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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

55 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:34:55.84 .net
>>45

崇神天皇の母親は物部氏。
だから崇神天皇はその拠点である石上神宮に近いところに宮を営んだ。
磯城瑞垣宮、のちの纒向遺跡だよ。

56 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 17:44:16.73 .net
>>55
崇神の母は物部の祖、大綜麻杵命の娘伊香色謎命ですね

物部は崇神の時代にはすでに勢力を確立していて四道将軍が遠征できる力も持っていたのはまさにここが外戚としてのバックボーンとなる

物部と言ってしまうからイメージが固定してしまうけど、当時の感覚で言えば垢抜けた外来貴族のような立ち位置でしょうね

対出雲大国主
物部はこの観念を持っていたように思われます
四道将軍の行き先は常に出雲の主要拠点を牽制している
これは倭国大乱の際にできた半島資源に関わる交易利権の争いが要因では無いでしょうか

この頃から出雲は衰退するし鉄の輸入生産もヤマトに移行しつつあるがその原動力として挙げられるのはやはり物部の持つ海人族との繋がりと畿内で産出される辰砂だったように思います

57 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:26:52.10 .net
>>56

というか、当時は母系の影響力が大きく、崇神天皇も物部氏の王の一人として権力を手に入れたのでは?
系図的に男系では天皇家だったので、後世に天皇号を追号しただけで。

58 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:31:19.17 .net
畿内において、物部氏の祖である饒速日に仕えていたという長髄彦は、出雲の事代主の末裔、つまり大国主の末裔である登美家の頭領であった。
筑紫が出雲を下したことにより両者の関係は固定化され、子々孫々の代になって畿内においても主従関係は維持されていたということになる。
四道将軍をわざわざ派遣する理由にはならないだろう。
まして陸奥は出雲との縁も深いとは言えないし。

59 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:24:02.78 .net
>>57
崇神を含んだ畿内支配が物部による王朝とするなら、よく言われる物部=初期天皇家という構図がやはり思い浮かんでしまいますね

ただこのスレ的には物部は外から来た一族として考えてるのでこれだと崇神東征説ということになりますかね

邪馬台国=物部の関係性として可能性があって面白いのですが、纒向遺跡では九州の生活文化の出土が少なくどちらかと言うと任那や三韓文化の流入と東海、吉備の文化が入り乱れていることを考えるとどうしても取りまとめるべき在来勢力としての男系天皇家はいたのではないか?と推測してしまいます

60 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:39:15.03 .net
>>58
なるほど、畿内成立の前段階
ニニギあたりから筑紫の出雲に対する優位性が存在していたということですかね
それとも神武東征からか交易権から来るものか
自分の知識見識が絶対とは全く思ってませんので詳しくご教授お願いしたいです
出雲の荒神谷遺跡などの発掘から想起されているのでしょうか

邪馬台国由来である物部がいかに祭祀を伴って畿内にやってきたか、いうのが大きな推測テーマですので四道将軍を絡めて考えてますが出雲が既に衰退しているとなれば別の要因や行動原理を考えないとならないですね

移動や征服などの活動に関しては必ず人間的の欲みたいな原理的な要因が潜んでいると考えています

61 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 00:13:17.74 .net
出雲文化の特徴と言えば青銅器祭祀と翡翠、それに鉄器生産

ヤマト成立直前まで畿内も青銅器祭祀を続けておりむしろ大型銅鐸生産の本場
これが3世紀に突如この技術を用いて銅鏡(仿製鏡)生産に変遷した
(その仿製鏡が北部九州が始祖なことも興味深い)

吉備が発展した要因としてはこのうちの鉄器生産が挙げられる

北陸、東北に関しては翡翠採取による資源を入手する拠点であり出雲で碧玉や勾玉に加工されていた事が知られている

いずれも水運拠点でもあり総体的には海人族全盛より次世代の資源確保の側面が強いように感じられる

面白いのはその後のツヌガアラシトが崇神を慕って半島から出雲圏内を割って敦賀を拠点にするのだが、それはまた別の話ということで

62 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 10:24:27.40 .net
>>54
長髄彦については神武と饒速日命にまつわる逸話の中で登場するのに、妙にこの3世紀あたりと関係性を感じてしまうね

饒速日命が物部一族とするなら逆に神武より前に物部がヤマトに勢力を定着させていたことになる

そうなると崇神は物部が畿内豪族と婚姻を重ねた結果の畿内ヤマトの大王となるが、これは天皇一統としたい記紀の表現とは解釈が違ってくるんだよね
だから神武を設定したのかもしれない

63 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 20:31:07.73 .net
>>60

そうですね。
荒神谷は出雲の国譲りの物証でしょう。
でも、登美家が出雲王家の末裔というのは、他のスレで既出なのですよ。
確かに記紀における長髄彦の天神に対する服従も説明がつく。

64 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 20:34:54.88 .net
>>62

いやいや、当時は登美家の女系が重要で、記紀編纂時は男系を重視して天皇家を中心にまとめなおしたと考えれば、記紀の表現も矛盾はないのです。
神武の妃のイスケヨリヒメも登美家らしいですよ。

65 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 21:31:00.73 .net
>>64
出雲王家、登美家、長髄彦、大国御魂祭祀
この辺りからの脱却が天照祭祀によって図られたと考えてますが、確かに女系で考えると崇神以前の天皇の存在よりモモソヒメが女系存続の権威発揚として重要視されたりしたこととも繋がりますね

纒向遺跡が出雲大社と伊勢神宮の柱配列の始祖と見られるとの学説を読みものすごく感銘を受けたのですが、まさにこの時期にダイナミックな変革があったことは確か
女系=祭祀中心の支配構造を現実的な王権支配に変革したかった意志を感じますね

しかし今の所出雲は女系のイメージは無いので、その構造や原理を知るためもう少し考えを深める必要がありそうです

66 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 21:43:32.32 .net
>>65

時系列で言えば、出雲の方が早いでしょう。
イスケヨリヒメを通じて出雲の血もすでに入っていたのなら当然ですね。

67 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 09:07:27.82 .net
>>66
国譲りは確定的な事実でしょうね
考古学的にも三世紀初頭の祭祀変革は認められてる
ただ記紀通りの表現や時代は盲信できない
恐らく畿内では開化天皇辺りで始まり垂仁あたりで始末がついたのでしょう

纒向遺跡が素晴らしいのは邪馬台国かどうかの議論ではなく、大国主と天照と古墳祭祀を結節する交点だと言えることですね

68 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/21(火) 14:21:37.95 ID:PgleL/Tog
盲信の選択可否は第三者たる古史古伝の内容と一致するか否かでその採否
ができる。

69 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 14:55:38.41 .net
纒向遺跡はまず間違いなく崇神の宮でしょう。
問題は年代で、記紀はおそらく著しい前倒しをしている。
平均在位年代がら推定すると神武は200年頃になるのだとか。
崇神は3世紀末くらいかと。
それで一代も飛ばす必要はないはず。

70 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/21(火) 22:02:30.18 ID:prk+JwDwL
×神武は200年頃

神武即位は西暦元年だ。

71 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/21(火) 22:04:05.54 ID:prk+JwDwL
巻向は景行の宮。

72 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 18:41:16.04 .net
>>69
全くその通りだと思いますね

神武からの欠史八代を時代考証的に読み解くのはとても難しいですね
ここに大国主の影響と物部が関わってることは確信してるのですが

主軸を纒向遺跡と崇神に置くことでわかるのは、祭祀をいかに利用し権威を統合するかの模索と、交易や半島に影響力を及ぼさせるためにいかに各地を利用するか、みたいな点ですね

これは畿内の成立が北陸出雲文化に対抗する東海、近畿の物産集積地として選定されたからのような気がしています
吉備を経由した瀬戸内航路を活用した新交易ルートがヤマトの生命線だったでしょうね

73 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 22:44:36.72 .net
東海はむしろ積極的に北陸と通商していたように思われるので、なんでも対立で考えるのはいかがなものかと。
後に天皇家の遠縁として継体天皇を迎えるくらいだし。
神功皇后もそちらの縁ですよね。
そもそも大和は山に囲まれていて通商には不向きなんですよ。
畿内なら淀川水系の方が基軸であるべき。

74 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 09:10:59.15 .net
交易に関しては3世紀以前に既に海人族による本州沿岸部への進出がなされていて交易拠点が各地にあった
安曇、宗像、和邇、尾張などがヤマトと関係性を深めていたのは確実でヤマトと九州物部の接点はここにあるでしょうね

>>73
纒向遺跡の地勢として三輪山を起点として東海方面へ行く初瀬街道や本伊勢街道方面に宇陀や名張がありここは当時の辰砂採掘の拠点
ここを押さえる必要性が高かったことと、沿岸部では守勢が不利なので山麓に本拠地を築く必要があつたことなどが考えられますね

その後交易と遠征の重要度が増すにつれ西へ発展し5世紀には生駒を超えて沿岸部に移動したのでしょう

75 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 09:22:40.98 .net
饒速日の拠点である交野辺りは淀川水系(近江、山城の物産)を牽制する絶好の位置
九州でいうところの伊都国のような窓口的役割があったかもしれない
ここと羽曳野近辺は庄内型土器の集約地なので物部の影響力というのが見えてくる気がする

76 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 20:12:05.02 .net
まず北九州の邪馬台国が三世紀後半に台与と饒速日をリーダーに畿内に東遷して大和朝廷を作る
饒速日の弟のニニギは 豊葦原の中つ国今の大分県中津に残った
数代後ニニギの子孫のイワレ彦がまた東遷して大和朝廷を簒奪する
饒速日とイワレ彦をモデルに事績を混合して神武天皇と崇神天皇を記紀で創作した

77 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 08:51:53.15 .net
登美長髄彦や饒速日は出雲大国主に認められた側の権力
神武や崇神はそこから独立権を勝ち取った英雄
こういう見方は確かにできるな
アメリカで言うワシントンか

78 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 15:10:16.05 .net
>>76
そうだとして、この説を深堀りした論拠や考察を聞いてみたいです

私は九州邪馬台国の中心勢力が祭祀を司る「天孫族」として畿内に来たと思っています
それまでの畿内は大国主と海人族の地域だった
なので天照大神は卑弥呼、帥升がスサノオなのかなと
登与は豊の国か豊受大神か
バックは大国主の勢力圏に割って入った物部こと「天孫族」
このような見方です

79 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 21:06:39.56 .net
>>77

饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」

饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。

80 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 21:14:07.01 .net
>>78

思ってますも何も、記紀は九州筑紫の天孫族が畿内の支配者として東征したと書いてあるじゃん。
あと、饒速日や邇邇芸、その末裔の神武ら天津神は海人族の代表だからな。
みんな志賀島を含む博多湾沿岸の倭王の一族だ。
そしてその王都が伊都。
筑紫の日向の小戸は、伊都の港のこと。

81 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 00:19:05.62 .net
弥馬獲支=ミマキ=崇神
皇女豊鍬入姫=臺与=豊受大神
モモソヒメ=倭迹迹姫命=卑弥呼=天照大神
この仮定はとても面白い

現状では天照とモモソヒメの接点は無い、が別名の倭迹迹姫命は邪馬台国卑弥呼ととてもリンクする

豊鍬入姫は天照大神を倭の「笠縫邑」に宮外奉斎した
九州邪馬台国にて君臨していたモモソヒメ=卑弥呼=天照大神を死後畿内にヤマトの名と共に遷移した逸話がこれだとすると、
その立役者は弥馬獲支=崇神!
畿内において卑弥呼はモモソヒメであり倭迹迹姫命であるから大物主という神に嫁ぐ形で箸墓に葬られた
この時纒向遺跡は建設された

邪馬台国は豪族連合だから各豪族が合同で(吉備を中心として)陵墓を建造する→昼は人が作り夜は神が(地方からの豪族)造る逸話となる

これが畿内ヤマトで始まった天照祭祀の創始であり邪馬台国の名はここにヤマトとして引き継がれる

みたいな邪馬台国東遷説はありだと思うね

82 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 19:44:53.67 .net
崇神の宮を確定させるための要素として挙げられる条件は天照と大國魂を合同祭祀した宮であることなんだけど、纒向遺跡の調査報告にはそれぞれの宮殿跡の柱配列の相違が見事に残ってると言われている

ここで大事なのは伝承通り大国魂と天照が実際に同列として祀られていたということだ

これは大物主がスクナビコナ(出雲王権と連携していた海人族?)を継いだ物部であること、
大国主が大國魂として出雲に、また天照が伊勢神宮に遷るまで一時的に同列祭祀として存在していたことの証拠となる
まずこの「同列祭祀」が違和感があり事情を感じる

成立年代の3世紀半ばの時点で纒向遺跡において天照(卑弥呼)は九州からすでに移動していた
大物主(物部)がそれを持ち込み畿内で大国主と同列に祀られたとすると、開化-崇神の辺りでそれを行われざるを経ない事情があったのだと推察されるだろう
そしてこの時代は青銅器祭祀と鏡祭祀が併存し入れ替わった特異な時期だと言える

ちなみにここでは箸墓の主モモソヒメと天照は連動しなく、従って卑弥呼とも連動しないと考えている(纒向遺跡成立は卑弥呼死後直後の出来事と推察している)

83 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/04/09(日) 08:10:50.29 ID:SaJeTirIy
天照大御神≠卑弥呼

天照大御神は3世紀半ばではなく、もっともっと古い。

84 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 09:18:50.10 .net
ミマキは字数があってない。
モモソと天照なんて世代が全然違う。
似ているから同じだなどと、暴論だな。

85 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 21:11:48.23 .net
畿内において鏡祭祀は明らかに持ち込まれたもので発祥ではない
持ち込まれた祭祀=王権がヤマトでありヤマトは同時に半島交易の権益でもあるだろう

では何故畿内に交易の権益がもたらされたかというと、半島対岸の狗邪韓国、後の任那および対馬や隠岐島の交易権を支配できたから
その支配した一族は職能である海人族ではなく、技術者集団として交易資源を確保した物部だと見ている

倭国大乱を経て邪馬台国の有力者
となった物部の一族
恐らく瓊瓊杵尊だと思うのだが
大国主へは少彦名命が派遣され、畿内には饒速日が派遣され交易権益を握ったと思われる

これは根拠地が交野など淀川水系の要地に築かれたことからも推察できる
今後は推察過ぎないこの物部の存在感をどうやって炙り出すかが課題でもある

86 :日本@名無史さん:2023/04/12(水) 21:50:59.69 .net
弥生末期は海人族の沿岸拠点に続き、渡来人と言われる物部一族の技術集団による地域拠点構築が進んだ

在地の民衆はそれに従ったり交易品を農産物と交換したりして利益を得ることができた
その物部が持ち込んだ最大の権益が「祭祀」であるとするなら、それは思想と実益がリンクした魅力的なものに写っただろう

さらに鉱物資源などは加工する技術が必要なため、在地の人が住まない地域が海人族や物部にとって「宝の山」となっただろう
例えば辰砂採掘技術を担う丹生一族が険しい山の中に拠点を持ったように

こうして各地の渡来一族の定住化が進んだのだろう

87 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 20:15:21.83 .net
>>85

倭国乱で邇邇芸ではその後が詰まりすぎる。
神武が卑弥呼と同じ世代がギリギリ。
それなら伊都の甕棺墓が邇邇芸ら天孫族だろ。
三雲南小路遺跡の祭殿である細石神社は、邇邇芸の妃である木花佐久夜姫を祭る。
三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花佐久夜姫の王墓だろう。
そして畿内には交野から生駒にかけて饒速日の王国。

88 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 21:47:44.70 .net
>>87
なるほどおっしゃる通りかも
3世紀中頃の世代感がまことに掴みづらいんだよな
墓制も全然違うし

89 :日本@名無史さん:2023/04/14(金) 22:04:53.74 .net
伊都の高祖神社の祭神は彦火火出見。
母宮となる細石神社には御神渡り神事があったとか。
つまり伊都国こそ天孫族の王都、筑紫の日向の高千穂。
倭の王都。
甕棺墓の天孫族は神武を最後に東征してしまうので、その後に成立したのが木棺墓の平原遺跡の卑弥呼王権。
だから卑弥呼は記紀に登場しない。

90 :日本@名無史さん:2023/04/15(土) 05:38:48.75 .net
卑弥呼または後継者トヨ = 卑弥呼

という説は昔からあるが…。

91 :日本@名無史さん:2023/04/17(月) 23:42:35.66 .net
天照=大日女命
天照も卑弥呼

92 :日本@名無史さん:2023/04/18(火) 00:12:02.60 .net
じゃあ八咫の鏡を作らせた平原遺跡の女王が卑弥呼でいいじゃん。

93 :日本@名無史さん:2023/04/20(木) 17:13:20.38 .net
なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2913

中川八洋、筑波大学名誉教授

那珂は、1888年に「日本上古年代考」、1897年に「上世年紀考」を世に発表した。
日本書紀の神武天皇“即位”が660年遡り過ぎなのを明らかにした著名な論文。
神武天皇のご即位の時期は、ほぼ西暦紀元頃と、那珂は推定した(注5)。これは学術的に最も歴史事実に迫っている
学界はこれを黙殺し、文部省も徹底無視。

学界も文部省も、天皇制廃止に直結する嘘歴史「神武天皇が存在しない」を推進しているのである。
どうやら、1910年代に、この“逆走”推進が始まったようだ。
方法は二正面作戦。正面攻撃は、津田左右吉に露骨な
「神武天皇は実在しない/皇室がでっちあげた小説よろしい物語だ」の大プロパガンダをさせた。
これは、1919年以降、燎原の火のごとく学校や大学で広まった。

背面攻撃は、GRUロスケが支配していた文部省が音頭を取って1940年に
「二千六百年祭」を全国規模で開催し、神武天皇の即位を紀元前660年に戻した(注6)。
那珂通世の学問を全否定したのである。

さらに、伊勢神宮だけでなく、皇室の祖先の高天原も日向三代も真赤な捏造嘘歴史になってしまう。
そこは、前漢鏡だらけの地だからだ。前漢が存在しない時代なら、前漢鏡も存在しない。

三種の神器のトップ神器“前漢鏡(国産)”を初代神武天皇は
神宮に奉戴していたと記述する記紀を編纂したのは現皇室。
が、前漢が存在する前に神武天皇が即位したとすれば、この記紀の記述は真赤な嘘の垂れ流しになる。

仮にも「紀元前660年に神武天皇が即位」とすれば、
この時には前漢も後漢もまだ支那には存在しないから、神武天皇自体も実在しないということが、
瞬時に確定する。
特に、皇室のレーゾンデートルは、前漢鏡を国産化した天照大神の八咫鏡だから、
「神武天皇は即位時に八咫鏡を奉戴した」が、瞬時に真赤な嘘となるからだ。

94 :日本@名無史さん:2023/04/20(木) 17:14:23.23 .net
もう一人の重要な歴史学者が、内藤湖南である。
「邪馬台国は九州にあった」など、戯言ならまだしも、学問なら妄言・暴言に過ぎない。
なぜなら、「邪馬台国」とは、和語“大和の国”の支那国の宛て漢字だから、
「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。
だが、これを「ヤマタイコク」と、日本は学校教育でもトンデモ嘘読みさせる。
天皇制廃止のためなら嘘を擦りこめ!である。

一方、「やまとのくに」と当り前に訓めば、大和朝廷の皇后クラスの女性皇族が
『魏志倭人伝』の「女王=ひめみこ」となる。卑弥呼は「ひめみこ」の宛て漢字だから、
ヒミコと訓むことはできない。

これはまた、大和朝廷が魏帝国(220~65年)と外交関係を持っていたことになり、
大和朝廷が三世紀前半には北部九州をも統治下に置く確固たる統一国家だったことが判明する。
が、この正しい歴史が『魏志倭人伝』によって判明するのは、天皇制廃止勢力にとって、どうしても困る。

なぜなら、「大和朝廷は三世紀後半以降に誕生した」と、
事実を二百五十年ほど遅らせないと、神武天皇から少なくとも第九代開化天皇までを紙上テロルして抹殺する政治的歴史改竄ができなくなるからだ。
「大和朝廷は、邪馬台国の後に出現した」とか
「大和朝廷は、魏帝国が滅んだあと、邪馬台国が東遷した国家」等の政治的創作の嘘歴史にすれば、
皇室の祖先である「神武天皇~開化天皇」は消え、皇室はどこの馬の骨かわからぬ人物から生まれたとなり、その由緒ある皇統史をぶっ壊せる。

これが、天皇制廃止勢力は暴言・妄言の類「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を執拗にがなり立て続ける理由である。
現在は、共産党が組織的に指揮し、
暴言・妄言「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を、大学だけでなく、
学校教科書の定説にデッチアゲている。これは明治時代から執拗で、
共産党員のハシリ久米邦武や水平社系の喜田貞吉はこの巨頭だった。
今もその悪影響は衰えていない。

95 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 00:31:46.53 .net
発掘成果が皆無な神武の時代の考証は難しすぎるだろ
例えば雄略天皇のワカタケル鉄剣のように伝承ベースと考古的成果を照らし合わせてこそ個人名が特定でき、その前後の時代考証もできる
そこに新たに介入するのが纒向遺跡の発掘成果分析と崇神天皇の記述の整合性
それがこのスレのテーマだとすると、考察する時代区分が3世紀半ばまで遡りそこでやっと卑弥呼の存在まで到達し想定できてきた、ということだろう

天皇はその時代の代表的存在であるから指標となるのであって、皇統ベースで考察するべきではない
従ってそこに神武天皇が実在したかの論議みたいな右翼的発想が介入する余地は無い

96 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 01:00:00.08 .net
神武に関しては徐福の移民の子孫である可能性はあるよな

地元民と立場が違うという「天孫」を自称する点
蓬莱山を高天原とした点
始皇帝が求めた神仙の妙薬とする水銀(辰砂)を得るために移動した点
操船技術を持ち定住ではなく拠点を移動する一族な点
海人族とは違い刺青を施す習慣が無い点
後の天皇も即位後皇宮を移動する点

などは根拠となり得るかもね
ただし文字を使わなかったことと中国語が日本語の原点ではなく祭祀が倭国特有である点だけは腑に落ちない

97 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 05:26:00.16 .net
>>96

> ただし文字を使わなかったことと中国語が日本語の原点ではなく祭祀が倭国特有である点だけは腑に落ちない


中国流の兵法を知らなかった点も

98 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 08:29:58.03 .net
>>96

事実でないことを論拠にするなよ。
神武ら一行は刺青をしていた。大和の姫が驚いている話がある。
そして神武ら天津神つまり海の神は海人族の代表。

99 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 08:31:06.41 .net
>>96

蓬莱山や水銀朱を求めてとかもお前の勝手な妄想だろ。
妄想を根拠に妄想を重ねても、あたまがおかしいと思われるだけだぞ。

100 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 14:56:29.17 .net
>>98

> 神武ら一行は刺青をしていた。大和の姫が驚いている話がある。


厳密に言うと神武の側近で目の周りにまで入れ墨している人がいたと書いてあるが
神武本人がタトゥーしていたとの記録がない。

101 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 18:37:41.59 .net
>>99
徐福伝説と神武の工程神話知らんのか
それなら議論しても無駄だし推測を楽しむ余地もないか

102 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 23:13:27.34 .net
>>94
皇紀が正しいって言うの?当のヤマト王権の史書が始祖が九州から来たと言っているのに邪馬台国九州(東遷)説と天皇制廃止勢力を結びつけるとか完全に基地外です。どちらかと言えば畿内説が記紀を嘘っぱちにする反日勢力。歴博は代表的な反日勢力だよね?

103 :日本@名無史さん:2023/04/22(土) 21:40:58.05 .net
スレ主としては神武天皇の話で盛り上がるより3世紀のヤマトの成り立ちについて議論したいのだが

ただ神武天皇の事績が3世紀の状況に深く影響している可能性はある
その鍵はヤマトの国力がどの時代に、どのように増大したかの考古学的検証だと思う

現時点では3世紀以前は大国主影響圏といえる状態でこれは国譲り神話ともリンクしてきますよね
やはり鏡祭祀と纒向遺跡、箸墓古墳が大トピックすぎる

104 :日本@名無史さん:2023/04/23(日) 22:37:42.21 .net
>>103

神武の実年代が200年頃だという説があるので、直球の話題なんだよ。

105 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 06:07:44.22 .net
邪馬台国ではなく狗奴国が東遷して大和朝廷になったという説もあるな。

その場合、神武は狗奴国のトップだったのだろうな。

106 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 14:07:32.32 .net
>>105
その方が辻褄が合うよな

107 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 14:27:18.76 .net
漢の文化を取り込む前が邪馬台国、取り込んだ後が大和朝廷。

108 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 16:13:04.30 .net
>>107
つまりヤマト政権は7世紀以降発足したもの
渡来人に育てられたようなものだ

109 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 17:40:11.76 .net
異民族に漢文化を植え付けたのも、東アジア諸民族を自立させて中華思想をめちゃくちゃにしたのも、西晋が1番功績者だなw

110 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 19:15:00.59 .net
日本語(倭国語)の謎というものがある
朝鮮とも中国とも違う固有の文法
日本各地で少し違いかあるがそれは方言のレベルだ
三韓も任那の時代まで倭国語を話したと言われているし、地名や大まかな意味は現代でも理解出来る完成された言語体系

中華系の言葉を話したであろう渡来人が倭国を支配したとしたらこの日本語に染まった理由はなんだろうね
1つは物語などの口伝が関係してそうだが
この構造を説明出来ればどのように人々が渡ったのかを説明できるかもね

111 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 13:26:15.74 .net
3世紀時点のヤマトは倭種の国でした

邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

半島系固有DNAの分布図
https://i.imgur.com/lD1J7Fg.png

112 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 18:56:54.05 .net
天孫族、物部一族が倭人であるかどうかで別れそう
大陸の倭人(海人族の中のエリート)が天孫族かなと思ってるが
結局それが物部なんじゃないか?

113 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 23:41:56.18 .net
>>112
当時は半島人も倭人だよ
倭種と表現されたのは言葉が違っていたという意味かもしれないが基本的に同じ倭人だよ

114 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 11:30:48.11 .net
みやま市こうやの宮の神像は4世紀当時の倭人の実情を伝える貴重なサンプルだろう

渡来人の様相の七支刀を持つ物部
着飾った天孫としての応神や神功皇后
朱塗り刺青に貝輪を嵌めた技術集団の海人族
これらが当時の倭人の構成だろう

記紀はこの人々を一族的に統括する為に神話を複合した
よって当時は統一された倭人ではなく利益共同体としての異民族集団という見方が出来る
4世紀から5世紀はこの人々が混じり合うことで統一的な倭人となった過程なのかもしれない

115 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 17:47:31.55 .net
物部は天神だし、天孫も天神の一部
天津国の元の意味は海の神なので、海人もも同系
貴人と工人などの身分の区別はあっただろうけど、基本的に同種

116 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 20:25:43.52 .net
>>115
文化は違えど言葉は同じだとしたらそれが倭種の構成と言えますね

文化や技術継承が口伝で伝わり家や一族単位で継続してゆく時代だからステージで大きく差が生まれるのでしょうね
気になるのは違うステージの婚姻による結びつき
天孫や豪族、大王家はこの効果を見抜いていたと感じますね

117 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 21:21:17.80 .net
>>116

> 気になるのは違うステージの婚姻による結びつき


古事記では神武一族と隼人が姻戚だったと記憶。

日本では織田信長と武田信玄が姻戚だったように、
潜在敵対勢力どうしが婚姻でくっついていることが珍しくない。

118 :日本@名無史さん:2023/04/27(木) 21:31:24.20 .net
>>117

隼人はもともとは敵対勢力ではない。
その祖である海幸彦は天孫邇邇芸の子であり、天照大神の三世孫、伊奘諾大神の4世孫だ。
魏志倭人伝の投馬国五万戸は日向国旧国府であった宮崎県妻の都万神社を中心とし、邪馬台国七万戸は筑紫の日向つまり伊都を中心とする。
この2カ国は兄弟国。
海幸彦は、山幸彦と釣り針を巡って争い、結果として筑紫を追われたとある。
山幸彦こと彦火火出見は、糸島の鎮守である高祖宮の祭神だ。
そして彦火火出見はその孫の神武天皇の本名でもある。
つまり神武がいたのも伊都。

119 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 05:37:10.74 .net
神武東征軍団の主力は隼人だったという説もあるな。

120 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 10:37:49.75 .net
>>119
隼人といえば盾
盾と言えば富雄丸山古墳の盾型銅鏡!
蛇行剣も南九州に多い
ヤマトの祖型にまつわるものの可能性がしてワクワクするね

121 :日本@名無史さん:2023/04/30(日) 10:52:28.60 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

122 :日本@名無史さん:2023/05/01(月) 10:27:26.19 .net
>>121
随分と古くさーい畿内説の霊感商法詐欺ですね
通報しておきます

123 :日本@名無史さん:2023/05/01(月) 12:25:20.88 .net
>>121
こんな恥ずかしい内容をあっちこっちにコピペするとかw

124 :日本@名無史さん:2023/05/04(木) 23:46:29.42 ID:2ECiAR+8n
ほんまやな。
いまどき、里程の話を本気で持ち出してくるなんて、いかにもカビ生えたような感じがするし。
邪馬台国大和説なんて、もうお蔵入りして何十年というよな古臭い説やな。

125 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 04:02:23.64 ID:ArkXjxUv8
今、面土国の帥升は吉野ケ里の南の米多(めた)の王だった説がとりざたされているな。
面土(めと)と米多(めた)は同じというわけや。

しかし、この説は、音がよく似ているというだけで、そのほかの傍証に乏しい。
面土はメンドだが、この面(メン)は和語の綿(わた)を漢音でメン(綿=面)と読んでいるものと考えることができ、面土(メンド)は和語の(ワタツチ=綿土)だったものを漢音で読んでメンドとしているもの。
なので、帥升の国は、元々は綿土(ワタツチ=綿津道)であり、綿(ワタ)=海なので、綿土国=面土国は「海の道国」の意味だとするのがよい。
そして、「海の道国」といえば、これは壱岐・対馬か宗像かということになる。
壱岐・対馬は楽浪郡にはよく知られていただろうから、「海の道国」の自称は無理だろう。
そうなると、「海の道国」は、宗像あたりの海人国だった可能性が高くなる。

しかしながら、面土(めと)=吉野ケ里の南の米多(めた)と同一とする説は、確かに捨てがたい。
面白いね。

126 :日本@名無史さん:2023/05/08(月) 14:47:36.87 ID:w2taATocE
面土国(めど)は吉野ケ里のすぐ南の米多(めた)と関連のある国名だとする説は、確かに面白い。
吉野ケ里には、目達原(めたばる)の地名もあり、この付近が「めた」と呼ばれる土地だったとするのは、合理的だ。
ただ、この「めた」の語義の説明がみられないのは、惜しい。
語義によっては、その「めた」は後代にできた地名だとする説も出てくるだろう。
この「めた」の語義を、はやく突き止めてほしいものだな。

127 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 03:25:07.69 ID:2FPwFjH/B
吉野ケ里の米多(めた)と目達原(めたばる)はごく近い距離にあるので、米多(めた)と目達原の目達(めた)は同じ語義の(めた)と考えることができる。
そこで、米多の漢字の意味は「米が多い」の意なので、これは収穫量が多い田を表しているとすると、これを漢字で書くと女田(めた)と置き換えることができる。
この女田の字を姓にした場合、女田(おなだ)と読むようで、石川県にこの姓がみられるそうだ。
実際に女田という単語があることが分かる。

そうなると、男田(おだ、おとこだ)もあることになるが、福岡県宮若市宮田には男田(おとこだ)神社があり、
このことから、男田も女田も単語として実際に存在することになる。

こうして、米多(めた)=女田(めた)とすれば、目達原(めたばる)とは「女田(収穫量が多い田、良田)がたくさん集まっている所」の意が推測されることになる。
では、面土国の面土(めと)は、女田(めた)に通じるのかということになるのだろうか。
帥升らが楽浪郡に詣でたとき、自分たちの国を(めた=女田)と言ったのを役人がその音を筆記して面土(めと)と書いたとした場合、果たして整合性がみられるだろうかということである。
当然、楽浪郡の役人たちは帥升らを倭の蛮族だとみなしているので、彼らが日焼けして顔の色が黒いことをあげつらって、
(めた=女田)の発音に合わせ「土のような顔色をしている者たちの国」という意味の「面土(めと)国」と字を付けたとすれば、これはかなり整合性が取れるのではないか。

さて、この推測は的を射ているかどうか。
まあ、よく考えてみるのがよいだろう。

128 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 00:44:59.76 ID:+K1aO0hjP
邪馬台国大和説は、何一つ実証的な証拠を提示していない。
今や、その論の失敗のガレキが無惨に散乱するさましか見られない。
亡霊の論と化しているのが、邪馬台国大和説なのだ。

このことに、はやく目覚めなければならない。
ヤマト王権にルーツはなく、各地の勢力によって突然大和に立ち上げられた連合王権だった。
そして、そのとき、卑弥呼を王に戴く倭国は北部九州に成立していて、半島との交易で活況を呈していたということなのだ。

129 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/10(水) 09:38:46.64 ID:nD3iYHF/G
邪馬1国だ。九州にあったのだ。

130 :太国という人間の過ち:2023/05/10(水) 11:35:01.72 ID:clq3ei4ue
耶摩1国だ。信州にあったのだ。

131 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/10(水) 12:52:02.36 ID:nD3iYHF/G
信州にはねえ。オマエの大過ち。
こんなことを書きこんでると、いずれ禍がオマエにやってくるだろう。
神社で拍手二礼するのは、いかれたなりふりを極めて天津神が嫌うからだ。
だから拝礼が重要だ。それをせず、いかれた書きこみに終始すると、
わすれたころにオマエにゴタゴタの暗雲が訪れてオマエ自身が困るだろう。それは天からの戒めだ。
オマエの書き込みはオマエの脳内思考の鏡。それを眺めてオマエ自身の醜い妖性を思い知れ。

132 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 14:54:15.83 ID:+K1aO0hjP
邪馬台国大和説は、そもそも最初から詰んでいるのだ。
魏略には「倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依りて国を為す。海を渡ること千里にして復国有り。皆倭種なり」と書いており、魏志倭人伝では「女王国の東、海を渡ること千余里にして復国有り。皆倭種なり」と書いてある。
倭は半島の東南の方向の海の中に在るとし、これは九州を指している。
大和を卑弥呼のいる邪馬台国とすれば、その大和は半島からほとんど東の方向になり、魏略の記述に合わない。
このことは、倭人伝の記述でも同じだ。

そして、この倭国から海(瀬戸内海)を東に千里ほど行くと倭国とは別の国があるとし、倭国もその国も皆同じ倭人が住んでいると知見を述べている。
こうした記述などから、中国の歴史学者はことごとく倭国は九州にあったと指摘している。
魏略や倭人伝の記述を読めば、当然そうした結論になるのだ。

仮に、卑弥呼の都を大和とした場合、5世紀段階でも河内王権は中央アルプス以東には毛人が住んでいると認識していて、その地方の住人を倭人とは区別していることからしても、大和と東国の住人が「皆倭種なり」とはならないのだ。
つまり、邪馬台国大和説は、その邪馬台国が書かれている史書の記述に合致しない論であることは言を待たない。
このことは、南を東に読み替えると言った程度の解釈の問題ではない。
邪馬台国大和説は、根本的に誤った論だということなのだ。

もう、最近では、邪馬台国大和説はカビの生えたお蔵入りの説とみなされているのが実態ということになる。

133 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 20:41:06.45 .net
「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代」という矢田浩さんによって著されたレポートを見て感動した
ググったらPDFですぐに読める

沖ノ島祭祀の意味、物部や出雲、宗像3女神の関係、畿内ヤマトの成立の要因などが矛盾なくことごとく持論と重なり味方を得た気分だ

特に鉄や威信財の対価としてヤマトが辰砂を利用し権益を奪取した部分など直接語り合いたいほどだ

物部の発祥と天孫の経緯はこれで大きく掴める
ただし神武とニギハヤヒの関係性や崇神によるヤマト成立の経緯などは多く言及していないからここに推論の余地は残る

134 :日本@名無史さん:2023/05/08(月) 21:03:01.02 .net
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。

135 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 11:01:22.45 .net
ヤマトにとっての最重要課題が交易権確保とすると合ってくるよね
鏡祭祀の隆盛やアマテラス祭祀の重要性
あと天孫の存在価値も
これを持ち込んだブレークスルーの画期が物部一族だというのも確証が深まった

136 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 14:51:59.63 .net
保守主義の哲学‐‐‐中川八洋 筑波大学名誉教授著『神武天皇実在論』を読んで、日本国の正しい歴史を取り戻すために立ち上がろう!
http://blog.livedoor.jp/edmund_burke/archives/19327465.html

筑紫ひむか三代---福岡県糸島市の「伊都国」こそ、“聖なる皇室の起源” ”(13頁)
支那語「邪馬台国」は、「やまとのくに」と訓む。これ以外の訓み方は不可能。
極左「反日」革命勢力は、共産党の“言葉殺しlogocide訓み”「ヤマタイコク」を、今なお、宣伝し続ける。学校教育もそうなっている。 ”(72頁)

内藤湖南の「邪馬台国は大和朝廷」、笠井新也の「卑弥呼は百襲姫」 ”(75頁)

邪や馬ま台との国くにとは、伊都国人の神武天皇が、紀元ゼロ年前後、
伊都国から大和に移動して建国した“大和朝廷の日本国”のこと。それ以外ではない。 ”(98頁)

実在の史実が明瞭な神功皇后を抹殺し神功皇后不在説を捏造宣伝する目的から、
津田左右吉は手練手管の嘘と詭弁を展開した。神功皇后を日本の歴史から抹殺すれば、
同時に仲哀天皇を抹殺できるばかりか、さらに応神天皇を由緒正しい天皇ではなく、
九州のどこかのいかがわしい豪族の出自に貶めることができる。

神武天皇から続く日本の輝く由緒正しき天皇の尊貴・尊厳を、
“日本の天皇の祖は、応神天皇という九州の素性定かではない豪族の出にすぎない”という真っ赤な嘘の皇統譜に摺り替えて貶めるべく
“赤い悪魔”津田左右吉は、“記紀は創作であって史料ではない”との、荒唐無稽な「記紀=小説」説を捏造したのである。 ”(207頁)

137 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 14:52:42.93 .net
大嘘「応神天皇が初代天皇だ!」をプロパガンダすれば、
神武天皇/邇邇にに芸ぎの命みこと/天照大神/「万世一系」をダイナマイトでぶっ飛ばす威力で抹殺できる。
この大嘘を吐くに、応神天皇をご出産された“母”を、事前に処刑しておく必要がある。
“狂信的な天皇制廃止”カルト宗教団体の日本共産党が神功皇后不在論を捏造・大宣伝する理由はこれ。 ”(210頁)

どの豪族かも比定せず、両親も不明な「九州の豪族が初代天皇」など、狂人の戯言 ”(212頁)

『隋書倭国伝』は、「邪馬台国」を「やまと(のくに)」と訓(よ)め、と明記している。
「倭国は、邪摩堆(やまと、大和)に都す。『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」。つまり、
倭国王とは、第五代・孝昭天皇のこと。 ”(299頁)

日本の古代史家は一丸となって、“狂った大義”天皇制廃止を目がけて、ライフル銃を無差別乱射する。
〔中略〕その行動様式は次の三分野で展開され、無法の刑法犯罪が日常の暴走族や暴力団と同じ。

第一。「神武~開化天皇の九天皇は不在」(津田左右吉)に始まる古代天皇“軒並み抹殺”。

第二。天皇の御陵ごりょう(みささぎ)を「遺跡の古墳」とし、御陵暴き/御陵潰しによる皇室ご祖先“抹殺”。

第三。「弥生時代は無かった→天照大神/日向ひむか三代/神武天皇は不在」で皇室ご祖先“抹殺”

”(342頁)

例えば、仁徳天皇陵=百舌鳥耳原中陵(もものみみはらのなかのみささぎ)という陵を、
共産党支配の古代史学界は平然と「堺市大仙町にある古墳にすぎない」を意味する、
地名を冠した「大仙陵古墳」と改竄した。
しかし宮内庁は、刑法第188条「礼拝所不敬罪」違反が明らかなこの“違法”呼称に対し、刑事告発の義務を果たそうとしない。 ”(344頁)

正語「天皇」「大和朝廷」復権! 共産党語「大王」「ヤマト王権」撲滅! ”(365頁)

138 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 18:14:11.17 .net
畿内が銅鐸銅矛祭祀から鏡祭祀に転換したのは3世紀以前から遡ることは出来ない
ここが大きな問題でありポイント
この環境で天照祭祀が育つわけが無い

まず神武天皇が1世紀に橿原で宮城を築いた痕跡がない
その代わりこの時代の畿内は近江系、大国主の文化圏が色濃く残る
当然国の都ではなかった、となる
ではなぜ3世紀に畿内が発展するのか?
それは新たに流入した、倭国(邪馬台国)を知る民族(物部)と海人族が九州倭国や中国に供給出来る資源確保をここで図ることが出来たから

それは銅鐸由来の銅器生産能力による品質の高い仿製鏡生産と辰砂
辰砂は飛鳥時代以前は金より価値が高かったと言われている

三輪山の裏の宇陀から伊勢までの間に拡がる辰砂の大産地
これを確保し瀬戸内を経て安全に九州に供給出来る航路を確保し、対価として鉄資源を手に入れ湿地の新田開発を進める
これが3世紀半ば、畿内ヤマトの勃興期と言える

この時代に神武天皇の事績を感じられるのは宇陀や熊野での伝説くらい
これは辰砂確保までの道のりと重なる
だから神武の東征は天孫と呼ばれる前の海人族勢力による畿内開発の起源譚と捉えた方が自然だ

139 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 08:19:38.48 .net
神武の実年代が倭国大乱の2世紀末なら問題ない。
実質的な畿内の銅鏡祭祀はその直前の饒速日物部の畿内入りに始まるのだろうけど。

140 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 08:22:12.36 .net
神武や饒速日の前に畿内にいた長髄彦ら登美の一族が出雲の事代主の末裔なら、出雲の大国主系の痕跡が強いのも説明がつく。
もはや呼称の問題に過ぎない。

141 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 15:44:07.90 .net
前にも書いた弥生末期の破鏡分布について

https://i.imgur.com/ZfsQJBA.jpg

これが示すことについての解釈として
①ノーマークだった大分近辺に集落出土が多数
②墓域埋葬に北部九州、とくに物部支配権である地域に集中

これらが特徴的だ
そして破鏡が持つ意味合いの謎

まず学識としては弥生末期の舶載鏡の不足による破鏡分配、というものがあるが、説明としては不十分に思える

図をよく見ると、集落出土地域は中央構造線沿いに展開されている

ということは、これは輸入が途絶え祭祀のための資源が枯渇した時期に資源確保のために物部一族や技術系渡来氏族がこの地域を採掘した痕跡ではないだろうか

この頃中央構造線沿いに四国を渡り、熊野、宇陀、伊勢と銅鉱床、辰砂採掘を進めて言ったとするとかなり合点がゆく

破鏡は勘合符の役割を担っていたり採掘者の身分保証のための一時的措置の可能性がある
さらに言えば農産資源が少ない九州南部の熊襲、隼人を従えたかった理由もこの採掘探査を行いたかったのではないだろうか

142 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 16:58:11.02 .net
>>139

神武は卑弥呼よりあとの世代だと思うなあ。

143 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 19:09:14.18 .net
>>142

年代が詰まりすぎる。
実在が確実な天皇から一代あたりの年代で逆算するんだ。
いろいろな試算はあるが、どうやっても卑弥呼より後にはならない。

144 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/11(木) 22:51:07.98 ID:OsjGOJAEN
卑弥呼は神武より後代。

145 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 00:38:42.53 ID:wdA1ujQCX
>>133
しかしなあ、沖ノ島と大島と宗像下高宮で同じ祭祀が行われるようになったのは、7世紀後半だとされている。
つまり、日本書紀で言うところの三女神を祀る祭祀は、この7世紀後半頃に成立したとみられているのよ。
沖ノ島の元々の祭神が女神であったことは認められるものの、その他の2女神が元からあったのかどうか極めて怪しい。
ということは、天照と素戔嗚の誓約は4世紀後半にあった伝承ではなく、7世紀後半に作られたごく新しい神話である可能性が高いのよ。
物部がこの神話に関わりがあるとは、なかなか信じにくいな。

146 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/12(金) 08:48:09.81 ID:W/gcUhKSr
きわめて怪しいのはオマエの主張だ。7世紀になんかねえ。イカサマはオマエに造られたごく新しいフェイクだ。
女真が神武以前畿内にいたという話はオマエの脳内が成立させたものであり、これは完全なデタラメ小説だ。
三女伸は神武以前であって、神武以後の創作ではない。

147 :太国という人間の過ち:2023/05/12(金) 09:08:18.51 ID:dppeuAgLp
神武は卑弥呼より後代。

148 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/12(金) 13:53:46.89 ID:CjZxrZLWV
神武即位元年=西暦元年

卑弥呼は239年ころだから、神武より卑弥呼んほうが後代。
>>147
オマエという人間の過ちこれが真だ。。

149 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 15:13:21.34 ID:wdA1ujQCX
>>146
5世紀中頃に四条畷にやってきた女真の長脛彦が、前660年(タイコク説では紀元元年)即位の神武と戦うわけがねーだろ。
あほちゃう。
神武は、日本書紀編纂室が書いた大河小説の主人公だ。
神武は、応神がモデルなんよ。
だから、神武は応神の時代である4世紀末〜5世紀初頭以前には存在し得ない主人公ということになる。

ワイの女真長脛彦説を信じたまえ。

150 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 08:49:30.67 ID:47OerqmJQ
小説ではねえ。この前も放送で古代史の陵墓の位置と数と、その場所の件で合ってるかどうか
日本書紀の記述を探したが、具体的に悉く一致していることが分かった。これは小説ではなく事実を
記載していた文証とその現鉦といえる。こういう陵墓があるのはイカサマではなく、おまけに小説ならば古史古伝もほぼ同じ記述内容であって記紀と独立
することから小説とはいえず、オマエの小説論は棄却される。記紀の編者と古史古伝の編者の供述は共犯の被疑者の各人を
別別として供述を聞くことが口裏合わせができないように捜査機関が行う方法であって、記紀と古史古伝の編者らに口裏合わせが
出来ないことは当時スマホもなく航空機新幹線ITもないことで編纂時代が異なり記紀にない情報が古史古伝のほうに
あることからで口裏合わせはできず、紀の小説化論は折伏される。ははは・・・・・
もともとこういう論が出たのは津田左右吉あたりであって、この男が紀がインチキだという旨の論を
言い出したからこれが増幅して、こういうアホ論を支持するイカレ者が各所に現れることになって、今日に小説だと
点検もしないで言い出した盲象なのだ。うっははは・・・・・・

151 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 08:58:11.34 ID:47OerqmJQ
神武が応神のモデルだという論は、口裏合わせのできない古史古伝と内容がほぼ同じであって、これは小説ではなく
モデルではない。双方の陵墓もあるし、モデルだと無信仰なクソ論述はもう結構月光。ww
本ものだから日本書紀に「本」の字があるのだ。但し日本から半島の記述は合ってるかどうかわからないあるいは
事実誤認があろう。朝鮮人銅族女よ、創作などとまだ頑張ってるところを考えると、やはりおめーは朝鮮人女工作員だな。
神社神道信仰のかけらもなく、おめーがうるさい銅の朝鮮人だと解る。wwwww
ぎゃあぎゃあ騒音の化学反応するんじゃねえ。

152 :太国という人間の過ち:2023/05/13(土) 12:42:14.06 ID:qhpXVdFSN
5世紀中頃に八丁畷にやってきた川崎の彦摩呂が、前660年(タイコク説では紀元元年)即位の神武と戦うわけがねーだろ。
あほちゃう。
神武寺は、京急の停車駅だ。
神武寺は、池子弾薬庫がモデルなんよ。

153 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 19:29:30.36 ID:twJeGc/YS
戦うわけがねえというより、真鍮女真のわけがねえからだぜ。
そっちがモデルだという資料根拠が薄弱であって、おめーの脳内の架空創作であるwww。

154 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/14(日) 13:58:52.12 ID:xiKL8QUEd
モデルという奴は、無神論者だということだな。神社神道の信仰のかけらもないいかれた奴が
朝鮮人という格下・銅工作員のズの高い脳内の武細工脳だ。
だからモデルとか言い出す無礼をやらかすわけだ。武論頭は雄弁の銀よりうるさく、化ける化学反応をやらかす
輩だ。沈黙の黄金は神ながら言上げせずだが、対馬金銅仏のごとく純金に、いかれた銅を混ぜようというのが
おめーという朝鮮アマ工作員の脳内だ。笑わせるな。ppppp

155 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 17:22:07.23 ID:qgfnwkGIS
弥生時代の部族社会で、なにが一系の統治者だよ。
血族による氏族社会が生まれてくるのは、5世紀になってからじゃ。
だから、皇統一系などという血族観による政治思想は、5世紀以降にできたもの。
つまり、皇統が始まったのは、応神王朝時代からということだ。
これが、実証主義による皇統の考え方だ。
おめーらの神武即位紀元元年説なんか、トンデモ説の見本みたいなもんじゃな。
わははははは。

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