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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

670 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 04:41:04.54 ID:ZodpWsHIU
ワニについて考えるに、
対馬海峡を保有していて、しかも志賀島や豊国岡田にも関係している。

その間に環濠集落の板付遺跡があるので、
福岡平野を挟んで最初期のワニ勢力圏が分断されている。

豊国岡田に拠点があるので古代豊国八雷神の一員と思えたのだが、
ワニが誘致したはずの田熊石畑遺跡が多重環濠なのでアウェイのようだ。

ワニの本貫がどうにもわかりにくかったのですが、
水上生活者アマが原点と考えると解決しましたね。

本来は対馬海峡、つまり壱岐対馬を母港とするアマ集団だったのですね。

後の家船アマと同じで、
伊邪國、対馬海峡ワニ、豊後越八岐大蛇、の3大圏があったけれども、
水上生活者なので明確な国境があるわけではなく、活動範囲は流動的だったわけです。

ただワニ集団だけは、対馬海峡を渡るためのサメ皮装備が特徴だった。
当然のことながら漂う生活なので、半東沿岸にも行き来する日常だった。
北上すると寒いので、半東には通年滞在ではなく、冬になると南下していた可能性が高い。
(三国史記でも倭人は暖かい季節になると襲来)

671 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 04:46:53.17 ID:ZodpWsHIU
豊国の八雷神視点で考えると、
地上生活者であり、弥生時代への移行に伴って、
八雷神→八山津見、となった。

八山津見の長が大山津見(女王)
火雷カモしか残っていないので、田熊石畑将軍がやって来た時にでも火雷が豊国統一したのでしょうかね。

以上は地上生活者クニ

ちなみに後の瀬戸内海の大山祇は瀬戸内アマの総帥であり、水上生活者アマ
同じカモ系だけれども東方展開した勢力であって、違うのですね。

山津見に対して、婚姻同盟の時に産まれた綿津見(海神)というのも、
母系が豊国女王系のアマということになりますね。


ワニは太伯系を含んで対馬海峡権益で栄えたので、各地に母港を獲得して、
水田稲作・養蚕の普及によって陸上生活が発展するにつれて
そこから陸上領土を形成していったわけですね。

よって、
壱岐対馬
博多湾東部→志賀島アズミ(不彌國
洞海湾→岡田の熊ワニ(熊野
など北部九州の主要港湾をベースに領土形成していったと考えられますね。

672 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 04:48:11.03 ID:ZodpWsHIU
それぞれの利権からしても、
遠賀川式土器の祖である豊国カモ系は、
東方展開しようとする。

祭祀型の銅剣・銅戈ですね。

対馬海峡権益で栄えたワニ系は、
北方展開しようとする。

祭祀型銅矛ですね。

国家予算をどちらに振り分けるのか。
この構図は後々長らく続きますね。

673 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 14:49:57.78 ID:h0ti/1nGP
支石墓において箱式石棺を下部構造とする割合

長崎県西北部 98.9%
長崎県東南部 69.9%
熊本平野   41.2%

佐賀平野  0.6%
唐津平野  1.4%
糸島周辺  2.4%

長崎県西岸地域に、縄文時代後期の古い支石墓が多く、
そして古い支石墓ほど箱式石棺が多いのですね。

>>470
石棚墓からの漂着者は、支石墓+箱式石棺が標準スタイルだった。

それが急速に薄まっていくことから、
非常に少数の漂着者が、
長崎伊邪國の家船アマ集団にあっという間に同化帰化していったことを示していますね。

674 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 14:50:56.84 ID:h0ti/1nGP
支石墓に埋葬された人骨が、
縄文系の体格であったり、縄文系の抜歯をしている。

また、箱式石棺の形状についても、
初期のものは正方形に近い形で、長辺が1メートル強のものが多い、
つまりは縄文系の屈葬をしているのですね。

ということは、
少数の太伯系漂着者が、
ねずみ返しや養蚕を伝えたことで伊邪國でもてはやされ、
伊邪國の縄文女性との間に子を作った。

けれども、
根獅子遺跡のように、伊邪國でもまた縄文女性が力を持っており、
子供達は縄文系社会で育ち、ゆりかごから墓場まで、
縄文系の抜歯をして、
縄文式の屈葬で葬られた、
ということですね。

日本は古来女性が力を持った社会だったわけです。

675 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 14:55:07.25 ID:h0ti/1nGP
支石墓ならびに箱式石棺は、石なので残りますから、
あたかも支石墓一族の大集落があったように見えますが、

原山支石墓(南島原市)で34、大野台支石墓(佐世保市)で71、ですので、
300年営まれて平均寿命を40歳と仮定した場合、
同時代に生きている人だとそれぞれ5人とか9人とかになります。

アマも入れると万人はいたであろう縄文末の九州社会の中では、
ごくごく少数ですね。

副葬品も土器くらいなので、いわゆる王とかではなかったわけです。

676 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 15:31:32.63 ID:h0ti/1nGP
一方の木棺墓ですが、
>>633
箱式木棺は、板ですから、条件Bが発動して、
青銅器の保有が前提条件になりますね。
弥生時代からです。

箱式木棺に入るというのは、
青銅器を保有していることを示すステータスだった可能性がありますね。

方形周溝墓に多く、これは燕さん達でしょうかね。

吉武高木の第3木棺墓が箱式木棺ですが、多鈕細紋鏡もありますし、
この大王だけ後援もしくは外戚に燕さん達が加わっていたのでしょうね。

677 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 15:34:17.46 ID:h0ti/1nGP
舟形木棺や割竹形木棺というのは、
縄文アマの丸木舟が原型と考えられ、刳抜式木棺ですから石器で作れますね。

舟形木棺は平手町遺跡(名古屋市)の方形周溝墓から出た弥生時代中期
2000年前のものが最古で、
次が京丹後市の金谷1号墓(方形台状墓)で1800年前。

割竹形木棺は吉武高木遺跡ですね。

舳先が無いわけですが、
これはアマ集団の在り様を考えれば、母船(マザーシップ)だったのでしょうね。

働きバチや将軍の乗る舟は、普通の舟の形であちこち移動するわけですが、
王(女王)の暮らす舟は、ほぼ移動することなく母港に佇んでいたわけで、
安定性重視の割竹形だったのですね。

吉武高木遺跡の大王が割竹形木棺であることから、
水上生活者アマは、舟葬をしていたのだろうと推測されますね。

脈絡もなく突然舟形木棺で伸展葬を開始するとは考えにくいですから。

内海である瀬戸内海のアマはわかりませんが、
少なくとも伊邪國のアマは、遺体を舟に乗せて、沖で海流に流したのでしょう。

678 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 15:35:40.18 ID:h0ti/1nGP
4000年前にハツカネズミが一斉放散してきて、貝塚文化が崩壊して、
陸上生活者クニが悲惨なことになりますね。
虫やハツカネズミにまみれた生活。

水上生活者アマの方が清潔で優位な生活を営んでいたのでしょう。

アマ(舟葬・伸展葬)>クニ(土壙墓・屈葬)、ですね。

3000年前に太伯系が少数漂着して、ねずみ返しが伝わったことで、
高床倉庫に穀物を保存できるようになり、
水田稲作が開始or再開されますね。

さらに、養蚕によって、絹という輸出品が登場し、
青銅器を購入できるようになります。
甕棺墓=養蚕有力者は、クニが従事するので屈葬ですね。

次第にクニの生活が豊かになり、政治的発言権が大きくなって、
それでアマとクニのバランスを取るために誕生したのが、
吉武高木政権ということですね。

伊邪(伊耶) ノ (爾)支
を中心として、各勢力が束ねられて、
アマ母船=割竹形木棺が、ついに陸上に鎮座したわけですね。

679 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 18:40:11.71 ID:h0ti/1nGP
壱岐島の縄文遺跡はごくわずかで、弥生遺跡に移行せず廃絶している。

考えてみればそれもうべなるかなで、
縄文時代には九州側も海産物くらいしかないし、
半島側もまだ中国勢力が到達していないし、
わざわざ命がけで対馬海峡を渡海してまで交易するものが何も無かったわけですね。
せいぜいアマの一部が季節性に移動していたくらいだったのでしょう。

それが太伯系集団によって、
ねずみ返しが伝えられて水田稲作が開始or再開され、青銅原料を入手する必要性が生じた
養蚕が伝えられて、絹という商品が誕生した
ことによって、対馬海峡を渡海する意味ができたわけですね。

よって、壱岐対馬には箱式石棺が進出して弥生遺跡が開始されたわけですね。

壱岐に支石墓はありませんが、吉野ヶ里の石棺のような、石蓋石棺墓はありますから、
伊邪國の系譜はあると。

そして壱岐の弥生遺跡は北部九州系の土器で開始していますから、
>>636の意味は、
>>656なのだろう、
ということになります。

680 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 18:43:05.75 ID:h0ti/1nGP
<伊邪(伊耶)國> 長崎県〜唐津〜糸島

唐津平野
 吾田(阿多) 菜畑遺跡 アマが開始した田
糸島平野
 伊都イツ 伊邪國爾支の母船が所在する津
 吾平山上 井原遺跡   アマが岡上がりした平野や丘・聖地
 吾平津  潤地頭給遺跡
糸島半島
 斯馬   当時は島


<葦原那珂津國> 福岡平野
 筑前 縄文伯玄社勢力
 筑後 オー月ヒメ

<豊国> 香椎以東
 アマ 八岐大蛇
 クニ 八雷神

古代出雲 遠賀川以西  肥河→吉野川→遠賀川
古代伯耆 遠賀川以東
比婆山  山鹿貝塚

681 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 18:55:40.95 ID:h0ti/1nGP
>唐津平野
> 吾田(阿多) 菜畑遺跡 アマが開始した田

から南に下ると、
佐賀 阿邪訶 当時は平野は無く干潟からすぐ山坂
ですね。

佐賀の支石墓が分布する範囲がそのまま、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の勢力圏だったことになります。
>>185

なので、石木中高遺跡の場所も選ばれたわけですね。

682 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:20:21.78 ID:0e2V+xDih
>>678
>アマ(舟葬・伸展葬)>クニ(土壙墓・屈葬)

アマは男性指導者だったのでしょうね。
>>678
吉武高木の割竹形木棺大王も男系継承だった可能性が高いと思われますね。

日本列島の豊かな海産物の中で暮らし、比較的大らかな縄文生活を送っていた。
なので、亡くなった後は舟葬の伸展葬で、黄泉の国で起き上がる。

長崎伊邪國視点だと、対馬海流に乗って東方へと流れていきますから、
黄泉の国は東方。
おそらく豊国地方の縄文時代総称が根国で、伊邪國から見ると東方にあることから、
亡くなった後に舟葬で辿り着く東方黄泉世界の一部に見えていたのでしょう。


クニは考古学遺物が残っているので、女性指導者が多かったことがわかりますね。

屈葬については、
「亡くなった人が起き上がらないように」という表現をよく見ますが、
「亡くなったご本人も」「起き上がりたくなかった」ということでしょうね。

香辛料も無く、本格的な水田稲作も無く、
結局のところはその日暮らしの厳しい生活だったので、1回でもうこりごり。
亡くなった後はそのまま眠っていたかったわけですね。

>>507
恵まれていた筈の山鹿貝塚女王達ですら屈葬しています。

683 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:22:02.49 ID:0e2V+xDih
アマの葬儀は自然な流れで、舟葬・伸展葬を続けて、
弥生時代に入って陸上が発展してくると、
アマ勢力としてそのまま陸上指導者になれば吉武高木のように刳抜式木棺へ。
有力クニ勢力に婿入りあるいは嫁をもらって陸上埋葬される時は、三雲井原のように甕棺墓など妻側の埋葬方法に従う場合もあった、
ということでしょうね。

太伯系は大陸にて支石墓・石棺墓の風習があった。
大陸側は国家の入れ替わりが激しかったので、風習の連続性があるかはわかりませんが、現代の蛋民は陸上埋葬だそうですね。

漂着渡来後、
伊邪國アマと交わってアマの一員になった人たちは、支石墓の伸展葬へ。
伊邪國クニと交わってクニの一員になった人たちは、当初は箱式石棺で屈葬。
そのうち頑張って養蚕機織を根付かせた人たちは、甕棺墓の屈葬へ。

そう考えると、アマクニの分類だけでなく、
アマであっても、事情があって陸上埋葬する場合には、
縄文時代であれば屈葬だったのかもしれませんね。
オー月ヒメの逸話にもあるように、同じ縄文系であっても、アマから見ると陸上生活は凄まじいもので、
陸上で再生するのはご勘弁だったわけです。

684 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:24:19.81 ID:0e2V+xDih
>>472
甕棺墓は蚕の繭を象徴したものと思われ、
そもそも再生を願っていますね。

ねずみ返しのおかげで陸上生活者クニの生活が安定して、
甕棺墓=養蚕有力者は財を成して裕福になっていった。>青銅器・絹の副葬

豊かな人生を送れば、亡くなった後もまた生まれ変わりたいと思うわけですから、
先祖代々の屈葬はまだ捨てられないけれども、
死生観は前向きな方向へと変化していったわけですね。

甕棺墓   繭による再生力・絹による富
鹿の線刻画 鹿の角の再生力

そして再生を願う最たるものが、「破鏡」ですね。
もちろん盗掘されての身分詐称など悪用防止目的もあったでしょうけれども、

>>640
青銅片を来世へ持参して、坩堝で溶かして「再生」するわけですね。
それが権威を象徴する威信鏡の「破鏡」であれば、まさに最強の再生アイテムですね。

戦国武将の真田氏はいつ戦場で斃れてもいいように、
三途の川の渡し賃として六文銭を身に着けていたそうですが、
弥生時代の武将達も同じような意気込みで、破鏡片を身に着けて出陣していたのかもしれませんね。

685 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:27:17.06 ID:0e2V+xDih
そう考えると、一つの仮説としては、
円墳というのは、方形周溝墓、前方後方墳という方形墓とは全く異なるコンセプトで、
再生を願う「坩堝」だったのではないか。

青銅・鉄を持って坩堝の中で眠りに就けば、
来世ではいきなり人生アドバンテージでスタートできますね。

>>639
>両腕のついた土器製の坩堝
双方中円墳は青銅器の坩堝。
江辻型青銅鍛冶工房の系譜ですね。

>ですから、坩堝をつかむ金属器などはなかった。
前方後円墳は時代が下って鉄器時代ですから、
坩堝をつかむ鉄棒がありますね。
前方部が長方形でなく少し開いているのは、
2本の鉄棒で坩堝を挟んで持ち上げる形、ではないでしょうかね。

686 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:29:45.44 ID:0e2V+xDih
さらにそう考えると、単なる空想世界のお話ですが、
凸面で実用鏡としては使えない△鏡は、
坩堝にくべる青銅原料だった可能性がありますね。

日本最古の「硬貨」だったのではないでしょうか。

もちろん一般の市場で使うものではなく、
有力者同士が使う高級貨幣ですね。

「今年うちの領土は凶作だったから、△2枚で米200俵売ってくれないか」
「この戦いはうちが勝ったから、△5枚を差し出せば手打ちにしてやろう」
といった具合に。
もちろん贈答品や下賜品・献上品としても重宝されていたと。

ただ、硬貨は硬貨でも、必要な時は溶かして実用青銅器にする青銅原料だった。
ので、有力者が亡くなったら、坩堝円墳に一緒に入れてあげたわけでしょうね。

卑彌呼の銅鏡百枚も、青銅原料として溶かして、
伊都説だと超大型内行花文鏡になりましたね。
紀年銘鏡くらいは記念に残して親族に配ったようですが。

687 :日本@名無史さん:2023/07/13(木) 22:01:54.66 ID:6/PK4Pa/U
>>685
>双方中円墳は青銅器の坩堝。
であれば、双方中円墳の双方(2つの方形部)が直線状ではなく、やや斜めになっている謎が解けますね。
( -〇- ではなく -〇、 )

>炭を燃やす土壙炉の両端に柱を立てて、
>坩堝の両腕に紐を結んで炭火の上に坩堝をぶら下げて熱したわけですね。

a)直線型の場合
支えなく吊るした状態だと、左右どちらに傾くかわかりません。

となると、坩堝で溶かした溶銅を鋳型に流し込むのに、長い棒や石で坩堝を傾ける必要があるわけですが、
煮えたぎった溶銅の入った坩堝を操作するのは難しいし危険ですね。

b)双方中円墳型の場合
支えなく吊るした場合、必ず凸側に一定の力で傾きますね。
(-〇、の上方)

ということは、-〇、の上縁の下部に石組みで支えを作っておいて、
土壙炉|石組支|鋳型 の順に並べておけばいい。

土壙炉の真上の坩堝を熱して、溶銅になったら、
石組支の頂点の石を外せば、
-〇、が自重で鋳型側に傾いて、溶銅は自動で鋳型に流れ込んでいく。

ということになり、安全性が高くなりますね。
最初に有毒ガスや、熱気に、なるべく近づかずにすみます。

当時あったもので最大限の工夫を凝らした、古代の職人さんたちの知恵だったのですね。

688 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 11:13:53.90 ID:eqVOWGeOC
>>619
>古代中国において、倭人とは特定の部族や国民を示すのではなく、
>沿岸の水上生活者全般のことを倭人と呼んでいたのではないか。

後漢書 烏桓鮮卑列伝 檀石槐伝
『種?日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之
 聞倭人善網捕 於是東?倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食』

鮮卑の大人である檀石槐(137-181)が、鮮卑の人口が急激に増えたので、農耕・牧畜・狩猟では食料が不足し、
烏侯秦水(北京の北東の川)の魚を捕まえようとしたが上手くいかなかった。
「倭人」が網で上手に魚を捕らえると聞いて、
「倭人國」を東撃して「千余家」を捕まえて、彼らを「烏侯秦水の上」に置いて、
魚を捕らせて食糧供給の助けとした。

倭人を北部九州倭国の人々と解釈すると、遥か大陸奥地の鮮卑との関係など意味不明になりますが、
古代漢語においては、倭人=水上生活者であったと考えれば、

版図を広げて栄えた檀石槐鮮卑が、
渤海湾の水上生活者倭人の小国があったのに目をつけて、
これを攻めて千余「家」の家船生活者を捕獲して、
烏侯秦水の上、つまり「烏侯秦水の水上生活者」として移住させて、魚取りに従事させた、
ということで意味が通じますね。

>>687
坩堝の両腕はもっと細長くて、先端に紐を結んで水でも掛けながら作業していた、
と考えていましたが、
双方中円墳の形状だと、紐ではなく、
江辻型青銅器工房の土壙炉両側の柱穴に、石柱か土器柱を立てて、
その上面に窪み・溝をつけてあって、
そこに双方中円墳型坩堝の両腕を嵌め載せたわけですね。
たしかにその方が耐熱性にも安定性にも優れていますね。

689 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 20:18:52.61 ID:eqVOWGeOC
>>686
>日本最古の「硬貨」だったのではないでしょうか。
>ただ、硬貨は硬貨でも、必要な時は溶かして実用青銅器にする青銅原料だった。
なぜそう思うのかというと、実例があるからですね。
弥生時代の倭地に多大な影響を及ぼした勢力の青銅貨幣。

「刀銭」ですね。

燕・斉・越、といった国で製造流通していた貨幣。
刀銭から導かれる考察は。

壱)燕・斉・趙といった北方諸国は、畜産・狩猟国家だった。

水田農耕民の我々であれば、まあどう考えても自国の流通通貨を刀銭のような形にしませんよね。
世界最長の日本国家の歴史上でも無かった貨幣形状。

獣の皮を剥ぐ刀。
燕・斉・趙は、基本的には牧畜・狩猟民族であり、畑作はすれども、水田耕作民ではなかったわけですね。

弐)尺度の違い

燕の明刀銭と、斉の大刀銭とは、共に国家貨幣でありながら、
明刀銭が大刀銭の2/3規格となっています。

国力あるいは青銅原料供給量の相違。
斉と燕の差。
辺境になるほど尺度が小さくなる実例ですね。
九州説の東夷伝里の考古学的物的証拠の一つになります。
また何故に漢帝国の出先機関である楽浪郡が東夷伝里を使ったかという理由には、
なるべく小さな東夷伝里を基準にすれば、同じ法律で、同一面積の田畑から増税を徴収できますね。

参)日本列島からの出土は、沖縄から2、日本海沿岸久美浜町の函石浜遺跡から1

690 :日本@名無史さん:2023/10/14(土) 04:46:33.84 .net
ワシ、こっちの方がええと思うんやけどなぁ

691 :日本@名無史さん:2023/10/29(日) 22:37:39.21 ID:WrZRJSjKg
魏志『其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王』
魏略『女王之南又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也』

【免田式土器】
・重弧文が刻まれた優美な長頚壷型の弥生土器
・弥生後期から古墳時代初期つまり狗奴国存在時期の土器

・北部九州広形銅矛と分布範囲を分け合う
・菊池川流域には方保田東原遺跡などわずかしか出土せず、それより南で集中出土する
 →逆に広形銅矛南限が山鹿市まで
・九州東岸についても、大分県東岸は広形銅矛、宮崎県東岸に免田式土器
・伊邪國(諫早を中心とする長崎県)にはどちらも分布しない

・沖縄県からも少量出土
・いわゆる邪馬台国領域からの出土遺蹟は、三雲(伊都)、下稗田(行橋市)、
二塚山(吉野ヶ里)、みやこ(武雄)、安国寺(久留米)、亀ノ甲(八女)、甘木山(大牟田)など。

魏志『漢時有朝見者』
曹操集譯注『御物有尺二寸金錯鉄鏡一枚 皇后雑物用純銀錯七寸鉄鏡四枚 皇太子雑純銀錯七寸鉄鏡四枚 貴人至公主九寸鉄鏡四十枚』

【金銀錯嵌珠龍文鉄鏡】
・日田市のダンワラ古墳から出土
・長宜子孫銘、蝙蝠紐座
・曹操墓出土鉄鏡と同型、直径21.1cm=九寸
・曹操は魏王まで、魏皇帝は曹丕文帝から

692 :日本@名無史さん:2023/11/04(土) 18:17:23.62 ID:jsj2trjv8
>ニホンヤモリは外来種だった!遺伝子と古文書で解明したヤモリと人の3千年史
>www.tohoku.ac.jp/japanese/2022/12/press20221201-02-gecko.html

>家の守り神としても親しまれてきたポピュラーな動物―ニホンヤモリは、
>実は約3000 年前に大陸から九州へ、恐らく人とともに移り住んだもので、
>その後人の手の力を借りて、日本列島を西から東に進んできたものでした。

支石墓(石棚墓)の漂着渡来と完全に同期していますね。
3000年前に中国南部から、五島列島西端の福江島に上陸。

2400年前に九州北西部へ拡散。

九州北西部から、2000年前に、
出雲→その後拡散せず
四国→2000〜800年前に畿内へ

畿内→600年前に北陸へ
  →900〜300年前に東海へ→220〜100年前に関東へ

弥生時代の海運から考えると、日本海沿岸を一気に伝播してほしいところですが、
現代でもニホンヤモリの分布北限が東北地方までなので、
変温動物である爬虫類ですから、寒冷適応するのに時間がかかった、と考えられますね。

出雲が盲端になっているのは示唆的で、
九州説における、古代出雲=宗像も補強していますね。

693 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 00:50:38.61 ID:CrkGfyoXs
CもDも出アフリカ組で、おそらく後発組に追いやられた可能性が高いとされていますが、
Dがチベット高原と日本列島で生きのびたのに、
先発のCがチベット高原に逃げ込んでいないということは、
D1a2とC1a1は、D1a2とD1a1が分かれた後に、合流していて、当時から4対1の組成で一緒に日本列島にやって来た可能性が高いですね。

中国大陸の古代遺跡からD1a2とC1a1が出てこない、ということは、
12000年前にはNに大陸から追いやられて日本列島にやって来た。
石器時代にNと差が出るとすれば、寒冷地適応の違いでしょうかね。

そのNが4000年前に青銅器O=国家形成に追いやられたのであれば、
Oはやはり4000年前頃に西アジアから青銅器技術を携えて東進してきた、
可能性がありますね。

694 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 01:49:19.30 ID:CrkGfyoXs
そう考えていくと、Oは5000年前くらいまで西アジアで青銅器文明の一翼を担っていた可能性が。
いわゆるメソポタミア文明において、都市国家あるいは遊牧民集団として、O1b1、O1b2、O2その他の集団に分かれて存在していた。
それが同時あるいは順番に滅ぼされて、同時あるいは順番に東進を開始した。

西アジアでの居住地域の場所の違いから、東進ルートが分かれ、
O1b1は南方ルートでインド〜東南アジアへ。
O2は中央ルートで夏家店文化に数派に分かれて入ってゆき、
先住のNに次第に取り入って後に下克上して殷。
O1b2は北方ルートで沿海州シニガイ文化。

後の漢O2と、扶余O1b2は、元が同じ民族かつ文明であり、共同戦線を張って、
楽浪郡&扶余系複数国家を作ることとなった。

O1b2の中にも複数勢力があり、来倭は二派で、
第一波が3000年前の刻目突帯文土器で、おそらく戦乱により集団亡命。
青銅器を伝えたが、絹が無かったので、交易で青銅原料を補給できず、ある程度増えたが埋没。
西アジア系神話の八岐大蛇を自称。

695 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 01:51:55.44 ID:CrkGfyoXs
第二派が前108年楽浪郡設置時に、滅ぼされた旧燕勢力にとって代わって、
漢との交易を元締めすることになった、奴国王の父親を頭とする商社。
O1b2のうち四隅突出墳丘墓を墓制とする勢力。

息子達が平形銅剣女王=瀬戸内高地性集落群経営社長に求婚し、
末弟が結婚。

>>132
兄達一族は奴国を追われ、中国山地奥へ逃亡。
四隅突出墳丘墓を伝承。

後90年に奴国王失脚。

兄達一族は中国地方に出てきて、同じO1b2系の人々を従えて、
後に四隅突出墳丘墓国家、後漢書の拘奴国を建国。

696 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:04:41.86 ID:CrkGfyoXs
一斉放散とはすなわち突然変異した個体が獲得した「新規能力」が環境にマッチして大量増殖すること。

ハツカネズミの一斉放散は、
8000年前にインド大陸から南アジア亜種系統(CAS)がアジア大陸部に一斉放散。

4000年前にCASが中国南部珠江流域を中心とする中国南部から
日本列島を南樺太まで一斉放散。貝塚の分布範囲=人間集落の分布範囲に拡散。朝鮮半島には渡らず。

2000年前に北ユーラシア亜種系統(MUS)が朝鮮半島で一斉放散。
一部は日本列島にも渡海して、現在は日本列島ではMUSが主になっているそうですね。

また、DNA断片長がわずかとなっているものの、4000年前以前にも、
日本に第3系統のハツカネズミが生息していた痕跡があるそうです。


一方で、東アジアそして日本列島における関連イベントとしては、
8000年前に長江流域で稲作開始。
長江文明は5000〜4500年前をピークにして衰退。

日本においては、縄文時代が持続成長して、
5000年前までには稲が伝来。
4000年前に縄文貝塚が急激に衰退。三内丸山遺跡も衰退。

4000年前に、中国北西部の夏家店下層文化で中国の青銅器時代開始。牧畜狩猟・雑穀栽培。
長江流域にも三星堆遺跡で青銅器出土。
国家形成開始。殷。

3050年前に、シニガイ文化の刻目突帯文土器→現出雲→西日本に拡散
3000年前に、浙南石棚墓の支石墓→伊邪国西部→伊邪国に拡散
甕棺墓勢力が養蚕開始して青銅器時代本格化

2000年前は既に吉武高木遺跡が存在

697 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:07:17.65 ID:CrkGfyoXs
>>633
条件A<高床式倉庫にはねずみ返しが必須>
条件B<板(ねずみ返し)を作るには金属器が必須>
条件D<水田で大量生産した稲は高床式倉庫で保管する>

この3条件は世界共通ですね。
ハツカネズミが一斉放散ごとに獲得した能力に着目して方程式を解いてみましょう。

壹)8000年前:家ネズミ化

人間を怖がらなくなったのですね。
自然界のネズミの中で、人間社会に入りこむのは数種の家ネズミだけ。
それまでハツカネズミは野ネズミで、
普通の野生動物と同様に、人間が活動する場と自らの生活圏が重なるのを嫌っていたのが、
人間の食料を食べることが優先されて、人間社会を生活の場とすることを厭わなくなったのですね。

ハツカネズミが家ネズミになるきっかけの一つが、稲作の開始で、
保存のきく稲を栽培するようになって、人間の人口が増えて、
人間の人口が増えると、人間の貯蔵する食物や、あるいは人間の出す食べカスも増え、
人間社会に潜り込んでそれらを食べるようになったのですね。

トキソプラズマという人間にも病気を起こす病原体がありますが、終宿主は猫。
これがネズミに感染すると、終宿主である猫に食べられて、猫の体内へ入るために、
ネズミの恐怖心を制御して抑制し、物陰から出て行動するようにするそうです。
このような病原体に感染して、人間を怖がらなくなったハツカネズミがいて、
人間社会の中で餌を得ることの旨味を知ったのかもしれませんね。

その一部が日本列島にもやって来て、貝塚の残飯などを食べていたのでしょう。

ただこの世代のハツカネズミはまだ、ジャンプするだけで、高床式倉庫を作れば貯蔵食料は被害を受けなかったのですね。
長江文明も三内丸山遺跡も高床式倉庫を作って繁栄しています。

698 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:09:13.96 ID:CrkGfyoXs
二)4000年前:登攀能力

柱を登れるようになったのですね。

ねずみ返しが無い高床式倉庫に貯蔵した作物は全て、ハツカネズミに食べられてしまうようになった。
当時の長江文明人や縄文文明人にとっては悪夢だったでしょうね。

稲を貯蔵できなければ、人口も安定維持できません。

特に中国大陸では、ただでさえ軍事力生産力に差が出る青銅器勢力との差が、
ハツカネズミの登坂能力獲得によって、決定的な大差になってしまったのですね。

青銅器文明を獲得した勢力は圧倒的優勢で支配地域を広げた。
そして彼らは牧畜狩猟・雑穀栽培の集団だった。

中国でも青銅器文化と共に殷が誕生し、
日本でも青銅器の伝来と共に弥生時代が開始され、吉武高木遺跡が誕生しますね。

699 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:11:16.85 ID:CrkGfyoXs
参)2000年前:戦争本能

同じハツカネズミの他集団を襲ってテリトリーを奪う闘争本能を得た。

現在進行形でお手本を見せているホモサピエンスと同じですね。
MUSが何らかの理由で攻撃性を増して、周囲のハツカネズミ群を襲ってテリトリーを奪うようになった。
ホモサピエンスが他のヒト族を滅ぼしていったのと同じことが起きて、
日本列島にも渡来して、先に増えていたCASを駆逐していったのですね。


4000年前のCAS一斉放散の時は、南樺太の貝塚集落にまでCASは到達したのに、
朝鮮半島には渡らなかった。
それが2000年にはMUSが一斉放散したということは、
朝鮮半島の人口が一定以上に増えたのは楽浪郡設置の頃だった可能性が高くなりますね。

人口が増えるには女性が増えなければなりませんが、
九州からHTLV-1が渡海していないので、
この時期に増えたのは燕を最多とする秦そして漢建国時の滅亡勢力から亡命してきた女性が主だった可能性が高いという計算になりますね。

700 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 22:05:22.55 ID:CrkGfyoXs
山東半島において、4500年前の龍山文化期に、
楊家圏遺跡にて稲のプラントオパールを採取。水田稲作相当量。
趙家荘遺跡にて不完全形の水田遺構と、発育不良の稲籾。
が、見つかっているわけですが、
その後の水田遺構が続かないわけですね。

これも解析すると、
8000年前から4500年前に長江文明が稲作&高床式倉庫で栄えた。

4000年前のハツカネズミ第二期一斉放散にて、稲作集落が壊滅してゆき、
一部の稲作民が、物々交換で共生していた倭人=水上生活者と共に北へ避難した。

>>688
すなわち大陸倭人の移動圏内で移住した。
>>615
同じくハツカネズミから逃げたけれども、追いつかれたのですね。

寒冷地域では稲が発育不全で、
そのうち追いかけてきたハツカネズミにも追いつかれ、水田稲作は放棄された。

圧倒的優位に立った青銅器勢力=殷によって、稲は当初は雑穀栽培の一品種として吸収され、
ねずみ返しが普及した後世になってようやく、
水田稲作が「再開」されることになった。

701 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 22:07:25.63 ID:CrkGfyoXs
要するに、
青銅器文明を開始したのは、牧畜狩猟・雑穀栽培の勢力であった、
ということですね。

刻目突帯文土器の渡来人も、
>>689
燕亡命勢力も、
「本格的な稲作を知らなかった」
ということです。

3050年前に刻目突帯文土器が渡来してきた時に、
ねずみ返しをもたらしたけれども、
稲作はD1a2縄文人が「再開」して、刻目突帯文土器人に「教えた」ということですね。

同じく、
燕滅亡時や、衛氏朝鮮滅亡時に、万単位で亡命してきた旧燕人にも、
受け入れた豊国の山鹿貝塚女王系勢力の人々が、
「水田稲作を教えて」あげて、一緒に東方開拓してあげた、
のでしょう。

それが方形周溝墓勢力ですね。

702 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:14:26.72 ID:kFppqJVaI
>>682
吉武高木遺跡、田熊石畑遺跡、それぞれの割竹形木棺は全て、
それぞれの遺跡の沖合における対馬海流と同じ向きになっていますね。

あたかも対馬海流を大船団が流れていくように見えます。

これはつまり、縄文時代の水上生活者アマの舟葬の風習が続いているわけで、
東方の黄泉の国へと流れ着いて生まれ変わる。

温暖な縄文時代に、より温暖な西日本の方が人口が少なかったというのはおかしな話であり、
縄文時代には、豊富な海産資源に恵まれた日本列島においては、
水上生活の方が清潔であり、食料にも恵まれていた。

西日本は温暖なので、大多数は水上生活アマとなったが、
東日本の特に緯度が高くなるほど冬には寒くて水上生活をできないため、
陸上生活クニを選択せざるを得なかった、ということですね。

703 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:18:23.59 ID:kFppqJVaI
その視点で平原遺跡を見てみますと、
1号女王墓は割竹形木棺墓で、その埋葬方向の直線上には吉武高木遺跡があるんですね。

さらに、平原遺跡の西の大柱、西の鳥居2つ、東南の大柱、が、
1号墓を挟んで一直線に並んでおり、
これもまた吉武高木遺跡を指していますね。

この吉武高木遺跡への軸線から「日の出」を迎えるのが、「春分の日と秋分の日」。

平原女王卑弥呼は、吉武高木遺跡の割竹形木棺墓王族であり、
縄文時代からの舟葬アマの勢力。

ただ、吉武高木遺跡の割竹形木棺墓王族が陸上生活に移行してから300-400年ほど経過しているので、
卑弥呼が死去後に流れ着きたかった祖地は、
吉武高木遺跡であった、ということになります。

つまり吉武高木遺跡とは3世紀倭女王にとって権威の根源となる聖地であり、
魏志倭人伝に記された伊都国の里程到達地点とは、吉武高木宮殿であったのだ、
という説を、
卑弥呼自ら強力に指し示していることになります。

704 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:19:50.04 ID:kFppqJVaI
そういう目で見ると、前方後円墳の割竹形木棺は、
前方部方向に足を向けて、後円部に埋葬されていることが多いですね。

割竹形木棺を引き継ぐということは、同じ死生観を引き継いでいたでしょうから、
彼らが流れ着きたかった場所とは、
・縄文アマ精神であれば黄泉の国<海の彼方>
・弥生陸上精神であれば祖地(本貫)
を指し示しているのだろう、と予測されますね。

そうなると、
桜〇茶臼山は、奈〇盆地の南端で、南を指向しているので、太平洋黒潮に乗りたい。
ホ〇ノ山もたぶんそう。
箸〇は、熊本を指しているので、おそらく〇〇ヒメご本人ではなくその子孫。

〇〇ヒメは狗奴国王妃で、狗奴国王とは大倭長官の〇物主であり、
当初同盟していた難升米父の保有していた蛇紐金印を見て驚いた、ということでしょうね。

705 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:21:22.51 ID:kFppqJVaI
刻目突帯文土器が沿海州から奴族第一波として渡来して来た、と仮定した場合、
彼らの主要スペックについては、
牧畜畑作、青銅器あり、水田稲作知らない、養蚕なし、陸上生活者、ですね。

彼らが島根県に漂着渡来して、青銅器による木板作成=ねずみ返しをもたらした。

ただこれは、青銅器が無いか有るかの違いが非常に大きかったわけで、
もたらした青銅器の量は、驚くほどわずかだった可能性がありますね。

例えばほんの銅ノミ10本分くらいしかなくて、
それでもリサイクルしながら大事に使っていれば、
数百枚のねずみ返しを提供できた。
その提供可能範囲が、刻目突帯文土器の東限までだった、ということですね。

前4000年のハツカネズミ一斉放散以降、1000年に及ぶ苦難の時代を終わらせたので、
各地で受け入れられ、
DNA解析による渡来時期とも一致しますね。

彼らは陸上生活者ですから、クニ。

ただ、養蚕は知らなかったので、日本列島の発展度としては、
ハツカネズミの脅威から解放されて、
4000年前の一斉放散直前の状態まで回復できた、という意味合いになりますね。

706 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:23:44.16 ID:kFppqJVaI
刻目突帯文土器渡来に次いで、
3000年前に浙南石棚墓の倭人=大陸水上生活者が少数漂着渡来してきます。

彼らの主要スペックは、
水田稲作、青銅器あり、養蚕、水上生活者、ですね

ニホンヤモリのDNA解析が示す、漂着早期の定住地の一つである、
宇久松原遺跡において、
刻目突帯文土器が出土していることから、
3000年前までには、
先に渡来した刻目突帯文土器奴人が、五島列島まで分布していたことになります。
それだけねずみ返しの貢献度が大きかったのですね。

漂着倭人は日本列島側の縄文からの水上生活者アマと親和性が高かったでしょうが、
一方で、養蚕は当然陸上生活者が屋根裏で行うものですから、
これをアマが陸上に上がってやったのか、
それともクニにやらせたのか、でその後の展開が大きく違ってきます。

どちらにせよ、
水上生活者アマのうち、縄文系支配層が割竹形木棺。
渡来系が石棺。

由来に関係なく、養蚕で資産形成した者が甕棺ですね。

707 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:24:45.32 ID:kFppqJVaI
平原遺跡でわかることは、
1号女王が割竹形木棺、2号家臣が舟形木棺ですから、
どちらも舟葬を元にしているけれども、
身分としては割竹形木棺が王族・支配層で、舟形木棺は武人・家臣でしょうね。

上でも推測しましたが、
割竹形木棺はマザーシップで、母港に佇んであまり移動することは無かった。
居住性重視、安定性重視ですね。

漁や戦い、諸々の事は、舟形木棺が行っていた、のでしょう。

708 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:25:47.53 ID:kFppqJVaI
>>132
刻目突帯文土器の奴族第一波はわかりませんが、
奴族第二派の奴国王一族の墓制については、兄達一族のものが参考になりますね。

三次市のものを調べるのが一番純度が高いですが、
ここでは著名な西谷墳墓群の四隅突出墳丘墓で見てみると、
二重木棺墓というのが目立ちますね。

四隅突出墳丘墓+二重木棺墓というのが奴国王家の本来のスタイルである可能性が高い、
ということになります。

そうなると、木槨+木棺はそこから派生した可能性もあるのですが、
木槨というのが別方向、というのは方形周溝墓勢力からもたらされた可能性も高いので、
現時点ではどちらとも言い難いですね。

709 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:27:50.96 ID:kFppqJVaI
西谷墳墓群は情報の宝庫で、
もう一つ重要なのが、
西谷墳墓群3号墓の王と王妃が埋葬された中心埋葬施設である、
第4主体の「四隅に4本の柱穴」が発掘されていることですね。

奴国王の兄達は、三次市→東の拘奴国四隅突出墳丘墓にて、
奴国王の息子である軍神も、はるか諏訪の地で、
共に四本柱を立てている。

と、いうことになります。
奴国王家の風習であった可能性が高くなりますね。

その意味合いを考えると、
実用的には避雷針。

西谷墳墓群においては、霊廟はもっと小さな通常サイズのものが設置してあり、
諏訪においては、宝物庫を、
それぞれ落雷の火事から守るために、避雷針として定期的に柱を立てたのでしょう。

もちろん宗教的、精神的には、落雷のエネルギーを取り込んで云々、という思想があったかもしれませんね。

710 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:34:05.97 ID:kFppqJVaI
平原遺跡の大柱も同じことでしょうね。

1号墓の縁に沿った小さな柱穴が、殯宮。(魏志倭人伝「停喪十餘日」)
大柱は殯宮への落雷防止、
かつおそらくは女系に豊国八雷神の血を引く卑弥呼の魂に雷のエネルギーを供給する。

難升米は軍神の長男の子孫と想定されますので、
難升米の発案で立てられたのでしょう。

ただ、卑弥呼は伊都国王族であって、奴族ではないので、二本だけ。


軍神側との共通点は、柱だけでなく、殉葬もありますね。

平原遺跡の周濠には土壙墓が複数見つかっており、
それぞれに複数人ずつの殉葬者が埋葬されていた。
これも難升米の立案でしょう。
卑弥呼は100ですね。

西谷墳墓群にも複数の土壙墓。

軍神は、後の殉葬禁止令によって動物に切り替えた。80ですね。

711 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:02:32.50 ID:wdeeas71O
>>352
「蓬莱宮殿」ですね。

『史記』は当然のことながら陳寿ら当時の史学者達にとってもバイブルのような史書であり、
秦始皇帝が不老不死の薬を追い求めて徐福を派遣した話などは常識。
その象徴が東方海中に光り輝く「蓬莱宮殿」。
すなわち「吉武高木宮殿」ですね。

大航海時代の西洋人が、東洋の黄金の国ジパングを追い求めたのと同じく、
当時の中国人にとって、蓬莱宮殿は不老不死をイメージさせる存在だったわけですね。

57年に、蓬莱宮殿=吉武高木宮殿にて漢委奴國王金印授与式典が行われ、
その時に来倭した後漢使が実見した情報を報告したでしょうから、
そこからは夢の存在ではなく、倭地の政治議事堂としての現実の姿が知られたことでしょうけれども、
イメージとしては、昔からの蓬莱宮殿の好印象は残っていたはずですね。

里程の到伊都國=吉武高木宮殿=蓬莱宮殿

そして邪馬台国女王卑彌呼は蓬莱王族=伊都國王族

なので、陳寿にとっては、大先輩の司馬遷が記した「史記」を目標として、
必ず記録に残したい重要情報だったのですね。

712 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:03:39.91 ID:wdeeas71O
>>710
軍神は75でしたね。

曹操集譯注の鉄鏡のように、殉葬者数にも格付けがあって、
軍神は金印奴国王にはなれなかったので、100ではなく75なのでしょう。

卑彌呼は金印王ですから100なのですね。

ということは、奴族墓の格付けは殉葬土壙墓の多少である程度推測できることになります。
ただ、一つの土壙墓に何人殉葬されたかがわからないので、だいたいの予測になりますが。

713 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:09:16.61 ID:wdeeas71O
>>706
吉武高木遺跡も吉武大石遺跡も、甕棺墓もほぼ割竹形木棺と同じ向きに埋葬されていますね。

対馬海流と向きを揃えているので、これらの甕棺墓被葬者達も、
死生観としては北部九州縄文アマの死生観だと思われますが、

甕棺墓は屈葬なのと、
養蚕によって得られる富を、来世に生まれ変わっても引き続き得たい、という願いも込められているでしょうから、
黄泉の国に流れていって、そこで花開く、というイメージですかね。

石棺墓が無いのも気になりますね。
甕棺墓の中に、本来は石棺墓の人たち、
つまりはそもそも四眠蚕をもたらしてくれた石棚墓呉太伯の血が入った人たち、
は必ずいるはずだと思われますが、どうでしょうね。

それと、弥生時代に入って、ねずみ返し→水田稲作と、養蚕貿易とで、
陸上集落が栄えたので、
アマの王様が陸上に居を移したということでしょうけども、
アマの大部分の人は、舟葬を続けていたと思われますので、
一見すると、割竹形木棺大王の周りに甕棺墓ばかりで取り囲まれているように見えますが、

当時の風景としては、湾にはびっしりと家船が浮かんでいて、
弥生時代ですから、交易も移動も軍事も全て水上アマの独壇場であって、
彼らは舟葬だったから考古学的に残っていないだけなのだろう、という点に注意が必要ですね。

714 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:10:59.02 ID:wdeeas71O
その視点で、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓を見てみると、
吉野ヶ里遺跡最初期の、弥生時代前期後半の甕棺墓は、
中央列が見事に対馬海流と同じ角度で並んでいるのですね。

その角度は、どちらかというと吉武高木遺跡のものよりも、田熊石畑遺跡のものに近いように見えます。

それが前期末から中期に入ると、その列が崩れて、いろんな方向に向けて埋葬されるようになります。

つまり、吉野ヶ里遺跡を最初に開始したのは、北部九州沿岸のアマであり、
おそらくは豊国領域のアマ。(田熊石畑遺跡からなら結局は吉武高木伊邪伊都系列ですが)

その後養蚕で栄えて、数世代もすると、有明海に面した陸上生活者クニとしての性質が強くなり、
対馬海流を忘れた、
ということですね。

その後のいろんな方向にも意味があるのかもしれませんが。
それぞれの祖地(本貫)とか。

715 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:25:24.24 ID:sxTVszr6L
田熊石畑遺跡は多重環濠遺跡ですから、現地人に対して防御しており、
吉武高木の割竹形木棺アマ王族が将軍として派遣された、
在豊国の伊都国軍基地、と考えられますね。

田熊石畑遺跡の9号墓までの大多数が沖合の対馬海流と同じ向きであるのに対して、
6号墓と7号墓のみが、他と直交するように北北西に向かっていますね。南枕です。

その先にあるのが、沖ノ島。

吉武高木遺跡、そして田熊石畑遺跡の伊邪國アマ→伊都國王族の流れに直交してまで主張しているということは、
それだけ強い固有の死生観、宗教観を保持していることになります。

田熊石畑遺跡将軍の妻、つまりは豊国女性の死生観は、
対馬海流に乗って東方黄泉の国へ流れるのではなく、
沖ノ島を聖地として崇めていた、ということになりますね。

>>139
沖ノ島祭祀の源流を、現地の宗像において、さらに前2-3世紀まで遡ることができることになります。

716 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:27:24.42 ID:sxTVszr6L
田熊石畑遺跡の将軍は、豊国女王あるいはその宗女を娶ることで、
豊国支配権を裏付けていたでしょうから、
6・7号墓の時代には、その豊国母、豊国妻、の影響が強かったことになります。

>>475
花崗岩土壌が少なく、倭の海外主要交易品であった桑畑養蚕に適していなかった豊国において、
田熊石畑遺跡がなぜ独自支配権を維持できたかというと、
東方への交通の起点という地の利が一つと、
もう一つは、磨製石器ですね。

豊国産の石包丁は弥生時代の北部九州に広く流通した特産品でしたね。
国土地理院の表層地質図で見ると、遠賀川流域は泥岩が多く、
考古学的にも田熊石畑遺跡が開始した頃から、石棺墓が入っていって、
流域各地で石包丁が作られ、北部九州広域に流通しています。

青銅器や鉄器を使用しているといっても、全て朝鮮半島からの輸入ですから、
紀元前にはまだ輸入量に限度があり、石器も重宝されたわけですね。

ですから、金属器の取引先であった、燕国あるいは衛氏朝鮮が安定していれば、
金属器が比較的多めに輸入できるので、
田熊石畑遺跡にも金属器が回って来て、吉武高木王族である田熊石畑将軍の威光が盛んとなり、
割竹形木棺は、伊邪アマ式の、対馬海流方向になる。

燕国や衛氏朝鮮が戦時体制になったりして、金属取引量が減少すると、
豊国の石包丁が売れるようになり、豊国女王家の母や妻の力が強くなって、
割竹形木棺は、沖ノ島へ向かった。

ということでしょうね。

717 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:29:14.89 ID:sxTVszr6L
山鹿貝塚女王は、縄文屈葬で、北枕。
ただ、他の人々の中には、屈葬だけれども東に足を向けているものも多い。
というのが、豊国の陸上生活者クニの埋葬方法ですね。
埋葬方角については何とも言えません。
沖ノ島祭祀についてもあったともなかったとも言えませんね。

田熊石畑遺跡の6・7号墓については、

一)田熊石畑将軍の女系は豊国陸上生活者クニであった。
伊邪アマ流の、割竹形木棺による舟葬の死生観を知り、
古来豊国聖地であった沖ノ島信仰と結びついて、割竹形木棺を沖ノ島へ向けた。

二)田熊石畑将軍の女系は豊国水上生活者アマであった。
彼らは元々沖ノ島へ向けての舟葬など沖ノ島関係の葬祭をしていた。

などが考えられますね。

どちらにせよ、もともと沖ノ島が聖地だったので、
征服者である田熊石畑将軍の伊邪アマ流の対馬海流舟葬に逆らってまで、
沖ノ島を指向したのだろう、とは思われますね。

718 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:30:54.17 ID:sxTVszr6L
>>714
吉野ヶ里遺跡の初期甕棺墓は、田熊石畑遺跡の割竹形木棺と同じ方角に並んでいる。

だいぶ繋がって来ますね。

吉武高木遺跡がアマ大王。
田熊石畑遺跡がその王族東征将軍。
として、記紀を見ますと、

>>667
オー月ヒメ(筑後縄文女王)の所領を奪い、花崗岩土壌で養蚕・稲作・粟小豆麦大豆も育てて、
カ〇〇スビ(神a派)と交易。
この時点では新規所領は吉武高木王家に帰属。

古代出雲(宗像市など遠賀川以西)の肥河(釣川)にて、
八岐大蛇(縄文周防アマ+刻目突帯文土器奴人)を倒して、
須賀(田熊石畑遺跡)に拠点形成。

田熊石畑将軍の軍勢が、筑後からさらに西と南に支配地を広げ、
そこには田熊石畑将軍配下の人々が入った。
肥河の田熊石畑遺跡の影響下なので、肥国。後に肥前と肥後。

吉野ヶ里の初期支配層も田熊石畑将軍男系となった。
おそらく吉野川(遠賀川)。

719 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:37:56.21 ID:sxTVszr6L
>>575
オー月ヒメは口鼻尻から食事を出すわけですね。

これと対比されるのが、
>>507
山鹿貝塚女王は抜歯をしていない件ですね。

同じ縄文女性クニ領主ですが、
オー月ヒメは、自ら食料を調理するということは、
自ら咀嚼して、胃の中で溶かして、吐き出した。
つまり抜歯をしていて、奥歯が並んでいたのですね。

一方の、山鹿貝塚女王(イ〇ナミ)は抜歯していないから、歯並びは悪いけれども、
きちんと調理された食事を毎日献上されていたから、それでも摂取できていた。
女王としては格上となります。

ただ、調理の意味が、良く言うなら、脱穀籾摺りされて熱を通した食事を毎日献上されていた。
ただ可能性としては、周囲の抜歯召使たちが、オー月ヒメ方式で食事提供していたのかもしれません。

豊国ど真ん中の比婆山(山鹿貝塚)(古代出雲國=遠賀川以西と、古代伯伎國=遠賀川以東との境)
から、伊邪(伊耶) ノ (爾)支を追いかけてきた、
黄泉醜女(豫母都志許賣)というのも、
考古学的には、山鹿貝塚系の抜歯していない古代豊国巫女達であった、と推測されますね。

抜歯していなので、歯並びがガタガタだったわけです。(黄泉醜女さんたちすみません)

さらに考えると、
奴国王の最初の奥さんの八神ヒメも、山鹿貝塚直系の豊国正統女王だったでしょうから、
抜歯なしで、
田熊石畑将軍の娘さんは、抜歯していたでしょうから、

抜歯なしの熟女と、抜歯ありの同世代処女とで、若き奴国王が選んだのは・・。(本当にすみません)

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