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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

225 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 08:47:43.96 .net
>>223

物部の拠点である纏向に宮を構えた崇神天皇は、物部氏を代表する天皇だろう。
あなたの印象論には根拠が不足している。

226 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 20:02:46.94 .net
>>225
確かに根拠が不足してるから印象論になるのですが
まぁ論と言うほどでもないです
単なる感想ですよ
この辺はさらに検討を深めないといけないですね

227 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 21:55:52.54 .net
>>225

> 物部の拠点である纏向に宮を構えた崇神天皇


秀吉が血縁者ではない黒田如水の本拠地である姫路を本拠地にしたケースもあるからなあ。なんともいえない。

228 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 10:42:34.28 .net
纒向遺跡が物部の拠点なのか?

これは崇神が物部氏そのものなのかという課題に直結する
論点としては面白いな

229 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/20(土) 08:00:04.72 ID:Cxg943uMp
>>218
無理ではねえ。
いいか。神功元年は西暦201年だ。
神功摂政から70年後は神功70年で西暦270年だ。つまり皇紀930年である。

この年応神天皇元年して

 西暦270年=神功70年 応神天皇即位

いかれたオメーの融通の利かない計算違いだ。

残念でした。いいか、昭和天皇崩御したとき、運免は昭和65年まで有効となってるが、崩御にて平成と年号が変わっても運転免許証のは平成64年で
終わるのではなく、この運免の昭和65年まで有効とは平成2年まで有効とみなすのだ。
だから応神元年は神功70年とみなすで、この数字は運免同様有効となる。うんと泣け!

230 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 16:05:05.36 ID:EqgFPrJgx
おめーも書いているように、神功元年から70年目が応神即位年だ。
しかし、その70年目を神功70年とするは、おめーの脳内スイッチ切り替えポイントがいかれた病状そのものを表しておる。
神功年は69年までしかねーの。
しかし、まあ、ちょっと間違えましたと謝れば、許してつかわす。

231 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 16:38:45.92 ID:EqgFPrJgx
>>223
「こうやの宮」の神像は、相当新しいね。
中央の神像には五七の桐紋が描かれている。
天皇が菊の紋を使い出すのは平安中期以降とされているので、この神像は平安中期以降に作られたものということになる。
これらの神像がセットで作られたのであれば、七支刀を持つ神像も「応神・継体期に物部が九州に戻った」ことを示す証拠になりにくいと思うけど。

232 :太国という人間の過ち:2023/05/20(土) 17:38:14.15 ID:Twa++/07i
明治維新と言う過ち

233 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/20(土) 20:47:13.28 ID:Yp3L7Vrh6
いかれ武論頭アマ工作員よ
神功摂政皇太后元年の70年目の1/1を 1/1神功70年 というのだ。
69年までしかねえなどと文句をつけても、70年目が応神即位元年だ。
そこで70(07)の手前に近接して69数字があるだろ。これは69年で終わりだとか
ぐずつくオメーの主張ダメだとをうっちゃってるんだよ。うんと嘆け!

234 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 23:17:55.55 ID:mbMhE2TLf
古代史はロマンという過ち。

235 :日本@名無史さん:2023/05/22(月) 01:43:36.46 ID:xcehyiXE6
物部は、崇神紀で今の神主のような役割を担う職掌として描かれている。
しかし、一般に物部は軍事を扱う氏族とされていて、祭事に関わる氏族としての理解は少ない。
しかし、天皇の大嘗祭においては、その前日に、天皇は衣装を着る際に物部氏由来の呪文を受けることになっているという。
これを見ると、崇神紀で物部氏が神主のような役目をしていることと同列であり、物部氏が神事にも関わる氏族であることは間違いない。

では、物部氏の神事における役割は、どこから来たものなのか。
おそらく、古代においては、職人はそれぞれの職掌において独自の神事、祭事を行っており、
その神事において職人のその職掌独自の祭式があったことが考えられる。
物部氏は和鍛冶が本職であったことから、鍛冶に関する神事の祭式を持っていたと考えるのがよいだろう。
また、物部の鍛冶屋は、刀のほか鎧なども製作したはずで、その鎧を身に着けるときの祭式、つまり呪文もあったと考えられる。
この鎧を身に着けるときの物部の呪文が、天皇が大嘗祭の前日に衣服を着るときに受ける物部の呪文の起源だとみなすことが可能だ。

なぜ、軍事氏族の物部氏が独自の神事の祭式を持っていたのかというと、それは鍛冶職人の儀式、祭式が元になって発展したものがそのまま保持されていたからだろう。
また、軍事にも物部氏のその鍛冶由来の神事、祭式が用いられたと見るのがよいだろう。

236 :太国という人間の過ち:2023/05/22(月) 05:13:02.97 ID:i/V8fkccQ
古事記とか日本書紀とか皇紀は全部インチキ。

237 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 19:05:15.43 .net
>>228
いくら論点として面白くても長文ポエム垂れ流し君は「議論」をする気が無いからなあ。
論拠も論理展開も提示せずに譫言を書き連ねてるだけだから話にならない。

238 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 07:02:58.73 ID:pK7v7x2FW
>>236
神宮をなめてるらしいオマエの主張は全部インチキ

天津神算木から、崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=1 13.0973 3552923255658465516179806 1/3皇紀973年 仁徳天皇即位

皇紀は連綿として現代まで来ている。

三輪は3すなわち3.0ミワを示唆し。、三輪でない時代、後神武天皇崩御は1912年7/30のところミワ30を外して
1912年7月から半径 r=1.912007 としたとき、天津金木として

r=11.48494 2588111054424361684809286

239 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 07:14:31.68 ID:pK7v7x2FW
追加訂正
神宮をなめてるらしいオマエの主張は全部インチキ

天津神算木から、崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=1 13.0973 3552923255658465516179806 1/3皇紀973年 仁徳天皇即位

皇紀は連綿として現代まで来ている。

三輪は3すなわち3.0ミワを示唆し。、三輪でない時代、後神武天皇崩御は1912年7/30のところミワ30を外して
1912年7月から半径 r=1.912007 としたとき、天津金木として円の面積sは

s=11.48494 25881110 54424361684809286 皇紀2588年11/10 皇紀2588年11/10 昭和天皇即位

これは神武から連綿として皇紀年代が継続している理証文証である。

240 :日本@名無史さん:2023/05/22(月) 14:43:16.00 ID:xcehyiXE6
>>237
まあ、ワイ説をたたき台にして、ああれでもない、こうでもないと議論に入るのがよい。
そもそも、崇神紀に「物部の連の祖伊香色雄をして、神班物者とせむと占うに、吉し」と書かれているが、
なぜ物部が「神班物者」にふさわしかったのか考えねばならない。
きみらは物部に詳しいのだから、その答えを出せるはずだ。
議論は、そこからはじまるのだよ。
わははははは。

241 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 19:23:00.36 ID:cIsNFyX/K
ワは神国日本の0の時代、イは1の時代をいう。神武以前は1の時代であって、特別以外神州
に大陸人半島人は天帝の鎖国により入国できない。日神誕生からが1
の時代であって、イ人とやらも天帝の完全鎖国により渡海入国はできない。
このころ
金銅たる日韓の混血は水と油のごとく合金できない。混血は当時無い。純金であって純日本人だけだ。
混血許容はもっともっと後代のことである。大陸の真鍮と日本の黄金とはもともと「別」の近族である。

242 :日本@名無史さん:2023/05/23(火) 03:09:30.72 ID:Tc9+4X4j7
おめーのオジサンダジャレは、笑えねーよ。
今や、縄文+弥生人+古墳人の三重構造論の時代だからな。
どんだけの渡来者が来ているのか、計り知れんぞ。
実際、おめーの遺伝子は、大陸由来だったりしてな。
大笑いだ。
わははははは。

243 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/23(火) 09:32:13.98 ID:yQfkTHKSV
貴近族商に真鍮を黄金ですといって買ってくれと行っても、貴近族商は
このイカサマを完璧に見破る。銅アマ、これは黄金ではないですから買いませんと
これを拒否される。

朝鮮人女工作員よ
おめーは青銅の魔人の国(金兜山)の青牛怪の妖アマだ。

超太古の神国日本には天帝の天則にて大陸半島人は入国できない鎖国の
神策があって、百七十九年余前、宇宙船が九州クジフル嶽に天降り(着陸)
しての天孫降臨から悠久の時代の間天帝が純金を保持して来た。オマエの縁戚
の真鍮たる女真と、黄金の国ジパングたる 日本の黄金民族との合金(混血)
は天帝の外国人渡来鎖国天則のため、超太古の0(ワ人)の時代入国させない。
すなわち超太古のとき、純金たる天孫民族の日本人は銅という近族の
入国はできず、全く混血ができない。
だからこそ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。

真鍮(女真)と黄金(日本)とは根源からして別の近族であって、
半島から物理的に流入しやすい九州四面に、古事記は悉く『別』の字をつけて
入国は水と油の如く混入しない「別」の近族だと分かる字の記述があって、混血は当時不可能事
である。
朝鮮人女工作員よ
いくらほざいても貴近族商はおめーの主張を認めない。
入国可能はもっともっと後代のことであり、金銅佛のような合金はできない。

オマエの国はあのブスの銅像を世界各地にぶっ立てるからして、銅級民族だと
判別できるのである。

 神州ハ不滅ナリ

244 :太国という人間の過ち:2023/05/24(水) 18:36:27.70 ID:y2LnSbJPM
明治維新と言う過ち

245 :日本@名無史さん:2023/05/25(木) 02:38:47.41 ID:h9GhC9wb/
饒速日は物部の祖という過ち。

246 :日本@名無史さん:2023/05/25(木) 21:34:24.36 ID:FK1JsyoWv
饒速日が物部の祖、天火明が天皇家の祖

247 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 02:06:39.30 ID:Px6hwC235
丹後の海部氏、熱田の尾張氏の祖神が、天火明だよ。
天皇家の祖神は、火の二二ギ。
その火の二二ギの兄が天火明。

物部の系図が信用できんのは、天火明を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、別々の神を寄せ集めていること。
火明も饒速日も、物部の祖神ではあ〜りません。

248 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 10:33:23.90 ID:KpMV074S2
海部氏も尾張氏も神武天皇の子孫

249 :太国という人間の過ち:2023/05/26(金) 12:16:51.82 ID:WXfK3Lri5
明治維新と言う過ち

250 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 13:21:54.54 ID:xB4SrGdop
神武が実在したと言う過ち。

251 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 14:10:26.45 ID:KpMV074S2
神武=天村雲

252 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 17:11:10.97 ID:xB4SrGdop
神武は天村雲とフツノ御魂剣を担いで、熊野の山越えにさぞかし重かっただろうな。
まあ、大河小説だから、そのあたりは歴史考証しなくていいか。

253 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/26(金) 21:22:52.99 ID:Bn/cIonQ1
御陵があるんだから小説ではない。

254 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 23:24:06.25 ID:KpMV074S2
神武と天村雲の妃の名前は同一である(阿平津媛)

天叢雲剣を所持していたのは瓊瓊杵尊と崇神天皇であることが、
はっきりしているが、三種の神器として天皇即位式に使っている
ことからして神武天皇も所持していたはずだ。
天叢雲剣の名の由来は種々あるが天村雲が所持していたからという
ことも多いに考えられる。
これも神武と天村雲が同一とする根拠だ。

255 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 08:58:19.29 ID:odY0Pf1ot
明治維新と言う過ち

256 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 15:52:29.72 ID:Voe9q1ggC
物部は天火明命と饒速日命の二柱の神を取り込んで、自族の祖先神としたようだ。

天村雲命は海部氏の祖神の天火明命の孫神というのが、海部氏の系図が示すところ。
これを見ても、物部は海部氏の祖神を自族の祖神として取り込んだことが分かる。
だから、天村雲命は物部の系統の神ではないよ。
饒速日にしても、物部が四条畷の馬飼いの神を取り込んだものだ。

しかし、天村雲命の名から書紀編纂室がムラグモの名を引っ張って来て、スサノオが天照大神にそのムラグモ剣を手渡したという話を作った可能性はあるかもな。

257 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 18:52:32.99 ID:DtcoP61MR
1代神武から3代安寧の母の父は事代主
4代懿徳から7代孝霊の母の父は事代主の子
8代孝元の母の父は事代主の孫
9代開化から10代崇神の母の父は物部氏

事代主と饒速日はどちらも伊可古夜姫と道主日女を娶っていることから
同一人物。
ということは神武から崇神まで母はすべて饒速日系ということになる。

天皇家と饒速日は出雲の国譲りの同志であり天孫族ということで
硬い絆で結ばれていた。
神武が天村雲であるから饒速日は海部氏、尾張氏とも当然結び付きが
強かった。

当時は通い婚で安寧天皇は黒速(饒速日)の館で生まれたと言われている。
物部氏が天皇家つまり海部氏や尾張氏の祖伸を自族の祖神として
祀ったとしてもなんらおかしなことではない。

258 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 01:31:13.91 ID:26sPnyX8j
物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは、欽明天皇の頃以降とする研究がみられる。
安寧天皇が物部と関連するとされる弟磯黒速の館で生まれたとする系譜は、物部氏が磯城に拠点を持つようになる欽明以降につくられたものとするのが妥当。
欽明天皇の頃以前の物部氏は5世紀後半以来天理や交野を拠点としていて、この時期には天皇家とつながる立場ではなかったとみることができそうだ。
海部氏や尾張氏が始祖とする火明命を物部氏が自族の始祖に取り込んだのは、後代になってからだと考えることができるのではないか。

259 :太国という人間の過ち:2023/05/28(日) 11:49:35.95 ID:nkJMB09UE
明治維新と言う過ち

260 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 14:51:33.18 ID:7a+D4AnDw
先代旧事本紀では、物部氏の祖神は鍛冶神の天津麻良としているようだ。
このあたりが、物部氏が自認した自族の祖神ではないか。

261 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 15:18:09.61 ID:gr27uoPM1
>>258
>物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは、欽明天皇の頃以降とする
>研究

は誰の研究か教えてください。

その研究のなかでそう結論づけた根拠も教えてください。

交野を拠点とした物部は天村雲(神武天皇)の子天忍男と結びつき三島陶邑を
つくった。
そして崇神天皇を暗殺しようとした武埴安彦を生んだ埴安媛の父がその流れを
汲む河内青玉繁と聞いており物部氏は何度も天皇家と繋がっているのだが。

262 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 15:28:18.24 ID:gr27uoPM1
>>260
天津麻羅は饒速日だよ

263 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 01:45:58.95 ID:jJiLnvmpK
>>261
物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは欽明天皇の頃以降とする研究があるとしたのは、「欽明天皇の磯城嶋金刺宮について 前田晴人」の論文による。
この論文の12Pの上から19行目〜22行目にそのように書かれている。

「欽明天皇の磯城嶋金刺宮について 前田晴人」でググれば、開いた画面の一番上にあるよ。

264 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 03:24:28.39 ID:jJiLnvmpK
>>261
三島陶邑は聞かない名だ。
高槻の三島の近くに新池窯があり、今城塚古墳の埴輪はこの新池窯で造られたそうだ。
三島陶邑を新池窯とすれば、交野からは近い。
新池窯は5世紀中頃〜6世紀中頃まで操業した最古最大級の埴輪窯とされている。
交野物部氏の鍛冶工房は5世紀後半から始まったとされるので、何らかの関係があるかも知れない。
そうすると、天忍男命は5世紀頃の人物ということになるが、それでよいのだろうか。

それとも、三島陶邑は新池窯とは別の窯なのか。

265 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 03:52:54.64 ID:jJiLnvmpK
>>262
先代旧事本紀では、饒速日の天降りに随行した神々の内にこの天津麻羅がいたと書いているそうだ。
また、古事記では、天照大神が岩戸隠れしたときに鏡を造る神の一人として「鍛人天津麻羅を捜し」と書いている。
この「捜し」の記述からすると、鍛冶職人はあちこちを移動して仕事を受ける者であったことが分かる。
物部氏の先祖もこうした移動する鍛冶職人の一集団だったと考えることができそうだ。

まあ、先代旧事本紀からすると、天津麻羅は饒速日でないことは確かだね。

266 :太国という人間の過ち:2023/05/29(月) 07:27:56.57 ID:79za84TUU
古事記も日本書紀もインチキだよ。

267 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/29(月) 13:20:53.02 ID:7dzjfmMgA
インチキならば、その文を具体的に書き込め。いつも上っ面だけ。

268 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 18:00:36.70 ID:toraf8zF2
>>265
訂正
古事記に「鍛人天津麻羅を捜し」と書かれているとしたのは、「鍛人天津麻羅を求め」が正しい。

269 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 15:49:21.71 ID:lfPtNCgAn
鍛人天津麻羅は物部氏の祖神であるのは、ほぼ間違いない。
そうすると、先代旧事本紀が書いている饒速日は、物部氏の祖神ではないことになってくる。
このことは、ワイが主張しているように、饒速日は物部氏が取り込んだ神であり、物部氏の本来の祖神ではないということと整合性を持っている。
では、日本書紀が記す饒速日とは、いかなる神か。
饒速日を部族の祭祀者とした長脛彦とは、何者かということになる。

270 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/30(火) 16:17:56.04 ID:RM1I/bpT3
とにかくおめーのような朝鮮人ではねえ。

271 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 16:21:13.02 ID:lfPtNCgAn
前からワイが主張しているように、長脛彦(足が長い者=背が高い者)の表現と合う身体的特徴を持つ者は、
5世紀中頃に大阪の四条畷で馬飼いを始めた女真人に一致する。
女真人は現在の中国でも1、2を争う長身族であることから、
その四条畷からすぐ東の白庭台を拠点とした長脛彦とは、四条畷の馬飼い女真人の一派のあだ名であることを示していると言える。
そうすると、饒速日は女真人と関連する神である可能性が高くなる。

そこで、このニギハヤヒ(饒速日)の言葉を考えてみると、次のようになる。
ニギハヤヒ→二ギ(たくさん=和語)、ハヤ(速いのハヤ=和語)、ヒ(ヒヅメ=蹄のヒで、
女真語のヒタフン(爪)の語頭のヒと和語のツメを合わせてヒヅメ=蹄とした語。このヒヅメ(蹄)でもって馬を表した。
このことから、ヒは馬を表す語と理解することができる=女真語の語頭音)とみなして、ニギハヤヒ(饒速日)とは「たくさんの足の速い馬」の意味とすることができる。
このことから、ニギハヤヒ(たくさんの足の速い馬)とは女真人が四条畷で飼ったたくさんの馬を指す言葉で、白庭台に陣取った女真人の一派が祀った馬神であると結論することができる。

物部氏は、白庭台の要衝を掌握し、女真人からその神を奪って自らの神として祀ることで、白庭台が物部氏の縄張りであることを示したのだと考えることができる。
そして、その女真人との戦いの話が物部氏の武勇伝として伝えられ、その武勇伝を日本書紀編纂室が取り込んで、神武の武勇伝として仕立て上げたのが神武紀の生駒での饒速日と長脛彦のエピソードなのだ。

要するに、饒速日は元々は馬飼い女真人の神であり、物部氏がそれを取り込んで自らの祖神として加上した神ということになる。

272 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 16:22:24.13 ID:lfPtNCgAn
>>270
うるせーよ。

273 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 18:28:44.28 ID:lfPtNCgAn
>>270
おめーみたいに無意味に算木ばらまかんよ。
わははははは。

274 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 18:39:06.02 ID:qgCOGWu0u
>>263
論文をすべて読んだが
「物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは欽明天皇の頃
以降」
とする根拠は書かれていない。
この論文は随所に根拠を書かずに断言しているところがある。
あなたはこの論文を書いた前田晴人という人物を信じてこのように
断言して書いていたのですか。

275 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 18:53:54.77 ID:qgCOGWu0u
>>264
新池窯は高槻市の山間部、三島も高槻市ではあるが淀川河岸にある。
饒速日は三島と磯城で陶器を作っていたがこの2つが当時の2大陶器産地
と言われていた。
古墳に使われていた埴輪の多くを作っていたという。

大田田根子は堺市の陶邑出身といわれるように各地で陶器が作られて
いたということだろう。

276 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 19:26:55.71 ID:qgCOGWu0u
>>265
この饒速日の天降り随行リストは
船員、5部人、5部造、25部人に別れており、天津麻羅はこのうち
船員6人のなかの舵取りと5部人の一人に名が乗っている。
5部人は5部造と25部人を統括するものと思われる。
天津麻羅(饒速日)は全体の責任者であり、ある部の責任者でもあると
いうことだろう。現代で言えば総理大臣と財務大臣を兼ねたような
ものと言えるだろう。

>また、古事記では、天照大神が岩戸隠れしたときに鏡を造る神の
>一人として「鍛人天津麻羅を捜し(求め)」と書いている。
>この「捜し(求め)」の記述からすると、鍛冶職人はあちこちを移動して
>仕事を受ける者であったことが分かる。
>物部氏の先祖もこうした移動する鍛冶職人の一集団だったと考える
>ことができそうだ。
>
>まあ、先代旧事本紀からすると、天津麻羅は饒速日でないことは
>確かだね。

当時の「求め」という言葉は「捜し」と同義であったのではない
だろうか。

277 :太国という人間の過ち:2023/05/30(火) 20:51:42.94 ID:TZYhtER+t
古事記も日本書紀もインチキだよ。

278 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 21:44:14.95 ID:lfPtNCgAn
>>274
この前田氏の論文は、神武東征に関連して記される「県主一族が物部氏系の氏族である」ことは、それは「物部大連家が忍坂・登美・磐余などの地域に拠点を設けて以後」のことであり神武東征の時期のことではないとし、
このことからして、いろいろな資料にみられる県主の物部氏との「関係性が成立するのは継体・欽明頃のこと」としているもの。
前田氏は、県主一族が物部氏系であるのは物部大連が登美や磐余に進出したことに関連があると根拠を上げて、
県主が物部系となった時期は継体・欽明の頃だと結論をちゃんと示している。
根拠については、問題ない。
ただ、個別的な資料による説明をはぶいているので、根拠がないと錯覚するのではないか。

279 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 22:44:14.78 ID:lfPtNCgAn
>>275
書紀欽明23年に「摂津国三島郡埴廬」がみえ、この窯は大規模な埴輪工房だったとされている。
この三島郡埴廬は、新池窯のことのようだ。
三島陶邑とは、この三島郡埴廬と思われるが。

饒速日が三島で埴輪窯を稼働していたとするその出典は何か。

280 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 23:45:05.00 ID:lfPtNCgAn
>276
先代旧事本紀に物部氏の祖として書かれているのは、「五部の一つとして『物部造たちの祖・天津麻良』、船子として『倭鍛冶たちの祖・天津真浦』」。
これを要約すると「物部氏の祖であるとともに、倭の鍛治たちの祖であるアマツマラ(マウラ)」となる。
五部も船子も、饒速日を護り、饒速日が乗った船を漕ぐ者であるので、饒速日=アマツマラ(マウラ)にはならない。

281 :太国という人間の過ち:2023/05/31(水) 10:10:18.78 ID:oRh/QtBJ7
古事記も日本書紀もインチキだよ。

282 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 01:55:08.82 ID:OBvPx942P
>>279
欽明23年冬十一月に見える「摂津国三島郡の埴廬」は、新羅人が運営していたようだ。
欽明紀には、そのように書いている。
そうすると、饒速日が新羅から来た神でない限り、饒速日が運営した三島の埴輪窯とはこの欽明紀の「三島郡埴廬」ではないことになる。

283 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 03:09:03.79 ID:OBvPx942P
しかし、このもつれる糸のような饒速日と物部氏の関係をどう考えるのが一番合理的なのだろうか。

鍛冶神の天津麻良を祖神とする倭鍛冶系の物部氏は王権のもと天理と交野で鉄器生産を始めるが、
その後ヤマト王権における実力者にのしあがり、蘇我氏と朝廷の両翼を担うこととなる。
このとき、軍事氏族として大族となっていた物部氏は、自らの氏族の祖神が鍛冶神の天津麻良であることに物足りなくなり、
尾張氏や海部氏などが祖神とする天火明神を取り込み、またさらに自族の守り神として取り込んでいた馬飼族の神のニギハヤヒの神も自族の祖神に格上げしたのではないか。
その結果、天照国照天火明櫛玉饒速日という加上を重ねた祖神が誕生したと考えると分かりやすい。

これが、最もスッキリする理解の仕方だろう。
そうすると、鍛冶神の天津麻良は外来の神か、それとも倭系の神かということに絞って考究すればよいことになり、話が早くなる。

284 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 05:48:47.93 ID:OBvPx942P
天津麻良の麻良(マラ)とは何を表す言葉なのかが極めて重要だ。
このマラ(麻良)は鍛冶神の呼び名であるので、鍛冶の何かを表している可能性が高い。
そこで、鍛冶に関連して、マラの発音を持つ言葉を探ってみるのがよいだろう。
そうすると、外国語にぴったりする言葉がみつかる。

マラ(鍛冶関係)
ヒンディー語 maara(マアラ)=打つ、叩く
パンジャブ語 maro(マロ)=叩く、殺す
パンジャブ語 marana(マラナ)=叩く、殺す
ネパール語 marnu(マルウ)=叩く、殺す

これをみれば、ヒンディー語のmaara(マアラ=打つ、叩く)が、鍛冶神のマラ(麻良)に発音、語義ともに最も近いのが分かる。
また、パンジャブ語のmaro(マロ)、marana(マラナ)などもほぼ同じ発音であり、同系の語彙であることは明白だ。
ただ、ヒンディー語は13世紀頃に成立してくる言語だとされるので、日本の古墳時代などよりもずっと新しいので、
ヒンディー語のmaara(マアラ=打つ、叩く)をマラ(麻良)に当てることはできない。
しかし、ヒンディー語の祖語はカリー・ボリー語で、さらにそのベースとなっているのはプラークリット語だとされることから、
このプラークリット語にmaara(マアラ=打つ、叩く)の語源があるとみられる。
そして、その語源の言葉は、パンジャブ語のmaro(マロ)、marana(マラナ)などとつながっているとみることができそうだ。
おそらく、日本の鍛冶神のマラ(麻良)の言葉は、インドのmaara(マアラ=打つ、叩く)などの言葉と同系の語彙であり、
インドのmaara(マアラ=打つ、叩く)などの言葉を取り込んだもとみて間違いないだろう。
では、このインドの言葉のmaara(マアラ=打つ、叩く)などの言葉は、どのようにして日本にもたらされたのだろうか。…続きます

285 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 14:46:24.14 ID:08Pj68hzw
>>278
「物部氏が天皇家と緊密な関係を築いたのは継体・欽明以降」
の根拠として
「忍坂・登美・磐余に拠点を構えた物部大連家に対抗して推古天皇が
忍坂郷に鉄製武器類を制作する大規模な工房群を設置するなどした以降の
継体・欽明頃のこと」
という。

ほとんど理由になってないし意味がわからない。

286 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 15:22:11.78 ID:08Pj68hzw
>>279
>饒速日が三島で埴輪窯を稼働していたとするその出典は何か。

hikosugiyama66.blog.fc2.com

5世紀前半に始まり8世紀に終了した吹田窯跡群や桜井谷窯跡群
5世紀後半に始まった豊中窯跡群など当時三島に近接していた陶邑は
たくさんあった。三島陶邑もそれらの一つとして稼働していたと
考える。
新池窯が5世紀中頃から6世紀中頃まで操業しそれが三島郡埴廬とされ
三島郡埴廬が三島陶邑だとしたら三島陶邑もそのころのもので物部も
そのころ以降に活躍したのだと言いたいのだろうけど新池窯が
三島郡埴廬と断定できないし三島郡埴廬が三島陶邑とも断定できない。
三つが同じものとしても災害などで近くに移転して後には住宅が
建ってしまって発掘できていないことだって考えられる。

287 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 15:51:21.09 ID:OBvPx942P
>>284
…続き 鍛冶に関連するマラ(麻良)の言葉と同系の語彙とみられる言葉はインドの言語に見られるとして、

マラ(鍛冶関係)
ヒンディー語 maara(マアラ)=打つ、叩く
パンジャブ語 maro(マロ)=叩く、殺す
パンジャブ語 marana(マラナ)=叩く、殺す
ネパール語 marnu(マルウ)=叩く、殺す

を挙げたが、このほかにはサンスクリットのmara(マラ=破壊、殺者)もあるようだ。
サンスクリットのmara(マラ=破壊、殺者)は、パンジャブ語のmarana(マラナ=叩く、殺す)やネパール語のmarnu(マルウ=叩く、殺す)と明らかに同系の語彙だ。

これらのインドの言語にみられるmaara(マラ=打つ、叩く)などの言葉は日本の鍛冶神であるマラ(麻良)と同系の言葉である可能性が極めて高いが、
そうすると、このインドのmaara(打つ、叩く)などの言葉はどのような経路で日本にもたらされたのかが焦点となってくる。
サンスクリットにもmara(マラ=破壊、殺者)の語があることを見ると、maara(打つ、叩く)の言葉は仏教に関連した交易品に随伴して日本に入って来た可能性を考えることができる。
したがって、物部氏が自族の鍛冶の神としたマラ(麻良)は、5世紀以降に物部氏がインド由来の言葉から取り込んだ神であるとすることが可能になる。

このことに立脚すると、物部氏の祖神の天津麻良は元からあった物部氏の鍛冶神の名の上に被せて加上された神であることになり、
元々の物部氏の鍛冶神の名はかき消されてしまったとすることができる。
そうなると、鍛冶集団としての物部氏が渡来系であったのか、それとも外来の鍛治技術を取り入れた倭系の鍛冶集団であったのかについての判別の手立てがなくなったことになる。
非情に残念な結果となった。

288 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 16:02:18.20 ID:OBvPx942P
>>285
ほんま、意味分からんわ。
わははははは。

289 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 16:10:14.82 ID:08Pj68hzw
>>280

>>265の「天津麻羅は饒速日でないことは確かだね」
を否定するためには「天津麻羅=饒速日」を証明しなくてもいい。
「天津麻羅は饒速日でないとはいえない」を証明すればよい。

先代旧事本紀のなかでこのリストには表題がない。
表題がないのに勝手に饒速日の天降り随行リストと付けたから
リストに乗っている天津麻羅は饒速日の随行者で饒速日ではないと
考えてしまう。
このリストは天降りの組織図のように思われる。
饒速日の名前はこのリストには載っていない。
饒速日(天津麻羅)が総責任者であることは衆知の史実なので
組織のなかでどの位置の責任者でもあるのかだけが書かれているの
だろう。

>船子として倭鍛冶たちの祖天津真浦

舵取として天津麻羅、船子として天津真浦、船子として天津麻占(まうら)
と似たような名前がはいっている。

290 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 16:16:40.15 ID:08Pj68hzw
>>283
根拠のない思い込みですね。
なんでそんなに饒速日が嫌いなのですかw

291 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:04:03.13 ID:OBvPx942P
>>286
Fc2の「大王家巨大墳墓の埴輪製作をめぐる大抗争ー武埴安の変」には、「摂津三島岸部陶邑」と書かれている。
この陶邑は今の吹田市片山・岸部地域にあった窯のことであり、Fc2では「三島」と書いているものの、高槻の淀川沿いの三島を指していない。
「三島」とするのは、「三島郡」の意だろう。
この吹田市の岸部窯邑は、確かに高槻の新池窯ではないな。

292 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:22:39.05 ID:OBvPx942P
>>291
Fc2の「摂津三島岸部陶邑」は、おそらく吹田市岸部地域などにある「千里古窯後址群」のことだろう。
この古窯群は、5世紀末〜8世紀前半まで稼働したとされている。
饒速日が開いたとする陶邑は、これを指しているのではないか。
饒速日が現われたのは、5世紀末ということになるね。
物部氏が天理、交野に鍛冶工房を開いたのは5世紀後半とされるから、時期も合う。

293 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:24:32.68 ID:OBvPx942P
>>292
訂正
1行目の「千里古窯後址群」は、「千里古窯址群」が正しい。

294 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 18:00:18.82 ID:OBvPx942P
>>289
旧事本紀では、親神は天降る饒速日に地上の敵対者を防ぐために32人の者を付けたと書いているので、
そのリストは饒速日を防護するための役目の者のリストであるのは間違いない。
饒速日自身とは別の者たちのリストだね。
そのリストの中に物部の天津麻良がいるのだから、饒速日と天津麻良は別ということになる。

295 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 18:23:25.47 ID:OBvPx942P
>>290
饒速日は物部氏が自族の祖神として加上した神なので、本来の鍛冶物部氏の祖神とするにふさわしくないと思うからだね。
そして、天津麻良についても見てみたところ、このマラ(麻良)もインドの言葉が語源だと分かったから、やはり鍛冶物部氏の元々の祖神ではないとみなすことができる。
最後に残るのは鍛冶神とされる天目一箇神だけど、果たしてどうなのか。

296 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 14:36:10.99 ID:UDGf++zY6
>>295
鍛冶神とされる天目一箇神はフイゴの神でもあるが、
テンモクイッコノカミの漢音読みではなく、アメノマヒトツノカミの読みがよいだろう。
この神の別名には天目一神もあり、これはアメノマヒトツノカミと読むので、
「マヒトツ(目一)」が実名ということになる。

この「マヒトツ(目一)」は、明らかに和語だ。
語義としては「目が一つ」の意とされている。
鍛冶師が炭火をフイゴの風で起こす際に、その火を片目で見ることに由来するとするものや、
高熱で赤くになった鉄を槌で打つ時に飛び散る火花で目が痛められて片目になることに由来するなどの説が見られる。
これらの説は、マヒトツの音に当てた「目一」の漢字から解釈したものであり、「マ」の解釈は必ずしも「目」だけとは限らない。

では、その「マ」には「目」とは別の解釈ができるかどうか、ということになる。
そこで、注目したいのが、「マヒトツノカミ」は鍛冶の神のほかにフイゴの神でもあることだ。
フイゴは、渡来当時は革製のものが主流だったのではないか。
木製の箱式のものは、日本独自のものとされている。

この箱式フイゴの図を見ると、長方形の箱の前と後に吸気と排気のための口が設けられている。
こうしたケースでの口の形を表す「マ」の語は、「間(マ)」の意だ。
板壁などに設ける口形の「間(マ)」は、「間戸(マド)=窓」などと用いられる語である。
したがって、フイゴに設けられた吸気、排気のために設けられた口をマ(間)と呼んだとみなすことは妥当だろう。
「ヒトツ(一)」は、その箱の前後の板に開けられた口=マ(間)がそれぞれ一つであることを表すものと考えれば、
「マヒトツ」とはフイゴの吸気、排気のための口が前後にそれぞれ一つ付いていること「間一つ」を表す言葉であり、
「マヒトツ」はフイゴ自体を呼ぶ呼称であり、それを神格化したのが「マヒトツノカミ(間一つの神)」の名だと考えることが可能だ。
そして、その「間=口」を「箱の目」とみなしたのが「目一(マヒトツ)」の漢字表記だろう。

このように見ると、「アメノマヒトツノカミ(天目一神(天目一箇神)」とは、元々はフイゴの神であったことが推測できる。…続きます

297 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 16:19:14.15 ID:UDGf++zY6
>>296
…続きます このように、アメノマヒトツノカミ(天目一神、天目一箇神)が、元々はフイゴの神であった可能性は非常に高い。
そして、フイゴは鍛冶には不可欠の道具であり、このフイゴは鍛冶師をふくめた鍛冶全般に関わることから、
フイゴを神格化したフイゴの神の天目一神・天目一箇神は鍛冶全体に関わる神とされたことは、理解しやすいことである。

このことから、鍛冶を生業とする倭鍛冶物部氏が自族の神としてこの天目一神(天目一箇神)を戴いたことは、想定可能であろう。
そして、後に外来語の「打つ、叩く」を意味するインド由来のマラ(麻良)の言葉がもたらされたとき、
この鍛冶師に直結するマラの語から鍛冶師の神を創出して「天津麻良」として、鍛冶師集団である自族の祖神として戴くことになったのは考えやすいことである。
フイゴの神を表す「天目一神」は、大きな鍛冶師集団となった5世紀後半の物部氏にとっては、戴く神としてはやや不足を覚えるものであったということだろう。
この神の加上は物部氏が蘇我氏と並ぶ大族となったときにも行われ、取り込んでいた護り神の饒速日を大族物部氏の祖神に加上し、自族の祖神として戴くようになったと考えることができる。
さらにこのあと、平安時代になって自族の系譜を朝廷に提出するときに、尾張氏や海部氏が祖神とする天火明神を取り込んで、この神を加上することで自らの出自を天神まで引き上げたということだろう。

物部氏は、自族の祖神について、相当な努力をしたということになるな。

298 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:14:56.70 ID:GL5hhbuP9
>>288
じゃあ>>258は撤回するのですね。

299 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:33:48.82 ID:GL5hhbuP9
>>291-292
千里古窯址群の一つ桜井谷窯跡は当初6世紀前半のものと思われていた。
ところがそこから400m離れたところから5世紀中から5世紀後半のものと
される窯跡が発見された。
もっと古くからあったものとされたのだ。
今後の発掘によってさらに年代がさかのぼることも考えられる。

摂津三島岸部陶邑が千里古窯址群だとしても5世紀以降の
ものとは限らない。

300 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:52:00.52 ID:GL5hhbuP9
>>294
>旧事本紀では、親神は天降る饒速日に地上の敵対者を防ぐために
>32人の者を付けたと書いている

そんなことはどこにも書かれていない。
リストの直前に次のように書かれている。

原文
高皇產靈尊敕曰:「若有葦原中國之敵拒神人而待戰者,
能為方便誘欺防拒。」而令治平。
令三十二人並為防衛,天降供奉矣。

現代語訳
高皇産霊尊が仰せになった。
「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものが
いるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」
そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

301 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:55:44.64 ID:GL5hhbuP9
>>295
饒速日と天目一箇神はどちらも道主日女と結婚しているから同一人物

302 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 18:09:25.55 ID:UDGf++zY6
>>300
32人に防御の人として「(饒速日に)お仕えさせた」と、ちゃんと書いてるけど。
まなこにしっかり見えてる?

303 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 18:25:05.18 ID:GL5hhbuP9
「(高天原に)お仕えさせた」
な。

304 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 20:09:25.77 ID:UDGf++zY6
>>299
堺市の大庭寺遺跡の窯の場合、4世紀末〜5世紀前半まで遡って須恵器が造られたとされ、このあたりが現在最も古い須恵器窯のようだ。
この大庭寺遺跡の窯が物部氏と関係があったかどうかは分からない。
物部氏の交野と近いのは、千里岸部の古窯の方だね。

305 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 20:11:19.54 ID:UDGf++zY6
>>303
高天原から天降りさせないのかよ。

306 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 21:16:34.99 ID:GL5hhbuP9
正確には「(高天原政権が命じた大和への天降り事業に参加することで
高天原政権に)お仕えさせた」

307 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 21:20:00.40 ID:UDGf++zY6
>>301
饒速日の妻は、道日女。
天目一箇神の妻は、道主日女。
微妙に異なる。

天目一箇神と御上神社の祭神天之御影神は、同一神とされる。
どちらも鍛冶神だから。
これに対して、饒速日には鍛冶神の神性はない。
饒速日と天目一箇神は、別の神。

308 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 21:38:44.14 ID:GL5hhbuP9
>>307
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-2130.html

『先代旧辞本紀』や丹後の籠神社の社家である海部氏に伝わる
『海部氏勘注系図』では、道主日女は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト
=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻としている伝承も
あります。

309 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 23:43:22.80 ID:UDGf++zY6
>>308
確か、海部氏系図では火明の妻は市寸島比女で、先代旧事本紀では饒速日の妻は天道日女となっているけどね。

310 :日本@名無史さん:2023/06/03(土) 13:04:30.24 ID:DYsSOgQEY
どうみても、物部氏は天津麻良、饒速日、天火明の神を自族の神に加上して行った。
社会的地位の上昇とともにそれを行ったのだろう。
鍛冶氏族の物部氏の元々の神は、鍛冶神・ふいご神の天目一箇神だろうな。
倭鍛冶の系統だ。

311 :日本@名無史さん:2023/06/03(土) 21:49:51.78 ID:DYsSOgQEY
この5世紀後半の天理や交野の物部氏がどこから来たのかであるが、同じ奈良では古墳時代前期の纏向遺跡の巻野内で鍛冶の羽口や鉄滓が出土している。
鍛冶工房跡が見つかっていないのが問題となっているが、この時期の鍛冶集団は移動する職人であったとすれば、本格的な鍛冶工房がみつからないことと符号する。
こうした大和の移動する鍛冶集団が、5世紀後半の天理や交野の物部氏につながるのかどうか。

312 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 00:41:30.16 ID:5S7lVuFHF
移動する職人集団については、東阿波式土器の近畿一円での出土にもみられるとする考えがある。
徳島県の吉野川流域で発祥したこの東阿波式土器は、纏向遺跡やホケノ山古墳でも出土しており、
こうした東阿波式土器を造ったのは阿波から移動した工人集団の手によるものだとみられているのだ。
また、纏向遺跡の大溝には多数の板杭が護岸に打ち込まれ、その板杭が土手を護っていたが、この板杭にはヒノキ材が使われていた。
この板杭の原材となったヒノキの木は鉄斧を用いて木こりが伐採したと考えることができるが、
この時期の大和の出土物には鉄斧は一つも見つかっていないことから、移動する専業木こりがいたのではないかとする意見もある。
こうしたことから、3世紀中頃には移動する各種の工人集団が多数いて、纏向で出土した羽口や鉄滓もこうした移動する鍛冶工人集団によるものではないかとすることもできそうなのだ。

そうすると、5世紀後半に天理や交野で鍛冶工房を置いて鉄器生産を始めた物部氏も、
元は大和周辺で移動しながら鉄器生産を行っていた倭鍛冶集団だった可能性を考えることができることになる。
そして、3世紀中頃以前には、大和や近江、尾張では鉄器がほとんどなかったことからすると、古墳時代前期に纏向で見られる鍛冶集団は大阪や丹波以西からやってきたということになる。

このように考えると、3世紀中頃以前の大阪・丹波以西の移動する倭鍛冶集団の中に、古墳時代前期の纏向の鍛冶集団の前身がいたと見ることができるのではないか。

313 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 22:55:07.45 ID:5S7lVuFHF
淡路島の五斗長垣内遺跡の鍛冶炉は、3世紀には稼働されなくなった。
ここで鍛冶を行っていた鍛冶工人たちは、どこへ行ったのか。
移動する鍛冶工人集団にとって、新たに鉄器が出回り始めた大和地方は魅力のある地域ではなかったか。

314 :太国という人間の過ち:2023/06/05(月) 12:15:50.14 ID:7xj7Vw3Gq
宇宙戦艦ヤマト

315 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 15:14:40.58 ID:hmXOCVTxU
ヤマトかあ〜!

316 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 16:25:13.84 ID:hmXOCVTxU
>>296
訂正
フイゴの種類で、長方形の箱を用いるものは、日本では13世紀頃から現れてくるようだ。
なので、この箱式フイゴは古代のフイゴには当てはまらない。
古代のフイゴには革袋を用いたものがあり、日本書紀に「天羽鞴」が書かれている。
これは鹿の皮などを用いて作った皮フイゴだとみられている。
この皮フイゴでも吸気用の弁を取り付けた穴が一つ設けられたはずで、この穴が間(マ)であり、マヒトツ(間一)の神の名元の元となったと考えることができる。
そして、この間一(マヒトツ)の穴を「目」に見立てた漢字表記が「目一」で、これをフイゴの神として神格化したものが「天目一神・天目一箇神」ということになる。
この皮フイゴは、奈良時代に足踏み式フイゴが作られるまで長い間フイゴの主流だったと思われる。

317 :太国という人間の過ち:2023/06/06(火) 12:53:28.18 ID:qZbBvmnl4
フイゴがゴダイゴへと

318 :日本@名無史さん:2023/06/06(火) 13:53:50.54 ID:ZQo2Hmrqp
孫悟空は、実はひょっとこだったのかぁぁぁぁぁ。

319 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 13:36:57.29 ID:bxALIMGpI
このように、物部氏の祖神は天目一箇神であり、饒速日は飛鳥時代頃に加上された神だよ。
だから、饒速日に関する系譜は、信用しないほうがよい。
このような鍛冶物部氏はどこから来たか。
たぶん、3世紀後半に淡路島から大和の纏向に来た移動する鍛冶師集団が物部氏の先祖だろう。
そして、彼らが、王権のもとで5世紀後半頃に天理と交野に鍛冶工房を開いたのではないか。

320 :日本@名無史さん:2023/06/17(土) 18:41:57.63 ID:5YiQbB4z/
明治時代に創作された神武墓、万世一系、皇紀2600某説をきれいサッパリ捏造と認め訂正して行こうか。

その後の調査から文献や遺跡調査より、考古学上の解明が進んだ段階で、これだけのグレーな、これだけ曖昧な歴史教育をする日本も病理的な黙秘と言わざるを得ない。
隣国の反日教育を全く笑えない。
皇紀どうのすら訂正もせず、杜撰な歴史を子供達に教えているのは世界的に見ても非常識極まりない。

321 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/18(日) 10:39:58.34 ID:THytyVmFY
明治時代に創作された神武墓、万世一系、皇紀2600某説をきれいサッパリ捏造でないと認め訂正なしで行こうか。

皇統は萬世一系である。これは認めない。大きい神武陵を創作のため人民があくせく建造するとでも思ってるのか?w
笑わせるな。

 神州ハ不滅ナリ

崇神の代、三輪の神だが、三輪とは半径3の円のことを示唆する。天津神算木の計算において

崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=113.0973 3552923255658465516179806 1/13紀元前97年 崇神天皇 即位 また 1/3皇紀973年 仁徳天皇 即位

こういう天意の示唆があり算木に出ている。皇紀は連綿として現代まで来ているのだ。明治天皇崩御において崩御日は1912年7/30だが
この日は大正天皇践祚日ともなり、
三輪(r=3.0:ミワ)でないことから30を無視し削除すれば1912年7月までとなる。
だから半径3=3.0でなくr=1.912007と30を消せばこの半径の円の面積s’は

 s’=11.48494 25881110 54424361684809286 皇紀2588年11/10 昭和天皇 即位

が算木から出る。これは皇統連綿といて1日の誤差もなく今日まで年が刻まれれている神意の算木の計算結果の理証だ。

当時の古代天皇の寿命は一見してべらぼうな超長寿でイカサマだと思ってたんだろうが、当時は1年が半年とか4カ月とかで
2倍暦3倍暦をやってたから、なんのことはない、現代人と大差ない寿命だったのさ。だからおかしくなく熱象ではない。

322 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/18(日) 19:41:39.32 ID:Dmk7n3Xy/
https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ

323 :太国という人間の過ち:2023/06/20(火) 17:46:57.57 ID:d0czOWBjq
古事記も日本書紀もインチキだよ。

324 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/21(水) 21:18:51.95 ID:95DgBEkpK
>323という人間の過ち
インチキではな〜い。

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