2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 20:58:14 ID:TkO3cs+G.net
少し大きさのことを考えてオールドスクールのスピーカーを選べば
BBC LS5/8、JBL 4312SE、TANNOY CHEVIOTなどが思い浮かぶ。
やや低域が緩い感じだが、大らかで鳴らしやすいスピーカーで
特に1960年代のクラシック録音を眉間に皺寄せずにゆったり聴くことができる。
ラックスマンや上杉研究所のアンプなど充てると豊潤に鳴るだろう。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 08:38:38.45 ID:hZydWvDr.net
>>170のスピーカーは、実際には1970年代に設計されて
現在でもリアファインを続けながら製造されているもので
それぞれメーカーのサウンドポリシーが強く反映されながら
ニュートラルに収束しているような感じだ。

JBL 4312Gは今では珍しいパルプ製のコーンスコーカーを使うことで
JBLらしい恰幅の良さを保ちつつ、ローコストに抑えた点が好感をもてる。
コーン紙のスコーカーは、適度な分割振動で艶やかさがある一方で
能率をあまり稼げない(大音量で歪む)ので、現在では本当に貴重だ。
実はこのスピーカーに色気を出させるアンプの選定が難しく
特に鳴りにくいスピーカーでもないのに、同じ価格帯のミドルクラスのアンプが狙う
細身で精緻なトーンでまとめようとしても、まとめきれないきらいがある。

例えばラックスマンのA級アンプで鳴らす4312Gの音は豊潤で安心できるが
L-550でもスピーカーのペア価格の2倍するので何とか抑えたいと思いがちだ。
真空管ではユニゾンリサーチのTriode 25が良かったが価格は大幅に超過
トライオードのTRX-P88Sなどが室内楽もこなせてバランスが良いと思う。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 08:46:59.55 ID:hZydWvDr.net
1970年代に設計されたスピーカーが結ぶ1960年代のクラシック録音との縁とは
まだクラシック録音がオーディオのリファレンスでありえたバランスを残しているからだ。
低音から積み上げるピラミッドバランスとも言えるが、中域の艶やかさも忘れてはいけない。
実際には歪んでいるのだが、少し滲んでいる線のほうが暖かみがある。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 18:31:26.81 ID:hZydWvDr.net
今ではそうでもないが、かつてのアメリカの交響楽団に対する亜流扱いは
何がどうしてそうなっていたのか理解できない感じがある。
ともかくアメリカ=ジャズというのが刷り込まれていて、演奏の評価はもちろん
オーディオ機器の評価にも大きく影響している。

実際にはヨーロッパで教育を受けた指揮者が音楽監督に選ばれることが多く
アメリカ国内にもちょっとした劣等感があるのも確かだが
バースタイン、レヴァイン、ティルソン・トーマスなど楽壇を彩る名演を残している。
なぜかマゼールが欧州での録音が多く、それがダイナミックでスタイリッシュな
アメリカンスタイルで貫かれているため、ちょっと誤解しそうな感じだ。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 19:30:03 ID:hZydWvDr.net
1960年代のアメリカのオーケストラ録音は
セル/クリーブランド管、オーマンディ/フィラデルフィア管、ライナー/シカゴ響
ミュンシュ/ボストン響、ワルター&ミトロプーロス/ニューヨーク・フィルなど
今でも代表盤に選ばれる録音が多いものの、その再生環境はあまり芳しくない。

カートリッジは、GE、エンパイア、ピッカリングが主流で、シュアーは新参者となると
ほとんど聴いたことがないというのが本音である。
当時の最高の音はオープンリールで、LPはその次の地位にあった。
アンプはマッキン、マランツのほか、ダイナコ、フェアチャイルド、フィッシャー、スコットなど
スピーカーはJBL、アルテック、ジェンセン、エレクトロボイスなどよりどりみどりだった。

現在では本国で化石扱いされているJBL、クリプッシュなどが存続するし
ウィルソン・オーディオなどはマッシブなサウンド傾向からして適している。
アンプはマッキン、オーディオリサーチ、ダイナコ(キット)が生き残っている。
カートリッジはシュアーが旗を降ろしたが、GRADO、SUMIKOがサウンドを継承している。
BOSEはコンシュマーから撤退したが、東海岸サウンドを継承する最後のメーカーだった。

今の米国のオーディオを牽引しているのは、1970年代のアブソリュートサウンド誌の系統で
レコードで言えばテラーク、デロスなどの脂の乗ったガッツリしたサウンドが思い浮かぶ。
これに対抗するのに、マッキントッシュ、インフィニティ、マグネパン、ティールなどの
様々な個性あふれるスピーカーが開発され、青天井の高級志向に拍車が掛かった。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 20:06:05 ID:hZydWvDr.net
この世代交代を告げる出来事といえば
録音機器がアンペックスからステューダーに
カッティングマシーンがWestrex 3Dからノイマン SX-68に移行し
細身で洗練された風情がもてはやされた。
その後の1960年代の録音群の扱いは推して知るべしである。
ミッドプライスの再発盤のペラペラビニール盤、高域をイコライズしたCDと
アメリカンな消費社会の悪しき習慣を地で行くような仕打ちであった。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 20:26:12.18 ID:hZydWvDr.net
同じステレオ、同じ45-45方式のレコード。なのに音が違う。
こうしたことに気付いたのは、五味康祐などが居たものの
ほとんどが新しいオーディオの可能性のほうに賭けた。
実際に1970年代も新しい録音でクラシックレコードは潤ったし
半数以上の名盤の定義が入れ替わったのも事実だ。

しかし、輸入盤など聴くとカッティングする国柄が出ることはよく知られており
英デッカと日本のロンドン盤とは、あまりに音色が違うというのもあったが
ライセンス供与される年代が区切られていたので、さして大問題にはならなかった。

CD化されて音の変わる要素が無くなったと思われた時点で
改めてLP盤との音質の違いに気が付いた次第である。
答えはカッティング屋さんのさじ加減、つまりマスタリング工程の欠如である。
そしてデジタル録音に付きまとう一種の生硬さもこれが原因である。
デジタル対応で追われた10年間の時間と費用の浪費はユーザーにぶつけられ
そのままクラシック音楽市場の衰退を意味していた。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 21:17:17 ID:hZydWvDr.net
いつまでも古い録音のことばかりでは新しいアーチストが育たない。
これはこれで真実でもあるが、レコードのアーカイブという役割は
全く別の意味があると思う。つまり演奏史の検証のために必要なのだ。

例えば、1950年代にプライベートで録られたコルトーのレッスン風景は
ペライアの強い勧めにより、ソニーからCDでリリースされるようになった。
この詩情あふれるベートーヴェンは、今はケンプのステレオ盤で聴くこととなる。
あるいはミュンシュ/パリ管以降のベルリオーズ解釈が熱血漢に圧されるものの
モントゥー/サンフランシスコ響のより陰影の深い演奏を聴くと
この作品のもつ倒錯した姿が、若々しいロマン派芸術家と重なってくる。

ベートーヴェンの第九とヘンデルのメサイアが市民合唱団によって
ロマン主義的なコンサート会場で演奏されることで広まっていったのは
作品の認知度とバーダー取引のようなものだったように思う。
サンサースのオルガン付、R.シュトラウスのツァラトゥストラ、マーラーの千人の交響曲は
無宗教的なコンサートオルガンの建造がなければ成り立たなかったが
ロマン派時代の巨大オルガンでのバッハ演奏会をどう評価すればいいのだろうか?
メデルスゾーン、リスト、ブラームス、フランクのオルガン曲のオリジナル楽器は?
そうした楽譜からは見えない作品理解の迷宮を録音で残すことは重要なのだ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 06:58:47 ID:ugOBZ04x.net
1960年代の演奏の主流はノイエ・ザハリヒカイトつまり新即物主義であり
楽譜通りに演奏することで、作曲家の意図をストレートに伝えることである。
一方で、演奏者の技量も機械的に一寸の狂いもなく訓練されることが重要で
楽器の不安定さをあまり感じさせないモダン楽器の演奏形態もほぼ固まった。

1960年代のアメリカでのクラシックの録音に共通するのは職人的な気質であり
ハイフェッツ、セル、ジュリアーニ四重奏団など、その正確無比な技量は
人間技を越えていると感じたものだった。そういう定規で演奏家は測られた。
では、演奏に人間味がないかと問われれば、むしろ努力の塊のような
一種の熱情と爽快感が伴うと言っていい。スポーツのそれと似ているのだ。
クラシック音楽に、ギリシア彫刻のような人間の肉体美を感じさせるのは
この時代にクライマックスに達したアメリカ的なヒューマニズムのように思える。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 07:17:09.60 ID:ugOBZ04x.net
こうしたマッチョな演奏家を相手にするためのオーディオ機器が
スペック重視の機能性を最重要と考えるのは当然である。
アルテックやJBLは、ランシング氏のシアター機器でのリアリティの追求から生まれ
音楽の躍動感を劇場サイズで再生するポテンシャルをもっていた。
エレクトロボイスも屋外競技場などのPA機器、テレビでの生放送など
実況的なコンテンツをタフにこなす力を有していた。

同じ新即物主義の理解でも
1970年代の日本のスレンダーなオーディオ機器の一群は
むしろテクノ音楽に向かっていくような未来主義に彩られている。
もちろん、ヤマハのピアノがリヒテルやグールドに好まれたのと同様に
コンテンツのもつ人間味を色付けなく出すということはあったかもしれない。
ただ正確なことが感動には結びつかないというのは十分ありえる話だ。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:12:32 ID:ugOBZ04x.net
正確な音響というニュアンスは、日本の場合はNHK技研の影響が大きい。
ステレオのノウハウは、ここでの実験的な訓練から生まれていて
三菱 2S-305スピーカー、デンオン DL-103カートリッジなど
その標準的な性能の保持は、開発年度が古いわりには正確さが秀でている。
今では漫才マイクとして知られるソニー C-38の前身であるC-37Aは
ワルター/コロンビア響の録音にも使われたもので、とても自然な音響で収まっている。

1970年代はアンチ国営の時代でもあり、犬HKなどと揶揄していたが
オーディオ技術もFM放送よりも高音質でなければなければと必死だった。
アキュフェーズ、ナカミチ、スタックス、キノシタなどは、そのなかではピカイチの存在で
アナログ技術の限界にまで挑戦して製品化した銘品である。

こうして達観すると、同じスペック競争を求めて勝敗を決した結末として
1960年代の新即物主義と1970年代にそれを追い抜いた日本のオーディオ業界は
どこか別の惑星の住人のように感じるのだ。
それは1960年代が実物を体感しながら追認する装置としてオーディオを考えたのに対し
1970年代は録音の成果物を元にオーディオでできる事柄を究めたこととも言える。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:28:14.83 ID:ugOBZ04x.net
録音の成果物の限界というのは
例えばデッカとグラモフォンのウィーンフィルの音の違いに現れる。
デッカが爽やかさがあるとすれば、グラモフォンは淫靡である。
そのどちらもウィーンフィルのもつ特徴なのだが
同じことは、シカゴ響のRCAvsデッカ、クリーブランド管のCBSvsデッカにも言え
録音年代や指揮者の違いだけではないように思う。
つまりレーベル毎のトーンの違いが明らかに存在していて
そこが障壁となって、原音の意味が曖昧になっているのである。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:40:16.63 ID:ugOBZ04x.net
この原音主義の意味が複雑怪奇になっているため
マルチマイクでの演出を伴った1960年代の録音の評価を難しくしている。
作品への忠実な態度なのか、ある種の演出を伴った録音のシステムなのか
それがステレオという新しい媒体の周辺を巡って彷徨っているのだ。
なんたって将来的に2chなのか3chかで迷っていたし
1970年代初頭の4chも含め、立体音響の定義はいたって曖昧だった。
1960年代のオーディオ技術も同様に、足らないダイナミックレンジや臨場感を
録音との演出のさじ加減で調整すべく、会社ごとのサウンドポリシーを提示したのだ。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 18:15:16 ID:ugOBZ04x.net
もうひとつは、クラシックの演奏が基本的に同じ楽譜からの再現になるので
ジャズやロックと違い、その時代にしか成し得ないオリジナリティが希薄になりやすい。
たとえば1970年代には、ビバップそのものが新録では出なくなった一方で
JBLのモニタースピーカーで、1950年代のモノラル録音のリアリティが再び注目された。
そうしたトリビュートは、1970年代のクラシックではほとんど起こらなかった。

現在ではリマスターされたSACDのほうが新譜よりも高いことが起こっているが
国際化して独特のサウンドを失った、かつてのオーケストラの姿にようやく気付いたところだ。
それが作品を代表する名演なのか、オーケストラの機能性を再考するアーカイブなのか
評価の行方は難しいところだが、できればその再生方法までアーカイブしてくれると有り難い。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 19:48:37 ID:ugOBZ04x.net
大切にアーカイブされたリマスター音源は本当にすごいと思うことがある。
やや作品としては地味だが、ブリテンとピアーズが共演した管弦楽伴奏付の歌曲は
一番古い「夜想曲」で1959年だが、全く違和感のない自然な仕上がりだ。
手持ちの音源は1989年のCDで、かなり念入りにリマスターされている感じがする。
演奏そのものの強い説得力と、録音技術がうまく一体化していること
もうひとつは声楽曲であることによる、適切なイコライジングがなされているからだろう。

イギリス物の録音では、ビーチャムのディーリアス管弦楽曲集が有名だが
1956〜57年に録音された初期ステレオの名盤は
CD化にあたってリマスターでグラモフォン賞をとったような覚えがある。
こちらは暖色系の穏やかな録音と相まって、その後の演奏ではなかなか再現できない。
(さすがに「日没の歌」はラジオドラマ風のすし詰め状態だが…)

この時期のイギリス国民楽派について、「牛糞派」とも呼んだらしいが
ナショナル・トラスト運動をはじめとする自然風景をそのまま保存する社会機構に
こうした歴史的録音もターゲットになっているように感じる。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 20:44:21.65 ID:ugOBZ04x.net
ビーチャムの日没の歌が臨場感の乏しいのは、当時のコーラスの収録では当たり前で
残響に埋もれて発音が聞き取りにくいという欠点を補うために行ったことだ。
同じことはオペラの収録にも言えると思う。

この時期の録音で恐るべきかたちで残っていたのが
1959年にホーレンシュタインがロンドン響を振ったマーラー「千人の交響曲」のライブで
この演奏会をもってイギリスでのマーラーブームが始まったという記念碑的名演である。
BBCがステレオのテスト放送用に残していたアーカイブのひとつで
1998年にようやく正式リリースされた蔵出し音源でもある。

この当時のBBCはEMIとの共同研究でステレオ収録と放送実験を行っており
収録方法がブルムライン方式という両指向性マイク2本でのワンポイント方式。
見事にオケ、合唱、ソリストのパースフェクティブが自然に定位している。
この後に「イギリス病」といわれる長期の不景気に見舞われたので
FMステレオ放送網の企画そのものはボツになったものの
これだけの大構成の音響をホールごと収録したクルーの心意気が伝わる名録音だ。

これには余談があって、マーラーブームの余波のなかで
未完の交響曲10番の補筆版をクック博士に依頼したが
アルマ夫人の了解を得ないまま進行したため逆鱗に触れ
ようやく4年後に第2稿の了承を得たという逸話がある。

その第1稿、第2稿の放送録音が残されているがいずれもモノラル録音。
しかしイギリスにおけるマーラー演奏の伝統を窺い知るのに
ラジオ放送というメディアの役割を考えるうえで感慨深い。
同じ時期にビートルズもBBCの番組を通じてイギリス全土に行き渡ったのだ。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 21:28:38 ID:ugOBZ04x.net
BBCでの1970年代のFMステレオ放送が仮想のサウンドステージを理論付けたが
それ以前の放送はモノラルであったということと
レコード協会との紳士協定でレコードは放送で流さないという法律があった。
この辺は日本やアメリカと異なる文化があった。

そのため英国のラジオ放送は、必然的にレコードとは切り離されていたが
上記のマーラー演奏は、国営放送を巻き込んだ文化事業という側面と
ラジオならではのドキュメンタリー的なスクープ作りという側面とが入れ混じった
20世紀的な進行の仕方が伺える例ともいえる。

情報の海のなかをコラージュしながら進む楽曲にベリオ「シンフォニア」があり
マーラー復活の第三楽章を基調にしたのは、委嘱元のニューヨークフィルに対し
同じ時期に完成したバーンスタインのマーラー交響曲全集とも引っ掛けたのだろう。
これも1968年の4楽章版と、翌年に改稿した5楽章版があり
4楽章版でのニューヨークフィルの録音は面目末潰れで長らくお蔵入りだった。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/25(月) 07:14:20.28 ID:JQZuNj3t.net
アメリカにおけるオーケストラの録音は、トスカニーニの他はほとんど復刻されないため
最近になって戦中のラジオ放送音源が増えたが、ほとんどが戦後のものが中心になる。

実はニューヨークフィルはウィーンフィルと設立年が一緒だが
ウィーン楽友協会の活動がそれに先んじていたため、ずっと古く感じられる。
その意味では、ボストンのヘンデル・ハイドン協会が、ウィーン楽友協会とほぼ同じだが
オラトリオ演奏に特化された活動のため、作品の委嘱、定期演奏会というシステムは
まだ存在していなかった。

そういう意味では、都市オーケストラが活動するのは19世紀末からで
ドボルザーク、チャイコフスキー、マーラーなど、その作品紹介も活発になり
オーケストラの編成も必然的に後期ロマン派のスタイルで出発している。

ロシア〜ポーランド系のヴィルトゥオーゾの多いのも特徴で
ホロヴィッツ、ラフマニノフ、ホフマン、ハイフェッツ、エルマン、ミルシテインと
20世紀を代表する演奏スタイルを保持していた。

こうしてみると、意外なことに日本のクラシック音楽のマーケットは
アメリカの影響を大きく受けていると考えて良いのだと思う。
しかし思惑のほうは、ヨーロッパの貴族文化の延長として捉えがちなのだ。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/25(月) 07:46:08 ID:JQZuNj3t.net
戦後のLPについても、音質で選べば音符(コロムビア)と天使(EMI)と言われ
デッカはレパートリー不足、グラモフォンは盤質が悪くて話題に上らなかった。
犬(米ビクター)のほうは、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、トスカンーニ以外は
話題にならなかったのではと思えるほど、モントゥー、ミュンシュ、ライナーの知名度が低い。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/26(火) 07:52:43.05 ID:H13XKpEw.net
RCA録音全集では、モントゥー:40枚、ミュンシュ:86枚、ライナー:63枚となるが
トスカニーニ:84枚の次に購入するように考える人も多いだろう。
あるいはコロムビアのセル:106枚、ワルター:77枚、バーンスタイン:100枚というのもあり
まだまとまっていないオーマンディを合わせると、ビックファイブの録音群は洪水状態だ。
このような豊潤なアーカイブを活かせなかった背景というのはどこにあるのだろうか?
対峙するDGのカラヤン、ベーム、ヨッフム、クーベリックなどとの違いはどこか?
あるいは、デッカのショルティ、アンセルメとの比較でもいいかもしれない。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 07:25:30.97 ID:I0uyn/YB.net
こうした大量のレコードが売られた背景には、雑誌と提携したレコードクラブがあり
1961年からリーダースダイジェスト社が、RCAビクター・レコードクラブというのを始めた。
一種の会員制のレコード通販で、LIFE誌などで広告している。
ttps://books.google.co.jp/books?id=nVQEAAAAMBAJ&pg (8-9ページ)
ステレオLPをまとめ売りするもので、通常価格の1/10程度で
最初は$4.98で4〜7枚、半年後には$1.87で5枚に値下げした。
セット内容は、ミュンシュ&モントゥー/ボストン響の新録7枚組
クライバーンやハイフェッツの協奏曲が含まれるチャイコフスキー曲集6枚組
カラヤン/ウィーンフィルの名曲集4枚組、ビーチャムのメサイア4枚組などである。

アメリカではコロムビアがLPの販促のために始めたセールス方法で
メトロポリタン歌劇場のファンクラブなどオーケストラに直属のものもあった。
こうした会員制でのLP売り上げは1956年当時700万ドルだったものが
1962年では5000万ドルにまで膨れあがっていた。
ttps://books.google.co.jp/books?id=VWQhAQAAIAAJ&pg (63ページ以降)
こうしたレコードの確実に売れる体制が整ったところで、大量の録音がなされていた。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 07:56:49.21 ID:I0uyn/YB.net
こうしたバゲットセールで売られたLPを再生する装置は
例えば家電通販のAliedラジオ商会のカタログを参照すると判りやすい。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/
一番安い$124.95セットでも、ガラードのオートチェンジャーに
エンパイアOEMのステレオカートリッジ、エレボイOEMの12インチフルレンジが付いて
20Wアンプはキット、スピーカー箱は自作などで費用を抑えられた。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/h011.html
見栄えのいい収納箱のセットも$55.95で販売されている。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/h098.html
もっと良い音で聴きたいのであれば、高級パーツに変更すれば良かった。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 21:02:19.70 ID:I0uyn/YB.net
ではLPレコードを最良の状況で再生したいと考えることはできたのか?
最後は出せる費用とのせめぎ合いなのだが、そこで知恵を絞るのがオーデイオの面白さでもある。
ただしレコード会社の建前としては、どんな装置で聴いても良い音と宣伝するし
オーディオ装置の違いで、演奏の良し悪しが変わるなんて、口が割けても言えない。
一方のオーディオメーカーは、スペックでは推し量れない本当の実力の程を
どの価格帯でも、価格に見合った最高のクオリティを保証しますという言い方しかしない。
オーディオの客観的な評価なんて、意外に判らないものなのである。

面白いのは、日本でFMステレオ放送が全国規模で行われた際に
同じレコードのはずが、放送で流れる音のほうが遥かに音が良い。
こうしてデンオン DL-103の存在が広まったのであるが
逆にいえばほとんどの家のステレオは、セラミックカートリッジで
周波数レンジの狭さ、ステレオの分離のなさなど、比べてみなければ判らない。
それでも、LPレコードの音の差はそれなりに判るので、共通認識として持っていた。
いわゆる集団幻想のなかにステレオ装置の品質が彷徨っていたのである。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 21:43:44.56 ID:I0uyn/YB.net
こうした集団幻想のなかのステレオ品質が徘徊するなかで
クラシック音楽の鑑賞ということが、どこまで真剣に考えることができたのか?
当然のように飽きられるというのが結論であり、1960年代の録音群の評価の難しさである。

例えば、ライナー/シカゴ響のR.シュトラウス管弦楽曲集の録音ペースは
この大曲を2日に1曲ずつ、ほとんど一発録りという過密スケジュールで進んでいる。
ライナーだから、事前の練習に漏れもなくスムーズに行えたようにも思えるが
1954年というステレオ初期のセッションであるから不自由というものでもないだろう。
同じ傾向はミュンシュ、セルにもみられ、1つの交響曲のセッションは長くて2日。
ミュンシュ/パリ管の幻想交響曲が4日間あったのとでは大分違う。

即興的なライブ感を出せる演奏者と、そうでない人との差が出やすかったし
そもそも完璧な演奏スタイルを心掛けた職人的な音楽家が好まれたと言える。
前者にはグールドやミュンシュ、バースタインが居て
後者にはセル、ライナー、ハイフェッツなどが居た。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 06:59:34.89 ID:Zhaqwt0m.net
このような過密スケジュールで録音する方法は、SP盤の頃と同じプロモートだったと言える。
反対に、グールドのように何回もプレイバックしながらテイクを重ねて
理想的な演奏像を練り上げる人は少数派だったと言えよう。

そこで生じるのは、レコードのもつ繰り返し鑑賞する行為の時間の持ち方と
一期一会のコンサートとの違いでもある。
レコードの聴き方は、暇さえあれば自分の好きな時間に好きなだけ聴くという
「暇」という時間の尺度で音楽を共有することになる。

これには反対意見もあって、SP盤のダイレクトカット&一発録りの緊張感のほうが
名盤を生み出す確率が多いという人もいる。ライブ録音もそのひとつだろう。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 07:23:54 ID:Zhaqwt0m.net
1960年代のアメリカの録音群は既に勝機の見えた凱旋行進曲のように録音され
アメ車のもつ安定した乗り心地がひとつの価値観として保有されていたと思われる。
この時代のシカゴ響とボストン響のサウンドの違いはあっても
例えばベートーヴェンの演奏スタイルの違いを言葉にするのは難しい。
これが1970年代のカラヤン、ショルティ、ベームであれば誰でも区別がつく。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 07:45:41.00 ID:Zhaqwt0m.net
もうひとつの傾向は、RCAの膨大なレパートリーのほとんどを管弦楽曲と協奏曲が占め
ドイツ系の交響曲の全集に取り組むようなことが行われなったことである。
これはコンサートの持ち方の違いといっていいかもしれないが
コンサート半ばのショウピースの紹介に時間が割かれて
なかなかメインディッシュに行き着かないというジレンマに陥る。

いわゆるサロンで行われるガラコンサートの習慣が色濃く残っていて
食事でいえばバイキング方式の品ぞろえに似ている。
おそらく子供だったら甘い菓子からお皿に載せるだろう
そういうマナーのないディナーの進行を感じるのである。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/29(金) 07:54:53 ID:AA/2vmiT.net
とはいえ、東欧、ロシア系のレパートリーの定着に果たした役割も大きく
ショパン、チャイコフスキー、ドボルザークはロマン派の最重要な楽曲になったし
当時はまだ現代曲だったバルトーク、プロコフィエフなどでも名盤を残した。
近代フランスの楽曲が国際的なレパートリーに発展したのもこの時期だ。

この視点からみえてくるのは、移民・亡命者の音楽観というべきもので
様々な文化背景をもつ人々に、何が文化的に有益なのかを説得する方法である。
それには良質な録音品質、再生する装置の忠実性(Hi-Fi)が必要であり
そこに細心の注意が払われたように思える。

一方で、1960年代への現在の評価は録音品質のアドバンテージにあるのではなく
むしろ演奏内容に向けられている。クラシック音楽の本質に迫る内容でなければ
好んでこの時代の録音を選ぶことはしないのだ。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:23:38 ID:TagW84Rw.net
この移民社会の創り上げたクラシックの意味は
雑味の無い、より純度の高いヨーロッパ的なものを含んでいる。
世間が言うようなアメリカンな特徴といえば、金管や低弦の力強さだが
それはシンフォニックな鳴りっぷりの良さを考えてのことだ。
逆に言えば、陰影がない、深みがないということもできる。

個人的には、現在の奥まった表現の多いオーディオ機器では
むしろアメリカンな開けっ広げな表現のほうが目新しいとも思える。
当時でも、ボザークなど東海岸のメーカーは、霧の向こうにあるようなサウンドだったし
エレクトロボイスも中高域を少し抑えた渋めの音である。
あるいは家電でのGE、マグナヴォックスなども同傾向にあるといえる。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:49:41 ID:TagW84Rw.net
同じ東海岸系のアンプといえば、マッキントッシュにとどめを出すだろう。
中域の濃密さ、低音のファットな座り心地の良さは
高域の繊細さを犠牲にしても得難いものである。
さらにはオーディオリサーチ、ボルダーなども、その一群に加えられる。

日本ではむしろマランツのほうが、高域がブリリアントで弦の響きが美しく
クラシック向けとして選ばれる傾向にあるが、英EMIやデッカの録音で
効力を発揮するように思える。逆にマッキンは英EMIで濃霧で視界が悪すぎ
デッカでは高域の魅力が削がれるだろう。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:56:20.23 ID:TagW84Rw.net
こうした、えり好みの激しい対立は
当時のレコード、オーディオ機器のサウンドポリシーが強く
個性的であったことと関連している。
原音の意味さえ曖昧だといっていいだろう。
逆に言えば、現在はデジタルの洗礼を受けて
中立性は高いが、無個性なサウンドが大勢を占めている。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 17:24:34 ID:TagW84Rw.net
国産オーディオが押し並べてニュートラル指向で過度な演出を避ける傾向にあり
むしろ海外製品には艶やかさのあるものを求めることが多い。
ただでさえ輸入関税からはじまり、代理店の保証金など様々な経費がかさみ
同じスペックでの製品価格は2倍以上に膨れ上がる。
タワマンのコマーシャルのように、ブランドイメージと個性的サウンドがなければ
その高級感を察することは難しいのだろうと思う。

むしろマークレヴィンソンがスタックス社のA級パワーアンプを愛用していたとか
NASAがTDKのカセットテープを月面まで持って行ったとか
英米でB&Wがパートナーシップを結んでたアンプがローテルだったり
ニュートラルの意味はけして悪いイメージではない。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 17:48:30 ID:TagW84Rw.net
悪い意味でのニュートラルとは、平凡ということの裏返しでもある。
かつて日本のスピーカーは、スペックは良いが音楽が生き生きと鳴らない
測定器から作ったようだという意味で「B&K製スピーカー」と揶揄された。
ホールの響きを無視したような高域の張った特性、締まりのないブーミーな低音など
無響室での測定を標準とした結果、原音再生とは掛け離れたものが生まれた。
この状況は、むしろデジタル録音への対応によって加速化されたのである。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 18:14:38 ID:TagW84Rw.net
こうしたスピーカーの一群は「モニター」という名前を呈したが
おそらくヤマハ NS-1000Mから発展したものと考えていい。
名前の由来は、録音スタジオで使用されるようなフラットで正確なサウンド
という意味合いであるが、実際にスタジオで使えるようなものではなかった。
というのもレンジは広いが両翼のキャラクターが分離していて
中域のレスポンスが非力で、音楽のデュナーミクに欠けるからだ。
例えば、レンジの狭いクラングフィルムのオイロダインのようなスピーカーを聴くと
本質的に表現力が足らないことがよりはっきりする。
東独のスタジオで使用されたのは、シュルツ博士のEckmillerシリーズで
もっと平凡な音のするということらしい。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 19:30:31 ID:TagW84Rw.net
RCAのモニタースピーカーLC-1Aは、低音の分割振動を分散させるイボチンと
高域を拡散させる蝶々の羽が特徴的だが、モノラル期の1号機はこれらがなく
コーン型ツイーターの同軸型という極めて平凡な造りだった。
音の方は真っ当なもので、リビングステレオは基本的にこれで製作された。

このスピーカーの当時の評価で興味深いのがBBCの1952年のレポートで
パルメコに選定するにあたって競合製品を計測している。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1952_05
蝶々の拡散は正面では3kHzと4.5kHzを塞いでいるが
15〜30°オフセットしたときに滑らかになるように調整されている。
一方で10kHz以上は30°より指向性がずっと狭くなっている。
また中域のレスポンスの高さに比べ、高域がおとなしく設定されており
この機種がAR-3a同様の東海岸系のサウンドを継承していたことが伺える。

当時のBBCの判断では、HMVの高級電蓄でもそうだったが
中高域がおとなしくスピーチの聞き取りにくいものはそもそもNGで
この辺もレコードとラジオを完全に分離していた英国ならではの事情がある。
とはいえ放送品質も向上すれば、この特性のほうがスタンダードになると予想していた。
この辺が、現在から見下ろす時代感の違いを理解する手掛かりである。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/01(日) 19:20:30 ID:BAOHUbSl.net
東海岸系といってるサウンドの特徴を述べたものに、瀬川氏の以下のものがある。
ttp://www.audiosharing.com/people/segawa/keifu/keifu_60_1.htm
これとAR-3aのカタログ値を比較してみると、7kHz以上が5dB低いことが判る。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92356bg.jpg
ttp://www.classicspeakerpages.net/library/acoustic_research/special_sections/additional_ar_documents/the_sound_field_in_home_lis/allison_on_soundfields_in_l.pdf
これと>>204でのBBCのLC-1A測定結果をみると、両者の傾向が符合する。
つまり、本当にフラットに再生すると、高域が耳障りだと感じていたのである。

これにはモノラル期のスピーカーが高域で±60°という広い指向性をもっていたのに対し
現在のスピーカーの多くは、高域の指向性が±15°程度に抑えられ
その分チャンネルセパレーションを高めている。
もちろん30°も逸れると、東海岸と同じようなバランスになる。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/02(月) 06:43:47.94 ID:dQv+PwSl.net
東海岸サウンドの示す傾向は、ホールの響きの周波数特性であって
古くは映画館でのXカーブというのがあり、家庭用とは大きく異なる。
ttps://www.sis.se/api/document/preview/602468/
ボーズ博士ではないが、総合的な周波数特性は残響音の影響が大きい。
ARの特性も、ホールでの生音のすり替え実験によって実証していた。

一方で、家庭用オーディオでの超高域成分はパルス波が多く
楽音の立ち上がり、定位感などを示すが、音響エネルギーとしては微小だ。
このアンバランスがHi-Fiの人工的な音響の課題でもあり
RCAでは録音側でフラット、再生側ではハイ落ちというバランスが正解だと考えられ
マスターテープをそのままA/D変換したサウンドは、このことを留意する必要がある。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/02(月) 07:29:12 ID:dQv+PwSl.net
AR社の"Live vs Recorded"のキャンペーンが新聞各社で取り上げられるや否や
ARのスピーカーは、1966年には全米の32%のシェアを占めるに至った。

ところが日本でそれほど売れ行きの芳しくなかったのは
アンプにかなりの出力が必要で、響きの良い洋室での再生に適していたことが挙げられる。
日本でも密閉型の3wayスピーカーは大量に造られたが
中高域の張った明瞭さをもち、低音を少しブーミーに調整したものが売れた。
いわゆるラウドネスを少しかけたような特性が喜ばれたのだ。

この特性は、EMIやコロムビアには良かったが、RCAやデッカには不向きだった。
日本でのデッカ録音は、キングレコードからロンドン・レーベルとして販売され
レコードの音は日本向けにコッテリしたイコライジングがされていた。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 05:52:06 ID:D5Gtogpx.net
1960年代と1970年代のクラシック録音の違いについて
60年代が音像のマッシブな実在感が強いのに対し
70年代は音場の広がりが優位になっている。
じゃあ、現在はどうかというと、段々と60年代に近づいていると思う。

おそらく、ヘッドホンでの試聴が多くなっているからだと推察するが
それと同時にポップスでシーケンサー打ち込みがデフォルトになるなか
楽器を演奏する人物がバーチャル化しないように苦慮しているようにも思える。
つまりコンピューターに負けない正確さと溢れる個性の発露が
現在の演奏家に求められる条件のように感じる。

一方で、1990年代から若手演奏家の消耗も激しい気がする。
つまり正確さへの極度の集中力を要求するあまり
肉体的な衰えのほうが先行し、円熟というものが無くなったのだ。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 06:28:30.08 ID:D5Gtogpx.net
演奏家の円熟ということに目を向けると
今更ながら、カザルス&ゼルキンのベートーヴェン チェロ・ソナタとか
シェリング&ルービンシュタインのブラームス ヴァイオリン・ソナタのような
老大家が共演した室内楽曲が面白く感じる。
枯れた表現というべきだが、骨まで浸みた懐の深さがあり
個人の存在感など越えて、1音で空間ごと取り囲んでしまう。

とはいえ、ロストロポーヴィチ&リヒテルとかデュメイ&ピリスに比べ
繊細さや全体に盛り上がりに欠けるなど、様々な意見があるだろう。
しかし優越を競うという考えを超えたところに室内楽の楽しみがある。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 19:16:28 ID:D5Gtogpx.net
クレーメルが時折フューチャーする作曲家があって
最近ではヴァインベルクだが、ピアソラだったりペルトだったり
そこはクレーメルのこと、演奏でさらに磨きをかけて紹介してくれるのだが
斬新なアヴァンギャルドよりは、クラシックのコンサートに載せやすい
それなりに演奏しやすく聴きやすい楽曲を選んでいる。
例えば、同じミニマリストでもフェルドマンの長大曲に挑むようなことは全くないものの
クレーメルが演奏する「現代曲」は、普通に広告されて
ベートーヴェンやモーツァルトと並んで批評されるのは、何とも不思議な光景である。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 21:12:45 ID:D5Gtogpx.net
いわゆるニューロマンティシズムと呼ばれる作曲家のなかで好きな曲は
吉松隆 ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(シャンドス:1998)
ジョン・アダムス「ハルモニウム」(ECM:1984)
アルヴォ・ペルト「ヨハネ受難曲」(ECM:1988)
演奏・録音ともに的を得たもので、おそらく代表盤。
似た者探しでフィリップ・グラスなどが出てくるとブライアン・イーノなど
もはやクラシカルな楽器の存在すら怪しくなる。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 06:31:59 ID:U3BBb5D9.net
こうしたエレクトリックではないコンサート向けの作品がもたらすものは
オーケストラやコーラスという演奏団体が、欧米の市民社会の縮図のように
考えられてきたからだ。なのでポピュラーな装いが本質的に必要なのだ。

では、オーディオという電子機器で観衆との一体感を疑似体験する意味とは?
この音楽鑑賞という行為は、もともと貴族の宮廷楽団や音楽サロンに根差している。
このとき演奏家を兼ねた作曲家が最新の作品を献上するのが基本で
古い音楽はよほどお気に入りでないと長期間繰り返し演奏はされない。
サンドイッチ伯爵の開いた古典音楽演奏会(Concerts of Antient Music)は
18世紀末のバロック〜古典派への音楽スタイルの移行のなかで
急速に忘れられていくヘンデルやコレッリの作品を聴くための活動から始まった。
1826年にモーツアルト、1835年にベートーヴェンの作品が加えられ
現在のクラシック音楽のジャンル形成が行われていった。
イギリスがレコードを大事にするのは、こうした慣習が大衆化したからで
現在のオーディオの価値観もそれに準じているといえよう。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 07:35:33 ID:U3BBb5D9.net
もうひとつの伝統は家庭音楽で、特に鍵盤楽器の楽曲は16世紀に遡る。
グリークの抒情小曲集はもとより、シベリウスのピアノ曲はアマチュア用の佳曲も多く
アイノラ邸はボンヤリしたスタンウェイの音と共に聖地と化している。
おそらくフォーレ、ドビュッシー、モンポウと続くフランス印象派のピアノ曲もまた
広いコンサートホールよりはパーソナルな空間のほうが似合う楽曲である。

晩年のシベリウス自身は最高級ラジオで自作の演奏を聴くことが楽しみだったようだ。
ttps://www.youtube.com/watch?v=nuHwwhGw7qo
ttps://www.radiomuseum.org/r/telefunken_spitzensuper_7001wk.html
ちょうどマグネトフォンの開発と並行して製造されたもので
2wayスピーカーのHi-Fi仕様である。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/06(金) 06:37:06 ID:Qg3V/lz2.net
日本では電蓄というと、粗雑な音の代表例に挙げられ
SP盤の再生はアコースティックな蓄音機が主流だ。
ところが、欧米の蓄音機はラジオと一体化した高級仕様があり
ライブ中継を放送することで、Hi-Fiの代名詞になっていた。

米Zenith社が1935年から製造した Stratosphere 1000zは
Jensen製の12インチウーハー×2本、業務用のQ型ツイーターを実装し
50Wのパワーアンプで周波数30Hz〜15kHzとトーキー並の実力をもつ。
Scott社の"the Philharmonic"は
SP盤の針音対策に10kHzのノッチフィルターを実装していた。

英HMVが1946年に開発したElectrogram 3000 De Luxeは
デコラにも搭載された楕円型フルレンジに2機に
デッカ製のリボンツイーターを搭載したものだった。
このツイーターは後に独ローレンツ製のものに入れ替わるが
いずれにしても、通常のSP盤再生に必要なレンジの2倍は確保していた。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/06(金) 07:51:31.04 ID:Qg3V/lz2.net
オーディオ技術がもたらした家庭音楽の変革は
自宅でコンサートと同じような音響効果を求めることで終始している。
つまり、部屋では足らないエコーを足し、収まりきらない楽器の数を縮小配置する。
昔はS席で聴くオーケストラの音という言い方がされていたが
天井桟敷または指揮者の位置など、実際にはステレオ効果の理解は様々である。

シベリウスのピアノ曲集を色々と物色すると
BISやEMI、Naxosなどはコンサート会場を意識して収録されているものの
アイノラ邸での録音はともかく、地元のフィンランディア・レコードの録音は
部屋でそのまま聞くようなソリッドな音で収録されている。
日本ではエコーとロマンティックを同目線で見ている傾向があり
少し人気が出にくい録音かもしれない。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 07:59:25 ID:icdXas5W.net
シベリウスが最晩年の1951年から使用した電蓄はフィリップス製 FS173Aだろう。
スカジナビア支社がストックホルムにあり、新しいLPに対応する機種が贈呈された。
ttp://www.sibelius.fi/english/ainola/ainola_kirjasto.html
ttp://davidnice.blogspot.com/2010/04/sibelius-at-home-iii-tributes.html
ttps://www.radiomuseum.org/r/philips_radiogrammofon_fs_713a.html
出力管はEL41というEL84の前身となる小型管プッシュ
スピーカーは12インチのフルレンジでAD4200Mと同様のものだ。
ttps://www.radiomuseum.org/r/philips_ad4200_m.html
やや高域が強いようにみえるが、斜めから聴くとフラットになる
モノラル期に多いトーンである。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 11:28:34.21 ID:icdXas5W.net
北欧のオーディオメーカーは
昔からBang & Olufsenのようなデザイン重視のメーカーが有名だったが
高価な割にはサウンドがまじめで普通ということで
コスパ&スペック重視のオーディオマニアから白い目で見られていた。

デジタル時代に入って、Dynaudio、DALI、Genelecとスピーカーの分野で躍進したのは
その癖のない音と大入力でも歪まないタフさだろう。
一時はツイーターがスキャンピーク製で埋め尽くされるという事態まで生まれ
どのメーカー製でも金太郎飴のように同じ様相になった。

私自身が良いと思ったのは、こうしたオーディオ機器の平準化によって
レコード会社のサウンドポリシーが少しずつ見直されていることだと思う。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 18:45:03 ID:icdXas5W.net
北欧のメーカーにみられる均質な音調は客観的とも言えて
破綻のない表現はクラシックにおいてまず必要な要素ではあるが
あえて言えば10メートル先から見据えた楽器の音という感じもする。

実は楽器の距離感は親密感にも例えることができて
あえてマイクをクローズアップして楽器の質感を出すようなやり方も可能だし
少し残響を増やしてでも雰囲気を良くしたいということも可能だ。
こうした作品に応じた距離感の持ち方の違いが、最近は顕著に出てきたように思う。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/08(日) 08:13:41 ID:GYQI6tGe.net
Dynaudioで画期的だったのはBBCでのモニター採用で
BM5A〜6Aといったアクティヴ型小型スピーカーが選ばれた。
つまりLS3/5aの後継機種である。

ところが、これには英国のメーカーが黙ってはいない。
ハーベスやスペンドールが下りたのなら自分がと言わんばかりに
Stirling BroadcastがわざわざBBCのライセンスを取り付けて復刻版を出し
開発元のKEFはLS50と名乗うて同軸型の次世代版を出した。

しかし、Dynaudioの目指すニュートラルなサウンドポリシーと
KEFやロジャースの中高域の少し華やいだ音調とは大きな開きがある。
実際にBBCは、放送局としての中立的で安定した品質を求めていたのだと思う。
ネットオーディオへの柔軟な対応を考えると、余計な音は差っ引いてでも
トータルにサウンドを達観した判断が必要なのだ。

個人的には、Dynaudioのプロ用機種は録音品質の品定めはできても
演奏の魅力を引き出せるような類のものではないように感じている。
喩えれば、ファッションモデルの健康診断書をみて優良かどうか判断する感覚である。
ところが最後に行き着くのは、衣装のプロデュースに対する選り好みである。
好みの判らない人に、音楽のセンスを問うのは間違っている。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/09(月) 05:50:43.94 ID:7krmw5OS.net
Dynaudioのプロ用機種が無色透明かというとそうではなく
むしろ白いキャンバスのようにマットな感じである。
それは入念に歪み成分を取り去り、特にウーハーの受け持つ中域での
艶の落とし方に特徴のある感じがする。

逆に旧来のBBCのスタイルは、男性のアナウンスの声を明瞭にすべく
中高域に過度特性の多いユニットを選び
ネットワークでピークを抑えてフラットにするということをしている。
瞬発的には過度なビリつきが残るが、持続音では抑えるという感じだ。

中高域の過度特性はボイスコイルから出る共振なのだが
Dynaudioはそれをメカニカルに抑えることから設計している。
こうした場合、マッシブな音に対しては余裕をもって対応できるものの
繊細な音の反応については、多くの録音で沈んでしまう。
歪を抑え込んだとしても、ユニットの反応は依然としてダイナミック型のもので
リボン型やコンデンサー型のように早くもないのだ。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/10(火) 07:08:50.60 ID:qisATixd.net
こうした「正確な音」と「聴き取りやすさ」の線引きの曖昧さは
元をただせばオーディオ技術そのものの未熟さに起因している。
つまりスピーカーがボーカル域での自然な発音を保つための方策を
それこそスピーカーの発明された時期から模索していたことが挙げられる。

それはHi-Fi移行期の1948年にBBCが行ったモニタースピーカーの選別にも現れ
そのときの意見はデジタルに移行する1980年代まで有効だったのだ。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1948_04
このなかでISRKユニットの特性の特異性がその後も影響を与えていた。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1983_10
よくポリプロピレン独特の艶といわれるが、素材の問題ではなく設計の方針である。
放送局の性質上、様々な録音品質を扱うため得たノウハウかもしれない。
それが男声アナウンサーの声が明瞭に聞けることと関連していた。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/11(水) 22:59:04 ID:YzDDgpnl.net
聴きやすさを求めたとき、なんとなく思い出すのが
ウィーンフィルによるベートーヴェン交響曲全集のことだ。
演奏機会がけして少ないわけではないのに
ことスタジオ録音となると意外にまとまりのない対応を取る。
女神の気まぐれというべきだろうか?

モノラル期は戦前のワインガルトナーの全集から
戦後は散発的に録音され何となく全集が組める状態だ。
1番シューリヒト(1952)、2番シューリヒト(1952)
3番フルトヴェングラー(1952)クライバー(1955)
4番フルトヴェングラー(1952)、5番フルトヴェングラー(1954)
6番フルトヴェングラー(1952)、7番フルトヴェングラー(1950)
8番ベーム(1951)、9番クライバー(1952)

ステレオ期は1965〜69年シュミット=イッセルシュテットが
全集を入れるまでは以下のように散発的だった。
第九などはシュミット=イッセルシュテットがステレオ初録音だった。
1番モントゥー(1960)、3番モントゥー(1957)ショルティ(1959)
5番ショルティ(1958)、6番モントゥー(1958)
7番ショルティ(1958)カラヤン(1959)、8番モントゥー(1959)
この後のベーム、バースタインなどの全集が続いて
今のウィーン・フィルの風格が整ったといえる。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 06:04:22 ID:u9kwmeON.net
戦前のウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲は以下のとおり。
1番ワインガルトナー(1937)、2番クラウス(1929)
3番ワインガルトナー(1936)クライバー(1955)、5番シャルク(1929)
6番シャルク(1928)ワルター(1936)、7番ワインガルトナー(1936)
8番シャルク(1928)ワインガルトナー(1936)、9番ワインガルトナー(1935)
こうしてみると、なかなか敷居の高いのが判るが
楽友協会という文化財団の許可が難しかったのだろうか?
色々と考えてしまう。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 06:34:13 ID:u9kwmeON.net
ウィーンにゆかりのあった指揮者でベト全の録音は
シューリヒト/パリ管、クリップス/ロンドン響、ワルター/コロンビア響などがあり
シュミット=イッセルシュテットの全集は、誰もが意外に思ったようだ。
むしろ北ドイツに基盤をもつ指揮者が、たまたまバックハウスのオケ伴に選ばれた
それ以外に脈がほとんどないのだ。デッカ〜テルデックの繋がりはあったものの
例えばミュンヒンガーでも同じような結果が出せたのではないだろうか?
フルベン、モントゥーは頓挫した企画のひとつだったかもしれない。

思うに、ウィーン・フィルの残したい自画像はベートーヴェン演奏の規範であり
それがフルトヴェングラーの演奏にも表れているように思う。
大学教授も兼ねた演奏家を擁するウィーンの街がらとでもいえようか。
1970年代に入りベームの全集、クライバーの怪演、バーンスタインの全集へと化ける。
ちょうどマーラー時代を基軸に自己理解を進めた結果だと思う。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 07:34:32 ID:u9kwmeON.net
しかしウィーン古典派と呼ばれる人々は
ハイドンがエステルハージ、モーツァルトがザルツブルク、ベートーヴェンがボンと
本来の活躍地は別にあった。
その後のブラームスのハンブルク、R.シュトラウスのドレスデンなども顕著な例である。
しかしウィーンをゆかりの地と考える人は多い。いわゆる中央交差点なのである。

一方で、ウェーバー、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ワーグナー
ドボルザーク、シベリウスなど、この流派に属さないで独自の作風を開拓した人も多い。
広いハプスブルク帝国の領土内で帝都に赴かないのが自然でもあったのだ。

他の有数の音楽都市、例えばパリ、ロンドン、ベルリン、ペテルブルグなどは
外国人の作曲家を自分の都市の出身だとはけして言わない。
パリのショパン、ワーグナー、ロンドンのハイドン、メンデルスゾーン
ベルリンのバッハ、ペテルブルグのヴェルディなど、初演の名残もない。
ベートーヴェン演奏だって、ヨアヒム、ニキシュのブラームス派の影響のほうが
現在は遥かに大きいのである。
それなのにウィーンだけが特別に思われるのは、何か仕掛けがあるのだろう。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/13(金) 05:47:03 ID:68VSv2Vw.net
ウィーンが商業都市ではなく、帝都であったため
作曲行為を商業的成功よりも、あくまでも名誉の問題と考えていたこともある。
一方で、あくまでも僕の身分として従事しなければならないため
ハイドンは宮廷作曲家という職分よりも
ロンドンで音楽博士の称号を得たことのほうを大切にしていた。

バッハの場合だって、これほど世界中で演奏されるようになったのは
イギリスにおけるバッハ演奏の歴史があり、
メンデルスゾーンのマタイ受難曲の再演より以前の19世紀初頭から
市民会館でのオルガン建造と共にバッハ作品の演奏が頻繁に行われた。
それまでのイギリス国内のオルガンには足鍵盤が無かったのに
バッハ作品の演奏のために足鍵盤を付けたドイツ式オルガンが建造され
メンデルスゾーンはむしろオルガンの名手としても招かれたのだ。

しかしハイドン、バッハも長らくイギリス人演奏家のレコーディングが
どちらかというと亜流のように思われていた。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 06:51:21.35 ID:3cdWg6k7.net
最近になってオーケストラの自主レーベルがにわかに増え始め
設立当初からラジオ放送を手掛けたメトロポリタン歌劇場はさておき
ロンドン響、ベルリン・フィルなどメジャーどころも痒いところに手が届くように出している。
昔で言えば、バルビローリ/ベルリン・フィルのマーラーNo.9などが
オーケストラ団員の働きかけでレコーディングが行われたとか
極めて珍しいケースとして取り上げられていたが
ロンドン・フィルなどは、ガーディナーのメンデスゾーン、デイヴィスのシベリスなど
結構面白いタイトルを掲げて盛んにリリースしている。

個人的に面白いと思ったのは、室内楽の専門ホールによる自主レーベルで
Champs Hill Records、Wigmore Hall Liveなど、新人発掘に助力している。
特にChamps Hill Recordsの録音を聴くと、落ち着いて演奏に挑んでいるのが判り
ティモシー・リダウト(ヴィオラ)のヴュータン、ジェームズ・ベイリューのアーンなど
室内楽にとって大切な、気心の知れた雰囲気が容易に伝わる。
Wigmore Hall Liveでの録音は、一発勝負の緊張感がある一方で
檜舞台に立っただけで生硬い感じが残っていて、演奏に集中しきれていない感じだ。
演奏家のダイレクトな鼓動が伝わるだけあって、こうした点は意外に大事だと思う。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 07:38:00.67 ID:3cdWg6k7.net
ベルリン・フィルがパナソニックと組んだデジタル・コンサートホールは
まだ始まったばかりでそれほど浸透はしていないものの
ネットでの配信という点では全く斬新なやり方だと思う。
ただ従来のレコード市場を柱としたやり方に背を向けた点と
映像とセットというのが、オーディオ・マニアには対応が難しいなど
様々な課題はあるように思える。

できれば、音楽祭などのように多彩な顔触れが揃う機会に
こうしたオンデマンド配信のシステムが整うと
全ての演奏者に平等に聴く機会が与えられるように思う。

こうしたやり方は、実は戦中のフルトヴェングラーのように
無人ホールでの放送ライブというのもあったりして
意外にメディアのなかでは普通に行われていたことだが
有料コンテンツとして加入するのが新しい試みだと思う。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 07:52:19.34 ID:3cdWg6k7.net
とはいえ、YouTubeなどで大量に配信される情報量にくらべ
漂流しがちなライブ映像に対し、ある種の対抗策というのが実際だろう。

ただ、YouTubeにあった収録方法というのがあって
美貌をもった情熱的な演奏で知られるピアニストも
CDでリリースしてみると、ダイナミックに欠けるすごく表面的なことも多い。
いわゆるポピュラー系の音作りのほうがネットでは映えるのだ。

そうしてみると、パソコン、スマホなど様々なメディアでの試聴が可能というのは
ちゃんと最適化したダイナミックレンジで提供しないと、聴き映えがしないことになる。

その意味ではDSD相当の高音質配信で聴くためのネットワークサーバーと
その再生環境を自宅で確保するというのが、意外に難しいことに気付く。
そっちの投資のほうが、本来は費用も手間もかかるはずなのだが
むしろテレビ、ブルーレイという家電製品でチップ化されているのが現状である。
デジタルだから音は一緒というのは、もう言い訳として成り立たないだろう。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:01:18.59 ID:3cdWg6k7.net
ネット配信による試聴の利点は、媒体が流動的で小回りの利くことだが
従来のレコード〜CD路線のほうは、出版というスタイルに似ている。
古い録音の盤起こしなどみて判るが、ハードウェアとして拡散して保管されることで
大元のテープがダメになったとしても、何らかの形でサバイバルする可能性がある。
流動的なソフトウェアは、20年前のスクリプトが起動しないなど、意外に問題があるが
レコードにはそういう不手際はあまりないのだ。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:07:25.13 ID:3cdWg6k7.net
少し変な話で恐縮だが、デジタル録音でも最初にリリースされたCDと
後で再販されたものとで、どういうわけか音が違う感じがある。
ちょっとしたマスタリングの差なのかもしれないが
再販盤はなんというか濃密さが足らない感じがする。
あるいは数値では現れにくいマスターのビット落ちがあるのか。
デジタルなだけによく分からないのである。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:17:15.19 ID:3cdWg6k7.net
あとネットの聴き放題サービスで24bit/94kHzのHD対応という触れ込みであっても
掲載された音源が明らかにMP3相当で、高域にチリチリとノイズの乗ったものも散見される。
レンジが広いという程度ではどうしようもない音なので
基本的には元のCDなりを購入したほうが、本来の音で聴けるように思う。
ただ廃盤になった録音も少なくないので、そういう便利さはあると思う。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 05:29:19.62 ID:EEYtOd5T.net
ベルリン・フィルがネット配信に動き出した背景には
パッケージメディアを柱とした従来のレーベルでクラシック録音の売り上げが低迷し
交響曲の全集を録音するような企画が無くなったからだという。
ある意味、フルベン、カラヤン、アバドと一時代を築いた録音群に対して
常に歴史的な意義を見出すような高尚な競争が待ち構えており
そういう課題をこなしつつレコーディングし続けるプロデュース力が枯渇していると言える。

私なりに思うのは、ヨーロッパの抱える問題、例えば人種問題などについて
クーベリックが抱えていたような暗い影のようなパッションが足らないと思うのだ。
むしろそういうローカリティのなかで輝くヒューマニズムの意味を
楽観主義的なハーモニーで覆い尽くすのに飽きてきたというべきかもしれない。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 05:44:38.23 ID:EEYtOd5T.net
クーベリックが抱えた闇というのは、最も洗練された語法をもった指揮者が
その極みにあって評価をバイエルンという土地だけに埋もれさせたことである。

例えばシカゴ響の監督にとフルトヴェングラーに推薦されたときに
フルベンが若いクーベリックに何を感じ取ったかというのは不明だが
戦前のフルベンの流れるようなテンポのゆらぎを聴くとき
そもそもオーケストラの歌わせ方に共通点があるように思える。

実際に次世代の扉を開いたのはカラヤンだったのだが
クーベリックのもつ歌はもっと伝統的なフォルムを感じる。
それが音楽にあらがわない自然なものであるだけに
誰もが普通のものとして聞き流してしまうかもしれないが。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 06:18:14.01 ID:EEYtOd5T.net
クーベリックのブラームス全集には2種類あって
1950年代のウィーン・フィル、1980年代のバイエルン響とのものだ。
基本的な芸風は変わらないのだが
ウィーン・フィルのほうがインテンポのなかでメロディーを色濃く歌わせる方針に
まだ十分に慣れないまま進行していくのに対し
バイエルン響のほうは完全に掌握した感じに練り上げられているのが判る。
一方で、ウィーン・フィルの音色には言いようのない魅力があり
バイエルン響の少しソリッドな弦の質感は録音のせいでもあるが
陰りのある木管の響きから浮いてしまう感覚もときおりある。

このバイエルン響のブラームスは実に歌にあふれている。
森のなかに彷徨うような感覚は、木を見て森を見ずの諺とは逆の
枝葉が生きようと伸び続けることを繊細に描き出すことで
自然な木漏れ日を生み出すような、大らかな気持ちに覆われる。
一方で、そこには生も死も同居しながら季節をめぐるのである。
その無言の暗がりの存在が深く重いのだ。
インテンポでバッサリ切られるからだろうか。余韻のない静かな死である。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 06:46:56.32 ID:EEYtOd5T.net
クーベリック/バイエルン響のブラームスSym全集は
売り出された当時は、演奏内容よりもオーデイオ的な魅力のほうが話題になった。
残響で覆い尽くさずにディテールを明瞭にした演奏そのものが
これまでのブラームス、しいては交響曲の録音の常識をやぶるものだったし
1980年代のオーディオファイルの志向とも合致していたのだ。

一方で、この演奏のもつ、楽器に優越をつけず均質に歌わせるポリフォニックな手法は
例えばカルロス・クライバーが全集にたどり着けなかった内容のものだが
そういう評価は、クーベリックの醒めた目線からは伺い知れなかった。
時代の志向は、カラヤンの透徹した構成、バーンスタインの情熱のほうに向いて
クーベリックのもつ洗練されたアンサンブルには興味を抱かなかったため
マイナーレーベルのオルフェオからライブ録音のみが残されたのだ。
カリスマのいない現在の楽壇で、マニエリスムの意味を問うとすれば
技法の完成度という点でクーベリックの演奏は興味深いのである。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 07:25:47.45 ID:EEYtOd5T.net
こうしたメロディーをコンパクトにまとめながら色濃く歌わせる手法は
同じチェコのスメタナ四重奏団やフィルクスニー、ブレンデルにもある特徴である。
室内楽やピアノの分野では、マニエリスムというのは悪い評価にはならない。
しかしオーケストラとなると、なにか派手なものを求めがちで
タレント性の強いスター指揮者の話題でもちきりになる。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 07:40:24.81 ID:EEYtOd5T.net
バーンスタインには面白い癖があって、過去の録音との比較をしたがる点だ。
マーラー全集で、大地の歌:ウィーン・フィルvsワルター
千人の交響曲:ロンドン響vsホーレンシュタイン
第四番:アムステルダム・コンセルトヘボウ管vsメンゲルベルクなど
歴史的な分岐点に立った演奏についてコンプレックスをもっていて
同じオケを振ってそれを克服せずにはいられないらしい。

しかし、こうした過去の音盤をひっくり返し試聴すると
むしろその作品の特徴が浮き彫りになるのでさらに面白い。
それだけ各録音の演奏スタイルが個性的だし
単に楽譜通りという筋書きに留まらないパッションがある。
むしろそれこそがバースタインの表現したかったことなのかもしれない。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/20(金) 06:07:21.70 ID:0ugeR+aB.net
もともとオーディオはHi-Fi録音を正確に再生する装置なので
大体どれも一緒というのが当たり前のように思いがちで
特にCD、SACDと進むにしたがい、上流の水源の質は格差が縮まった。
少なくとも、誰のどの時期の演奏かぐらいは検討がつくのだが
これはクラシックの鑑賞にとってとても重要なことだと思う。

その一方で、どうしてもその演奏の良さが思い至らないものもあって
何か再生機器の不都合というか、相性のようなものがないか、と考え込んでしまう。
この演奏に対し、この録音品質が魅力的だと思うツボがあるはずなのだが
どうにも思わぬところを掴まれて、身動きのとれなくなっている感覚である。

特にモノラル録音の名盤というものは、なかなか厄介で
例えば、ワルター/ウィーンフィルのマーラー大地の歌などは
楽器の遠近感が定まらないまま、全ての楽器が近視的に密集して
どうしても後年のステレオ録音の自然な音響と比較してしまう。
フルトヴェングラー/ベルリン・フィルのシューベルトNo.9なども
ティタニアパレストの低音がドーンと残る独特の響きを利用したライブに比べて
ドライブするポイントにどこかブレーキが掛かっているように感じる。
どちらも首の座りが悪くて、チャシャ猫のようにクルクル浮遊しているのだ。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/20(金) 07:45:14.66 ID:0ugeR+aB.net
もう少し時代が下ると
EMIとデッカの録音のどちらに焦点を合わせてステレオを調整するかが鬼門で
デッカに合わせるとEMIは霧のかなたで鳴っているようになるし
EMIに合わせるとデッカはメッキがはげて装置全体のグレードが判ってしまう。
そこにコロムビアやRCAの録音が加わると、何が正しいのか全く分からなくなる。

ステレオの定義も曖昧で、初期ステレオでのシンプルなマイクアレンジから
マルチマイク収録に差し掛かるあたりの楽器の切り貼りが目立ったりする。
場合によっては、ピアノが左、バイオリンが右という録音もあって
これだとモノラルでも聴き映えのする装置でないとバランスを失うことが多い。

1960年代をを制したかと思って、1970年代の録音を聴くと、音が薄くて遠い。
こうした堂々巡りを繰り返しているのが、クラシック愛好家の運命なのだ。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 06:45:41.97 ID:X0EZK2wT.net
クラシックをオーディオで鑑賞するというのは
実際にには音質の良し悪しではなく、演奏の良し悪しである。
演奏の良し悪しが判る装置というのが最低限のラインとなると
それほど敷居が高いわけではない。
しかし演奏の良さを効果的に引き出すとなると話は別である。

実にオーディオのダイナミックレンジは、人間の話声ですら十分に対応できない
ある種の限定された規格の上に成り立っている。
なので上澄みを掬い出して、デフォルメしてやらないと、ちゃんと聞こえない。
演奏の良さを引き出すとは、少しデフォルメした状況を良しとする。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 07:36:24 ID:X0EZK2wT.net
例えばタッシェン・フィルハーモニーのベートーヴェン交響曲全集などどうだろうか?
弦をソロにした最小人数のオーケストラだが、シンフォニックな響きの追求よりも
楽譜の構造が透けてみえるような演奏で、なかなか面白い。

この編成の演奏は、アンサンブル・クリストフォリがピアノ協奏曲で提示したもので
ツェルニーがピアノ協奏曲の理想的な聞き方として記述したものだが
音楽サロンを催す邸宅での試演などは、この手の構成が主だったと考えられる。
後期作品でコントラバスが一言物申すのが良く判る。

モーツァルトの弦楽四重奏の演奏では、作曲家のみの私的な交流のため
自ら演奏し互いに楽器を持ち換えて楽曲を鑑賞したというのも
室内楽で作曲技法の精粋を究めるということがあった。

オーディオの私的な聞き方は、意外にこうした行為と連動しているのかもしれない。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 17:21:50.04 ID:X0EZK2wT.net
タッシェン・フィルハーモニーの録音について
バイオリンのキーキーする音が目立つというのがあるが
悪い意味で高域にリンギングが残っているからで
なおかつ中域のレスポンスが遅れて引っ込んでいるためでもある。
おそらく1980年代の古楽器オーケストラに当てられた
弦に潤いがないという意見も、実は同じ種類のものである。

もうひとつは、コンチェルトグロッソから発展した交響曲の成り立ちの理解である。
管楽器がソロなら、弦楽器にもソロの役割をもたせることで
例えば、英雄と運命のシンフォニーの定義の違いも明らかになる。
普通は英雄は大構成、運命はそれより機能性のあるアンサンブルが求められる。
しかし、田園との対で考えると、英雄は古い様式に沿って作られていて
各楽器の奏法がより固有のものに回帰している。その意味でバロック的なのだ。

そこのところを押さえずに、オケ全体のマッシブな響きにこだわることで
弦楽器のコンチェルト的な役割を理解不能なものにしてしまっている。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/24(火) 07:36:34 ID:6DEV3qbX.net
クラシックの面白いのは、楽譜というキッチリした形式によりながら
それを演奏する際に多様な解釈を認めるという点にある。
最も顕著なのは編曲で、ピアノ曲の管弦楽版、交響曲のピアノ編曲など
様々な方法があるが、それぞれ楽曲の本質に迫るものとして評価される。

とはいえ、タッシェンフィルの演奏を、ベルリンフィルの演奏と比べると
同じベートーヴェンの交響曲であっても、交響曲の意味そのものを問うような
面白い視点を与えてくれる。実は両者共に自主レーベルでのパッケージだ。

最近になってシェーンベルク主催の室内楽構成の編曲が増えてきたのは
オーケストラ運営が難しくなってきているからではないだろうか。
そういう模索が聴き手のほうにも求められている。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/25(水) 07:14:13 ID:/C7NQJQi.net
シェーンベルク主催の私的演奏会の演目は
資金面のほうで限度があったものの、20世紀初頭の現代音楽の叡智を集めたもので
よく「グレの歌」と「室内交響曲」との比較で語られることが多い。
もちろんその後の12音主義、新古典主義の流れを作ったのも確かだが
マーラーやブルックナーの交響曲の室内楽編曲版を聴くと
フルスコアの状態では聞き逃していた骨格が見えてきて
同時代のキュビズムはもとより、ムンクの版画のような
モチーフを再構築することの意義も見えてくる。
実際には、こうしたことは音楽サロンの試演ではよく行われており
リストなどのヴィルトゥオーゾは、様々な変奏曲、幻想曲で再解釈を披露していた。

よくピアノ編曲版というと、カラー写真を白黒コピーしたように思われがちだが
タール&グロートホイゼンの演奏するドビュッシーの海、R.シュトラウスのテイルなどは
アルバム名が「Color」というように、その色彩感が管弦楽というパレットに寄りかからず
改めて作曲技法そのものが色彩感のあるものだと実感させてくれる。
オーディオ的には、2台のピアノというのは結構ハードルの高いものでもあり
テイルでのモチーフの切り分けで、瞬時に場面が展開するときの表情が
単調に聞こえないかなど、ピアノらしい音色に囚われない再現が必要である。

総レス数 245
197 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200