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邪馬台国畿内説 Part1009

1 ::2024/04/04(木) 12:08:30.38 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712032230/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

206 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:31:09.02 .net
>>201
であるからして、行程記事の締めくくりに、
「自郡至女王国萬二千余里」と総里数が書かれているのだよ。よって畿内はありえない。

207 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:32:00.68 .net
九州にあった倭国の大倭王の歴史

70-80年男王の時代 → 倭国大乱暦年無主 →
卑弥呼 → 台与 → 266年朝貢途絶 → イツツヒコ(穴門の自称倭王)

垂仁の時代、加羅の王子がやってきて穴門を通るとき自称倭王にであったという
何故、自称倭王が穴門などという場所にいたのか?
畿内勢に降伏した九州倭国から脱出して穴門で暫定政府を開いていたのか?

208 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:32:30.40 .net
>>200
崇神天皇は台与より数世代後だな

209 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:34:55.55 .net
そんな証拠は出てきておらん🤪

210 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:36:41.20 .net
不彌、投馬、邪馬台国は連続してるということだな

211 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:36:44.92 .net
自女王國以北 其戸數道里可得略載
そうだろ、その件だ。
畿内より北に北部九州があるのか、そんなこたーねえわな
よって畿内説はボツ

212 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:38:20.65 .net
今日はいつもの通りレベルが低い

213 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:39:45.78 .net
九州説に擦り寄ってる岡上さん、見てるんですよね?
ここに来て質問に答えて下さいよ

214 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:40:54.31 .net
私の説では崇神天皇以前の天皇に触れていない
記紀には崇神天皇の父祖もすめらみこととしているが、それは神話として付け加えられたのだと思う
疫病を克服し四道将軍を派遣して全国をまとめ戸口を調査して初めて課役を課した
それらはいくら称賛しても足りない功績だと思う

215 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:41:15.30 .net
>>206
>であるからして、行程記事の締めくくりに、

違う!
「自郡至女王国萬二千余里」は、行程記事とはまったく別項目だ。   @阿波

216 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:41:36.22 .net
畿内説はひどい状況だ。
旧石器ねつ造より、一万倍ひどいな

217 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:43:07.73 .net
いなか爺様の阿波も、すっかり耄碌したな、

218 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:44:35.79 .net
阿波が倭国だった証拠が無い

219 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:50:30.90 .net
どうせ直線距離を書くなら、どうしても帯方郡からなのですか?
魏の都洛陽からではなく。

220 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:53:51.44 .net
明日香の地は元々誰の地だったのか?
明玉の日と香じゃないのか?
アスカはアサカと同じだろう
堺の浅香にはよい香りがする木が埋まっているという

亀石を作ったのは石神なんじゃないの?
かしこき神、賢き神
仁賢天皇はオケだ

5世紀明日香の入り口に作られた日本最大の方墳である橿原の地の桝山古墳
明治に前方後円墳に作り替えられた古墳だ
石を以って升を作りオケとなす

大和国風土記逸文
昔、明日香の地に老いた狼がおり、多くの人を食らった。これに土地の民は畏れて大口神(オホクチノカミ)と呼んだ。その住処は大口真神原(おほくちのまかむがはら)という(云々)。これは風土記に見られる。『日本紀』では狼は貴神(かしこきかみ)とされている。

221 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:53:56.84 .net
全く期待できませんが、質問を投げかけてみます。
伊都国、奴国が日本の中心であったことは事実です。
問題はいつ北部九州中心であった倭国の中心が畿内ヤマトに移ったのかです。
HKKさんは、筑前型庄内甕の成立段階ではいまだ奴国が倭国の中心であり、畿内に移ったのは卑弥呼の墓を作った布留ゼロ以降であると言います。

ところが、平原王墓を最後に北部九州では畿内を上回る副葬品が出てきません。
HKKさんは、那珂八幡古墳(庄内3)でもいまだ北部九州が上だと主張します。
ところが、那珂八幡の副葬品は極めて貧弱で、三角縁神獣鏡が1面です。

畿内邪馬台国から三角縁神獣鏡を1面しか配布されない奴国那珂八幡がなぜ畿内邪馬台国より上なのでしょうか?

222 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:58:04.77 .net
>>219
そもそもこれは漢土の外の三流人種である東夷の中の倭人物語なのだから、
東夷の支配を担当している(していた)、
楽浪郡、又は帯方郡から書き始めるのが常道。

223 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:58:50.45 .net
>>219
そもそも直線距離ではない

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

「(帯方)郡から倭に至るには、海岸に従い水上を行く。韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里である。」

參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである。」

224 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:59:36.61 .net
楽浪郡と帯方郡を奪回した魏の将軍・司馬懿、

魏の朝廷に東夷の国々の調査報告をした帯方郡大守、

魏志倭人伝の編者である西晋の史官らが、魏の敵国である呉の東に位置させるため、

邪馬台国が伊都国の東方にあったにも関わらず、伊都国の南の南に位置付けた

225 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:01:25.29 .net
>>221
>伊都国、奴国が日本の中心であったことは事実です

ウソです。
そんな痕跡、微塵もない!   @阿波

226 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:03:24.24 .net
>>223
>そもそも直線距離ではない

直線距離でなければ、書く意味がない。  @阿波

227 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:04:20.00 .net
香島の天の大神は卑弥弓呼だろう
卑弥呼と女王国は何なのか?
奪う人か
卑弥呼が闇雲にかき集めた人々の地、纏向遺跡
纏向遺跡から生まれた四道将軍
坂上田村麻呂に征伐された鬼、赤頭四郎将軍は四道将軍の末だろう

228 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:07:38.12 .net
>>221
>ところが、平原王墓を最後に北部九州では畿内を上回る副葬品が出てきません

最近の佐賀川上の七が瀬遺跡の発掘成果を勉強してないな、NHKは勉強してるようだぞ。
そこには、彌生末だが、三種の神器が副葬されていた。
続いて此処からは、まだまだ沢山の驚くべき出土があるだろう。

229 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:08:24.98 .net
香島の天の大神は国津神の守り神だったんじゃないのか?
あべこべの歴史に記紀は作り替えられているんじゃないか?
香は酒に関係する漢字だ、酒は薬、

230 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:09:36.75 .net
>>228
七が瀬は平原より前です。

231 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:14:16.74 .net
徳島は牛の伝承の地だ
牛を殺すことを戒める牛打ち坊の祭りもある
縄文時代の穀物神を容赦なく切り捨て、遠賀川式土器の稲作民に乗り換えたんじゃなかろうか?

ヒョウスベは茄子を好むという
阿波に牛打ち坊という風習がある
牛打ち坊は牛を殺す謎の存在だ
殺された牛には2つ牙の痕がある
牛打ち坊は牛の血を吸い尽くして殺すという
旧暦のお盆に、牛打ち坊を閉じ込める小屋を建て小屋ごと燃やすという祭が行われている
その時に茄子も一緒に焼き、寄付をしなかった家に焼き茄子を投げ込むらしい
焼き茄子を投げ込まれた家の牛は3日以内に死んでしまうという

232 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:14:32.93 .net
>>226
何故?
当時ならむしろ直線距離の記録の方が不要だろう
直線で移動できないんだから
帯方郡から邪馬台国までどれくらい移動しなければならないのか知りたい時に
直線距離の情報は役に立たない
実際にはそれより遥かに長い距離を移動しなければならないから

233 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:18:28.16 .net
万二千余里は直線と言うより凄く遠いんだよってくらいの意味だろう

234 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:23:39.40 .net
>>230
>七が瀬は平原より前です。

読めない男だ。
七が瀬はまだまだ手始め。その北の大願寺地区の大神宮跡が二〜三世紀の本命

235 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:23:57.45 .net
>>231
阿波にいるのは卑弥呼ではなくチュパカブラだったか…

236 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:24:03.21 .net
>>233
「大月氏より遠いよ」と解するべきである

237 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:34:25.89 .net
>>232
>当時ならむしろ直線距離の記録の方が不要だろう

朝鮮距離と方角を示すことで、位置が決まる。 そうでなければ、記載する意味がない。   @阿波

238 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:36:28.89 .net
>>232
>直線で移動できないんだから

当り前。 目指す位置さえ決まれば、そこへ行くルートは多種多様。   @阿波

239 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:37:14.45 .net
>>232
>当時ならむしろ直線距離の記録の方が不要だろう

直線距離と方角を示すことで、位置が決まる。 そうでなければ、記載する意味がない。   @阿波

240 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:37:45.95 .net
阿波説によると見えない場所の距離がわかるらしい

241 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:40:56.35 .net
>>240
不正確ながら、なんらかの方法があったのだろう。  
そうでなければ、距離と方角を書く意味がない。   @阿波

242 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:02.40 .net
穀物だよな
粟、キビ、ヒエ
阿波、吉備、日枝
偶然かな
何か意味があるのかな

243 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:30.05 .net
倭人在帶方東南大海之中

244 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:45:57.08 .net
>>241
「魏志倭人伝」は、陳寿の渾身の作である。   @阿波

245 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:49:04.22 .net
阿波説はいつものように詰めが甘い

246 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:52:58.22 .net
そろそろ阿波が収監されている施設の消灯時間だな

247 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:55:21.28 .net
>>245
お前は頭が悪い。   @阿波

248 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:09:08.80 .net
>>243
倭は、大海の中で
南は九州、北は沿海州の東。

列島極南の一点である、
会稽東治の東は、倭じゃないよ。

道里の主語は何? 
なんで起点を消したwww

倭は、会稽東治の東から始まって
その北は未知の沿海州の東
って、樺太なんだよ。
倭は会稽の東だから種子島説は無い。

249 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:23:11.90 .net
>>248
漠然としたもんだから
万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

250 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:23:46.75 .net
阿波説にはきちがいが集う

251 :琪瑛教大祭酒:2024/04/04(木) 21:25:00.51 .net
卑弥呼鬼道には三種の物が必要であり鏡、剣、印璽がそれである
そもそも道教における神器とは天下神器であり意味が違う
また八角或いは甕棺に三種の神器の話をするが三種の神器なんて言葉が現れるのはずっと後だわ二種神宝とか三種の宝物でおそらく使い方を知らんな
無駄なんだな、もう

252 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:25:09.04 .net
東南方向の海の向こうに倭人の住む島があるよってだけの話し

253 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:28:08.79 .net
>>251
骨を焼くと書いてんじゃん

254 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:29:20.28 .net
>>249
>万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

漠然としたもんなら、萬余里のはず。   @阿波

255 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:29:32.31 .net
>>251
弥生時代に畿内から三種の神器は出ていない

256 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:33:15.60 .net
佐賀ルートの人たちのゴールはどこ?

257 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:37:25.37 .net
>>249
>万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

漠然としたもんなら、萬余里のはず。  

極端に言うなら、最初っから距離など記載しない。 お前はいつものように頭が悪い。   @阿波

258 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:40:23.41 .net
見えない場所の距離を計測する方法が無い阿波が直線距離を語ると言う愚行

259 :琪瑛教大祭酒:2024/04/04(木) 21:43:09.81 .net
だから三種の神器なんてものの皇位継承の時代ではない
卑弥呼は宗教指導者としての祭祀に必要であったのであろう
大体吾輩の卑弥呼は神仙思想、道教であり太陽信仰とか関係無い
現在伊勢のアマテラスは卑弥呼ではない
朝鮮神宮の主祭神に卑弥呼はおかしい
菊花紋章、光を放つ中心がアマテラスなのであろう

260 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:43:12.18 .net
>>258
お前はいつものように頭が悪い。   @阿波

261 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:47:41.52 .net
倭人在帶方東南大海之中
次に行く人のために記録を残してるんだからとりあえずこの情報は重要

262 :伊太乃に居たの :2024/04/04(木) 21:51:30.86 .net
>>231
牛打ち坊って一体なんぞや?

・・・って思って調べたら、めっちゃ地元の伝承だったので驚きました。
少なくとも自分らの世代では知ってる人も少ないのでは。

祖父母の代までは古い風習が結構残っていたように思いますが、
牛打ち坊の話は一度も聞いた事がありませんでした。

263 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:54:22.27 .net
風土記で菊の話が残っているのは甲斐国風土記逸文だな
甲斐の地は弟橘姫が白い龍に乗り山中湖に消えた地である
堺に祀られている大鳥井瀬大神は弟橘姫という
ひょっとしたら白い龍も含んでいるのかもしれないが

因みに河内の叡福寺には聖徳太子は富士山から甲斐の足が白い黒馬に乗り河内の磯長に降臨した伝承が残っている

「雲上に 菊掘植ゑて 甲斐國 鶴郡を 映してぞ見る」

この歌の注釈として風土記には、甲斐国の鶴郡(つるのこほり)にある菊花山(きくかさん)に流れる水で菊を洗い、その水を飲めば人の寿命は鶴のように長くなる とある。

264 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:01:04.31 .net
関東の海→甲斐の地で白い龍に乗り、応神天皇の時代伊豆の奥野の楠から作られた軽船に乗って戻ってきたんじゃないかなあ
4世記後半くらいかな
和泉黄金塚古墳の時代か

265 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:02:20.67 .net
神大市姫→ウカノミタマ→信太山の葛の葉伝説

266 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:03:16.63 .net
雲の上に菊は掘り植えた!

267 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:05:33.22 .net
雲の上には菊が植えられた
菊は雲と一体になったんだろう
信太山の葛の葉伝説の意味だろうな

268 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:08:16.45 .net
白と黒は一体だ
五色の亀姫が浦嶋子と赴いた常世には白い童と黒い童がいた

269 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:12:41.97 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

270 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:13:53.19 .net
牛打ちは牛内、牛の配下にいた人のことなんじゃないの
ミナトのことをウシヲと読むという意味不明な阿波国風土記逸文の記述に関係しているんじゃないか
牛尾はミナトと関係するなら海人かもな

271 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:15:36.68 .net
>>259
八咫の鏡は平原由来だよ

272 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:16:43.83 .net
根拠の無い事を言う阿波はホラ吹き

273 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:30:27.55 .net
悪い奴らに捨てられた民間伝承のある堅い木のお地蔵さんは弟橘姫だろう
堅い木は樫

樫と菊は一体に
椿が揃えば聖か
大国主が生まれるということかもな
長い長い大国主誕生迄の系譜
系譜の最後はスサノオの姫と結婚だろう
牛石の姫じゃないか?

片岡の聖伝説
親なき聖は誰なのか?

274 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:31:14.28 .net
聖の帝、仁徳天皇陵の主
片岡の聖は誰なのか?

275 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:34:43.47 .net
牛石伝承が残る松原の大塚山古墳、全く同じ時代の全く同じ伝承が残る堺の牛石古墳
父の墓と娘の墓か

276 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:37:11.13 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

277 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:38:05.12 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

278 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/04(木) 22:40:33.68 .net
ネトウヨは参政党や保守党を支持する糞が多いからな
キモオタは素直に日本共産党、立憲民主党、社民党、れいわ新撰組に投票しておけ

279 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:45:22.71 .net
>>90
アイツらは頭が弱いから、

~と仮定すると計算が合うから存在した、などという循環論法未満の馬鹿馬鹿しい計算のことを証明だと誤認してるんだろ

もちろん、その手法で証明できたものは何一つないわけで、彼らの説明に根拠のひとつも存在しないのは必然といえる

280 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:47:24.21 .net
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

281 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:48:01.59 .net
〜と仮定すると計算が合うからと編年を弄り続けるとオーパーツが出土するようになります

282 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:50:37.47 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水で、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。

283 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:54:07.15 .net
仲良し3人組の話だろやっぱり
なにわの軽業師の【寅】吉、高橋の薬=酒使いの医者、高間寺の山伏

284 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/04/04(木) 22:54:52.62 .net
ネトウヨは参政党や保守党といったイロモノを支持するカルトの馬鹿だからな
鳥山明の死因がワクチンとか、こんな連中が学問を口にするのがネトウヨクオリティ

九州説ネトウヨの思想はこんな低脳って事だ

285 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:56:02.72 .net
>>284
チョンコはアタオカ

286 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:56:50.41 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)に備える

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け、激しく動揺した32歳の「共立女王」台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、跡継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

287 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:57:23.34 .net
>>284
九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?

Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?

A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。

畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?

Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?

A:・・・・

288 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:59:19.47 .net
鳥山明の死因はちくわらしいぞ

289 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:10:26.70 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(≠帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

290 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:15:02.89 .net
国ってせいぜい江戸時代の藩レベルだろ、畿内と九州が同じ国と考える畿内説はアタオカ。

291 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:41:30.93 .net
記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶は製鉄遺跡の多い所である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武は彦火火出見命ともいうが、これは製鉄に関連した名前である
神武東遷と倭国大乱(畿内で行われた倭国の覇権争い)は時期的に合致する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この新政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、
畿内への交易路を確保していたので安定した
倭国の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する

292 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:47:20.38 .net
3世紀前〜中期頃までは九州に鉄利権を独占されていた
しかし後葉に入ると近畿が鉄を豊富に手に入れることができるようになっていた

これは非常に重要なターニングポイントが3世紀中頃にあることを示唆している

293 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:51:48.90 .net
>>290
100国だからそうだろうな
でもその江戸時代の藩は日本だろうが

294 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:53:55.25 .net
>>290
黎明期のクニは、後の律令時代の郡のひとつないし数郡合わせた程度の規模だったようだ
江戸時代の藩はもう少し小さいとこが多いのでは

とはいえ、前都道府県の中で最小の座を香川県に譲って2位になった大阪府、そのうち2割ほどの面積しかない小さな河内国ですら、明治の大合併までは19もの郡があったぐらいで、小さいサイズの郡も少なくはない
逆に、わりと広大な長野県とかの郡はけっこう広いとこが多いしな

295 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:53:55.71 .net
戦争があったとかどの時代のどの遺跡の事を言ってるの?
肝心な説明が抜けてる

296 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:00:52.74 .net
>>90
オマエのいってることが正しい理由や証拠が書いてないけど?

297 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:01:25.41 .net
>>101
いつどこでおまえがなにをしてるの?

298 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:03:34.17 .net
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
これが当時の倭なんだよ

299 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:12:17.49 .net
漢書
楽浪海中に倭人あり、分かれて100余国を為す

後漢書
倭は韓東南大海の中に在り。山島に依り居をなす。およそ百余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅してより使駅を漢に通ずるは三十余国

魏志
倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す
ふるくは百余国(と記録されており)漢の時に朝見する者有り
今使訳通ずる所は三十国

宋書
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國

隋書倭国伝
有軍尼一百二十人猶中国牧宰
クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようである

https://i.imgur.com/gu5OJyo.jpg
30国+70国+20国=120国

300 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:19:50.15 .net
百国あったとしてもそのどのくらいが邪馬台国連合かわからないし
そこに九州が含まれるかなんてわかる訳がない
ただ卑弥呼を共立した連合国家があったって事だ

301 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:23:59.20 .net
倭王讃の上表文(冊府元亀)

是年,倭國王倭贊遣使奉表獻方物,
表曰:「封國偏遠 作藩于外 『自昔祖父』
躬擐甲胄 跋涉山川 遑寧處
東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國

東西121国を平定したのはどうやら倭王讃の爺さまのようだ
仮にもし倭王讃を応神とするならその祖父はヤマトタケル

302 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:27:22.92 .net
>>301
それもわからない
過大に書いたかも知れないしいつの時代かもわからない

303 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:29:11.78 .net
東征毛人五十五國に東北が含まれてるかどうかもわからないでしょ?

304 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:29:13.17 .net
東征毛人五十五國に東北が含まれてるかどうかもわからないでしょ?

305 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:31:57.17 .net
オロカな論争はやめるんだ! 邪馬台国は安房!
阿波さんならわかってくれるはず

306 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:32:04.53 .net
ヤマトタケルは空白の4世紀に日本列島を東西に暴れまくった
では3世紀中頃のターニングポイントの時代はだれか?

おそらく崇神の時代、四道将軍を東西に派遣するエピソードがある
崇神の最晩年には加羅や任那あたりから使節が来朝するようになる

倭人は伽耶諸国に鉄を取りに出掛けていたので
伽耶諸国は倭人から情報を得て東の倭種が九州にあった倭国を併合したことを知ったのかもしれない

266年の朝貢を最後に台与の倭国は消息不明になった
それはつまり崇神の時代に、九州が独占していた対馬海峡の制海権と鉄利権を
畿内勢が奪取したということではあるまいか

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