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オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 06:05:19.52 ID:6w1XUkZx.net
「〜の王道」という言葉は
オーディオにとっては金次第。
ならば、徹底的に狡猾であれ。
  音質なんて空気のようなものに頼るな。
  他社製品を貶めてまで称賛せよ。
  貧乏マニアの多いことを誇大広告せよ。
  中古品と「もったいない」を葬り去れ。
全ては「オーディオの君主」たるものに
ふさわしい礼儀と言葉を弁えよ。

109 ::2019/10/19(Sat) 12:22:37 ID:CGa+E26E.net
デジタル初期のセミクラシックは、やや冷たい感触の音質が多く
>>108の録音は、真空管アンプなど使うと雰囲気よく鳴ってくれる。
単に柔かいという意味ではなく、EL84やKT88など欧州系のビーム管は
艶を出しながら少し輪郭を強めてくれる。やはりまとめ方が巧い。

ただもうひとつ深く掘り進むと、熱気や興奮というものも伴うようになる。

木住野佳子はジャズピアノとはいえ、コンポザー志向の楽曲構成力があり
そして微妙に揺れ動きながら折り重なるリズム感が心地いい。
そしてプラハで生まれ育った滋味深い弦の響きとが共感しあって
暗鬱な重たさと空に抜けるような軽さが交錯する。
この上下に舞う運動が、天空のに大きな円を描いているように
ひとつの線になって集合していく様は、雲のように儚いのに力強い。
実際の雲は、近づくと凄い乱気流に寄せられているのだが
そうした熱気が奏者ひとりひとりの意志として全体を支えている。

110 ::2019/10/19(Sat) 21:39:07 ID:CGa+E26E.net
タンノイを鳴らすアンプとして
日本のラックスマンと上杉研究所の真空管アンプは
本当に日本人の心の隙間をよく知り尽くした感じで
クラシック音楽に必要な、品の良い艶、端正な趣と
いずれ菖蒲か杜若という具合である。

一方で、エアータイトの超大型真空管アンプでタンノイを
ガッツリ鳴らすというのがあるらしく、海外から引き合いが多いらしい。
エアータイトといえば、ラックスマンが真空管を撤退すると決めたとき
スピンオフして設立した会社だが、方向性は引き締まった低音と共に
正攻法でしっかりとした感じだ。

あるいはマンレイ・オーディオというスタジオ機器を設計する会社は
マンタというエイの形をした6BQ5真空管アンプを製造しているが
ここの製作していたモニタースピーカーが
タンノイのSRM/SGMの10インチをOEMしたものだった。
SRM/SGM10はポップス畑では結構な人気のある機種で
同社の真空管アンプはドライブ力としなやかさの同居したものだ。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/20(日) 13:44:28.09 ID:VA2nINtU.net
1970年代のBBCモニターの周辺は、FMステレオ放送に合わせ
定位感とフラットネスを両立した名作揃いといえる。
BCII、LS3/5A、LS5/8、LS5/9と
大きさのバリエーションもあり、試聴環境に合わせやすい。

一方で、ウーハーの設計で重視された中高域の明瞭さについて
あまり背景を知らずにいることが多い。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1979_22
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1983_10
いずれもユニット単体でと1〜2kHzにピークをもっており
それをネットワークで抑え込んでフラットネスを保持している。
よくポリブレビン特有の艶という言い方もされるが
男声アナウンサーの声が明瞭に聞こえることを第一条件とした
放送局特有の理由がある。
この中域の艶と乱高下するインピーダンスへの対処が
アンプの選択に頭を悩ましてきた。

1970年代イギリスは既にミキサーもアンプもトランジスター化を完了した時期で
重たいネットワークを難なく鳴らせるQUAD303の業務仕様50Eが使われた。
とはいえ現在のアンプ事情からすると、十分に鳴らしやすい部類になっており
電源のしっかりした国産プリメインでもそれほど違和感ない感じに収まる。
真空管でも6550、KT120、KT150のように電力供給の大きいアンプで鳴らすと
さらに色艶があって開放的という全く別の魅力が現れる。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/20(日) 14:06:23.74 ID:VA2nINtU.net
最近のスピーカーをみると、ヘッドホンやホームシアターに圧されて
本当にクラシック音楽のことを考えてくれているのか?という疑問もなくはない。

ロック世代も半世紀を過ぎて老境に入りつつあり
そちらのニーズのほうがずっと大きいというべきかもしれない。
そのなかで、やれ奥行き感だとか、弦の美しさだとか、オカシイのかもしれない。

ただ、クラシック音楽は20世紀までステレオ再生の王道だったのは確かで
それは取りも直さず、生楽器での実演との比較がしやすい点に尽きる。
オーディオの忠実度の尺度として、それなりに有意義であったのだ。

個人的には、ホームシアターの洗礼を通じて、パルス音と重低音の再生だけでなく
セリフの定位がビッグマウスになったりせず、全体にノーマルになったと感じる。
それと、スピーカーでエコーを独自にもつようなエンクロージャー構造も減った。
逆に退化した点は、低音のレスポンスが遅いこと、中域の艶が減退し冷めた感じになり
ツイーターの質感ばかり上がって、他が無視されているのでは?と思える点だ。

113 ::2019/10/20(日) 20:12:34 ID:VA2nINtU.net
20世紀末のポスト・モダニズム、脱構築という思想の移り変わりは
クラシックという概念を楽壇のなかから消し去ろうとした。

同じことは、シューマンらの時代のサロンへの検閲にも現れ
薬にも毒にもならないビーダーマイヤー調の世界に覆い尽くされる。
一種の平和や安泰への希求は、ロマン主義の対極にあるのだろうか?
ユーモアとメランコリーを激しい対話に持ち込んだダヴィッド同盟を聴くと
その性格表現をどう再現するかに、一筋縄ではいかない複雑な感じがする。

私たちが知るシューベルト〜メンデルスゾーンの初期ロマン派の理解は
「子供の情景」にみる家庭的な雰囲気への憧憬でもある。
しかしシューマンはそう願うこととの深い葛藤があったようだ。
その後の「クライスレリアーナ」で、再び破滅的な自画像をぶつける。

こうした内容は、ピアノ的なきれいな響きに包まれるなんてオーディオ・テクニックで
どにかしようなど所詮無理な話。その裏まで再生しないと判らない。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:00:18.87 ID:gEMk3P6y.net
そもそもこの躁鬱を繰り返す指向は
ドイツにおける疾風怒濤時代に起因するのだが
本来は18世紀末の小説や演劇の分野でのことだった。
同時代のベートーヴェンが第九で取り上げたシラー
またはシューベルトのゲーテの詩による歌曲などがそうである。

一方で、シューマンの根差す対立概念の対話をもつ器楽曲は
バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルがベルリン宮での不遇の時代に
フランスの標題的器楽曲をクラヴィーア・ソナタのなかに込めた多感様式による。
実際にはゲーテやシラーが演劇で活躍する1770年よりも前の時代だ。
フランスのピアノ奏者にシューマン演奏の伝統が深く残るのは
音のニュアンスや色彩感が、18世紀ロココ音楽で重視された
エスプリの精神に沿っているからだと思う。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:28:17 ID:gEMk3P6y.net
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの功績のもうひとつは
自身の多感形式の発展史のなかに、大バッハの器楽曲を挙げたことだ。
それはウィーンやロンドンといった外国の地での芸術サークルで盛んになり
大バッハを起源とする近代的なドイツ・クラシック音楽の系譜が形成される。

21世紀のバッハ演奏の主流は、古楽器によるオーセンティックな解釈だが
実際にはロマン主義で確立された器楽曲鑑賞のルールが堅く守られている。
そして演奏会批評も、19世紀の大衆紙の発展が深く根を下ろしている。
今一度、ロマンチックなバッハ解釈を再検証してみてもいいだろう。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:55:33 ID:gEMk3P6y.net
シゲティのバッハ無伴奏ヴァイオリンは
シゲティの代表盤であると同時に最も議論を呼んできた録音だ。
20世紀初頭の神童時代だった頃にコンサートで最も評価されたもので
無伴奏チェロよりもずっと先んじて評価されていた楽曲へと昇華させた張本人だ。
イザイの無伴奏の献呈者の筆頭に置かれていることもその衝撃を物語っている。
重音のバランスを維持した複雑な運指など、克服すべき内容を解決した演奏は
20世紀を通じてヴァイオリン曲のスタンダードにまで押し上げた。

一方で、戦後になってようやく果たした全曲録音は、これがストラディバリウスの音かと
誰も信じないだろうと思えるギスギスした音の連続に霹靂とする。
砂漠に隠遁するヒエロニムスよろしく老人の荒れた肌をそのままさらけ出したような音に
孤高の精神を垣間見るようで、クラシック音楽に抱く美意識を崩壊させるインパクトをもつ。
これが米バッハ協会の委嘱で、レオンハルトの初期録音と並行して行われたと知ると
さらに驚愕を覚えることだろう。実にマジメに企画されたセッションだったのだ。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 06:15:03.88 ID:7AqP5O/m.net
シゲティのバッハ無伴奏が行ったのは、クラシックの美意識を逆なでする
新即物主義の整った均衡を失った、アンチ・ロマンティシズムだった。
ずっと先の時代のポスト・モダン時代にでたピアニスト、アファナシエフと同質の闇だ。

このカオス状態を別な側面でみると
ケンプの2種類のベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集が挙げられる。
モノラル期の2回目のセッションは、古典的な美質を追求した端正なものだったが
その10年後にステレオでのセッションは、コルトーもあわやと思わせるファンタジーだ。
いつのまにかそれがケンプの芸風と思われている。

こうした名演の類は、オーディオの音質でどうとかいうレベルのものではなく
ラジカセで聴いても、それほど間違った印象をもたないと思えるほど
実に完成された個性というべき説得力をもっていることが判る。
一方で、アンチ・ロマン、ファンタジーというと、曖昧無垢な表現のようにみえて
実際には細部にこだわった造形力がなければ、ヘタな抽象画に見えてしまう。
その辺の技巧を聴き取る道具として、オーディオはちゃんと存在するのだ。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 06:54:20.43 ID:7AqP5O/m.net
シゲティのバッハがクラシックファンの美意識を逆なでするダークフォースだとすると
そもそも崩壊したと考えられる、元の原型となるフォルムは何なのか。

例えば、ルネサンス時代のミケランジェロによる2種類のピエタ(悲しみの聖母)
サン・ピエトロとロンダニーニを比べると、その造形の違いがはっきり判る。
優美の極みをもって完成されたサン・ピエトロのピエタのこの題材の代表作だが
晩年の遺作となったロンダニーニのピエタは、ノミの傷跡も荒々しく残る悲痛さが際立つ。
ちょうどイーゼンハイム祭壇画の磔刑図のむごたらしさの延長上にある痛みだ。

実は、シゲティのバッハには、ホールトーンで包まれる優美さを捨てて
ジャズ的な近接マイクで細部を録ったところに、一種の録音芸術的な仕掛けがある。
試しにデジタル・リバーブを深く掛けて聴くと、普通のコンサート風の音に戻る。
それでいて、凛と立つ孤高のバイオリンの存在が消えないのだから恐れ入る。
この仕掛けは、石造りの部屋でスピーカーを鳴らすのと同じで
普通の録音だとデフォルメしてエコーを織り交ぜていることが判る。
それを原音主義と称して評価しているところに、問題の根っ子があるのだ。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 07:19:21 ID:7AqP5O/m.net
同じ近接マイクで録ったバッハ無伴奏に、1981年のクイケンの録音がある。
こちらは、古楽器&バロック奏法の解体新書さながらに細部にこだわった録音で
まさかフッガー城 糸杉の間でのセッションだとは誰も信じないだろう。

結局20年の歳月を経て、ノーマルな状態での再録音と相成ったが
バロック奏法のオーセンティックな解釈を突き詰めた点で、1回目は衝撃的だった。
その後の録音が、ガット弦&バロック弓の組合せで、三味線でいうサワリのような音を
様々なシチュエーションで織り交ぜることで、バロック的な光陰の造形を確立したのだ。
それは絵画でいうラファエロからカラヴァッジョへの変化にも似て劇的なのだ。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 07:54:05 ID:7AqP5O/m.net
クイケンの録音は、フッガー城 糸杉の間ではなくて、アルティミーノのメディチ家邸宅だった。
ttps://www.italianways.com/the-villa-medicea-in-poggio-a-caiano-an-excursion-into-renaissance/
こんなところを占拠して録音するなんて、どういう贅沢なのかと思う一方で
録音のストイックな選択が、複雑な思考の迷路を生み出している。
ボッティチェリの弟子フィリッピーノ・リッピの作品のもつ美の愉悦と
バッハのもつ数学的な造形美とが触れ合うことがなかったとも思われる。
あるいは大ロレンツォの霊のお気に召さなかったのか。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 06:27:20.82 ID:65Uwos+m.net
昔からバイオリンの音をいかに綺麗に再生するかは
オーディオの音質を推し量るバロメーターのひとつだった。
例えばオルソン博士のRCAのLC-1Aモニターは
ハイフェッツの録音を最高の音質で再生できるように考えられたと言われ
リビングステレオの指標ともなっている。

今では高調波歪みを十分に抑え込んだツイーターが巷に溢れ
バイオリンの音がうるさいなどというスピーカーはほとんど無くなった。
なので、クラシック向けということをバイオリンの音で判断することはできない。
とはいえ、大人しくなってツンと澄ましているやつも少なくない。
ブラームスのVnソナタだって、デュメイやクレーメルのように
センセーショナルな表現が好まれる。演奏が渋いと判りにくいからだ。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 06:58:53.83 ID:65Uwos+m.net
1980年代にセンセーショナルな演奏で名を馳せた
ポゴレリチやルイサダなど、グラモフォン・アーチストが
RCA&ソニー陣営に再雇用されて、プログラムを展開している。
とはいえ、アーチストの本質は自由な演奏活動にあるので
サラリーマンのように言ってはおかしな話だ。
あるいは、シフやベロフといった純情派のピアニストも
アルファやデノンで再録音を試みている。
いずれも21世紀に入って何となく音沙汰のない感じだが
ポスト・モダン時代のロスト・ジェネレーションと考えれば
何となく合点がいく。時代の申し子と呼ばれながら
時代の悪しき方針に翻弄された部分もあるのだ。
プロデューサーが大きな顔を効かせた録音セッションが
アーチストの何かを殺してしまった臭いを感じるのだ。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:14:35.63 ID:65Uwos+m.net
しかし、ロマンティシズムもポスト・モダニズムも、しっかりした定義があるわけでもない。
とくに過去の作品を尊ぶクラシック音楽というカテゴリーにおいて
むしろその鑑賞対象が、音楽を通じた人格的な交流という
一種の社交的なマナーに基づいているとすれば
そこでの人格表現には、かなりの制限があるのだが
言葉にならない感情を投影できる作品に出合えたアーチストの幸福度が
本当に高いように感じるのは、感動を一緒に共感しているからだろう。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:30:07.68 ID:65Uwos+m.net
しかし、オーディオ装置によって、音楽鑑賞の視点に違いが出ること自体
あまり問題にされない。それは電子技術が、演奏技術と相容れないという
基本的な思い込みがあるからだと思う。

ジャズ愛好家には、レコードに記録された一期一会のテイクが
二度と同じものとはならない鉄則があるため
レコード再生におけるオーディオ機器の重要性を説くことが多い。

クラシック録音において難しいのは、生演奏の再現性の高さも売りなので
音質への追求が常に青天井の状態で、古い録音への評価が押し並べて辛い。
モノラルだから残念、平面的なマルチマイク収録、デジタル臭い音
どこかしら不平を言ってみるのだが、裏を返せば、録音のせいにすれば
自分のオーディオ装置の不備は解消できると信じているからだ。

個人的には、録音技術は1970年代をピークに
もはや人間の測れる数値の限界を越えているように感じていて
むしろそういう測定機器もなく、自分の耳だけが頼りだった時代の
オーディオ装置に込められた感性のようなものが
再びクローズアップされているように感じる。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:46:23 ID:65Uwos+m.net
例えばマルチマイク収録が、奥行き方向の定位を無視して
ピックアップマイクで継ぎはぎしたように聞こえるのは
スピーカーの分解能が高まったからだと思う。

一方で、そのような現象は、低域のレスポンスが重く
ツイーターのパルス波が浮き立っているからだ。
むしろ高周波のパルス波を和らげる真空管、ライントランスなどを
噛ませることで、全体に統一されたトーンを保つことができる。
躍動感が失われたと思うなら、アンプのドライブ力が不足している。
そういう風に自分の足元を疑うのが、本当は必要なのだと思う。

こうしたノウハウは、商品を購入する際のレビューには出てこない。
相当に入念にセッティングされた状態で聴いているためだが
実際のユーザーは試聴室の違いも含め、そこまで追いつかない。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 07:02:31.98 ID:dz3/vSov.net
1990年代前半のことだっただろうか。
個人的には1980年前後のアナログ録音からAD変換されたCDの音が好きで
オーディオ機器を選ぶときに試聴盤として持っていくことが多かったのだが
店員の多くは「このCDそれほど音が良くないですね」ということを言っていた。

タリス・スコラーズのパレストリーナのミサ曲「ニグラ・スム」
ナッセン/ロンドン・シンフォニエッタの武満徹「リヴァ−ラン」など
空間に溶け合った繊細な音の移り変わりが美しい録音だと思う。

おそらく、テープヒスがサーと掛かっていることや、低音の伸びが制限されていること
相対的に中高域がデフォルメして聞こえるなど、思い当たる点はいくつかあったが
出鼻をくじかれたようで、何とも拍子抜けな感じだった。

個人的には、こうしたppが連続するような録音でも、音がエモーショナルに鳴る
そういうオーディオ機器を求めていたのだが、作品の話題まで引っ張ることなど
到底できないことに、オーディオのもつ価値そのものを考えさせられた。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 08:04:15.49 ID:dz3/vSov.net
1979年録音のシェリング&ヘブラーのベートーヴェン Vnソナタ全集
1981年録音のクイケンのバッハ無伴奏バイオリンは
単に古楽器vsモダンというステレオ・タイプで聴き比べると損する内容だと思う。

例えば、シェリングとヘブラーの組合せは、ベートーヴェンのソナタの背景にある
フォルテピアノの音響的バランスが伝統的に知られていたことを示している。
モーツァルト弾きによるデュオは、グリュミオー&ハスキルでも好印象だったが
シェリングの全集では、後半でのシンフォニックなピアノの扱いなど
フランス・ロココ風のスタイルから、ドイツ・ロマン派に移行していく様子が判る。
おそらく、ベートーヴェンのソナタ全集などお呼びも掛からないヘブラー女史が
その不満を爆発させたかのような演奏で、そのはじけぶりが面白い。

シェリングの演奏は、いつも形式美を堅固に構えた中堅を得たものにみえるが
めずらしく話の合うお相手をみつけて、ユーモアを交え演奏を楽しんでいるようだ。
これを遠巻きにサウンドステージを意識すると、エモーショナルな流れを失う。
あくまでも1970年代初頭のアナログ収録の方法を踏襲したバランスなのだが
こうしたアナクロな仕掛けのために、演奏がただ渋いという変な評価に陥りやすい。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 08:42:25.23 ID:dz3/vSov.net
1981年録音のクイケンのバッハ無伴奏バイオリンは
いくらADDマスターの好きな私でも、オーディオ店の試聴に使うのがはばかれる一品だ。
オーディオ鑑賞用というよりは、アラ探しするのに持ってこいのCDで
パルス性のノコギリ波が目立ち、どの楽音にも耳障りな付帯音として残り
おそらくデジタル変換の癖が最も出てしまった例と言っても過言ではない。

ただ、バロック奏法を前面に出した演奏としては、満を持したものとなっており
実際には、バッハよりもクイケンというバイオリン弾きの肖像が前面に出ている。
その後の寺神戸、ルーシー・ファン・ダールなど、名立たるバロックオケのコンマスが
豊富な演奏経験を経てスコアを読み込んだ結果を披露する機会が増えた。
その録音の多くは、1981年のクイケン盤の二の轍を踏まないこともルール化され
良くも悪くもクイケン旧盤は、古楽器演奏のスタンダードになっているのである。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 09:05:54.38 ID:dz3/vSov.net
ただ、古楽器の録音で一番難しいのは、楽器の特徴がバラバラになっているため
バイオリンやピアノ、あるいは管楽器など、20世紀にほぼ規格化された音とは違い
それまでの生音の経験則が全く成り立たなくなっていることである。

またこの手の古楽器録音は、録音ブースを持たない古式ゆかりの会場が多いため
録音時の音のチェックはヘッドホンが中心であることに加え
今も昔もスピーカーの固有音の違いがメーカー間で散見されるため
マスタリングに使用するスピーカーでは中立性が保てないこともあり
スタックスやAKGのイヤースピーカーでチェックすることが行われた。
改めてこの手のヘッドホンの過敏な応答特性を
スピーカーで再現するのは大ごとである。

一方で、スタックスのイヤースピーカーを元手に
システム調整するという荒業も不可能ではないが、どうしたものだろうか?

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 10:17:13 ID:dz3/vSov.net
古楽器の録音で関心したのは、以下のようなもの。

佐藤豊彦/フランス・バロック・リュート曲集(CHANNEL Classics、1996)
 17世紀に南ドイツで作られたオリジナル楽器を丁寧に修復したもの。
 独特の暗がりをもつ音色が、墓標を意味する音楽作品に彩りを添えている。

サヴァール/サンコロンブ2世 無伴奏ヴィオール組曲(ALIAVox、2003)
 イギリスに渡って活躍した息子のほうの作品で、華やかなパリ宮廷文化を離れ
 非常に思索的な傾向を示す。1697年ロンドンのノーマン作のガンバは
 力強く太い低音が特徴のある楽器で、この作品の重厚さを引き立てている。

エガール/ヘンデル オルガン協奏曲Op.7(米harmodia mundi、2007)
 当時のロンドンで流行った18世紀中頃の室内オルガンを用いた録音で
 シフト・ペダル(弱音のストップだけ残してシャットダウンする機能)を効果的に使い
 冒頭に即興を入れるなど、軽快な指使いでギャラントな雰囲気を増長している。
 ttps://www.goetzegwynn.co.uk/organ/chamber-organ-for-handel-house-museum/

ショーンスハイム/ハイドン ピアノ・ソナタ全集(CAPRICCIO、2003-04)
 初期のチェンバロから後期のフォルテピアノまで6台に渡って楽器を使い分け
 それぞれの作品の特徴をあぶりだした好企画盤。楽器の音に聞き比べも面白い。

スホーンデルヴルト/ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(Alpha、2004-09)
 18世紀末のサロンでの演奏形態を想定した室内楽規模の小人数オケによる演奏で
 各楽器が平等に響く協奏的なアンサンブルの仕組みが判りやすく提示される。
 ベートーヴェン自身が望んだ大オーケストラとの共演ではなく
 愛弟子のツェルニーが理想的とした演奏形態を模擬したのが勝因だと思う。
 

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 16:33:33.35 ID:dz3/vSov.net
ウィーンの三羽烏:グルダ、バトゥラ=スコダ、デムスが
まるで三人で申し合わせたように1970年を前後して
ベートーヴェン、シューベルト、シューマンの全集物を録音した。
しかもグルダとデムスはマイナーレーベルからの発信だったので
ゲリラ的な録音セッションに、やや驚きを隠せない感じで迎えられた。

ウイーン気質といえばそれまでだが、血は争えないという言葉どおりの演奏で
ビーダーマイヤー調の予定調和的というか、カフェでの歓談を楽しむような感じ。
3人の個性も合わせて見据えると、なかなか面白い選択だったと思う。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 19:53:35 ID:dz3/vSov.net
このウィーン風の丸い音色は、中域のボーカル域に的を絞った
地元のベーゼンドルファーにも特徴的な音色でもある。
スタンウェイでの演奏に比べ、低音も高音も抑えられたメリハリのない音調で
オーディオ的なピアニズムを際立たせる魅力に欠けると勘違いされることが多い。

特に高域のパルス性の音で解像度を誤魔化しているオーディオ機器は
一瞬にして魅力を失うことになり、モゴモゴと団子になった打鍵が支配する。
ただ、オーディオ・チェックとしては試金石となること間違いなしで
これをクリアすると色々な意味で得をすると思う。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/28(月) 06:41:30.26 ID:u2towfVy.net
しかし、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンはそれぞれウィーンと距離感が違う。
古典派音楽の都に詣でた者、生粋のウィーンっ子、ウィーンに失望して立ち去った者。
実際には多くのパトロンが賑わしいだけで、国外の音楽家を消費することで時間を潰す
創造性のある地域ではなかった。
実際に有力な哲学者、詩人の多くは、シューマンはが見限る前にこの地を去った。

そしてバッハという堅物との距離感で、作風の複雑さの違いも出てくる。
本当はハンブルクのバッハ、カール・フィリップ・エマニュエルこそが
父バッハとフランスのロココ様式を融合させ、観念的な器楽曲の道を開いたのだが
大バッハの音楽言語的な構造を示唆した点が、後のドイツ的な音楽の理解となる。

こうしたなかで、ウィーン的なピアノという括りは
音楽愛好家が手習いで演奏する、家庭料理のような味わいともいえ
かつて邸宅で行われたサロン的な雰囲気を継承することを意味する。
それが退屈だという意見は、貴族文化の気まぐれな会話についていけない
そう思われても仕方ないような気がする。しかし、実際にウィーンの音楽文化は
そうした退屈な時間の辛抱強い積み重ねでできていたのだと思う。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/28(月) 06:51:02.27 ID:u2towfVy.net
ウィーン風のピアノ演奏にあくびをしながら聴いてしまう人には
例えば、シューベルトのピアノ付き室内楽が、少し色彩感が加わり聞き易いだろう。
そこに音楽的な団らん、気の利いた会話をどのように過ごすかの極意があるように思える。
ピアノ曲が思想の遍歴、弦楽四重奏曲がシンフォニックな形式の探求だとすると
ピアノ付き室内楽は、もっと演奏者が楽しむための仕掛けが仕組まれているからだ。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/29(火) 07:05:37 ID:Y/dHmgyE.net
ウィーンのピアノの伝統には、ゴドフスキーに繋がるヴィルトゥオーゾの系譜もあり
直接的にウィーンに根付かなかったものの、ロシアのネイガウス門下に引き継がれた。
リヒテル、ギレリスの2人が超有名だが、ルプーもその最後の弟子のひとりでもある。
ネイガウス本人もそうだが、青空のように澄んだffの響き、安定したppの表情が美しく
シューベルトの演奏に最も適しているように言われる。

個人的には、シューマン作品集が好きで、テンポルバートとペダリングが絶妙に決まり
低弦のうねりと高音のきらめきが絶え間ないポリフォニーのように交差する。
ただ残念なのは、技巧的なフモレスケ、クライスレリアーナの間に挟まれた
いかにもルプーが得意そうな「子供の情景」の平凡な出来に引きずられて
全体の評価が低くなっているのが惜しいアルバムのように思ってる。

もともとシューマンのピアノ曲は大半が難物で、うまく紹介するのが難しいのだが
クライスレリアーナは技量と詩情が高度にバランスした名演だと思う。
大概のピアニストは最初の楽章でアッチェルランドを駆けるとピアノが鳴り切らないのだが
ルプーは響きの豊かさをより太くしながら、しっかり弾ききっている。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/29(火) 07:31:25.09 ID:Y/dHmgyE.net
よく言われるルプーのシューマンが慎ましく大人しいと感じるのは
おそらく低弦の表情が埋もれて団子状になってしまうスピーカーが多いせいだと思う。
もうひとつは時代的な問題で、1993年リリースのCDと矮小化したステレオから
どれだけの人が、ルプーのヴィルトゥオーゾを堪能できただろうか?
これが1970年代だったら、もっと聴き手に恵まれていたかもしれない。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 07:09:41.23 ID:DFig2z9z.net
逆に言うと、優秀録音の定義は、一般家庭で聞き易いステレオの規模で評価される。
ある水準に立たないと、演奏の真価が判らないようでは、それは難解な音質なのだ。
逆に、スコアが透けてみえるようなとか、サウンドステージが立体的に広がるとか
そういう演奏が良いというのも間違っている。

例えば、マーラーの演奏でも、クーベリックやノイマン(旧盤)の録音は
アンサンブルの一体性を重視したもので、分解寸前の危機感はそれほど感じない。
代りに、作曲家のもつ思いの強さが、自然に浮かび上がる。

両者には、やや共通点があって、バイエルン放送響の設立時のメンバーは
バンベルク響で主席を務めた人々が含まれており
プラハに在住していた古い東欧移民に先祖をもつドイツ系音楽家達である。
いわゆるボヘミアのアンサンブルに特徴的な、家族的な心の通った一体感があり
そこにある抱擁感こそが、マーラーが求めてやまなかったものだったように錯覚さえする。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 07:33:43.46 ID:DFig2z9z.net
しかし、スプラフォンとグラモフォンとでは録音スタイルに違いがあり
ノイマン旧盤は木質の響きを美しくとらえた上品さが優位にたち
クーベリック盤はより都会的に洗練された透明感の高いものである。
この違いは、いわゆるジャーナリスティックな演奏会評への顔向けの差であり
クーベリックがベルリンやウィーンのような華やかな社交界と対抗する必然性があるのに
ノイマン旧盤は急がずじっくり全集に挑んだ丁寧な雰囲気を伝える。
どちらもまだ冷戦末期のことでもあり、そうした表向きの顔は違いがあるものの
ノイマンにしろクーベリックにしろ、今は政治体制など気にせずワインを酌み交わしていることだろう。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 07:51:30.49 ID:LehP4+dx.net
最近のレコード屋(CDショップ)でのクラシック音楽コーナーは瀕死状態だ。
国内盤のベスト100が居並ぶだけの様子をみると
いまどき、どれだけの初心者が買いに来るのか? と疑わざるをえない。

特にレーベルの合併・吸収の激しい昨今において
ベスト100の枠もますます狭くなって、デッカ、グラモフォン、フィリップスで
どれが最高か選べという、凄く残酷なことが行われている。
もはや定番という言葉はなく、全て限定盤に近い扱いで
それを買い逃すと10年間は出番が失われるものも少なくない。
何かビルボード・チャートでも眺めているようで
おおよそクラシック(古典的な芸術観)という価値観にそぐわないのだ。

その一方で、本国のほうはどうかというと
オリジナルのアルバム構成をいじらず出版し続けるという
アーカイヴとしての保存という意識を強く感じる。
ミケランジェリの映像&子供の領分などオリジナル・カップリングで存在するし
ポリーニの夜想曲も抜粋なしの2枚組で単売している。

もっとも、どちらも録音全集というかたちで、効率的に購入できるので
単品のアルバムをじっくり味わう意義は薄れていくのかもしれない。
フィルクスニー晩年のヤナーチェク・アルバムを買おうと思ったら
合併と全集化の煽りを喰って廃盤になっていた。何とも惜しい感じだ。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 20:19:22 ID:LehP4+dx.net
再販モノのベスト100の価格は、1500〜1800円とミドルプライスだが
輸入盤での全集物など、まとめて買うと500円/枚以下になるので
単売であることの意味がしっかりしていないと難しい。

もうひとつはCDで高音質というのがもう魅力がなくなっており
ポータブルプレイヤーで聞けず、ちゃんとしたステレオを持つ人の買い物でもない
どうにも初心者の状況を、あまり呑み込めていないように思うのだ。

さりとて、MP3相当のストリーム音源は、音質の劣化があまりにひどい。
あくまでも買う前に楽曲や演奏を確かめるためのものと割り切ってる。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 20:33:49 ID:LehP4+dx.net
新しくベルリンフィルの監督に選ばれたキリル・ペトレンコの
ヨゼフ・スークの管弦楽曲集などは、CPOらしいマニアックな選曲ながら
お祝い価格という感じで、思わず嬉しさがこみあげてくる。

アスラエル交響曲や人生の実りなどは、初演者のターリッヒの録音が
モノラルながら決定盤のようになっていて、ようやく20世紀末になって
チェコの指揮者が少しずつリリースするようになった感じだが
同時代のヤナーチェクなどと比べると、どうしてもマイナーな扱いになりやすい。

ペトレンコはそうした文脈もなく、ひたすら楽曲へのオマージュを抱きつつ
マイナーオケを率いて強い信念をもって演奏している様子が判って
しかも3枚組で1枚と同じ価格で売られるというオマケまでついてくる。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 21:26:48 ID:LehP4+dx.net
フィルクスニー3度目のヤナーチェクが入手しづらくなったので
1905年ソナタの入ってるアルバムを捜してみると
あるはあるは、こんなに愛されてた曲だったのかと驚いた。

そのなかで気になったのが、ヤン・バルトシュというチェコ出身の人で
海外レーベルに人材流出の激しいスプラフォンでの期待の若手による
久々の新録音というのも手伝って、思わずポチってしまった。

ジャケ絵がまた渋く、ボヘミアの森をさすらう感じがあって
これだけで何を希求してヤナーチェクを取り上げたのか感じ取ることができそうだ。
木こりのおじさんがピアノで愛奏曲を披露しますという風情で
それがたまたまヤナーチェクだった、そういう自然体の雰囲気で包まれる。

これがECMレーベルだったら、あんまり興味をもたなかったかもしれず
自分のへそ曲がり具合も堂に入ったものだとつくづく感心した次第。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/07(木) 06:36:24.60 ID:ai/RigxQ.net
CDが高音質というと、疑問に思う人も多いだろう。
ランダムなデジタルノイズが20kHz周辺に溜まり込んで
硬質でザラザラした感じになりやすい。

この帯域の再生能力が曖昧な真空管アンプが好まれたり
パルス波を通しにくくしたCDライントランスが流行ったりと
様々なことが行われているが、一向に解決する兆しがない。

一方で、スピーカーがCD対応ということで10kHz以上の反応を鋭敏にしたり
アンプも鮮度を落とさないようイコライザーを装備しないなど片意地を張って
場合によってはプリアンプを抜きにしてボリュームのみという構成もある。
足並みが揃っていない以上、それなりに対策をとる必要があるのだ。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/07(木) 20:38:27 ID:ai/RigxQ.net
CDの開発時にどういう試聴環境にあったかを考えたとき
基本的にはアナログ機器に取り囲まれた状態だったと思っていいだろう。
それはRIAA、FM波、Dolbyなど、全ての音源がエンファシスをかけており
入力できる信号のダイナミックレンジが周波数によって異なっていた。

そのため、パッケージされた後の音源に関しては
高域はそのほど大入力を気にせずに済んだし
むしろ繊細さのほうが求められていたともいえる。

CD発売時に重低音から超高域まで
同じダイナミックレンジで再生できるようなスピーカーは
当時は想定していなかったと考えていいだろう。
ところが、CDに関する下馬評のほうが先行して
「デジタル対応」とうたったオーディオ機器が氾濫し
むしろ両翼の伸びを強調した音調が目立つようになった。

今更ながら思うのだが、スペックとしては1970年代のほうが
音質として聴きやすかったのではないだろうか?

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 08:30:38 ID:ZQL4jhaW.net
1970年代の録音品質のほうがリーズナブルだと思えるのは
オーディオ機器のスペックが、それ以上のものをなかなか造れないでいるからだ。

むしろそれに見合ったリスニングルームを構築できない人が多いのではないだろうか。
いまどき16cmウーハーでも50Hzまで伸ばすのは容易だが
38cmのレスポンスの速さと比べると、ただボーっと突っ立っているだけの低音だ。
しかし38cmのエネルギーを受け止める部屋がない以上、縮小サイズに収めるしかない。

こうしたことにアナログ盤はどう対処しているかというと
80〜200Hz付近を少し持ち上げて、低音の量感を上げる手立てをしている。
あるいはイコライザーアンプのRIAA補正で中高域を2〜3dBだけ気持ち膨らませる。
これでふくよかさ、艶やかさのコントロールをしているのだが
CD再生の場合はこれを禁じ手として扱っている。なぜだろうか?
デジタル録音が正確無比だと思ってるからだ。ただ実際にはそうではない。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 09:01:02.51 ID:ZQL4jhaW.net
1990年代にBOSEのスピーカーが流行った時期が合って
ピュアオーディオの立場からは、音が正確ではないと叩かれまくったが
デジタル録音になってから失われたふくよかな低音を家庭用に巧く取り入れていたし
コーン紙で統一した神経過敏にならない音色も、デジタル臭さを救っていた。

同じような感覚は蘭フィリップスの録音にも感じていて
おそらく低音のスレンダーなESLでモニターしていたた時期が長かったためと思える。
タンノイでのモニターが長かった英デッカと比べると違いは明らかだが
日本のキングレコードからリリースされたロンドンレーベルの音は
同じテープから起こしたとは思えないほど暖色系の音だった。

おそらく真空管アンプが好まれる背景には、両翼帯域のボカシがある。
こうした家庭用に聞きやすい音調にまとめあげるには
ピュアではない音色のコントロールが必要な気がするのだ。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/11(月) 05:39:00 ID:ujrK9J7N.net
BBC LS3/5aの低音量が最適だとする例ととして
ルームエコーによる低音の被りが存在する。
通常のスペックで表されるのは以下の通りだが
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG4.jpg
部屋での測定例は60Hzくらいまでフラットに持ち上がっている。
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG2.jpg

実際に1970年代のブックシェルフ・スピーカーの置き方は
本棚に入れて低音のバッフル面の反射を模擬することも
ビギナー向けのオーディオ誌で推奨されていた。
また、壁に近づけて置くというのは、ステレオの普通の置き方だった。
これだと音が濁ってしまうというのは、デジタル以降の見解である。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 06:34:52.24 ID:RWhfN/ao.net
1970年代のクラシック録音は、1970年代のオーディオ技術を遥かに凌駕していた。
そう思えるのは、むしろデジタル技術で分析されたオーディオ機器が
ようやく一巡して落ち着いていくに従い、むしろ作品を聴きやすい適度なレンジ感
ダイナミックレンジの設定が板に付いてきたためだと思う。

思うにこうした聴きやすさをもたらす考え方は、ATRACやMPEGのような
音声圧縮アルゴリズムに沿っているような気もする。
適度な間引きの考え方が、音楽のエッセンスをはじき出す仕組みだが
実際はオーディオ機器もHi-Fiらしさの強調されたものが氾濫しており
デザインの仕上げに関わる感性は、人間の聴覚と深く結びついている。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:09:10 ID:RWhfN/ao.net
オーディオの基本が、人間の聴覚や感性に結びついているというのは
ヴァーチャル音響をヘッドホンで聴く際に起こる個人差を調べるうちに浮上したもので
昔は音響心理学などと呼ばれた諸現象の応用でもある。

ラウドネス曲線はその最も古典的なものだが、ポップスの録音はこれに準じている。
JBLの顧問でデロスレコードを主催しているアーグル氏は録音技術の教科書で
トーンキャラクターの効果について興味深い指摘をしており
マルチ録音での効果的なイコライジングの応用を促している。
一方で、イコライザーの弊害として生じる位相の乱れについては
まだ認識していなかったようにも思える。
それはそのままJBL4300シリーズにおける定位感の曖昧さに結びついている。

カクテルパーティー効果、マスキング効果は、定位感の向上に役立っているが
1970〜80年代はインパルス応答のスレンダーなものが希求されたため
音質として辛口のものが増える結果となった。
これが結果的にデジタル録音と同義の音質として知られるようになったのだが
マイクロ秒の僅かのパルス波にひそむ位相の乱れに言及したステップ応答は
なかなかその違いが認知されない特性となっている。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:28:58.24 ID:RWhfN/ao.net
録音における音響デザインに最も影響のあるのがマイクの特性で
例えばノイマン製の大型ダイヤフラム・コンデンサーマイクは
1930年代からそれほど変わらない特性を維持しており
Hi-Fiらしい音の王道を保ち続けている。
ファットな低域と艶やかな高域、高い音圧へのタフな追従性など
その特質をそのままスピーカーまでもっていけば立派な音響に仕上がる。

一方で、ノイマン製のマイクのもつ王道的なものは
例えばスタインウェイのピアノがそうであるように
音楽表現の制限につながることになる。
AKGやSchoepsのマイクが、高域のクリアネスの点で選ばれたり
もっと特徴の薄いDPA(B&K)がサウンドステージ形成のために選ばれたりと
その辺はかなり自由度が増えたが、やはり王道は崩れないように感じる。
おそらく最初にデザインされたノイマン氏の音響特性が
製品の品質の高さ以上の、決定的な感性の良さをもっていたからと思う。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:44:37 ID:RWhfN/ao.net
アナログ録音にあってデジタルにないものの代表例として
高次歪みとチャンネルセパレーションがある。

アナログはパルス波を通すと、その非直線性によりオーバーシュートを起こすが
固有のザラザラ、キラキラ感を音質に残すことになる。
これは楽器における倍音と同様のもので、JBLやAltecが金管楽器を得意とし
タンノイやハーベスが弦楽器を得意とするような感じに出てくる。
ところがデジタル録音は、すでに各帯域との関係性を寸断してしまっているので
互いの音域が干渉するようなことは起きないし、音に滲みや濁りがない。
まったく不純物のない炭酸水のように味気ないのだ。
かわりにデジタルフィルターの上限値(CDだと20kHz近傍)に大量の量子化歪みが累積する。
これが非常に耳ざわりで、トゲトゲしさ、ザラつきにつながる。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:50:43 ID:RWhfN/ao.net
最近になって真空管アンプが造り続けられているのは
真空管やトランスが出す高次歪みが、デジタルの味気無さをカバーするからだ。
量子化ノイズをうまくフィルタリングしながら、自身の高次倍音で埋めてしまう。
高次倍音は、楽音と連動しているので、より音楽的なエッセンスが抽出できる。
そのバーダー取引として、定位感の曖昧さ、楽音のキャラクターが付き纏う。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 19:52:39 ID:RWhfN/ao.net
デジタルになって厳密になったのはチャンネルセパレーションで
ほぼ完全に左右の信号が分離している。
45-45方式のLPはおろか、テープでさえもこれほどの性能はない。
このためステレオでの定位感を精緻に出せるようになったが
オケの一体性というか、左右の音の溶け合いというものが後退して
かつてほどリラックスした感じで得られなくなった。
どちらかというと、生真面目な人にじっと見つめられているような
何かの緊張感がずっとただよっていることになる。

またスピーカーのインパルス特性の向上で定位感がかなり良くなった反面
マルチ収録された、かつての名演が継ぎはぎだらけに聞こえたり
何とも困った感じのことも時折おきる。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 05:34:26 ID:yiNmlmzm.net
1970年代にクラシック録音におけるサウンドステージの理論が確立されたが
定位感をもたらす要となる高域特性は、録音側での曖昧さとのバランスで成り立っていた。
BBCの検証したFM放送は、三角ノイズが足かせとなって、やや霞掛かっていて
そのためにインパルス応答を鋭くすることで対処しようとした。
LP、カセットテープもチャンネルセパレーションは30〜40dB程度にとどまり
それ以下の信号はアナログミキサーのフロアノイズに埋もれると理解されていた。
これが当時のマルチ録音の限界だったと考えていい。

こうした曖昧無垢な録音品質は1970年代後半から80年代前半まで続くが
ちょうどCDの発売を挟むかたちの過度的なものとして扱われているものの
意外にもこの時期の録音は、音に潤いや暖かみがあって聴きやすい。
この辺りが録音品質を家庭用にいい加減に収める範囲だったように思う。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 05:58:05 ID:yiNmlmzm.net
スピーカーのインパルス応答を鋭くするという手法は
定位感を良くする意味で、ツイーターの設計において重要なものとなるが
その一方でパルス波の位相の乱れまで考慮したステップ応答は
コンピューターでの解析が可能になったのが1988年頃からである。
今でもステップ応答を綺麗なライトシェイプで画けるスピーカーは希少で
古くからQUAD ESLがあったものの、他にTHIEL、Vandelsteenなどしかない。

むしろ帯域別に役割分担をさせてサウンドステージを構築するのが効率的だが
ツイーターのパルス波の指令にぶら下がるように点在する楽器の音色は
なにか魂が抜けた操り人形のように感じるときがある。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 06:16:21.25 ID:yiNmlmzm.net
この帯域に一番敏感なのはバイオリンで
オーケストラの弦としては明瞭さが際立つ反面
ソロの音色は端正に演奏するだけでは物足りなくなって
クレーメルやデュメイ、ムターのようなアグレッシブな演奏が好まれる。

チェリストは受難の時期と言って良く、マイスキー、ヨーヨー・マなどは
晩年のカザルスのように隠遁者のようなアルバムを問い続けている。
人間の肉声に近いこの楽器で、語り合いたいものとは何だろうか?

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 06:36:40 ID:kjjvXzWl.net
チャイコフスキー「ある偉大な芸術家の思い出のために」で
クレーメル、アルゲリッチ、マイスキーがトリオを組んだ。
1998年に東京でのライブ収録という話題性もあったが
この楽曲の協奏曲的性格を炙りだした熱演でもある。

その後に2009〜2010年にマイスキーとクレーメルはそれぞれ
同曲を若手と組んで吹き込んでいるが
そこでのコンセプトの違い、やり残したことの意味を考えると
色々と興味深い。けして柳の下のどじょうではない。

カプリング曲の妙とも言えるが、ショスタコ、ラフマニノフ、キッシンと
前座に置いた作品がアルバムの性格に色を添えている。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:19:28.69 ID:kjjvXzWl.net
器楽曲に墓標、追悼の意味をもたせる楽曲は
古くはフランスのリュート組曲において性格付けられたが
ベートーヴェンの英雄、ブルックナーの第七など
交響曲での緩徐楽章で用いられたものもある。

ただ後期ロマン派における追悼曲の多さはやや異常で
マーラーの交響曲のライトモチーフのようなものとなるほか
チャイコ「偉大な芸術家」、ヤナーチェク「1915ソナタ」など
ある時代の終焉を意識したような題材が多い。
ベックリン「死の島」、J.E.ミレー「オフィーリアの死」など
時代に流れていたペシミズムの空気を感じ取ることもできよう。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:37:34 ID:kjjvXzWl.net
この手の曲の演奏は、ただ巧い、名演だと誉めるのに抵抗がある。
死を通じて人生の意味を問い掛けるという機会はそう滅多にない。
本当の意味での表現力がないと、間が持たないというのはあるが
それをコンサートで繰り返し行うのだから、やはり尋常ではない。

ただレクイエム=安息ということで終始するのではなく
生きるということに真剣に向き合うという意味では
後期ロマン派の追悼ムードは、バイタリティがないと務まらない感じもする。
実際、有り余るバイタリティを背景にもった演奏家のほうが
緩徐楽章の抑えた表情の重みがより一層深みを増すのだ。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:47:50.76 ID:kjjvXzWl.net
オーディオの場合は、緩徐楽章の表情をデフォルメしてやらないと
どうにも上手く再生できないきらいがある。
顔の彫りの深いほうが、陰影を映しやすいというのと似ていて
録音にハイライト、ぼかしをきっちり掛けてあげないと、繊細さが生きてこない。

アナログ盤のほうが、ピアニッシモの表情が豊かだと感じるのは
おそらくカッティングレベルの設定も含め、この手の演出が巧かったと思う。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 06:47:06 ID:XhX7S3da.net
オペラにおける主人公の非業の死は、19世紀の大衆が好むテーマで
トリスタン、ヴィオレッタ、カルメンと、その劇的な死は見せ場となり
そうならないのがオペレッタと言ってもいいくらいかもしれない。

反して器楽曲の死のテーマが、沈黙とのせめぎ合いになるのは
言葉のない音楽だから、その性格を際立たせる必要からだろうか?

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 07:53:15 ID:XhX7S3da.net
サティが「家具の音楽」という楽曲を発表したが
実はその楽曲そのものはあまり聞かれない。
ジムノペティのような室内向けの静謐な曲想ではなく
小管弦楽団で曲想のない繰り返しで埋め尽くす
ナンセンスな作曲作業と演奏形態を目論んでいる。
とはいえ、サティの作風は初期からそれほど変化せず
自分の作曲の特徴に気付いていたとも受け取れる。

1980年代のアンビエントやミニマリズムで再度注目され
音のデザインを楽しもうという感じになった。
イーノの環境音楽は、空港でのBGMを標題にしているが
A面B面を意識した造りはLPアルバムそのものであり
レコードを裏返す行為を、何かのタイミングと思っていたのか。
それ以前にはMUZAKのエレベーター音楽があり
15分テープをエンドレス再生する装置と一緒に契約していた。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 05:48:58.08 ID:dThEUuS3.net
オーディオがもともと室内での音楽鑑賞だとすると
本来流れているのは室内楽、器楽曲である。
しかし、ピアノやバイオリンを実物大で鳴らし切るのは相当にハードルが高い。
サウンドステージのような臨場感で遠目にフォーカスして
何とかお茶を濁しているのがほとんどだ。

そういう耳で聴くと、1960年代以前の録音が
楽曲の特徴をデフォルメして収録していることが判る。
イギリスだって1960年代前半まで不景気が続いて
SP盤を大切に聴き続けていたのだ。
今のような味の薄いステレオ録音を聴くと
ムードミュージックと思われても仕方ない。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 06:35:00 ID:dThEUuS3.net
例えば、1960前後のステレオ録音では、小編成のオケ録音も多く
ワルター/コロンビア響、クレンペラー&カラヤン/フィルハーモニア菅など機能的な一方で
フルオケで収録したビーチャム、コンヴィチュニーなどは、やや大味な印象を受ける。
ウィーン、ベルリンは指揮者に恵まれていないというのが正直なところだ。

あるいはこの時期のオーマンディ/フィラデルフィア管、ミュンシュ/ボストン響
ライナー/シカゴ響、セル/クリーブランド管などの録音を選ぼうとしても
どうしても後の世代のショルティ、バースタインなどと比較してしまう。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 07:13:28.24 ID:dThEUuS3.net
1960年前後に焦点を当てたオーディオシステムは
その頃のリファレンスの情報が乏しく選定に苦慮する。
オートグラフ、オイロダイン、ジョージアン、インペリアルと
青天井のスピーカーを見上げるだけで溜息が出るだけ。
アンプは安定度の良いクォード、マランツのビンテージ物
カートリッジだけオルトフォンが生き残っているだけ。

加えて盤質の問題があって
1970年代のペラペラ再発盤では分が悪い。
さらにCDになると、カセットから起こしたのか?
そう思える安物が横行したのが命取りとなった。

初期ステレオのオーディオ環境はすでに廃墟となっている。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 06:30:08.33 ID:TkO3cs+G.net
RCAのリビングステレオには3chのオリジナルテープがあって
これは映画館で使われたセンターチャンネル付のフォーマットだ。
アルテックのスタジオ機材カタログにも3chでのモニターが多く載っている。
ttp://www.lansingheritage.org/html/altec/catalogs/1963-pro.htm
おそらくオルソン博士がホールでのレコードコンサートを目論んで
このフォーマットを選んだと思われる。

フランク・シナトラの自宅には3chのオーディオセットが見られるが
スタジオのリール・トゥ・リールのテープを楽しめるようにしたのだろう。
ttps://pbs.twimg.com/media/Bzhd6jECYAAjDZ4.jpg
部屋の壁一面に展開する臨場感はここから来ている。

ちなみにRCAのモニターシステムLC-1Aは
オルソン博士の晩年の名作で、家庭用にも使いやすいものだ。
ttp://www.itishifi.com/2011/02/rca-lc-1a.html
ただし、その凝った造りと交換部品なしの小ロット品で
この辺が流通量の多いアルテックのユニットとは異なる。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:10:08.99 ID:TkO3cs+G.net
日本ではアルテックのシステムは、バイタリティに溢れたジャズの権化のように言われるが
アメリカの録音スタジオでは、プレバック・システムとして演奏の良し悪しを判断する
生音を実寸大で再生するものとして使われた。
例えばグールドは演奏の出来不出来を細かくチェックするタイプで
アルテックのシステムの前で熊のようにウロウロする姿がみられる。
ttps://www.youtube.com/watch?v=g0MZrnuSGGg
またオーケストラ録音も可能な教会堂を改築した30番街スタジオでも使用された。
ttps://payload.cargocollective.com/1/7/236959/5409068/30th-St-Studio-C.jpg
ttps://www.morrisonhotelgallery.com/images/medium/10086-LBE-ICON-flat.jpg
ttp://www.reevesaudio.com/reevesimagesnds/110-StudoCConsole.jpg

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:39:46 ID:TkO3cs+G.net
一般家庭向きの大型システムは
エレクトロボイス、ジェンセンの両翼が当時の最高級品だった。
JBL 4340シリーズを彷彿させるタンス型スピーカーの元祖である。
ttp://www.hifilit.com/Electro-Voice/patricianIV-1.jpg
ttp://www.hifilit.com/Jensen/1955-3.jpg
いずれもモノラル時代の設計のため、コーナーホーン型のキャビネットだが
ステレオ期には部屋での置き方が問題になったこともあり
なかなかお目に掛かれないものである。(以下のP.49)
ttps://www.pearl-hifi.com/06_Lit_Archive/02_PEARL_Arch/Vol_16/Sec_53/Hi-Fi_Stereo_Review/1962-12-hifi-stereo-review-no-cover.pdf
15〜18インチのウーハーと言っても、当時はコーン紙をダイレクトに震わすタイプで
大きな部屋とコンディションさえ良ければ、風のような軽い低音が聞ける。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:53:04 ID:TkO3cs+G.net
現在も製造中で手に入るオールド・アメリカンなスピーカーは
ジェンセン G-610の復刻版とクリプッシュホーンである。
ttp://www.utopianet.co.jp/product/import.html
ttps://www.klipsch.com/products/klipschorn
これにタンノイのWestminster、ヴァイタヴォックスを加えれば
1960年代の初期ステレオの凄さを満喫できるだろう。
ttps://www.esoteric.jp/jp/product/westminster_royal_gr/top
ttp://www.imaico.co.jp/vitavox/

しかし、先立つお金も、これを置く部屋もない。これが現実である。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 20:58:14 ID:TkO3cs+G.net
少し大きさのことを考えてオールドスクールのスピーカーを選べば
BBC LS5/8、JBL 4312SE、TANNOY CHEVIOTなどが思い浮かぶ。
やや低域が緩い感じだが、大らかで鳴らしやすいスピーカーで
特に1960年代のクラシック録音を眉間に皺寄せずにゆったり聴くことができる。
ラックスマンや上杉研究所のアンプなど充てると豊潤に鳴るだろう。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 08:38:38.45 ID:hZydWvDr.net
>>170のスピーカーは、実際には1970年代に設計されて
現在でもリアファインを続けながら製造されているもので
それぞれメーカーのサウンドポリシーが強く反映されながら
ニュートラルに収束しているような感じだ。

JBL 4312Gは今では珍しいパルプ製のコーンスコーカーを使うことで
JBLらしい恰幅の良さを保ちつつ、ローコストに抑えた点が好感をもてる。
コーン紙のスコーカーは、適度な分割振動で艶やかさがある一方で
能率をあまり稼げない(大音量で歪む)ので、現在では本当に貴重だ。
実はこのスピーカーに色気を出させるアンプの選定が難しく
特に鳴りにくいスピーカーでもないのに、同じ価格帯のミドルクラスのアンプが狙う
細身で精緻なトーンでまとめようとしても、まとめきれないきらいがある。

例えばラックスマンのA級アンプで鳴らす4312Gの音は豊潤で安心できるが
L-550でもスピーカーのペア価格の2倍するので何とか抑えたいと思いがちだ。
真空管ではユニゾンリサーチのTriode 25が良かったが価格は大幅に超過
トライオードのTRX-P88Sなどが室内楽もこなせてバランスが良いと思う。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 08:46:59.55 ID:hZydWvDr.net
1970年代に設計されたスピーカーが結ぶ1960年代のクラシック録音との縁とは
まだクラシック録音がオーディオのリファレンスでありえたバランスを残しているからだ。
低音から積み上げるピラミッドバランスとも言えるが、中域の艶やかさも忘れてはいけない。
実際には歪んでいるのだが、少し滲んでいる線のほうが暖かみがある。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 18:31:26.81 ID:hZydWvDr.net
今ではそうでもないが、かつてのアメリカの交響楽団に対する亜流扱いは
何がどうしてそうなっていたのか理解できない感じがある。
ともかくアメリカ=ジャズというのが刷り込まれていて、演奏の評価はもちろん
オーディオ機器の評価にも大きく影響している。

実際にはヨーロッパで教育を受けた指揮者が音楽監督に選ばれることが多く
アメリカ国内にもちょっとした劣等感があるのも確かだが
バースタイン、レヴァイン、ティルソン・トーマスなど楽壇を彩る名演を残している。
なぜかマゼールが欧州での録音が多く、それがダイナミックでスタイリッシュな
アメリカンスタイルで貫かれているため、ちょっと誤解しそうな感じだ。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 19:30:03 ID:hZydWvDr.net
1960年代のアメリカのオーケストラ録音は
セル/クリーブランド管、オーマンディ/フィラデルフィア管、ライナー/シカゴ響
ミュンシュ/ボストン響、ワルター&ミトロプーロス/ニューヨーク・フィルなど
今でも代表盤に選ばれる録音が多いものの、その再生環境はあまり芳しくない。

カートリッジは、GE、エンパイア、ピッカリングが主流で、シュアーは新参者となると
ほとんど聴いたことがないというのが本音である。
当時の最高の音はオープンリールで、LPはその次の地位にあった。
アンプはマッキン、マランツのほか、ダイナコ、フェアチャイルド、フィッシャー、スコットなど
スピーカーはJBL、アルテック、ジェンセン、エレクトロボイスなどよりどりみどりだった。

現在では本国で化石扱いされているJBL、クリプッシュなどが存続するし
ウィルソン・オーディオなどはマッシブなサウンド傾向からして適している。
アンプはマッキン、オーディオリサーチ、ダイナコ(キット)が生き残っている。
カートリッジはシュアーが旗を降ろしたが、GRADO、SUMIKOがサウンドを継承している。
BOSEはコンシュマーから撤退したが、東海岸サウンドを継承する最後のメーカーだった。

今の米国のオーディオを牽引しているのは、1970年代のアブソリュートサウンド誌の系統で
レコードで言えばテラーク、デロスなどの脂の乗ったガッツリしたサウンドが思い浮かぶ。
これに対抗するのに、マッキントッシュ、インフィニティ、マグネパン、ティールなどの
様々な個性あふれるスピーカーが開発され、青天井の高級志向に拍車が掛かった。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 20:06:05 ID:hZydWvDr.net
この世代交代を告げる出来事といえば
録音機器がアンペックスからステューダーに
カッティングマシーンがWestrex 3Dからノイマン SX-68に移行し
細身で洗練された風情がもてはやされた。
その後の1960年代の録音群の扱いは推して知るべしである。
ミッドプライスの再発盤のペラペラビニール盤、高域をイコライズしたCDと
アメリカンな消費社会の悪しき習慣を地で行くような仕打ちであった。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 20:26:12.18 ID:hZydWvDr.net
同じステレオ、同じ45-45方式のレコード。なのに音が違う。
こうしたことに気付いたのは、五味康祐などが居たものの
ほとんどが新しいオーディオの可能性のほうに賭けた。
実際に1970年代も新しい録音でクラシックレコードは潤ったし
半数以上の名盤の定義が入れ替わったのも事実だ。

しかし、輸入盤など聴くとカッティングする国柄が出ることはよく知られており
英デッカと日本のロンドン盤とは、あまりに音色が違うというのもあったが
ライセンス供与される年代が区切られていたので、さして大問題にはならなかった。

CD化されて音の変わる要素が無くなったと思われた時点で
改めてLP盤との音質の違いに気が付いた次第である。
答えはカッティング屋さんのさじ加減、つまりマスタリング工程の欠如である。
そしてデジタル録音に付きまとう一種の生硬さもこれが原因である。
デジタル対応で追われた10年間の時間と費用の浪費はユーザーにぶつけられ
そのままクラシック音楽市場の衰退を意味していた。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 21:17:17 ID:hZydWvDr.net
いつまでも古い録音のことばかりでは新しいアーチストが育たない。
これはこれで真実でもあるが、レコードのアーカイブという役割は
全く別の意味があると思う。つまり演奏史の検証のために必要なのだ。

例えば、1950年代にプライベートで録られたコルトーのレッスン風景は
ペライアの強い勧めにより、ソニーからCDでリリースされるようになった。
この詩情あふれるベートーヴェンは、今はケンプのステレオ盤で聴くこととなる。
あるいはミュンシュ/パリ管以降のベルリオーズ解釈が熱血漢に圧されるものの
モントゥー/サンフランシスコ響のより陰影の深い演奏を聴くと
この作品のもつ倒錯した姿が、若々しいロマン派芸術家と重なってくる。

ベートーヴェンの第九とヘンデルのメサイアが市民合唱団によって
ロマン主義的なコンサート会場で演奏されることで広まっていったのは
作品の認知度とバーダー取引のようなものだったように思う。
サンサースのオルガン付、R.シュトラウスのツァラトゥストラ、マーラーの千人の交響曲は
無宗教的なコンサートオルガンの建造がなければ成り立たなかったが
ロマン派時代の巨大オルガンでのバッハ演奏会をどう評価すればいいのだろうか?
メデルスゾーン、リスト、ブラームス、フランクのオルガン曲のオリジナル楽器は?
そうした楽譜からは見えない作品理解の迷宮を録音で残すことは重要なのだ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 06:58:47 ID:ugOBZ04x.net
1960年代の演奏の主流はノイエ・ザハリヒカイトつまり新即物主義であり
楽譜通りに演奏することで、作曲家の意図をストレートに伝えることである。
一方で、演奏者の技量も機械的に一寸の狂いもなく訓練されることが重要で
楽器の不安定さをあまり感じさせないモダン楽器の演奏形態もほぼ固まった。

1960年代のアメリカでのクラシックの録音に共通するのは職人的な気質であり
ハイフェッツ、セル、ジュリアーニ四重奏団など、その正確無比な技量は
人間技を越えていると感じたものだった。そういう定規で演奏家は測られた。
では、演奏に人間味がないかと問われれば、むしろ努力の塊のような
一種の熱情と爽快感が伴うと言っていい。スポーツのそれと似ているのだ。
クラシック音楽に、ギリシア彫刻のような人間の肉体美を感じさせるのは
この時代にクライマックスに達したアメリカ的なヒューマニズムのように思える。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 07:17:09.60 ID:ugOBZ04x.net
こうしたマッチョな演奏家を相手にするためのオーディオ機器が
スペック重視の機能性を最重要と考えるのは当然である。
アルテックやJBLは、ランシング氏のシアター機器でのリアリティの追求から生まれ
音楽の躍動感を劇場サイズで再生するポテンシャルをもっていた。
エレクトロボイスも屋外競技場などのPA機器、テレビでの生放送など
実況的なコンテンツをタフにこなす力を有していた。

同じ新即物主義の理解でも
1970年代の日本のスレンダーなオーディオ機器の一群は
むしろテクノ音楽に向かっていくような未来主義に彩られている。
もちろん、ヤマハのピアノがリヒテルやグールドに好まれたのと同様に
コンテンツのもつ人間味を色付けなく出すということはあったかもしれない。
ただ正確なことが感動には結びつかないというのは十分ありえる話だ。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:12:32 ID:ugOBZ04x.net
正確な音響というニュアンスは、日本の場合はNHK技研の影響が大きい。
ステレオのノウハウは、ここでの実験的な訓練から生まれていて
三菱 2S-305スピーカー、デンオン DL-103カートリッジなど
その標準的な性能の保持は、開発年度が古いわりには正確さが秀でている。
今では漫才マイクとして知られるソニー C-38の前身であるC-37Aは
ワルター/コロンビア響の録音にも使われたもので、とても自然な音響で収まっている。

1970年代はアンチ国営の時代でもあり、犬HKなどと揶揄していたが
オーディオ技術もFM放送よりも高音質でなければなければと必死だった。
アキュフェーズ、ナカミチ、スタックス、キノシタなどは、そのなかではピカイチの存在で
アナログ技術の限界にまで挑戦して製品化した銘品である。

こうして達観すると、同じスペック競争を求めて勝敗を決した結末として
1960年代の新即物主義と1970年代にそれを追い抜いた日本のオーディオ業界は
どこか別の惑星の住人のように感じるのだ。
それは1960年代が実物を体感しながら追認する装置としてオーディオを考えたのに対し
1970年代は録音の成果物を元にオーディオでできる事柄を究めたこととも言える。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:28:14.83 ID:ugOBZ04x.net
録音の成果物の限界というのは
例えばデッカとグラモフォンのウィーンフィルの音の違いに現れる。
デッカが爽やかさがあるとすれば、グラモフォンは淫靡である。
そのどちらもウィーンフィルのもつ特徴なのだが
同じことは、シカゴ響のRCAvsデッカ、クリーブランド管のCBSvsデッカにも言え
録音年代や指揮者の違いだけではないように思う。
つまりレーベル毎のトーンの違いが明らかに存在していて
そこが障壁となって、原音の意味が曖昧になっているのである。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:40:16.63 ID:ugOBZ04x.net
この原音主義の意味が複雑怪奇になっているため
マルチマイクでの演出を伴った1960年代の録音の評価を難しくしている。
作品への忠実な態度なのか、ある種の演出を伴った録音のシステムなのか
それがステレオという新しい媒体の周辺を巡って彷徨っているのだ。
なんたって将来的に2chなのか3chかで迷っていたし
1970年代初頭の4chも含め、立体音響の定義はいたって曖昧だった。
1960年代のオーディオ技術も同様に、足らないダイナミックレンジや臨場感を
録音との演出のさじ加減で調整すべく、会社ごとのサウンドポリシーを提示したのだ。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 18:15:16 ID:ugOBZ04x.net
もうひとつは、クラシックの演奏が基本的に同じ楽譜からの再現になるので
ジャズやロックと違い、その時代にしか成し得ないオリジナリティが希薄になりやすい。
たとえば1970年代には、ビバップそのものが新録では出なくなった一方で
JBLのモニタースピーカーで、1950年代のモノラル録音のリアリティが再び注目された。
そうしたトリビュートは、1970年代のクラシックではほとんど起こらなかった。

現在ではリマスターされたSACDのほうが新譜よりも高いことが起こっているが
国際化して独特のサウンドを失った、かつてのオーケストラの姿にようやく気付いたところだ。
それが作品を代表する名演なのか、オーケストラの機能性を再考するアーカイブなのか
評価の行方は難しいところだが、できればその再生方法までアーカイブしてくれると有り難い。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 19:48:37 ID:ugOBZ04x.net
大切にアーカイブされたリマスター音源は本当にすごいと思うことがある。
やや作品としては地味だが、ブリテンとピアーズが共演した管弦楽伴奏付の歌曲は
一番古い「夜想曲」で1959年だが、全く違和感のない自然な仕上がりだ。
手持ちの音源は1989年のCDで、かなり念入りにリマスターされている感じがする。
演奏そのものの強い説得力と、録音技術がうまく一体化していること
もうひとつは声楽曲であることによる、適切なイコライジングがなされているからだろう。

イギリス物の録音では、ビーチャムのディーリアス管弦楽曲集が有名だが
1956〜57年に録音された初期ステレオの名盤は
CD化にあたってリマスターでグラモフォン賞をとったような覚えがある。
こちらは暖色系の穏やかな録音と相まって、その後の演奏ではなかなか再現できない。
(さすがに「日没の歌」はラジオドラマ風のすし詰め状態だが…)

この時期のイギリス国民楽派について、「牛糞派」とも呼んだらしいが
ナショナル・トラスト運動をはじめとする自然風景をそのまま保存する社会機構に
こうした歴史的録音もターゲットになっているように感じる。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 20:44:21.65 ID:ugOBZ04x.net
ビーチャムの日没の歌が臨場感の乏しいのは、当時のコーラスの収録では当たり前で
残響に埋もれて発音が聞き取りにくいという欠点を補うために行ったことだ。
同じことはオペラの収録にも言えると思う。

この時期の録音で恐るべきかたちで残っていたのが
1959年にホーレンシュタインがロンドン響を振ったマーラー「千人の交響曲」のライブで
この演奏会をもってイギリスでのマーラーブームが始まったという記念碑的名演である。
BBCがステレオのテスト放送用に残していたアーカイブのひとつで
1998年にようやく正式リリースされた蔵出し音源でもある。

この当時のBBCはEMIとの共同研究でステレオ収録と放送実験を行っており
収録方法がブルムライン方式という両指向性マイク2本でのワンポイント方式。
見事にオケ、合唱、ソリストのパースフェクティブが自然に定位している。
この後に「イギリス病」といわれる長期の不景気に見舞われたので
FMステレオ放送網の企画そのものはボツになったものの
これだけの大構成の音響をホールごと収録したクルーの心意気が伝わる名録音だ。

これには余談があって、マーラーブームの余波のなかで
未完の交響曲10番の補筆版をクック博士に依頼したが
アルマ夫人の了解を得ないまま進行したため逆鱗に触れ
ようやく4年後に第2稿の了承を得たという逸話がある。

その第1稿、第2稿の放送録音が残されているがいずれもモノラル録音。
しかしイギリスにおけるマーラー演奏の伝統を窺い知るのに
ラジオ放送というメディアの役割を考えるうえで感慨深い。
同じ時期にビートルズもBBCの番組を通じてイギリス全土に行き渡ったのだ。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 21:28:38 ID:ugOBZ04x.net
BBCでの1970年代のFMステレオ放送が仮想のサウンドステージを理論付けたが
それ以前の放送はモノラルであったということと
レコード協会との紳士協定でレコードは放送で流さないという法律があった。
この辺は日本やアメリカと異なる文化があった。

そのため英国のラジオ放送は、必然的にレコードとは切り離されていたが
上記のマーラー演奏は、国営放送を巻き込んだ文化事業という側面と
ラジオならではのドキュメンタリー的なスクープ作りという側面とが入れ混じった
20世紀的な進行の仕方が伺える例ともいえる。

情報の海のなかをコラージュしながら進む楽曲にベリオ「シンフォニア」があり
マーラー復活の第三楽章を基調にしたのは、委嘱元のニューヨークフィルに対し
同じ時期に完成したバーンスタインのマーラー交響曲全集とも引っ掛けたのだろう。
これも1968年の4楽章版と、翌年に改稿した5楽章版があり
4楽章版でのニューヨークフィルの録音は面目末潰れで長らくお蔵入りだった。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/25(月) 07:14:20.28 ID:JQZuNj3t.net
アメリカにおけるオーケストラの録音は、トスカニーニの他はほとんど復刻されないため
最近になって戦中のラジオ放送音源が増えたが、ほとんどが戦後のものが中心になる。

実はニューヨークフィルはウィーンフィルと設立年が一緒だが
ウィーン楽友協会の活動がそれに先んじていたため、ずっと古く感じられる。
その意味では、ボストンのヘンデル・ハイドン協会が、ウィーン楽友協会とほぼ同じだが
オラトリオ演奏に特化された活動のため、作品の委嘱、定期演奏会というシステムは
まだ存在していなかった。

そういう意味では、都市オーケストラが活動するのは19世紀末からで
ドボルザーク、チャイコフスキー、マーラーなど、その作品紹介も活発になり
オーケストラの編成も必然的に後期ロマン派のスタイルで出発している。

ロシア〜ポーランド系のヴィルトゥオーゾの多いのも特徴で
ホロヴィッツ、ラフマニノフ、ホフマン、ハイフェッツ、エルマン、ミルシテインと
20世紀を代表する演奏スタイルを保持していた。

こうしてみると、意外なことに日本のクラシック音楽のマーケットは
アメリカの影響を大きく受けていると考えて良いのだと思う。
しかし思惑のほうは、ヨーロッパの貴族文化の延長として捉えがちなのだ。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/25(月) 07:46:08 ID:JQZuNj3t.net
戦後のLPについても、音質で選べば音符(コロムビア)と天使(EMI)と言われ
デッカはレパートリー不足、グラモフォンは盤質が悪くて話題に上らなかった。
犬(米ビクター)のほうは、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、トスカンーニ以外は
話題にならなかったのではと思えるほど、モントゥー、ミュンシュ、ライナーの知名度が低い。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/26(火) 07:52:43.05 ID:H13XKpEw.net
RCA録音全集では、モントゥー:40枚、ミュンシュ:86枚、ライナー:63枚となるが
トスカニーニ:84枚の次に購入するように考える人も多いだろう。
あるいはコロムビアのセル:106枚、ワルター:77枚、バーンスタイン:100枚というのもあり
まだまとまっていないオーマンディを合わせると、ビックファイブの録音群は洪水状態だ。
このような豊潤なアーカイブを活かせなかった背景というのはどこにあるのだろうか?
対峙するDGのカラヤン、ベーム、ヨッフム、クーベリックなどとの違いはどこか?
あるいは、デッカのショルティ、アンセルメとの比較でもいいかもしれない。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 07:25:30.97 ID:I0uyn/YB.net
こうした大量のレコードが売られた背景には、雑誌と提携したレコードクラブがあり
1961年からリーダースダイジェスト社が、RCAビクター・レコードクラブというのを始めた。
一種の会員制のレコード通販で、LIFE誌などで広告している。
ttps://books.google.co.jp/books?id=nVQEAAAAMBAJ&pg (8-9ページ)
ステレオLPをまとめ売りするもので、通常価格の1/10程度で
最初は$4.98で4〜7枚、半年後には$1.87で5枚に値下げした。
セット内容は、ミュンシュ&モントゥー/ボストン響の新録7枚組
クライバーンやハイフェッツの協奏曲が含まれるチャイコフスキー曲集6枚組
カラヤン/ウィーンフィルの名曲集4枚組、ビーチャムのメサイア4枚組などである。

アメリカではコロムビアがLPの販促のために始めたセールス方法で
メトロポリタン歌劇場のファンクラブなどオーケストラに直属のものもあった。
こうした会員制でのLP売り上げは1956年当時700万ドルだったものが
1962年では5000万ドルにまで膨れあがっていた。
ttps://books.google.co.jp/books?id=VWQhAQAAIAAJ&pg (63ページ以降)
こうしたレコードの確実に売れる体制が整ったところで、大量の録音がなされていた。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 07:56:49.21 ID:I0uyn/YB.net
こうしたバゲットセールで売られたLPを再生する装置は
例えば家電通販のAliedラジオ商会のカタログを参照すると判りやすい。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/
一番安い$124.95セットでも、ガラードのオートチェンジャーに
エンパイアOEMのステレオカートリッジ、エレボイOEMの12インチフルレンジが付いて
20Wアンプはキット、スピーカー箱は自作などで費用を抑えられた。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/h011.html
見栄えのいい収納箱のセットも$55.95で販売されている。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/h098.html
もっと良い音で聴きたいのであれば、高級パーツに変更すれば良かった。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 21:02:19.70 ID:I0uyn/YB.net
ではLPレコードを最良の状況で再生したいと考えることはできたのか?
最後は出せる費用とのせめぎ合いなのだが、そこで知恵を絞るのがオーデイオの面白さでもある。
ただしレコード会社の建前としては、どんな装置で聴いても良い音と宣伝するし
オーディオ装置の違いで、演奏の良し悪しが変わるなんて、口が割けても言えない。
一方のオーディオメーカーは、スペックでは推し量れない本当の実力の程を
どの価格帯でも、価格に見合った最高のクオリティを保証しますという言い方しかしない。
オーディオの客観的な評価なんて、意外に判らないものなのである。

面白いのは、日本でFMステレオ放送が全国規模で行われた際に
同じレコードのはずが、放送で流れる音のほうが遥かに音が良い。
こうしてデンオン DL-103の存在が広まったのであるが
逆にいえばほとんどの家のステレオは、セラミックカートリッジで
周波数レンジの狭さ、ステレオの分離のなさなど、比べてみなければ判らない。
それでも、LPレコードの音の差はそれなりに判るので、共通認識として持っていた。
いわゆる集団幻想のなかにステレオ装置の品質が彷徨っていたのである。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 21:43:44.56 ID:I0uyn/YB.net
こうした集団幻想のなかのステレオ品質が徘徊するなかで
クラシック音楽の鑑賞ということが、どこまで真剣に考えることができたのか?
当然のように飽きられるというのが結論であり、1960年代の録音群の評価の難しさである。

例えば、ライナー/シカゴ響のR.シュトラウス管弦楽曲集の録音ペースは
この大曲を2日に1曲ずつ、ほとんど一発録りという過密スケジュールで進んでいる。
ライナーだから、事前の練習に漏れもなくスムーズに行えたようにも思えるが
1954年というステレオ初期のセッションであるから不自由というものでもないだろう。
同じ傾向はミュンシュ、セルにもみられ、1つの交響曲のセッションは長くて2日。
ミュンシュ/パリ管の幻想交響曲が4日間あったのとでは大分違う。

即興的なライブ感を出せる演奏者と、そうでない人との差が出やすかったし
そもそも完璧な演奏スタイルを心掛けた職人的な音楽家が好まれたと言える。
前者にはグールドやミュンシュ、バースタインが居て
後者にはセル、ライナー、ハイフェッツなどが居た。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 06:59:34.89 ID:Zhaqwt0m.net
このような過密スケジュールで録音する方法は、SP盤の頃と同じプロモートだったと言える。
反対に、グールドのように何回もプレイバックしながらテイクを重ねて
理想的な演奏像を練り上げる人は少数派だったと言えよう。

そこで生じるのは、レコードのもつ繰り返し鑑賞する行為の時間の持ち方と
一期一会のコンサートとの違いでもある。
レコードの聴き方は、暇さえあれば自分の好きな時間に好きなだけ聴くという
「暇」という時間の尺度で音楽を共有することになる。

これには反対意見もあって、SP盤のダイレクトカット&一発録りの緊張感のほうが
名盤を生み出す確率が多いという人もいる。ライブ録音もそのひとつだろう。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 07:23:54 ID:Zhaqwt0m.net
1960年代のアメリカの録音群は既に勝機の見えた凱旋行進曲のように録音され
アメ車のもつ安定した乗り心地がひとつの価値観として保有されていたと思われる。
この時代のシカゴ響とボストン響のサウンドの違いはあっても
例えばベートーヴェンの演奏スタイルの違いを言葉にするのは難しい。
これが1970年代のカラヤン、ショルティ、ベームであれば誰でも区別がつく。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 07:45:41.00 ID:Zhaqwt0m.net
もうひとつの傾向は、RCAの膨大なレパートリーのほとんどを管弦楽曲と協奏曲が占め
ドイツ系の交響曲の全集に取り組むようなことが行われなったことである。
これはコンサートの持ち方の違いといっていいかもしれないが
コンサート半ばのショウピースの紹介に時間が割かれて
なかなかメインディッシュに行き着かないというジレンマに陥る。

いわゆるサロンで行われるガラコンサートの習慣が色濃く残っていて
食事でいえばバイキング方式の品ぞろえに似ている。
おそらく子供だったら甘い菓子からお皿に載せるだろう
そういうマナーのないディナーの進行を感じるのである。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/29(金) 07:54:53 ID:AA/2vmiT.net
とはいえ、東欧、ロシア系のレパートリーの定着に果たした役割も大きく
ショパン、チャイコフスキー、ドボルザークはロマン派の最重要な楽曲になったし
当時はまだ現代曲だったバルトーク、プロコフィエフなどでも名盤を残した。
近代フランスの楽曲が国際的なレパートリーに発展したのもこの時期だ。

この視点からみえてくるのは、移民・亡命者の音楽観というべきもので
様々な文化背景をもつ人々に、何が文化的に有益なのかを説得する方法である。
それには良質な録音品質、再生する装置の忠実性(Hi-Fi)が必要であり
そこに細心の注意が払われたように思える。

一方で、1960年代への現在の評価は録音品質のアドバンテージにあるのではなく
むしろ演奏内容に向けられている。クラシック音楽の本質に迫る内容でなければ
好んでこの時代の録音を選ぶことはしないのだ。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:23:38 ID:TagW84Rw.net
この移民社会の創り上げたクラシックの意味は
雑味の無い、より純度の高いヨーロッパ的なものを含んでいる。
世間が言うようなアメリカンな特徴といえば、金管や低弦の力強さだが
それはシンフォニックな鳴りっぷりの良さを考えてのことだ。
逆に言えば、陰影がない、深みがないということもできる。

個人的には、現在の奥まった表現の多いオーディオ機器では
むしろアメリカンな開けっ広げな表現のほうが目新しいとも思える。
当時でも、ボザークなど東海岸のメーカーは、霧の向こうにあるようなサウンドだったし
エレクトロボイスも中高域を少し抑えた渋めの音である。
あるいは家電でのGE、マグナヴォックスなども同傾向にあるといえる。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:49:41 ID:TagW84Rw.net
同じ東海岸系のアンプといえば、マッキントッシュにとどめを出すだろう。
中域の濃密さ、低音のファットな座り心地の良さは
高域の繊細さを犠牲にしても得難いものである。
さらにはオーディオリサーチ、ボルダーなども、その一群に加えられる。

日本ではむしろマランツのほうが、高域がブリリアントで弦の響きが美しく
クラシック向けとして選ばれる傾向にあるが、英EMIやデッカの録音で
効力を発揮するように思える。逆にマッキンは英EMIで濃霧で視界が悪すぎ
デッカでは高域の魅力が削がれるだろう。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:56:20.23 ID:TagW84Rw.net
こうした、えり好みの激しい対立は
当時のレコード、オーディオ機器のサウンドポリシーが強く
個性的であったことと関連している。
原音の意味さえ曖昧だといっていいだろう。
逆に言えば、現在はデジタルの洗礼を受けて
中立性は高いが、無個性なサウンドが大勢を占めている。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 17:24:34 ID:TagW84Rw.net
国産オーディオが押し並べてニュートラル指向で過度な演出を避ける傾向にあり
むしろ海外製品には艶やかさのあるものを求めることが多い。
ただでさえ輸入関税からはじまり、代理店の保証金など様々な経費がかさみ
同じスペックでの製品価格は2倍以上に膨れ上がる。
タワマンのコマーシャルのように、ブランドイメージと個性的サウンドがなければ
その高級感を察することは難しいのだろうと思う。

むしろマークレヴィンソンがスタックス社のA級パワーアンプを愛用していたとか
NASAがTDKのカセットテープを月面まで持って行ったとか
英米でB&Wがパートナーシップを結んでたアンプがローテルだったり
ニュートラルの意味はけして悪いイメージではない。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 17:48:30 ID:TagW84Rw.net
悪い意味でのニュートラルとは、平凡ということの裏返しでもある。
かつて日本のスピーカーは、スペックは良いが音楽が生き生きと鳴らない
測定器から作ったようだという意味で「B&K製スピーカー」と揶揄された。
ホールの響きを無視したような高域の張った特性、締まりのないブーミーな低音など
無響室での測定を標準とした結果、原音再生とは掛け離れたものが生まれた。
この状況は、むしろデジタル録音への対応によって加速化されたのである。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 18:14:38 ID:TagW84Rw.net
こうしたスピーカーの一群は「モニター」という名前を呈したが
おそらくヤマハ NS-1000Mから発展したものと考えていい。
名前の由来は、録音スタジオで使用されるようなフラットで正確なサウンド
という意味合いであるが、実際にスタジオで使えるようなものではなかった。
というのもレンジは広いが両翼のキャラクターが分離していて
中域のレスポンスが非力で、音楽のデュナーミクに欠けるからだ。
例えば、レンジの狭いクラングフィルムのオイロダインのようなスピーカーを聴くと
本質的に表現力が足らないことがよりはっきりする。
東独のスタジオで使用されたのは、シュルツ博士のEckmillerシリーズで
もっと平凡な音のするということらしい。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 19:30:31 ID:TagW84Rw.net
RCAのモニタースピーカーLC-1Aは、低音の分割振動を分散させるイボチンと
高域を拡散させる蝶々の羽が特徴的だが、モノラル期の1号機はこれらがなく
コーン型ツイーターの同軸型という極めて平凡な造りだった。
音の方は真っ当なもので、リビングステレオは基本的にこれで製作された。

このスピーカーの当時の評価で興味深いのがBBCの1952年のレポートで
パルメコに選定するにあたって競合製品を計測している。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1952_05
蝶々の拡散は正面では3kHzと4.5kHzを塞いでいるが
15〜30°オフセットしたときに滑らかになるように調整されている。
一方で10kHz以上は30°より指向性がずっと狭くなっている。
また中域のレスポンスの高さに比べ、高域がおとなしく設定されており
この機種がAR-3a同様の東海岸系のサウンドを継承していたことが伺える。

当時のBBCの判断では、HMVの高級電蓄でもそうだったが
中高域がおとなしくスピーチの聞き取りにくいものはそもそもNGで
この辺もレコードとラジオを完全に分離していた英国ならではの事情がある。
とはいえ放送品質も向上すれば、この特性のほうがスタンダードになると予想していた。
この辺が、現在から見下ろす時代感の違いを理解する手掛かりである。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/01(日) 19:20:30 ID:BAOHUbSl.net
東海岸系といってるサウンドの特徴を述べたものに、瀬川氏の以下のものがある。
ttp://www.audiosharing.com/people/segawa/keifu/keifu_60_1.htm
これとAR-3aのカタログ値を比較してみると、7kHz以上が5dB低いことが判る。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92356bg.jpg
ttp://www.classicspeakerpages.net/library/acoustic_research/special_sections/additional_ar_documents/the_sound_field_in_home_lis/allison_on_soundfields_in_l.pdf
これと>>204でのBBCのLC-1A測定結果をみると、両者の傾向が符合する。
つまり、本当にフラットに再生すると、高域が耳障りだと感じていたのである。

これにはモノラル期のスピーカーが高域で±60°という広い指向性をもっていたのに対し
現在のスピーカーの多くは、高域の指向性が±15°程度に抑えられ
その分チャンネルセパレーションを高めている。
もちろん30°も逸れると、東海岸と同じようなバランスになる。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/02(月) 06:43:47.94 ID:dQv+PwSl.net
東海岸サウンドの示す傾向は、ホールの響きの周波数特性であって
古くは映画館でのXカーブというのがあり、家庭用とは大きく異なる。
ttps://www.sis.se/api/document/preview/602468/
ボーズ博士ではないが、総合的な周波数特性は残響音の影響が大きい。
ARの特性も、ホールでの生音のすり替え実験によって実証していた。

一方で、家庭用オーディオでの超高域成分はパルス波が多く
楽音の立ち上がり、定位感などを示すが、音響エネルギーとしては微小だ。
このアンバランスがHi-Fiの人工的な音響の課題でもあり
RCAでは録音側でフラット、再生側ではハイ落ちというバランスが正解だと考えられ
マスターテープをそのままA/D変換したサウンドは、このことを留意する必要がある。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/02(月) 07:29:12 ID:dQv+PwSl.net
AR社の"Live vs Recorded"のキャンペーンが新聞各社で取り上げられるや否や
ARのスピーカーは、1966年には全米の32%のシェアを占めるに至った。

ところが日本でそれほど売れ行きの芳しくなかったのは
アンプにかなりの出力が必要で、響きの良い洋室での再生に適していたことが挙げられる。
日本でも密閉型の3wayスピーカーは大量に造られたが
中高域の張った明瞭さをもち、低音を少しブーミーに調整したものが売れた。
いわゆるラウドネスを少しかけたような特性が喜ばれたのだ。

この特性は、EMIやコロムビアには良かったが、RCAやデッカには不向きだった。
日本でのデッカ録音は、キングレコードからロンドン・レーベルとして販売され
レコードの音は日本向けにコッテリしたイコライジングがされていた。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 05:52:06 ID:D5Gtogpx.net
1960年代と1970年代のクラシック録音の違いについて
60年代が音像のマッシブな実在感が強いのに対し
70年代は音場の広がりが優位になっている。
じゃあ、現在はどうかというと、段々と60年代に近づいていると思う。

おそらく、ヘッドホンでの試聴が多くなっているからだと推察するが
それと同時にポップスでシーケンサー打ち込みがデフォルトになるなか
楽器を演奏する人物がバーチャル化しないように苦慮しているようにも思える。
つまりコンピューターに負けない正確さと溢れる個性の発露が
現在の演奏家に求められる条件のように感じる。

一方で、1990年代から若手演奏家の消耗も激しい気がする。
つまり正確さへの極度の集中力を要求するあまり
肉体的な衰えのほうが先行し、円熟というものが無くなったのだ。

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