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侠客の歴史

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0.net
清水次郎長

1053 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/21(月) 05:27:20.23 ID:ONYRGj0h0.net
次郎長生家を市に寄付 静岡所有者「地域のお役に」

中日新聞 2018年5月21日
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20180521/CK2018052102000041.html 

> 三月に国の登録有形文化財に登録された、幕末、明治の侠客
> 清水次郎長(一八二〇〜九三)の生家(静岡市清水区美濃輪町)を、
> 所有者が静岡市に寄付し、六月から市の施設になる。
> 今後は市が主体となって観光客の呼び込みや、まちづくりに生かす。

> 二十日、静岡市清水区島崎町の清水テルサで寄付の贈呈式があった。
> 次郎長生家の現在の所有者服部千恵子さん(74)や静岡市、市財界の関係者らが出席。
> 服部さんが目録などを田辺信宏静岡市長に手渡した。
> 服部さんは「協力してくれたみなさんのおかげで文化財になった。
> 地域のために役立ててもらえるとうれしい」と話した。

1054 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/24(木) 17:50:51.41 ID:POxaKVerA
>>963
「博徒と自由民権」
1977年に中公新書から出版され、その後1995年に平凡社から出版されています。
別の機会に「侠客 原田常吉」を「東海遊侠伝」と対比したい、という記述がありますが、
きっとそれが水谷藤博氏に託して「東海近代史研究」に発表された論文なのだと思います。

>>1005
小松村七五郎
石松の知人であったというだけで、どれだけ清水一家とかかわりがあったかは不明ですね。
戸羽山 翰の「清水次郎長正伝」には、亡くなった時に「香奠もとどかなかったという。」との記述があります。
さすがにこれは想像を膨らませすぎだとは思いますが、「奥郡遊侠伝」という本では、
都田一家とともに石松をだまし討ちにした、ということにまでされています。

>>1038
「次郎長」も父親の名前が「治郎八」(あるいは「治郎右衛門」)だから
「治郎長」た正しい、と言われていますね。
榎本武揚が墓石に誤って揮毫したのが間違いの始まり、とどこかに書いてありましたが、
それ以前に天田愚庵が「東海遊侠伝 一名次郎長物語」で「次郎長」と書いています。
当て字も頻繁に使われていた時代ですし、身近にいた学のある養子が書いているので
「次郎長」でいいと思っています。

>>1047
同じく「清水次郎長正伝」には勝蔵とかかわりのあった女性として、
浜松の「お時」、雲風の亀吉の家で知り合った「お繁」、古市の「お君」、
安東文吉の家で知り合った「お京」という名前を挙げています。
小説的要素もある本なので、どれほどの信憑性があるかはわかりませんが。

>>1052 1053
20何年か前、「奥郡遊侠伝」は市販はされていないようで、愛知県立図書館で閲覧可能です。
親常吉、嫌次郎長の立場で書かれた小説で、新たな事実を求めたり、
様々な考証をするにはやや不向きな本です。

1055 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 14:21:51.36 ID:Wop9QL++0.net
盗賊、侠客から妖術使いまで 江戸の悪人が集結する『江戸の悪』展が再び

展覧会『江戸の悪 PART II』が6月2日から東京・原宿の太田記念美術館で開催される。

会期中は都内の様々な会場で「悪」をテーマにした展覧会が開催。
歴史資料や創作物の中の「悪人」および「ヒーロー」の虚像と実像に迫る『悪人か、ヒーローか Villain or Hero』が
6月6日から東京・駒込の東洋文庫ミュージアムで開催されるほか、
東京・渋谷の國學院大學博物館では6月1日から『惡―まつろわぬ者たち―』、
東京・銀座のヴァニラ画廊では5月30日から『HN【悪・魔的】コレクション〜evil devil〜』、
東京・半蔵門の国立劇場伝統芸能情報館では6月2日から『悪を演る ―舞台における悪の創造―(仮)』が行なわれる。

https://spice.eplus.jp/articles/188002

1056 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 22:25:01.70 ID:ajR4hOVOE
>>1054
丁寧な返信を誠に有難うございます。
「奥群遊侠伝」とは、また全く知りませんでした。貴重な書籍の情報を有難うございます。
再度東海地方へ行って探す必要がありそうです。

「治」の字に関しては、小金井小治郎についても皆木先生が同じ様な事を書いていらっしゃったことを
思い出しました。
なお吃安さんに関しては、当時の資料にまんま「吃安」と書かれているので、
これで良いのだと思うに至った次第です。

このスレッドにぽつぽつ書いてたおかげで、凄い人たちから、いろいろ情報をいただけて
知識が広がりました。また、最近の新しい催しものや書籍の情報を書き込んでくれる方もいて、
非常に勉強になります。ありがとうございます。

1057 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 22:32:28.71 ID:ajR4hOVOE
こういうやり方はフェアじゃないかもしれないけれど、
濃州水野弥太郎に関して、詳しい人は何か書きこんで下さい。
当方知っていることは、岐阜市史(近代偏T)の270頁から数枚の加納宿熊田助右衛門の「御用留」
に記されていることぐらいです(国会図書館の提携図書館なら近デジから閲覧可能)。
有名な新撰組の藤堂某と親しい間柄だった、というから詳しい方もいるかもしれないと思うので、
宜しくお願いします。

1058 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 22:42:20.99 ID:ajR4hOVOE
慶応年間に勝蔵と行動をともにした親分として、平井の雲風、宮島の重吉(年蔵)、
安居山の佐左衛門と並んで、「遠州の米吉」いう人がいる。
多分袋井宿あたりの侠客だろうが、情報が全くない。
ただ、この人終始三人の女連れ(妾or妻と言う)で旅をしたという。同地には山梨巳之助、堀越藤左衛門、大和田友蔵、四角山周吉らが
絡んでくるが、米吉に関してはとんとわからない。

1059 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/26(土) 22:24:09.19 ID:AxPICJaD5
嘉永二年、九月六日石原村の幸次郎以下の博徒は、甲州鰍沢で土地の博徒「周徳」
を殺した。この情報は各地の「御用留」に記録されており、結構有名な事件である。
しかし、崩し字のこの「周徳」、「目徳」とも読める。という訳で現行では二派に分かれる。

目徳だった場合は、何か綽名を縮めたものだろう。たとえば「目玉の徳太郎」とか。
周徳の場合は「号」とも考えられる。僧侶か、あるいは医師か。(事実「医師」とされる資料もある。)

いずれにせよ、同じ甲州青柳村の市松・寅之助に遺恨を持たれたのが、殺害理由らしい。また「津向文吉」の
一番子分だったとも、言われる。
墓があればいいのだが、調べた郷土史家もいないだろうし、あのように過疎化が進んだところで
草に埋もれた廃寺の墓地・墓石を一基づつ調べるのは相当な根気がいる作業だろう。

1060 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/29(火) 22:05:39.19 ID:1nRnKgnYM
京屋の庄八

1061 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/29(火) 22:24:27.78 ID:1nRnKgnYM
幕末期の甲府(またか…)の遊郭は何と言っても柳町にあり、
そこには松阪屋、三井楼、三星屋、京屋などの女郎屋があった。(表向きは奉公人の娘であるが)

三井楼は言うまでも無く三井宇吉の本宅で、「両国屋」ともいい、宇吉倅の豊助(豊之助)が営業していた。豊助は宇吉と同じく十手は預かっていたが、博奕打ち親分ではなかったようだ。
「京屋」の主・伝六は宇吉の一派に属し、有能な岡引親分でもあった。宇吉が殺された際には処方に連絡をとって情報を集めている。また、慶応3年に、大場久八が甲州谷村で捕まり、甲府牢に移されると、その放免のための運動にも力を尽くした。

伝六と血縁にあるかは定かでないが、彼の跡を継いだのが庄八郎。(姓は林)京屋庄八郎を縮めて「京庄楼」という遊郭を営んだ。
彼の代に、柳町遊郭は→新柳町→増山町と火災に会うごとに拠点を移していった。

「安東文吉伝史料」によれば京屋の庄八は、安東家一家系列の親分となっている。
おそらく伝六の代に三井一家から、安東家一家に移ったのだろう。

1062 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/30(水) 21:32:32.15 ID:Ec03tC0IQ
小金井小次郎に関して
天保11年、3月25日の二ツ塚の喧嘩において、小川の幸八、堀端の与三兵衛、上鈴木平親王平五郎、八軒新田栄次、上連雀の嘉助らと
小次郎、万吉、一ノ宮万平子分の政次が戦った喧嘩に、小川用心棒の「伊勢原郷右衛門」という用心棒が加わったと『慶応水滸伝』には記されている。
この伊勢原郷右衛門、「今鬼月丹」の異名を取る剣客だが、小次郎との一騎打ちで肩腕を斬り落とされる。
もちろんこれはフィクションであるが、この伊勢原のモデルとなったのは、おそらく天然理心流の、恐れ多くも、達人「井滝伊勢五郎先生」。
とかく試合の際に「胴(腹)」を打つのが得意だったため「伊勢腹」と綽名された。
井滝先生、かつて門弟の広言から江戸の神道無念流の高名な剣客と立会うはめになり、試合の際に「胴が打てるな」と思ったが、後のごたごたを慮って、
剣を引いたという逸話を持つ達人である。(結果、両者引き分けとなった。)悪い事にこの一件もまた五日市街道沿いの野で行われたため、当時の里人の記憶に残っていたのだろう。これを柳亭種彦が、話のタネに盛り込み、小次郎の仇の浪人のモデルとした。

正味な話、もし実際に「伊勢腹」先生が小次郎と立ちあったら、小次郎に命は無かっただろう。

「伊勢腹」先生が亡くなった日時は「指田日記」に記録されている。近村に稀な程の剣術の達者だったことは間違いない。

1063 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/05(火) 21:18:52.03 ID:Wb9XtxYvE
夜に酔っぱらって良い気になって書くから、誤字や意味不明な箇所が多い。
1049は、

「目明しとは『通り者』と呼ばれる者達の中で、特に『権力によって承認された者』のことを言う。彼らの存在意義は芸民の農村部への流入の『入口』となることである。
言い換えれば、芸民と農民と直接交渉を回避するために目明しは存在しているのである。
この考察は、まさに目から鱗というものだ。」

としたかったのだ。

1064 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/06(水) 17:43:04.47 ID:3LXaxzTj0.net
博徒の幕末維新
高橋敏著 ちくま学芸文庫

文庫判 256頁
発売予定日 2018/06/07
ISBN 9784480098740
JANコード 9784480098740
本体価格 1,000 円+税

2004年に出版され、その後長く品切れとなっていた
ちくま新書版を文庫化。

1065 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/07(木) 23:11:18.37 ID:8NgOk3P8r
昔から疑問なのだが、
百姓は公文書に苗字を入れることができない。にもかかわらず墓石は勿論、石造物(庚申塔・馬頭観音・題目塔)では苗字の表記が許されている。
以前、この理由を近隣の郷土研究者に聞いたら、「地下の世界」であるから、現世のルールに従わなくて良いのだ、とのことだが本当だろうか。
任侠の徒も親分・兄弟分の墓石に自分の名を入れる時は苗字を入れる。

静岡県富士市、旧岩渕から富士川を越えて市内に入る大橋の渡りきった先に、「水神社」があり、この境内にある灯籠には川を行く船人の名がズラりと刻まれている。
しかしこれは名ばかり(吾兵衛、吉五居など)で名字なし。
いかにも暴れ川と共に生きた男たちと云う感じで、とてもインパクトが強い石造物である。

1066 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/08(金) 23:01:35.44 ID:GbEE2NlYq
去年の話で恐縮だが、
福島県の「守山藩御用留」(およそ160年分)が重要文化財指定されたそうだ。
そして、どの媒体でもあまり言及されていないが(私が知らんだけかもしれんが)、
これこそ阿部善雄氏が『目明し金十郎の生涯』の全ての元にした史料。

『金十郎』の「あとがき」には
土埃にまみれながら、昭和三十年代にこの史料(143冊)を笑顔で大事に抱える著者の姿が自身の筆で活写されている。
多くの研究者が見向きもしない中で、彼だけがその価値を十分に認識していたのだ。

1067 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 05:13:01.86 ID:gBSe9alV0.net
「戊辰物語」(岩波文庫)と題する本を手にした…
=2018/05/28付 西日本新聞朝刊=

▼維新の年の旧暦5月、上野戦争が起きる。
旧幕府方は上野の山に陣を構えたものの、わずか1日で撃破された。
辺りは戦死者で覆われたが新政府は反逆者として埋葬を禁じたという

▼「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」。
処罰も恐れずに地元の侠客が寺に手厚く葬った、と本書は伝える。
新しい国づくりを夢見た者たちだけではない。
徳川家への忠義に殉じた人たちの戊辰の物語もある。

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syunzyu/article/419957/

1068 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/12(火) 12:43:29.21 ID:2DxxaYMiQ
1054です。
著者に失礼だと思い控えめな書き方をしましたが、「奥郡遊侠伝」は史料的な価値はあまりないとお考えいただいた方がいいかと思います。
なので、名古屋から遠い地域にお住まいであれば、この本のためにわざわざ遠征するのは労力や費用がもったいないと思われます。
紹介しておいて、申し訳ありません。

小松村の七五郎の香奠に関しては、「次郎長から」とのいうのが抜けていました。
七五郎、久六やその子分、都田一家などははっきりした足跡があるのに、肝心の石松だけが謎が多いままですね。

最期の段落、中途半端なところで送信してしまっていました。失礼しました。
20数年前に初めて次郎長生家へ行った時、当時の当主の方が、清水には医者がいないから次郎長さんが医者を清水に招いた、という話をしてくださいました。
「東海遊侠伝」にも登場する親交があった医師がいたはずなのに、その方はどうなったのだろう?とちょっと不思議です。

>>1064
「博徒の幕末維新」だったと思いますが、貴重な吃安さんの手紙や生家の記録等が載っていたと思います。
子母澤 寛氏や今川 徳三氏がずっと以前に甲州の博徒を調べていましたが、なぜ当時はそれらの史料を見せてもらうことができなかったのか、それも不思議です。勝蔵が、堅気のはずの吃安の兄を「博徒の巨魁 甚兵衛」とした謎もあっさり解かれています。

岐阜の水野弥太郎については、ご存じだと思いますが
「博徒の幕末維新」高橋 敏
「黒駒勝蔵」加川 英一
「黒駒勝蔵の『赤報隊』参加について―水野弥太郎冤罪・獄死事件―(東海近代史研究 第4巻)長谷川 昇
が出版されているものでは詳しく書かれたものだと思います。
長谷川教授の論文の引用、参考文献をたどれば多少何かが出てくるかもしれません。

1069 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/17(日) 00:19:34.03 ID:E5y1oHm8X
「東海近代史研究 第4巻」も熊田助右衛門の日記の引用が主ですが、それ以外だと、
元新選組隊士の永倉新八の聞き書きをもとにした箇所がある「新選組始末記」(子母澤 寛)、
文献の記載はありませんが新選組の高台寺党の一員で赤報隊にも参加した阿部十郎(隆明)が後年史談会で語った話、
「山の民」(江場 修)、
綾小路卿と楽総三を結び付ける役割を果たした吉仲直吉という人物が史談会で語った回想談「吉仲直吉実歴談」、
「復古記」があります。
「新選組始末記」、阿部十郎の話、「山の民」という本にはちょっと名前が挙がっている程度です。
「吉仲直吉実歴談」という本があるのかは不明ですが、弥太郎へ援助の要請に行き、人数と金を出してもらったという回想録が載っています。
「復古記」は引用されている箇所は主に弥太郎の処刑について、のようです。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能なようです。
照らし合わせてはいませんが、「黒駒勝蔵」(加川英一)は「東海近代史研究 第4巻」を参考文献に挙げているので、同様の内容が載っているかもしれません。

ご参考までに。

1070 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/17(日) 22:51:26.90 ID:lwREGAWGn
>>1069
まったくご丁寧な返信を給わり恐縮します。また博識さには、いつもながら舌を巻くばかりです。
安部十郎の話や『山の民』というのは全く初耳でした。機会を得て探してみようと思います。
また「復古記」は読みでがある本のようですが、膨大で細かく、ちょっと気合をいれないと手がつけられそうにありませんね(笑)。
岐阜の弥太郎さんの資料としては、私は最近ようやく信濃屋喜兵衛の「覚え書」を見る機会があり興味をそそられました。
東海地方という所は筆まめな名主さん(庄屋さん?)が多くいたようで、「覚え書」と同じような興味深い古文書がまだ旧家に現存しているかもしれないという期待を抱かせる場所ですね。

1071 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/17(日) 23:07:27.90 ID:lwREGAWGn
ちなみに
吃安さんの宗旨人別帳を含む中村家の古文書に関しては、実は竹内勇太郎氏がすでに昭和期に誌面で公表しています。
書籍の名前は今ちょっと思い出せず、「吃安の手紙」まで紹介されていたかは記憶にありませんが、安五郎=安蔵はその時言及されていました。
書籍が見つかったらまた報告します。
中村家の文書が子母澤寛氏の研究の際に出なかった理由は、
その時代には竹居の一家を継いだ久義氏が未だ健在でいたため、そちらの家を真っ先に訪問し、
結果「甚兵衛家」の古文書には当ることがなかった、というのが理由ではないかと(やや苦しいですが…)思います。
吃安さんの手紙は二通あり(千葉の歴民博のアウトロー展のパンフに写真が載ってます)、一通はウィキペディアにすら翻刻文がありますが、
あまり世間に出ていないもう一通の方は、「下条丈右衛門」と云う人に入牢中随分世話になった旨が記されています。
丈右衛門は長坂村(現・北杜市)の群中惣代を務めた人物なので、
この手紙は天保13年か14年、甲・信の間に収監されていた吃安さんが、其の地で書いたものと推測したいところです。

1072 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:04:24.12 ID:wmeTQdj00.net
https://mainichi.jp/articles/20180622/ddl/k12/040/097000c
浮世絵展 房総ゆかりのヒーロー描く 東金で30日まで /千葉

> 江戸時代の房総ゆかりの人物や事件を題材にした浮世絵など36点を展示した
> 「浮世絵でつづる房総人物伝アウトローたち」が
> 東金市求名の城西国際大水田美術館で開かれている。
> 30日まで。

> 浮世絵「天保水滸伝」は、幕末に利根川下流域を根城にした博徒らによる抗争を
> 中国の小説「水滸伝」にたとえて脚色した物語を、三代歌川豊国らが描いた。
> 歌舞伎の人気役者が演じる入れ墨を背負った博徒の親分や、
> 大立ち回りの場面などが色鮮やかに迫力ある版画で表現されている。
> 後に歌舞伎の演目や読み物にもなり、庶民の間で広く親しまれた。
> 山口真理子学芸員は「数千人の岡っ引きに囲まれて戦い、自決する博徒が、
> お上に抵抗するヒーローとして当時の人気を集めたようです」という。

1073 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:24:46.51 ID:UhbOfy+iK
八王子横山宿の伊野亀吉事、通称蕎麦亀親分は天保7年の生まれ。
その侠客ぶりは、三田村鳶魚、増田知哉氏らにも、その道の規範として絶賛されている。
杉本万平(一ノ宮)から井上勘五郎(大塚村)を通して、一ノ宮一家の跡目を継いだ。しかし、その出生は判然としていない。
本当のところ、彼は八王子横山宿の出生ではなく、一ノ宮隣村の「寺方村」の生まれである。
実兄に栄三郎がおり、実家はその嫁と他に実姉一人、姪二人、甥一人の大所帯。
文久三年に突然欠落し、以降諸国を回って遊侠生活をしていたが、九年後の明治4年、ひょこっと故郷に帰り、
そのまま「八王子横山宿十四日場」に転出している。
彼の談によれば「どうしても伊勢の大神宮が見たかった」ことが欠落の理由と云う。
さらに「旅の途中大病に罹ったため、薬代を稼ぐため日雇い渡世をして稼いだ」そうだ。
これらが事実かはわからぬが、伊勢の丹波屋伝兵衛を後に世話した事実とは無理なく繋がる。
また帰住の歎願書に、この手の文書につきものの「農業を厭い、大酒を飲み遊び歩く」
という文言が付いていないのが印象深い。彼はおそらく百姓としても真面目な性分だったのだろう。
あるいは家族が多い故、実家の口を減らすため、遊侠生活をし選んだのかもしれず、
結局のところ、いろいろ調べてもやはり、亀吉に関しては「凄い人だ」との結論に至ってしまう。

1074 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:59:31.89 ID:ke5ieKxrl
ずいぶん前に(467あたり)武州に黒駒勝蔵の縄張りは無い、と書きこんだが
甲州街道の吉野宿(現・相模原市)には「惣太郎」という勝蔵直参の子分がいて、地域の親分格になっていたようだ。
このスレッドを書くようになってから新しく知ったことが多くあり、今読むと過去の書き込みには明らかな誤りも多くてとても恥かしい。
その時は、それが唯一の真実と思いこんでいたのだ。この辺に自分の器量の狭さがうかがえる。

1075 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 23:13:48.39 ID:ke5ieKxrl
長谷川伸先生の「八丈つむじ風」は黒須の大五郎を主人公にした小説であるが、七割方嘘である。
しかし、小説としては優れており、特に物語冒頭に大五郎が、後に自分の親分となる「今五郎」と喧嘩するシーンは考えさせられるものがある。
喧嘩自体は圧倒的に大五郎の勝ちであるが、老年の博徒親分・今五郎(所沢の商人に扮している)は、強力の大五郎に投げ飛ばされ、更に椅子を振りかざす大五郎に向かって、
不敵な笑みを浮かべ、「こいつは俺の歩が悪い、負けておこう」と言う。これを見て、むしろ勝利者の大五郎の方が恐怖にぶるぶると震える。
要するに「侠客の強さ」というやつは腕っぷしや武芸に依るものでないことを如実に示しているのだろう。
「負けっぷりの良さ」も侠客の一つの美徳なのである。

1076 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/09(月) 21:58:49.71 ID:WYul60dLw
松本捨助という人は近藤勇や土方歳蔵らと同流の友人で、腕の立つ剣客
実際に勝沼での戦いには新撰組隊士として戦ったと言う。
他方、小金井小次郎と兄弟分の付き合いをする程の侠客であり、小次郎留守中には
一方の有力親分として地域に君臨した。この辺のことは(『黒須大五郎』にちょっと記述がある)

小次郎の墓碑の前に、小さいが施主・松本捨助の墓が一基建っている。あまり言及されないが、
この意味は考えてみるべきだろう。しかし、残念なことには風化がはげしく、
一体誰を弔ったものなのかが判然としない。

1077 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/09(月) 23:15:44.14 ID:WYul60dLw
小次郎と兄弟分というのは、件の新聞記事による
しかし、小次郎が遠島に処された安政2年、捨助はまだ10歳そこそこなので、
ちょっと疑わしい記述である。
もっとも本土帰国後に、あらためて兄弟分に、ということは考えられる。

まあ、でもやっぱり子分衆の一人だったというのが一番しっくりくる答えだろうよ

1078 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/10(火) 22:02:50.04 ID:T6R0npUzh
1043で言った稀有な図書館とは岡○市立図書館の事だ。
なんだか事件があったとかでケチをつけられているようだが、
人材の優秀さとしては、一度しか訪れたことのない私にとっては、
ものすごく良い印象しか残っていない。

他に、静岡の清○中央図書館、浜松の舞○図書館も、親切で能力の高い司書さんがいる。

1079 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/10(火) 22:27:14.97 ID:T6R0npUzh
1074
ダブルミスを犯した相州吉野宿の親分は
「惣太郎」ではなく「輔次郎」だ。
彼が小仏一家とどういう風に繋がってゆくのかは今の処不明。

1080 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/10(火) 22:28:29.15 ID:T6R0npUzh
1074
ダブルミスを犯した。
相州吉野宿の親分は「惣太郎」ではなく「輔次郎」だ。
彼が小仏一家とどういう風に繋がってゆくのかは今の処不明。

1081 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/11(水) 22:37:58.62 ID:7WFTrdgZI
「舞阪の富五郎」事、原田富五郎は元々は三河の「ヲトオ村」の人だと言う(墓碑による)。
稗史ではいわゆる清水次郎長の28人衆というのに数えられているが、本来は独立の親分だろう。
ただし次郎長と好誼があったことは確かだ。(兄弟分だとも言う。)『東海遊侠伝』にも、かの菊川の手打ちで、親・次郎長派として名が出てくる。
出生は文政5年というから次郎長ともそう年が離れていない。

舞阪は宿を抜けると、キラキラとした海が見える。富五郎は船頭たちの差配や、もめ事の調停に尽力した侠客だったと言う。体格の良い、見るからに怪力を発揮するような人で、それでいて平静は穏やかだった。
今日、舞阪の和菓子屋「きくや」さんで「富五郎饅頭」が売られている。きくやさんは富五郎親分の子孫に当り、現在でも穏やかな御店主が店を切り盛りしている。

舞阪町教育委員会出版の『西町祭礼入用帳』には明治13年の「町内人名」として富五郎親分の名前も記載されている。
富五郎は地元で頼りにされ、また自身、地元に尽くした天晴な侠客であると言えよう。

1082 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/13(金) 02:14:53.64 ID:1U7MWZBG0.net
「博徒の幕末維新」高橋敏著
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/233145

> 博徒や侠客の足跡からたどる異色幕末維新史。

> 嘉永6(1853)年6月8日深夜、甲州竹居村の安五郎ら流人7人が流刑地・新島から島抜け。
> これまで多くの流人が島抜けを試みたが、ほとんどは捕らえられ、
> 再び世間にその名をとどろかせたのは安五郎ただ一人だという。
> 彼の島抜けが成功したのには訳があった。新島を所轄する韮山代官が、
> 数日前に下田沖に突如現れた黒船への対応に追われていたためだ。

> 博徒の安五郎を故郷のヒーローに押し上げた当時の甲州の時代背景を解説。
> さらに安五郎の遺志を継いだ黒駒勝蔵や下総天保水滸伝の張本人・勢力富五郎、武州石原村無宿幸次郎など、
> アウトローたちの人生を文献史学の手法で明らかにしながら歴史に位置づける。

> (筑摩書房 1000円+税)

1083 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/13(金) 03:33:10.50 ID:pegqJS3X0.net
いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

UP4

1084 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/16(月) 23:07:03.37 ID:vqKQRwP0A
上州、甲州、越後という博奕打ちの多い土地柄に接していながら、「信州博徒」の話はあまり聞かない。地元の郷土史家もあまり乗り気ではないようだ。
唯一例外は相ノ川又五郎だが、彼は本来上州の産。
文化年間の頃であるが、十手持ちで、土地の人から侠客と呼ばれた、「伊奈の加藤源十郎」という人がいた。
この源十郎が甲府勤番士が妾に産ませた庄之助という身寄りの無い若者を引きとり、跡目にして座を譲った。
果たして二代目源十郎を名乗った庄之助は、近隣に隠れ無き侠客と呼ばれることになる。
一の子分が熊蔵佐太郎
二の子分が水代村の千代吉
三の子分が神田村の高根豊吉
四の子分が伊奈郡三日町の政太郎
五の子分が熊蔵寅蔵
六の子分が尾州三戸野友吉
七の子分が伊奈郡小川村秀太郎
八の子子分が松本白板村の茂十
一〜八の子分も、それぞれ手勢20〜30を持つ親分だったとのこと。

というわけで加藤源十郎、
文化年間辺りに信州は勿論、上州、甲州、相州、越後、濃州まで名を知られた侠客だったと伝わっている。

1085 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/21(土) 00:10:15.07 ID:tWzaKhiW3
次郎長の28人衆の中に「由比の松五郎」という人がいる。正直なところ逸話は特にない。
しかしながら、実在の人物で、姓は「鈴木」と言う。(これは地元のお寺で聞いた話)
現在の住職が若い時というから、「松五郎」のことではないだろうが、
由比は博奕が盛んで逮捕された者の「引きとり人」にしばしばなったとの話を聞いた。

次郎長が少年の頃預けられた家だったか、山岡鉄舟が匿われた「ボウガクテイ」のことだったか記憶が定かでないが…
ある家の作りは土蔵の土台の辺に、いつでも賭場になるような空間があったという。

由比は漁師町であり、上記の「松五郎」の他に黒駒に好を通じた「平野屋」がいた。
また、江尻の大熊と思しき人がここでは「由比の大熊」と呼ばれ、それはそれは貫禄のある大親分として扱われていたようだ。

1086 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/25(水) 23:00:24.67 ID:88eKYqu1n
「隣村」と「近村」は一字違いだが、論文や書き物にする際には
絶対後者を使った方がいい。でないと後悔するかもしれない。

立川(柴崎村)と三鷹(連雀村)を近村とはギリギリ言えても、
隣村とは言えない。
同じ様にあまり地理的に馴染みのない場所に対して、「隣村」を使うと
後で、もう、たまらなく後悔する。

1087 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/25(水) 23:29:37.41 ID:88eKYqu1n
次郎長28人衆に含まれる「相撲の常(五明の常八)」さん。
「法印大五郎」と並んでコミカルなキャラクターとして扱われることが多いが、
実際の彼は、なかなかどうしてシビアな人生を送っている。

常八、もともとは「都島勝五郎」という四股名の相撲取りだったという。
しかしその後、「瀬戸の吉五郎」という親分の子分となり、「伊勢の常八」(“ツネハチ”ではなく“トッパ”と呼ぶ)と呼ばれるに至る。
かの近藤実左衛門と兄弟分であり、この時分には後に親分となる信濃屋喜兵衛の賭場を実左衛門ともども荒らしまわった。
万延元年正月六日、大前田栄五郎が瀬戸、信濃屋間に割って入り、吉五郎と信濃屋喜兵衛を和解せしめた。
この時に実左衛門が信濃屋の身内となり、兄弟分の常八と向こうを張る形となる。そのため、常八は駿河長五郎(次郎長)の身内となった。

1088 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/25(水) 23:34:32.45 ID:88eKYqu1n
次郎長身内となってからは「相撲の常」さんと呼ばれて活躍し、また周囲にも愛された。
しかし黒駒勝蔵が次郎長と諍いを起こし、(理由は文久三年6月5日の平井の襲撃による。勝蔵は「大岩」を殺された。)
その矛先がどういうわけか目立ちやすい常八に向かった。
この時分、命を捨てて切りかかって来る勝蔵一党に正直なところ、次郎長らはおされ気味で、
仕方なく常八は、今一度信濃屋を頼り、喜兵衛の倅久三郎の子分という形でおさまる。
この時、侠客「五明の常八」と改名したそうだ。

1089 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/29(日) 23:31:49.40 ID:k3E4WAT8N
岡田の瀧蔵は文化5年の生まれ。信州更級郡岡田村に出生した。
父親は無宿の通り者で名を忠太と言い、瀧蔵の幼年時に彼と妹を残し行方知れずとなる。
瀧蔵は同郡牛鹿村の親類の元へやられ、養子として過ごす(妹は別家にやられ、後に堅気の百姓の妻となった)。
しかし長ずるに及び、次第に博奕、口論、喧嘩を好むようになり、
文政13年(天保元年)の23歳の時に義父から勘当され、無宿博徒の道を歩むようになった。
その後、もともと才があったのか、自然と子分も出来、「親分」と呼ばれるようになる。
20歳も下の越後生まれの妻や、信州の金弥、関東生まれの吉五郎などが集まり、善光寺門前で一家を構えた。
しかし天保13年にはお上に捕まり、許された後は旅の無宿となる。

嘉永二年再び捕縛されたが、折から武州熊谷、石原村幸次郎事件が起きた際に、中野陣屋から雇われ、十手を与えられ岡引親分となった。
時に42歳の厄年。
以降松代藩から重用され、二足わらじの親分として信州を代表する御用聞きとして知られるようになった。

1090 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/29(日) 23:59:20.45 ID:k3E4WAT8N
瀧蔵の人生は、典型的な「目明し」の生き方である。
徳川吉宗が厭い、三田村鳶魚が著した目明しの好例。

面白いのは目明しという立場にありながらも、他領では怪しい無宿者として
捕縛されたりしていることである。
中野陣屋手代の秋葉貫一郎は、その度に無理やりな説明を付けて瀧蔵を救っている。
やはり有能な目明しだったのだろう。

文久2年52才の時には黒駒勝蔵を他国に追ていることも記録に残っている。

1091 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/30(月) 22:44:33.23 ID:wvnZiTqn/
郷土研究者の中には、とんでもなく優れた成果を残す人がしばしば居る。
それもほとんど人に知られることなく亡くなっていたりするのだが、
今日の見地からして初めて「奇跡のような研究をしていた」とわかる人というのが、確かにいるのだ。
千葉県なら河田陽氏。氏は新聞記者であり、郷土史家であり、教師であったという。
いずれ、氏の書かれた『木更津』は非常にすぐれた御本だ。
後の『君津町誌』(といっても昭和48年刊行…)も氏の研究を一部の著述の中心に据えている。

上総の三直(みのう)の玉吉は、氏が明らかにしたことで誤解が解け、名誉を挽回した侠客である。

1092 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/30(月) 22:49:11.88 ID:wvnZiTqn/
玉吉は明治・大正にもてはやされた小金井小次郎を上総で罠にかけて捕縛させた、と戯曲の中で語られた親分である。そのため非常に分が悪い。
しかし、実際の彼は地元で万屋という料理屋を開き、村々の治安を守りながら悠々と暮らしていた。
小次郎を陥れたというのは、全くの作り話だと言う。(以下原文)

「…家業は一切は子女に任せ、自分は常に各所の盆ゴザの監督や紛争の仲裁をしていたという。
六尺豊かな大男で挙措悠容としており迫らず、外出の時は藤の網笠を眼深にかむり、
腰には朋金づくりの業物をぶち込み、大道をのし歩く様は威風堂々たるものであった。
然しその頑丈な体格に似合わず物腰は穏やかで、堅気の者に対しては謙譲で、しかもよく人のためにはかった」

しかし、彼の縄張りを奪おうとする敵も多く、有ることない事を役所へ讒言したため、遂に捕われ八丈島へ遠島の刑に処されることになった。
運悪く玉吉はここで病魔に侵され、文久三年三月病死してしまう。『八丈実記』に記述があるから確かな事だろう。

なお上総国君津にあって玉吉が差配した火場所は、鹿野山の祭礼に立つ賭場であったという。

1093 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/08(水) 22:52:02.45 ID:HKuri1Qon
江川農兵と言えば、韮山代官江川太郎左衛門英竜が構想した、まさに徳川幕府の最期に大きな成果を上げた制度として知られている。
例えば慶応2年の武州一揆の際に、農兵が存在していなかったならば、被害は大きく広がっただろうし、
最近の研究では相州川崎でも有事の際に大きな力を期待されていたと言われている。
だが、農兵を最初に実戦に持ちいるか否かの打診が計られたのは、駿州吉原宿だった。
元治二年六月、次郎長が黒駒一党を匿う宮島年蔵の家宅へ斬り込んだ際に、その一同の物々しさを恐れた吉原宿の宿役人は、
農兵隊の出動を打診した。
結局、早い段階で次郎長一党が引きあげたため、農兵の出動にはいたらなかったが、その可能性は多いにあった。
もし、次郎長一家が、武装十分な吉原宿の農兵隊と抗戦していたら被害は甚大なものとなり、
明治以降の彼の運命も全く違うものとなっていただろう。
「安東文吉伝史料」に次郎長側が勝蔵側に敗れた戦(富士川の血煙り)があった、とするのはこの時のことである。

1094 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/08(水) 23:58:40.81 ID:HKuri1Qon
道祖神や馬頭観音がアスファルトの路上の上に建っているのなら、
それは疑いなくもと在った場所から動かされたのだ。
問題は、その時関わった作業員がどれだけ旧来の状態を大事にしているかだ。
新たに置いた場所が、以前の場所と寸分狂いの無いものもあれば、だいぶ
離されてしまったものもあるだろう。
更に、意外に大事なのは向いていた方角である。昔の人はかなり方角に敏感である。
そんな訳でこういうのは、本来なら動かす前に教育委員会の文化財課が立ち会うべきなんだと思う。
しかし、今日そんなに士気の高いお役人などいるわけないので、
口では「地域の歴史を大切に」などと言いながら、実際には専門加こそが、一番
それを大切にしていない、という現状が出来上がる。

1095 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/11(土) 21:05:51.33 ID:RYnQZeeoD
行栗(七久里)の初五郎

1096 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/30(木) 22:37:00.50 ID:fJKL4o05q
随分以前に駿州岩渕の源七と相撲取り鏡岩浪之助とが親交を持っていたとの話を書いたが、
これは実際には浪之助ではなく「鏡岩源之助」という人の事のようだ。
浪之助という力士はいない。かわりに鏡岩濱之助という小結までいった名力士がおり、
源之助はその倅である。
源之助は若い時分に遊女屋の店主を務め、そのころから素行が良くなく悪事に手を染めた。
一度は父親の後を追って相撲界に飛び込んだが、一勝もあげることができぬまま土俵を去る。
しかし、後年悟る所があって突如改心し、自らの姿を掘った木像を作らせ、旅人に茶を振る舞いながら、
「私の罪滅ぼしだ」といって、乞うて客人にその像を打ちすえさせた。
そのことをもって自身の悪行に報いようとしたのである。
彼は加納宿に一寺を建造して、この行を死ぬまで行ったとのこと。
この逸話は、やはり彼が一角の人物であったことを示していると言えるだろう。

1097 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/30(木) 22:55:14.44 ID:fJKL4o05q
鏡岩源之助は羽鳥郡の生まれと言う。羽鳥郡には笠松宿がある。
彼がここの生まれとの情報はないが、木曽川を挟んで対岸に「起(おこし)宿」がある。
小さな宿場であるが織物と舟運で栄え美濃路が通る一繁華街として近世栄えた。

次郎長の敵役である穂下田の久六事八尾ヶ嶽宗七はここに生まれた。
彼が近村の一ノ宮久左衛門と対立するようになったのは自然の理であると言える。

尾州・三州にあっては博徒が力士であったり、力士が博徒であったりすることが非常に多い。

1098 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/10(月) 23:43:16.32 ID:fSRd/1bNa
竹居の吃安を召捕るために、
甲州の代官所は、わざわざ他国の有力な岡引や目明しを召還したとの話が伝わっている。
この事は『安東文吉伝史料』にも、そうあるのでまんざら嘘でもないようだ。
もっとも、勝手な憶測の上で、武州の高萩万次郎が呼ばれ、「国分の三蔵」との変名を使って
甲州に潜伏したという様な誤説も生まれた。

実のところ、この召捕りのために甲州入りした目明しは、「信州岡田の瀧蔵」だった。
彼は、一年前に祐天に捕われた浪人犬上郡次郎と祐天とを和解させ、
一方で犬上が祐天を未だ敵視しているとの情報を流布し、吃安一党にそれを信じ込ませた。
その上で犬上を吃安の元に送りこんだのだ。

この卑劣で巧妙な策は功を奏し、ついに吃安は捕縛される。まさに悪党・岡田瀧蔵ならではの水際立った策謀である。
凄まじいのは、自分自身の存在を黒駒勝蔵にすら悟らせなかったらしいというその手腕である。
ただし、虎造の講談によれば、瀧蔵の倅は黒駒に殺されたとされている。
今のところ、文献での裏付けはないが、
この話がもし本当なら、瀧蔵は見事に一番痛い方法で報復されたということになるだろう。

1099 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/11(火) 22:16:13.69 ID:xi8oYcd3K
国分三蔵の本名は矢崎三造。
墓碑によれば明治2年4月21日に亡くなったとのことだ。
妻は七年後の明治7年に亡くなっている。

まだ黒駒の余党がいたためか、13回忌の明治15年にはじめて墓石が建てられた。
墓石に彫られた関係者の名には郡内山中村や信州塩尻の親分衆の名もある。
三蔵の勢力が窺える格好の墓標である。

1100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/11(火) 22:17:41.67 ID:xi8oYcd3K
「妻は七年後の明治7年に亡くなっている」
⇒「妻は七年後の明治9年に亡くなっている」に訂正。

1101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/13(木) 21:57:58.76 ID:5yRrE7GNy
甲府の両国屋宇七(三井卯吉)が「安政4年」正月殺害される。
宇七の死を受けて、子分らが、東海道を犯人探索のため徘徊した。
 ↓
このあおりを受けて、次郎長が妻(お蝶さん)を連れて国を売る。
(宇七殺害に江尻の大熊の子分がからんでいたため)
お蝶は「安政5年」旅先の名古屋で病のため没する。
 ↓
昔世話をしてやったのに、お蝶の死に際して何の手助けもしてくれず、
あげく唯一手を差し伸べてくれた名古屋幅下の長兵衛を殺したのが保下田の久六。
次郎長は妻と恩人の敵として「安政6年」6月、久六を殺す。
 ↓
久六を殺した刀を金毘羅に奉納しようと、次郎長が使いに選んだ子分が森の石松。
石松は金毘羅宮の帰りに、都田の吉兵衛、常吉、梅吉に殺される。
これが「万延元年(安政7年)」
 ↓
次郎長は、石松の敵として都田吉兵衛を正月に殺害する。「文久元年正月」
 ↓
兄弟分の都田吉兵衛の敵と言って、赤鬼金平が清水湊に乗り込んでくる。
次郎長たまらず安東文吉を通して丹波屋伝兵衛に菊川で和解式を開いてもらう
「文久元年10月」

こう見てくると、史実と『遊侠伝』の次郎長の動きとは無理なくつながっていることがわかる。

1102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/13(木) 23:30:10.10 ID:5yRrE7GNy
江川文庫の「刑部類例」によれば
赤鬼金平の本業は「石切渡世」(石工)だったらしいことがわかる。
その後「困窮」につき、いろいろやったらしいので、「髪結」だったのは
その頃のことだろう。

1103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/14(金) 23:24:05.37 ID:RvLAr/+UD
駿河・安東の文吉親分は、
彼について書かれた書籍もあるし、ウィキペディアに記事もあるので比較的有名である。
静岡市の少し南西部にある本覚寺には、台座に子分の名を刻んだ
立派な墓も有る。
一方、弟の安東屋辰之助(安東辰五郎)は、稗史の上では無名だが、
当時の史料の上では駿府の岡引頭として多くの足跡を残す人物である。彼は確かに
駿河を代表する十手持ちとして、事件の調査や、無法者の捕縛に自身赴き、
また役人との折衝に当ったりしている。

安部川手前の、名刹妙音寺には彼の立派な墓石が建っている。
兄・文吉と趣は違うが、実に堂々とした、真に岡引親分といった風格がある、
大貫禄の墓石である。辰之助、没年は慶応3年。

1104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/18(火) 22:43:41.78 ID:PkLIe2a6X
調べていく程に
和田島太左衛門と鬼神喜之助とは
繋がりがあるらしいことがわかる。おそらくは江尻の熊五郎と
両者も関係があるのだろう。

富士川と身延路はほぼ同一路であり、経済通路であると共に信仰の順路でもあるので、
古今問わず、博奕打にとっては重要な地である。

文献的裏付けはとれていないが、この地域は駿州和田島太左衛門と、義弟の津向文吉を
二大巨頭に、
江尻大熊、清水湊次郎長、青柳市松・寅兄弟、市川鬼神喜之助、井出久右衛門、八日市場広兵衛らが
横一列に並ぶ形を形成していたのではないだろうか。

和田島に強硬に挑んだのが、岩渕源七。

1105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/19(水) 21:40:42.80 ID:ZwydEEZde
伊豆国間宮村出生、
後に大場の親分と呼ばれる久八の若い頃の人となりと動向を知る格好の史料が
江川文庫にある「伊豆無宿友吉」の口述書。嘉永二年のものだ。
博奕打ちがどういう場所で知り合って、兄弟分になるか。
どういう行動に義憤を感じて命をかけるか。
また、一般百姓の旦那にどのように対応したかが、一々よくわかる。
加えると、久八をはじめとする渡世人たちの足の強さや、
山間の地理にいかに通じていたかも理解できる。

1106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/19(水) 21:50:34.06 ID:ZwydEEZde
松尾四郎は、吉田の人切り長兵衛が自ら見込んで久八を自分の跡を継ぐ者と決めた、
と書いている。
久八が長兵衛の一家を継ぐことを許され、また後年、自ら辞退して
それを近之助に譲った、とのあらましも松尾が記すところのものである。
文献的資料は欠いているが、「松尾四郎」がそう言うのだから、信憑性は高い。

実際、上であげた口述書に加え、慶応の勝沼戦争資料や八王子・伊野亀吉の手紙など、
久八が甲州郡内地方に出没・闊歩していたことは様々な史料に現れる。
その最期も郡内谷村だった。
久八はいわゆる甲州博徒ではないが、同国に縁を持つ不世出の奕道の巨魁である。

1107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/21(金) 23:59:13.83 ID:VrQWgCThq
大前田英五郎(「栄五郎」が正しいのではないか?)のwikipediaには
栄五郎が佐渡送りになった後、
「島破りをして郷里に戻ったと伝わる。しかしこの話は本当かはっきりしない」
と記されている。
しかしその時の手配書が残っていることからして、「本当かはっきりしない」ではなく、これは事実である。
伝説では、この時栄五郎は兄の「盲の親分」こと田島要吉に「佐渡務めが我慢できないようで、どうする!」と叱られたと言う。

ともあれ、数年間お尋ね者となっていた栄五郎は、尾州名古屋在萩原村に逃げ、
ここに「勝五郎」と変名をつかって、ほとぼりのさめるまで潜伏していた。
結果的に、上州のみならず尾州にも大きな拠点を築くことができ、このことが
後年の彼の成功に多大な影響をあたえた。

1108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/24(月) 20:42:01.71 ID:yEfnolYr2
駿州岩渕の青木屋鉄五郎は、掏摸の元締めであり、
東海道で旅人が失くしたいかなるものも
鉄五郎に頼めばかならず元の持ち主の元へ戻って来る、と言われた。

ある時、毒まんじゅうと解毒薬を売ることで財を成し、その財をもとに
京都で武器を買い〆、利益を上げようと目論んだ者(名は伝わらず)がおり、
幕府役人はその者の召捕りを試みたが、いつもうまく逃げられてしまった。
遂に江川代官から直々に鉄五郎に命が下り、その者の召捕りを命じられた所、数日で
お縄にして連れて来たという。
以降、青木屋鉄五郎は当代名の知られた十手持ちとして起用された。
これは東海道に安東文吉が出る数年前のことの様で、
ほぼ沼津の菊池屋和助と同時代の人のようである。

一説に疵の源七事岩渕ノ源七は最初、この青木屋鉄五郎に盃をもらったとの事である。

1109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/24(月) 21:10:57.71 ID:yEfnolYr2
桃川桂玉は『大前田英五郎』(大正10年)を作るにあたり、この話のよりどころを、
明治26年3月に前橋の松坂屋という旅宿で会った江戸屋虎五郎からの実話に置いている、と記している。
時に虎五郎は88歳とのこと。
という訳で、『大前田英五郎』と銘打っているが、三分の一程は江戸屋虎五郎伝と言っても過言ではなく、それもかなり内容は正確であると言える。

虎五郎が遠州都田の源八を斬った後、源八の倅である吉兵衛、常吉、梅吉の母(とき)は、
幼い子供たちのために、虎五郎と都田一家の和解を望み、由比の大熊を仲立ちに頼んで、この手打ちを実現させた。
『大前田英五郎』によれば、「三州秋葉神社の境内にて手打ちを致した…
…仲人は由比の大熊に、伊豆の大場の久八、秋葉鳳来寺の境内が人を以て埋めたが如く三千人も出たと申します」
としている。

1110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/24(月) 21:12:36.87 ID:yEfnolYr2
「大場久八」の名が出ること、「鳳来寺」が舞台であること、また「都田一条」とあること。
要するにこの話は
上の722(あるいは717?)で出した虎五郎の手紙の内容と奇妙に一致するのである。

1111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/26(水) 23:30:38.06 ID:QneET5d8d
つくづく思うが争いの仲裁ができるというのは、本当にすごいことだと思う。

まずは両者が闘争に至るまでの経緯を踏まえて、その中に両陣営が「不精」をしている
場所を見つけ出し、更にはいい塩梅の「落とし所」を定める必要がある。
よほどの知性と、
それと人生経験が無くてはできないことだ。

この場合の人生経験とは、誰もがうらやむような上手い人生を送ってきた、なんてものではなくて、
人より多く恥をかき、たくさん頭を下げ、情けない目にあってきたことが真にモノを言う。
どんな人間の気持ちでも「汲む」という腹積もりは、そういう苦労の中を渡ってきて
初めて身に着くものなのだろう。

『駿河遊侠伝』は特に「上巻」がすばらしいが、伝馬町の朝吉のとっさんの言う
「辛抱はぶっ倒れるまで耐えているのが肝心だ」という台詞は、
平易だが、決して忘れられない言葉だ。

1112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/02(火) 22:49:53.44 ID:XNfzy5y5Q
最近見つけた資料に
信濃松代藩の下級役人が、藩内の博徒に関して探索していたところ、
偶然、甲州柳町一丁目の「両国屋卯七郎(三井卯吉)」子分の源次郎に出会い、
卯七郎の手紙から、武州小川村で、「小金井小次郎」子分の田無の増五郎(稲荷ノ増五郎)
と野中の音次が「田中村岩五郎」の息がかかっている「小川幸八」元子分らに
襲撃を掛けられ、その情報を善光寺にいる「岡田の瀧蔵」と「島田屋伊伝次」に送ったと伝えているものがある。

ビッグネームが多すぎて、正直、どこから手をつけていいのか困る。
こんなこともあるのだな。

1113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/02(火) 22:57:45.88 ID:XNfzy5y5Q
島田屋伊伝次は、高瀬仙右衛門事相ノ川政五郎に、代をゆずられた親分
十手をあずかり、信州目明しとして知られた。
相ノ川又五郎の直接の親分がこの人だ。

1114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/03(水) 23:03:41.13 ID:bKc76JFak
今日の管理社会の中では、しょせん博奕打ちは「ヤクザ」の源流とみなされる。
つまりは暴力団・反社会勢力の元。
学問、特に歴史・郷土史はどうやったって市町村「教育委員会」が拘わるわけだから、
今後博徒・侠客の研究が推進されるはずがない。
仮に住人の中に賛同者が居ても、お役人がリスクを追うようなことをするはずが
絶対にないのだ。アカデミズムだって同じ。

網野善彦は「博奕打ち」を中世以前の「職人」と捉え、評価を下し、「遊行の徒」として
社会変革に大きな役割を果たした、と極めて真っ当・有用な節を展開したが、
網野死後学徒は途絶えた(ように見える。)

中沢新一や赤坂憲雄が網野を継ぐとか言ってるが、
だったら行動で示してみろ。法螺を吹くな。

唯一、郷土にばらまかれた仁侠研究者だけが、それを継いでるのが現状だ。

1115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/04(木) 08:02:11.34 ID:DTUtyDG1P
またやってしまった。
なんて馬鹿な事書いたのか。
中沢新一氏が『僕のおじさん』で十分に博奕打ちのことを
再度重要視しているのに。
氏の学問全体が叔父のそれを完全に引き継いでいる。
ゐまっさらだが、上に書いたことは完全に訂正したい。

1116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/06(土) 20:56:03.56 ID:ISc70TX3H
保下田の久六について。
『東海遊侠伝』で久六は「八尾ヶ嶽ノ宗七」であった時代に
「一ノ宮の久左衛門」と戦って敗れ、国を売ったとされる。これが嘉永3年。
この時、次郎長の口利きで館林の江戸屋虎五郎の元へ逃れさせてもらった。
宗七は江戸屋虎五郎の元で「久六」と名を改めた。

次いで安政二年、既に東海へ帰り、名古屋に起居していた久六は十一月に再び事を構える。
『遊侠伝』には久左衛門との再戦とは書かれていないが、次郎長はこの際再び、
久六を助けるべく援軍を出す。

その後、次郎長が困窮し、お蝶が亡くなり、久六の不義理や色々やがあって、
安政6年、次郎長が久六を殺害するに至る。

1117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/06(土) 21:01:46.75 ID:ISc70TX3H
やはり久六の死は『遊侠伝』の記す通り安政6年なのだろう。
よく言われる栃木県足利市の寿徳寺の碑にある「久六 安政2年6月」は、
たしかに保下田久六のことあろうが、
おそらくそれは久六が虎五郎の元から東海地方・名古屋へ帰った年なのだろう。
以来、虎五郎と久六とは遂に会わず終いになったわけだから、最後に姿を見た
安政2年の6月1日を以て久六の「戦死日」としたと考えたい。

1118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/06(土) 21:16:56.06 ID:ISc70TX3H
ちなみに戸田純蔵氏の書かれた『東浦雑記』によると
久六を斬ったのは次郎長ではなく、後代次郎長28人衆に含まれる「緒川の勝五郎」
であったとしている。場所は増田知哉氏も言う所の「乙川光照寺門前」で
事件の様子も関係者の子孫の方の話を基にしたと言うから
かなり信憑性もあるように思う。氏によればこれは「安政2年」のことと言う。
その後勝五郎は警吏に捕まり、牢内で舌を噛んで自死したと言う。
緒川の東光寺に供養塔があり、そこに刻まれた「清見山幸四郎」
が緒川の勝五郎のことのようである。

1119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/07(日) 18:47:30.60 ID:d4OaIxtS0.net
『幕末アウトロー 維新の陰の立役者「侠客」たちの生き様』
マイウェイ出版 (2018/10/29)

こんなムックが出版されるらしい
よほど詳しい人物が執筆・編集に携わっているならともかく
既成の出版物をテキトーに継ぎ接ぎしたような内容なんじゃなかろーか
今のところ期待はまったくしていない

1120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/08(月) 00:36:24.45 ID:H8HAQfzv/
>>1119
一体どうやってこういう誰も知らない新しい情報を仕入れることができるのか?と、
毎回驚愕すると同時に、そのお手際に畏敬の念と感謝を感じます。
有難うございます。
確かに一定の興味を持つ相を見込んだ、雑な編集の書物になるような予感はしますね。
それでも仁侠研究の分野が消え入りそうな今日、出版するだけでも価値があるのかも、
と好意的に解釈したい気もします。

そもそも高橋敏さんにしてからが、それ以前の在野の侠客研究者
増田知哉、今川徳三、竹内勇太郎、中沢正、松尾四郎、青山光司そして藤田五郎氏を
先行研究者として表記する過程で暗に無視してきたのだから、
大衆向け出版社が一々昨今の研究を顧みないとしても責めるわけにもいかないかもしれませんね。

1121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/09(火) 23:05:07.10 ID:O2Jp15aL9
大前田栄五郎は42歳の厄年に江戸浅草で木刀を買い、
以降長脇差の替わりにこれを腰に帯びて過ごした。
子分の幸松は「遊侠は長脇差を酔狂のために差しているわけじゃない」と言って
親分の元を去ったが、
江戸屋虎五郎は栄五郎のこの木刀を見て、
「なんだ、虎にも買ってきて下さればよかったのに」と言った。
これぐらい岡安虎五郎という人は出来た遊侠だったのだ。

典拠は『続ふところ手帖』(小母澤寛、中公文庫、昭和50年)

1122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/09(火) 23:26:57.48 ID:O2Jp15aL9
『小平ちょっと昔』という本は
ポスト近代(とでも言うか)に作られた民俗学的に編まれた本としては「白眉」と言えるものである。
作成年は1988。
侠客・小川の幸蔵と武州一揆の話などが民話・伝説として収録されているが、
それより、この中に「小平の智恵ぶくろ」という項があり、これが色々な意味で含蓄が深く、注目に価する。
(以下抜粋)

「小平の智恵ぶくろといわれた人が小川にいたんです。小川を代表するおおぜいの人(政治家)を育てましたよ。
 人をもり立てるのがとてもうまい人でした。『丸いのは本当の丸いんじゃない。四角の角がけずり取られたのが本当の丸いんだ』
 ってよく言ってましたね。立派な人でしたよ。」

これはあらゆる面に含蓄のある言葉だろう。
しかし、特に遊侠の例に限った場合、
江戸屋虎五郎という人は晩年貧乏をし、葬儀に三親等が来なかったとか言うが、
真に、これに近い生き方をした人だろうと思う。

1123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/14(日) 20:04:57.26 ID:5QU6lawak
このスレッドでも以前に書いたことにある甲州花輪村乙吉の人相書がまたヤフオクに出ていたようだ。
しかも二か月前に落札されてた。
これは慶応二年に、相州木曽村嘉十郎宅に黒駒一党が匿われていたことを示す貴重史料だ。

乙吉は前年に藤ノ木村で出役に召捕られ、彼を取り返すために黒駒身内達が
役人宅へ襲撃をかけ、二名の取り方を殺した。これが決定打となって勝蔵らは大々的に手配されることになる。
人相書では、その時に受けたと思われる鉄砲傷まで記されていて生々しい。
他にも橋本の亀吉と大戸村の磯万との喧嘩のことも触れられていて実に興味深い。
なんにしても、今さら遅い。へばりついてでもチェックしとくべきだった!

1124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/14(日) 21:15:44.93 ID:5QU6lawak
木曽の嘉十郎も、橋本の亀吉も、もともとは橋本の平野屋政八の子分であり、
両者は兄弟分といえる仲だったのだろうが、次第に互いに対立するようになる。
折り悪く黒駒勝蔵の子分らは両宅に分かれて草鞋を脱いでいたため、亀吉と嘉十郎の喧嘩に
巻き込まれ、同胞を相手に喧嘩をしなければならなくなった。なんとも因果な話である。

1125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/17(水) 21:59:45.86 ID:e8dzQq0gm
上州館林藩福井氏の史料をデジタル公開するとは。
国文学研究史料館、一体どこまで太っ腹なのだ。
素晴らしすぎる。

1126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/29(月) 23:01:19.84 ID:hVdckCUwa
信州博徒に関する研究が少ないと以前書きこんだが、
信州の博奕打ち自体はとても多い。有力な親分、魅力的な生き方をした親分も
数多くいる。
順不同だが、名を上げれば
相ノ川又五郎、島田屋伊伝次、岡田の瀧蔵、塩尻の富之助、湯田中の鉄蔵、
真志野の喜三次、木ノ下の与惣次、
川路村の鯛屋鶴五郎(鯛鶴)、七久里(行栗)の黒田屋初五郎、
神田の豊吉、早木戸の権蔵、信州の波羅七
と、キリが無いくらい居る。
しかし、彼らの動向を追った研究は驚くほど無い。
あるいは信州人の郷土研究の志向も関係しているのかもしれない。

1127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/29(月) 23:19:59.41 ID:hVdckCUwa
世に国定忠治の単筒というのがある。要するにピストルだが、
忠治が嘉永三年に世を去っているので、これはかなり早い時期の登場ということになる。
(かの坂本竜馬が拳銃をひけらかせたのは慶応二年)
もっとも、駿河国由比の僧淳は、一般人でありながら安政五年に単筒を手にしてもいるから
流通自体はあったのだろう。
博徒でも拳銃を所持する者は多く、例えば子母澤寛氏の『よろず覚え帳』によれば
上州黒岩の寅五郎はこれを持っていた。
また同書にたった一行だが、「高萩の萬次郎などもその一人である」と書いている。
岐阜の弥太郎も、赤報隊に入るに及び、隊規を破った子分を単筒で成敗している。
あとは小金井小次郎兄弟分の稲荷の増五郎。田無柳沢宿の質屋に子孫の方が
売ってしまったそうだが、たしかに単筒があったという。

1128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/29(月) 23:37:41.66 ID:hVdckCUwa
上州館林藩福井氏の日記資料の中には、犬上郡次郎が登場する。
あとは何とか江戸屋虎五郎が見つからぬものかと探してみたが、
今のところ出てこない。

1129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/30(火) 23:21:35.29 ID:Qt3swmWi9
先日相州相模原の郷土史をしている方からいただいた史料に
嘉永二年に間宮久八が「大場村久八」と表記されているものをがあった。

通例では久八は嘉永六年のお台場建設に尽力したことにより「台場の親分」と呼ばれ
それが間宮村隣村の大場村に転化されて「大場久八」と呼ばれるにいたった
とされる。
しかし、それはどうやら誤りのようで、やっぱり彼は生まれ故郷の間宮村ではなく
隣村の大場村で売りだしたから、「大場久八」と呼ばれたのだ。

同じ様な例は、たとえば
大和田の友蔵=見附の友蔵
和田島の太左衛門=江尻の太左衛門
国分の三蔵=勝沼の三蔵
などに見られるだろう。

1130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 22:43:57.22 ID:F51v2mkwW
「顔役名鑑」の後半部には昭和初期に生存していた顔役たちの名前と住所が
大胆にもそのまま載っている。あと表向きの職業も。
東京都小平市の「大沼田」というところは、都心部も押さえて、
この顔役たちの居住地として1の比率を占める。なんでか、は分からないが
近代初期にここには大きな集団がいたのだろう。または土地がそれを許したか。

試しに言及すると、北は神山栄五郎の縄張り、西は田無の徳蔵、南と東は小川幸蔵のそれと接する
そういう色もあったのかもしれない。

大沼田の博徒の長というのはほとんど出てこないのだが、敢えて言えば
(やや小粒だが)大沼田の小政。本名は政五郎だ。
綽名の示す通り小兵ではあるが刃は鋭く動作は早い。加えて肝も座っていたようで
田無の増五郎を襲撃し、片足を不具にせしめ、小次郎と賭場で荒らしなどしている。
小次郎子分の新田の平次郎に襲われるが上手くかわして他人を殺させ、平次郎はこの罪で
三宅島へ流されることになる。

小政事政五郎の後年の足跡は不明。墓も無いし、親類もみつからない。

1131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 22:46:13.56 ID:F51v2mkwW
またまた間違えた。
「西は田無の徳蔵、南と東は小川幸蔵」ではなく
「東は田無の徳蔵、南と西は小川幸蔵」が正しい。

1132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/07(水) 23:56:17.02 ID:WZdi3+yR0
"1119
 『幕末アウトロー 維新の陰の立役者「侠客」たちの生き様』
 マイウェイ出版 (2018/10/29)

 こんなムックが出版されるらしい
 よほど詳しい人物が執筆・編集に携わっているならともかく
 既成の出版物をテキトーに継ぎ接ぎしたような内容なんじゃなかろーか
 今のところ期待はまったくしていない


>>1119
寸分の狂いもなく、まったくその通りでした。

1133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 06:40:45.84 ID:iytpzer20.net
縁日ってなんの日?都市の肥大化が生み大岡越前が守った香具師文化
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00749/

香具師とかテキ屋とか、博徒・侠客とは別の存在なんだろうけど、
けっこう密接な関係があったんじゃないかな。

1134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 22:13:58.55 ID:u+fqHqIrB
>>1133
毎回ありがとうございます。
本当に勉強になります。

1135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 22:18:57.24 ID:u+fqHqIrB
三代目中村仲蔵の『手前味噌』なんかを読むと、侠客(博徒)が芝居や浄瑠璃
相撲、軍談読みなどの役者・芸人を買い付けていることが、顕著に見てとれますね。
香具師(興行師)と侠客は強い繋がりがあるようです。

古文書とはちがうけど『手前味噌』の様な自叙伝(というよりトラベルライティング)
はとても貴重な文献ですね。
「郷土食」の面から眺めても面白い。

1136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 22:30:40.03 ID:u+fqHqIrB
ちなみに『手前味噌』(s.19)を買いに東京都西部の山間部の本屋(?)へ行ったら、
表の営業はしていなくて、コンクリート会社の建物に間借りして展開している。
しかし、中に入れば蔵書の数はめまいがするほど(万は超える)で、
まるで『薔薇の名前』の修道院図書館を地で行く様。

活字文化は強かに、頼もしく生き残っているんですな。

1137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 23:04:02.62 ID:u+fqHqIrB
祐天仙之助は甲府勤番士の同心などからは、ただの「悪党」と呼ばれてますが、
同じ時代の役者などからしたら、「路銀の無い者には、懐の金を与えてやるような
行き届いた親分」とされています。

総じて、百姓(名主も含む)の記した日記や伝記は、まるで奇跡の様に中立な立場で、
リベラルに筆を進め、まさにその時代を現出せしてめくれるのに対し、
「武士の日記」はイデオロギーで凝り固まった窮屈さに満ちたものです。
千人同心ですら「お高い」日記を書いています。

1138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/11(日) 23:20:49.12 ID:H55YehuwY
江古田の幸平こと、藤沢幸平氏の名前が見られる文献や金石文はあまりない。
そういう意味では三鷹市の真福寺の題目塔は珍しいものかもしれない。
台座真ん中に彼の名がある。並んで新橋の長蔵や高井戸の勇次郎
仙川の藤五郎などの名も見える。
建立年が明治14年(小次郎の亡くなった年)というのも何か意味があるのかもしれない。
ただし、住職も含めて題目塔建立のいきさつは既に知る人もいない。

1139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/12(月) 21:50:40.10 ID:fBz4SXan/
行く所血の雨を降らすと言われた
神山の栄五郎を最終的に闇討ちしたのは、所沢の力山という元・力士の博徒であったと言う。
通称を「バラ荒らしの力山」。
結局篠信太郎氏の報復の刃を巧妙に逃れて、浅草で晩年を迎えたという。
いずれ彼に関しては「逸話」の類しか残っていない。
力山一家というのがあったともされるが、資料創作をしても尻尾も出ない。

ただし、往時所沢には「甲山力蔵」という相撲親方が居て、近隣にかなりの勢力を張っていた。
(二代目は近村野火止村の朝嵐熊五郎。)
甲山はまた、南永井の新八三兄弟とも繋がりを持っていたとされる。

おそらく力山が勢力を得て居た理由は、かつてこの「甲山」の弟子であったからだと思われる。

1140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/12(月) 21:51:53.13 ID:fBz4SXan/
「資料創作」じゃねえよ。「資料捜索」。

1141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/13(火) 21:03:51.28 ID:HWnYR32Z/
朝ドラで鈴さんの国定忠治が一番受けていたのは
ここに書きこんでもいいくらいの
快挙だと思う。

1142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/13(火) 21:27:21.12 ID:HWnYR32Z/
これは史実ではなく、講談や浪曲によってつくられたものだが、
俗に言う所の「清水一家二十八人衆」というのは
大政
小政
増川の仙右衛門
大瀬の半五郎
法印の大五郎
追分の三五郎
桶屋の鬼吉
大野の鶴吉
問屋場の大熊
お相撲の常
三保の松五郎
伊達の五郎
小松村の七五郎
関東の綱五郎
田中の敬次郎
辻の勝五郎
四日市の敬太郎
舞阪の富五郎
寺津の勘三郎
国定の金五郎
吉良の勘蔵
伊勢の鳥羽熊
清水の岡吉
興津の盛之助
小川の勝五郎
由比の松五郎
森の石松
吉良の仁吉
である。参考にしたのは商店街のシャッターに書かれてた画。

1143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/16(金) 00:13:40.22 ID:kfrxsfyMi
清見潟又市(三代目清見潟親方)は言うに及ばず、
藤島甚助、振分忠蔵、甲山半五郎(力蔵)、追手風喜太郎といった相撲年寄
たちは侠客と大いに繋がるところのある人々である。

相撲史の研究者の成果は素晴らしいものである。しかしこれまた仁侠研究と
同じく歴史学の俎上にはなかなか上がらず、
学者筋の間ではあまり取り上げられrぬ分野である。

1144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/16(金) 21:54:54.13 ID:kfrxsfyMi
全部幕末期だが、
清見潟又市は、武州柴崎村あたりの生まれ。三河・武蔵・遠江と手広に勢力を伸ばした。
有名な弟子に平井の雲風や袋井四角山がいる。言うまでも無く彼らは後年、侠客になった。
追手風は甲州道中の相州関野宿の人。侠客の弟子がいたかは不明だが、まあいただろう。
甲山半五郎は所沢宿、裏町の出生。藤沢の代五郎が弟子にいたり、南永井の新八と親しい。
高萩万次郎の奉納相撲にも、この人の名があった。あとは上野の戦いの時、彰義隊の武器運びに
弟子を派遣した。
藤島甚助は、和田島の太左衛門を匿ったりしている。

もう一人振分忠蔵だが、確たることは言えないが多分幕末期のそれは
八王子出生の八光山が継いでいたのではなかったか。
(八光山という人は、どうも二人いるらしく、江戸中期の八光山の方が地元では有名ではあるが。)
安政五年(だったか?)に青梅の孫八のとこに泊った振分一門が、土地の悪党に抜き身で襲われると言う事件が起こっている。

1145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/23(金) 23:58:27.87 ID:CYoYXpOpX
あまり出自のハッキリしない(と言われる)甲州の祐天仙之助だが、
甲府の元柳町(北口・山梨大学方面)の修験寺院・清長院の嫡男として生まれた。
清長院は歴代位の高い法印の家柄であり、祖父は由宣。更に父由玄は祐天17才の時に亡くなっている。
「祐天」というのは他人がそう綴ってるだけで、本来の法名は「由天」。
もっとも安政6年に元俗してから、自身は「勇天」と表記している。
甲府駅北口を少し上がった「教昌寺」に、今日でも由天が建立した父母・祖父母の墓が建っている。
(教昌寺は『藤岡屋日記』に祐天の「叔父」とされる人物である。)

さて、父母の墓の右隣には台座のみの痕跡があり、実はそこに祐天の墓があったという。
台座には「門人」として多数の子分の名前があったとか。
しかし、いつの間にか盗難に会い、今日までその行方は知れないとのこと。

1146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 01:00:27.35 ID:1jUBxzV2d
さて祐天、身の丈はそれほど高くなかったが、
腕は人の三倍程太かったとのこと。
顔にはあばたがあったが、笑うと何とも人好きのする人物だったとのこと。

玄法院は武田時代、信虎が諸国から情報をあつめるために、御密として用いた修験に端を発するが、その17代祐宣法院は、たいへん祐天を可愛がり、自分の跡を継がせようとすら
思ったそうである。
結局祐天は甲府牢番兼目明しの大親分・両国屋(三井)宇七の跡を継ぎ、
後年は竹居吃安、黒駒勝蔵と対立するため勝沼上宿へと遷る。
ただし部屋にはいつでも戦える用心として
四方の壁の中に刀・槍を隠していた。

1147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 23:23:32.65 ID:1jUBxzV2d
相撲年寄・清見潟亦市の墓は東京都立川市の常楽院にある。遠・三・武州の
弟子たちの奉納と書かれた立派なものであるが、石質からか(東海道さんの石灰石)
刻まれた文字がもう読みにくい。

実は清見潟の墓はもう一基あって、こちらは愛知県豊橋市悟真寺。(あるいは供養塔と言うべきか?)
いずれ清見潟親方を敬って建てられたものだが、施主は泣く子も黙る平井亀吉(雲風)と常吉。
珍しい事には常吉が原田で無く平井を名乗っているという点だろうか。

何度も書いたが、清見潟親方の元では、後に高名な侠客となった力士が多く出た。
雲風と四角山はその代表である。

1148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 23:26:25.42 ID:1jUBxzV2d
いつのことかは不明だが、
松尾四郎は、遠州秋葉山の祭りで
四角山周吉と津向文吉が喧嘩になったことがあった、との逸話を残している。
例証の仕様も無いが、
(毎度のことだが)松尾四郎がそう言うのだから、多分そうなのだろう。

1149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 23:49:29.52 ID:1jUBxzV2d
Yahooだと「黒駒勝蔵」というワードを入れると
「清水の小政」の顔写真が一番に出るのは何とかしてもらいたい。

1150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/25(日) 21:05:34.81 ID:MGOXVe/Ok
「侠」は「情」とも違う。「勇」とも違うし、
「悪」とは全く違い、「正義」に近いが、そうと言ってはこそばゆい。
「心意気」ほど奔放ではない。
誠によくわからぬ言葉だが、
老若男女・障害の有無・経済的不遇関係なく、
人生一度は「侠気」のある行いをする人を目にした事があると思う。
私もしょっちゅう他人の中にそれを見る。
あるいは往来の見知らぬ人。あるいは親しい中に。

1151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/25(日) 21:09:35.62 ID:MGOXVe/Ok
存じ上げなかったが
加川英一先生は昨年お亡くなりになっていたようだ。

氏の著作なら『黒駒勝蔵』より『幕末・明治無名博徒言行録』の方を押す。

1152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/29(木) 00:19:24.10 ID:YqeLMqCV0
「金石文」というのは、庚申塔とか馬頭観音とか石橋供養とか
よく道端に建ってる、ああいう石造物に掘られた文字のことを言う。あるいは墓石なども含まれる。
これを調査するのは根気がいる仕事で、例えば一日の内でも日の入りに一番
その角度が良く見える時もあれば、正午でなければダメな時もある。あるいは雨や曇りの日が良い時も。
場所によっては「手鏡」で、まるで盗撮のように撮る(技を駆使して)人もいる。
だが、なにはともあれ、これをやっている自治体と、まったくやっていない自治体とでは、
いざ市史・町史にまとめるとき大いに差がでる。たとえ「博物館」を持っていても、それをやっていないなら、歴史の編纂は大変だろう。

特に任侠の徒は、文献資料より、この金石文に名を表すことが多い。
場合によっては村一つ越えた場所に突然その名が現れることもある。
そして、こういうのを調べるには、独自の「直観力」が必要になる。これは教育機関で学べるものでもない。
故・水谷藤博氏や増田知哉氏、藤田五郎氏はそういう能力に抜群に秀でた人たちだった。
そして今でも、それを継ぐ人は、
時間を取って、今日でも侠客の供養をするためだけに500キロも離れたところを歩くのだ。

こんなの「学者さん」が太刀打ちできるはずがないだろう。

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