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邪馬台国畿内説 Part1017

262 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:00:07.06 .net
とうとう畿内説に倭國王帥升の存在すらなかったことにされてしまったな

263 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:12:28.08 .net
>>261
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)

264 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:20:06.15 .net
30国が連合して卑弥呼を立てたのが倭人伝の記述なのに
漢代から30国は皆王を称して(世世伝統)その大倭王は
邪馬台国に居ると後漢書にはあると
つまり大戦前後で倭国の体制が何か変わったわけでは無い
それは九州説畿内説どちらにも有利不利は無いんじゃないの

265 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:21:33.34 .net
魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、





《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》




《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》





桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。

桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年

倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる

最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる

266 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:26:30.26 .net
>>262
倭は古の倭奴国だし朝貢に来たのも倭国の極南界の倭奴国だと書いてあるのに
倭の奴国って解釈をするのはなぜ?

267 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:29:31.67 .net
>>264
>>266と言う事なんだろう
おかしな解釈するんだよね

268 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:33:14.52 .net
>>265
天皇の話しなんて要らんから

269 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:42:44.55 .net
漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國は
魏志倭人伝にも漢時有朝見者今使譯所通三十國で整合性は取れてるし
ずっと三十國はおかしいと思うなら魏志の資料が古いと考えた方が良いんだけどな

270 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 20:07:17.31 .net
大倭王は邪馬台国王だけ。代々王を称した30国の倭王達とは別者。

271 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:08:01.17 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ

天皇の歴史はこれだから

272 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:38:07.25 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことだ!

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和
隋書倭国伝の邪靡堆=来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同した阿蘇外輪山

273 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 21:45:48.75 .net
もとい、
魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇山麓。裴世清が来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

274 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:04:33.59 .net
3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれの時代の倭王都(筑紫→大和→阿蘇)を倭人に確認してちゃんと書いてるんだよ
それがみんなヤマトという発音だから、現代人はみんな大混乱というわけw

275 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:11:35.37 .net
>>274
出典元がいつの時代かわからんのよ
編纂時に必ず確認したと思ってるみたいだけど

276 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:17:09.58 .net
各時代の倭国王都ヤマトの由来

筑紫邪馬台(吉野ヶ里)=脊振【山】南麓の舌状【台】地
大和=山門▲二上山▲
阿蘇邪靡堆=阿蘇外輪山

277 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:17:31.79 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

278 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:21:53.44 .net
>>276
邪馬台と邪靡堆はともかく大和と山門は漢字で書かれると俺には物凄く違和感がある
当時文字は無いから

279 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:26:59.12 .net
>>278
河内平野から大和盆地へ出入りする時、▲二上山▲がまるで門(柱)みたいでしょ?
だから大和は(あくまで意味的に)山門もしくは山戸だったわけ。

280 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:30:53.14 .net
>>279
なぜそれが大和になるの?

281 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:36:26.66 .net
意味が山門か山戸であるならそのままでいい訳で
倭が和になったのなら既に意味は変わってた

282 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:37:08.16 .net
元々奈良湖のある時代亀さんが住んでいた
始まりは大和の亀さん
石亀さん

283 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:39:56.61 .net
五色に輝く玉を持つ石神さま
暴風の神さま
始まりだな

284 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:40:58.83 .net
>>279
(あくまで発音はヤマト。意味は)山門もしくは山戸(河内平野▲二上山▲大和盆地)
>>112
266年筑紫邪馬台国女王台与がヤマト王権初代大王「複立男王並受中国爵命」へ王権を禅譲し、彼は外交上の混乱を避けるため、地名ヤマト(▲二上山▲山門)に「倭(邪馬台=脊振【山】南麓の舌状【台】地・吉野ヶ里)」の漢字を充てる
→5世紀の倭の五王が「倭(ヤマト)」に「大」を加えて「大倭」と表記だけ変更する
→6世紀に厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」に表記だけ変更する

285 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:42:15.20 .net
旧石器時代、石器の特徴から5つの文化圏に分けられる

佐賀の腰岳を含む九州

大分の姫島、隠岐の黒曜石、五色台や二上山のサヌカイトを使っていたグループ、福岡大分の東岸、四国、中国、近畿

茂呂型ナイフ石器のグループ、三重から東北の太平洋側

諏訪の近くの和田峠の黒曜石を使っていたグループ、石川から青森の日本海側

北海道

286 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:45:22.35 .net
ヤマトの語源は3世紀からではわからないだろう。

287 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:46:15.00 .net
そんな難しい話ではない
唐の時代の倭人がはっきりコメント残してる
「日本は元小国だったが倭の地を併合した」
「しばらく倭国を名乗っていたが雅でないので改名した」
「日の出の方角にあるので日本とした」

その後、日本書紀と食い違うと都合が悪いので
「九州から東遷して倭国が日本を併合したのだ」
と改竄された

288 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:49:09.32 .net
日本列島に1番最初に住み出したのは神さま
旧石器時代の人々
1番大切なこと
先住民を尊重する、これを忘れたらかつて多民族国家だった日本は崩壊する
スサノオを追放するとかありえない話
大国主でもない存在が大倭王を名乗ることなどあり得ない話だ

289 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:49:36.09 .net
>>287
日本の読み方はヤマトでしょう
倭もヤマト

290 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:50:24.57 .net
>>286
ヤマト(河内平野▲二上山▲大和盆地)は、自然の地形だから旧石器・縄文・弥生の昔からでしょう。
それが偶然にも筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の所都・吉野ヶ里(脊振【山】南麓の舌状【台】地)と同じだったため、畿内説と言う悲劇がうまれたわけ。
山島に依りて国邑をなす倭国列島ならでゎw

291 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:56:13.67 .net
>>289
倭をヤマトなんて当の倭人ですら読んでなかったろ
七世紀ごろの日本語のヤマトは夜麻登とか耶馬騰とか八門跡とかだ

292 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 22:59:49.89 .net
倭人が自分のことをワと呼ぶので倭国と付けたのは古代中国人w
倭人は自分たちの国をヤマト(筑紫邪馬台→大和→阿蘇邪靡堆)と呼んでいたんだんだよw

293 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:10:30.28 .net
筑紫邪馬台どこ?

294 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:20:48.08 .net
九州説はまず九州説スレで邪馬台国と投馬国の場所の結論出せよ

295 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:21:00.33 .net
隋書の畿内が魏志倭人伝の邪馬台国で後漢書の大倭王が居る都邪馬台国な。

296 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:31:27.15 .net
久墨タケオ「伊都国・奴国、邪馬台国

近日発売!
//twitter.com/T_Kusumi057/status/1784204697970315682


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297 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:35:07.44 .net
崇神のときに疫病で国民の半数が死んだ。だから三輪山に大物主を祀った
これ因果が逆じゃない?
大物主が外から疫病持って入ったんだろう。幕末に外国人がコレラ持ってきたのと同じ

298 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:35:45.89 .net
纏向は1-2世紀の実態が無いからどうもならん
東倭種の都だ

299 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 23:53:15.12 .net
巻向遺跡は低い土地との標高差が40mほどある。
高地性集落だね。

300 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:01:58.96 .net
>>298
なんでそんな実績が必要なの?
いらないでしょ?

301 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:07:23.59 .net
結論を纏向に固定したためにあちこちに齟齬が生まれて後漢書もスルーせざるを得なくなった畿内説

302 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:08:16.67 .net
魏志倭人伝の方位通りに海の中へ進んでも、何かがおかしいと思わないのが九州説

303 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:09:30.29 .net
時間稼ぎができればいいのよ
炭素、酸素ときて次は窒素とかじゃないか
知らんけど

304 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:11:15.08 .net
里数戸数と大きく盛られているのに日数は正確だと思い込む畿内説

305 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:16:24.93 .net
纒向纒向と言うやつ多いが、

奈良盆地の中心遺跡と云えば唐古・鍵遺跡 面積は約30万平方メートルで、
第1段階 初期(弥生時代前期初頭から前半)から古墳時代まで続く重要な遺跡。

奈良県磯城郡田原本町唐古および鍵にある弥生時代の環濠集落の遺跡。
国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。

306 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:18:28.18 .net
ちょうど卑弥呼の時代には唐古・鍵遺跡の大環壕は埋められていたそうな
平和な東倭種の集落らしいはなしだ

307 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 00:48:23.85 .net
里数・戸数・日数が大きく盛られてると勝手に思い込む畿内説

308 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 01:31:49.19 .net
>>307
そんなこと誰が言った?
九州説また根拠なき妄想?

309 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 01:34:48.75 .net
>>301
>結論を纏向に固定したためにあちこちに齟齬が生まれて後漢書もスルーせざるを得なくなった畿内説

どんな齟齬?
どうして具体的なこと何も言えないの?

九州説とは学問じゃなくて、イメージの漠然とした政治思想だってことかな

310 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:05:04.53 .net
伊勢遺跡→纏向遺跡だって
古代日本を考えると逆に移転してない方がおかしい

311 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:05:23.53 .net
>>284
音韻学(甲類と乙類の別)くらいは調べてから書き込みなさい。

312 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:06:53.83 .net
>>303
だったらどうやって年代を調べるんだ?
考えも無いくせにいい加減な事を言うな

313 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:11:02.76 .net
>>265
「倭国大乱」は大陸人の認知の表現に過ぎない。
考古学実証から想定される「弥生末期の戦乱」最末期の数十年に該当する。
従ってその開始期について大陸側文献の記述を鵜呑みにしてはならない。
 

314 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:14:25.27 .net
痕跡があって初めてあったと言えるわけで無いものをあったと言い張るのは違う

315 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:29:23.76 .net
>>314
何だ?俺に云ってるのか?

「弥生戦乱」はその蓋然性を担保するに足る物証あっての想定で、広く共有されている。
文献(笑)なんてヤワなものとは違う、ハードプルーフに拠る。
少し調べればすぐに知れる。
 

316 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:32:47.96 .net
伊勢遺跡の首長館ないし迎賓館

【精緻な粘土の焼床(やきどこ)】
この建物は規模の大きさだけでなく、
使われている建築技術も国内では他に例を見ない先進的なものでした。
この建物の床は約30cmの土をきれいな粘土に入れ替え、
叩きしめています。さらに精良な粘土を8cm張ったうえで、
表面が赤く発色するほど焼いて仕上げていました。
使われている上質の粘土は、この近辺で取れるものではなく、
わざわざ取り寄せたもののようです。
このような建築技術は類例がなく、しいて類例を挙げれば
中国や朝鮮半島の竪穴住居の床や壁に用いられた
「紅焼土(こうしょうど)」と呼ばれる建築技術に似ています。
当時の朝鮮半島には、壁や床を意図的に焼くものがあり、
伊勢遺跡の大型竪穴建物は東アジアの建築技術の
流れを汲む可能性があります。

317 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 02:56:01.58 .net
>>302
それは解決済み
中国側の研究では文体から挿入あったりの写本時の改竄ある。古い写本が見つかっていない
じゃあ陳寿が使用した原典を研究するようになって九州北部から出ないと分かった

318 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:02:23.90 .net
>>315
どこでそれがあったの?

319 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:06:03.04 .net
>>316
東アジアに神明造があるの?

320 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:11:32.68 .net
>>319
これは大型建物が円周上にならんだ遺構の
外側にあった大型竪穴建物なので
祭儀のための建物ではないようです

祭儀のための建物は円周上の大型建物と、
円周の中心にあった数棟の大型建物
これらは神社建築に似ていて、
大きさは内宮の本殿とほぼ同じみたいです


首長館あるいは迎賓館の復元想像図

https://dec.2chan.net/up2/src/fu3408528.jpeg

321 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:18:32.65 .net
たくさんある建物の中にたったひとつ大陸系の技術が取り入れられてた
それがなんなのよ?

322 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:22:50.07 .net
これらの一つ一つは神明造に似ています

https://i.imgur.com/u3NEcoi.jpeg


建物の長辺の真ん中に開口しているので
神明造なのだと思います
これは想像図ですが、遺構の区画が
長辺を正面に据えるかたちになっているんでしょう

323 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:23:04.76 .net
全体として和風なのになにか大陸系の物があるとすぐ渡来人がーとか言い出すでしょ
あれってなんなのよ?
そんなに渡来人のおかげって事にしたい?

324 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:29:15.77 .net
先のNHKの番組は見られたでしょう
あれは卑弥呼の晩年の話でしたが
渡来人というより邪馬台国の国力の強化に
魏の関与が大きかったという話です

伊勢遺跡が卑弥呼に先立つ男王の邪馬台の場所とは
思えませんけど、卑弥呼の即位から纏向建設までの
期間においては王権にとって重要な場所であり
そこでもすでに大陸の技術が「取り入れられて」いました
そのルートは日本海が想定されます

325 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:42:38.14 .net
>>317
>じゃあ陳寿が使用した原典を研究するようになって九州北部から出ないと分かった

そんな研究した人はどこの誰?
実在する?

326 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 03:48:22.84 .net
そんな研究結果があるなら九州説が嬉々としてその論文なりなんなりを出してるはずだから嘘

327 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 04:49:39.37 .net
つまり九州説はウソ

328 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 05:40:52.23 .net
>>324
>卑弥呼の即位から纏向建設までの期間においては王権にとって重要な場所であり

纏向遺跡ごときのショボい遺跡に、どこに魅力を感じるのか理解できない。   @阿波

329 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 05:51:28.09 .net
>>328
阿波ご自慢観音寺遺跡の何倍の規模だと思ってるんだ
23区と美馬市くらいちがう

330 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 06:00:40.06 .net
>>329
規模でも、鮎喰川下流域が圧倒的だ。   @阿波

331 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:30:21.26 .net
九州説ってニセ情報と中傷以外に何かあるの?

332 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:57:23.05 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです!⇩

3世紀魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
5世紀後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
7世紀隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3箇所ともすべて「ヤマトyamato」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけ、OK?w (๑•᎑<๑)ー☆

333 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 07:57:48.75 .net
>>302
A:帯方郡から狗邪韓国までの7000里
現実の帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

B:狗邪韓国から対馬までの1000里
現実の狗邪韓国から対馬までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

C:対馬から壱岐島までの1000里
現実の対馬から壱岐島までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

D:壱岐島から末盧国までの1000里
現実の壱岐島から松浦市までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる

ABCDで概ね同じ単位が導き出せるならそれが一里の距離と考えて間違いがない
その一里の距離を使えば魏志倭人伝に書かれた国々の場所は概ね比定出来る

334 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:03:32.56 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

335 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 08:08:44.94 .net
九州には立派な半島甕棺文化が在ったのだよ。
それを素直を受け入れようとしないのが今の九州
卑弥呼以前には柱を立て鏡をぶら下げ光の元で地上の生物は全て悦び合う祭祀を行っていたのだな
その巫女が平原の日巫女。2世紀に新羅に行ってるとされてる巫女はおそらくこの平原の巫女。朴信仰。
漢中のごとき従い人々が集まって畿内に拠点を築いたのが纏向の卑弥呼。
今日、京都で祭りごとが行われ天皇制が発揮される
吾輩は八世紀以降の政権を否定しない。がこの時代まで八紘一宇は無いでしょと考えているだけ

336 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:19:33.67 .net
>>335
手応えあった?
賛同してる人見かけないけど

337 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:19:51.43 .net
>>333
>・・・で割ると一里何メートルとしていたか分かる

それを計算できなかったのが
九州説の敗因

338 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:33:04.62 .net
>>334
吉野ヶ里から三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡がたくさん出てこれば、邪馬台国吉野ヶ里説でも良かったんだが

339 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 08:40:08.30 .net
336.馬鹿の数のほうが多いいからな。

340 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:43:21.87 .net
東は青、北は黒、西は白、南は赤、真ん中は埴安大王とかしこねの命が采配した

青は弥生時代山陰北陸琵琶湖北部を縄張りにした勢力じゃなかろうか?
山陰はまた孝霊天皇の時代の牛鬼伝説が残る地でもある
琵琶湖はにほの海、琵琶湖北部は息長氏の本拠地、にほ鳥のは息長や葛飾の枕詞で牛留鳥とも書かれた
息長鳥は猪名や安房の枕詞でもある

沼津の高尾山古墳周辺は弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて北陸や琵琶湖北部の土器が流入する
京都北部など日本海側の墓制であった舟形木棺が高尾山古墳から見つかっている
古墳時代に入ると静岡東部の土器は関東の太平洋側に拡散し、高尾山古墳とよく似た形の古墳が千葉で作られる
弥生時代末期日本海側の勢力が静岡東部を経由して、千葉に移り関東を治めることになったのではないか?
茨城はまた牛伝説の宝庫でもある
成務天皇の時代に定められた関東の国造は出雲臣の系統が多い

竹内宿禰に敗れた五十狭茅宿禰も出雲臣の一族で、東国に援軍を求めた話がある

341 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:52:11.63 .net
纏向遺跡などにいた朱を好む海人は赤で南、九州を治めるよう采配されたのではないだろうか?
赤の海人は九州
九州では東部を中心に円墳が流行っていた
四世紀後半には円墳は奈良や大阪に侵入する
竹内宿禰の話じゃないだろうか?
竹内宿禰はその後東国を平定して回り鳥取で消えた話が伯耆国風土記逸文にある
熊襲を討ちタケルの名を奪いその後東国を平定したヤマトタケルの話は竹内宿禰のエピソードと円墳の動向とぴったりと重なる

342 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:53:40.13 .net
謎の四世紀の枠組みが見えてきたんじゃないか?

343 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:56:24.02 .net
泉州には堅い木でできたお地蔵さんが悪い奴らに攫われ海に捨てられる伝承が残っている
九州の円墳の勢力を引き連れた竹内宿禰は、畿内にいたかしこねの命、樫の姫を攫い東国平定に向かったのではないか?

344 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:58:03.77 .net
奪う者たち蝦夷は九州東部の円墳の勢力か?
不弥国のタモは蝦夷の頭と同じ名だ

345 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 08:59:50.06 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ

346 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:09:06.14 .net
>>334
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の誤認(辻褄合わせの蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GMNebCPaAAAPEAS?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)で、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤認)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
...........................↖投馬国(都萬・耳川)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認

347 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:51:38.87 .net
>>337
計算したら大体1里75メートルから85メートルの範囲内
そしてこういう論文がある

http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf

上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m

つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい

そして実測できない邪馬台国のような外国だから
一寸千里法を使わざるを得ず、
倭人伝だけ短里になったんだ…が短里説らしい

348 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 09:54:02.38 .net
⇩魏志倭人伝の正解
https://pbs.twimg.com/media/GMNlHrgaIAAuRUr?format=jpg

349 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:23:51.63 .net
>>348
なるほど、
邪馬台国は九州以外ですね

350 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:25:56.18 .net
>>347
これだと九州に上陸してから水行一月陸行一月で邪馬台国に至るという記述の説明がつかないだろ
邪馬台国が九州のどこにあろうとそんなにかかるわけがない

351 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:26:35.58 .net
残念ながら(南→東)に読み替えても畿内説は成立せんのよw

不弥国(奴国から百里7.5?なら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない。

?日本海ルート(出雲投馬国)
?瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
?豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海千里、複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在【其】南 去女王四千里」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使が直接見たわけだから「倭人不知里数但以計日数」、四国を見るルートは?瀬戸内海ルート(吉備投馬国)か?豊後水道ルート(日向投馬国)のどちらかで、?日本海ルート(出雲投馬国)は消えることだ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg&name=medium
次に?瀬戸内海ルートだが、ご存じ山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要がなく、さらに水行十日で大阪へ向かうとすると、同様に直線的かつ平坦で道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで「夷(倭)人不知里数但計以日」、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判る。

仮に大阪から陸行一月(20?×30日=600?)すると、邪馬台国女王之所都は横浜(486?)東京(498?)大宮(520?)から水戸(620?)となり、其南有狗奴国は北(蝦夷)になってしまう。

352 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:29:06.18 .net
残る?豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折しアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

さらに?豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、合計12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟み撃ちしようとしたため、有明海にしか逃げ場がなくなり絶体絶命の卑弥弓呼と狗古智卑狗(鞠智彦)は「窮鼠猫を噛む」で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かった政治的な軍事情勢も判明し、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

353 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:29:29.64 .net
>>350
東西五月行南北三月行なら九州内だけでいけそう

354 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:33:09.19 .net
>>350
>>352
⇩南水行十日陸行一月の真相
https://pbs.twimg.com/media/GMNebCPaAAAPEAS?format=jpg

355 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:36:22.62 .net
邪馬台国那覇説爆誕

356 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:39:10.63 .net
>>350
帯方郡から狗邪韓国まで7000里
狗邪韓国から対馬まで1000里
対馬から一大国まで1000里
一大個から末盧国まで1000里
末盧国から伊都国まで500里
伊都国から奴国まで100里
奴国から不弥国まで100里
不弥国から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬台国まで水行10日陸行1ヶ月

いきなり距離の単位が変わるのはおかしい。
帯方郡から邪馬台国まで12000里と書いて
10700里まで書いてあるのに
最後の1300里だけを水行陸行で書くのはあり得ない

多分原本には不弥国から投馬国まで何里
投馬国から邪馬台国まで何里と
ちゃんと書いてあったと思う

357 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:39:59.78 .net
>>355
>>346
⇩真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と誤認(夷州=沖縄那覇あたり)を同時に書いた「玉石混交」の魏志倭人伝の真相
https://pbs.twimg.com/media/GMNyVUQa0AATeOD?format=jpg

358 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:43:53.02 .net
>>357
もとい、
真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「玉石混交」文の魏志倭人伝の真相

359 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:45:00.61 .net
つまり九州説はウソ

360 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:46:24.50 .net
>>359
>>332

361 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 10:58:51.60 .net
九州説の勝手な屁理屈妄想

362 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:02:33.66 .net
>>361
>>131
ヒント:今城塚古墳に眠る大王のピンクの石

363 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:32:22.25 .net
>>357
>真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「玉石混交」文=魏志倭人伝

だから里数と日数で継ぎ接ぎだらけとかイチャモン付けられて、畿内説というトンデモ電波が生まれたわけかw

364 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:32:54.82 .net
>>273
魏志と後漢書が指すものは違うものかもしれんね
狗奴国も違うようだし

365 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:40:14.13 .net
>>364
まさにそれ!
魏志だと狗奴国は南↓、後漢書だと狗奴国が(女王国東渡海千里複有国皆倭種と同じ)東→になってしまってるでしょ?
後漢書が書かれた5世紀には筑紫→大和に倭王権が移ってしまってて、発音は同じヤマトYAMATOだから范曄は筑紫邪馬台国も大和にあったと勘違いしてそう書いてしまったってわけ。 
それで畿内説なんてトンデモ電波が生まれたってわけ

366 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/28(日) 11:54:57.13 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

367 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:57:37.62 .net
分かりにくい魏志倭人伝
キチガイが編集した後漢書
そして作為だらけの記紀
別のなんかが出てこないかな

368 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 11:59:12.62 .net
>>367
さすが畿内説

369 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:06:33.87 .net
>>367
>キチガイが編集した後漢書

「キチガイ」は言い過ぎ
「チョロカスいいかげんな無責任男(死刑)」が正解

370 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:07:00.49 .net
>>357
魏志倭人伝=事実(帯方郡から12000里=吉野ヶ里)と魏の誤認(会稽東冶の東)を両方同時に書く玉石混交文章→蛇足「南水行十日陸行一月」を(南→東)と読み替えて畿内説爆誕!w
>>113
後漢書東夷伝=筑紫邪馬台国→ヤマト王権初代大王「複立男王(前倭王台与と)並受中国爵命」(箸墓の被葬者)と混同(狗奴国を女王国の東と勘違い)→畿内説喧伝!w

371 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:08:04.74 .net
もとい、
>>131
後漢書東夷伝=筑紫邪馬台国→ヤマト王権初代大王「複立男王(前倭王台与と)並受中国爵命」(箸墓の被葬者)と混同(狗奴国を女王国の東と勘い)→畿内説図に乗るw

372 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/28(日) 12:10:19.04 .net
魏志倭人伝では倭人には距離を測る技術がない旨を書いているからな
そんなバーバリアンである倭人の国での距離や方角の情報なんぞ信用にたらぬ

373 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:10:26.53 .net
邪馬台国は九州以外ですね

374 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:13:12.65 .net
>>372
ほう、魏使も倭地に来るとバーバリアンになるのか

375 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/28(日) 12:16:20.58 .net
ネトウヨの酷いのになると隋に使いを送った倭王すら九州であるなどという
理由は阿蘇山に関する言及があるからとの事だ

明の永楽帝が阿蘇山に中国風の名前をつけた石碑を足利義満に送った故事があることで分かるように、何故か昔から中国人の間では阿蘇山が有名な山になっていたんだよな

ネトウヨは教養がないから隋書で阿蘇山に触れてるのも九州を訪れた中国人が阿蘇山の話を本国に持ち帰って有名になってたからだろうという発想が浮かばないんだろう

376 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:18:08.98 .net
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち巫女であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように曹魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵

377 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:32:01.39 .net
>>372

「不知里數,但計以日」

だから、日数が距離単位

378 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/28(日) 12:33:46.08 .net
日本書紀で大王家の先祖が神話めいているのは二十四史の一つである北魏書の影響だろうな
拓跋部の始祖の話やら何やらが神話から始まっている
これについてはローマ帝国の歴史すらロムルスとレムスから始まるから非科学的などという文句は言わない
貴重な上代の神話を書き留めて後世に伝えた事は賞賛に値する

ただ現代に残るものは政治的な取捨選択がされているから、そこは割り引いて考えねばならない
神功記に魏志倭人伝の文が引かれているのは卑弥呼が大王家の人間だという伝承があった証拠だろう

379 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:39:18.61 .net
九州説は、奴国よりデカい国をまずは見つけてきてくれ

380 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:49:52.62 .net
里数を計算しても答えは無い。答えがないのに計算しても無駄。
戸数を電卓を使って計算した方が良い 。
1戸、2戸、と数えていないだろう、どうやって戸数を数えたか?

381 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:50:06.53 .net
>>357
うゎ、すげー!

382 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:50:13.57 .net
>>364
本気でそんな事思ってます?

383 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:51:58.84 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

384 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:53:19.53 .net
戸数は出土物から相対的に分かる
伊都国、奴国を超える出土物は九州にはない
よって、九州説不成立

385 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:56:10.02 .net
>>384
魏志倭人伝の戸数はどうやって決めたと考えますか?

386 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 12:57:47.59 .net
後漢書   自女王國東度海千餘里至拘奴國
魏志    女王国東渡海千餘里復有國皆倭種 
魏略    倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種

387 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:01:54.60 .net
>>382
あり得るだろうね
そもそも字も違うしな

388 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:02:36.56 .net
4世紀以降の古墳しか出てこない宮崎に5万戸の投馬国

389 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:03:13.56 .net
>>387
>>386

390 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:06:36.59 .net
>>389
だから何?

391 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:07:02.16 .net
>>388
247年に戦争してるのに朝貢している魏帝陵(地下墓)より目立つ巨大古墳箸墓築造(吉備特殊器台=殉葬なし)を手伝ってる東海狗奴国w

其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

392 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:07:49.49 .net
>>390
どれが正解なんだ?

393 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:10:28.55 .net
>>392
お前とは遊ばない

394 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:12:02.58 .net
>>393
真実が知りたいから俺は拘る

395 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:14:06.10 .net
つまり畿内説はウソ

396 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:15:45.54 .net
>>385
韓、高句麗、夫餘、大月氏などとの相対的な関係

397 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:19:11.22 .net
見えてる島までの距離が千里は無い
ましてや関門海峡なんて目と鼻の先
言っとくが短里なんてないからな
辻褄合わせの為に出鱈目だらけになってるな

398 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:23:05.47 .net
>>391
纒向の建設は早ければ180年頃である
全く問題がない

399 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:33:00.69 .net
まだ戸数は正確だとか日数は正確だとか根拠のない決めつけやってるのか
科学的な思考能力ゼロすぎる

400 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:36:46.58 .net
>>398
卑弥呼共立よりも前にできた集落だったか

401 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:37:59.25 .net
>>399
出鱈目だろうが何を間違ってそうなったのか考えなきゃ

402 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:39:22.71 .net
>>399
史書としての内部矛盾や現実との乖離が明確でない記載は
事実として捉えておくって
文系解釈の基本でしょ

403 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:39:38.31 .net
相対的には合ってるとか短里説みたいなこと言い出したぞ

404 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:41:16.08 .net
短里説は実際の距離という確かな数字があるから相対的にどうかという検討が可能だが
日数とか戸数とか当時の確かな数字がわからないので確かめようすらない

405 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 13:45:57.70 .net
短里なんて無いものを有ると言い張るより陳寿が書き間違えたと言ってる方がまだましだよ

406 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:03:02.46 .net
>>404
>短里説は実際の距離という確かな数字があるから

ありませんけど
誰も具体的に計測しないのが「ない」って証拠

407 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:03:53.09 .net
いかにアホの陳寿といえど南と東を書き間違えるのは難しい

408 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:06:45.10 .net
>>406
頭悪いだろ
帯方郡(ソウル)から狗邪韓国(釜山)までの実際の距離は存在するぞ

409 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:08:39.59 .net
つまり九州説はウソ

410 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:17:12.78 .net
>>407
陳寿が間違えたのではなく、写本の作者が間違えたもの
最古の写本は紹興年間(1131年-1162年)のもので木版本
>ただ、中国国内でも三国志の善本は少なく、張元済が調べたところでは流布本は著しく誤りが多かったり、魏書だけで呉書・蜀書を欠いているものが多かった。[2]そもそも三国志の版本そのものが数が少なく、三国志演義の著者羅貫中や三国時代の講談を語っていた講釈師たちも資治通鑑のダイジェスト版はよく見ているが、正史三国志六十五巻全てを揃えた版本はどこまで見ていたか疑わしいとされる。
少なくともこのくらいは三国志を語るなら常識にしよう

411 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:18:22.77 .net
畿内説っても纏向遺跡が出たから、そこが邪馬台国だって一致してるけど、その他は論者によって千差万別。
投馬国は吉備なのか出雲なのか、それとも他の地域か?
狗奴国は熊本やら東海やら熊野やらで意見が一致しない。
ルートも日本海か瀬戸内海か一致しない。
水行から陸行に切り替える地点も何処なのか示せない。タニハ?カワチ?

412 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:21:18.61 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

413 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:27:18.06 .net
>>410
女王国東渡海千余里復有国皆倭種と
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王を
混ぜてしまった後漢書以外に狗奴国が東と書いてるものあるっけ?
魏略逸文も南に狗奴国と書いてあるが

414 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/28(日) 14:29:34.56 .net
纏向遺跡の出現と畿内から銅鐸が消えるのがほぼ同時期だからな
西暦170〜180年頃に九州吉備の銅鏡文化人の勢力が畿内の銅鐸文化人を征服し、三輪山の麓の纏向を都とする邪馬臺國=ヤマト王権が誕生した

415 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:30:37.28 .net
>>411
合理的な邪馬台国へのルート
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/9/8/2048m/img_986f9decec5a13cd247122dc0003f50e227179.jpg

416 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:32:56.74 .net
つまり九州説はウソ

417 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:39:47.11 .net
>>413
後漢書   自女王國東度海千餘里至拘奴國
魏志    女王国東渡海千餘里復有國皆倭種 
魏略    倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
これはどれが正しいと思う?

418 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:46:11.86 .net
魏志と魏略は女王国の西にある伊都国を北と書いていたりと実際の方角とは反時計回りに90度ずれてる
女王国の東にある狗奴国を南と書いてるのもそれが原因
後漢書の時代にはズレが修正されて本来の方角である東になった

419 : :2024/04/28(日) 14:54:53.23 .net
まあ卑弥呼以死前は九州の話
それ以後・臺與時代は畿内(西日本)の話
で、ほぼ答え出た感あるよねw

ゆえに、卑弥呼は北部九州の話
邪馬台国は畿内の話

狗奴国は、天津に相対する国津のクニ全般を指すので
南でも東でも方角は関係ないという結論に、俺は

420 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:55:19.09 .net
>>418
>>417
魏略は何処から何処までとは書いてないが帯方郡の東南方向大海の中にある倭までの距離が渡海千里と書いてある
他の二つは関門海峡だろうがこの渡海千里は無いだろう

421 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:55:45.48 .net
>>417
魏志と魏略は同じ情報だな
女王国=倭国(倭)という違いだけ
そして魏略は魏志と同じように南に狗奴国とも書いている

後漢書の場合は東渡海の文書に
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
という別の情報を混ぜ込んでしまっているね

明らかに後漢書がやらかしてる

422 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:57:49.14 .net
>>421
>>420

423 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 14:59:31.72 .net
畿内説は読解力が皆無なので書いてあることが読み取れない

424 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:04:22.88 .net
確かに北を西に、南を東に訂正すれば
考古整合の倭人伝になっちまう
どうするトルハルバン

425 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:05:53.68 .net
神功皇后も新羅を西だと思っていた
九州説ピンチ

426 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:07:37.72 .net
>>114
>>136
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)英雄曹操の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、英雄曹操の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

427 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:12:04.61 .net
>>415
それが今、畿内説で有力な日本海ルートだが
投馬国が出雲に設定してあるが、
それだとなぜ魏の使者が、わざわざ九州内部をウロウロしてるのか謎

最初から対馬から出雲に行けばいいだろ
日本海は海流が、西から東に流れてるんだから
海流にのって出雲に入ればいい

最短距離で、魏の使者を畿内の邪馬台国に連れていくはずだろ

428 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:14:25.61 .net
1000戸で国扱い
末盧国や伊都国や奴国の距離感
これらを考えれば畿内なんて100%あり得ない

429 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:17:15.35 .net
>>351
>>352
↑畿内説が成立しない理由

430 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:35:19.06 .net
うん、きついw
まだ半島南岸投馬国(放射説)のほうが潔い
同じ筑後トルハルバン説でも

431 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:53:03.86 .net
奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸

これだけで九州説は消える

432 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:54:57.28 .net
糸島市で、イト国とシマ国。
現在の市で古代の二カ国となる計算よ。
倭国構成国は三十カ国。
つまり現在の市が十五集まったスケール感なわけよ。
馬も牛もない時代のスケール感に想いを馳せよう。

433 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:55:29.07 .net
纏向七万戸説はNG
畿内全域七万戸説も傍国が消滅するので同じくNG

434 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:55:34.39 .net
>>334
>>346
真実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と魏の誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「玉石混交」文=魏志倭人伝の真相⇩
https://pbs.twimg.com/media/GMNyVUQa0AATeOD?format=jpg

435 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:56:15.73 .net
魏略より伊都国の南に狗奴国があるとの事

よって、投馬国、邪馬台国が同じ九州にあるという事は無い

436 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:58:26.51 .net
九州を水行陸行一月だの、5万戸7万戸の大国だの、ガキでも間違いと分かる

437 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 15:59:44.12 .net
>>436
>>434

438 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:01:46.37 .net
戸数に拘る畿内説はブーメランが自分に刺さってることもわからない残念さ

439 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:06:48.63 .net
>>431
中国人は人数盛る
南京事件とかね

440 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:08:21.60 .net
>>404
韓方可4千里
すなわち、1辺4千里
北端から南端まで4千里
南端から東の端っこまで行かないので3千里
合計7千里

しかし、鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) まで千里220km
したがって、測っているのならば、韓方可2千里とすべきであり、矛盾している
方可4千里というのは九服之制による天下観念で、鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) まで千里220kmの方がむしろ実測に近い

441 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:08:29.70 .net
水行20日、水行10日陸行1月は
実際に邪馬台に土木指導に入っていた魏人もしくは
半島民の情報網がソースなのかもしれないな
帯方郡からのダイレクトルートがありながら
わざわざ北部九州のしかも半端に不彌国までの
情報を添えたのは体裁があくまで倭人伝であって
邪馬台国伝ではないからなんだろう

442 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:09:29.61 .net
>>441
>>434

443 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:10:12.38 .net
>>438
畿内説では奴国より大きい投馬国と邪馬台国を自然に比定できる

444 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:11:35.55 .net
>>443
>>351

445 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:13:03.98 .net
>>442
出発地を帯方郡にして地図を90度時計回りに回すと…
あれ〜那覇だと思ったら奈良県があるよ〜
おじさんどおして

446 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:15:11.47 .net
中1(台与13歳)地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

447 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:32:41.62 .net
>>446
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

448 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:40:44.04 .net
孝謙天皇のきたなまろではないが
頭に付いた狗は倭人の悪口ではないだろうか
ウヂヒコとかクチヒコとかコチヒコとかにはなら…ないな

449 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 16:57:41.77 .net
>>440
韓方可四千里
それは周囲と訳すべき
つまり、魏里(435m)だから、
4000里×435m=周囲1740キロ
グーグルマップでピッタリ合うわけだ

450 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:02:00.56 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

451 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:04:34.52 .net
>>449
当時の韓(馬韓、辰韓、弁韓)の範囲は、東西南北四千里四方 直線距離280km四方 
∴一里=70m   @阿波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93

452 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:07:02.29 .net
このスレに書いてあったかな
何か理由があり静岡県東部へ移転する集団には
北陸からの一団も帯同していたんだとか何とか
それで北陸に縁のある忍熊皇子の反乱には
武蔵国造系の五十狭茅宿禰が呼応したんだとかいうやつ

453 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:11:22.82 .net
>>443
根拠なし

454 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:18:13.31 .net
https://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/site_files/image/siryo/07-history/kouzui/images/ph2.jpg
水害が起こると全滅する筑紫平野邪馬台国

455 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 17:24:01.93 .net
狗奴国側は聖所の脇に外国人の不粋な建物を建てた
邪馬台側の開化政策に激怒し袂を分かった純粋日本人
なんつて

456 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 18:40:49.37 .net
まだ、そんなこと言ってるのか、天円地方で大地は方形なんだよ。帯方から狗や韓国まで7000里。口、一辺か4で4分3で7が狗や韓国なんだよ、算数が出来ないのが九州。

457 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 18:46:04.61 .net
>>454

日本三大暴れ川の筑後川(筑紫次郎)は
現在は広域で河川護岸工事なされているため流路が定まっている
それでもこの範囲が氾濫区域となっているため
久留米市には豪雨時の地下貯水施設を施設した
https://rkb.jp/contents/202402/202402280390/

こういった費用は地方交付金を受け取っていない東京都をはじめとした
大都市が生み出す莫大なGDPによって可能になっている

https://rkb.jp/contents/202402/202402280390/

洪水地帯は広域の国家が成立してはじめて人が人として暮らすことができる

458 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 18:48:37.78 .net
>>457の二段目のリンク訂正

都道府県別GDP

https://eleminist.com/article/2418

459 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:01:46.46 .net
>>449
韓4000里(300q)四方=1里75mだから
倭5000里(375q)。九州の南北は門司港から佐多岬まで直線距離で330qで誤差の範囲だよ!

460 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:05:02.22 .net
>>456
それは方であって、方可と書いてある
方可は包み込むという意味
周囲を中国語で方圆(ホウエン)という
全然問題ない

それから、帯方から狗邪韓国まで7000里は
日本語訳の間違いらしい。
7000里は帯方郡から狗邪韓国までの距離ではない
それなら「あるいは南へ、あるいは東へ進み」の後に書いてあるはず
つまり、7000里は最後に書いてあるのは、いままで旅してきた総距離

何で中途半端な韓国から邪馬台国への道程が始まっているのか
つまり、魏の首都洛陽から狗邪韓国までの総距離が約7000里
魏里で435m×7000里=約3000km
これもグーグルマップでピッタリ

461 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:17:43.30 .net
読解力ゼロのひとがたくさん居て頭痛い

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

462 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:22:50.82 .net
倭人伝を信じない者に邪馬台国を語る資格なし

463 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:45:14.59 .net
>>462
盲信する者にもナー

464 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:50:40.71 .net
>>334
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇あたり)にあり」とする魏の誤認(辻褄合わせの蛇足)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GMPxCjwb0AAzQSj?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)で、宿敵・孫権を牽制してくれようとしている可愛い東夷という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(魏の誤認)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国)去女王四千里
.........................↖投馬国(都萬・耳川)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖誤認

465 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:56:15.40 .net
おもろいねん

466 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 19:57:33.83 .net
>>464
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/a/0/2048m/img_a005bdf54c16db56155cc36328cc54d6196233.jpg
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は方位変えれば辻褄が合いますよ

467 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:00:16.21 .net
↓畿内説が成立しない理由
>>351
>>352

468 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:06:34.64 .net
日本国の公共放送でも通達された日本の学術研究成果の通説畿内説は
倭人伝で会稽東冶の東に推定している行程記事では比定しない

469 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:12:17.89 .net
>>464
@まず(魏使が足を運んで直接見た場所と考えられる「倭人不知里数但計以日」)里数表記「夷(倭)人不知里数但計以日」の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、人長三四尺(少彦名)去女王四千里(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

そして「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里(7.5q)で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

470 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:14:18.13 .net
>>468
>>434

471 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:17:51.54 .net
>>469
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

472 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:20:49.49 .net
>>468
魏志倭人伝=筑紫平野・吉野ヶ里遺跡(真実)+「会稽東冶之東」(魏の誤認)

473 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 20:23:49.33 .net
九州の平原巫女らしき者は否定しないが太陽信仰とも言える朝鮮朴神信仰の巫女
畿内の纏向の巫女は初期道教の巫女。中華の記す鬼道の巫女は箸墓に眠る巫女なんですな。
八角は理念が八紘一宇の韓神信仰の政権。不比等一族は慶州南山の族。
が八世紀以降を否定しないが今日の祭りでは頭不動でも6は買えんわ。

474 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:28:54.27 .net
>>464
つまり魏使は九州島を出ていない(本州と四国は見た)ということだね!

475 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:30:26.10 .net
>>472
魏志倭人伝=奈良盆地・纏向遺跡(真実)+「会稽東冶之東」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg

476 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:32:16.07 .net
>>475
>>446

477 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:35:46.04 .net
>>114
祇園山…石棺無槨「有棺無郭」w
ホケノ山…木棺木槨石槨「有棺二重槨」w

明らかに別の王権だろw
>>426

478 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:36:31.16 .net
>>476って荒らし?

479 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:37:36.83 .net
>>478
コピペ自演荒らし

480 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:39:55.68 .net
>>477 
祇園山には「棺」は無し
ホケノ山には「槨」は無しの「有棺無槨」です

481 : :2024/04/28(日) 20:40:05.03 .net
袂を分かったのは
九州倭国と本州日ノ本

伊 伊都から
支 枝分かれた
馬 太陽を運ぶ御者(馭者)

邪馬台国の官トップから読み取れますw

邪馬台国は、本家の九州から分家した国だと

しかも、北部九州と畿内は
考古学的関連性のその薄さから袂を分かった不仲な関係
とも読み取れます

のちの
九州倭国の 天の兄
本州日ノ本の日の弟
倭王は2人で1人に繋がることに

482 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:40:38.49 .net
建て荒らし、ついに鉄槌が下ったようだなw

483 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:42:16.90 .net
まだ下ってなかったわ汗

484 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:42:34.30 .net
>>480
祇園山は石棺、ホケノ山古墳は木棺 
頼むから、↑この違いに着眼してくれ!明らかに別の王権だろ

485 : :2024/04/28(日) 20:42:48.07 .net
すでに明確に考察済み
浮かび上がる九州倭国と本州日之本の実態

倭王は2人で1人のプリキュア!


125 日本@名無史さん sage 2023/06/25(日) 20:10:56.12
九州倭国、本州日之本

もう答え出ましたよ

>俀王以天為兄以日為弟

倭王は
九州倭国の天を兄に
本州日之本の日を弟に
している

天の兄は国体(祭祀)を
日の弟は政体(政治)を
すなわち、夜は神が作り、昼は人が作る所以

これで道理も義理もはなはだ有りw

486 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 20:43:18.00 .net
いい加減、アク禁にしろよバカ運営

487 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:00:08.50 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に【木】棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する【甕】棺墓や【石】棺墓)の象徴ではありません。
畿内説の皆さんは、槨の定義より、棺の材質【木】か【石】かに着目してくださいね。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+(【斜縁】に銅鐸紐の鋸歯紋▲▲▲を入れた)【三角縁】神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

488 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 21:19:26.35 .net
無駄だな。
隋書。都邪馬堆、魏志いうところの邪馬台者。
地勢東高西下、畿内
後宮6.7百人の女、巫女を一番信じるからこの後宮が卑弥呼の臺(道観)の後。
官位、徳仁義礼智信。
儒教五常の上に徳。道教。
その後あいまいな倭の別種の建国説明と墓制が変わる

489 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:47:40.22 .net
>>485
当時日之本なんて無いから

490 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:50:02.38 .net
魏略の渡海千里復有国皆倭種は魏里で合ってるんでしょう

491 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:52:09.76 .net
>>488
其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下
なんでこれが畿内だと思うんだよ?

492 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:54:29.17 .net
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが互いに自己矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち倭大物主の妻(巫女)であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵

493 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:56:48.22 .net
>>492
その時代に天皇なんか居ないしあほらしいからもういいって

494 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 21:59:47.17 .net
>>492
ニギハヤヒ&神武東征の実年代は、266年以降、280年頃か…
ちょうど陳寿が三国志・魏志倭人伝を編集していた時期だね

>>493
崇神の没年は318年説があるよ

495 :琪瑛教大祭酒:2024/04/28(日) 22:00:58.39 .net
馬鹿馬鹿しい。裴清は何処行ったのかね
鬼道の巫女の都として地勢東高西下奈良盆地と思えないかね、相応しくないかな。

496 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:03:09.38 .net
>>495
>>332

497 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:04:51.30 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

498 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:08:03.31 .net
九州説には、平原というくびきがかかっている
倭国が中華帝国とかなりの頻度でやり取りをしたのは、魏の時代をおいて他にない。
しかしながら、その時代の倭国での副葬品の豪華さは明確に畿内邪馬台国連合の場所である。

◯景初3年→卑弥呼(親魏倭王に任命。金印紫綬をもらう)
・難升米(率善中朗将に任命。銀印青綬をもらう)
・都市牛利(率善校尉に任命。銀印青綬をもらう)
◯正始4年→大夫伊聲耆・掖邪拘ら8人(皆、等しく率善中郎将に任命。印綬をもらう)
◯正始6年→難升米(黄幢を授かる)
◯正始8年→倭載斯烏越らを魏に派遣
◯正始8年→倭大夫かつ率善中朗将・掖邪拘ら20人が張政の帰国に随伴

他に倭国がもらった物
◯景初3年→ 絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、【銅鏡百枚】、真珠、鉛丹各五十斤
◯正始元年→ 詔書、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物

499 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:26:58.01 .net
NHKは邪馬台国卑弥呼はヤマト政権の祖と報道したが、倭国大乱前の枠組みの方がヤマト政権に繋がるのではないか?
NHKは全国民への影響力が強い
NHKの主張は正しいのか検証しないといけない
女王国は文身の風習のある海人の方しか向いていない国と思うんだが
そんな排他的な国がヤマト政権に繋がるんだろうか?

500 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:36:14.05 .net
分かっていることは台与の在位中と思われる年代
卑弥呼の崩御まもなく纏向は解体されているということ
句読点が溝の年代の話をずっとしていたけど
最初に建てた大型建物がものの20,30年で廃絶しているので
そのことの方に驚いた
記紀に記録がないから瑞垣宮や珠代宮に移ったとも言えないし

501 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:38:57.70 .net
>>500
古墳造営キャンプと言われるのも頷ける

502 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:54:10.49 .net
>>501
大量の特殊器台(殉葬の代用品=殉葬なし)や葺石を搬入する必要があるから大溝(運河)を掘ったのだよ

503 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 22:57:31.84 .net
>>499
めんどくせえし要らないって
あんな番組信じてねえし

504 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:11:32.52 .net
>>495
旧唐書   在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行
      ・・・四面小島五十餘国皆附属為

505 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:19:01.16 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通った筑紫(↑則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMLCP1QaAAA5C8N?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆

506 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:28:53.04 .net
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝からの安東大将軍号が得られたため半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が便利だねwという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケに継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆に西遷しちゃったんだよ。
その名残が、継体が百済武寧王を属国にしたことから南北朝の隙を突いて(中華皇帝の冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(琵琶湖でなく有明海)、そして607年隋の煬帝に日出処天子を名乗った阿毎多利思比孤(天垂彦)。そして大和にいた分家(留守番)の欽明のひ孫・厩戸王子。その後天智の代で阿蘇山が大噴火して都・阿蘇邪靡堆が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を東遷して近江大津宮へ疎開。そして分家の天武と合流して、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差す継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処の天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中国王朝とは大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)ということ。

507 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:37:30.44 .net
眠くていろいろ脱字しますたw

継体が武寧王の百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて創始してしまった(中華皇帝=宇宙の支配者の冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号

中国王朝とはほとんど無関係の大和分家(留守番)

508 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:37:59.04 .net
記紀でもヤマト政権発祥の地は橿原
和泉の伝承でも重要な話の中心は堅い木でできたお地蔵さん
石見神楽の五神で采配を振るったのはかしこねの命
雄略天皇の歌に三輪山の神聖な樫の歌がある
ヤマト政権誕生にはカシが重要な役割を担っているのでは?
出雲を代表する弥生時代の遺跡である西川津遺跡から弥生時代前期樫でできた鳥形
西川津遺跡の樫でできた鳥形と同じ形の鳥形が、弥生時代中期の青谷上寺地遺跡、池上曽根遺跡、亀井遺跡、弥生時代後期の雁屋遺跡から見つかっている

和泉の伝承では楠のもとに堅い木でできたお地蔵さんがやってきたが、悪い奴らに連れ去られ海に捨てられた話がある
弟橘姫のエピソードと同じ

カシの姫は弟橘姫なんじゃないか
石切神社の上之宮に祀られていて、堺の大鳥井瀬大神も弟橘姫という
畿内ではかなり重要な神になっている

509 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:39:06.92 .net
記紀では卑弥呼を神功皇后にすり替えた

510 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:49:46.46 .net
>>492
箸墓の被葬者が筑紫邪馬台国女王台与だとすると、倭王位を禅譲したヤマト(吉備)王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」を養子にしたことで(養母として)箸墓を築いてもらえたんジャマイカ?
魏が消滅したことで、英雄曹操が後漢皇帝の厚葬を反面教師に出していた薄葬令も効力を失ったわけで、箸墓が突然巨大化した理由も説明できる

511 :日本@名無史さん:2024/04/28(日) 23:58:17.09 .net
つまり古墳時代の幕開け箸墓の築造は、266年に魏が晋に禅譲して三国志の英雄曹操の薄葬令という頸木がなくなったおかげってわけか

512 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:08:57.52 .net
ヤマト政権は遅くとも帥升の時代には始まっているだろう
摂津国風土記逸文にはトヨウケは摂津の稲倉山に常に住んでいたがその後元いた丹後に戻った話がある
台与は纏向遺跡にはいなかったのかも

難波の高津にアメノワカヒコが天磐船に乗って降臨した話

大小橋山(おほをばせのやま)。松や杉は材木として使うことができる。また、苓(みみなぐさ)や細辛(さいしん)並びに奇石や金玉なども出る(云々)。
その謂れは、味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)がこの山に天降ったため、味耜山(あぢすきのやま)と呼ばれるようになった。

小橋の地名が残る真田山辺りかもね

卑弥弓呼は摂津国風土記逸文のアメノワカヒコ
卑弥呼の次の男王はアジスキタカヒコネ
と個人的には考えている

摂津国風土記逸文は興味深く、神功皇后は武庫川の地で兵を収めた話もある
美奴賣(ミヌメ)と称される神は、元は能勢郡の美奴賣山(みぬめのやま)にいた。神功皇后の新羅征伐の為にミヌメ山の杉で作った船は牛のように吠えたとある
→神功皇后は牛は本当は良好な関係

513 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:11:54.55 .net
帥升の時代というと1世紀後半から2世紀前半だぞw
その時代に後漢鏡が一番出てるのは伊都国なので却下w

514 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:12:56.92 .net
摂津のミヌメ神社は江戸時代迄牛頭天皇を祀っていた

515 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:19:53.07 .net
近畿には伊勢遺跡があり、弥生時代後期の博多には方形周溝墓が出現し東は東京富山から西は九州一円まで一斉に龍の絵画土器が広がる
龍の絵画土器は橿原からも見つかっていて、特に東京、大阪兵庫香川岡山広島愛媛の瀬戸内海沿岸や壱岐、五島列島に集中している
関東から九州一円まで影響力のある勢力が誕生したということだな

遠賀川や佐賀からは瀬戸内海沿岸部と同じ石棺墓、佐賀からは近畿などと同じ木棺墓が出現する
身分が高い人の墓だな

516 : :2024/04/29(月) 00:41:33.53 .net
もう俺の中では
崇神天皇 = ニニギ(彌馬=みま=御孫)
垂仁天皇 = 山幸彦ことイワレヒコであり神武天皇
って、考察結果になりつつある

通説では、崇神天皇=神武天皇と言われてるがねw

同時に、崇神のオオモノヌシのエピソードは
九州時代の話ではないか? と考察中
まあこの辺は伊都国の官と
漢鏡の変移から紐解きしたが、話が長くなるので割愛

323 日本@名無史さん sage 2023/06/18(日) 12:03:54.51
興味深い案件にぶつかったw

・崇神 五十瓊殖(印恵)  いにえ(贄=供え物)
・垂仁 五十狭茅(伊佐知) いさち(幸=獲た物)
・景行 忍代別(淤斯呂和氣) おしろわけ

つまり、、、
・「瓊」瓊杵が天孫降臨で「殖」民
・ 山「幸=佐知」彦
・「忍」穂耳の「代」の「別」系譜

じつは崇神天皇がニニギだった?(印恵だから、金印を恵んだ?w)
そして景行天皇で別の代(分家の系譜)にバトンタッチ?
ニニギ(杵)とオウス(臼)は、ほぼ同時代だった?w
いろいろと情報ぶちこんでて興味深いねw

517 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 00:55:01.16 .net
>>500

皇大神宮の式年遷宮は20年だからな

518 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 02:14:27.66 .net
>>511
>266年に魏が晋に禅譲して三国志の英雄曹操の薄葬令という頸木がなくなった

そんなの薄葬令とか存在しませんが
九州説は妄想で出来ている

519 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 03:31:24.99 .net
レベルの低いスレ
毎日ただ同じことを書いていてつまらない

520 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:15:01.29 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
やっぱ阿毎多利思がアマテラスだわ
神武が7世紀に天皇と呼ばせたと書いてるだろうが

521 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:37:22.61 .net
九州で決まりだよ

畿内説はヤマト王権頼みのだけだろ

そのヤマト王権とて、多くの学者や記紀が認めてるように九州の勢力が築いたものだろ

2世紀以前に東征がない限り九州で決まりだろうし

また、行程(方位、距離など)を除いても纏向にみられるように倭人伝記述と一致する遺物が数多く見つかっていない。

無理だよ  畿内説

名誉や公金に群がる畿内説の学者たちの互助会には困ったものだ

522 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:40:23.73 .net
九州からは何も出てこない
そこに邪馬台国を求めるのら不可能

523 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:49:58.67 .net
何も出てこない北部九州ならびに南部九州を邪馬台国ということは絶対的に不可能である
そして。東大=九州説と言われた東大でさえ、論文を出し始めたのは、三角縁神獣鏡が要因である

三角縁神獣鏡を崩壊させないと畿内説は全く揺らぐことがない

524 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 05:59:10.52 .net
中国から出土しない鏡を中国産というのは無理です
また卑弥呼が鏡を配ったというのは根拠がまったくない妄想に過ぎません

525 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:00:29.75 .net
>>494
崇神が初代天皇説もあるよ

526 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:01:29.90 .net
いまだに三角縁神獣鏡頼みかいな???
畿内説の学者の多くも国内産だと認めてるよ。
権力の象徴としての三角縁神獣鏡と捉えればいいと思うよ。
その権力がいつの時代で、邪馬台国と関係あるかが問題なのでしょうね。

九州説が有利な事実として、九州は倭国を成している土地であるという事実。
これは反論の余地がない。投馬国、邪馬台国の位置論争は推理の域を出ないけど、魏の使いは九州を倭国と認知しているのは確かである。
畿内説の場合四国、中国地方を投馬国と充てざるを得ないだろ、、、そんな巨大な国が???????

527 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:02:58.10 .net
>>524
漢鏡5機で死んでしまった九州は非常に残念です

528 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:04:51.08 .net
>>527
反論できなかった三角縁神獣鏡根拠説は死にました

529 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:07:44.22 .net
漢鏡7期ですでに死んでしまった九州は倭国乱にあったと見るべきでしょう
北部九州よ畿内の方が主導権を握ったのそれ以外には考えれない

530 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:08:48.34 .net
>>528
学会に参加してみて下さい
畿内説は三角縁神獣鏡でできていると思っても過言ではない

531 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:13:16.63 .net
阿波の萩原1号の存在は非常に大きい
すでに、四国でさえも纒向王権に入っていたと見るべきである

平壌市大同との同笵鏡である萩原1号の画文帯神獣鏡の勉強をいまは頑張っています。

532 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:16:18.20 .net
中国から出てこない鏡を中国産と言い張る考古学ってのもすごいもんだな

533 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:32:46.98 .net
>>531
>すでに、四国でさえも纒向王権に入っていたと見るべきである

異常気象で廃絶し、碌に人が住んだ形跡もなく、鉄器さえも作れないくそ田舎の畿内・奈良盆地に
ここが政治都市だったとか、ここに東征しただとか、臍が茶を沸かすようなことを恥もせず言い続けるのが、定説畿内説。   @阿波

534 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:43:57.68 .net
>>530
三角だけで畿内説が????
三角なら近江説でも、吉備説でもいいじゃん
また、銅鏡は倭人伝記述のとおり、
「特に汝に・・銅鏡百枚、、、、、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。」
この国中は倭国を指しており、もし三角が銅鏡とした場合その出土分布は倭人伝との整合性がみられない。
つまり、三角が出土した地域が倭国のどの国々に該当するのかの検証ができない。

まあ国産だからどうでもいいけど、、、

535 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:46:12.34 .net
三角考察
倭人伝
「「特に汝に・・銅鏡百枚、、、、、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。」


無い年号のものを国中に示したら、権威が失墜するであろうな ワハハ

536 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 06:48:00.08 .net
>>521
おしゃる通り

>九州で決まりだよ
畿内説はヤマト王権頼みのだけだろ
そのヤマト王権とて、多くの学者や記紀が認めてるように九州の勢力が築いたものだろ
2世紀以前に東征がない限り九州で決まりだろう

537 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:05:56.86 .net
九州説はに問題で、
漢鏡6期で鏡の配分がなくなる
あれほど、中国鏡が大すぎでだった北部九州に漢鏡6から鏡が消えるのである。
すなわち、九州は邪馬台国でない

538 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:07:06.02 .net
>>536
九州のとこが邪馬台国ですか?

539 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:07:49.28 .net
>>537
東遷した証拠だろ

540 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:10:31.41 .net
>>539年代間が全く違うので、東遷るのものがあったといさたら、卑弥呼よりかなり前である(久住

541 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:10:50.97 .net
@ 東遷した
A 族滅させられた
B お宝取り上げられた

542 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:13:07.45 .net
>>539
さ 三角縁神獣鏡の膨大な結果から分かることは、東遷なる証拠とは全くあいいれない

543 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:14:54.63 .net
九州からま墓が出てこれば良かった

544 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:19:38.62 .net
>>505
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ。
その名残が、継体が武寧王(傀儡)を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(琵琶湖でなく有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。
その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して首都・阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように疎開して近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条) が象徴的。

545 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:21:44.24 .net
興味深いのは日本書紀にも風土記にも九州勢が天皇に三種の神器を差し出して降伏する描写があること

546 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:24:09.71 .net
大和ではなく摂津河内にある今城塚古墳に眠る大王のピンクの石は、なぜ瀬戸内海を遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

547 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:30:46.80 .net
「日出処天子」阿毎多利思比孤はその統治を兄弟に喩えているが、それが九州倭国(執政王〜半島に派兵してた軍事王)と大和日本(祭祀王〜古墳を造っていた留守番)だったのかもしれない。
「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」
姓は阿毎(天)、字は多利思北孤(垂らし彦)、称号は阿輩雞彌(大王)。

「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利

妻は雞彌、後宮に600人〜700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。

548 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 07:41:21.33 .net
以上、倭王権の変遷をまとめてみますた!

57年漢委奴国王(奴国博多)107年帥升(伊都国)239年卑弥呼・247年台与(筑紫吉野ヶ里)
266年(魏→晋禅譲に倣い)ヤマト吉備王権へ禅譲(大和&河内)
527年筑紫君岩井の乱で継体が西遷(阿蘇)607年「日出処天子」阿毎多利思比孤
阿蘇山大噴火で天智が北遷&663年白村江完敗で東遷(太宰府→近江大津)
672年壬申の乱で天武持統朝(飛鳥→藤原京)へ

549 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:00:07.62 .net
九州はいきなり、漢鏡7期画文帯神獣鏡が全く出てこなくなるのです
画文帯神獣鏡は魏政府と関わってしかもらえない鏡
九州説は消えます

550 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:01:26.19 .net
つまり三種の神器と共に東遷した証拠だね

551 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:01:52.29 .net
九州勢が畿内に降伏する際にお宝献上してるので
ある時突然に九州からお宝が消えます

552 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:02:41.17 .net
つまり九州勢力が三種の神器と共に東遷した証拠だ

553 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:04:51.09 .net
>>552
それはあなたの意見なので証拠ではありません

554 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:08:45.18 .net
>>552
東遷もしくは禅譲(台与と複立男王が養子縁組)かも
>>505

555 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:23:51.10 .net
>>531
>すでに、四国でさえも纒向王権に入っていたと見るべきである

異常気象で廃絶し、碌に人が住んだ形跡もなく、鉄器さえも作れないくそ田舎の畿内・奈良盆地に
ここが政治都市だったとか、ここに東征しただとか、臍が茶を沸かすようなことを恥もせず言い続けるのが、定説畿内説。   @阿波

556 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:24:40.44 .net
卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲だとすれば北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな

富雄丸山古墳(4世紀後半)の造り出しから蛇行剣(5世紀)が出土し、50回忌前後での制作・追葬と見られることから、
>>114
祇園山(3世紀中頃)でも、三角縁神獣鏡、箸墓(布留0式)より新しい布留1式土器や須恵器が出ており、5世紀以降も追葬供物献上儀式が行われていたことが判り、よほど人々の記憶に残る重要人物だったことが窺えるw

557 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:24:50.47 .net
>>548
倭奴国だと書いてあんだろうが

558 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:26:36.07 .net
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね

559 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:26:57.08 .net
志賀島は奴国領域だよw

560 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:30:40.57 .net
>>559
それとは別の話しで倭国の古の倭奴国で極南界の倭奴国

561 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:32:19.89 .net
倭奴国だと書いてるのに倭の奴国って頭おかしいのか?

562 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:35:00.86 .net
>>556
>卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲とすれば北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな

紀年鏡や画紋帯神獣鏡は特に大切に持っていくだろうからねw

563 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:35:54.05 .net
>>561
志賀島が伊都国って言い張ってるほうが頭おかしいだろw

564 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:36:44.71 .net
>>537
鏡の編年区分で捏造するのが畿内説

180新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:10.72ID:D6BEFyx20⋮
>>150
詳しいことはこちら
畿内説は位至三公鏡の年代を中国側の記録より100年くらい前倒ししている

http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。

> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7-1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半~三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265~316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。

565 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:37:38.70 .net
181新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:42.29ID:D6BEFyx20⋮
>>180続き

> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265~316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。

566 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:38:11.45 .net
筑紫邪馬台国女王卑弥呼が魏の明帝曹叡から貰った「銅鏡百枚」は全部同じでゎなく、たとえば⇩このようなランク付けがあったのでゎないだろうか?
中身は同じ神獣鏡だけど、額縁の工芸水準で差別化w
「景初三年」画紋帯神獣鏡…親藩王20枚
「景初三年」三角縁神獣鏡…譜代王30枚
「景初三年」斜縁神獣鏡…外様王50枚

567 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:38:21.63 .net
>>563
なんの話をしてるんだよ?
そんな事とは関係なく倭奴国と書いてあるでしょ?

568 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:39:44.03 .net
>>567
まずは志賀島を伊都国に移動させてから言えw

569 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:42:33.71 .net
>>568
何言ってんの?おまえ、頭おかしいのか?
金印貰ったのは倭の極南界の倭奴国だと書いてあるだろうが

570 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/29(月) 08:43:27.03 .net
ネトウヨの結論ありきの詭弁はどうしようもないな
アイヌは先住民ではないと言ったり在日韓人のデマを流してる連中と瓜二つに見えるのは気のせいかな?

571 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:44:26.23 .net
>>569
まずは志賀島を糸島市に移動させてくれw 話はそれからだ!

572 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:45:02.00 .net
つまり畿内説はウリナラ(私たちの国=奈良)韓国起源

573 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:45:36.04 .net
>>571
何を言ってんのか全くわからない

574 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:51:31.04 .net
真贋がはっきりしない志賀島の金印なんかどうでも良いわ

575 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 08:54:00.30 .net
>>556
>卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲したとすれば、北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな

>>562

>紀年鏡や画紋帯神獣鏡は特に大切に持っていくだろうからねw

当時最先端の首都圏・筑紫邪馬台国が東遷もしくは禅譲して、ヤマト王権初代大王(複立男王並受中国爵命)と養子縁組したのに倣って、邪馬台国連合30ヶ国の王たちも本州に大移動し、それが紀年鏡や画紋帯神獣鏡の本州での出土量に表れているわけだが、ここで筑紫と大和の中間点・出雲が縁結びの神様として重要な仲介役を担ったものと考えられる。
つまり筑紫邪馬台国とヤマト王権の東遷もしくは禅譲を円滑に進めたのが出雲大国主(後、倭大物主)で、ヤマト王権三輪山の神様として崇められていたということだ。

576 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/29(月) 08:57:06.29 .net
倭国の極南界とは地理的には天孫降臨伝説にいう「阿多の笠沙の岬」の地に当たるのだろう

日本書紀はヒムカを笠沙の岬(かささのみさき)真来とおりて韓国(かんこく)に向かう良い地というのだから、鹿児島の真北にある糸島だろう
真東の宮崎は間違いではないか?

577 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:01:24.97 .net
>>576
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬

578 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:06:57.09 .net
⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

⇩魏志倭人伝の正解
https://pbs.twimg.com/media/GMPxCjwb0AAzQSj?format=jpg

⇩239年明帝勅(魏)使と247年張政が見た「女王之所都」
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

579 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:07:12.86 .net
ホケノ山を連呼する畿内説者たちをホケガーと呼ぼう(ボケガーでも可)

580 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:10:33.31 .net
ホケとは煙、湯気のこと。寒い朝など中から湯気が立ち昇ることに由来しているのだろう。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%9B%E3%82%B1

581 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:21:51.57 .net
>>575
うむ、出雲大国主が縁結びの神様と呼ばれ、大和では倭大物主として祀られている理由が判るな
つまり筑紫と大和への倭王権移動に重要な役割を果たしたからだろう
本州の国造りをした大国主の言う事なら聴かざるを得ないと本州の王たちも筑紫邪馬台国連合の王たちとの婚姻を受け入れたのだろう

582 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:24:54.04 .net
我々は卑弥呼以外にも、
大量のお宝をもらった高官達の墓を見つけるなければなら

魏から何らかの官職に任命された倭高官

・難升米→率善中朗将
・都市牛利→率善校尉
・伊聲耆→率善中朗将
・掖邪拘→率善中朗将(正始4年、伊聲耆、掖邪拘ら8人と書かれているので他に6人が率善中朗将の官職に任命されたと見られる)
・倭載斯烏越→記述はないが何らかの官職に任命されたと推認できる

583 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:25:56.98 .net
訂正
筑紫邪馬台国からヤマト王権への倭王権移動に重要な役割をはたしたからだろう

584 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:27:37.02 .net
>>582
彼らは女王台与と共に、筑紫から大和へ大移動したと見られる

585 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:33:46.09 .net
>>564
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。

それ、捏造だよね
「西晋」墓から出ている
「西晋」代に盛行した
とは書かれているけど「西晋」時代の鏡とされているって事実はない
要するに伝世鏡なだけなので鏡の年代を100年も遅らすような学問破壊は出来ません

「九州説は素人さんのトンデモ」と言ういつもの結論が出ただけ

586 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:35:31.87 .net
>>584
まったく見られない

587 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:42:14.26 .net
>>582
筑紫邪馬台国女王卑弥呼を支えた彼ら重臣官僚たちは、2代女王台与が養子にしたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」を支えるべく、お宝(後漢鏡5〜7期、画紋帯神獣鏡、紀年鏡)と共に筑紫から大和へ大移動したと見られる
>>492
266年ヤマト王権初代大王=複立男王(並受中国爵命)は、倭国を思う養母・筑紫邪馬台国女王台与の気概と高い徳を称えるために、それに相応しい(薄葬令を出していた曹魏が司馬晋に禅譲&消滅したこともあり)巨大な箸墓を築いてプレゼントしたと考えられる。

588 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:44:46.93 .net
卑左卑弥呼命で大陸まで行った中国人はらいろうか?
五尺刀、二本心を保持した精力は九州説には絶対ない
椿井大塚山の鉄剣や桜井茶臼の鉄剣がそれであろう

589 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:46:09.68 .net
>>588
つまり(伊都国を含む)北部九州勢力が、三種の神器と共に東遷した証拠だぬ

590 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 09:59:59.16 .net
>>589
意見は証拠になりません

591 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:01:08.10 .net
>>589
>薄葬令を出していた曹魏が

出してません

592 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:01:37.08 .net
>>588
>椿井大塚山の鉄剣や桜井茶臼の鉄剣がそれであろう

古墳ともども、鉄器王国「阿波」で作り、副葬された。   @阿波

593 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:03:05.25 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ詐欺

594 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:06:49.03 .net
すまないが、九州からは何にも土器出てないというたけでなく、楽浪方甕する絶滅させてい
九州奴国博多駅が日本を守ったのである

595 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:06:58.03 .net
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが互いに自己矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち倭大物主の妻(巫女)であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から養子縁組&禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵

596 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:10:30.20 .net
博多はいつも再残戦である
それにして鉄器が少ないるように見える

597 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:12:24.99 .net
畿内説は自分が死んでいることに気付かないオバケみたいなもんかの?

598 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/29(月) 10:19:44.86 .net
卑弥呼はヤマト王権の天皇として中国の皇帝に臣下の礼をとっているからな
日本書紀は倭の五王の朝貢まで隠している

神功記で魏志倭人伝の文を引いている時点で、ヤマト王権の過去の女王の一人が中華に朝貢したことがあるらしいという伝承があったという証左なんだよな
無関係なら紀の編者が卑弥呼をヤマトの女王に比定しようとするわけがないのだ

599 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:21:36.82 .net
>>578
なるほど、邪馬台国は九州以外ですね。

600 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:23:06.29 .net
つまり畿内説は日本人がいかに騙されやすいかをテストするリトマス試験紙

601 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:23:11.71 .net
スクリプトの書き込みも普段の書き込みと大差ないってどういうことなの……

602 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:26:08.52 .net
>>599
>吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない

はい、その主張は不成立で確定済み
垂仁紀埴輪の起源は人物埴輪なので、特殊器台よりはるか後世

603 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:28:02.77 .net
>>598
神功皇后(4世紀末)は三韓征伐をしていた筑紫で応神を生んだ女性だからっていうんで、単純に筑紫邪馬台国女王の卑弥呼(3世紀前半。無夫婿だから子供産めないw)に比定しちゃったんだろう

604 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:29:30.52 .net
>>602
垂仁は5世紀(中期)とするのが正常だなw

605 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:33:31.75 .net
つまり畿内説は後世の半島系移民によるオレオレ詐欺でしたと

606 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:33:51.97 .net
畿内説の崩壊が止まらない…

607 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/29(月) 10:34:36.50 .net
伝日葉酢姫陵あたりから特殊器台が人物埴輪になり始める
人身御供の代わりに人物埴輪を備えるようになったという伝承に近い話はあったのかもしれないと思う

ネトウヨは纏向遺跡は大陸の影響が薄いというが近年の研究では実は纏向は大陸の影響の強い異質な地域だったとわかっている
纏向王権は韓半島からの渡来人の影響で人としての道徳観念が向上したのだろう

オレは人物埴輪の出現は人身御供の代わりという紀の記述は真実の可能性が高いと推測している

608 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:36:06.59 .net
吉備特殊器台→円筒埴輪(前期)→形象埴輪(中期後期)だから、「記紀によれば」垂仁は5世紀以降の人物となってしまうwww

609 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:42:07.18 .net
つまり九州説はウソ

610 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:42:08.44 .net
結局、畿内説は魏志倭人伝(唯一一致させられたのは「径百歩」「殉葬百人」卑弥呼の冢でないことが確実な箸墓の築造時期だけw)と記紀(年已長大無夫婿の卑弥呼でないことが確実な筑紫で応神を生んだ仲哀妃=神功皇后と垂仁の形象埴輪5世紀)のチェリーピッキングw

つまりすべてがウソだった畿内説!w

611 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:44:48.99 .net
>>608
形象埴輪の初源を知らない九州説信者が無知で笑った
人物埴輪は4世紀には登場

612 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:45:54.03 .net
畿内節は何の証拠も出てこないし
維持不可能の恥ずかしい説

613 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:47:47.61 .net
>>610
>(唯一一致させられたのは「径百歩」「殉葬百人」卑弥呼の冢でないことが確実な箸墓の築造時期だけw)

いや一致しておらんよw

Wikiより
奈良県立橿原考古学研究所は(箸墓の)築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。また同研究所が箸墓古墳に先行するホケノ山古墳の築造年代について、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃と結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しており、C14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることが判明したとして、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低いとする意見を紹介している。

614 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:49:20.99 .net
実は九州でもなけりゃ当然奈良でもない
投馬国とヤマイコクは日本海側でも行くんだろ

615 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:49:46.65 .net
>>610
不合理なゴリ押しで醜態をさらす九州説の死に際が醜い

616 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:51:51.01 .net
>>613
>Wikiより
>奈良県立橿原考古学研究所は(箸墓の)築造時期を280〜300年(±10〜20年)と推定しており、

こういうニセ情報でWikiまで汚染する九州説は反社会的存在

617 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:52:25.18 .net
>>613
>木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告

おいおい、ホケノ山が4世紀前半?(築造は一番新しい部材以降とするのが常識だろ)w
だとすると箸墓はどうなるんだ?www

618 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:53:39.92 .net
馬具のある横穴式石室だから5世紀

619 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:56:08.68 .net
いくらニセ情報流しても九州説は崩壊済み

620 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:57:37.45 .net
>>619
そう叫びながら空中分解していく「馬糞の川流れ」畿内説w

621 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:57:38.75 .net
情報ソースを出せないことが九州説の致命的欠陥だね

622 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 10:58:55.01 .net
クズタケ先生は馬糞

623 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/29(月) 11:05:27.43 .net
卑弥呼は最初は纏向石塚古墳に葬られて、その後に改めて箸墓を作って改葬されたのかもしれないな
纏向石塚はヤマトの初代男王の墓か卑弥呼の寿陵だろう

魏志倭人伝によると卑弥呼が死んだ巨大な墓が作られたというのだからな
だから箸墓は卑弥呼が薨じた年よりも少し新しいもののはずだ

徳川家康がまず最初に久能山に葬られて、その後日光に改葬されたようなものであろう

624 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:08:15.13 .net
>>114
>>136
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

?265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
?(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)英雄曹操の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
?おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩 半円半方」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、英雄曹操の薄葬令に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

625 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:08:40.79 .net
>>623
>卑弥呼は最初は纏向石塚古墳に葬られて

倭人(阿波勢力)の造ったお墓だぞ?   @阿波

626 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:09:13.95 .net
>>623
>卑弥呼は最初は纏向石塚古墳に葬られて

倭人(阿波勢力)の造ったお墓だぞ?  いいのか?   @阿波

627 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:10:10.04 .net
https://i.imgur.com/xmV72zV.jpeg
おおいに冢を作った。全長ではなく短い方の辺のサイズが百歩

628 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:10:59.12 .net
前方後円墳なら長手方向を書くだろw

629 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/29(月) 11:12:38.54 .net
卑弥呼は最初は纏向石塚古墳に葬られて、その後に改めて箸墓を作って改葬されたのかもしれないな
纏向石塚はヤマトの初代男王の墓か卑弥呼の寿陵だろう

魏志倭人伝によると卑弥呼が死んで巨大な墓が作られたというのだからな
だから箸墓は卑弥呼が薨じた年よりも少し新しいもののはずだ

徳川家康がまず最初に久能山に葬られて、その後日光に改葬されたようなものであろう

630 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:14:26.95 .net
すみませんが、九州例は見飽きたので、
九州説の場合はコピペではなく、 新しい説をお願いします

631 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:14:32.12 .net
>>629
>卑弥呼は最初は纏向石塚古墳に葬られて

倭人(阿波勢力)の造ったお墓だぞ?  いいのか?   @阿波

632 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:16:45.50 .net
>>627
>>624
「作大冢(大きな墓を作った、東夷すげー!)」ではなく、「大作冢(大いに小さな墓を作ったw嘲笑)」
というところに、陳寿がヤマト王権古墳時代に入っていた倭国情報に引きずられて(百尺→百歩に)盛ったことが見て取れるw

633 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:18:55.66 .net
鎮魂歌の祝詞、トヨヒルメが現れる時の歌だ
トヨヒルメを欲したのは石上布留社の大刀とある
石上神宮の大刀は布都御魂剣、で石上神宮の主祭神は布都御魂
三輪山に猟師の真弓が現れるともある
布都主は播磨風土記に物部布都主とあるね

台与は出雲国造神賀祝詞にあるように、布都主、アメノヒナドリと共にやって来て布都主が纏向遺跡を平定して平和が訪れたのかもな
山陰にいた勢力と近江や河内にいた山の勢力が台与を担ぎ出した可能性がある
纏向遺跡の外来系土器は3世紀後半になると吉備系が激減して河内系と山陰系が増える

634 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:20:49.48 .net
>>1
すみませんが、畿内説はもう見飽きたので、
畿内説の場合はコピペではなく、新しい説をお願いします

635 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:20:54.79 .net
台与の時代、元々纏向遺跡にいた勢力を平定して新たにヤマト政権が再開するとも言えるんじゃないか?

636 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:24:11.98 .net
一番しつこいコピペはテンプレだろう

637 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:24:13.16 .net
>>578
うゎ、すげー!

638 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 11:32:40.20 .net
無駄だ、鬼神、阿残墓、九州には半島の影響の痕跡しか無い、古朝鮮の残骸。
朴信仰六部の分裂がそもそもの始まりであったのであろう。
313年までは中華の支配下
その後また動きだしやがて阿が蘇る山の東側(竈は西に造る)宇佐に秦王国を建てたのだろう。神宮なる言葉事態半島のものとも言える。
勢力は密かに河内にも及び
河内を阿都とするようにもなったのであろう。やがて元前方後円墳族は駆逐され
平城宮造営では前方後円墳後円部を破壊してまで造営し祖先信仰なぞ無い。
不比等一族の墓は南山。
興福寺に八部像。
三種の神器は実は4つ
百済大刀契が加わる
日本とは古辰国。聖地は慶州羅井。これは不動。

639 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:32:55.54 .net
九州からは何も出土しない
かわいそうな九州

640 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:33:26.57 .net
???「わな国」

641 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:34:49.05 .net
畿内説「後漢書は無かったこととする」

642 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:35:10.15 .net
NHKが大々的に放送したように邪馬台国卑弥呼はヤマト政権の始祖なのか?
むしろ異分子でヤマト政権の平定の対象だったんじゃないか?
古墳時代のヤマト政権は山陰や河内の勢力が中心となり始まったという方が妥当だろう
河内湖と大和川より南が卑弥呼と対立していた卑弥弓呼の狗奴国なんじゃなかろうか?

643 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:36:00.55 .net
平原1号墓が方形周溝墓で木棺な時点で
東の倭種なんですわ
そこから何が出ようとw
福岡平野を邪馬台からの全幅の信頼で監視していた
怡土県主あるいはその祖先筋の墓でしかないわ

一方そのころ、筑後平野では埴輪の代わりに
トルハルバンをせっせと彫り込んでいた

644 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:40:31.79 .net
方形周溝墓や木棺は弥生時代後期、博多湾や壱岐、五島列島に龍の絵画土器が一斉に広がる時代
倭国大乱前だな

645 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 11:53:09.20 .net
九州の方墳木棺墓は馬韓形式であろう。栄山江の甕棺と魏志倭人伝の初めて海を渡る対海国がある、その南一支国との間を瀚海というから対馬はまだ半島から見た対海国であるということ
もと古辰国。

646 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 11:53:33.76 .net
>>334
>>346
事実(筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と魏の誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「虚実混交」文=魏志倭人伝の真実⇩
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg&name=medium

647 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:10:50.57 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
これこそが証拠だろ?

648 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:12:03.07 .net
>>518
曹操は「自分を葬る時には、金銀財宝を入れずに質素にするように」と遺言していて、これは薄葬令はくそうれいと言う。
後漢末期(三国時代)の建安10年(205年)。

649 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:15:57.79 .net
>>469
>>464
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」。この千を超える洗脳スレも当然だw

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

650 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 12:16:52.76 .net
薄葬令やらの影響は百済王墓にはみられるが伽耶諸国には百済王墓よりデカイ墓があるから特別関係ないであろう。

651 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:17:06.67 .net
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作られた、径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人である。

652 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:20:44.73 .net
漢帝国の滅亡は気候変動が遠因
倭国大乱もそれは同じ
ただ曹操の言葉は庶民感情に配慮したものであって
冊封国に相応の対応を求めるものではないよな

653 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 12:23:04.28 .net
観念的解釈をしたがるのが九州であり記紀を尊重したがる日本を理解していない皇国史観の持ち主達だな。
本居のようなどうしようもないやから

654 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:25:52.67 .net
又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲。
又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都。
これはどこへ行ったのか?
阿波ですか?

655 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 12:29:42.06 .net
先生の聖地は東高西下じゃあ無いんだな、おしい

656 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:36:11.98 .net
邪馬台国の定義にもよるが、
邪馬台国は畿内に無かった。

657 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:41:34.49 .net
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
この頃はまだ大王(オオキミ)
で、神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃

658 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:42:10.97 .net
>>629
https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medical_J/laboratory/basic-med/social-science/legal-med/


https://i.imgur.com/88G3NEX.png
ゲノムワイドなSTRマーカーからみた東アジアのヒト集団の遺伝的関係(「ソウルの韓国人」は「中国人」もしくは「中国系」と分類された円の中にいます。)(名古屋大学大学院医学系研究科・医学部医学科公開データより)

遼寧省瀋陽の漢民族と完全に一致

659 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:42:32.40 .net
>>607
https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medical_J/laboratory/basic-med/social-science/legal-med/


https://i.imgur.com/88G3NEX.png
ゲノムワイドなSTRマーカーからみた東アジアのヒト集団の遺伝的関係(「ソウルの韓国人」は「中国人」もしくは「中国系」と分類された円の中にいます。)(名古屋大学大学院医学系研究科・医学部医学科公開データより)

遼寧省瀋陽の漢民族と完全に一致

660 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:51:53.01 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

661 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:53:31.48 .net
>>654
>>505

662 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:54:15.66 .net
畿内が倭国だった証拠はあるのか?

663 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:54:18.30 .net
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
この頃はまだ大王(オオキミ)
大業三年(AC607年)其王多利思北孤遣使朝貢・・・
・・・其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云
で、神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃

664 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 12:58:13.98 .net
倭奴国は古く日本を表した語で
福岡平野の奴国とは限らないということだな

665 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:03:11.01 .net
>>662
倭人在帶方東南大海之中

666 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:08:10.63 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通った筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆

667 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 13:09:43.79 .net
↑これが九州

668 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:14:34.73 .net
時系列で言えば弥生後期、
畿内勢力は瀬戸内から北部九州そして
五島列島にまで至っていた
怡土に平原王墓が作られ、それは方形周溝墓の木棺であった
しかし怡土県主の先祖は畿内系ではない
だが邪馬台から大きな信頼を得て刺使をしている
(この点、垂仁天皇も任那王子都怒我阿羅斯等に
敦賀を委ねるといった行動を取る)

しかし記紀の記すヤマトと怡土県主の出会いは
景行天皇の時代である
倭人伝には伊都国王は代々ヤマトに従っているとある
景行天皇の数代後のヤマトの女帝は神功皇后である
神功皇后の妹には豊姫がいる

これは記紀の時代考証が正確であることを示さないだろうか

669 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:14:59.25 .net
>>666
草なんよ(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)

670 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:16:27.67 .net
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ!

その名残が、継体が傀儡の武寧王を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(✕琵琶湖○有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。
その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して都の阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)

671 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:17:42.48 .net
>>668
そんなのは魏志倭人伝等中国の史書を読んで書けるし実際間違いなく読んでる

672 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:19:08.08 .net
神功皇后に対立したのも北陸・関東系の豪族だ

673 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:26:40.14 .net
以上、倭王権の変遷をまとめてみますた!

57年漢委奴国王(奴国博多)107年帥升(伊都国)239年卑弥呼・247年台与(筑紫吉野ヶ里)
266年(魏→晋への禅譲に倣い)台与がヤマト(吉備)王権へ禅譲(大和&河内)
527年筑紫君岩井の乱で継体が西遷(阿蘇ピンク石棺)607年「日出処天子」阿毎多利思比孤(阿蘇山祷祭)
阿蘇山大噴火で天智が北遷(太宰府)&663年白村江完敗で東遷(近江大津)
672年壬申の乱で天武持統朝(飛鳥・藤原京)へ

674 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:29:03.51 .net
我が国は紀元前660年から続く国だけど
朝貢してたのは知らない国の人たちだよってやったのが記紀編纂だよね

675 :ネトウヨ撲滅隊:2024/04/29(月) 13:29:51.63 .net
もはや九州説はネトウヨしか支持していない
新しい教科書を作る会のような連中、日本保守党を支持してるような連中、反クルド人運動をしているような連中、アイヌ非先住民説を垂れ流しているような連中、在日韓人へのヘイトを発信しているような連中、日本共産党や立憲民主党やれいわ新撰組や社民党を憎んでいるような連中、なぜか朝日新聞を嫌っているような連中、これらが典型的なネトウヨ

676 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:32:18.15 .net
>>674
卑弥呼がどういう存在かを知らなければ
ヤマトの女帝の誰かに年代を合わすという努力はしないだろう
卑弥呼は朝貢をかさね魏に封じられた王なんだぞ

677 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:37:05.48 .net
>>676
人物像としては全く違うんだけどどういう意図があったのかは難しいな
卑弥呼の存在を徹底的に否定したかったのかな?

678 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:37:12.35 .net
天武朝の皇国史観では卑弥呼を皇族の誰かに
擬するなど許さない
けど現実にはそうしているんだからな

679 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:40:09.75 .net
>>677
そこで問題になるのは記紀そのものの執筆目的だ
神功皇后を朝貢女王に擬してまで求めたのは
記紀神話に見え隠れする九州全体の領有権だ
ヤマトは卑弥呼の実像を知りながら
徹底的に隠しているか、あるいは最初から何も知らなかったかになる

680 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:40:49.04 .net
地位と名誉と銭のために動く畿内説の学者

よくもまあーー
シャアシャアと纏向をでっち上げたもんだ
倭人伝記述と合致する遺物がどれだけあると言うのだろうか
3世紀に纏向に人が居たことは認めていいよ、だって纏向に限らず日本全国に3世紀に人は居たんだから

要は倭人伝記述と合致する遺物なんだけどなーーー

681 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:40:57.15 .net
>>678
してないでしょ
無関係は無関係なんだけどそれでも許せない存在?
まあ無視するのが一番て気はするけど

682 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:42:55.48 .net
>>675
いつも独り言お疲れ
君が適任だ
纏向で、倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記してくれ。

683 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:43:03.17 .net
>>679
そら魏志倭人伝を読んで卑弥呼を知ったんでしょ
でもそっちは消せないしどうしようもない

684 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:43:04.55 .net
神功皇后の治世を現実に合わせるためには
建国年から整合させていかなければならないからな
神武すらそのためのピースにすぎなくなる
もちろん神武には南九州出身という属性が付与されている

685 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/04/29(月) 13:43:26.79 .net
本居宣長は古人の精神を復興させるという使命感を持っていたから、記紀の編者の気持ちを汲み取って九州説を唱えたのだろう

彼は偉大な学者だったが、あくまでも国学という枠の中の人であった

現代人は古人の精神復活なんぞ考えていないのだから、天皇が中国に臣下の礼をとったことを素直に認めてよいのだ

もっともネトウヨは日本会議の駒なだけで、そんな思想性ももっていないだろうがな

686 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:43:36.18 .net
>>665
倭国は九州だな

687 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:46:35.56 .net
>>680
纏向が5世紀でも良いけど他の遺跡もちゃんと正して

688 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:47:54.25 .net
れいわやつばさの党の背後には朝鮮極左の斉藤まさしやヤクザの田中正道

689 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:48:56.22 .net
>>668
ツヌガアラシトは穴門で自称倭王の伊都都比己に出会う
これは魏の滅亡によって失脚した台与の次世代の倭王(自称)

690 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:48:59.57 .net
神功皇后を作られた存在だとしてもいいが
対立した忍熊皇子は東国の支援を受けている
倭人伝で狗奴国の存在を知った記紀の人間は
何故神功皇后のライバルを東に置いたのか?
もっとも熊襲とも戦っているけども
神功皇后は熊襲との戦いを無駄として新羅を目指すし

691 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:50:14.40 .net
>>689
そうすると卑弥呼の祖先は天日矛になるな

692 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:50:50.87 .net
倭人伝を信用しない畿内説の方がネトウヨやろJK

693 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:53:56.54 .net
>>679
九州の領有権か
なるほどな
全くの無関係だと属国だもんな

694 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:54:29.98 .net
魏滅亡→台与失脚→半島で東の倭種の大酋長のことが話題になる→半島の王子が様子見にくる→穴門で自称倭王に出会う

※倭国崩壊で伊都国の王が不在になる→アメノヒボコの子孫であるイトテが伊都国を統治する→仲哀天皇にイソシと褒められる

695 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:56:22.52 .net
朝貢してた倭国ってのは何処にも存在しちゃいけないんだな
まったく架空の国じゃなきゃ

696 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/04/29(月) 13:56:28.14 .net
アイヌは日本の先住民である縄文人の民族的先祖であり、日琉系の民族的祖先は弥生人である

縄文時代の言葉は原アイヌ語であり、縄文人は日本民族ではなかったのである

697 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 13:58:20.34 .net
>>693
白村江の戦後処理で九州の領有権が問題になったという考察
このスレにもあった。誰かが本にも書いてるんだと思う
天智天皇は敗戦後逃げるように大津に遷都するからね
大唐がまず狙うのは大和だと考えたはず

698 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:00:42.50 .net
五十迹手を褒めたのは仲哀だったか

699 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:07:18.54 .net
朝貢してた倭国はどこかにあったんでしょうね
でも九州までは元々我々の領土だからねって事か

700 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:11:04.70 .net
ふむ。九州の国とはしたくなかったことはわかる
あくまでやったのは身内だと
知らない国は天下には無いのだから。
自分の国が九州とは書けないので
南にある邪馬台は自国として、更に
狗奴国も東と読み替え忍熊皇子の話を入れた
これが記紀クリエイト説

701 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:30:18.46 .net
記紀の問題点は卑弥呼を神功皇后に間に合わせてた点
それは卑弥呼のことを知らなかったからだとしたら
それも一つの説明にはなるが
磯城郡に並び立つ巨大古墳についても
おそらくほとんど何も掴んでいなかったというところ
箸墓が古代の人間にどう見えたのか知らないが
日本で唯一の五段築成の記念碑的王陵を
なぜ平凡な皇族女性のために擬したのか

702 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:30:21.48 .net
畿内大和は紀元前から続く国だし朝貢してたのは
九州辺りの国でしょうってのもダメなのよ
それだと九州は中国の領土になってしまう
九州は元々大和の領土だという大義が必要

703 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:35:24.79 .net
>>674
>我が国は紀元前660年から続く国だけど
>朝貢してたのは知らない国の人たちだよってやったのが記紀編纂だよね

その通り、知らない国の人たちともいえるが、
ヤマト朝廷の女傑・神功皇后に似た(南九州方面の親魏の)女蛮族・・、という設定にしたのだろうね。
責任逃れさ。

704 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:36:09.57 .net
>>685
このスレにネトウヨなんかいない。九州説だからネトウヨなんてのは実にバカバカしい。

705 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:39:18.68 .net
ネトウヨ氏よ、貴様が天孫降臨を伊都に置くとは意外だよ
天孫降臨は筑紫の日向の「襲」の高千穂峰だが
北部九州の襲国とはどこか

706 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:40:25.77 .net
イツツヒコって伊都の彦って意味なら
もろに伊都国の上級ですって名前だな

707 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:45:30.07 .net
ソ、襲、曽、添、あるいは園、曽保理
これらの音の響きは韓神について回るもののようにみえる
韓神といわれる園神は大物主と少彦名のペアという絶望的な謎もある
他に韓神と呼ばれるのは五十猛でこれは伊都とは整合する
何故なら五十迹手に与えられた勲(いさお)しの称号は
五十猛にも与えられているからだ
また熊襲においてはイサオはタケルの上位に立つ存在だ

708 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:45:56.80 .net
>>706
伊都国(王)の者で間違いない

709 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:47:20.08 .net
神功皇后紀の魏志の記事は本文じゃなくて割注だからな
後世の写本時追記説も根強い

710 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:48:07.18 .net
>>709
そうだな

711 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 14:57:29.76 .net
https://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/site_files/image/siryo/07-history/kouzui/images/ph2.jpg
狗奴国じゃなくて水害にやられる筑紫平野・邪馬台国

712 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:36:24.48 .net
>>666
>>670
倭王権の変遷をまとめてみますた!

57年漢委奴国王(奴国博多)→107年帥升(伊都国)【倭国大乱】→239年卑弥呼・247年台与(筑紫吉野ヶ里)
→266年(魏→晋への禅譲に倣い)台与がヤマト吉備王権へ禅譲(大和→河内)
→527年筑紫君岩井の乱で継体が西遷(阿蘇ピンク石棺)
→607年「日出処天子」阿毎多利思比孤(阿蘇山祷祭)
→阿蘇山大噴火で天智が北遷(太宰府)
→663年白村江完敗で東遷(近江大津宮)
→672年壬申の乱で天武持統朝(飛鳥・藤原京)へ

713 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:49:56.49 .net
>>712
時代に合致する遺跡が無いとダメだ

714 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:52:41.25 .net
ヒント:吉野ヶ里遺跡発掘前の筑紫平野

715 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:53:15.82 .net
平安京も水害に悩まされていたわけだが

716 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:54:02.65 .net
現在出土している遺跡でしか判断できない単細胞の畿内説

717 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 15:56:06.12 .net
やっぱクズタケ先生はダメだねw

718 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:04:18.93 .net
北部九州なんて吉野ヶ里遺跡か原の辻遺跡の勢力圏だろうと俺は思ってる
だから匹敵するくらいの遺跡が出ないと遷都したとは言えない

719 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:07:33.39 .net
>>714
今なら伊都国は吉野ヶ里だと原田大六が生きてたら言うんじゃないか?

720 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:16:15.08 .net
大宰府とか日田とか何も出てないのに比定地にするのは無理

721 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:16:50.58 .net
魏が滅亡(255)してからの大雑把な九州倭国と畿内東倭種の歴史はこう

崇神時代
・魏が滅亡(255年)して九州倭国連合の台与が失脚
・台与の失脚で九州にあった倭国連合が崩壊、鉄利権が畿内に移る
・伊都々比古が次代の倭王を自称して穴門に臨時政権を立ち上げる
・倭人が鉄をとりにいっていた半島で東倭種の大酋長のことが噂になる
・半島の王子が様子をみに渡来してくる→穴門で伊都々比古と出会う

垂仁時代
・天日槍が日本に住み着く(→やがて天日槍の子孫(五十迹手)が伊都国を支配下に置く)

景行時代
・筑紫行幸の際に神夏磯姫が船で周防までいき三種の神器を献上して畿内に帰順した

仲哀時代
・筑紫行幸の際に熊鰐が周防まで出迎えにいき三種の神器を献上して畿内に帰順した
・筑紫行幸の際に伊都国で五十迹手が出迎え三種の神器を献上して畿内に帰順した

722 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:22:19.92 .net
魏の滅亡は265年だった……

723 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:27:36.96 .net
三種の神器だらけ

724 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:30:29.75 .net
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
この頃はまだ大王(オオキミ)
で、神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
これが正しいでしょう
これ以前の歴史も勿論あるんだけど中国の史書と遺跡を頼るしかない
中途半端に記紀を混ぜるな

725 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:40:05.57 .net
後漢の時代からずっと続いていた大倭王が統べる九州の倭国の歴史と
ヤマト王権の祖である東倭種の歴史(記紀、風土記)の二系統の歴史がある

この二つの歴史がどこまで史実を反映しているのか定かではないが
以下は傍証になりそう

倭王讃「祖父の時代から西に66国平定した」(冊府元亀)
倭王武「先祖が西に66国平定した」(宋書)
旧唐書「倭人曰く日本はもと小国、倭の地を併合した」
新唐書「記紀とズレたら不味いので改竄する、倭国が東遷して日本を併合した」

726 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:46:43.78 .net
>>725
魏志が引用したのは魏略の
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種でしょう

727 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:49:06.62 .net
>>725
讃と武、2つの記録があるんですか?

728 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:50:23.64 .net
鉄器の出土状況
https://i.imgur.com/xWvWYiv.png
3世紀中頃までは九州が優位だった
が、3世紀後葉になると古墳への鉄器副葬で畿内が九州を逆転した

ターニングポイントは魏の滅亡(265年)による台与の失脚、倭国連合の崩壊か

729 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:50:40.04 .net
大陸から列島への渡海なら魏里の千里でも合う
関門海峡で千里はおかしい

730 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:52:29.44 .net
>>727
冊府元亀には倭王讃の上表文というのが載ってる
宋書には有名な倭王武の上表文が載ってる

731 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:56:29.31 .net
>>730
内容はほぼ同じですか。
同じならどちらかが間違いですね。

732 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 16:56:40.09 .net
> 倭王讃「祖父の時代から西に66国平定した」(冊府元亀)
かりに倭王讃を応神とすると、その祖父にあたるのはヤマトタケル

733 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:02:14.78 .net
武の上表文は、祖父と訳す人、先祖と訳す人もいるようで、正しくはどんな意味なんでしょうね。
人名の可能性は無いですかね

734 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:10:55.77 .net
冊府元亀は「祖父」
宋書は「祖禰」

735 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:13:43.60 .net
>>580

「ホケ」は「フケ」に由来し、湿地を意味する
大和には「フケ」という小字が35例ある

https://koza5555.exblog.jp/20394195/

京都府宮津市に大フケ湿原がある

736 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:17:52.02 .net
祖禰

1. 祖先の廟および父の廟。
2. 先祖と父親。 また祖先全般を指す。
3. 本源、始まり。
https://baike.baidu.com/item/%E7%A5%96%E7%A5%A2?fromModule=lemma_search-box

737 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:38:02.96 .net
そもそも論、邪馬台国は倭人伝内の話であって
あくまでも記載されている内容に従って紐解くだけの話
だから遺跡がどうとか実在したかは全く関係ない
寧ろそれらと邪馬台国を強引に結びつける方が無意味

738 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:39:30.39 .net
適当すぎる西の倭国と東の倭種のタイムライン
https://i.imgur.com/cZxMlFl.jpeg
ターニングポイントは265年
魏の滅亡→台与の失脚→倭国連合の崩壊→鉄利権が畿内に移る

739 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:42:03.00 .net
>>716
ない物で判断なんて誰にも出来ないさ

740 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:44:34.85 .net
>>737
そういう奴も居るんだろうとは思ってた
たんに整合性が取れるかの遊びだから遺跡が出なくて良いんだよね?
でも多くの人は太古の昔に思いをはせる遺跡が見たいのよ

741 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:46:54.94 .net
>>740
見たけりゃ、「阿波」に来い!   @阿波

742 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:47:27.98 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

743 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:48:43.17 .net
遺跡はいりません

744 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:50:25.48 .net
>>743
無いからな。   @阿波

745 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:51:34.59 .net
一人一説雑多九州説は、元脚本家の九州文学小説に始まり
今後はアニメで世界を目指す
だから「根拠は? 証拠は?」と聞かれたら
堂々と胸を張って「ありません」と答えてほしい

746 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 17:59:46.50 .net
里数の整合性がどうしても取れない
だから短里という新ルールが加わって説明できるようになった
本来あり得んし虚しくならんか?

747 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:04:41.57 .net
手塚治虫の火の鳥・黎明編は九州説ぽかったな

748 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:06:20.17 .net
>>746
>本来あり得んし虚しくならんか?

有り得ないのは、行程里数を足したり引いたりすること。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。   @阿波

749 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:12:22.75 .net
里数戸数の整合性など畿内説も取れない
そこは九州説も畿内説もイーブン

750 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:16:43.60 .net
三角縁神獣鏡

751 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:17:52.42 .net
>>749
狭くて水害地帯の筑紫平野に7万戸と、近畿一帯に7万戸がイーブンなわけ無いだろ

752 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:19:08.64 .net
>>751
傍国を消滅させまくるのはNG

753 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:24:52.86 .net
人口密度高い方が都会だわな

754 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:29:45.05 .net
纏向は古墳造営キャンプ

755 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:33:28.43 .net
三角縁神獣鏡を破綻させないと九州説は不可能
そして、この三角縁神獣鏡こそご通説畿内説な拠り所

756 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:35:55.97 .net
いくら空想を言っても無駄
証拠が出せない九州説は死亡済み

757 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:38:33.74 .net
『女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり』

畿内説をとるとこれがネックになるな。
畿内説は南を東と読み替えているのだから、ここに出てくる東は北に読み替えることになる。つまり日本海の対岸に倭種がいると読まざるを得ない。つまり沿海州になるわけだな。さらに、その南にある侏儒国は沿海州の東に読み替える。さらに、東南の裸国・黒歯国も読み替える。
やっぱり、最初を捻じ曲げて文言無視の読みをすると、どんどん破綻してしまいますね。

758 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:40:43.77 .net
>>757
読み替えてないから
魏志が引用したのは魏略の
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種でしょう

759 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:42:18.04 .net
>>351
>>352
畿内説は最初から成立しないんだよ

760 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:43:41.57 .net
>>757
方位通りに進むと女王国は海の中、その東の倭種も海の中、侏儒国も裸国黒歯国も狗奴国も海の中

761 : :2024/04/29(月) 18:46:52.36 .net
俺の永平寺アーカイブスより

426 日本@名無史さん 2021/01/17(日) 18:20:08.36
やまと = 山跡

万葉集で「やまと」と言えば
大和ではなく倭、山跡だ

↓参考 当時の日本人はこう発音してます

882 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/29(日) 13:32:13.81 ID:mAkgo2qF0
古代日本人、当時的には

倭 = 山跡 = 山は邪麻、跡は止 と発音する

>日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云【山跡】。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。

762 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:50:55.16 .net
魏志倭人伝を正確に読み解くと、邪馬台国ジャワ島説か邪馬台国パプアニューギニア説の二択になる。

763 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/29(月) 18:52:52.56 .net
ネトウヨのアイヌ非先住民説を見てわかるように、彼らは組織的にネット上で大量のコピペ貼ってをしてネット世論を作ろうとしている
邪馬台国九州説もまた然りだ

モ◯◯◯ー研究所などのように保守党の裏にいる日本会議の構成員がやっていると見る

764 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:58:00.24 .net
なせ学者は三角縁神獣鏡なのか?
ここを突破しないと九州説は不成立

765 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:08:24.73 .net
>>759
>畿内説は最初から成立しないんだよ

まったく理由の言えない喘ぎ声を出すだけの
九州説は死亡済み

766 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:08:49.71 .net
>>764
あまえ、昭和から頭が抜けてなーな
三角縁神獣鏡は畿内説の根拠にならないことはもうオーソライズされてる。
勉強しろよ。
メッ!

767 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:09:13.01 .net
九州説をとるとヤマト王権は分家筋になるだろうし、記紀がデタラメなインチキ書物になるのだから、むしろネトウヨにとって都合が悪い。

768 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:37:26.06 .net
>>766
昭和時代に機能停止になってるのが九州脳だから
もう国産説が消滅したことすら知らない
オワコン九州説カワイソス

769 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:41:53.19 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

770 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:43:11.31 .net
記紀に余計な下心が無いのならそれで良し
皇室は真実九州から来たのであって
邪馬台自生の王権が九州との縁を脚色する
ためでは無かったということだ

771 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:54:13.80 .net
その通りだ。
下心あるのは畿内説のほうだろ、、、

772 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:56:28.98 .net
それで改めて考えても記紀の時代考証が
かなり真に迫っていることは変わりない
(現実の神功皇后の時代は120年遅いと現代の学者は考えるが)
卑弥呼の記述がないのを不審に思った後代の人間が
割注を入れたにしても、記紀の記述は
卑弥呼を知らない前提で、もしくは全く無視して書かれている

773 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:57:56.69 .net
>>768
三角縁神獣鏡は国産でしょ?
国産でないってソースは?

774 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:02:09.38 .net
例えば奈良の遺物に邪馬台国って書いてあったとしても
その遺物が九州から持ち込まれた可能性もある訳だから何の証拠にもならない
もちろん遺跡の柱か何かに書かれてたとしても、ただの落書きかもしれない
つまり遺跡や遺物に、歴史を決める力は一切ないのである

775 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:05:18.09 .net
>>774
>つまり遺跡や遺物に、歴史を決める力は一切ないのである

「卑弥呼」の時代に「丹」を採っていたのは「若杉山辰砂採掘遺跡」は動かない。   @阿波

776 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:20:22.50 .net
>>774
九州説はここまで堕ちました

777 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:27:03.74 .net
>>773
>三角縁神獣鏡は国産でしょ?

誰の説?
どんな理由で?

778 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 20:31:46.11 .net
無駄だな。九州には韓の痕跡しか無い。

779 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:35:29.25 .net
>>709
神功皇后紀三年の記事に磐余に都を造った、とあり、その割注に「是謂若櫻宮」とある
一方、神功皇后紀六十九年には稚櫻宮で崩御とあり、また履中紀元年には磐余稚櫻宮とある
書紀では、「若」は「もし」のために使われているので、固有名詞の中にある「若」は一般に「稚」に書き換えられている
したがって、この三年の割注はその経緯を理解していない者による後世の手によるものであることが明らか

つまり、書紀の割注は後世の追記であることが分かる

780 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:36:56.71 .net
>>770
下心なんてまるでないけどあんな出鱈目なもんを根拠にされると話が進まないのよ
神社なんてその時代に無いでしょと言っても聞かないし

781 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:39:06.58 .net
>>774
時代が合致すれば重要な根拠になる
地層とかも調べてるから

782 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:40:48.98 .net
時代さえ一致すれば邪馬台国でok

783 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:41:44.50 .net
その時代は邪馬台国や狗奴国だけではなく、東に海を挟んで倭種の国々があったはずだけどな

784 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:44:09.48 .net
記紀なんてみんな出鱈目だと思ってるから時代も物凄くいい加減
それでも根拠になると思ってるんだよね

785 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:44:52.19 .net
>>783
魏志が引用したのは魏略の
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種でしょう

786 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:49:04.37 .net
>>779
すばら

787 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:55:27.52 .net
>>786
スカパラダイスオーケストラ

788 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:01:50.30 .net
>>779
古事記の履中天皇は伊波礼若櫻宮→書紀では磐余稚櫻宮か

ふむ

789 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:15:50.96 .net
履中天皇、磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊、顕宗天皇仁賢天皇オケ、
石を以って升を作りオケとした
5世紀の奈良大阪は前方後円墳と数多の方墳の時代
5世紀前半、橿原に日本最大の方墳の桝山古墳が作られる

790 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:23:50.44 .net
時代とか落書き以下やんw

791 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:25:49.27 .net
応神天皇は神功皇后と住吉の神さまの子
堅い絆の相生の松は、播磨の高砂の松と住吉の松のこと

792 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:30:08.48 .net
高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり

播磨風土記の速鳥伝説とそっくり
駒手御井は、難波高津宮天皇の御世、井戸の上に楠が生えた。
この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根を隠した。
よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。
朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。

「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」

ハヤ速。

793 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:39:57.74 .net
>>774
そもそも文献作者が当該文献作成時に虚偽を記載するのはそれ以上に容易なことなんだが?
ましてやこの時代の倭國史については信憑性のある一次史料など一つも存在しないのに何を言っているのか。
 
文系脳の救い難い愚かさの極限を>>774に見た。

794 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:54:13.46 .net
文系脳じゃなくて九州無脳な

795 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:03:20.25 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

796 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:07:27.59 .net
通説の仏教伝来は538年ぐらいだが、「阿波」への仏教伝来は、526年より遡る可能性。   @阿波
上板町の大山寺には、国指定の重要文化財である経筒があり、この経筒には次の文句が刻まれている。
大治元年才次丙午十月十二日甲辰日閻浮提日本国阿州於大山寺如法経書写供養畢願頌
僧西範為結縁法界六道三有受苦者也
以上の文面からすると、ただ供養を行ったとのみで、何の事でもないのであるが
山頂部にある奥院・黒岩権現参道入口に在った石碑に刻まれていた文を併せると、
明確にその年代が解かれるのである。
西範僧都六百年忌追福也
大治元年才次丙午十月十二日
大山寺には大治元年(1126)と彫銘された経筒が保管されている。
大治元年は1126年。
そのとき西範僧都六百年忌が行なわれていたということで、西範僧都が亡くなられたのが526年
仏教伝来はそれ以前って事になりますよね。
http://goutara.blogspot.com/search?q=%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E3%80%80%E7%B5%8C%E7%AD%92

797 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:37:16.14 .net
>>774
そうかも、
歴史は考古学者がつくる。
衝撃の事実

798 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:38:55.14 .net
学者たちは
倭人から直接聞いたこととして書いている新唐書の方が正確と考えている
つまり倭が日本を併合した
古代には勝った側が負けた側の名前を取る統治術が世界にある
被害者が加害者を責め立てるときに自分たちの名前を責めることになる

799 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:55:36.21 .net
三角縁神獣鏡って中国で見つかったの?

800 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:00:19.62 .net
コピー銅鏡のオリジナルを特定してから考えりゃいいのに

801 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:11:50.10 .net
ともかく、魏志倭人伝は九州について書かれてる。

802 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/29(月) 23:21:50.16 .net
何故かジャップの好きなXを見てみると九州説を主張してる連中のスピリチュアル系のカルト率の高さが気になるな
奴らはやはり日本会議系の明治の新宗教である自称古神道(古代からの文献ねーだろ。江戸時代に作られたもんだと分からんのか)の連中か統一教会系のネトウヨの馬鹿どもに違いない

Xの九州説論者は例外なく反アイヌ思想で秦氏がユダヤ人がどーとか言っている

803 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:39:07.78 .net
レッテル貼るの大好きだね
原発やコロナワクチンのときと同じパターン

804 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:42:17.09 .net
忖度なく倭人条を読むと見えてくるよ。
ズバリ、邪馬壹國は南太平洋のトンガです。

805 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:44:00.78 .net
>>798
あー
ヤマトタケルがそうだね
殺しといて名前まで奪うという

806 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:44:10.96 .net
いやいや
沖縄だろう

807 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:52:17.52 .net
邪馬台国が九州だったら絶対阿蘇山のこと書いてそう

808 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:56:10.69 .net
>>801
>ともかく、魏志倭人伝は九州について書かれてる。

ほら。九州説は宗教
それも相当クソなやつ

809 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:57:18.93 .net
伊都国、奴国は九州じゃないのさ

810 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:06:50.30 .net
>>794
九州でも関西でも構わないんだが、要するに歴史を検証するについての信憑性/信頼性は;

1. 現物(発掘出土物等)
2. 自然科学手法(数値解析、材料分析等)







X. 文献
 
という順位になる。
文系脳はこれが理解できない。
 

811 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:09:04.23 .net
だから中国で出土しない三角縁神獣鏡を中国産などと血迷ったことを言い始める

812 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:19:13.50 .net
自然科学手法を使うと「邪馬台国」という文字が浮かび上がるらしいw

813 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:21:01.31 .net
文献があって初めて歴史が語れる

遺物はその補強材料にすぎない

これが分からないから考古学は学問じゃないいと言われる

814 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:21:01.47 .net
撲滅タイは完全に病気だろw

815 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:26:11.06 .net
魏志倭人伝を合理的に解釈することと、その解釈で得た内容が事実であるか否かは、別次元の問題ではないかな?
魏志倭人伝が三世紀の倭人の世界を正確に記録している保証なんてないでしょ。

816 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:32:14.03 .net
じつは卑弥呼がもらった鏡を配ったなんて話は文献上にも存在しないという……

817 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:32:22.85 .net
モチロンソウヨ

818 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:45:05.20 .net
>>813
↑こういうグロテスクな倒錯こそ文系脳思考の典型。

819 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:57:41.93 .net
考古学な史料のみで、例えば鎌倉時代なんかどの程度わかるのかな?
東国に武家政権が出現したことくらいはわかるのかな?

820 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:09:28.02 .net
>>774

もしも奈良の遺物に邪馬台(臺)国って書いてあったり、
遺跡の柱か何かに書かれてたとしたら
「邪馬臺」の字を当てたのは3世紀の漢人だから
漢人が奈良に来ていた可能性は考えられるかもしれないが
唐突に九州から持ち込まれた可能性が考えられることはない

821 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:14:52.59 .net
即位5年、筑紫に課税しようとしたことで
神の祟りを受けて皇后黒媛を失う。

なんだこれ

822 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:15:40.44 .net
同年2月、讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される。
前年の筑紫の件も含め、天皇の西方への支配が
行き届いていない面が見られる

823 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:24:45.45 .net
>>819

鎌倉時代のように文献でかなり明らかになっていてもまだ不明確なことが
考古資料によって確かめられるたり、あらたな見解が生まれたりする
邪馬台国論争のように文献が倭人伝しかなくて
不明確なことは多い時代は、
考古資料が何もないところに比定される根拠がない

824 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 02:47:46.97 .net
https://blog-imgs-128.fc2.com/h/y/e/hyenanopapa/blog_import_5d41643af0702.jpeg
於投馬 ia du mæ イアドゥマ

825 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 03:15:23.62 .net
於投馬 qaː du mæ カドマ

826 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 03:19:49.02 .net
母離供智 mo ri gou chi モリグチ

827 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 04:06:12.91 .net
つまり九州説はウソ

828 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 04:28:44.43 .net
畿内説は物証が?????

829 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:10:03.57 .net
畿内が倭国だった証拠無し

830 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:32:03.56 .net
倭国王の都が有ったんだから、それが倭国だった証拠だが

831 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:50:22.09 .net
>>830
倭国王の都だったと言う証拠は?

832 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:51:40.49 .net
魏の使者が来た頃はもう古墳時代が始まってたんだから
奈良が都だよ

833 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:59:31.69 .net
みんな、もう魏志倭人伝は怖くない!⇩つまり、こういうことだったのです!!

>>469
事実(帯方郡から12000里=筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と
>>464
魏の誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「虚実混交」文だったのです!! (இoஇ; )ウルウル
└→これに基づく投馬国からの「南水行十日陸行一月」という蛇足を現実の地理と誤解し、ムリヤリ当て嵌めて(南⤴東)と90度読み替えてしまったのが畿内説(魏の誤認+現代日本人の誤解=W錯誤)だったのです!

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

⇩魏志倭人伝の正解
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg

⇩239年明帝勅(魏)使と247年張政が見た「女王之所都」
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

834 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:04:12.83 .net
数字マジックが通用する時代じゃ無いんだけどね

835 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:09:28.45 .net
つまり畿内説はジグソーパズルの合わないピースを無理やり填め込んで「完成したぞ!」と喧伝して回る愚か者

836 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:15:14.97 .net
つまり九州説はウソ

837 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:15:17.06 .net
>>834
>数字マジックが通用する時代じゃ無いんだけどね

つまり、「阿波」の時代の始まり。   @阿波

838 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:29:31.30 .net
阿波説は日本の歴史を破壊するテロリストであり朝敵国賊です

839 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:32:41.75 .net
つまり畿内説も邪馬台国なりすまし歴史テロリスト

840 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:33:22.58 .net
瀬戸内の 泡沫と消ゆ 阿波の夢

841 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:35:15.08 .net
大和路の ホケ(湯気)野に消ゆる 纏向の夢

842 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:35:19.59 .net
>>838
>阿波説は日本の歴史を破壊するテロリストであり朝敵国賊です

まぁ、旧説信者にとってはそう映るんだろう。   @阿波

843 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:37:54.75 .net
三角縁神獣鏡を調べてみると邪馬台国論争はもっと面白くなる。
中国でも、早期三角縁神獣鏡、三角縁龍虎仏像鏡、三角縁笠松神獣鏡、当境界枠付三角縁神獣鏡など十数面の「三角縁」銅鏡が発見されている。
斜縁(ななめぶち)あるいは、半三角縁の神獣鏡はもはや三角縁神獣鏡の領域に入っている。

844 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:46:52.32 .net
まさに方形周溝墓+銅鐸祭祀だった畿内に、後漢鏡5〜7期、紀年鏡、鉄剣(三種の神器)の副葬は、北部九州勢力の東遷の証だね

845 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:50:26.22 .net
三種の神器(平原女王)…伊都国由来だよ!

846 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:52:08.40 .net
>>844
>紀年鏡、鉄剣(三種の神器)の副葬は、北部九州勢力の東遷の証だね

碌に鉄器さえも作れない北部九州では無理。   @阿波

847 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:54:33.50 .net
嘘と捏造だらけの阿波説

848 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:56:51.35 .net
北部九州が東遷した跡がない
むしろ、畿内人が北部九州に西遷している

849 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:57:26.97 .net
>>114
前方後円墳は、吉備楯築→ホケノ山ばかり注目されるが、実は祇園山(上方下円墳)をバラして前後に並べたものと言える。
つまり、被葬者は副葬品から北部九州(後漢鏡5期〜7期、鉄剣など三種の神器)、築造主は吉備(特殊器台)王(別人)と見られることが、前方後円墳誕生の謎を解くカギであろう!

850 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:58:45.00 .net
>>844
九州に7期ないよ

851 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:00:58.01 .net
>>848

祇園山すら畿内系

852 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:01:22.50 .net
>>849
卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲だとすれば北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな

最近、富雄丸山古墳(4世紀後半)の造り出しから蛇行剣(5世紀)が出土し、50回忌前後での制作・追葬と見られることから、
>>114
祇園山(3世紀中頃「有棺無槨」)でも、箸墓(布留0式)より新しい布留1式土器、後のヤマト王権からの寄贈と見られる三角縁神獣鏡、須恵器が出ており、5世紀以降も追葬(供物献上)儀式が行われていたことが判る。
よほど人々の記憶に残る重要人物だったことが窺えるw

853 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:01:34.34 .net
纒向石塚が最初の前方後円墳である

854 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:06:08.00 .net
>>852
筑紫説ですか?
三角縁神獣鏡が出てこないのでアウトです
九州には、投馬国も邪馬台国もない

855 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:06:14.90 .net
>>848
>むしろ、畿内人が北部九州に西遷している

碌に鉄器さえも作れない畿内人では無理!   @阿波

856 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:07:22.00 .net
後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!

まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが互いに矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち巫女であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように曹魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。

すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。

以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。

本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵

857 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:07:34.97 .net
>>853
>纒向石塚が最初の前方後円墳である

倭人(阿波勢力)の作品だがな。   @阿波

858 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:11:40.09 .net
このスレの畿内説を盲信する素人は考古学と文献を比較して文献を軽んじるようなことを平気で言うが、その考え方は誤りだ

考古学と文献は比較するものではなく相互に補完するものだ
考古学だけでも文献だけでも歴史の真実はわからない

松木武彦「古墳とはなにか」の以下の文章を読めば、考古学と文献を照らし合わせて判断することの重要性がわかる

「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」

「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」

859 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:14:10.60 .net
>>114
>>136
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

?265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
?(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)英雄曹操の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
?おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ!いや長里だ!、南だ!いや東だ!と、果てしない水掛け論が継続中w

◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、英雄曹操の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

860 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:14:25.18 .net
>>857
阿波にはどんな国宝がありますの?

861 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:15:19.21 .net
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ
文献を度外視して古墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の一部の考古学者(主に畿内自生説)もその類だろう
邪馬台国の真実は魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く)

862 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:16:22.73 .net
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
予断を排して魏志倭人伝と記紀と考古学を虚心坦懐に照らし合わせれば、必然的にこの結論に至る

863 :琪瑛教大祭酒:2024/04/30(火) 07:16:30.22 .net
卑弥呼の三種の神器は信仰に於ける剣と鏡と玉璽で
継承の神器が三種であったかなんて大王墓の墓が開いとらんのに何を言っとるのか解らんのが九州。
三韓八角墳墓族は三種に百済大刀契が継承レガリア

864 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:18:21.81 .net
>>860
国宝も世界遺産も無い。   @阿波

865 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:20:47.62 .net
>>469
>>464
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒と言いくるめる)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」。この千を超える洗脳スレも当然だw

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

866 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:23:08.23 .net
>>865
>魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説

温暖でないし、「其山有丹」もない。 一致していない。   @阿波

867 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:24:13.87 .net
>>864
国宝や世界遺産は捏造できんからなw

868 :琪瑛教大祭酒:2024/04/30(火) 07:24:17.15 .net
↑これが九州脳、本居もこの程度

869 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:25:59.75 .net
>>865が松傾

870 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:26:32.55 .net
丹=赤土

871 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:27:39.94 .net
畿内説 大和(山と)ホケ(湯気)野に 露と消ゆ

872 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:33:06.35 .net
畿内説 箸(文献)でも棒(三種の神器)でも 空振りす

873 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:34:21.56 .net
畿内が倭国だった証拠無し

874 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:37:58.07 .net
>>833
中1(台与13歳)地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

875 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:47:59.45 .net
>>469
里数表記(倭人不知但計以日)の北部九州(女王国)が倭国であったことは確実だ
しかし本州(出雲吉備大和)は「女王国東渡海千里 複有国皆倭種」であり、後の日ノ本と見るのが妥当だろう

876 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:54:27.11 .net
里数は魏人にしか書けないわけだから、魏使が足を運んだのは里数表記の範囲(四国と考えられる「又有侏儒国在其南、去女王四千里」まで)ということになるw

877 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:56:22.63 .net
つまり九州説はウソ

878 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:04:20.07 .net
>>875
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種

879 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:05:22.45 .net
>>876
魏使かわからん

880 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:07:00.79 .net
>>833
つまり日数表記に依存して(短里を否定)長里(帯方郡から12000里=5400q〜6000q。楽浪平壌/帯方ソウル→東京まで1281q/1147q)としてしまった畿内説は自らの墓穴を掘ったわけだw

881 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:08:29.81 .net
短里と言う脳内妄想塗れが九州説

882 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:09:29.97 .net
でも短里なんて無いんだよ
だって誰も算出してないだろ?

883 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:11:21.64 .net
>>876
倭人は里数なんか知らないよ

884 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:11:35.45 .net
>>880
長(標準)里に依存していた畿内説が跡形もなく崩壊!w

885 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:11:59.29 .net
>>880
だって短里なんか無いんだからしようがねえじゃん
どういう事なのか考えると日数が正しいと解釈するしかない

886 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:14:09.17 .net
なんか畿内説が哀れになってきたな…特にクズタケ先生、やっぱりダメな人だたよ…

887 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:16:37.98 .net
>>876
身長1メートル未満の人間だけが住む小人の国があったってのが九州説かよ
アトランティス大陸は存在した!と言ってること変わらないじゃん

888 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:18:43.69 .net
記述された道程だと九州には辿りつけない
だから九州ではない
あれ?畿内も辿りつけねーじゃん
いや、畿内が邪馬台国であってんだから太陽の出る方角に「南に水行」したんだよ
当時は方向が90度ズレてたんじゃー

どっちもどっち
邪馬台国は沖縄だろう

889 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:18:50.48 .net
>>887
(瀬戸内)海の向こうからやってきて、出雲大国主の掌の上に乗って国造りを手伝った、少彦名命(道後温泉)のことだよ!

890 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:19:29.75 .net
>>888
>>833

891 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:19:59.26 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

892 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:21:37.31 .net
久住猛雄のXポスト
地方短里の可能性を認める

「地方短里は可能性としてはある。
しかしながら「1/10」はさすがに無い。
何言ってんだあー?」

893 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:22:35.56 .net
ダメなクズ タケセンセw

894 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:23:00.47 .net
>>884
>長(標準)里に依存していた畿内説が跡形もなく崩壊!w

通説は理由もなく崩壊とかしないから

895 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:23:54.27 .net
通説はクズされるためにあるw

896 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:25:20.96 .net
>>894
碌に鉄器さえも作れない、通説畿内説ww   @阿波

897 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:25:27.53 .net
>>890
しっくりきたw
だけど箸墓が卑弥呼の墓って前提は崩せないでしょ
そこから考古学()が始まってんだから

898 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:25:44.95 .net
地図と電卓があれば誰でも確認できる客観的事実すら認めない妄想畿内説

899 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:26:33.05 .net
ウソも100回くらい言えば本当になるさ

900 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:26:44.09 .net
>>897
>だけど箸墓が卑弥呼の墓って前提は崩せないでしょ

倭人(阿波勢力)の作だけれどな。   @阿波

901 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:26:56.45 .net
つまり畿内説は馬糞(クズ)の川流れ(跡形もなく崩壊)

902 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:27:31.64 .net
>>898
なぜ短里なの?って話し

903 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:27:32.68 .net
>>900
東海だよ

904 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:29:39.39 .net
だいたい畿内説が正しいと誰もが(心の中で)納得しているんだったら、そもそも所在地論争など存在しない

それが答えだw

905 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:30:56.45 .net
>>901
当時はまだ倭種の国でも
その後は勢力拡大して九州の女王国を支配下に置いて朝鮮出兵までやってんだから畿内はめっちゃ強かったんだよ

906 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:31:23.31 .net
>>897
>>856

907 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:32:27.95 .net
山口の宮ノ洲古墳というのは面白い
三角縁神獣鏡、三角縁盤龍鏡、三角縁同向式神獣鏡
三角縁の種類が豊富

908 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:34:19.03 .net
>>865
>>880
つまり畿内説は白いカラス

909 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:35:11.63 .net
>>902
それを説明する仮説を891で書いた

910 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:35:56.24 .net
>>904
それはド素人の君の完全なる勘違い

911 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:38:50.18 .net
つまり畿内説は完全なる勘違い

912 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:39:25.63 .net
畿内はど素人以下だったのかw

913 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:46:10.11 .net
>>880
畿内説はヒドイな…

914 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:49:46.98 .net
理由もなくただ畿内説を罵るだけじゃ
畿内説に負けましたって告白してるのと同じだよ

915 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:53:08.45 .net
勝負だと思ってるとこがクズの証拠w

916 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:55:24.16 .net
板付遺跡の人々は紀元前1世紀ごろ何処に行ったんだ?
東遷したのか?
出雲なのかなにわなのか

917 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:57:02.49 .net
すいません畿内説は嘘でした
九州説の人ごめんなさい。

918 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 08:58:21.58 .net
>>905
そうだね、
それが日本書紀・不比等の表向き宣言
しかし、その裏は九州倭国の卑弥呼体制容認

919 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:03:24.47 .net
>>917
いいんですよ、誰にでも間違いはありますから
許します!

920 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:03:41.38 .net
遠賀川にもヤマタノオロチ伝説
遠賀川と那津の勢力は対立していたのか、紀元前1世紀ごろ

921 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:03:47.31 .net
斜縁(半三角)神獣鏡は、もう少し縁をななめにすれば、それで三角縁神獣鏡の出来上がりだ

922 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:04:58.41 .net
ナカとは何なのか

923 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:07:01.96 .net
>>115
茶臼山って、桜井の方の茶臼山か?
桜井茶臼山から画文帯神獣鏡19面出てる

924 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:08:40.28 .net
>>921
斜縁に銅鐸紐の外縁部鋸歯紋▲▲▲を入れれば三角縁

925 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:20:40.47 .net
>>923
なんだと…

926 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:23:23.48 .net
>>917
>>919
ただただ気持ち悪い、吐き気を催すようなこの畿内説スレ(掃き溜め)で、2匹の美しい丹頂鶴を見た気分だ

https://youtu.be/c0-1RWLrz4o?si=RCwzDoeXM87MB2Te&t=7862

【セスト】
あなたは本当に私を許して下さったのですね、皇帝陛下
しかし自分を許しはしません 
私はこの過ちを嘆き続けることでしょう
記憶がある限り

【ティート】
汝にできるまことの後悔は、
いつも変わらぬ忠誠よりも価値があるのだ!

【ヴィッテリア、セルヴィーリア、アンニオ】
おおなんと寛大な!そして偉大な!
誰がこれほどの高みにかつて至ったことがあったでしょうか?
私の目からはとめどなく涙が流れます
皇帝陛下の気高い寛大さのために

【全員】
永遠なる神々よ 見守り給え
このお方の神聖な日々を!
ローマに幸せを! この皇帝のある限り!

927 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:25:12.13 .net
>>923
銅鐸祭祀の畿内に北部九州の三種の神器・銅鏡が…まさに東遷の(動く)証拠だw

928 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:33:09.90 .net
年代的には崇神の嫁だが

929 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:37:21.99 .net
クズ先生、記紀を信じすぎw

930 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:46:12.64 .net
つまり畿内説は嘘

931 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:50:12.29 .net
中国では、三角縁盤龍鏡、三角縁龍虎仏像鏡、三角縁笠松神獣鏡、三角縁方格規矩鏡、当境界枠付三角縁神獣鏡などの▲縁を作っている
また、斜縁神獣鏡も作っている
国産説を採るならば、なぜに三角縁と神獣鏡を合わせなかったのか不思議だ

932 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 09:54:38.47 .net
あ、笠松の方は国産か

933 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:23:34.86 .net
畿内説の馬鹿ども
瀬戸内海で水行30日だろ
30日も瀬戸内にいて方角をどうしたら間違えるんだよ
毎日(悪天候は除くとして)
北極星は中国山脈(北)に輝く
太陽の南中(一番高く上がる方角は真南)は四国側だろ
どうしたら間違うんだよ

934 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:30:11.60 .net
楽浪郡🤝九州(倭奴国)
帯方郡と百済🤝畿内(邪馬台国、大和王権)

935 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:31:01.73 .net
>>933
行ってないんだよ
もし瀬戸内海や日本海を水行したんなら、当時の航海技術でノンストップ横断は無理
必ず複数の港に立ち寄るし、いくつもの「国」の存在が倭人伝に記載されたはず

936 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:31:39.73 .net
中国出土の三角縁神獣鏡は、銘文などの違いから日本認定の三角縁神獣鏡とは認められないということでした

937 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:35:40.25 .net
>>351
日本海ルート✕
不弥国(東水行二十日)出雲投馬国(東水行十日)京丹後(東陸行一月)新潟(595?)
瀬戸内海ルート✕
不弥国(東水行二十日)吉備投馬国(東水行十日)大阪難波(東陸行一月)水戸(620?)
>>352
豊後水道ルート〇
不弥国(南水行二十日)日向投馬国(南水行十日)種子島(南陸行一月)沖縄那覇(580?)
→「南陸行一月」は現実の地理ではなく、会稽東冶の東(沖縄)に合わせるための架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

938 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:35:41.74 .net
行ったとみるべきである
なぜ、南にしたのかは、そのような地図があったから
例えば、四海華夷總圖とか古今華夷區域總要圖のような地図

または中華の認識ではかなり南にあると認識していたから、「あるもの、ないものは海南島と同じ」との記述から推認できる

939 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:36:29.08 .net
洛陽近くの骨董市で売られていたという三角縁神獣鏡は出土場所不明
中国から出土したかどうかもわからない

940 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:39:17.21 .net
>>939
だからその洛陽近郊の畑から発見された「三角縁神獣鏡」 と 徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とは、
神像表現が同じであり、同じ工人作である。

また、群馬・川井稲荷山古墳の「三角縁神獣鏡」 と、同じく徳島・宮谷古墳の「三角縁神獣鏡」 とも、
神像表現が同じであり、同じ工人作なのである。   

これは取りも直さず、その同じ工人が、徳島・宮谷古墳付近に暮らし、
「三角縁神獣鏡」を?(ぼう)製していたことを示している。   @阿波   

941 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:40:32.19 .net
当時の倭では西をキタと言っていたせいで倭人から方角を聞いた中国人の認識が実際の方角から90度ズレた

942 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:41:19.63 .net
王趁意が骨董屋で三角縁神獣鏡を見つけたのは2014年
しかし、彼は2010年に出した本で三角縁神獣鏡8面と書いている
2014三角縁神獣鏡は日本出土のものとかなり違いがある

943 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:41:52.20 .net
>>938
あんた、都合よく説明してるだけ
根拠も証拠もない ワハハ

944 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:41:52.20 .net
>>938
あんた、都合よく説明してるだけ
根拠も証拠もない ワハハ

945 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:43:20.18 .net
残念ながら(南→東)に読み替えても畿内説は成立せんのよw

不弥国(奴国から百里7.5?なら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない。

?日本海ルート(出雲投馬国)
?瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
?豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海【千里】複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在【其】南 去女王【四千里】」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使が直接見たわけだから「倭人不知里数但以計日数」、四国を見るルートは?瀬戸内海ルート(吉備投馬国)か?豊後水道ルート(日向投馬国)のどちらかで、?日本海ルート(出雲投馬国)は消えることだ⇩
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg
次に?瀬戸内海ルートだが、ご存じ山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要がなく、さらに水行十日で大阪へ向かうとすると、同様に直線的かつ平坦で道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで「夷(倭)人不知里数但計以日」、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判る。

仮に大阪から陸行一月(20?×30日=600?)すると、邪馬台国女王之所都は横浜(486?)東京(498?)大宮(520?)から水戸(620?)となり、其南有狗奴国は北(蝦夷)になってしまう。

946 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:44:37.01 .net
>>945
身長1メートル未満の人間だけが住む小人の国があったってのが九州説かよ
アトランティス大陸は存在した!と言ってること変わらないじゃん

947 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:44:45.69 .net
李朝で作られた
混一疆理歴代国都之図
ひれ伏せ

https://i.imgur.com/eh8uvU2.jpeg

948 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:46:47.85 .net
>>945
残る?豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折しアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

さらに?豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、合計12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟み撃ちしようとしたため、(有明)海にしか逃げ場がなくなり絶体絶命の卑弥弓呼と狗古智卑狗(鞠智彦)は「窮鼠猫を噛む」で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かった政治的な軍事情勢も判明し、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

949 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:47:51.89 .net
>>946
>>889

950 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:49:59.83 .net
>>947
ヤマト政権が「南」にあるはずの邪馬台国を名乗ったからそんな地図になった、とかありそうw

951 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:50:10.65 .net
>>947
狗奴国(狗古智卑狗)はどこだ?w

952 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:50:45.96 .net
>>951
畿内が狗奴国だな

953 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:51:54.02 .net
フィリピンと間違えただけに見えるが

954 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:53:16.79 .net
>>952
>>833

955 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:56:20.68 .net
ヤマトタケルも倒した相手の名前を奪ってたな
ヤマト政権らしいこと
「ヤマト」の名前は誰から奪ったのやら

956 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 10:59:15.92 .net
>不弥国(奴国から百里7.5?なら宗像、もしくは直方平野=遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない。

帯方郡から南水行二十日で投馬国・・・魏使の梯儁の報告書からの引用
帯方郡から7000里で狗邪韓国・・・公孫氏の残した資料からの引用
同じ行程を時間と距離で説明したもの

957 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:02:05.48 .net
>>956
朝鮮半島南部が投馬国で投馬国の中に狗邪韓国が在ったんだ

958 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:02:23.22 .net
王仲殊は景初4年斜縁盤龍鏡を「三角縁神獣鏡」と呼んでいたし、三角縁盤龍鏡を「三角縁神獣鏡」という学者もいる
森浩一は「三角縁盤龍鏡は三角縁神獣鏡にカウントするな」と言っている
また、かつては斜縁神獣鏡と三角縁神獣鏡は区別されていなかった
さらに、三角縁方格規矩鏡や三角縁龍虎仏像鏡など色々な三角があるのだから、卑弥呼がもらった銅鏡100枚は三角縁神獣鏡そのものか、その祖型で間違いないでしょう

959 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/30(火) 11:05:49.11 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1714440151/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

960 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:06:11.65 .net
>>955
>>505

961 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:08:08.39 .net
という根拠のない願望

962 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:09:04.01 .net
>>953
東南アジアは漢書地理志の最後に有るけど
1月行は、陳寿の暴露で2千里が解明したけど
方角が無いので、中国名入りの略図が有ったはずなんだ。

自 日南 障塞 徐聞 合浦 船行 可 五月 有 都元國
又 船行 可 四月 有 邑盧沒國
又 船行 可 二十餘日 有 ?ェ離國 步行 可 十餘日 有 夫甘都盧國
自 夫甘都盧國 船行 可 二月餘 有 黄支國

民 俗 略 與 珠?w 相類 其 州 廣大 戶口多 多異物 自 武帝 以來 皆 獻見
有 譯長 属黄門 與 應募者 俱 入海 巿 明珠 璧 流離 奇石 異物 齎 黄金 雜??
而 往所 至 國 皆 稟食 為 耦 蠻夷 賈船 伝送致之 亦 利 交易
剽 殺人 又 苦逢風波 溺死 不者 数年来還 大珠 至 圍二寸以下

平帝 元始中 王莽 輔政 欲 燿威?コ 厚 遺 黄支王 令 遣使 獻 生 犀牛

自 黄支船行 可 八月 到 皮宗 船行 可 八月 到 日南 象林界 云
黄支 之 南 有 已程不國 漢 之 譯使 自 此 還 矣

963 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:14:33.00 .net
>>946
伊豆の神津島が小人の国だな。   @阿波

964 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:16:30.64 .net
みんな、やっと判ったぞ!つまりこういうことです⇩

魏志倭人伝の邪馬台=筑紫(脊振【山】南麓の舌状【台】地、吉野ヶ里)
後漢書東夷伝の邪馬台=大和(【山門】▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)
隋書倭国伝の邪靡堆=阿蘇【外】輪【山】。裴世清が来る途中で通り過ぎた筑紫(↖則魏志所謂邪馬臺)吉野ヶ里(女王之所都)と混同
https://pbs.twimg.com/media/GMTfAfuaEAEBmVS?format=jpg

3世紀の魏志倭人伝も、5世紀の後漢書東夷伝も、7世紀の隋書倭国伝も、それぞれ「当時の倭王都」筑紫(山台)→大和(山門)→阿蘇(山外)を倭人にちゃんと確認して書いたんだよ!
ところが3都ともすべて「ヤマトYAMATO」という発音だったから、当時の中国人も、現代日本人もみんな大混乱というわけw

ではなぜ山門(▲二上山▲=河内平野⇔大和盆地の出入り口の門柱)が大和という漢字表記になったのかの経緯だけど、
3世紀後半の266年、曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したという帯方郡使の報告を聞いた「親魏倭王」筑紫邪馬台国女王台与は、共立巫女だけに政権基盤がぜい弱で跡継ぎもいないことから、本州の覇権を握っていた吉備ヤマト王権に倭王権を禅譲。
新旧の倭王権で揃って西晋武帝に朝貢して「複立男王 並受中国爵命」と書かれ、複立男王は初代大王として吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、外交上の混乱を避けるために、山門(▲二上山▲)に「倭」という漢字を充てた。
5世紀に入ると倭の五王(讃珍済興武)が百済を属国にしたため(広開土王碑)、「大」を加えて「大倭」と改めた(後漢書東夷伝)。
6世紀になると厩戸王子が憲法十七条「和を以て貴しとなす」で「大和」と改めた、ってわけw (๑•᎑<๑)ー☆

965 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:20:23.09 .net
ちなみに、倭の五王(讃珍済興武)は初めは河内にいたんだけど、南朝に朝貢して安東大将軍号を得て半島派兵が順調に軌道に乗ると、宇佐八幡宮を大本営として負傷兵を別府温泉で治療回復させながら、半島派兵を繰り返していたため、九州にいた方が何かと便利じゃね?wという話になって、527年筑紫君磐井の乱をキッカケとして継体が河内(大和)から阿蘇邪靡堆(山外=阿蘇外輪山)に西遷しちゃったんだよ!

その名残が、継体が傀儡の武寧王を通じて百済を完全な属国にしたことから中国南北朝(二帝並立)の隙を突いて(中華皇帝=宇宙の支配者による冊封からの独立を意味する)九州(倭国独自)年号(熊本県玉名郡和水)石原家文書、今城塚古墳の阿蘇ピンク石棺、万葉集の鯨漁の淡海(✕琵琶湖○有明海)、そして新羅からの朝貢で図に乗って607年隋の煬帝に「日出処天子」を名乗った阿毎多利思比孤(天から垂れた彦)。そして大和にいた分家(留守番)欽明の孫・推古と摂政厩戸王子。

その後、天智の代で阿蘇山が大噴火して都の阿蘇邪靡堆(山外)が壊滅したため、筑紫に太宰府を築いて北遷。
そして633年白村江で唐新羅連合艦隊に完敗して、瀬戸内海を逃げるように近江大津宮へ東遷。そして大和分家の天武と合流して(天智天武兄弟の秘密)、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が唐外交に水を差すことが確実な継体創始の九州(倭国独自)年号や「日出処天子」阿毎多利思比孤の存在を消し去るため、古代史のすべてを中華皇帝(宇宙の支配者)とはほぼ無関係だった大和分家(留守番)の歴史として書き換えたのが記紀ってわけ。
たとえば、聖徳太子=阿毎多利思比孤(冠位十二階)+厩戸王子(憲法十七条)(⁎⚈᷀᷁ᴗ⚈᷀᷁⁎)

966 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:36:13.23 .net
つまり九州説はウソ

967 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:44:02.24 .net
>>964
>>965
以上、倭王権の変遷をまとめてみますた!

57年漢委奴国王(奴国博多)→107年帥升(伊都国)【倭国大乱】
→239年卑弥呼・247年台与(筑紫吉野ヶ里・邪馬台=脊振【山】南麓舌状【台】地)
→266年(魏→晋への禅譲に倣い)台与がヤマト吉備王権へ禅譲(大和崇神朝→河内応神朝)
→527年筑紫君岩井の乱で継体朝が阿蘇邪靡堆(山外)へ西遷(ピンク石棺)
→607年「日出処天子」阿毎多利思比孤(阿蘇山祷祭)
→阿蘇山大噴火で都・邪靡堆(山外)が壊滅し、天智が北遷(太宰府)
→663年白村江完敗で東遷(近江大津宮)
→672年壬申の乱で天武持統朝(飛鳥・藤原京)へ

968 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:56:11.94 .net
>>909
短里は存在しないから仮説になってない

969 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 11:58:20.16 .net
やっと本当の歴史が見えてきたような希ガス

970 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:01:32.91 .net
>>967
大宰府から遺跡が出て無いから

971 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:03:44.99 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
これで何の問題もねえじゃん

972 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:15:04.97 .net
>>967
天智時代の太宰府は時期的に前期難波宮と同じ掘立柱、って優香、むしろ前期難波宮が太宰府を模した可能性が高い

973 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:16:10.13 .net
つまり九州説はウソ

974 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:19:31.92 .net
>>967
継体の王宮(樟葉、筒城、弟国、磐余玉穂)跡から何も出てこない理由はそれか!

975 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:19:39.81 .net
>>972
古代律令制下にあって外交を握り、西海道(九州)諸国(九国二島)も統括した大宰府の中枢です。東西111.6メートル、南北211メートルの政庁では重要政事儀式が執り行われていました。建物は大きく三期に分かれ、7世紀後半の掘立柱建物群に始まり(I期)、8世紀初頭には礎石建物に建て替えられ(2.期)

976 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:25:24.92 .net
>>975
すると650年〜663年白村江完敗(近江大津宮へ東遷)に、阿蘇山大噴火で都・邪靡堆(山外)が壊滅し、天智が太宰府を築いたということになるね。
もちろん近江大津宮のように仮宮程度のものだった可能性もあるが...

977 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:36:57.46 .net
このように九州説は妄想が好き

978 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:40:52.19 .net
楼観なし厳設城柵なしの纏向は古墳造営キャンプだよ

979 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:42:22.11 .net
古墳が完成したらお役御免になる施設

980 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:47:12.00 .net
大型建物の柵がとにかくショボいw 東海狗奴国・卑弥弓呼と戦時中の王宮だなんてとても思えないw
鍬の再利用の木製仮面を付け、桃とカエルの御馳走で葬式をしていたセレモニーホールじゃね?

981 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 12:59:25.62 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

982 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:03:51.48 .net
寺澤の本を読むと畿内説になれる

・伊都国の副葬品はこんなにすげーんだぞ
三雲南小路すげー
井原鑓溝1号甕と2号甕を合わせると60近くの銅鏡すけー
平原王墓の超大型鏡含む40面すげー

・奴国の副葬品はこんなにすげーんだぞ
須玖岡本、銅鏡32面、銅鏡の種類も多彩すぎてすげー

那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡1面

これで九州説をやめました

983 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:04:18.77 .net
>>978
そう考えるとすぐ廃棄されたことにも筋が通る

984 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:07:48.97 .net
つまり畿内説は東遷の錯誤

985 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:11:14.45 .net
邪馬台国畿内説は纒向説であると言ってよい
久住も纒向が邪馬台国の本拠地としている
すなわち、邪馬台国大和説と言ってる学者は、ほぼ「纒向説」であると言って良い

986 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:13:42.48 .net
後漢時代からの連続性がない纏向は都合が悪い

そうだ!後漢書をなかったことにしよう!

987 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:20:10.84 .net
三雲・井原地区は古墳時代まで続いたというから、ここは伊都国でしょう。
しかし、伊都国は筑前型庄内甕や北部九州型布留甕にも消極的。
前方後円墳も作らなかった。
王家の誇りがあったのでしょう。

前方後円墳を作ったのは100年後の一貴山銚子塚古墳。
三角縁神獣鏡8面は、それより100年前の福岡苅田町石塚山古墳7面を上回り、九州では最多の三角縁神獣鏡だ。

988 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:26:48.64 .net
>>968
久住猛雄「地方短里は可能性としてはある。」

989 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:41:57.71 .net
クズタケはいらん!

990 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:44:26.72 .net
中国では、境界枠付三角縁神獣鏡と呼ばれている鏡だが、日本の「三角縁神獣鏡」の定期は厳しく、境界枠付三角縁神獣鏡は、日本では三角縁神獣鏡ではなく、「重列神獣鏡」という名前で呼ばれているという

991 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:45:57.97 .net
つまり邪馬台国は纏向で確定したのか

992 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:46:45.15 .net
邪馬台国は近畿全体のことらしいよ

993 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:47:46.21 .net
纏向に後漢時代からの連続性はない
https://i.imgur.com/4BF9hdS.jpeg
265年に魏が滅亡 → 台与が失脚
266年の朝貢を最後に九州の倭国連合が崩壊 → 鉄利権が畿内に移る

後漢時代から続いた大倭王の歴史は魏の滅亡とともに終わった
一方、東の倭種の歴史は同時代のハツクニシラス大酋長から始まる

994 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:49:33.01 .net
鳳山(帯方郡治)→天安(月支国) までの千里220Kmは約半分ほどにはなってるが、魏里に近いと言えよう
1里が100mにも満たない短里は一体どこで使われたのであろうか?

995 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:52:17.77 .net
>>991
学者は邪馬台国畿内説ではなく、邪馬台国大和説と言います
では、その大和は「纒向」でいいか質問すると、纒向であるとの回答があった

すなわち、邪馬台国九州説と邪馬台国畿内説があるのではなく、邪馬台国九州説(絶滅危惧種)と、邪馬台国纒向説を教科書に載せるべきである

996 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:56:54.21 .net
纏向はもちろん大和でも7万戸は難しいよね

997 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 13:59:24.09 .net
>>996
畿内第V様式圏

998 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 14:02:00.32 .net
王趁意の三角縁神獣鏡は確かに出所不明であるが、通常の三角縁神獣鏡より小さく、中国鏡の可能性は非常に高いと言える

999 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 14:07:14.77 .net
纒向こそ邪馬台国の首都である

1000 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 14:07:34.02 .net
ネトウヨボクメツタイとかいう💩をなんとかしないとな

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

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