾向があり、
カモは関門海峡〜列島権益を志向する傾向があった。

なれば、当然のことながら、
>>312
神a派はワニと組んで、半島出兵を促す傾向があったことになりますね。
特需もありますし、
自領の保全にもなりますから。

321 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:47:33.07 ID:qV1ymmbMb
奴国王が平形銅剣女王と結婚した直後から、
神a派が奴国王に協力的であったということが、
いずれは半島出兵をすることになる伏線であったことになります。

奴族は親漢であり、
楽浪郡使ともある程度連携していた。

燕系の神a派は、本来は微妙に反漢の立場ですが、
故国復興はもうあきらめて、
奴族に楔を入れて、末弟をバックアップして、
奴国を親神a派にして利用しようと画策したのでしょうかね。


また、東方からやってきた神b派のことを、
わざわざ卜占の辞で身分確認しなければならなかった、
という逸話から、
神b派が奴国王政権に合流したのは、ずっと遅く、
銅剣銅矛戦争が終わって、中広形銅矛将軍が奴国王になってから、
であることがわかります。

322 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:48:33.52 ID:qV1ymmbMb
>>132-135
以上から、
前108年過ぎに、青谷上寺地遺跡に亡命していた神a派は、
奴国王擁立に最初から関わっていた。

10年代後半に、中広形銅矛将軍が、田熊石畑将軍の配下の立場で、田熊石畑将軍の娘である妻を連れて、
奴族の兄達を追って現出雲に来た時は、
現出雲市のワニ系部隊が現地で迎え入れたし、
東の青谷上寺地遺跡の神a派も中広形銅矛将軍に助力した。

その時はまだ、古浦甲羅派や田〇山遺跡女王は中立。

兄達が中国山地に逃走したことで、
中広形銅矛将軍は奴国領主の立場を確立したため、
一旦北部九州へ引き上げた。

323 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:49:11.00 ID:qV1ymmbMb
その数年後に銅剣銅矛戦争が勃発し、
次いで義父の田熊石畑将軍が戦中に亡くなり、
中広形銅矛将軍が東征将軍位を継いだ。

20年頃に、甲羅派の銅剣女王側への参戦準備を聞きつけて、
中広形銅矛将軍が16尋の大軍で押し寄せた。

この時の兵は、おそらく、
主力のワニ部隊が中広形銅矛14尋、
応援の神a部隊が中細形銅矛2尋、
だったのではなかろうか。

324 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:50:03.56 ID:qV1ymmbMb
70年に飛びますが、

>>317
近畿型(樋分離型)銅戈は、
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡
と進攻したと予想されるわけですね。

土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡での惨劇が起きるわけです。

片や、石鏃で拷問を受けた後に処刑され、さらに顔面を潰されています。
かたや、新生児3人や若い女性たちを含む109人が頃され、遺骨は環濠に散乱していますから、皆頃しで埋葬もされず放棄されたのですね。

325 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:51:31.40 ID:qV1ymmbMb
日本海沿岸は、扇谷遺跡の運営から、
紀元前3世紀頃には、吉武高木大王によって統一されていたことが示唆されますね。

鉄資源や鉄器が、対馬海峡〜伊都〜丹後半島を常に行き来していたわけで、
要するに「平時」においては警察力が機能していたわけです。

吉武高木大王からすると、
地方領主が勝手に争って、年貢が減ったら困りますし、
あるいは
勝手に武装蜂起すること自体が、危険分子として粛清対象になりますね。

よって、2遺跡の惨劇は、
まずまず「戦時」の出来事だったということになります。

しかし戦時であっても、
かような事件はなかなか起きないわけですね。

特に100人以上を皆頃しとなると、数十人以上の部隊が実行したことになり、
部隊が大きければ大きいほど、
ある程度の規律が必要であって、
要するに、サイコパスやシリアルキラーなどが味方にいたら、
例え味方であっても危険な集団だとなります。

柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍だと、8尋の大軍ですから、
それなりの軍紀がないと機能しないわけで、
まずまず無茶はしない筈、だとなります。

326 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:52:28.40 ID:qV1ymmbMb
二つの遺跡を比較してみます。

土井ヶ浜遺跡では、酷い目に会ったのは村長だけですね。
なぜなら、これだけの頃され方をしたにもかかわらず、
きちんと埋葬されているわけですから。
さらに、他の墓もおそらく金印捜索のため荒らされたけれども、
埋葬され直している。

と、いうことは、
他の集落民はほぼ避難していたことが確実ですね。

金印捜索が主目的なので、
集落民が複数捕らえられればそれは全員拷問を受けて、
徹底的に洗いざらい吐かされることになりますから。

327 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:53:31.94 ID:qV1ymmbMb
一方の、青谷上寺地遺跡ですが、
これは妙ですよね。

金印捜索が主目的なら、乳幼児まで手にかける必要は無いわけです。
まるで全滅させることが主目的のようだ、ということになります。


英雄の方は、奴国王の息子で、古代越の八岐大蛇。
なので、個人ではなく、所属組織ですでに色々ある。

伊都国王系の隊長から見たら、金印を入手して調子に載っている賤奴。
カモ系の隊長から見たら、銅剣銅矛戦争の屈辱やら、女王を初め各地の女性領主を奴国王に手籠めにされた。
古浦の生き残りがいれば、これも故郷を蹂躙された
など、
本人の生き方とは別に、
政治と無関係ではいられないわけですね。

328 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:54:37.93 ID:qV1ymmbMb
>>316
>軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
>青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。

逃走する軍神の視点で考えると、
弥生東日本や、半島での異民族戦を経験しているわけですから、
友邦の危険度も判断できたはずですね。

その軍神から見て、土井ヶ浜遺跡は危険度最大。
兄に危険を告げ、一緒に逃げるよう説得したが、
頑固な兄は頑として受け入れなかった。
「せめて領民だけでも逃すんだ、いいか皆すぐに逃げてくれ!」
と故郷の皆に警告して、急いで去ったのでしょう。

英雄はさすがに他の皆は逃がし、集落に一人残って対応した。

平和憲法九条の精神を、二千年前に命がけで実践し、
矢を射こまれながらも、
「お前たち、なんて野蛮なことをするんだ、やめなさい!」
「金印なんかどうでもいいじゃないか。そんなもの意味はない」
「暴力はよくないぞ。いくらでも話し合おうじゃないか」
といったことを説得し続けたのでしょうね。

銅戈隊長に処刑され、父や弟に似た顔を破壊されましたが、
弥生時代の軍人には理解不能な英雄の訴えがなんとなく通じて、
ああ、この集落は金印とは無関係なんだろうな、ということがわかって、
領民は救われた、ということでしょうね。

329 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:56:25.27 ID:qV1ymmbMb
一方で、軍神から見て、
神a派の集落は、まずまず危険性はないだろう、と判断されたわけですね。

(ちなみに、男性に縄文系がいたとのことですが、
 戦士階級は軍神が連れて行ったと考えると、残された男性は生口だった可能性があります)

卜占で重んじられ、古くからの名家である神a派だから、
女子供などは、捕らえられるが、教養もある美人揃いだからどこぞにもらわれていくだろうし、
男はあるいは奴隷などにはされるかもしれないが、
さすがに頃されることはなかろう。
いずれ捲土重来して救出する時も来るはず。
と思ったわけですね。

また、土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡それぞれの村長の危機管理意識についても、
むしろ青谷上寺地遺跡の方が、つい100年前に勒島遺跡を追われた記憶が残っているわけで、
滅亡の危険性については十分に理解していた筈です。

よって、軍神から見ても、村長から見ても、
残した領民が全滅する危険性は低かった、はずです。

では、神a派を全滅させるほどの恨みを持っていたのは誰か。

330 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:16.02 ID:qV1ymmbMb
要するに、卜占の主流派争いですね。

神a派は前4世紀には渡来して、吉武高木大王擁立に参加して、
倭地においては卜占を司る有力古豪となっていた。

そこに、前1世紀に、祖国から王族が貞人や青銅職人などを率いて亡命してきた。

数百年の時間差は大きく、
甲羅派の方がケズリDなど技法も最新式だし、
全般的に知識や技術も最新。
カモも女王系を嫁がせるなど、それらを吸収しようと大人気。

なので、銅剣銅矛戦争末期に、甲羅派が銅剣女王国側に参戦すると聞いて、
神a派の部隊2尋が、古浦の甲羅派集落を滅ぼしたのでしょう。

331 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:54.21 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の生き残りがいたわけですね。

>>93
一つは、各地から供出される銅鐸を、古浦の青銅器工房へ輸送護衛していた兵達。
出張先の各所で、故郷の滅亡を知ったことになります。

もう一つは、急襲された古浦から命からがら脱出した人たち。

銅矛水軍の大軍が押し寄せたので、
逃走経路は中国山地に逃げ込むしかなく、
その先には、奴国王の兄達の一族がいて、敵の敵は味方で匿ってくれたわけですね。

(後の西谷墳墓群と吉備の縁の始まりでしょうか)

その中には、燕王族の末裔がいた可能性が非常に高く、
そしてその勢力が、カモに匿われて、

70年に、Aタカヒコの出陣要請に応えて、紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地から出撃した、6尋の銅戈軍とイコールあるいはその一部となったわけですね。

332 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 20:09:02.53 ID:qV1ymmbMb
紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

奴国王捕縛のため終結したのは、
九州型銅戈軍の十数〜数十尋を主力とする大軍だったのでしょうけども、
逃げた軍神を追いかけるには、
長距離用の舟、つまり準構造船で追いかける必要があったわけですね。

紀伊から遥々遠征して来た近畿型銅戈軍6尋は、遠距離を準構造船で疾駆してきたので、
そのまま軍神追跡部隊に回った。
九州勢は、佐賀〜福岡県北岸での移動なので、普通の軍船だったので、
旗艦などの準構造船で1尋を急造して、参加した。

>>91
前中西遺跡の方形周溝墓に副葬された石戈が樋分離型ですから、
近畿からの武人が大将を勤めたこともわかりますね。

史実に合わせるなら、
軍神水軍が乗って来た軍船(これらも準構造船だったわけでしょう)を焼き払って、
本軍は上陸追跡し、
伝令が帰った。(軍神はもう戻って来れません→来ません)

333 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:43:28.46 ID:qV1ymmbMb
>>144
>>256
??=Sが生きのびたわけですね。
男系は高い確率で太子丹の血統。
ですが、
女系では、Aタカヒコと女王母を同じくする、父違いの兄でもある。

カ〇女王系なので、当然カ〇勢力に保護された。

Aタカヒコも丁度豊国宰相から、東方振興地域担当の大倭に、
1世紀当時としては格下げにされた。
ので、兄勢力を匿うのに大いに助力できた。

334 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:44:45.37 ID:qV1ymmbMb
後60年代の激しい政争だったわけですね。

伊都国側は、57年金印がもたらした疫病で一時的に弱体した奴国王に、
恭順するよう使者を送る。

しかし奴国王はその使者を寝返らせる。

つまり、
〇ワカヒコを伊都国王にして、伊都国とカ〇系を治める。
軍神は金印奴国王で、奴国と全体を。
奴族で倭地を乗っ取ろうという作戦ですね。

一方の伊都国側も調略を進めていて、
母子共に冷遇されたAタカヒコですね。

〇ワカヒコの抹●は伊都国王家の命運をかけた一大事であり、
ここはクリアされた。

335 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:19.44 ID:qV1ymmbMb
葬儀の場でAタカヒコが騒ぎを起こし、
その後に喪主へ詫びを入れる。

喪屋を壊したお詫びに、カ〇一族が責任を持って〇ワカヒコを弔おう。

大倭の本部を、倭国(当時はまだ伊都国+奴国)の東端の旧三輪町に作ったように、
カ〇一族の貴種である〇ワカヒコは、
1世紀カ〇領域(銅鐸分布域)の東端である美濃国に祀って、
末永くカ〇領域ひいては大倭を見守ってもらいましょう。

と、卜占でお告げを出して、自らお詫びの出張に出かけたわけですね。

近畿の兄勢力達と挙兵時期を密談するために。
目立ちにくい近畿で軍備を整えたわけです。

336 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:55.76 ID:qV1ymmbMb
神戸市には、
7本の近畿型銅戈で有名な桜ヶ丘遺跡と、
保久良神社からも近畿型銅戈が出土しており、
祭神には椎根津彦命がいらっしゃいますね。

青亀の背に乗ってやって来たとの言い伝えが残っており、
つまりは亀卜。
卜占を伝える一族だったのでしょうか。

337 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:48:41.77 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の卜占(焼灼V+ケズリD)が伝え残った経路は、
妻のT姫→Aタカヒコや姫達
だけでなく、
夫のS系統も生き残っていたわけですね。

銅戈時代に、紀伊→神戸→と移動し、
東征時に道案内をつとめたことで出世し、
倭国に領地を得たのだろう、ということになりますね。

ただ、どちらの系統についても、卜占の考古学的出土は限られています。
さらに、日本史書、中国史書、各種言い伝えでも、亀卜があったことは明らかなのに、
亀卜の甲羅が出土しませんから、
ただでさえ骨は残りにくいのに、
甲羅は骨よりもさらに残りにくいのか、
あるいは甲羅派の卜占神事の一環として、海に還すような手順があったのか、ということになります。

過去スレで検討したように、
T姫→娘達、の九州縄文女系子孫が、卑彌呼で、
「トト」というのは卜占を行っていたことを意味する可能性が高く、
卑彌呼や卑彌弓呼の「卑彌」「卑彌〇呼」も卜占を意味する可能性が高いですね。

ただ、
卑彌呼は第8代のトトであって、
第7代のトトは狗奴国王妃だと推定されますが。
同系統の卜占を行い、令亀法の辞だったのでしょう。

338 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:49:40.36 ID:qV1ymmbMb
70年以降は、Aタカヒコが実力者となりますから、
甲羅派も勢いを増したわけですね。

となると、神a派が失速し、
壱岐での卜占出土量が激減したわけですね。

壱岐の神a派、つまりはク〇ヒコの一族は、卜占を禁じられたか、
過去の神b派のように辺境へ流されたか。
(Aタカヒコ領域なのでさすがに処刑までは無かったと思いますが)

そのAタカヒコも銅剣銅戈戦争で失脚し、
甲羅派も一旦は転封され、
卑彌呼の祖のカ〇女系も一度は滋賀へ。

339 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 03:59:43.14 ID:brhHvmb/t
>>332
軍神追跡軍は、近畿からは7尋でしたね。
紀伊の6尋と、他にも初期型の近畿型銅戈出土地から合流して、
宗像を目指したわけでしょう。

近畿勢は秘密の援軍であり、
軍神側はまさか相手方に甲羅派が参加しているとは知らなかったので、
青谷上寺地遺跡の一般人が危険に晒されるとは思いもしなかったのでしょうね。

九州型銅戈の主だった将軍隊長については、軍神は当然顔見知りであり、
戦時にどのような振る舞いをするかは予測がついたでしょうから。

九州型銅戈が柳沢遺跡までは来ているので、
軍神追跡軍の当初の将軍は、古代豊国軍のカ〇系将軍だったのでしょう。
イ〇ナギを追いかけた八雷神の流れですね。

軍神を捕らえていれば、連れ帰って奴国王と豊国宰相と三人並べて降伏文書に調印させていたわけで、
つまりは軍神を捕らえることはできなかった。
九州型銅戈将軍が、上越市関川河口辺りに泊めてあった軍神軍の準構造船団を焼き払って、
一旦宗像へ戻って状況報告したわけですね。

なぜ戻ったと思うかというと、
深入りした石戈の中に、九州型銅戈型の石戈が無いからですね。

340 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 04:05:05.94 ID:brhHvmb/t
残った近畿型銅戈軍の中に、甲羅派の将軍あるいは隊長がいて、
軍神軍、ならびに軍神軍の中にいる神a派に敵討ちしようと、
進軍を主張して暴走深入りしたのでしょう。

20年頃の荒神谷遺跡の時に10代後半で、銅鐸回収作戦に従事していた銅剣戦士がいたとすれば、
70年には60代後半ですから、まだ将軍隊長を勤めることのできる年齢ですからね。

近畿→宗像→軍神追跡軍に参加して日本海沿岸へ出航し、
遥か50年ぶりの故郷・古浦の浜に一時上陸して、
両親兄弟姉妹、あるいは恋人や、妻子、を思い出して涙し、
それがために、復讐心を燃え上がらせてから、その直後に、
青谷上寺地遺跡に上陸ですから、

他の部族の部隊から見ても、甲羅派部隊が青谷上寺地遺跡に復讐する流れがあったわけですね。

柳沢遺跡から、執拗に神a派を追跡攻撃しようとした、ということは、
もちろん金印のこともあるでしょうが、

20年頃に甲羅派の古浦集落を襲撃した、神a派の隊長なり勇士なり政治的実力者なり、
あるいはその有名な子孫が、
軍神軍と一緒に諏訪に逃げ込んでいた可能性が高いですね。
標的がいたのでしょう。

341 :日本@名無史さん:2022/11/14(月) 19:27:44.65 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

342 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 10:10:25.26 ID:JEXyyOMiN
後漢書
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼 去其國萬二千里」
三国志
「自郡至女王國 萬二千餘里」

後漢書に萬二千里が記載されていることから、里程は後漢代のもの。

大倭王=金印倭王=卑彌呼であり、
後漢代の卑彌呼が居たのが、
女王國=邪馬一国=奴國+不彌國+α=若き卑彌呼の前任地(>>186

至は、その国の境界に至る
到は、その国の中心地点に到着する

7000+1000+方可400×2+1000+方可300×2+1000+500+100=12000
12000里で女王國=卑彌呼の前任地=奴国境界に至る。


日数は魏使の出張報告書からの転載。

343 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 22:22:47.63 ID:JEXyyOMiN
日数は魏使の出張報告書からの転載。

「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎて、
(通り過ぎてから)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭人支配地域の北岸である狗邪韓國に'到着'する。

「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭人支配地域の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。

「南至邪馬壹國
 女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。


卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。

344 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 23:05:16.29 ID:JEXyyOMiN
日数は魏使の出張報告書からの転載。

「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國
 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎると、倭に至る。
(倭領に至ってから倭領投馬國の中を)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭領の北岸である狗邪韓國に'到着'する。
帯方郡から狗邪韓國までは、七千余里である。

「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭領の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。

「南至邪馬壹國
 女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。

漢文では直前の単語にかかるため、
七千餘里→狗邪韓國
水行二十日→投馬國
水行十日陸行一日→女王之所都
にそれぞれかかる。


卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。

345 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:07:32.94 ID:LJrG5/A/p
>>336
椎根津彦命の祖神は大国主命として、
保久良神社に一緒に祀られていますから、
ほぼほぼアジスキタカヒコネ一族。

ごくごく低い確率で、ヤガミヒメの木俣神系列の可能性もありますが。

記紀の同段に登場する方たちに燕人の痕跡は残されていませんね。

346 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:09:40.63 ID:LJrG5/A/p
>>91
この時の近畿型銅戈7尋のうち少なくとも1将が燕系甲羅派の生き残り旧王族であり、
故郷古浦の燕系同郷人の仇討ちのため、徹底進軍を主張して深入りしたものの、
軍神の軍略に嵌められて全滅したわけですね。

>同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
>軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。

真逆かもしれませんね。

古浦の前々領主である燕系甲羅派の嫡流が、
近畿型銅戈軍の将として、
天下分け目の合戦に参加した。

古浦の前領主である奴国王系の軍神が、それを撃破した。

軍神が、捕縛した甲羅燕将と面会して、初対面で語り合ったわけですね。

古浦の甲羅派を全滅させたのは、神a派。
しかも軍神は、その後10年後に産まれた次男に過ぎない。

お互いに渡来系の将として、異民族の配下を率いて苦労した経験も共有できて、
古浦周辺の共通の知人、意外な近親者、の話題が見つかって盛り上がり、
お互いリスペクトして友情が芽生えかけたけれども、
時代の哀しさで、軍神は甲羅将を・・・遥か東方の地で・・・処刑せざるをえなかった。

前中西遺跡の方形周溝墓に丁重に葬った軍神の心中や如何に。

吠えたでしょうね。。。

347 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:33:24.88 ID:dlk2F1+sv
松本清張の「砂の器」で有名ですが、
東北弁と出雲弁(雲伯方言)がズーズー弁で似ているのですね。

東北地方に広く分布するズーズー弁が、
関東中部を飛び越えて、
なぜか西の出雲地方だけに飛び地的に存在するわけです。

また、現代日本人のDNA解析でも、東北地方の現代日本人と、出雲地方の現代日本人は、
DNA傾向が似ているそうです。


東北地方の縄文式土器が、沖縄でも出土していますから、
縄文時代からある程度の交流があったことはわかっていますが、
東北の人が自然に拡散するなら、出雲だけでなく、
日本海沿岸に広く薄くズーズー弁が分布するはずですね。

348 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:36:01.37 ID:dlk2F1+sv
伊都説から解析していくと、その謎も説明ができますね。

20年頃に、
青谷上寺地遺跡から出撃した神a派の中細形銅矛2尋が、
古浦の甲羅派集落を壊滅させた。(>>323

30年代後半に、若きミホススミが古浦を含む現出雲東部地域の領主として着任して、
私的な東国攻略を開始した。(>>170
ミホススミ範囲までは攻略に成功した。

自領の古浦地域が廃墟と化していたので、
東北弁の人たちを大勢連れてきて、古浦地域で稲作をさせて、年貢を納めてもらった。

被支配民ではあるが、稲作農民だと生活は安定するので、
東北弁の人たちはある程度増えて、東北弁が残った。

支配者は(>>152)何度か交代するが、
稲作農民は貴重な年貢を献上してくれる存在なので、
そのまま根付いたわけですね。
DNAもそれを示しています。

349 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:39:59.62 ID:dlk2F1+sv
後に軍神が諏訪に鎮座するわけですが、
北部九州と敵対した状態の軍神に、東国の人々が従ったということから、
ミホススミが東北弁の人々を連れてきた方法が、
奴婢や生口の形ではなく、
募集形式だったことがわかりますね。

豊かな西方に、既に一度耕されて肥沃だが、放置されている土地がある。
一家で移住して進んで弥生先進地域で暮らしてみませんか。
とか、
飢えている孤児を集めて稲作させたり。
とか、
平和な方法で集めてきたことが確実ですね。

そして、古浦にやってきた東北弁の人々の稲作が軌道に乗って、
それなりの生活をしていることが、
東北の知り合いにも伝わっていた。
70年までは、たまには親族に会いに来ることもあった。
ということでしょう。

350 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:45:05.94 ID:dlk2F1+sv
以上から解析すると、
東北弁と東北DNAが古浦にやってきたのは、
30年代後半〜70年だった、ということになりますね。

雲伯方言の分布範囲は、
島根県の出雲地方(飯南町を除く)
隠岐地方
鳥取県の伯耆地方西部(西伯郡・日野郡・米子市・境港市)
とのことですから、
まさに古浦を中心に拡散しています。

東北弁の人々は結構大勢やってきて、
貴重な労働力として周囲に入っていった、ということでしょうね。


飯南町に入っていないということは、
飯南町が奴国王の兄勢力の側だったからでしょうね。
後漢書の東の拘奴國=四隅突出国家、の発祥地域ですね。

351 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:46:08.60 ID:dlk2F1+sv
軍神の出身地である土井ヶ浜遺跡(の集落という意味ですが)は、
貝輪入手に特化していたのですから、
沖縄〜南九州〜長崎、の貝輪ルートの人々と密接な関係があった。

ので、縄文系の人々を差別する意識があまりなかったわけですね。
というかむしろ親戚感覚でしょうか。

特に、土井ヶ浜遺跡の領主であった兄の、英雄が、
二千年後の平和憲法の平等の精神を既に強く実践していて、
ミホススミが贈った縄文人も、皆と同じように扱い、
一族と同じ墓に入れるほどであった。

ので、生口のような奴隷商売をしたら、
兄や母に絶縁されるので、
家風のおかげで無茶はできなかったわけですね。

だがそのおかげで、北部九州で失脚しても、
東国に逃走してそこで支配者になることができた。

352 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:27:16.24 ID:dlk2F1+sv
徐福は東方の海中にある蓬莱に不老不死の薬を求めたのですから、
目的地は日本列島であったことは確実ですね。
前219年に1回目、前210年に2回目の出航をしています。

「史記」
・徐福は一回目の来倭時に、海中大神に遭遇した
・徐福は一回目の来倭時に、蓬莱山に到達した
・海神に出会い、蓬莱山はその東南にあった
・蓬莱山には宮殿があって、銅色で龍形の蓬莱王使者が面会してくれて、光り輝き天を照らしていた

・徐福の一回目の来倭時に、大鮫魚が邪魔をしたので、2回目は連弩を用意してもらった
・2回目に、男女三千人と、百工とを連れて行った
・徐福は平原廣澤の土地を得て、そこで王となって帰って来なかった

「後漢書」
・会稽の海外に、東?人がいて、二十余国をなし、また夷洲と?洲がある
・徐福一行は夷洲と?洲に留まって代々子孫を残し、後漢代には数万家にもなっていた
・夷洲と?洲の徐福子孫は時々会稽の市にやってくる
・逆に、会稽東冶県の人が遭難漂流して、?洲に漂着した人がいた
・?洲は遠絶で、往来できない

「三国志」
・呉の孫権が、夷洲を遠征したが、夷洲の数千人を得て還っただけで、損害の方が大きかった

353 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:28:17.18 ID:dlk2F1+sv
土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNA解析から、
斉の山東省臨錙(りんし)遺跡からの渡来人である可能性が高くなっていますね。

土井ヶ浜遺跡では、頭部を北西に向けて葬られているのが有名で、
その方角に山東半島がありますから、
まあ誰がどう見ても斉をルーツに持つ人々でしょう。

(むしろ反対する人というのは、なにか特別な思惑や目的があるのだろう、と考えられますね。)

ちなみに、鵜(フクロウ?)を抱く巫女、は、英雄の母系祖先ですね。
(同じミトコンドリアが、なぜかベトナムで見つかっています)

土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNAのハプロタイプはD4b2b1

354 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:29:59.28 ID:dlk2F1+sv
解析すると、

斉の方士であった徐福は、始皇帝の歓心を得るために、
不老不死の神薬を求めて来倭した。

1回目は、朝鮮半島経由で、対馬海峡に到達した。
>>112
燕系の衛氏朝鮮が建国する前ですから、秦の使者が通過できたわけですね。
そこで遭遇したのが、海神・大鮫魚、ですから、
サメ=ワニ、つまり古代出雲=宗像を本拠とした、熊鰐の勢力に遭遇したわけです。

対馬海峡の北岸は、燕系の神a派。
対馬海峡は、吉武高木王家の外戚だったであろう、女系ワニ。
が管理していて、
共に、吉武高木大王に従っていた。

とっくに稲作を開始していて、金属器も保有していて、国家運営していましたから、
秦始皇帝の探索隊を日本列島へ入れるなんてとんでもない話だったわけですね。

徐福は吉武高木宮殿に連れてこられたが、
大王や殿上人には会わせてもらえず、
口上の使者とだけお話させていただいて、追い払われた。

>>115
前285年の斉土笛難民は、政治色の無い避難民だったので、人道的に保護した。
けれども、
前219年の徐福は、秦始皇帝の配下で、
始皇帝は周囲の国々を滅ぼして奴隷化した恐るべき皇帝ですから、
青銅製武器で武装した軍隊でぐるりと取り囲んで徐福を威嚇して、
追い返したわけですね。

355 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:30:35.55 ID:dlk2F1+sv
追い返された徐福の立場で考えると、
斉の方士に過ぎない立場。
不老不死の神薬は手に入らない。というか、無い。
このままだと一族滅亡することが確定している。
かといって、海戦で、あの東夷海神の軍に勝つのは不可能。

となると、一族で亡命する以外に助かる道はなかったわけですね。

そこでついた嘘が
不老不死の神薬を手に入れるには、
「男女三千人と百工と、交換」するなら、手に入るそうです。
しかし、用心のために、「連弩で武装」させてください。

ということで、故郷の親族三千人と、新天地でやっていくための技術者と、護身用の連弩、を
始皇帝の資金で用意して、
前210年に2回目の出航をしたわけですね。

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