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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

414 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 21:29:08.98 ID:hLJ0G8259
>>413
吉武遺跡群→三雲井原遺跡、はそれぞれの時代に圧倒的ですから、
それを素直に解釈できないあなたの説は、最初の土台から希望的先入観で成り立っていて、説得力がありません。

ゴホウラ貝釧については、先に示した通り、各遺跡で一瞬だけ保有者がいただけであり、
集落ごとに色分けすることはできませんね。
ゴホウラ貝釧多数副葬者と同じ遺跡に、その前後に伊都系銅鏡副葬者がいることも多く、
どちらかというと、行政的リーダーが、
伊都銅鏡系リーダー→奴国貝釧系リーダー→伊都銅鏡系リーダー
と変遷しているように見えます。

>ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡
須玖岡本遺跡のは、有鉤ではない、ただの銅釧では?

>また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。
ゴホウラ貝釧が出土する遺跡を、連携集落とみなすのに対して、
銅鏡その他の威信材が大量に出土する伊都とその関連遺跡を、連携集落あるいは広域国家、とみなさない時点で、
あなたの仮説は矛盾していますよ。

日本古来の神道における宗教的権威の印といえば、銅鏡あるいは剣・矛であり、
三種の神器、十種神宝、神社のご神体もそうですよね。沖ノ島祭祀品もそうです。
それらの弥生時代総元締めが伊都ですね。

>答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
>ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。
ガラス腕輪は、北部九州からわずか2か所。
日本海沿岸からも3か所。出土していますので、
あなたの仮定だと、伊都が日本海沿岸を広域支配していた、と言っているのと同義になりますね。

貝釧に妙にこだわって、伊都を敵視している所からみると、
失礼ながら、
あなたは奴族の「貝釧多数副葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」の末裔かもしれませんね。

415 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:27:25.31 ID:hLJ0G8259
時代が進んでしまいますが、話題に出たので、
ガラス釧ですね。

鉛ガラス釧(緑)
・二塚遺跡(前原市長野川沿)  甕棺墓
・二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町) 甕棺墓
・西谷墳墓群2号墓(出雲市大津町) 四隅突出型墳丘墓
・比丘尼屋敷墳墓(京丹後市大宮町) 弥生後期墳墓

カリガラス(青)
・大風呂南1号墓(与謝郡与謝野町)
  方形台状墓・舟形木棺 有鉤銅釧13、貝輪残欠、鉄剣11

以上全てが弥生時代後期後葉です。

416 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:28:16.52 ID:hLJ0G8259
大風呂南1号墓でよくわかりますね。

先祖が外した貝釧が残っていた。
ゴホウラ貝釧を模した有鉤銅釧を保有していた。
ガラス釧を保有していた。

同系統の権力を示す、全セットが揃っています。
男系奴國王系+女系ワニ系の丹後若狭湾水軍将軍だったわけですね。

その名の通り、河内青玉繋でしょうか?

417 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:30:52.60 ID:hLJ0G8259
二塚遺跡については、伊都近郊に出張設置された、末蘆國藩邸でしょうね。

長野川が、末蘆國と伊都國の県境だったものと推定されます。
「又渡一海千餘里 至末盧國」の上陸地点は筑前深江であり、余裕で末蘆國側ですね。

三雲南小路大王=新伊都の倭国王一代目、の外戚が、
 柏崎遺跡で、男系伊都国王系+女系カモ
  <関連重要拠点に配下のお抱え工人(オルドス式銅剣)の足跡>

井原鑓溝遺跡=新伊都の倭国王二代目(師升)の外戚が、
 桜馬場遺跡で、男系奴国王系+女系ワニ(有鉤銅釧、巴形銅器)

桜馬場遺跡の親族が、新伊都近郊に設置した末蘆國藩邸が、二塚遺跡でしょうね。
 <関連重要拠点にガラス釧>

418 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:33:00.25 ID:hLJ0G8259
ガラス製品自体は、勾玉や管など各種製品として、主に伊都と丹後に大量出土しますから、
ガラス釧というのは、「釧」であることに意味があったことになりますね。

>>132
西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓は、奴国王の兄達の子孫と考えられるわけですが、
3号墓→2号墓→4号墓→9号墓→6号墓、の順に作られたそうです。

興味深いのは、
3号墓 特殊器台
2号墓 ガラス釧
4号墓 特殊器台
の並びですね。

三輪山、保久良神社、楯築遺跡、など、
巨岩を並べる磐座、立岩の遺構が残るのは、
基本的には大倭の輸送拠点跡地と考えられ、
>>315
基本的にはカモ系Aタカヒコ一族の管轄であり、卜占・亀卜の出土や説話が付随しますね。
弧帯文の亀石もその名の通り、亀卜の亀を崇めたものでしょう。

>>337
そこに、義兄であるS系統も、諏訪で深入りした嫡男は討ち取られましたが、
親族あるいは郎党が若干は残って大倭で働いていたと考えられ、
>>331
命を救われた恩としての交流があった。

よって、西谷墳墓群においても、相変わらずの、
3号墓 特殊器台 カモ大倭系
2号墓 ガラス釧 ワニ系
4号墓 特殊器台 カモ大倭系
の女系せめぎ合いがあったわけですね。

419 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:54:35.28 ID:hLJ0G8259
>>3
しかし不思議ですね。
>「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
>◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

同じ三国志にこれだけわかりやすい例文が沢山あるのに、
なぜそれを用いて解釈しないのか。

『到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘? 世有王
 皆統屬女王國』

<訳ではなく説明>
伊都國の官には爾支がいて、副官には泄謨觚と柄渠觚がいて、千余戸の人々がいて、同時代にも伊都国王がいる。

女王國=奴國+不彌國+α(東に豊国が挟まるので、旧奴国領域内に限定=せいぜい福岡県内)=邪馬一国
は地方女王卑彌呼の本領であり、
元々は、伊都國と女王國は別々の自治体だった。

倭国乱を収拾するために、
卑彌呼が倭国王に共立された<新たな所属変化>のに伴って、
伊都國の王以下の皆は、倭国王に共立された卑彌呼の、”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になった。


卑彌呼は倭国王になったのですから、(〇奴国王ではない)伊都國王系。

伊都國には伊都國王がいて、
奴国などには伊都國王系の卑彌呼が派遣されていた。
卑彌呼が優秀だったので、卑彌呼を共立して、
広域国家倭国=卑彌呼時代邪馬台国が成立して、本家の伊都國王ら皆は倭国の一員となった。

という至極単純な話ですが。

420 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 23:03:03.29 ID:hLJ0G8259
卑彌呼は元々は、女王國=奴國+不彌國+α(東に豊国が挟まるので、旧奴国領域内に限定=せいぜい福岡県内)=邪馬一国
の地方女王で、
府庁のあった不彌國にいたわけですね。

ですから、後漢書と被る部分は、不彌國時代のことになります。
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
 自爲王以來 少有見者
 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入
 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人 持兵守衞」

里程については、56年頃の奴国王金印後漢使の時のものでしょうが、
奴国王も卑彌呼も、不彌國にいたのは同じですから、
伊都國の基準点は吉武高木遺跡宮殿でいいですし、里程の最終到達地点は不彌國。
「居處宮室樓觀、城柵嚴設」を見つけたければ福岡空港を掘り返してください。

卑彌呼治世の最終期に、佐賀=旧・阿耶訶→邪馬嘉國、を狗奴国から奪取して、
魏との外交活動が活発になったことで、
卑彌呼が新伊都へ移動してきたわけですね。
それが魏使の旅行日誌に記された日程の「女王之所都水行十日陸行一日」になります。

421 :コロナの特効薬は「イベルメクチン」!!!!:2022/12/16(金) 21:36:09.61 ID:nliTu59aa
ミカエル 「日本予言!! 世界経済崩壊!!」

秋ごろから日本経済が悪化する!!「経済崩壊」!!「日本経済破綻!!」
銀行が次々につぶれるだろう!!
「預金封鎖」がおこる!!
「黒田総裁と竹中平蔵たち」と「ビル・ゲイツ」が「アメリカ国債を25%」
引き出し、アメリカを世界大恐慌におとしいれるだろう!
「日本人はアメリカ人から憎まれる」!!
黒幕は「ロックフェラー財団」と「ビル・ゲイツ」と
カルト集団の教祖「ロード・マイトレーヤ」が真犯人!!
「黙示録の獣」=「ロード・マイトレーヤ」が不気味に笑うだろう!!

日本で失業者が公園にあふれるだろう・・・
ミカエル「ニューディール政策」を思い出せ!!
「日本の銀行」が次々につぶれる!
「サル痘」が流行し、大勢の人間が死ぬだろう!!

「世界統一銀行」が世界を支配する!!
「世界統一銀行」は預金者の預金を奪う「ドロボー銀行」だった!!
世界中で「マイナンバー・カード」が盗まれる事件が多発する!!
「世界統一政府」と「ロード・マイトレーヤ」は、人間の「ひたい」と「右手」に
「獣の数字」をイレズミさせ、全人類を支配しようと計画する!!
「レイザータトゥーガン」=「レーザーイレズミ銃」
「マイナンバー」の正体は「獣の数字」!!
中東で大戦争がおこるだろう!!
「たくさんのユダヤ人」が中東の戦争で戦死するだろう!!運命!!

「新型コロナ」の特効薬は「イベルメクチン」!
「サル痘」の特効薬は「テコビリマット」!!
「秘密の本」→「戦慄の聖母予言」(せんりつのせいぼよげん)!!
                予言の書 ミカエル

422 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 15:43:25.41 ID:w6g0A55EK
>>414
吉武高木の集落と三雲井原の集落の間には、高祖山の山領が東西につらなっています。
こうした山領は、その前と後の平地に立地する集落の連携を阻みます。
吉武高木と三雲井原は、そうした立地の典型でしょう。

両集落が連携した関係にあったとは考えにくいです。
吉武高木は早良平野の集落との連携関係をみるのが良いでしょうね。
吉武高木と三雲井原の間の山領は、日向峠のある谷筋が通行路であったことは明瞭ですが、
双方は、やはり別の生活圏にある集落とみるほうがいいですね。

423 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 15:58:46.56 ID:w6g0A55EK
>>418
筑前平野と佐賀平野などにみられるゴホウラ貝腕輪は、それぞれ政治的背景を持つク二のつながりを見ることが可能ですが、
一方、怡土平地の二塚遺跡のガラス腕輪の場合、出雲や丹後などのガラス腕輪と相当な遠隔地でありますので、それらのガラス腕輪による政治的なつながりは考えにくていです。
出雲や丹後のガラス腕輪は、それぞれの集落が交易で入手したものを単独で宗教的威信財としたものでしょう。
出雲などは政治的連携に関して墳丘墓をその印として採用していたようですから、ガラス腕輪はシャーマン個人の威信財として用いられたとみるのが良いでしょうね。

いずれにしましても、ゴホウラ貝腕輪をク二間の政治的連携の印として用いたのは筑前平野や佐賀平野などの地方で顕著だったのかも知れません。

424 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 20:42:10.59 ID:q23UeCZza
>>414
須玖岡本遺跡の中の伯玄社遺跡出土の中期小児甕棺からは南海産腕輪が出ているそうですが、
これはイモ貝製腕輪の可能性が高いですね。
女性や子供の腕輪の場合は、イモ貝製腕輪が普通だったとされています。

この例からしますと、集落にはごく普通にシャーマンがいて、日常の祭事を行っていたことが考えられます。
そのシャーマンの子供が、伯玄社遺跡の小児甕棺に葬られていた人骨でしょうね。
こうした一集落所属のシャーマンとク二の元首となった大シャーマンの役割は大きく異なり、その大シャーマンの威信を表すものとしてゴホウラ貝腕輪が装着されたのでしょう。

425 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:49:09.75 ID:Ttr88fH2l
>>423
ほら、あなたの説はどんどん破綻していますよ。
高価なガラス釧を交易で求めることが出来るのであれば、
より一般的な貝釧はなおさらのこと交易で求めることが出来た筈ですね。

交易で求めたものであれば、これもまたただ一代のみ装着されているので、
一過性のお洒落アイテムではありえても、
宗教的威信材にはなりえないでしょうね。

>>424
奴国の一等地である須玖岡本遺跡で、必死に探してそれだけなのですから、
逆に奴国王家というのも、貝釧の風習は無かった、と考えるのが妥当ですね。

伊都国王家も、奴国王家も、本家に関しては、共に貝釧の風習は無かった、
と考えられます。


貝釧は「縄文時代」から広域に存在しますし、
北部九州であれば、古代豊国の山鹿貝塚の女性たちが多数貝釧を副葬されています。

この時点で、貝釧があるからクニだというあなたの仮定は破綻しています。

縄文時代の貝釧は近海産なので、
ゴホウラなど南海交易に意味を置くとするなら、

結局のところ広域交易が重要ということになり、振り出しに戻って、
当然のことながら、
・海外からの銅鏡
・楽浪土器
・青銅器鉄器
が豊富な伊都国こそが、クニの中枢、ということになります。

426 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:50:41.55 ID:Ttr88fH2l
山鹿貝塚は、縄文時代早期から約6000年間続いた貝塚で、
貝輪をつけた女性被葬者が多数見つかっていますね。

有名なのが、2号人骨と3号人骨で、
いずれもタマキガイ(ベンケイガイ)の腕輪を多数装着しており、

3号人骨(30代女性)が、右腕に15個、左腕に11個の貝輪、
鹿骨のかんざし2本

2号人骨(20代女性)が、右腕に4個、左腕に14個の貝輪、
緑色大珠、鹿角のアクセサリー2本、サメ歯イヤリング2個
2号人骨の右腕に4号人骨(新生児)

3号人骨と2号人骨は共に、肋骨や鎖骨、脊椎を抜き取られていた、
という非常に特色のある女性首長=女性巫女であったと考えられています。

427 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:52:51.45 ID:Ttr88fH2l
過去スレで検討しましたが、
山鹿貝塚女王こそが、後に遠賀式土器を伴って全国に稲作を広めた、
古代豊國イザナミ一族に比定されうると考えられ、

遠賀川を挟んで、
西が古代出雲國、東に古代伯伎國。
その境にあったのが、共立女王の砂丘墓地である山鹿貝塚=比婆山。

古代豊國に八雷神という縄文系八部族がいて、
共立女王を立てていた。

女王を決める方法が、記紀に伝わる骨抜き神事。
先代女王が亡くなると一旦山鹿貝塚へ埋葬し、
満月の夜に掘り返して(蛆はわくが蠅は飛ばない)、
各部族がそれぞれの担当場所の骨をつまみ、同時に抜き取る。

最もたやすく抜き取ることのできる部位=最も早く腐敗転生が進んでいる部位であり、
その部族の高位女性に次の女王が産まれてくる。

チベット族のダライ・ラマ、あるいはクマリ、といった宗教指導者の決め方に似ていますね。

他部族のイザナギがその縄文系秘事を盗み見たので、八雷神が怒って追いかけてきたわけですね。

428 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:54:28.69 ID:Ttr88fH2l
西の古代出雲の最有力がワニ。
イザナギと婚姻を結んだのはワニ系のイザナミであり、
在豊国倭軍基地である、田熊石畑遺跡を誘致した。

西へ展開する傾向があり、吉武高木大王の外戚として、対馬海峡も管轄することになります。
>>375
サメ歯のアクセサリーは縄文時代から多数出土しており、
サメは貴重な海の幸として捕獲されていたわけですね。

舟乗りは耐水性に優れたサメ皮の革ジャンを着て、
サメ頭部の皮でできた帽子をかぶる者もいたので、
見た目でサメが歩いているようなものだったわけですね。

東の古代伯伎の最有力がカモ。
遠賀式土器、あるいは鐘崎式土器、を伴って東方展開していった、
日本人の母系とも言えますね。

後の東方へ、八雷神全てが分布するのではなく、
火雷のみが伝えられていることから、
火雷(胸)→淤縢山津見(胸)→カモ

こちらはおそらくですが、
大雷(頭)→正鹿山津見(頭)→ワニ
なのでしょう。

429 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:55:10.11 ID:Ttr88fH2l
山鹿貝塚の二人の女王は、
共に近海産の貝輪を多数装着し、
共に骨抜き神事を施行され、
共に鹿骨や鹿角をまとっていますね。

サメ歯イヤリングをしている方が、古代ワニ系女王で、
していないほうが、古代カモ系女王でしょうか。

緑色大珠は、成分分析では厳密には翡翠ではありませんが、
古代に成分分析はありませんから、
翡翠と同系の宝石製の、大珠、と認識して使用していたものと思われます。

吉武高木遺跡の翡翠勾玉の女系祖、ということになりますね。

430 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:56:26.55 ID:Ttr88fH2l
貝輪、貝釧というものについて俯瞰してみると、
縄文時代から、タマキガイ(ベンケイガイ)など近海産の貝輪を、
女性有力者がつける風習が日本全国にあったわけですね。

南海産貝を素材とした貝釧は、
縄文時代末〜弥生時代開始期の、前5,6世紀くらいから、登場してくるわけですが、
オオツタノハ(種子島・トカラ列島、伊豆諸島南部)
→イモガイ・ゴホウラ(沖縄以南)
の順に登場してきますから、

沖縄から売り込んできたのではなく、
北部九州から、種子島・トカラ列島→沖縄と求めて、次第に交易路を拡大していったことがわかりますね。

>>352
前210年に徐福一行が亡命してきた頃から、ゴホウラ・イモガイ製貝釧が増えてきます。
沖縄には北部九州への輸出用と考えられる、貝集積地や前処理加工品集積地が増え、
北部九州では男性のゴホウラ貝釧装着者が出現してきますね。

そして、奴国王期と考えられる、立岩式甕棺墓の時代の一時期に、
各遺跡に一人ずつの「貝釧多数副葬者」が登場しますが、
それを最期に、貝釧副葬者は消滅してしまいます。

431 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 14:00:41.92 ID:Ttr88fH2l
縄文時代から日本列島の女性首長=女性巫女は近海産の貝輪をつけていた。

南海産貝による貝輪は珍しいお洒落アイテムとして九州縄文系女性に人気が出た。

亡命してきた徐福一行が、生活の糧として、
南海産の貝を輸送するルートを強化して、
女性用イモガイ貝釧と共に、
男性用ゴホウラ貝釧も売り込んだ。

先進地域であり、金属器が豊富な伊都国は買ってくれなかった。
お金持ちの須玖遺跡も買ってくれなかった。
彼らは腕輪が欲しい時は青銅製腕輪を自分たちで作った。

前206年に秦が滅亡したことで、徐福一行はワニ領域に入れるようになり、
諸岡遺跡→土井ヶ浜遺跡になんとか足場を築いて、
縄文系女性首長相手の行商で生計を立てていた。

後20年の銅矛銅剣戦争時に、土井ヶ浜遺跡女王婚姻によって、
奴国王傘下に入ったことで、
ゴホウラ貝釧が公式スポンサー認定され、
奴国王系の「奴国王時代の卑奴母離」の威信材として採用されてバカ売れした。

432 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 14:01:12.33 ID:Ttr88fH2l
大国主失脚時に、祭祀を続けることが許されていますから、
天神族は祭祀に関しては寛容。

伊都説で当てはめるなら、
ゴホウラ貝釧が宗教的なものであれば、
奴国王が失脚しても続行を許されていた筈ですね。

それが消滅してしまったということは、
ゴホウラ貝釧の装着は、行政的威信材であった、ということを意味しています。

奴国支配の終了とともに、役目を終えた、
そしてあるいは伊都国支配の再開時に、敵対者とみなされないためにも、
率先して貝釧を外す必要があった、ということですね。

433 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 14:03:04.10 ID:Ttr88fH2l
地域で見ていくと、
壱岐対馬には、縄文時代からの近海産の貝輪は出土しているのに、
ゴホウラ貝釧は出ていない。

ことから、ワニ支配地にはゴホウラ貝釧の卑奴母離は派遣されていないことになりますね。
これは香椎〜宗像のワニ支配地域にも当てはまります。

よって、ゴホウラ貝釧の卑奴母離は、
基本的には「カモ支配地域」に派遣された、
奴国王の息子達、であったことになりますね。

奴国王+女系ワニ(銅矛)の息子達にとっては、誇らしい勝利の証、だったでしょうから、
後には有鉤銅釧として復活させてのでしょうが、

奴国王+女系カモ(銅剣銅戈)の息子達にとっては、ちょっと微妙だったわけでしょう。


また、神a派の青谷上寺地遺跡からも、
タマキガイ(ベンケイガイ)の貝輪は出土するにも関わらず、
ゴホウラ貝釧は出土しないため、
ワニ、神a派、といった、奴国王の同盟勢力については、政治的独立が保たれ、
奴国王系の卑奴母離は派遣対象外だった、ことになりますね。

434 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:00:22.19 ID:Ttr88fH2l
弥生時代には現代よりも海岸線が内陸側でしたから、
当時の糸島半島は、入りこんだ入江と汽水にて、島のように分離しており、
斯馬國と呼ばれていたわけですね。

弥生時代の交通は、水上移動が基本であり、
吉武遺跡と三雲遺跡の交通は、伊都と斯馬國の間の水道を通っていたのでしょう。
糸島半島の外海側を通るより遥かに安全かつ早いですからね。

この水道の最も標高が高い部分は、
満潮の時には舟が通れるけれども、
干潮の時には浅瀬あるいは陸になって舟が通れない。

この天体運動による神秘の水門が、
橘の小戸
だった、と予想されますね。

435 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:01:34.45 ID:Ttr88fH2l
>>180
同じく佐賀平野の大部分も、当時は有明海の干潟で、
阿邪訶、大坂、というのは、
背振山脈の山裾まで迫る有明海と、山側の陸地にへばりつくように暮らす
そんな坂だらけの土地柄からきた呼び名であったと考えられますね。

これも水上移動が基本で、
例えば柏崎遺跡から吉野ケ里遺跡まで移動する場合は、
唐津(吾田)から唐津線を経て、小城市(都支國?)まで出たら、
そこからは舟に乗って、
有明海の干潟の無い、やや沖まで出てから、
東へ向かって、
当時はこれも海沿いだった吉野ケ里遺跡へ移動した、ということになります。

436 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:06:54.14 ID:Ttr88fH2l
オルドス式短剣の青銅器鍛冶頭領だったと予想されるサル〇ヒコは、
高天原(早良平野吉武遺跡)から、日向(三雲遺跡)へ向かう、
日向峠の山中に工房を構えていたと考えられ、

三雲倭国王+外戚柏崎遺跡(オルドス式)の時代に、接収した吉野ケ里遺跡(オルドス式)に、
鍛冶工房指導のため出張した際に、遭難したわけですね。

1世紀後半のある晴れた日。

小城市の桟橋で護衛付きの舟に乗って、有明海の沖へと漕ぎ出した。
見送りの者達は、しばらく見守った後、坂を上って集落や官舎へ帰り始める。

貴人であるサル〇ヒコを乗せた舟は、干潟のない所まで出たら、
東へ向きを変えてゆるゆると進み始める。

坂の上から、遠目に見えているわけですね。
農作業やらやってる一般の人々も、ふと顔をあげると
サル〇ヒコの舟が海上を少しずつ移動していくのが見えるわけです。

と、誰かが「あ、あれは!?」と叫びます。

西の彼方から、通常の3倍のスピードで接近する数隻の舟が現れたわけですね。

上腕モリモリの漕ぎ手達。
盾にはスイジガイ。
敵対する伊邪國・比良夫貝の軍舟です。

437 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:07:43.51 ID:Ttr88fH2l
高所の集落から皆がわーわー叫びますが、はるか沖まで声は届きません。
が、じきにサル〇ヒコの舟も気づいて、必死に漕いで逃げ始め、
盾や弓を準備しますが、

比良夫貝にあっという間に追いつかれ、
挟み撃ちにされて2方向から矢を射こまれては盾も役に立たず、
一瞬で全滅して、乗りこまれて目ぼしい物は奪われ、
舟は鎮められて、
比良夫貝はあっという間にまた西へと去っていった。

晴れた有明海には、わずかな残骸が漂うだけで、
まるで白昼夢で何ごともなかったかのように、静かな光景に戻っていたわけですね。

阿邪訶の大勢の人々が一部始終を目撃した、衝撃的な事件だったので、
記録にも残ったわけでしょうね。

438 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:40:24.98 ID:Ttr88fH2l
しかし妙ですよね。

国譲りの際に、
古事記では、建御雷神と、副で天鳥船神、
日本書紀では、経津主神と、武甕槌神、
がそれぞれ遣わされるわけですが、

そもそもの、
オシホミミとニニギがなぜ動いていないのか。

ホアカリについても、なぜ動いていないのか。
>>272
また丹後若狭湾水軍はホアカリ指揮、あるいは少なくとも天神族管轄のはずなのに、
出雲を現出雲と考えるにせよ、伊都説で古代出雲を宗像地域と考えるにせよ、
敗走するタケミナカタはなぜ丹後を通過して諏訪に行けたのか。

アジスキタカヒコネは、迦毛大御神とも呼ばれる、
大国主のカモ系トップなのに、国譲りの際になぜ彼の意見は聞かなくてよかったのか。

出雲で敗北して落ちのびて諏訪で降伏したタケミナカタが、
何故に後の東国武士に厚く崇敬されたのか。

不思議ですね。

439 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:41:59.90 ID:Ttr88fH2l
考古学的に実際に奴国で大洪水が起きており、
雀居遺跡の居館も流された跡が出土していますね。

伊都説で、葦原那珂津国を奴国として、
奴国大洪水にて奴国王が失脚した、という条件を加味した上で、
全ての条件を満たす流れを考えてみます。

倭の古来盟主である伊都国王家と、
新興のため、後漢金印の威を借りた奴国王家とは、
反目していたわけですが、
「福岡市を中心とする」大洪水によって、お互いに被害を受けたわけですね。

これは近年の福岡市の水害と同じことで、
那珂川流域が一番被害が大きかったにせよ、
那珂川流域だけに局所的に豪雨が降ることは無いわけで、
奴国が甚大な被害を受ける豪雨であれば、
伊都国もそれなりの被害を受けたわけです。

で、共に被災地となった「伊都国と奴国は災害時不可侵協定」を結んで、
伊都国軍は、伊都国領域への災害派遣を、
奴国軍の特にワニ軍は、奴国領域への災害派遣を行ったわけです。

440 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:44:15.47 ID:Ttr88fH2l
それぞれの兵士達が、現代で言うところの「災害救助活動」を行って、
被災者の救出、
土砂の処理、
仮設住宅の建設、
など、
数か月あるいは数年数十年はかかりそうな大変な作業を行っていたわけですね。

軍神の主力も古代出雲ワニ軍ですから、当然一緒に奴国での「災害救助活動」に参加します。

>>335
関西出張していたAタカヒコ。
大倭管轄の瀬戸内(侏儒國)高地性集落群には、狼煙連絡網がありますから、
弥生時代にあっても、わずか1日で詳細情報を受け取ることができたのですね。

義兄S系統達と元々計画していましたから、
天の与えた好機、とばかりに、急ピッチで準備を加速して、
祭祀型銅戈を鋳造して、埋納して、準構造船団で出陣したわけですね。

441 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:45:41.76 ID:Ttr88fH2l
Aタカヒコ主導の出陣ですね。

奴国ワニはもちろんですが、伊都国側も戦闘するどころではありませんから、

室見川上流の伊都国男系領主で、上流なので洪水被害は無かったが、
被災者受け入れを拒んで、自領への通行不可にしていた領主に連絡して、
伊都国男系+カモ女系の息子に、伊都国系代表として出てきてもらって、

福岡市から地理的に離れていて、洪水被害の無かったカモ領域=豊國東部の伯伎國のカモ軍を率いる大将になってもらって、
一緒に、古代出雲に押しかけたわけですね。

442 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:46:40.47 ID:Ttr88fH2l
災害の多い日本列島に住む我々も大きな教訓としなければなりませんね。

土石流で甚大な被害を受けた奴国に、
「災害救助活動」のため軍を派遣していたので、
奴国王も豊国宰相の息子(避難民用の食料調達のため漁をしていた)も、
はるか東方から不意に現れた準構造船団などには成す術もなく、
捕縛されたわけですね。

奴国王は最終的には処刑され、
豊国宰相の息子は沖ノ島に幽閉されたものと思われます。

Aタカヒコの主目的は、軍神の持つ金印を奪うことだったのでしょうが、
それは叶わなかったので、
奴国王から祭祀を譲り受ける、つまり家督を譲り受ける、という約束を取り付けることで、
なんとか体面を保ったわけですね。

443 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:47:48.48 ID:Ttr88fH2l
軍神は、被災した奴国で災害救助活動中に、宗像からの急報を受けたわけですね。

Aタカヒコの狙いが金印であることは明らかですから、
瞬時に決断したわけです。

宮の本遺跡女王との長男を呼んで、小袋に入れた金印を渡したのですね。

「いいか。よく聞け。
 Aタカヒコの兄ぃが裏切って、父が捕まった。」

「な、なんと!?」

「この金印を持って、伊邪分國に逃がれよ。
 そして金印を持っていることは誰にも話してはならない。
 たとえ育ての親の爺であってもだ。
 よいな。
 伊邪分國に逃げたら、決して見つからない場所に隠せ。
 そして水軍をまとめて、指揮するのだ。
 よいな、決して誰にも言うなよ。」

「ち、父上はどうされるのですか?」

「奴国はこのありさまだ。
 今はどうにもならんだろう。
 私は東国に落ちのびて、捲土重来を期す。
 が、これが今生の別れになるかもしれぬ。
 体をいとえよ。
 さあ、急げ。」

その数刻後には、長男の乗った舟が、那の津を出航し、
宮の本遺跡プロ漕ぎ手達によって、弥生時代最高速度記録で
斯馬國已百支國を飛び越えて伊邪國へと逃げ込んだのでしょう。

444 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:50:46.77 ID:Ttr88fH2l
災害救助活動中だったので、
軍神は兵もおらずまともに戦うことなど最初からできず、

少数の準構造船でちょっと顔を見せて、
Aタカヒコの軍勢が捕らえに来る態勢で話し合いの余地もないことを確認すると、
ターンダッシュで逃走開始したわけですね。

で、若い頃からの地盤がある諏訪で急造軍を整えて、
追討軍を見事に撃破した。

準構造船を破壊されて、銅戈軍と講和条約を結んだのか、
あるいは、その後は銅戈が上陸できていませんから、
何度か攻めてきた銅戈軍をことごとく破ったのかですね。

そして軍神が立ちはだかったことで、
後のAタカヒコ政策によるDNA大規模移動から東日本縄文系社会を守ることになった。

このようないきさつであれば、
ただでさえ験を担ぐ武士達が、崇敬したとしても理解できますね。

445 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:52:38.59 ID:Ttr88fH2l
宗像三女神は、スサノオの娘達で、
うちお二人は大国主の子を産んでいますね。

大国主はスサノオから兵権を譲られていますね。

一番若い市杵島姫神(伊都岐島神)は大国主には嫁いでおらず、
ニニギの養育係だったとのことですから、
アジスキタカヒコネ達と同世代ですね。

アジスキタカヒコネは大国主と多紀理毘売の子で、
同父同母の妹に高比売命がいます。
高比売命はアメノワカヒコと結婚したけれども死別しましたね。

ニギハヤヒは、
天道日女命、との間に天香山命
那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売、との間に宇摩志麻遅命
をそれぞれもうけています。

大日?貴が天照大御神、大己貴が大国主、道主貴が宗像三女伸、
であります。

446 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:53:06.59 ID:Ttr88fH2l
>>143
>>144
要するに、
タキリビメ
アジスキタカヒコネ
イチキシマヒメ
のお三方については、カモ系女王一家であり、
何らかの伊都を持って、名前をあれこれ分散させて記録したのではないか、
と思われるわけですね。

447 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:55:20.81 ID:Ttr88fH2l
奴国王失脚後、Aタカヒコ(祭祀型銅戈)が実権を持つわけですが、
彼の政策が現代のDNA解析にまで影響を及ぼしたわけですね。

>>348
古浦はAタカヒコの産まれ故郷でもありますから、
若き軍神の行った成功政策を知っていたわけですね。

で、Aタカヒコの目の前には、復興半ばで
荒廃したままの福岡平野が広がっている。

で、軍神の成功政策を、超大規模に行ったわけですね。

生口の大量輸送です。(土器の大移動)

ただただひたすら生口を連れてきたわけですね。
短期的には、労働力が大量補給されて、
土砂を処理したり、建築復興作業、北部九州での稲作の手伝い、
などなど急速な経済復興を成し遂げたわけです。

448 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:56:34.92 ID:Ttr88fH2l
が、元々、毛人地域で安い労働力で作った稲を、
倭国に運ぶことで食料需給が成り立っていたのが、

労働世代の毛人をごっそり強制移動したので、
毛人地域の年齢バランスが崩れて、深刻な労働力不足から稲作集落が維持できなくなり(住居の消失)、
毛人地域からの年貢がほぼ消失してしまったわけですね。

一方で、倭国では、毛人が大量に来た当初は楽になったけれども、
現在の移民問題と同じで、毛人も年を取っていきますし、
そもそも倭国は外部からの年貢で成り立っていたのに、
年貢が激減して、人口が激増したわけですから、こちらも未曽有の大飢饉になったわけですね。

現代の我々は、DNA解析にその爪痕を見ているわけですね。

政策による、西日本広域の大飢饉発生から、Aタカヒコの立場が悪くなり、
新伊都二代目における外戚勢力交代の要因となっていったのでしょうね。

449 :日本@名無史さん:2022/12/19(月) 03:15:03.28 ID:wLiOC7gl+
都道府県別に渡来系DNAの割合を調べたら、
渡来人がまず訪れたはずの九州はさほど高くなく、
関西と四国で高かった、という結果ですね。
銅戈勢によるものだったと。

450 :日本@名無史さん:2022/12/19(月) 21:47:16.85 ID:FsaON+ts6
>>425
ク二の政治的連携を示すアイテムとして用いられたのが、元首であるシャーマンが身に付けた宗教的威信財のゴホウラ貝腕輪だったとするのがよいでしょう。
そして、ク二の元首のシャーマンは、それぞれその国力にみあった複数のゴホウラ貝腕輪を保持したのでしょう。
そのような複数のゴホウラ貝腕輪を保持した大シャーマンが一度現れますと、そのク二はそれにみあった格付けがなされて、
それ以降は次の何代にもわたってそれぞれ大シャーマンが新たにゴホウラ貝腕輪を装着しなければならない必要がなくなったのではないでしょうか。
ゴホウラ貝腕輪の多数装着例が一時期に偏っている理由にはそうした格付けの成立があるとし、それ以後はみなし格付けだけで済んだのかも知れません。
いずれにしましても、そのゴホウラ貝腕輪の配布元は那の津を抱えたク二だったことは明らかですし、そのク二から配布してもらわなければゴホウラ貝腕輪は入手できなかったということでしょう。

ク二が成立しなかった三雲などの怡土平地ではシャーマンの威信財としてはゴホウラ貝腕輪が配布されず、そのため別の腕輪を自ら調達する必要があったのでしょう。
それが銅腕輪やガラス腕輪だったということでしょうね。
ですので、怡土とは遠隔地の丹後でガラス腕輪が出土しますが、それぞれの集落が独自に入手して宗教的威信財としたものだということになります。
怡土と丹後の間に政治的連携があった可能性は、非常に低いと思われます。

ゴホウラ貝腕輪については、いろいろ勉強になりました。
ありがとうございます。

451 :日本@名無史さん:2022/12/20(火) 07:22:05.39 ID:wghyifHnR
レシップスは増幅だよな

452 :a:2022/12/20(火) 12:40:11.72 ID:y5vkXMUiv
https://spontaneous-cobbler-dbdeb6.netlify.app/14.html

453 :日本@名無史さん:2022/12/20(火) 16:25:07.96 ID:CIQlqHDmj
まあ言えば、レッテル張り効果だな。

454 :日本@名無史さん:2022/12/21(水) 13:40:44.32 ID:uGP53BU6Y
博多の比恵遺跡で出た石板は3世紀の硯だとされてきましたが、江戸時代の硯だとする調査結果が出てきましたね。
この分では、伊都国の硯も再検討の必要があるかも知れません。
まったくのドンデン返しとなるのかどうか、今後が注目されます。

455 :日本@名無史さん:2022/12/22(木) 23:19:21.65 ID:GYoQOlFIF
>>454
訂正1
比恵遺跡は間違い。
正しくは西新町遺跡。

訂正2
江戸時代の硯は間違い。
正しくは砥石。

456 :日本@名無史さん:2022/12/24(土) 14:32:26.84 ID:NckeOKwEs
伊都国がどのような立ち位置にあった国なのかは、倭人伝よりも魏略を見るほうが分かりやすい。
魏略では、「帯方より倭に至るには…対馬国に至る…一支国に至る…末盧国に至る…伊都国に至る」と道順を示したあと、
「その国王は皆女王に属すなり」と書いてある。
帯方郡などからの使節が留まる所とする字句はどこにも見えないし、
対馬から伊都までの四ヶ国の王は皆倭国の女王に所属しているとしている。

一方、倭人伝では対馬などの四ヶ国の道順は同じだが、
伊都国については「…伊都国に到る」として魏略の「至」字ではなく「到」字を用いて書いている。
そしてそのあとに「世々王有りて皆女王国に統属す」と続けている。
伊都国の王たちは皆女王国に統属してきたとするものだ。
さらにこの伊都国は「郡使往来するに常に留まる所なり」と書いて締めくくっている。

上の魏略が対馬から伊都までの国の王たちが皆倭国の女王に所属しているとしているが、
倭人では女王に所属しているのは伊都国の歴代の王たちだとし、その伊都国に帯方などの使節は逗留しているとしており、
この部分が魏略と大きく異なっていて、倭人伝は魏略の記述を書き換えていることが分かる。

魏略のほうが先行する史書であることからすると、倭人伝の伊都国に関する書き換えは明らかに意図的なものであることが考えられる。
なので、この倭人伝の記述に立って伊都国を理解すると、倭人伝の著者の意図に乗せられてしまう危険性がでてくるというわけ。
十分に注意する必要があるだろう。

457 :日本@名無史さん:2022/12/24(土) 15:24:37.68 ID:0CuNLspFi
まあ、魏略も倭人伝もイト国を伊都国と華美な字でもって記述しているところを見ると、
どうも帯方郡に非常に協力した国であったことが推測される。
倭国が魏の冊封国となることについて、伊都国の働きが大きかったことへの褒美だった可能性も考えられる。
帯方郡に忠実な国だったということになってくるな。

458 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:49:24.12 ID:8Fd89PlMA
>>450
こちらこそありがとうでした。
青銅器だけでなく、
貝釧の繋がりでクニを論じることができる、ということを
逆にそれだけ力強く主張してもらえたことで、
考察が進みました。

>>384
>>417
甕棺墓については、
男系も、少なくとも伊都国王系と奴国王系、のどちらも入っている、
女系も、少なくともカモ系とワニ系、のどちらも入っている、
ことから、部族を示すものでは無く、官職を示すものである、可能性が高いですね。

>>418
四隅突出については、
男系は、中国山地に逃げ込んだ、奴国王の兄達一族に比定されうるわけですが、
女系はカモ系とワニ系が交互に入っているので、女系はどちらでもいいと考えられます。

459 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:50:37.14 ID:8Fd89PlMA
>>434
>満潮の時には舟が通れるけれども、
>干潮の時には浅瀬あるいは陸になって舟が通れない。

海神ワニ王が新伊都二代目に渡した、潮満珠と潮乾珠が連想されますね。

仮説ですが、
交通信号だったのかもしれません。

潮の干満は6時間おきに繰り返しますね。

伊都と斯馬國の間の水道(仮に糸島水道と呼びます)を通るのに、
干潮時刻に通ろうとすると、座礁してしまい、水道が通れなくなってしまうわけですね。
先日もスエズ運河で座礁事故が起きて、しばらく通行不可になってしまい、
巨額の賠償金をどこが払うかで揉めていましたね。

糸島水道の浅い部分の両手前に、ワニ族の信号係の櫓があって、
通行可能時間には潮満珠が掲げてあり、
舟は通行料を払って糸島水道を通過できる。

干潮時間には潮乾珠が掲げてあり、潮が満ちてくるまで皆待っていた。

のかもしれませんね。

460 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:52:21.98 ID:8Fd89PlMA
そう考えると、
新伊都一代目はカモ系で、宰相Aタカヒコは新伊都二代目の兄を推していた。

新伊都二代目は一旦失脚して、古代豊国のワニ王に匿われた。

>>448
Aタカヒコ政策の問題点が次第に大きくなり、
ワニ勢力の復権を求める流れができて、古代出雲にて新伊都二代目が挙兵した。

新伊都から出陣した兄水軍は、糸島水道を通って古代出雲へ向かおうとした。

新伊都二代目+ワニは、潮乾珠を通常より長めに掲げて兄水軍を待たせた後に、
小戸にて干潮時間を迎えるタイミングで潮満珠を掲げて、兄水軍が糸島水道を進み始めた。

途中で潮が引いてきて、兄水軍の先頭集団が座礁してゆき、
兄水軍が糸島水道内で進退窮まったところで、
新伊都二代目+ワニの伏兵が、両脇の山側高所から攻め込んだ。

兄水軍は動けない舟から降りて応戦したが、
低地にて不利、かつ足場が悪く、苦戦しているうちに、
今度は潮が満ちてきて、動きも取れなくなり、溺れる者も多数で敗北した。

勝利した新伊都二代目が高祖宮に収まった。

461 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:52:48.89 ID:8Fd89PlMA
魏略逸文を出典別に並べると以下のようになります。

<漢書> 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
『倭在帯方東南大海中 依山島為國 度海千里復有國 皆倭種』

<翰苑> 卷三十
『従帯方至倭循海岸水行歴韓國 到枸耶韓國七十余里
 始度一海千余里至対馬國 其大官曰卑拘副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海至一支國 置官至対同 地方三百里
 又度海千余里至末廬國 人善捕魚能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属王女也

『女王之南又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆點而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身以避蛟龍之吾
 今倭人亦文身 以厭水害也』

<北戸録> 卷二 鶏卵卜
『倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視占吉凶也』

<三國志> 東夷伝倭人条 裴松之注
『其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀』

<法苑珠林> 魏略輯本 所引
『倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余』

462 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:54:22.61 ID:8Fd89PlMA
>>456
翰苑の原典を見ていただくとわかりますが、
魏略逸文においても「伊都に到着」しており、しかも伊都が最終目的地となっています。

魚豢が記した魏略は、陳寿の三国志より若干前に完成したと言われていますから、
梯儁の報告書は参照できたけれども、
張政さんの旅行日誌が手に入らなかったわけですね。

倭 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」であり、
邪馬台国は、「やまと」に対して張政さんが宛てた当て字であり、

里程は里数のみ。
伊都で女王卑彌呼に会えたし、
几帳面な陳寿は念のため卑彌呼前任地(邪馬一国)である奴國+不彌國までの里程も記した。

日程は日程のみ。
北部九州倭国=張政さん卑彌呼女王様時代の邪馬台国の、都=三雲遺跡まで、帯方郡から水行30日+陸行1日。

『倭在帯方東南大海中 依山島為國 度海千里復有國 皆倭種』
倭は九州島に倭国を成しており、千里渡海すると倭種の國がある。
つまり、倭人の倭国(=卑彌呼邪馬台国)とは、九州島に限定されるわけですね。

463 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:55:16.33 ID:8Fd89PlMA
>>245
対馬は北の上島と南の下島(古代は逆)から成る細長い島で、
古代延喜式の時にも上県と下県がありましたから、

それに対応して、
1-3世紀には、北に対馬國、南に対海國、がそれぞれあったものと思われますね。

里程は57年金印後漢使の来倭出張時のものなので、
狗邪韓國→千余里→対海國方可四百余里→千余里→一大國(一支國)方可三百里
は判っているけれども、
対馬國の正確な大きさや渡海距離は実測記録が無かったので、記載できなかったわけですね。

金印後漢使や、張政は対海國に停泊したけれども、
梯儁は対馬國に停泊した、ということですね。

ただ、狗邪韓國→ →一大國が、1000+400×2+1000=2800里なのはほぼ同じですから、
総計12000余里は変わらず記載できたことになります。

464 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:55:48.60 ID:8Fd89PlMA
<翰苑> 7世紀唐 著:張楚金

『倭國
 憑山負海 鎮馬臺 以達都』 (臺の上部は吉でなく去)
『後漢書曰 倭在朝東南大海中 依山島居 凡百余國
 自武帝滅朝鮮 使驛通漢於者州余國 稱王 其大倭王治邦臺 (臺の上部は吉でなく去)
 楽浪郡徼去其國万二千里
 其地大較在會稽東 与珠雀?耳相近』
『魏志曰 倭人在帯方東南
 炙問倭地 絶在海中 州島之山或絶或連周旋可五千余里』
『四面倶極海
 自営州東南 経新羅至其國也』
『分職命官 統女王而列部』
『魏略曰 従帯方至倭循海岸水行歴韓國 到枸耶韓國七十余里
 始度一海千余里至対馬國 其大官曰卑拘副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海至一支國 置官至対同 地方三百里
 又度海千余里至末廬國 人善捕魚能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属王女也』
『早弥娥 惑翻叶群情 臺與 幼歯方諧衆望』(臺の上部は吉でなく去)
『後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王師升至
 桓遷之間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺
 復立卑弥呼宗女臺與 年十三為王 國中遂定 (臺の上部は吉でなく去)
 其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳?之也』
『文身點面 猶稱太伯之苗』 黒占
『魏略曰
 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆點而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身以避蛟龍之吾
 今倭人亦文身 以厭水害也』
本文はまだ続く

465 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 17:05:41.27 ID:8Fd89PlMA
翰苑の一続きの記載もまた、
伊都国までで到着していますし、

倭国の説明にて、「其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳?之也」
が組み込まれていますね。

四面倶極海でもありますし、
北部九州倭国ですね。

これを転写していたのは大宰府の官人でしょうから、
この流れで正しかったということですね。

466 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 21:52:27.39 ID:7coCRbtZs
>>464
翰苑の魏略では、「到伊都国」となっていますね。
「到」が正しいようです。

「至」は真っすぐに届く意で、一方、「到」は曲折して届く意のようです。
「到伊都国」は、末盧に着いてから曲折して進んで伊都国に至るの意になりますね。
真っすぐ進むか、方向を変えて進むかの違いがありますが、至と到はその程度の違いのようです。
根本的な違いはないようです。

467 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:53:05.39 ID:8Fd89PlMA
絹は中国並びに日本にとって重要な交易品でしたね。

中国では紀元前3000-6000年に絹生産が始まったとされており、
シルクロードを通して遥かエジプトやローマ帝国まで輸出していましたし、
蚕や桑の国外持ち出しは厳しく制限されていました。

日本での絹は、紀元前1-2世紀の、早良区有田遺跡の甕棺墓から銅戈に付着した絹が出土したのが最古で、
弥生時代の絹は全て福岡佐賀長崎県から出土しています。

甕棺墓からの出土が多いですが、
土壙墓や組み合わせ石棺墓などからも出土していますし、
かの吉武高木遺跡の、三種の神器が副葬された3号木棺墓にても、
銅矛銅戈を包んでいた絹が検出されています。

北部九州で最初期に出土する絹は、四眠蚕(4回脱皮したら繭を作る)のものですね。
朝鮮半島のは三眠蚕で、後になって楽浪郡経由と思われる伝播をしますので、
北部九州への絹生産法の伝来は、
稲のDNA解析結果と同じく、中国南部から伝来した可能性が高いですね。

468 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:53:55.51 ID:8Fd89PlMA
一方で、支石墓、ですが、
数としては、支石墓の大多数が朝鮮半島にあります。

支石墓には二種類あり、
卓子型支石墓(北方型支石墓)=支石が高いと、
碁盤型支石墓(南方型支石墓)=支石が低い、
があります。

朝鮮半島南部ならびに九州に見られるのは、後者ですね。

近年の研究から、同時期に双方が存在していることから、
源流はそれぞれ別である可能性が高いとされています。

469 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:54:54.54 ID:8Fd89PlMA
碁盤型支石墓の分布を見れば明らかですが、
・朝鮮半島では、南西部に密集している
・九州では、島原、五島列島、熊本など九州西岸に現れ始める
・九州では、いわゆる伊都國の西半分など、せいぜい福岡県の西半分までしか分布しない
・九州では、五島列島の宇久松原遺跡など、甕棺墓と混在する傾向がある
・支石墓は壱岐対馬に分布しない
・九州の支石墓は1世紀頃に終焉するが、甕棺墓は続く
といった特徴があります。

つまり、
朝鮮半島南部から九州へ伝播したのであれば、
壱岐対馬から出土するはずですし、
福岡県東部にも入っていくはず。

また甕棺墓という九州側の独自特色が強いことからも、
碁盤型支石墓は朝鮮半島南部からではない可能性が高いですね。

470 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:56:06.40 ID:8Fd89PlMA
碁盤型支石墓は、
九州においても、朝鮮半島南部においても、西岸に多い。
五島列島や島原といった、失礼ですが、西の辺境的な場所に多い。

といった傾向から、
中国南部から、海流に乗って、伝来してきた、
と考えるのが自然ですね。

浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)に碁盤型支石墓が13基ほど見つかっており、
甕棺墓も伴っているそうです。

副葬品には、銅矛銅戈銅斧銅鑿銅短剣、銅箭銅鏃、青銅製小型鐘
紡錘
などの弥生開始に必要な要素が詰まっており、
この石棚墓(碁盤型支石墓)の関係者が渡来してきて、
九州西岸に碁盤型支石墓などをもたらした、と考える人も多数いるようですね。

471 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:57:35.15 ID:8Fd89PlMA
九州における支石墓について検討してみると、
・出土する人骨が、縄文系の人が多い(渡来系の人骨もいるけれども)
・面として分布するというよりは、各地に飛び地的に固まって営まれている
・支石墓の副葬品は土器くらいで、威信材は無いのが普通。

ですから、
中国南部から交易や征服を目的として組織的に渡来して来た、
というよりは、
アクシデントとしての漂流者が、海流に乗って東に流され、
運よく九州や朝鮮半島の西岸に漂着した。

九州縄文人の集落で救助され、そこで縄文人に交じって生活し、
本人の場合もあるが、縄文人の配偶者やハーフの子供が支石墓に葬られる場合も多かった。
のでしょう。

支石墓は残るので目立ちますが、
当時の人口当たりの個数としてはごく少数ですね。
支石も1メートルちょっとのものが多く、近隣の山などで探せばありそうですよね。

ごく少数の漂流者がたまに来て、技術などを伝えつつも、
そのまま縄文集落に帰化同化したということでしょう。

472 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:58:34.53 ID:8Fd89PlMA
支石墓の群れに混じって、甕棺墓が出現してきます。

これもつまり、
漂流者の中にたまたま、稲を一束積んでいた農民がいたら、
それで九州縄文集落に稲作が伝来ですね。

漂流者の中にたまたま、桑の実と、四眠蚕を積んでいた養蚕家がいたら、
それで九州縄文集落に養蚕が伝来したわけですね。

蚕は生糸、絹を生み出して、産業の源にもなりますし、
繭を取ったあとの蚕蛹は食用にもなりますから、弥生時代にあっては貴重な蛋白源でもあった。
繁殖用においておくと、蚕蛾となって生まれ変わります。

甕棺墓は蚕の繭を模しており、
豊かさと、再生と、を象徴していたものと思われます。

473 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:00:10.17 ID:oV6Lk8FT5
養蚕伝来=甕棺墓の登場、ということですね。
甕棺墓=養蚕有力者、ということになります。

五島列島・宇久島の宇久松原遺跡には、早くも弥生早期の甕棺墓が出土しています。

縄文時代においては、日本側で海外に売れるものというのは、
翡翠や黒曜石ぐらいしか無く、
また朝鮮半島南部にもまだ鉄器青銅器が普及していませんから、
危険を冒して対馬海峡を渡海する必要性がそもそも無かったわけですね。

しかし、絹が作れるようになると話は別で、
中国が国外不出にしている高級品ですから、海外で高く売れるわけですね。

474 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:01:05.61 ID:oV6Lk8FT5
「国土交通省 地質図」

養蚕を開始したとして、では何が重要になってくるかというと、
「良質な畑」ですね。

蚕は桑の葉を大量に食べますから、桑が良く育つ土地が必要だったわけです。

桑は落葉性の灌木ですから、水はけの良い真砂土の畑。
つまりは『花崗岩』の土壌を求めて甕棺墓=養蚕有力者が展開していったわけです。

国土交通省の地質図で九州を見てみると、
花崗岩の土地がわかりやすく赤く記してあります。

桑がよく育つ花崗岩地域と、甕棺墓=養蚕有力者の分布域が合致することがわかります。

475 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:01:38.14 ID:oV6Lk8FT5
基本的には、
花崗岩あるいは玄武岩の土地は農業に適しており、
変成岩の土地は植物が育ちにくいようです。

国土交通省の地質図によると、
地質学的に、古代豊国は変成岩の土地ですから、桑が育ちにくかった。
ので、
養蚕をしても、花崗岩地域に比べて育ちが悪く、普及しなかったのですね。

ですから、豊國には、甕棺墓=養蚕有力者がやって来ず、
逆にそれ故に、領土を狙われることが無くて、
独立性を維持できたわけですね。

476 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:02:47.11 ID:oV6Lk8FT5
花崗岩の土地が、甕棺墓=養蚕有力者の分布そのままですね。

背振山系は花崗岩山系であり、
甕棺墓=養蚕農家がびっしりと群がって桑を植え、蚕を育てまくったわけですね。
絹バブルです。

博多湾東部だと、
古賀市は花崗岩で馬渡束ヶ浦遺跡など甕棺墓が出土していますが、
香椎は変成岩ですから、甕棺墓が入らなかった。
開発されずに残っていたので、後には逆に、宮の候補地になったのでしょう。

宇久松原遺跡の宇久島にも花崗岩があります。

離れた場所だと、下甑島にも花崗岩があり、ここからも甕棺墓が出土したらしいですね。

南島原で甕棺墓が出土したとのことですが、(島原市有家町中須川)
ここは玄武岩ですね。

壱岐島は同じく玄武岩で甕棺墓が出土。

477 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:03:25.53 ID:oV6Lk8FT5
あとは地理的政治的なもので、
五島列島の西側諸島にも花崗岩があり、甕棺墓が眠っているのか、
あるいは対馬海峡から遠すぎるので、輸送コストの問題で生産地に選ばれなかったのか。

熊本など甕棺墓が一時期だけ存在した場所は、花崗岩で無かったので、
コスト競争に負けたのか。

九州東岸の花崗岩も、豊國を越えなければならないし、
輸送コストの問題でしょうか。

478 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:05:23.03 ID:oV6Lk8FT5
明治政府と同じで、甕棺墓=養蚕有力者の勢力も、
絹を大量生産して、輸出することで、
青銅器などを輸入したのですね。

富の蓄積が始まって、甕棺墓からは青銅器が副葬され始めます。

養蚕の開始と共に、
縄文時代はさほど重要でなかった対馬海峡が、重要な交易ルートになったのですね。

その対馬海峡を仕切っていたのが、石棺墓勢力=ワニということですね。
ちなみにこの石棺墓は、後の新伊都二代目の奥さん豊国女王の実家の城野遺跡石棺墓まで続きますね。

古代の出雲や伯伎など地名は現在よりも西寄りで、
北部九州のものであったと推定されるのですが、
九州説の中には、それらは、本来はもっと西寄りだったと主張される方もいます。
そう考えると、豊國勢力は、本来もっと西寄りにいて、
西の有力者ワニは、
対馬海峡〜博多湾沿岸〜が本貫であった可能性もありますね。

479 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:47:22.38 ID:oV6Lk8FT5
おそらく花崗岩の土壌を求めてあちこち拡散したと思われる、
北部九州における支石墓の分布が、
福岡県東部に入れなかった、ということは、

支石墓(石棚墓)渡来人を吸収した、北西部九州縄文勢力と、
ワニなど北東部九州縄文勢力(八雷神)とは、
それぞれが別の、緩やかな広域クニを形成していた可能性が高いですね。

そして伊都説で考えるならば、
もう一つの、有力なおそらく九州中部縄文勢力が、
その中間にいたことになります。

さらに言うなら、豊國から東に渡海した、古代越の地域には、
縄文時代の有力勢力である、八岐大蛇(中ノ浜遺跡?)がいたことになります。

九州の有力中部縄文勢力が、脊振山系頭部で暮らしていたのを、
その花崗岩の土地を求めて、
北西部九州縄文勢力(支石墓甕棺墓→絹生産)と、
北東部九州縄文勢力(八雷神→ワニ対馬海峡交易ルート)とが、
連合して攻めた、ということでしょうね。

480 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:47:58.78 ID:oV6Lk8FT5
微妙な話になるのであれですが、
空想世界の話として、
北西部九州縄文勢力(支石墓甕棺墓→絹生産)は、
>>471
支石墓の段階ですでに、
>・出土する人骨が、縄文系の人が多い(渡来系の人骨もいるけれども)
のと、
支石墓が早々に姿を消している。
(標石墓や須玖岡本D地点などはあるにせよ)
ことから、
考古学的には、縄文系の可能性が高いと思われますね。
しかし文献的には、くどく呉の太伯の末裔と自称し続けているので、
どうでしょうね。
文献の方は、本当は縄文系だけれども、箔をつけるためにそう自称していた、という可能性もありますが。
DNA解析が進むとハッキリしてくるでしょうが、どうなんでしょうね。

481 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:48:43.01 ID:oV6Lk8FT5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/876

古代に渡海する場合、真夏で晴れならいいですが、
それ以外の季節や、雨に降られると、
潮しぶきで体が濡れて、低体温症になる危険がありますね。

>>428
体温維持のために、耐水性の高いサメ皮の衣服が必須だったのでしょうね。
油を塗ったサメ皮の衣服と、サメ頭部の帽子をかぶって、完全防水の姿で渡海していくので、
サメが舟を漕いでいくような光景だったのでしょうね。

>>375
甕棺墓=養蚕有力者を多数従えた吉武高木大王家と、
対馬海峡渡海を受けもつ、女系外戚ワニのタッグだったわけですね。

対馬海峡渡海時に遭難した場合、対馬海流で流されて、
まず目指す避難場所が沖ノ島だったと考えられ、
その近辺もワニ族が押さえていた、と考えると、
ワニ族は飛び地的に、対馬海峡と、古代出雲の一部と、を押さえていたのかもしれませんね。

482 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:49:29.61 ID:oV6Lk8FT5
国家の運営像としては、
<甕棺墓=養蚕有力者>
温暖な九州の花崗岩地域で桑がよく育つ
→蚕がモリモリ桑の葉を食べてよく育つ
→大量の生糸、絹が生産される
→<対馬海峡渡海専門のワニ族>が絹を朝鮮半島側に運ぶ
@
→朝鮮半島南部の神a派が、同じ燕系の衛氏朝鮮で多鈕細紋鏡など青銅器と交換してくる
→ワニ族と神a派はマージンを受け取る

A
→朝鮮半島南部で鉄資源を入手する
→鉄資源をワニ族が対馬海峡渡海して北部九州へ運ぶ
→田熊石畑遺跡将軍が、丹後扇谷遺跡へ鉄資源を運び込み、現地の木材を燃料に鉄器を生産する
→鉄器を北部九州に輸送して使う

という形だったのでしょうね。
明治政府と酷似していますね。

483 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:54:18.33 ID:oV6Lk8FT5
中国がそうであったように、

吉武高木王家ならびにワニ族にとって、
絹こそが富の源泉ですから、
当然のことながら、専売独占したわけですね。

豊國東部(古代伯伎國)の有力部族であるカモは、
背振山系南部で養蚕に参加してはいたものの、
海外交易の利益のほとんどは、吉武高木やワニ、神a派に取られてしまう。
金属器に乏しい状態で、環濠集落+銅鐸で東方開拓していたわけですね。

そこに風穴を開けようとした、女性実業家が、ヤガミヒメだった、のでしょう。

国土交通省、地質図で、本州四国を見ると、
中央構造線の北に、花崗岩のベルト地帯があることがわかります。

瀬戸内高地性集落の大半は、花崗岩の土地を選んで建設されており、
弥生時代の石油である、木材と炭、の生産はもちろんですが、
おそらく桑の栽培と養蚕にも手を出そうとしたのでしょう。

平形銅剣女王が、新規開発した、瀬戸内高地性集落群=木ノ俣、にて、
絹をも大量生産する。
そしてその海外販売ルートが、紀元前1世紀に楽浪郡と組んで勢力伸長した、
奴族ですね。

衛氏朝鮮が滅亡して没落した燕系にとって代わって、
奴族が海外交易ルートを担当しつつあった。

その倭地における有力奴族の末弟に目をつけたわけですね。

484 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:57:39.19 ID:oV6Lk8FT5
絹販売の独占を、敏腕女社長のベンチャー企業に破られそうになって、
銅矛銅剣戦争が勃発したわけですね。

既得権益派が、吉武高木王族の田熊石畑遺跡将軍、ワニ銅矛、(亡命神a派)、
ベンチャーが、銅剣女王、奴族、(亡命甲羅派)、
と見事に分かれますね。


しかしながら、奴族のおぼっちゃんが、女性関係の妙によって、
いつの間にか田熊石畑遺跡将軍の後釜に座っていて、
奴国王金印にまでつながった、ということでしょう。

子沢山の秀吉、のようなサクセスストーリーだったのでしょうかね。

485 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:24:57.07 ID:oV6Lk8FT5
奴国王が70年に奴国大洪水で失脚しますから、
被災地の福岡平野から甕棺墓が消えて、
新伊都に甕棺墓大王が出現しますね。

養蚕に大事なのは、花崗岩の真砂土土壌や温暖な気候と共に、
「平和な世の中」が必須ですね。

弥生時代も変わらず竪穴住居の天井部分で蚕を飼っていたでしょうし、
戦乱などで家屋が破壊されたりする状況だと、養蚕はできないのですね。

よって、倭国乱の時期は、養蚕がしにくくなって、甕棺墓=養蚕有力者が減ったでしょうし、

あるいは難升米の故郷である伊邪國は、定期的に倭国軍が攻めてきて、逃げ回らなければならなかったので、
難升米が司馬懿に話して広志に記録されたように、革を着ていたのですね。

486 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:26:05.98 ID:oV6Lk8FT5
紀元前の扇谷遺跡の丹後半島も、花崗岩
紀元後の五斗長垣内遺跡・舟木遺跡の淡路島も、花崗岩

鉄工房を稼働する燃料となる木材が育ちやすい場所をちゃんと選んで建設していたのですね。

>>418
>三輪山、保久良神社、楯築遺跡、など、
>巨岩を並べる磐座、立岩の遺構が残るのは、
>基本的には大倭の輸送拠点跡地と考えられ、

これらも花崗岩の土壌ですね。

銅矛銅剣戦争で、銅剣女王國が滅ぼされたのも、
初代のお方が、豊國岡田ワニで準備してから瀬戸内東征したのも、
専売品である絹の新興生産地を粛清するためだったのでしょうかね。

487 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:26:41.07 ID:oV6Lk8FT5
後漢書にて、東夷で養蚕しているのは、倭と辰韓のみですが、
三国志では、倭、?(ワイ)、馬韓、弁辰、とほとんどの国が養蚕を行っています。

公孫氏が養蚕を奨励したのか、
あるいは倭国乱で倭からの絹輸出が減ったことで、半島側でも絹を自給するようになったのか。

いずれにせよ、文献からは、
主な輸出先であった朝鮮半島で養蚕が盛んになっており、
戦乱続きの倭の絹産業は大打撃を受け、甕棺墓=養蚕有力者が消えていったわけですね。

488 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 21:37:49.89 ID:XkPY6nYLZ
>>480
志摩町の支石墓人骨の抜歯形式について、中橋孝博という学者の考えがサイトで見られます。
それによりますと、「抜歯形式では上顎の犬歯、下顎の切歯・犬歯を主とした抜歯痕がみられる」として、
「長崎県根獅子遺跡や佐賀県大友遺跡など西北九州の弥生人骨や西日本各地の縄文集団で流行したもので、かなり在来色の強い形式」としています。

この考えからしますと、海外からもたらされた支石墓を取り入れた新町遺跡の弥生早期の集団が、その墓に彼らの一員で縄文系の抜歯を行った人物を葬ったということになりますね。
このことは、菜畑遺跡などの最初期の水田稲作の集落から出土した土器には縄文系の模様がほどこされていることと軌を一にすることでしょう。
伊都地域の弥生早期(縄文晩期末)の住人は、縄文世界に住んでいた人々だったとしていいのではないでしょうか。

一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、淮河の場合は淮夷と呼ばれていたようです。
2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。
その彼らは縄文人と混血して人口を増やしていきます。
ですので、彼らは自分たちがどこからやってきたのか、子孫に記憶を残していたのではないでしょうか。

そして、その後、漢の時代に司馬遷が史記をまとめ、その中で周の太伯と虞仲が長江河口付近に領地を得たことが書かれますが、
この事績は当時の役人など知識人に共有された有名な話だったと思われますし、それが話として倭の彼ら水田稲作人にも伝わり、それが彼らの出自の記憶と被さった結果、
「太伯の後」という新たな記憶が生まれたものと考えることができるのではないでしょうか。
そして、魏略に記されますように、魏の使節が邪馬台国の有力者に彼らの出自を質問すると、彼らは「太伯の後」だと告げて胸を張ったということだと思われますね。

489 :日本@名無史さん:2022/12/29(木) 16:16:15.04 ID:wg3t23nwZ
糸島新町遺跡の支石墓など南方系のものの中国での分布は、浙江省〜江蘇省に広がるそうです。

一方、朝鮮半島南部の南方系支石墓や新町遺跡支石墓などは縄文晩期(弥生早期)の時期に当たるそうですので、
ちょうど水田稲作が菜畑などに渡来する時期に重なりますね。
その時期を3000年前頃としますと、この時期は中国では周の5代穆王の在位時期です。
穆王の事績と江蘇省あたりの地方が重なるのは、大規模な淮夷排撃です。
ですので、この淮夷排撃によって淮河下流域から避難した水田稲作民が、菜畑などにやって来たと考えることができます。

江蘇省のその淮夷のいた地方も支石墓の分布域に入りますので、これらの避難淮夷が新町遺跡などに支石墓をもたらした者たちであった可能性を考えることができますね。
このように考えますと、新町遺跡などの南方系支石墓が浙江省温州あたりから直接もたらされたと考えなくてもよくなります。
そして、渡来したこの淮夷の水田稲作民がもたらした南方系支石墓を自分たちの墓として取り入れたのは、在地の縄文人たちであったとすることは可能ではないでしょうか。

このようにみますと、五島列島などの南方系支石墓は浙江省温州あたりから直接もたらされたとするよりは、九州本土から普及したとみることもできますね。
このあたりの考えは、どうでしょうか。

490 :a:2022/12/30(金) 12:19:41.60 ID:cBQKtSHw0
http://www.geocities.ws/setsinrigaku/23.html

491 :日本@名無史さん:2022/12/30(金) 15:07:10.34 ID:XSbDzu0EI
ある意味、社会的自我は抑圧によって形成される。
この抑圧のメカニズムによって形成される自我をアイデンティティと呼ぶことが可能です。
もちろん、強度の抑圧は、その社会的自我をいびつなものにしてしまい、社会適応をむつかしくします。
ここらの抑圧機能の調整が大事です。
調整役のその働き手を名付けるとすれば、それは「他者から与えられる愛情」でしょう。
宗教などもその力の一つでしょうね。

492 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:30:59.95 ID:Pl6QGsmmk
>>489
幅広い考察ですね。

呉の太伯関連ですが、
江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡人骨(春秋時代:前8〜5世紀)と、隈西小田遺跡とで、
ミトコンドリアDNA配列が一致する人骨がありましたよね。

隈西小田遺跡の被葬者が渡来一世とは考えにくいので、
梁王城遺跡人骨と同じ母系の「女性」が渡来してきて、
さらにその女性子孫が産んだのが、隈西小田遺跡の甕棺墓被葬者、
ということになります。

女性を伴う遠距離渡来ということになり、
梁王城遺跡関係者から北部九州に「集団の渡来」があった可能性が非常に高いわけですね。

同様に、
山東省臨錙遺跡についても、最終的には土井ヶ浜遺跡へ、
「集団の渡来」があったのだろうと考えられるわけです。

493 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:32:10.62 ID:Pl6QGsmmk
さらに梁王城遺跡から出土した5000年前の人骨は、
いずれも上顎の側切歯を抜歯しており、
身長180センチ以上の高身長の人も複数いたとのことですから、
弥生人と共通する資質を持っていたことになります。

縄文時代には上顎の犬歯を抜歯していたのが、弥生時代から上顎の側切歯が多くなる。
また安徳台遺跡の甕棺墓被葬者には身長176センチの人が2人いたり、
弥生時代に入ってから高身長になるわけですから、

まあ弥生時代開始時期にこの地域から複数回の「集団の渡来」があったのだろうと
考えられますね。

文献で対応するものとして、上で検討したように、
臨錙遺跡からの「集団の渡来」は徐福が候補になるわけですし、

梁王城遺跡からの「集団の渡来」については、呉の太伯の子孫も候補になってきますね。

>>489
>穆王の事績と江蘇省あたりの地方が重なるのは、大規模な淮夷排撃です。
淮夷の反乱を平定したり、東夷26邦を従わせたのは、
穆王の前の4代昭王(前995-977)とありますから、
菜畑遺跡の開始時期と重なってきます。

あとは石棚墓との関係が焦点になってきますね。

494 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:33:48.18 ID:Pl6QGsmmk
人間の永久歯、ですが、
最大で上下に左右8本ずつ、合計24本ですね。

中央から、
中切歯・側切歯(I:incisor)
犬歯(C:canine)
第一小臼歯・第二小臼歯(P:premolar)
第一大臼歯・第二大臼歯・第三大臼歯(M:molar)
の片側8本ずつ。
第三大臼歯(=親知らず)の生える本数(0-4)は個人差がありますね。

生えてくる順番は遅い方から、
犬歯(11-12歳)>第二大臼歯(12-13歳)>第三大臼歯(17-21歳)


噛み合わせ(咬合)については、
鋏状咬合 現代人、顎が発育不全で上顎前歯が下顎前歯の前にかぶさる
鉗子咬合 縄文人、顎ががっしりしていて上顎と下顎の前歯が同じ位置
反対咬合 病的、咬合不全や発音不全となる

495 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:36:34.07 ID:Pl6QGsmmk
古代の抜歯についてですが、
・縄文人は上顎犬歯を抜歯+下顎
・弥生人は上顎側切歯を抜歯(+下顎)

・上顎中切歯は抜かない
・縄文人の上顎犬歯抜歯は12歳頃
・他の歯は、虫歯でも抜歯していないことが多い
・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる

抜歯の無い正常歯列を上下左右
MMMPPCIIIICPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM
とします。

496 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:37:04.14 ID:Pl6QGsmmk
抜歯を?で示すと、

縄文人は両側の上顎犬歯を抜歯するのが基本で、

<0型> 上顎犬歯のみ抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

<2C型> 上顎犬歯+下顎犬歯も抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPP?IIII?PPMMM

<4I型> 上顎犬歯+下顎切歯を抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPPC????CPPMMM

などいくつかのバリエーションがあります。

弥生人は、土井ヶ浜人でよく調べられていて、
両側あるいは片側の上側切歯を抜歯するようになります。

MMMPPC?II?CPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

あるいは

MMMPPC?IIICPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

等ですね。

497 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:39:09.35 ID:Pl6QGsmmk
抜歯は「古代の歯列矯正」と考えられますね。

抜歯は痛いですし、
古代だと抗生物質が無いので感染症を起こして死ぬ危険もあります。

それでも敢えて抜歯していた理由を考えると、
歯列矯正、が最も当てはまります。

抜歯の風習は、縄文時代には集落によって80-100%だったわけですが、
弥生時代から減少して、甕棺墓被葬者では10-20%。
古墳時代以降はしなくなりますね。
その結果として、歯科治療が発達する前の日本人について、西洋人から見ると、
出っ歯が多い
歯並びが悪い(乱杭歯)〜犬歯が目立つ(八重歯)→吸血鬼などを連想させて怖い
というイメージだったわけですね。
明治時代の西洋の新聞とかに書かれる典型的日本人はたいてい出っ歯ですね。

縄文時代は調理法が未熟でしたから、歯並びを揃えてしっかり噛むことが重要だったわけです。

歯列矯正するのに、現代であれば、
ワイヤーや、マウスピースがありますし、
親知らずが生えてきて他の歯が圧迫される場合には、親知らずを抜歯できます。

縄文時代の歯医者さんが使える手段は、抜歯のみ。
しかも奥歯を抜くのは困難。

なので、前にある犬歯を抜歯して、歯槽骨(歯ぐき)のスペースを空けて、
歯列矯正、親知らずも正常に生えるよう促したわけですね。

498 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:45:33.37 ID:Pl6QGsmmk
抜歯するなら抜きやすい前歯を抜歯するとして、
縄文人は犬歯。弥生人は側切歯を抜歯していましたね。

犬歯の方が大きくて抜きにくいのに、縄文人がなぜ犬歯を抜歯したかというと、
日本人は水平方向に咀嚼
欧米人は垂直方向に咀嚼
する傾向があるとのことですから、
尖った犬歯が水平方向咀嚼時に邪魔だったのですね。

それと、大きい犬歯を抜くことで、歯ぐきになるべく大きな余裕を空けて、
第三大臼歯=親知らず、が正常位置に生えてくる確率を上げて、
第一小臼歯〜第三大臼歯の臼歯群をフルで使う、ことが重要だったのでしょう。

生存率に大きく影響したと。


弥生時代になると、
渡来人がやってきて、調理水準が上がって、そこまで噛み合わせに全力をかける必要が無くなった。
渡来人の歯医者さんもやって来て、側切歯の抜歯を推奨してきた。
つまり、縄文時代に比べると、美容的な意味が強くなり、
医療的にはまあせいぜい親知らず対策くらいが主目的になり、
犬歯よりは小さい側切歯、しかも場合によっては片方だけだったり、
抜歯しないという選択肢も増えたわけですね。

499 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:47:05.70 ID:Pl6QGsmmk
下顎の抜歯については、
縄文時代は、鉗子咬合の人が多かったからですね。

抜歯すると、
横幅のスペースが空くのと同時に、
歯列は口内へ、奥へと倒れます。
傘を閉じると、傘の骨の間のスペースが狭くなるのと同時に、傘の骨が中央へ倒れていくのと同じですね。

縄文人は、鉗子咬合=上顎と下顎の大きさが一緒ですから、
上顎を抜歯すると、上顎の歯だけ奥に移動することで、
下顎の歯が外に位置する、反対咬合になります。

よって、上顎と歯列を合わせるために、下顎の抜歯もしたわけですね。

縄文時代の歯医者さんとしては腕の見せ所で、
鋏状咬合の人であれば、元々下顎のほうが小さいので、しばらく様子を見る、
場合によっては下顎の抜歯は不要。これが0型ですね。

鉗子咬合の人は、口の中を覗き込んで、
第二大臼歯の奥に十分なスペース=親知らずが生えるスペースがあるなら、
抜歯を見合わせるが、
基本的には下顎を抜歯しておいたほうがいい。
2C型などになります。

500 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:50:21.46 ID:Pl6QGsmmk
大事なのは上顎の中切歯2本、ど真ん中の2本ですね。
これが正常でないと、サ行やタ行が発音できなくなります。

上顎よりも下顎の歯が小さいですから、
上顎の中切歯2本には、下顎の中切歯側切歯4本ともが当たります。

上顎の犬歯を抜歯した後に、下顎切歯が上顎中切歯を押す形になってしまった場合、
放置して、
上顎中切歯が前に飛び出る(=極端な出っ歯)になってしまうと、
発音障害をきたします。
もちろん見た目も酷いものになりますね。

ですから、上顎中切歯が押されている程度に応じて、
下顎切歯群を左右対称に抜歯して、歯列矯正を調節したのですね。
2I型や4I型になります。


ちなみに、古代に世界の他の地域において、上顎中切歯2本の抜歯例がありますが、
これは刑罰や奴隷などでしょうね。

501 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:51:35.55 ID:Pl6QGsmmk
縄文集落で、上顎犬歯の抜歯率が、80%の集落と、100%の集落がありますが、
歯医者さんの差ですね。

見立てのいい歯医者さんがいる集落は、
11歳時に、上顎の歯の大きさと、歯ぐきの広さを確認して、
親知らずが生えるスペースが十分にあるなら、抜歯せずに様子を見る。

縄文人だって人ですから、
無駄な抜歯をしないですむなら、それに越したことは無かったわけです。

歯医者さんがいなかったり、
先代の歯医者さんが、奥義を伝授する前に亡くなったり、
歯医者そのものが、面倒くさがりだったり、
といった事情のある集落だと、
とりあえず12歳になったら全員の上顎両犬歯を抜歯しておいたのでしょう。

502 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:56:03.17 ID:Pl6QGsmmk
>・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる

プラントオパールで明らかになっているように、
縄文人が稲、アワ、ヒエ、などのイネ科の雑穀を食べていたからですね。

ちなみに、岡山県の彦崎貝塚からは、
イネ、コムギ、オオムギ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエ、といった、
「複数の」プランオパールが出土しているので、
「栽培していた」ことがわかりますね。

ヒエだけ、などわずかな種類だけ食べていたのならば、
集落近くにたまたま原生で生えているものを採集した可能性がありますが、
これだけ多種類の物を食べていたということは、
各種の雑穀を人間が集めてきて、畑で栽培していたことを示しています。

食事の話に戻ると、
縄文時代は器具が未発達ですから、
脱穀、籾摺り、精米などをしようと思っても、莫大な労力と時間がかかったわけです。

集団の構成人数が少ないので、分業体制が確立しておらず、
狩猟採集その他、毎日やらなければならない作業が山のようにあったので、
炭水化物に関しては、平常時には穂のまま食べていたのですね。

503 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:57:53.76 ID:Pl6QGsmmk
例えば稲なら、茶碗1杯が2株とのことですから、朝に4株くらい持って、
仕事に出かけます。

で、歩きながら、そして仕事をしながら、食事をしていたわけです。

穂を1本むしり取って、例えば右手に茎を掴んで、穂を横向きにくわえます。
で、右の上下臼歯群で茎を噛みながら、茎を右手で引っ張り抜くと、
籾だけが口の中に残りますね。
これを数回繰り返して、籾を全て口の中に回収します。
脱穀ですね。

口の中に籾が溜まったら、ゆっくり咀嚼して、
臼歯群で籾を割っていきます。

籾を割りながら唾液をまぶしていくと、
中の米部分に唾液が浸透してゆき、次第に柔らかくなって、
ガムのようにくちゃくちゃ咀嚼して、でんぷん質を練り出して接種したのですね。
チューインガムを噛んで、糖分だけ接種するイメージです。
籾摺りですね。

十分に時間をかけて、中身の米を溶かして接種して、甘い味が無くなったら、
籾だけの残りかすを吐き出して、(歯みがきにもなる)
また穂をちぎって、次の脱穀へ。

504 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:58:37.55 ID:Pl6QGsmmk
仕事をしながら、口の中では脱穀籾摺り調理食事歯みがき。
これを日中ずっとやっていたのでしょう。

男性で力が強くて、せっかちな人は、
こち亀の両さんのように、
歯を食いしばって一気に茎を抜き取るパワフルな脱穀を繰り返した結果、
長年のうちに、
>・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる
になったのですね。

日中ずっと籾をくちゃくちゃやって、
日が傾いて来たら集落に帰って、
肉や魚を焼いて食べたり、野菜を食べたりしたのでしょう。

505 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:02:16.43 ID:Pl6QGsmmk
この食事方法の場合、
例え集落の倉庫に稲穂を保管しているにせよ、

その大半は朝に株・稲穂ごと持ち出して、
集落の外で仕事しながら茎も籾も吐き出して、
そして帰って来ますから、

例えば集落で脱穀その他をするようになった後世に比べると、
縄文集落から出土するプラントオパールの量は非常に少ないものになりますね。

506 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:03:44.79 ID:Pl6QGsmmk
細かいことを詰めると、
小臼歯を失っている人は若くして亡くなっている人骨が多いのですね。

臼歯列を5分の1失いますから、
臼歯列で穂から脱穀する効率や、籾をすりつぶす効率が落ち、
栄養摂取率が落ちて寿命が短くなったのでしょうね。

縄文時代に結婚相手を選ぶときは、前歯ではなく、
臼歯の本数をチェックしたことでしょう。


一方で、調理した跡も見つかるわけですが、
縄文集落では身分差がそこまで顕著ではありませんね。
戦争も無い平和な時代ですから、
我々の社会と同じ考えで行くと、

身体障害者や乳幼児、そして高齢者、のために、
石器で脱穀、籾摺りをしてあげて、せめて玄米の状態にして、調理したものを
毎日出してあげていたのでしょうね。

507 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:05:32.39 ID:Pl6QGsmmk
山鹿貝塚の古代女王は抜歯をしていませんね。

これはつまり、彼女たちを共立している勢力というのがそれなりの大勢力であり、
共立女王たちは、ちゃんと脱穀籾摺りされた食事を毎日献上されていた、
ということでしょうね。

後の甕棺墓被葬者の抜歯率が低いのも同様の理由ですね。
養蚕で裕福なので、きちんと調理された食事を食べる生活が代々保証されており、
歯の大きさ対歯ぐきの広さ比率がよほど悪い人や、
親知らずが生えてきて痛みがひどい場合、
などだけ抜歯したのでしょう。
その代わり、後の日本人同様、歯並びは悪かったでしょうけれども。

あと、出土する人骨は身分の高い人がほとんどですから、
一般人の抜歯率はまだ相変わらず高かっただろうと思われますね。

508 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:25:29.68 ID:Pl6QGsmmk
>>500
>上顎中切歯が前に飛び出る(=極端な出っ歯)になってしまうと、

ああ、逆でしたね。
この場合も反対咬合が問題で、上顎中切歯が下顎切歯より後ろになってしまうと
様々な問題が発生するので、
下顎切歯を抜歯した、ですね。

509 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 23:03:24.95 ID:EHG+ejYBd
>>488
>一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
>2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。

それは強引すぎるでしょうね。

O1b1とO1b2に分岐したのが約3万年前と言われています。
それで現在、O1b1がインド〜ベトナム〜中国、O1b2が日本〜朝鮮半島〜北東アジア
に分かれています。
(曹操はO1b1)

>中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、
これは単なる推測の一つであって、ハプロタイプを調べた裏付けはありません。

3万年前にDNA上で分かれたO1b1とO1b2が、
3千年前にどちらも長江〜淮河で稲作していて、
そのうちO1b1だけ中国に留まり、
O1b2だけが日本などに稲作を伝えて、稲作できない寒冷地域へ拡散していった・・。

かなり厳しいストーリーですね。

510 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 23:05:08.64 ID:EHG+ejYBd
Y染色体ハプログループは取り扱い注意ですね。

今後、より細かい分岐まで解析されるにつれ、
数回のどんでん返しがあるものと予想されますね。

例えば、O系統であっても、O1bまでしかわかっていない段階であれば、
長江で稲作をしていたO1bが、朝鮮半島経由で日本に稲作を伝えたんだ!
で科学的に終了していたわけですね。
それがO1b1とO1b2に分かれていて、O1b2が稲作とは関係ない地域へ拡散しているので
状況が変わっている。


現時点での単なる印象としては、出アフリカして、
まずCが来て、当時渡れたアメリカ大陸やオーストラリアへ渡っていった

次に我らがDが来て、チベットや日本へ分岐したが、
その頃にはアメリカ大陸やオーストラリアは渡れなくなっていた。

臨錙遺跡からの徐福集団は、女系ミトコンドリアDNAにて白人と同じ系統と判明したので、
男系Y染色体も白人C1A2と近い、
C1A1なのだろう。

O1b2が奴族。

O2が中国からの渡来人の本流。

「日本に来ていないO1b1」は長江〜淮河の稲作に関与しておらず、
O1b1とO1b2は3万〜2万年前に中国からそれぞれ南北に一旦追い出されたのだろう。

511 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 00:23:45.19 ID:DjSPxjpqr
>>493
菜畑などで出土する山ノ寺式土器の年代調査では、前930年〜前860年頃という年代が考えられているようです。
また、ウィキの「菜畑遺跡」では、最下層の水田の年代を前930年頃としているようです。
そこで、前930年と周王朝の王の在位年代と重なる王を見てみますと、穆王(前976年〜前922年)がこれに当たります。
一方、昭王の在位は前995年〜前977年となっています。
穆王は、在位37年目に淮夷を率いる徐偃王を楚に命じて討伐させます。
この年は前939年になりますので、その9年後頃に菜畑で水田稲作(前930年)が始まるように計算することができますね。

このようにみますと、昭王の在位期間と菜畑の水田稲作開始年代とは、時間にやや開きがあるようにみえますね。

512 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 20:51:34.13 ID:DjSPxjpqr
>>509
このYハプロから見る種族関係は、非常に面白いですね。

O1b1とO1b2が分岐したのは3万年前頃とされていますが、
この両者の生活圏が全然別であったかどうかの点については、まだ誰も指摘していません。
そこで、注目の淮河流域を見て見ますと、三国時代の魏の始祖となった曹操の墓が見つかっていて、
その墓の人骨のY遺伝子を調べたところO1b1a2aという結果が出て、曹操のYハプロはこのO1b1a2aだったとされています。
そして、曹操が出た曹一族が住んでいたのは、江蘇省の徐市あたりだったとされています。

一方、ベトナムの主要なハプロはO1b1a1aで、このハプロの原郷は長江の南の江西省や広東省あたりとされています。
ベトナムのO1b1a1aと曹操一族のO1b1a2aは非常に近いハプロですので、双方は元々はこの長江の南のあたりにいた種族を祖先としていることが想定されます。
そうしますと、曹一族は長江流域を越えて北の江蘇省へ移動したO1b1a2a系の一派の中の一族というふうにとらえることもできそうです。

そして、日本に水田稲作をもたらしたとされますO1b2の水田稲作民は、非常に遠いところからゃってきたとは考えにくいですし、
最も近い水田稲作地帯が江蘇省の淮河下流域であることを考えますと、
曹一族が属した徐州あたりのO1b1a2aの種族と菜畑のO1b2の水田稲作民は、ごく近くで共生していたと考えることが可能になります。
このことからしますと、遺伝子の分岐自体は3万年前とされますが、その分岐した二つの同系種族はごく近くに住み続けていたと考えることも可能なのではないでしょうか。

O1b1a2aの曹一族が江蘇省の徐州あたりに住んでいたことを特殊な例とするか、それともごく普通のことだったとするかで考えは相当違ってきますが、どうでしょうか。

513 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 21:53:43.25 ID:DjSPxjpqr
>>510
中国で高身長の地方は、満州と山東省が有名ですね。
山東省の出身の孔子も高身長だったとされています。
山東省の臨?遺跡の人骨がコーカソイドだったとされていますが、
この山東省の種族のルーツと関係がありそうなのは、Y-R1bですね。
R1bの言語とされるケントゥム語は、西ヨーロッパと中国西域のタリム盆地北縁あたり(天山南路)に確認されているようです。
タリム盆地北縁の言語は、トカラ語と呼ばれています。
8世紀頃まで存在していたとされていますね。

臨?遺跡の人骨がコーカソイドとしますと、このR1bのトカラ語話者と関係してくるように思われます。
この臨?市のある山東省が現在でも中国で高身長のトップ級の地方であることと、古代の西域タリム盆地北縁のR1b種族の存在は、
なにか関連があるのかも知れません。
タリム盆地北縁あたりの原住種族が山東地方へ移住した、というような記録はないのでしょうか。

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