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侠客の歴史
- 768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/14(月) 20:23:00.35 ID:zunG5d2x0.net
- これも松尾四郎氏が書いていることだが、
一度だけ文吉が島での「つらかったこと」を話したことがあったという。
本土から文吉の子分たちが島まで渡って来て、親分を連れて帰ろうと画策したことがあった。
ところが浜まで上陸したところで露顕し、皆島役人衆に捕まってしまう。
島役人は文吉に、文吉の家族(すでに島に新たな妻と子がいた)が首を括られるか、子分を文吉の手で斬るか。
どちらか選べと迫った。
子分たちはみんな文吉に斬られる方を望み、文吉、泣きながら彼ら全員を斬った。生きてきて「こんなにつらかったことはない」
と人に話す時にも大泣きに泣いたとの話。
- 769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/14(月) 22:26:40.27 ID:zunG5d2x0.net
- ところで上の話、
先般話題に上げた八丈島の流人博徒らの暴動から処刑という
一連の流れを踏まえて考えると、単なる伝承だけでは済まない話に
なってくる気もする。
- 770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/19(土) 00:54:03.86 ID:O/s8zZZl0.net
- 安東の文吉は伝聞資料こそあるが、なかなか実史料に名を現さない。辰五郎の方は
日記資料に出てくる。
と、思っていたのだが、安政四年駿河国紺屋町の牢を破牢した「梅吉」と甲州の「広八」の
探索に「安東村の文吉」の名が現れる。実際に彼は岡引親分として「伝史料集」のような活動をしていたのだ。
- 771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/27(日) 23:26:23.32 ID:qbdRyYKK0.net
- 明治は言うに及ばず、大正、昭和初期くらいまでの遊侠を扱った小説の書き手は
すばらしいものを残してくれた、と心から有り難く思う。
中でも凄いのは、読み物としての完成度も高い子母澤寛先生だと私は思う。
多産な作家だから、仲には全くのフィクションといったものもあるが、随筆に記された
侠客の聞き書きは、例え二三行でも極めて貴重な情報を含んでいる。
ただし、よく言われるように、史実に小説的面白味を加えて脚色している部分も
多いので、そこをよく分別して読み込む必要もある。(万人には必要ない、誰かがやればいい)
それがもし明確になれば、これはもう立派な歴史資料となるだろう。
- 772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/27(日) 23:34:55.52 ID:qbdRyYKK0.net
- 例えば傑作『駿河遊侠伝』、遠州山梨の巳之助を初手から「山梨八代郡角打の巳之助」
としている。これでは甲州の生まれになってしまう。おそらく遠州「山梨」という集落を
この時点では御存じなかったのだろう。よってここは嘘。
かと思えば、この巳之助と対立した森の五郎の倅・太市が巳之助に斬られた、という
地元でも伝わらぬ逸話を「河原井淡翁」なる人からの聞き書きとして載せているから恐れ入る。
子母澤先生の手にかかると、史実は逸話に、逸話は史実に不思議と溶け込んでしまう。
- 773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/27(日) 23:53:33.36 ID:qbdRyYKK0.net
- 武州入間郡石井村、(現坂戸市)に石井伴内という変わった名前の侠客が居る。
隣村赤尾村には泣く子も黙る赤尾林蔵が生まれた。伴内は林蔵より大分後代の人で、
だいたい安政くらいに活躍のピークを迎える親分だ。
この人、川越藩から十手をもらい、目明しとして幅を利かせても居た。実際腕も立ったようで、
無宿博徒を木刀で叩きのめし、捕縛したとの記録が残っている。
また隣接する岩殿観音の観音の菊、こと志村菊次郎とも対立した。
伴内の墓は大智寺、姓は森田。菊次郎の墓は岩殿観音正法寺、姓は志村。
観音徳こと、徳次郎は菊の親というがイマイチ確証がない。
- 774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/29(火) 00:42:00.66 ID:eNPNDBxR0.net
- >>316
八王子にある鈴木綱五郎の墓に「関東綱五郎或いは大瀬の伴五郎とも云う」の記載
寺の立て看板にも「清水次郎長一家の客分」、「関東綱五郎」の記載があります。
この件につきまして、詳細をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
また、他所の「関東綱五郎墓之跡」の碑が無くなっていますが
この件につきましても、詳細をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
- 775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/30(水) 23:04:53.39 ID:vpwDUKci0.net
- 八王子落合の鈴木綱五郎を関東の綱五郎のことだ、とするのはどうもこの周辺では
だいぶ昔から伝えられてきた話の様なのですが、
正直なところ私はこれは誤りだと思っています。
大百科にある次郎長の香典帳などの記載からも「大作半五郎」の方が関東綱五郎により近いでしょう。
八王子の綱五郎の話は、小島政二郎が監修した(著者は失念しました)『関東綱五郎の生涯』を
元にしているようです。この中で人生の前半を次郎長の下で過ごしたという
風にまとめてある。おおかた、この著作→伝承→墓碑という流れになったのではないでしょうか。
- 776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/30(水) 23:08:59.94 ID:vpwDUKci0.net
- もっとも鈴木綱五郎が、並ではない天晴な侠客であったことは事実のようで、
確実な証拠史料としては『金子日記』の明治以降の記録に、しばしば登場し、
地域の運営などに大きな影響力を持っていたらしいことが伺えます。
ちなみに同日記は峠の健治(「小仏の健治」との表記)のこともしばしば現れるので興味深いのですが、
本当に名前とちょっとした事実くらいしか記されていないので、むずかゆい程度で
終わってしまいます。
- 777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/11/30(水) 23:19:50.80 ID:vpwDUKci0.net
- ちなみに小島政二郎が抜群のエッセイ『なつかしい顔』の中で子母澤寛について
書いている部分が面白い。小島氏の愛娘・美籠さんも小島氏も小母澤の来る日は
とても楽しみにしていて「親分」と呼んだそうである。
そして大柄なこの親分は、二人の期待に背かず、聞き知った遊侠・仁侠の話を
晩餐の卓で惜しげなく披露した。全くうらやましい話だ。
もし、この時のテープレコーダーがあるのなら、何万単位で取引されても惜しくない。
- 778 :769:2016/12/01(木) 13:25:18.72 ID:SFiSbeJH0.net
- vpwDUKci0様、ご回答ありがとうございます。
八潮市の大瀬の半五郎(大作半五郎)の墓には関東綱五郎の記載は無かったのですが
一般的には、関東綱五郎=大瀬の半五郎なのでしょうか?
大瀬の半五郎が大作半五郎だとは思うのですが、
関東綱五郎が鈴木綱五郎は別として、他の人物の可能性は少ないのでしょうか?
- 779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/01(木) 21:44:18.58 ID:lmyiE2iz0.net
- 「関東の〜」という綽名は博徒には結構いますから、大作半五郎や鈴木綱五郎の
他にも候補はいるんじゃないでしょうか。残念ながらこれ以上の詳しいことは
存じませんです。
- 780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/01(木) 22:32:09.43 ID:lmyiE2iz0.net
- 仁侠研究(「博徒研究」と最近言う人が多いが、出来れば「仁侠研究」を使いたい!)
に関して、危惧したいのは、文献的にようやく最近すぐれた書き手が出てきたという点と、
真反対に幕末期の遊侠の墓石が、ちょうど廃棄・荒廃する時期が重なっているということだ。
加えて、既に明治生まれの人間が絶えてしまい、この後、同頑張っても聞き書きが手に入らないという、
パラドックスである。
要するに、研究課題として認知された時には、既にその情報元が危機的な状況に貧しているということなのである。
- 781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/03(土) 19:19:01.63 ID:3uCOaF+Q0.net
- 新刊情報
『幕末ハードボイルド 明治維新を支えた志士たちとアウトロー』
伊藤春奈 (著)
単行本: 300ページ
出版社: 原書房 (2016/12/19)
> 歌舞伎や講談など庶民風俗で人気を集めた幕末の侠客たち。
> 清水次郎長や飯岡助五郎、幕末の志士たち、そして新撰組……。
> 彼らの実像を幾多の資料から浮かび上がらせ、その底辺に流れる「奉仕」の心境を描く。
AmazonのURL貼ろうとしたら長過ぎるって怒られたからやめた
この著者がどういう人かよく知らないけど
ちゃんと「史料」を押さえて書いてるんだったら面白いかも
- 782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/06(火) 21:47:20.41 ID:OsuB/zUd0.net
- 『「勘太郎」とは誰なのか?』という書籍を書かれた方のようですね。
少し前に評判になりました。あいにく未読ですが民俗学的な視点から、実証的に遊侠の研究に
入ってゆく手法のようです。
今回の書籍ともども是非読んでみたいですね。
- 783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/06(火) 22:11:33.29 ID:OsuB/zUd0.net
- ところで小金井小次郎は、天保15年木更津で捕まり、佃島へ送られ、
ここで新門辰五郎と兄弟分となり、翌年の火事の鎮火に功があったことから
弘化2年帰村が許される。この直後彼が隠れ住んでいた場所は、現・小平市廻田新田である。
二つ塚喧嘩の前後に知己となっていた「廻田の栄太郎」の屋敷を借りて起居していた。
やがて家屋を賭場として利用しようと改築していたことを役人に密告され、
やむなく府中宿へと居を移した、というのが真相である。
栄太郎は、子孫の方によれば「栄五郎」と伝わっているそうである。奥の家屋に出入りの際の
刀疵が、つい先ごろまで残っていたとのこと。
- 784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/08(木) 21:53:43.23 ID:itE1iC/x0.net
- >>582
今さらながら、川越の正目明しについて。
どうも正目明しになると、名字を名乗ることができるようになったらしい。
鶴松は天保15年には仮目明し、嘉永2年に正目明しとなり、
嘉永6年だと「小川鶴松」と姓名で表記される。
- 785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/08(木) 21:58:11.59 ID:itE1iC/x0.net
- ちなみに今頃気づいて、遅きに失した感があるが、
青梅師岡の孫八親分。
この人も「道案内」ではなく、「川越目明し」だ。
下師岡村(現東青梅駅周辺)は幕末期に松平大和守領だった。
つまり川越藩飛び地。孫八は川越藩の火方に属した。
- 786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/08(木) 22:09:20.63 ID:itE1iC/x0.net
- 玉村佐十郎事 柳沢佐十郎
- 787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/10(土) 17:05:53.10 ID:/d7k1CCa0.net
- 岩殿観音の菊次郎は比企郡一帯に勢力を伸ばした大親分で、比企郡の「取締役」を
公から仰せつかっても居た。
これほどの人でありながら、明治3年に過去の殺人を詰問されて、70を越える高齢でありながら、
「斬刑」に処せられる。
力を持ちすぎた地方の侠客は、新政府にとって政治上の危険分子と映ったのだろうか。
- 788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/10(土) 23:34:20.24 ID:/d7k1CCa0.net
- 菊次郎の墓は岩殿観音から北へ、門前町を越えた弁天沼公園の中にある。
一基だけひっそりと建っている。近くに巨大な板碑があるからすぐわかるだろう。
博奕渡世の仲間の名前が刻まれていて、
大前田二代目、田島要吉の名前も入っていることから、その格の高さがうかがえる。
- 789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/11(日) 23:25:08.55 ID:X/Gdr2io0.net
- >>690
江尻の大熊について出自を伝えるものを目にしたので、書き付けておきます。
当時江尻を中心に大熊と綽名のついた男が四人いた。江尻の大熊、蒲原の大熊、和田島の大熊、
駿府の大熊。この中では江尻の大熊が一番貫禄は低かったが、大きな体をゆさぶって、
掛合事などをする時の態度は、見るからにぴちぴちしていて鯉市さんも無論そうだったが、清水の
大公儀御用達本町の松本屋平右衛門という大金持が、この男を可愛がっていた。(中略)
大熊は遠州金谷の在五和村の生まれだと伝えられる。本名熊太郎。しかし誰もそうは云わない。二十四貫といい
五貫という。次郎長よりまた一まわり大きい男だ。
(子母澤寛『駿河遊侠伝』「二人口」の章)
江尻の大熊というのは次郎長の女房初代お蝶の兄として知られる大男、遠州金谷在の五和村の生まれである。
(中沢正『考証東海遊侠伝』)
二人が元にしたものは、あるいは佐橋法竜氏の『清水次郎長伝』かもしれない。私は未読。
- 790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 19:05:50.52 ID:HdiZBWBl0.net
- >>778
信憑性に関しては、裏付けがとれず頼りないけれども、上述の中沢正『考証東海遊侠伝』(雄山閣s48)
の「津向の文吉」の項に「…身延の半五郎(後年次郎長の子分になった大瀬の半五郎の親父・
大瀬の半五郎も身延の半五郎といった)。…」という箇所があります。
これだと関東綱五郎が身延の半五郎とも呼ばれた、ということになりますが、一寸信じられないような気もします。
あと上で書きこまれた方がいましたが、次郎長と都田兄弟の喧嘩の際に「関東の巳之助」
という人が出てきますね。(東海遊侠伝)
- 791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:01:08.77 ID:ltDgrZih0.net
- 半五郎のことを書いた「関東綱五郎」という作品があります。
半五郎の姉だか妹からの聞き書きだったと思います。
冒頭に関東綱五郎、大瀬の半五郎、大作(大咲だったかも)半五郎の3つの名前について書かれていましたが、
いまひとつ理解しにくい内容でした。
内容は地元で人を殺して捕縛されたが脱獄。横浜の遊郭で騒動お起こして清水へ。
清水では関東綱五郎と名乗り、のちに故郷へ帰郷、というものでした。
清水時代についてはほんの少し触れているのみです。
聞き書きがもとであって、どこまでが事実かはわかりませんが、
興味深い内容だったと記憶しています。
ただ、内容通りだと年齢的に何人かを率いて勝沼の三蔵の助っ人にでかけた
というのには若干無理があるのと、「駿河遊侠伝」の老後の半五郎とは一致しない
ということがあります。
疑問なのは、「東海遊侠伝」には半五郎、綱五郎としか書いていないのに、
なぜ大瀬あるいは大作や関東が付くようになったか?
上記の著書も「東海遊侠伝」の半五郎が大瀬の半五郎でなければ成り立ちません。
- 792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:18:22.53 ID:ltDgrZih0.net
- 「桶屋の鬼吉」「遠州森の石松」なども。
どちらも「鬼吉」「石松」としてしか登場しません。
桶屋は、棺桶を担いででいりに駆けつける、という話を作るために
講釈師が名づけたものだと思っています。
森の石松は、次郎長が遠州の森町と関わりがあったことからヒントを得て
語呂がいいから「遠州森の石松」という名前が出来上がったのではないかと思っています。
「東海遊侠伝」が必ずしも正しいというわけではありませんが、こちらには三州の産
と書かれています。
三州の産の説をとっている書物でも、森の五郎に預けられたとか、森町に住んでいた期間が長いとか
森町と結びつける記述がありますが、実際はどうだったのか疑問です。
八尾ヶ嶽久六も穂北とか保下田とか帆桁などが付いていますが、
こちらもはやりのちに付けられたものではないでしょうか。
とは言っても、全て私の知識不足による憶測かもしれませんが。
- 793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:39:53.17 ID:ltDgrZih0.net
- 真偽は不明ですが、いくつかの書物に大熊は妹のお蝶とともに
一時期猿屋の勘助に世話になっていた、という話も書かれています。
大熊の子分数人が祐天達に甲州円山前の賭場で殺された、という事件。
「塩山」→「えんざん」→「円山」で、「円山」でも「まるやま」でもなく
「塩山」が正しいと思われます。
「円山」という土地が実在したのならばごめんなさい。
「大豪 清水の次郎長」で著者の小笠原長生は「おちょう」さんは
漢字で書くと「お長」さんだから、ひらがただと「おてふ」ではなく「おちやう」が正しい
と書かれていますが、こちらも真偽不明、というか、間違いだと思います。
- 794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 22:48:47.97 ID:ltDgrZih0.net
- >>772
何で読んだかは記憶にありませんが、巳之助について書いた個所で
「『山梨』と書いて『やまな』と読む」と書いてありました。
そのあたりの土地に関しては全く知識がないのでわかりませんが、
袋井市の山名公民館の所在地は袋井市上山梨とあり、ちょっと興味深いです。
- 795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:18:53.31 ID:HdiZBWBl0.net
- >>791--789
久々に面白い情報を書きこんでくれる人がいたので嬉しいですな。
しかも自分にとって未知の情報だったので得るところが多い。
786の円山は塩山でいいと思います。安政3年4月12日、確かにここで駿河の博徒ともう一人が殺害された
という史料が、実はあるのです。つまり伝説通り、甲斐の祐天によって
大熊の子分、または鬼神喜之助の子分が塩山で殺されたという事実があったということになります。
ちなみに4月12日は武田信玄の没日で信玄忌といい、祭礼が開かれました。
- 796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:27:12.55 ID:ltDgrZih0.net
- >>721
黒駒勝蔵。
「東海遊侠伝」に何度も敵役として名前が登場しますが、
実際には多くがが無関係ではないかと思います。
原田常吉側の史料から、雲風亀吉宅にいた勝蔵に襲撃をかけたのは事実。
でもその後、形原斧八宅に復讐したのは黒駒一家ではなく亀吉の弟達。
証拠がない、他に史料がないから事実ではないというのはおかしいですが、
掛川で暴れて小政達に斬殺されたのが黒駒の残党だというもの怪しいし
書いた時点で違うとわかっていながら斬られた二代目お蝶さんに
「きっと黒駒のしわざだよ」としゃべらせたり。
官軍のいち隊長でありながら、清水一家を恐れてコソコソ駿府を通し過ぎた、
大場の久八を袋叩きにする子分たちを止めずに黙って見ていた、
素行が悪いために主人に追い出され、強盗の咎で処刑された、などなど。
勝蔵を悪く書きすぎているように思います。
なぜ愚庵はここまで勝蔵を悪しざまに書くのか。
「東海遊侠伝」を発刊するにいたった背景から、勧善懲悪的に書く必要もあったのでしょうが
官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。
偉そうにしている官軍でも、所詮はこんな奴らだ、という思いも秘められているように思います。
ただ、愚庵は明治になってから元官軍側の人達とも親しくしていたようなので
ちょっと考えすぎかもしれませんが。
- 797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:37:56.90 ID:ltDgrZih0.net
- 「東海遊侠伝」にはない、安東文吉側の史料にあるという
黒駒一家が清水一家に襲撃をかけた事件。
勝蔵が襲撃されて仕返しをしないのはおかしい、
「東海遊侠伝」は次郎長が敗走したことは書きたくない、
という点を考えると、事実なのではないかと思います。
残念ながら、年代がはっきりしないようです。
もう一点、
以前梅蔭寺の史料館に行った時、勝蔵が次郎長におくった水晶というものが
展示されていた記憶があります。
数年前に行った時はだいぶ改装されており、その水晶は見当たりませんでした。
そのあたりの事情は分かりませんが、勝蔵がおくったというのが事実であれば、
争いばかりではなく、どこかの時点で次郎長と勝蔵は交流があったと思われます。
連投、大変、大変失礼いたしました。
- 798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:51:02.76 ID:ltDgrZih0.net
- 書き忘れました。
「関東綱五郎」は長谷川伸著。
私の記憶が正しければ「長谷川伸全集 十三巻」に載っています。、
- 799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/12(月) 23:57:37.69 ID:ltDgrZih0.net
- >>795
非常に貴重な情報、ありがとうございます。
まさにその高市で起きた事件だったのですね。
以前の巳之助の島抜けに関してもそうですが、
一つの事件に関する事実が、他の史料で立証されるって
感動的ですね。
そして、それを見つけ出す力、他の史料と関連付けて読む力。
とてもうらやましいです。
- 800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/13(火) 21:45:46.36 ID:5bYxH1750.net
- >>796
「官軍との戦いのさなかに両親と妹を失った愚庵の、
官軍に対する個人的な恨みや怒りが勝蔵にぶつけられているのではないかと思っています。」
↑は極めて慧眼、重要な視点ではないかと思います。
また勝蔵の送った水晶の話は興味深いですね。1873年のウィーン博覧会の際にも甲州では
水晶が出典されたのでそういう機運が出来ていたのかもしれません。非常に貴重な情報ありがとうございました。
是非気軽にまたお書き込みください。
- 801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/13(火) 21:59:46.45 ID:5bYxH1750.net
- 小金井小次郎の話では、
新門と義兄弟になり、武州一帯に勢力を伸ばした小次郎に
伊勢の丹波屋伝兵衛から刺客が送られてきた、という部分がある。
伊勢の大侠を相手に回して生き延びた小次郎天晴れ、という話に仕立てたかったのか、と当初思ったが、
小次郎に刺客が送られてきたことを明確に示す史料が出てきたので、これは事実であることが判明する。
これは確定ではないが、史実は丹波屋の後ろ盾を得た吃安流罪後の竹居一家が小次郎と対立したというのが本当であると思う。
この時竹居一家の頭に立っていたのは、竹居の小市こと市五郎。
- 802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/13(火) 22:10:35.89 ID:5bYxH1750.net
- 584に関して、明確な答えを出せないことが実に残念です。申し訳ない。
- 803 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/14(水) 21:57:16.44 ID:qOJQOmjY0.net
- 子母澤寛の『駿河遊侠伝』には福知山の銀兵衛という親分のことが出てくる。
ここに暫く次郎長一行が世話になっていて、その間に甚太郎という旅人が
福知山一家に入ったり、次郎長が近くの寺の若後家と恋に落ちたりと、色々ある。
が、どうも本書を読む限りでは聞き書きに依拠した実話のように思える。
甚太郎は、実は女性で生来男として育てられ、なんと妻も持った。明治の博徒刈り込みで捕まり
その時「女」と初めて知られた。その後江戸の本所で飯屋をしていたという。
また福知山の銀兵衛という親分も、ネットで調べると「松本屋銀兵衛」の名で実在していたことが伺える。
- 804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/14(水) 22:00:28.02 ID:qOJQOmjY0.net
- 福知山だったか、京丹波だったか、昔旅した時に
一日中「機織り」の音が絶えない場所があった。こんな地域が日本にはあったのだと
思ったものだ。北陸と言うのか近畿と言うのか。
いずれ関東人にしてみれば不思議な場所だった。
- 805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/15(木) 22:08:26.99 ID:yYD0U4v40.net
- 遠州相良の富吉と争った親分に堂山の龍蔵という猛者がいる。
だいぶ早い時期の話で天保も前半くらいの頃ではなかったか。詳しい抗争の様子は
今ちょっと思い出せない。竜蔵は明治も二ケタになって死んだように記憶しているから
だいぶ長生きしたことになる。
菊川から相良へ入る途中に「堂山新田」という地域があり、平野でよく稲の実った地勢だったように
記憶している。ここが龍蔵のいたところか、と思うとそれとなく趣が感ぜられる。
近くに黒田家世襲の代官所がある。思いがけず立ち寄ったが、素晴らしい品々が惜しげなく陳列されている。
穴場と呼ぶにふさわしい史跡だった。(後半全く侠客に関係ないな)
- 806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/15(木) 22:16:45.80 ID:yYD0U4v40.net
- これは全く関係ないが、この代官所の管理人さんが80を越えた方で、
「遠州大地震」なるものを体験したとふと漏らしたことが、非常に興味を覚えた。
聞くと、小学校の校舎が壊れ、本人は夢中で外へ逃げたが友達は亡くなったとのこと。
そんな地震の存在を私は聞いたことがなかった。
後で調べると戦中に隠蔽された「幻の地震」であるとのこと。(戦意高揚のため事実を封じられた)
侠客とは関係ないが、貴重な話だったのでつい書いてしまった。すみません
- 807 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/16(金) 16:16:40.36 ID:J37rJVRk0.net
- >>789
問屋場の大熊と呼ばれた者は、別にいらっしゃるのでしょうか?
- 808 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 12:43:10.02 ID:9SwS0Ptb0.net
- >>807
熊五郎、熊次郎、熊蔵とか虎五郎とかは多くいますので、誰が江尻の大熊か
わかりかねますね。問屋場の大熊…もちょっとわかりませんです。
墓石でも見つかって、更にそこに縁故ある人の名前でも刻まれていれば
確定できるのでしょうけども。今のところ一寸聞かない。すみません。
- 809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 12:52:08.36 ID:9SwS0Ptb0.net
- >>798
ご紹介頂いたおかげで長谷川伸の「関東綱五郎」を読みました。
後半は尻つぼみですが、前半部分は傑作ですね。特におてるという娘の
心情を描く部分、川辺の土手から半五郎の元へ飛び込むところの、女性の心情の描き方
なんかは、真に迫っていてなんとも胸が痛くなります。また半五郎が親父の心情を察して
堅気の仕事が手に付かなくなる場面、祖父の伊之平が夢に現れる場面など、「上手い」と思わせる。
さすがに一世を風靡した大衆作家という感じです。
…これじゃ読書感想文ですね…そうそう、やっぱりこれを読む限りだと大作半五郎が関東綱五郎でいいんじゃないか
と思いますね。『八潮市史』には、たしかこの時の事件の記録も残っていた気がします。
- 810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 12:59:14.01 ID:9SwS0Ptb0.net
- >>796
やっぱり黒駒勝蔵親分の博奕打ちとしての人生のメインは、次郎長と東海道沿いで
戦うことではなく、甲州で兄貴分の吃安親分を召捕った仇の祐天、三蔵、犬上郡次郎を
討つことにあったのだと思います。平井で大岩・小岩を失っても屈することなく、
甲州に潜入し、犬上の首をあげたということはその証でしょうな。
ちなみに祐天は文久3年、郡次郎は元治元年、三蔵は明治2年に他界しているので、
勝蔵生存時に、仇は全て没したことになります。とすれば、勝蔵親分も心中「まあ、役目は果たせた」
という気持ちで旅立てたのかもしれません。
- 811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 22:29:27.78 ID:uTwfXSxA0.net
- >>800
ありがとうございます。
水晶に関して、戸田書店刊の「人間 清水次郎長」に
写真付きでちょこっとだけ解説が載っているのを見つけました。
それには「のちに仇敵となった黒駒の勝蔵から贈られたもの」
となっています。
この記述通りであれば、両者の間に抗争が起こる前、
元々は何かしらかの交流があったと想像できます。
- 812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:15:17.96 ID:uTwfXSxA0.net
- >>810
次郎長側の史料で勝蔵を敵役としているほど
勝蔵は次郎長を敵として意識していなかったのでしょうね。
口供書からは、兄貴分の敵討ちのために半生をささげた
という印象をうけます。
自分の手で敵を討てなかった悔しさはあったでしょうが
おっしゃっているように処刑される前に敵の死を知ることができた
という点ではきっと悔いは少なかったですね。
悪役にされる前に勝蔵にスポットライトが当たっていれば、
次郎長の石松の敵討ちよりも、勝蔵の吃安の敵討ちの方が
大衆を惹きつける力があったかもしれません。
生き証人が存命のうちに勝蔵の研究が十分にされなかったのが残念です。
- 813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:29:38.92 ID:uTwfXSxA0.net
- >>809
>>791の聞き書きというのは、姉ではなく妹でした。
本文には書いてないようですが、このことは同じく長谷川伸著の
「素材素話」内の『荒神山喧嘩考』に載っています。
参考までに同書に故松居松翁という人が戯曲「大瀬の半五郎」を書いた、とあり
その材料は自分の「関東綱五郎」とはまるで違う、とあります。
あるいは、それが八王子の関東綱五郎のことなのかもしれません。
「素材素話」は「長谷川伸全集 第十一巻」の収録されています。
読み応えのある内容ですので、ご存じでなければぜひ御一読ください。
- 814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:39:41.62 ID:uTwfXSxA0.net
- 同じく長谷川伸著に「殴られた石松」という作品があります。
原田常吉が兄の敵の浪人を討つという話の流れです。
史実は弟の敵討ちですが、物語でありながら敵の名前は史実通りであったり、
長谷川伸はこのあたりの事情を知っていたようで、ちょっと興味深いです。
- 815 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/17(土) 23:49:28.27 ID:uTwfXSxA0.net
- 以前、江尻の大熊の「魚熊」説を書いた者ですが
大熊の戒名が載っている冊子がありました。
こちらには「魚熊」という文字はなく
「江尻の大熊 (俗称不詳) 悟心禅定門 (臨・法雲寺)」とあります。
「魚熊」説については、いずれまた調べてみようと思っています。
- 816 :802:2016/12/18(日) 00:49:07.22 ID:QkjSTGF60.net
- >>808
ご回答、ありがとうございます。
二十八人衆自体が創作なのは分かるのですが、
どういういきさつによってこの人選になったのか不思議でなりません。
追分の三五郎を除いて、当時、有名だったのでしょうか?
それとも、東海遊侠伝から選んだだけにすぎないのでしょうか?
- 817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:01:19.22 ID:uQDe3FLr0.net
- >>795
大熊が猿屋に世話になっていたという説、
円山=塩山
ともに>>387で既出でしたね。大変失礼いたしました。
全てに目は通しているつもりだったのですが…。
>>816
>>808の方とは別の者ですが、
やはり、清水の次郎長のように地名が付いていればそれが手掛かりとなりますが、
問屋場となると、どこの問屋場かが確定しないと捜索は困難ではないかと思います。
当時は有名であっても調べる人がいなかったり何かの記録に残っていなければ、
関係者の死とともに完全に忘れ去られてしまう、というのはとても残念です。
- 818 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:18:23.50 ID:nIw5DsEY0.net
- >>816
「近世侠客有名鏡」はだいたい明治・大正版が有名なんですが、
確認できる限りだと「昭和10年」というのがあります。これには
「増川村仙右衛門」・「清水湊の大政」・「清水湊の小政」がランクインされてますな。
後の人はどういう基準で選んだのか。案外、天田五郎の親しい人順だったりするかも
しれませんね。
- 819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:19:45.92 ID:uQDe3FLr0.net
- 清水の28人衆については、
おっしゃっているように、追分三五郎のように架空の人物も含まれていますが、
基本は有名無名関係なく、東海遊侠伝に出てくる名前を当てはめたのではないでしょうか?
東海遊侠伝に問屋場の大熊という名前は出てきませんが、
江尻の大熊がモデルってことも考えられますね。
- 820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 22:54:21.17 ID:nIw5DsEY0.net
- ・大熊の子分が塩山で祐天に斬られた。(大熊と祐天は元々兄弟分)
・大熊は妹ともども猿屋勘助(三井卯吉)の世話になっていた。
・三井卯吉を斬ったのは甲州市川大門村の小天狗亀吉(鬼神喜之助弟)
↑『東海遊侠伝』・松村梢風の聞き書きを参照にするなら、大熊は案外甲州の者かもしれない。
市川大門隣村に「大塚村」があり、ここに「大塚ノ熊五郎」と言う人がいた。
この人って可能性も有るか知れない。
- 821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/19(月) 23:58:53.39 ID:uQDe3FLr0.net
- >>820
すごいですね!
松村梢風は次郎長関連の人物を詳しく調べていますよね。
高萩の万次郎についても創作と思いきやかなり詳しく事実を調べられている、
というようなことが「清水次郎長とその周辺」でも述べられています。
江尻の大熊に関しても事実を調べて書いていると十分考えられますね。
(石松の調査結果に関しては違うような気がしますが…。)
甲州の人だから清水界隈に詳細が伝わっていない。
そして「大塚村の熊五郎」→「大塚の熊」→「大熊」といったところでしょうか?
お調べになったことを簡単に教えてほしい、なんて大変失礼なのは承知ですが、
大塚村の熊五郎について、ほかに情報があればぜひお聞かせ願えないでしょうか。
- 822 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:14:16.94 ID:P465FOM90.net
- 実は何にも知らん部て居ないのですが、2013年の山梨博物館の勝蔵展で、
大正まで伝わっていた侠客の伝をまとめた書籍があり、そのなかに、津向文吉や
鬼神喜之助と一緒に「大塚の熊五郎」という人の名前が挙がっていたにすぎないのです。
たしか、その書籍にも名前だけで「事績詳らかならず」とただ一行だけあったとのことです。
実地に行ってみて調べてみようとは思うのですが、多分何にもでないでしょうね。
- 823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:18:07.06 ID:P465FOM90.net
- ただ、村松梢風の次郎長伝の中で、大熊が「俺は甲州の者なんだが…」と言ってること。
これに815の情報を足して、
その上で、三井を討った下手人が確実に市川大門松坂屋亀吉であることを鑑みると、
大熊と松坂屋喜之助・亀吉兄弟の間には交流が「なければならない」ことになります。
と、すれば(大暴投であったとしても)大塚ノ熊五郎は候補に挙げてもいいんじゃないかと。
- 824 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:37:53.28 ID:P465FOM90.net
- >>813
「素材素話」は十一巻ですね。必ず読んでみます。十三巻では「親分病」というのも
面白かったですね。
全集にも入っていないし、そんな良い作品でもないのかもしれないけど、
黒須大五郎を扱った『八丈つむじ風』が、どっかで手に入らないもんかと思ってます。
- 825 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/20(火) 17:39:46.52 ID:P465FOM90.net
- 810で書かれた大熊の戒名がかかれた冊子は、どこかで入手可能なものでしょうか。
お手数ですが、お時間ある時に御返信いただけると幸いです。
- 826 :811:2016/12/21(水) 15:22:25.48 ID:TPG+55T30.net
- >>817->>819
ご回答、ありがとうございます。
天田五郎の親しい人順は、おもしろいですね。
問屋場の大熊が江尻の大熊かとは思いましたが、
本当だとすると兄貴分の大熊を下に見る創作は残念ですね
- 827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/21(水) 23:21:31.10 ID:Z3pIkZmU0.net
- 静岡の富士市は増川佐次郎、仙右衛門親子を始め、宮島俊蔵、本市場の金七など
有名な人物を輩出している。しかし公に彼らの事実が調べられたことが、残念ながら無い。
加えて、この地域では墓石を新しくすることが流行っているようで
古い墓石が容赦なく廃棄されている。
- 828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 10:55:30.50 ID:jveobObR0.net
- >>822ー819
ありがとうございます。
私も当時の史料を引っ張り出してみてみましたが、
全く気にも留めたことのない名前でした。
「日本の古本屋」で検索すると2件ヒットしました。
長谷川伸の作品は小説にしても随筆にしても、読み手を惹きつける力がありますね。
大熊と鬼神喜之助、小天狗亀吉兄弟の関係など全く考えたことはなく、目からうろこです。
卯吉殺害時には、亀吉とともに次郎長や大熊の身内もいたかもしれませんね。
- 829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 11:21:55.89 ID:jveobObR0.net
- 大熊の戒名について
清水地方で刊行されている「季刊 清水」というものがあります。
その1993年に刊行された第30号で確認することができます。
自分の周辺の区の図書館にはなく(当然かもしれませんが)、
清水市中央図書館が間違いなくで閲覧可能なところだと思います。
以前書いた「魚熊」説のもととなった本もこの図書館で閲覧したものですが
そこに書かれていた戒名と「季刊 清水」に書かれている戒名が
同じかどうかは確認できていません。
現在私が確認できるものは他に
10号で次郎長の手紙について
18号で和田島の太左衛門を中心に山田房五郎や
次郎長の叔父の太右衛門について
24号で愚庵の手紙や愚庵の清水での交友関係について
があります。
ほかにも何度か次郎長について書かれた回があり
この図書館のホームページから確認できます。
- 830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 12:14:39.88 ID:jveobObR0.net
- 「季刊 清水 第30号」には「東海遊侠伝」に名前が出ている
興津の清之助の戒名も載っています。
しかし、明治39年に48歳で没となっていることから
病気で寝ているところを勝蔵一家に襲われたという
盛之助とは別人のようです。
- 831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 19:45:19.94 ID:jveobObR0.net
- 法印大五郎の没年月日、戒名も載っています。
「東海遊侠伝」では荒神山の喧嘩で死亡したことになっていますが、
実は生存していて故郷の甲州に帰って亡くなっているという話もあります。
「季刊 清水」はこの生存説を採用しているようですが、
生存説が書いてある本を読んでも、今ひとつその根拠が理解できずにいます。
生存説と言えば、尾張の鬼吉にも。
「東海遊侠伝」では宮島の重吉という者の一家に鳴海で斬り殺されたことになっていますが、
次郎長が後見役として東京のとある一家に送り込んだ人が、
「自分が桶屋の鬼吉と言われた人間だ」と語り残したという話もあります。
- 832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 21:22:37.31 ID:jveobObR0.net
- 清水中央図書館には3代目お蝶さんからの聞き書き
「侠客寡婦物語」があります。
そもそもが、これが目的で以前清水まで足を運んだのですが、
ゆっくり閲覧する時間をもてないまま帰ってきてしまいました。
>>826
神田伯山は
次郎長を匿ったのにもかかわらず本沢の為五郎を敵役にし、
清水一家に斬り殺された話を作りその息子に訴訟を起こされそうになったり、
悪く描き過ぎだと、吃安の子孫に訴訟を起こされそうになったり、
ってことがあったそうです。
それに比べたら問屋場の大熊=江尻の大熊であったとしても
名前を変えられた上で格下にされた程度ならばまだいい方かもしれませんね。
- 833 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 22:05:30.52 ID:7y5aQpE/0.net
- まったく、たくさんの貴重な情報をもらえて感激しております。
826の人は上萬一家の仁三郎さんのことですね。真の侠客と呼ばれる人だとか。
私も堀田の親分が「桶屋鬼吉」と呼ばれたという説は聞いたことがありましたが、
ようやくsourceがわかりました。本当にありがとうございます。
- 834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 22:14:22.33 ID:7y5aQpE/0.net
- ちなみに小天狗亀吉が宇七さんを討つために率いて行った人数は10人(本人入れれば11人)で
7人までは名前と出身地が判明しています。(飯の種なので詳細はすみません。伏します。)
6人は甲州、1人が武州です。もし大熊の党が含まれるとすれば、残る4人の内に入るか。
あるいは既出の七人のいずれかが、子分と言う事になるでしょう。
宇七さんが殺されたことを受けて、甲府から26人の博徒が甲府勤番から許可を得て「捕方」となり、
東海道を遠州まで練り歩きました。次郎長さんが国を売ったのはこれに拠るのですが、
一方で江川太郎左衛門(英敏)は、勤番のこの処置を怒り、「無宿と間違えて皆殺しにするぞ」と脅し、26人を甲斐に返しました。
まるで小説見たいですが、全部実話です。
- 835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/22(木) 22:25:17.89 ID:7y5aQpE/0.net
- 富士宮に阿幸地の定四郎と言う親分がいるそうで、
新撰組に入った(とされる)結城無二三は、「大宮」(=富士宮)の親分の元に
世話になっていたという話を幕末に残しています。
加川英一氏はこの親分を宮島俊蔵(重吉)と見ていますが、私は阿幸地の定四郎だと思う。
- 836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/23(金) 07:39:52.92 ID:iJ4Aeu+40.net
- また酔って勝手なことを書きこんだ。暫く離れて頭を冷やします。すみませんでした。
- 837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2016/12/28(水) 20:49:27.34 ID:zRtoSX2R0.net
- 前にも挙げたが、野州佐野宿の十手持ち、京屋元蔵に伝わる流行り唄。
侠客中の里謡では、これが一番良いと私は思う。
野州佐野宿、真っすぐ通れ
曲り嫌いの男が怖い
京屋の元蔵の目が怖い
真っすぐ通る、というのは色々な意味で含蓄のある言葉だ。
- 838 : 【大吉】 【145円】 :2017/01/02(月) 18:58:20.14 ID:+1kIvukM0.net
- 唐津拾遺集(22)侠客幡随院長兵衛
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/386627
佐賀新聞LIVE 2016年12月15日 10時23分
- 839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/07(土) 18:26:21.99 ID:uKWI/iIL0.net
- 老朽化した次郎長の生家、寄付金で賄い修復へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170106-OYT1T50107.html
> 幕末から明治時代にかけての侠客きょうかくで、
> 晩年には清水港の発展にも貢献したとされる清水次郎長の生家
> (静岡市清水区美濃輪町)が修復されることになった。
> 老朽化で倒壊の危険が指摘されていたが、修復費用を寄付金などで賄えるめどが立った。
> 工事は10日に始まり、6月頃の完成を目指す。
> 修復後、多くの観光客が訪れ、地域活性化につながることを地元は期待している。
- 840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/07(土) 21:11:44.05 ID:QsSUEgWf0.net
- さて正月明け最初は、武州田無稲荷の増五郎親分の逸話から始めさせていただきます。
慶応2年の武州一揆の際、暴徒が各地の宿を襲うという報に接して、田無宿の大物名主下田半兵衛も
事態を重く見て念の為、家中の銭を集め、千両箱と小かますに詰めて安全なところへと隠そうと決めた。
小かますは庭の池の中に沈め、千両箱は宿内一の侠客・稲荷様こと増五郎に預けたのである。
幸いにも一揆勢は手前の小川宿北はずれで鎮圧され、田無までには至らなかった。
この報を聞くと、早速増五郎は祝言と共に預かっていた金をそっくり名主の元へ返した。
その際、半兵衛がお礼にと与えようとした金には手をつけず、ただ
「以後、私の取り仕切る博奕場を無礼講としていただきたい」との一言を残して帰って行き、人々その無欲と
正直さを称賛したと言う。
- 841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/07(土) 21:16:10.50 ID:QsSUEgWf0.net
- ちなみに、現代に入って今から数十年前、下田家の庭の池からかますに入った小銭が
見つかった。これはまさしく一揆の際に、下田半兵衛が隠した金であろう、
と、前述の楢崎氏は注に書いておられる。
出典は、前にも出したが、「かさもり稲荷雑考―博徒増五郎の背景―」(『田無地方史研究4』、田無地方史研究会、S59年)
- 842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/07(土) 21:26:44.43 ID:QsSUEgWf0.net
- ちなみに本論の「談話」には、増五郎のひ孫の語り残しが記録されていて面白い。
父正升が若い頃、奉公に出ていた時分、たまたま八王子で「小金井小次郎」の芝居を見る機会があった。
その芝居には、登場人物として「稲荷の増五郎」も出ていたが、増五郎役の役者があんまり痩せて貧層だったので、父は
「うちのじいちゃんはお相撲みたいにでかかったぞ!」とヤジを飛ばした。
すると「小僧、生意気言うな!」と周囲の客が怒鳴ったが、
「ほんとうさ、俺は増五郎の孫だ!」と返したら、皆黙ってしまった。
この話、私はかなり好きである。
書き忘れたが、上の御論文、著者名は楢崎成直氏。
- 843 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/07(土) 21:46:12.20 ID:QsSUEgWf0.net
- 俗に「上州系三親分」という言葉がある。戸羽山瀚先生によれば下の様な規定に拠る。
上州系は大前田栄五郎を主体として大場の久八、伊勢古市の丹波屋伝兵衛の三親分を以て構成し、
関東関西の親分貸元はいずれもこの三親分の内の系統に属す。但し清水の次郎長は半可師より進出したが
為に右の系統に入らず、専ら独自の途を開拓したので、これを振興渡世人という。
戸羽山氏が根拠にした史料は不明であるが、幕末から明治の初め頃に、このような取り決めがされたのかもしれない。
- 844 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/07(土) 22:47:12.62 ID:QsSUEgWf0.net
- >>813
ご紹介頂いたご書籍の「荒神山喧嘩考」読みました。
正直、このスレッドに書きこまれる方々の知識が広く、何も知らなかったことが恥ずかしいかぎりです。
この本は本当に興味深い内容ばかりですね。特に神戸の長吉が極めて天晴な侠客であることがよくわかりました。
一行長吉が「日柳燕石」と知己である、という部分、もうちょっと知りたかったのですが
長谷川先生、もう故人なので知りようがなく、残念無念です。
それにしても「ご座れ参ろうの喧嘩」のような事実を知るには、長谷川先生のような聞き書きを
持ってしなければ絶対無理なことですね。こうして文章になって残っただけでも
有り難いことです。
勉強になりました。これからもご教示ください。
- 845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/10(火) 21:25:03.80 ID:jCe/PmyW0.net
- 大瀬の半五郎について
・八王子の鈴木綱五郎
・八潮市の大作半五郎
とこのスレでも出してきたが、大事なことを忘れていた。
伯山の「大瀬の半五郎」である。
これだと半五郎は草加の生まれとされる。(八潮とも近い)兄・又五郎ともども
侠名を知られていたが、兄が計略に落ちて殺され、その恨みで兄の許嫁だった義姉と
目明しの五蔵を殺す。
その後、凶状旅の果てに清水湊へやって来て、次郎長の世話になる。そんな話だった。
- 846 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/10(火) 21:31:48.85 ID:jCe/PmyW0.net
- 以前虎造の「大瀬の半五郎」を面白く聞いていたのだが、不覚にもそんなこと全く忘れていた。
近デジの『世界の救世主日本』(遠藤友四郎著、錦旗会本部、S6)というとんでもないタイトルの本の中に
「侠客賛仰・次郎長の子分」というコラムがあり、思いの他くわしく、ここに半五郎のことが載っていた。
おまけとして、伯山がこれを高座で演ったら、「半五郎の子分だった」という老人が現れ、五蔵殺しの際の
誤ったところを指摘した、という逸話が書かれていたので、
この「草加生まれの半五郎説」無碍にはできない。というより、これが巷で一番説得力のある半五郎=関東綱五郎なのかもしれぬ。
- 847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 11:09:33.81 ID:xDtjVBoj0.net
- >>844
恥ずかしいなんてことはないのではないでしょうか?
私もここで多くの知らなかった意外な事実を知りましたし、
自分が書き込んだことを「知らなかった」なんて言われると
微力ながら他の方の趣味や研究のお手伝いができたのではないかと、
嬉しく思えます。
- 848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 11:34:41.28 ID:xDtjVBoj0.net
- 黒駒の勝蔵もですが、やはり悪者や卑怯者というイメージが定着してしまった
人物についての調査は相当タイミングを逸してしまっていますね。
日柳燕石と神戸の長吉との関係、長吉をもっと早い段階で詳しく調べたら、
びっくりするような事実が出てきたかもしれません。
でも「荒神山喧嘩考」というものを残してくれただけでも相当ありがたいですから
贅沢を言ってはいけませんね。
ちなみに「荒神山喧嘩考」は平岡正明著「清水次郎長の明治維新」の
参考文献で知りました。
広沢虎造の浪曲を基にとしていますが、次郎長関連の様々な考証がされていて
なかなか面白い内容でした。
- 849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 12:10:13.66 ID:xDtjVBoj0.net
- だいぶ前の話題になりますが>>280や>>380の集合写真。
清水の壮士の墓に隣り合って小さな建物があります。
中をのぞくと同じ集合写真が飾られていますが、一般的に各人物に付けられている名前とは
全く違う名前がふられていました。
この人物名、間違ってるんじゃないか?とは思わず、
世間に出回っている人物名って実は適当なんだな、って思った記憶があります。
また、各人物名が正しくないという記述はされていませんでしたが、
一般的に「大政」と言われている後列の人物を「○○の半三郎」と
書いている書物を読んだ覚えがあります。
著書で、人物名を信じて没年等を参考に、いつ頃撮影されたものかを考証している
方がいますが、お気の毒です。
この写真についても、適当な人物名がふられていなければ
正しい調査がされて、新たな事実が発見されていたかもしれませんね。
- 850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 12:47:09.91 ID:xDtjVBoj0.net
- 増川の仙右衛門と宮島の俊蔵の手打ち式の写真、との説ですが、
「東海遊侠伝」では鬼吉は宮島の重吉(俊蔵)一家に殺され、
鬼吉の子分はすぐにその仇を討った、となっており
「やくざ学入門」では次郎長が上万一家に送り込んだ堀田仁三郎親分の前身は鬼吉で、
もとは仙右衛門の弟分だった、となっています。
鬼吉は仙右衛門の弟分だったのか、
仙右衛門の弟分であっても、次郎長の子分であれば次郎長と俊蔵が手打ちをするはず、
鬼吉は堀田仁三郎親分と同一人物か、
等、疑問は多いですが、
鬼吉に関する両者の手打ち式の写真、ってことだったら面白いですね。
- 851 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 13:13:48.54 ID:xDtjVBoj0.net
- 5〜6年前、勝蔵の碑を探している時に道を尋ねたおばあさんが、
「雪の中を逃げるのに、役人の目をくらますために
草鞋を左右逆にはいて逃げたと聞いていますよ」と教えてくれました。
内容よりも、語り継がれているという事実がうれしいですね。
- 852 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/17(火) 14:06:08.96 ID:xDtjVBoj0.net
- 勝蔵の碑の近くには、勝蔵の生家とその敷地内に立派なお墓、
ほかにまたお墓と言われているお地蔵さんが置かれている神社があります。
お地蔵さんの周りにはいくつかの墓石があり、その一つには「小池嘉兵衛」の文字が見えました。
嘉永の文字も見えたので、勝蔵の父ではなく祖父かもしれません。
父親のものと思われる年を記したお墓も並んでいるかもしれません。
いずれもお墓を建てたというよりも、悪く言えば置きっぱなし、
という状態です。
なぜこのような置かれ方をされたままなのか、とても気になります。
- 853 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/31(火) 23:39:51.36 ID:1keuLruZ0.net
- >>849
619で書いた話はかなり高名な研究者が書き残した史料によるので、私自身は信頼しているのですが、
調べてみれば仲裁役に立ったとされる大胡の団平は、慶応年間に島流しのまま亡くなっているので、
この点は辻褄があいません。
しかし、団平の役を二代目大前田の「田島要吉」であるとすれば、無理がない説にも思われます。何故と言うに
要吉清水一家などとも交流が深く、東海道沿いとはよく交流し、写真等も残っているからです。
とは言え、真実は、おっしゃる通りすでに例証できない時期に来てしまっているのでしょう。
- 854 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/31(火) 23:49:14.69 ID:1keuLruZ0.net
- >>852
私ごとで恐縮ですが、本家は八ヶ岳山麓の小村にあります。四代ほど前に「上黒駒」から
嫁に来た女性がおり、勝蔵親分の親類筋に当る人で、女性ながらに馬に載って嫁いできて、
それはみごとな短刀を携えて来たとのこと。親族間では「さすが黒駒の親類よ」と内々で話題にしたと言います。
(真偽のほどはわかりませんが)
明治維新はてっとり速く国民の「価値観」を変える手段として、善悪の区別を短時間で極端に定義したのだと思います。
それまで博奕は庶民が嗜む必要悪でした。(中世ではれっきとした職業・あるいは行事でした)
明治3年に、それは完全な「悪」にされたのでしょう。
山梨西部に住む勝蔵の子孫の方の話にも「あんな悪党のモノはみんな捨てちまった」と答えられた経験があります。明治期には
そういう転換があからさまに成されたのだと、私は思います。
- 855 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/01/31(火) 23:54:39.10 ID:1keuLruZ0.net
- 709で山梨ノ巳之助親分を、八丈実記の「無宿巳之助」と同一人物だと得意に書きこんだが、
このことは既に藤田五郎氏が『仁侠大百科』書かれておられた。恥ずかしいかぎりだ。
- 856 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/01(水) 23:31:21.71 ID:hM9m546s0.net
- 安東文吉の「十哲」
仏の勇蔵(長谷村の勇吉)・柳新田の政蔵・安西五丁目吉五郎(悪吉)・瀬名村権次郎
沼上の石音・信州屋源次郎(長谷の源次)・池谷の松・長谷村安五郎・長谷村徳次郎
足袋屋伊之助(片羽町の伊之助)
- 857 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/01(水) 23:35:00.54 ID:hM9m546s0.net
- 同じく安部七騎
鍋屋の宇吉(菖蒲谷)・安部の由・牛妻の茂助・水口の岩下初五郎・新田の梅五郎(梅ヶ島)
足久保宗十・船沢の武右衛門(足久保)
- 858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/06(月) 21:58:54.63 ID:hAqz/4rN0.net
- 上でも名を出した上州館林藩浪人・犬上郡次郎。
確かに武術・扱心流柔術の達人で、数々の武勇伝を持ち、更には竹居吃安を捕縛した立役者だが、
最期は悲惨なものだった。
すなわち、元治元年10月17日に黒駒勝蔵率いる40人の集団に、潜伏していた勝沼万福寺に襲われ、
まずは柔術家の命である「腕」を斬り落とされ、その後首を持ち去られた。
一緒にいた女房もまた、綱で撒かれて連れさられた。
今日、万福寺の鐘楼の下に大岩があり、ここに郡次郎の首が置かれ、黒駒組によって
実験されたとの話が伝わっている。
- 859 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/06(月) 22:22:38.64 ID:hAqz/4rN0.net
- 長の潜伏。それゆえの皮膚病。公との闘争。あらゆる苦悩を抱えながらも
旅を続けながら、同時にに子分に飯を食わせていた勝蔵が、おそらく唯一
歓喜の声を挙げたのが、この郡次郎殺害の一時だったのだろう。
史料に拠ればこの時、勝蔵一団は「上意!」と叫びながら万福寺の山門を越えた。
「上意」とは普通、殿様の意を果たすことを示すが、この時の勝蔵の「上意」とは、故親分安五郎(吃安)
の妄執に対する一礼・供養に他なるまい。
- 860 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/07(火) 22:57:27.39 ID:PQDQt4iR0.net
- ヤフオクはつくづく馬鹿にならない。
一点は甲州黒駒一家の乙吉らの人相を記した文書が売りに出てた。
次いで、鬼神喜之助の一族、喜右衛門、定八家で明治元年に殺人が起きた、という史料も売りに出ていた。
どちらも気づいたときには既に落札されており、今後絶対に手に入ることもないだろう。
忘れる他ない。
- 861 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/07(火) 23:13:33.76 ID:PQDQt4iR0.net
- 昔は(明治以前のことか)は自分の居住する村落から一歩も外に出ることなく
一生を追える人生というのもあった。
そうでありながら、同時代に渡世人は、旅をして日本中を廻った。定住民に対する遊行民ということか。
ただ彼らの来訪が、時に村落に刺激を生みだし、変化を起こして行ったことは確かだ。
- 862 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/07(火) 23:17:57.64 ID:PQDQt4iR0.net
- 中世以来の遊行民の末裔たる博奕打ち・侠客・渡世人は、それだけに、剣術や博奕道よりも
歩行法を大事にした。一日50キロは平気で歩いた。
これは大前田栄五郎にも国定忠治にも、黒駒勝蔵や清水次郎長にも伝わる、馬鹿げた逸話だが
彼ら遊侠の徒が歩く時、胸の位置に置いた菅傘が歩行の速さでひっついて下に落ちなかったという。
それくらい健脚・足速だったのだ。
- 863 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/10(金) 23:01:45.81 ID:6Ra9TC2f0.net
- 山岳研究科(登山家?)の岩科小一郎先生の著書は渡世人研究の側から読んでも面白い。
なにしろ伝聞をそのまま脚色無く記しておられるので、価値が高い。更に博学、なにしろ柳田國男の
弟子を称する志の高さもすばらしい。
『大菩薩連嶺』では峠を中心に、一度は侠客を志した老人の姿を(勝沼の親分に杯をもらった)、
また『山麓滞在』では郷原で草鞋屋を営んでいた「忠次郎」という親分の話を
何気なく載せている。
なにより歯切れの良い文章の上手さは、この人の魅力の最たるものだ。
- 864 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/10(金) 23:10:28.64 ID:6Ra9TC2f0.net
- これはまた侠客とちょっと関係ないだろうが…
上述の岩科氏の『山麓滞在』。
「山とお母さん」(近デジなら112コマ目)は是非とも読むことをお勧めする。
名著、名文だ。
- 865 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/10(金) 23:17:39.60 ID:6Ra9TC2f0.net
- 何故ここで?(と自分でも思うが)
下田の兼五郎
- 866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/14(火) 23:15:24.11 ID:vGhQ7/vY0.net
- 下田の兼五郎は屋号・小松屋と言ったらしい。
武州の港北区(現川崎)を中心に勢力を張った。最大の火場所は川崎の影向寺で、
この影向寺は関東屈指の古刹であることから、多くの博奕打ちが訪れ、彼らと盟を結んだ。
ある時、三宅島帰りの小金井小次郎が、ここで兼五郎に会い、大歓迎を受けた。しかも、今までもらったことの
無いほどの草鞋銭に、さすがの小次郎も度肝を抜かれ、兼五郎と兄弟分の盃をかわしたという。
兼五郎は跡目を子分に譲り、自らは引退して悠々自適な晩年を過ごす。人々からは老若を問わず愛され、
為に今日墓石は小学校裏手にあると言う。
- 867 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/14(火) 23:28:03.78 ID:vGhQ7/vY0.net
- 芥川龍之介の短編に「お富の貞操」というのがある。知ってる人は知ってる作品だが、
この中に「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな」という名文句がある。
この「村上新三郎」、昔は武州入間郡所沢在・南永井の博徒親分・村上新三郎がモデルではないか、とも思ったのだが、
どうやら関係ないようだ。
新三郎以下、三兄弟については高尾善希氏が論文を書いている。
- 868 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/15(水) 19:41:22.85 ID:J0xOR6Z40.net
- 博徒ゆかりの地めぐりと講演会(山梨県立図書館)
「幕末甲州の博徒たち」日帰りバスツアー ※予約受付中
https://www.yamanashi-kankou.jp/y-tabi/learn/bosyuchu/bakutoyukarinochimeguri1day.html
講演会概要
『幕末甲州の博徒たち』
講師:高橋 敏(国立歴史民俗博物館 名誉教授)
「幕末の世相と博徒たち」
高橋 修(東京女子大学 准教授)
「甲州遊侠の世界」
日時:平成29年2月26日(日) 午後2時〜4時30分
会場:山梨県立図書館 多目的ホール
聴講料(資料代):1,000円(舎人倶楽部会員:800円)※ツアー代金には含まれます。
定員:150名(申し込み順)
- 869 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/15(水) 21:56:29.80 ID:bfUhCgez0.net
- 「幕末甲州の博徒たち」と銘打つからには
正徳寺の多八や塩山藤太郎、上手の八百蔵に井手久や油屋の兄弟なんかも出すんだろうな…
とかイジワル言っちゃダメだな。
- 870 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 22:52:32.22 ID:C8l9BcMN0.net
- 先日偶然目にする事が出来ましたが、
「桶屋長兵衛」さんの情報元は稲田郷土史家の「あゆたか」(16号)ですね。
これは知らなかったけど、素晴らしい研究誌です。
ちなみに33号掲載の、近藤勇の姪の話も興味深いです。
- 871 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 22:57:07.38 ID:SAgMChsa0.net
- >>870
その件は目下調査中ですので、
できればネタバレ無しでお願いします。
- 872 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/16(木) 23:10:26.45 ID:C8l9BcMN0.net
- しつれいしました。
埼玉県新座市に
平成2年まで活動していた機関紙「にいくらごおり」というのがある。
この21号に「慶応4年、監察見聴誌」というのが非常に面白い。
白子宿の亀屋清吉方に探索方の役人が逗留していた際、土地の親分である「新倉の由五郎」
から「心付け」が届いたと記されている。由五郎なる親分は知らぬが、きっと和光市周辺で幕末に
勢力をもった博徒だったのだろう。
- 873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/17(金) 23:41:43.72 ID:IUI3nn7T0.net
- 「日本史」に関して、自分の概観を挙げると、
大事なのは1192と1600だけで、
1192、すなわち鎌倉時代より前は「古代」
1192から1600(関ヶ原)までが「中世」
以降が「近世」で良いのではないかと思う。色々異論はあろうが、二つの年号を覚えるだけで
日本史の一番重要な文化変容を窺い知ることができよう。
で、博奕打ちはだいたい1800〜1900の間に置くことができるだろう。
異論は幾らでも受け付ける。
- 874 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/17(金) 23:52:25.11 ID:IUI3nn7T0.net
- 「鎌倉末から戦国時代にかけては、或は山伏しとなり、或は庸兵となつた様な無頼の徒が、非常に多かつたのであつたが、
此等の中、織田・豊臣の時代までにしつかりとした擁護者を得なかつたものは、
最早、徳川の平定と共に、頭を上げることが出来なくなつて了うた。彼等は、止むを得ず、無職渡世などゝいつて、いばつて博徒となつた。
此が侠客の最初である。」
上は柳田國男と双璧を成す民俗学の重鎮、あるいは親・折口信夫(しのぶ)の言であるが、
若干上から目線はあるが、本質的には結構興味深い推論ではないだろうか。
- 875 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/18(土) 08:14:02.53 ID:F0mbO/cv0.net
- …毎回ながら週末の夜になると、なんて馬鹿なことを書きこむのだろう。本当にすみません。
- 876 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:09:50.97 ID:nCk9a+XK0.net
- 高萩の万次郎の居宅である鶴屋は「上宿」ではなく「下宿」にある。
よって宿内では「下宿の万次郎」で通っていた。
この点はいつか誰かが間違いを指摘しないといけないのだが…
- 877 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:14:21.71 ID:nCk9a+XK0.net
- 同じく武州の侠客で
小川幸八から小川幸蔵に代替わりするに際しては、間に恋ヶ窪彦太郎という人が入る。
彦太郎は幸八の妹を内縁の妻に持った。
彦太郎、もともとは幸八兄弟分の「上鈴木の平親王」の子分に当る。明治6年捕縛され
斬首か病死か、いずれ落命した。平親王の家の墓域に、彦太郎の墓が建っている。
本当に真四角の形をしている。
- 878 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:15:56.67 ID:nCk9a+XK0.net
- 間違い。明治6年ではなく、安政6年。
ちなみに平親王(名は平五郎と伝わる)は明治2年死亡。倅は軍次郎。
- 879 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:36:41.73 ID:nCk9a+XK0.net
- 三鷹の上連雀に「上連雀の嘉助」という親分がいた。
実在の人で、小金井一家の陣屋三之助の喧嘩には、この人が仲裁に入って事無きを得ている。
それ程の貫禄であり、若い頃は小次郎とも幾度か事を構えた。
生業は博労であったと伝わる。残念ながら家が特定できないが、私はこの地域の旧家に居た
「安太郎」という人だと思う。(姓は伏す、が調べればわかるだろう)
- 880 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:43:04.01 ID:nCk9a+XK0.net
- 安太郎は幕末期の人で土木をしていたと言う。
この人、台場の工事に駆り出され、手下を連れて参加した所、工事後に
千両箱を褒美としていただいた。しかし、そっくりそのまま何かの間違いだと言って
お上に返したとの逸話が伝わっている。
この逸話、かの大場久八の逸話とそっくりである。そのような訳で、安太郎を伝説の連雀嘉助である、と見たい。
確証はないが、これは当ってると思う。
- 881 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/20(月) 22:58:58.21 ID:nCk9a+XK0.net
- 小金井小次郎は一般的に、出自の小金井から南に勢力を伸ばしたとのイメージが強い。
すなわち、神奈川にかけて縄張りを広げた。戸羽山翰は「神奈川」の博徒として
小次郎を挙げてるくらいだ。
しかし三宅島に流される頃の小次郎が、手紙をせっせと送った先は青梅や飯能など、北に多い。
これは多分、高萩万次郎の勢力圏に関係するのだろう。
これは確証はないが、やはり最初に小次郎が親分と頼んだのは、府中藤屋の和十郎(初代、別名平蔵)だろう。
万吉は兄貴分に当る。次いで、一ノ宮万平を叔父貴分にして親しく交際し、
長じては高萩万次郎に世話になったのではないか。
今川徳三は何かの著作で「侠客を地で行く男」と小次郎を評していたが、これはその通りで、
彼自身も手紙の中で言っているが、「周囲の人の歓びが自分の利益と繋がることを重視」していた。
実に明晰な人物であると思う。
- 882 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:19:39.59 ID:QxNuIb+v0.net
- 武州入間郡の「黒須大五郎」に関しては、彼を有名にした
高谷為之の新聞小説すら幕末期の大五郎の実情を誤って伝えているので、
今さら修正の仕様がない。
大五郎は明治20年代の「侠客有名鏡」では小結に挙げられるほどの大物だが、
明治元年〜5年までの履歴以外正しくは伝えられていないのだ。元年〜5年までは
雲霧仁左衛門顔負けの怪盗ぶりを確かに示した。
- 883 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:26:12.24 ID:QxNuIb+v0.net
- 実は幕末期に於いて大五郎は甲州博徒(黒駒一家、若神子一家)と盟を結び、
関東を荒らして廻った。
一般に言われているように「八丈島に籠って生業を営んでいた」のではない。
武州の遊女屋から気に入った遊女を盗み出し、ハーレムを拵え、抜き身・鉄砲で武装して
名主や豪商の財産を狙った。
文久元年、甲府で役人に囲まれ、アクロバティックに逃げ回ったが、御用弁になり、
以降御一新まで8年近く、牢内に収監されていた、というのが実情である。
- 884 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:31:56.01 ID:QxNuIb+v0.net
- 上でも聞き書きで記したが、最期には狭山丘陵にあった御仕置き場で斬首されたようである。
狭山丘陵というところも、特記すべき場所で、多くの貸元・博奕打ちの巨魁が
存在していたようだ。暗く、神聖な山間部で、商業都市とも近いという点が
関係していたのだろう。
- 885 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:50:17.16 ID:QxNuIb+v0.net
- 明治元年辰年、幕府瓦解の混乱期に狭山丘陵では博奕打ちたちが集まり、
ちょっとしたデモを起こした。彼らは周辺の農家に炊き出しを要求し、人足までそろえた。
その目的が停滞した経済を循環させてほしい(つまり質店の営業を円滑にしてほしい)という
ことだったというのは恐れ入る。ソースは「里正日誌」。
このことは高尾善希氏や、多摩地域を中心にしてたいへん面白い論考を重ねている漫画描きの
ブログで取り上げられている。
さて、この時中心に立った人物は「北野村の金五郎」という「博徒巨魁」であった。
金五郎はなかなかの人物だったのだろうが、このすぐ後、博徒同士の喧嘩で命を落とす。
資料も逸話も多くは残っていないが、かすかな資料を便りに調べを続けていけば、あるいは意外なことが見えてくるかもしれない。
- 886 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/21(火) 23:51:52.83 ID:QxNuIb+v0.net
- 「漫画描きの」ではなく「漫画描き様の」 だな。
- 887 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/23(木) 23:44:49.00 ID:mS15JqDf0.net
- 五代目・神田伯山に「御家人桜」という講談がある。と、こう書く由来はインターネットに
神田松山という方が貴重な五代目の講談を挙げてくれているからなのだが、
この「御家人桜」、非常に興味深い話が要所に盛り込まれている。
例えば藤屋万吉を大前田栄五郎と並べて、「関八州の日月」とまで持ちあげている。
更には
「この藤屋の萬吉という人は、常陸の栄助という侍くずれの旅人に、四十二歳の厄年に、六社明神の、けやきの、並木道で、
殺されたのでございます。もう十年も長く生きてえればこの人は、大前田に負けないようなりっぱな貫禄になれたものでございましょう。」
とも言っている。
小母澤などは、万吉をひどく量見の狭い人として捉えているが、随分違う。
さらには、万吉が人手にかかって惜しくも殺害されたことを明確に物語っている。(上でも記したがこれはほぼ事実である。)
実際、この講談で鐘を鳴らす藤屋万吉の姿は、実に渋く心の行き届いた良い役どころである。
また彼に娘が一人いたことも、これも事実。そして彼女は随分つらい憂き目にあったらしいこと、
史料からは追えぬが、これも事実に基づいているようだ。
- 888 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 00:12:18.17 ID:4i5ll/H90.net
- 新鍛冶 榎本新左衛門
- 889 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 22:55:43.66 ID:4i5ll/H90.net
- 新門の頭・辰五郎について
「弱者には強く、強者には従う卑劣漢が、彼の本質である」のような書き方をする
ものをよく目にするが、
この見方自体、田村栄太郎の一見解にすぎない。その後翻刻が刊行された『藤岡屋日記』
や『浅草寺日記』を調べれば、田村の見解も的を得ていないことは一目瞭然である。
それならば子母澤寛や、その後の優れた物書きによって、好意的に解釈された侠客・辰五郎の
姿を受け入れておく方が態度としては望ましいと、私などは思う。
- 890 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/02/27(月) 22:59:48.51 ID:4i5ll/H90.net
- かつて老人介護施設で、
浅草生まれのおばあさん、今生きておれば110歳くらいの方とよくお話したが、
「新門の辰五郎さん、は偉い人よ」とよく言っておられた。あと鼠小僧次郎吉も、
少し、呆けておられたが、私はあの人との会話は非常に楽しかった。
そう言う彼女の語る逸話の中の辰五郎頭は、やはり「侠客」として、話を聴く者の心の中にも残っていく。
- 891 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/01(水) 17:38:23.20 ID:IL1KDSjp0.net
- 豆州下田・本郷の金平は、本名由五郎(由蔵とも)と言う。
文政3年に下田の百姓藤右衛門の次男に生まれた。何の理由か、9歳の時に那賀郡江奈村
の百姓甚右衛門の家に養子に入ったが、20歳の時にぐれて家を飛び出し、実家に戻って来た。
当時既に父は亡くなっていたが、一家を継いだ兄藤右衛門(幼名・竹次郎)が出来人で
由蔵を匿った。「弟が真人間になったら人別帳に加えてやろうと思っていたためで」
と答えたことが、当時の役人の調べにも書かれている。
その後、菩提寺である海善寺の住職に助けられ、僧籍を名乗ったりしたこともあったが、
生来の元気さは押さえられることもなく、
大場久八に見込まれて、遂には東海道筋有数の遊侠の徒となった。
- 892 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/05(日) 21:57:26.90 ID:3OZ9p14p0.net
- 『藤岡屋日記』の文久二年の項に「コレラ獣」の話というのがある。
武州多摩の諸地域(中藤、三ツ木、谷保)などでコレラから回復した人の家から
イタチのような獣が逃げて行くのが度々目撃された。
実は、この獣こそコレラの源であるとされ、三ツ木村では一匹が棒で打ち殺され、
しかも三ツ木村平十郎なる者が、これを「喰った」とされる。
平十郎の感想では肉は意外に美味であったとのこと。
問題はこの百姓・「三ツ木村平十郎」だが、多分実在の人物で、しかも名の知られた侠客のようである。
確かに、そういう肚の座った人でもなければ、未知の獣の肉は食わぬだろう。
- 893 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/05(日) 22:17:18.41 ID:3OZ9p14p0.net
- この三ツ木という地域は文政期には既に三ツ木丹次郎と言う親分がいたらしく、
天保の中期には、丹次郎宅は「中国地方出自の博奕打」らに鉄砲で襲撃され、
近村が甚だしく動揺した、との記録だ現れる。
明治になると、また相撲取り上がりの三ツ木の某という悪党が跳梁した。
- 894 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:35:42.39 ID:OFUrxSnl0.net
- 江戸時代後期から使われていた言葉に「内会師」(内会仕とも書く)がある。
これは「表向きは博徒ではないが、素人たちと密かに博奕に携わる者」のことを
示す。
要するに親分を持たぬ、半可な博奕打ちのことである。
ただ、八州回りや組合惣代の旦那方からは、本物の博徒よりも始末に困る者として
マークされていたようだ。 其の手の史料にはしばしば唐突に登場する。
また芝居などでもよく使われる。 反対に辞書ではなかなか出てこない言葉だ。
- 895 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:41:34.36 ID:OFUrxSnl0.net
- 同じく「市切」という言葉もよく使われる。
これは大都市を中心に「市」が開かれた日に会わせて行われた大賭博のことで
この日は近隣・遠方から多くの博奕打ちたちが集まった。
大都市ではだいたい「六歳市」という月に6日の市が立ち、大変なにぎわいを見せた。
それに合せて賭場が立つのである。
- 896 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 22:59:05.81 ID:OFUrxSnl0.net
- 土支田の新鍛冶事、榎本新左衛門は名主の次男である。兄が土地の名士榎本常三郎で、
常三郎もまた、古今無双の人物。背丈は高くニ十貫を越える体躯で、腕っぷしは無論、
頭脳も明晰だった。新左衛門が出入りの際には、この町の名士である常三郎も、むしろ
後を押して、共に武器を揃えて、怒声を発したという。
新左衛門は神山の栄五郎の賭場に出入りし、そこで認められ、
栄五郎の親分である大侠客・清水次郎長の目に叶い、そこでみっちり修業を付けられた。
後年博徒狩りで捕縛され、法廷に立った際、顔色も変えず
「富士の山頂から見通しの利く場所は、みな私の縄張りだ」と語り、裁判官一同を
押し黙らせたという逸話は有名である。
- 897 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 23:33:06.51 ID:OFUrxSnl0.net
- 現・東京都町田市に含まれる場所に、昔で言う「木曽村」があった。
この木曽村の名主の長男に生まれた博徒に木曽の嘉十郎がいる。
赤鬼金平と清水次郎長との喧嘩の手打ちの際に「刀預かり役」を務めた
「橋本の政八」の子分になって売り出した。
この嘉十郎、今までそれ程大した顔役と思っていなかったが、なかなかどうして、
旅の長脇差などは高名を聞き付けて逗留し、嘉十郎もかれらを持て成した後で、助力を要請し、
近隣の博徒達を斬り従えた。その勢力は相当なもので、小金井小次郎遠島中の留守を守った
陣屋三之助とも兄弟分になっている。
- 898 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/09(木) 23:35:57.48 ID:OFUrxSnl0.net
- ただ、あまりに勢力の拡張が露骨で、腕づくのため「侠客」と呼べるかどうかは疑問が
残る。
隣村の原町田の弥兵衛親分は、彼がいなければ「市」が開けない、とまで
言われるほどの、地元にとっての良い顔の親分だったらしい。
- 899 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:16:49.56 ID:O10xnTnt0.net
- 隣国に「甲州博徒」と呼ばれる集団がいることで、武州の博奕打の活動は
地味に見られがちだが、実際そんなことはない。安政から慶応にかけて、
それこそ毎月のように事件が起き、集団の出入りが行われ、親分同士が殺害された。
むしろ甲州や上州よりも規模は大きいのかもしれぬ。
小川の博徒や府中、青梅、八王子の博徒、小野路の集団、入間・比企のそれなど。
詳しく見てゆくとどれもウンザリするような殺伐としたものだ。
- 900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:26:30.96 ID:O10xnTnt0.net
- そんな中、慶応四年に小金井小次郎が帰って来ると、事態が緩やかに変化する。
彼のもとに統一化が図られてゆくのである。
別に小次郎を英雄視するわけではないが、殺伐とした状況が、鎮静化する。
これはやはり彼の器量と経験がものを行ったのだろう。
三宅島に流されてから、刃物をとっての闘争よりも、「人を喜ばせ」自分も喜ぶことに、
彼の思考が変化して行った。その賜物としか思えない。
面白い事に彼が帰って来ると、半ば無頼の殺伐としていた子分たちすら、「侠客」になってゆく。
新橋長蔵や五宿米吉などは、その良い例だろう。
小金井小次郎は、(変に肩を持つわけではないが)やっぱりすごい男だ。
- 901 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/11(土) 22:41:34.59 ID:O10xnTnt0.net
- 『小金井小次郎伝』に記されているが、実際に小次郎(と、その妻ノエ)に会った
講釈師の話だと、小次郎はとにかく上背はあった。押し出しの利く風貌で、
しかし顔は「間の抜けたような」人の良い顔だったと言う。この点
今日残る次郎長の写真のような「圧迫感」や、高萩万次郎のような「鋭さ」とは違っている。
まさにこの点こそ、小次郎の最たる長所だったのではないか。
- 902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/12(日) 22:00:22.98 ID:7TyQXIXy0.net
- 府中の藤屋万吉が斬られたのは元治元年の正月二十二日。夜五つ時(九時ごろ)
場所は伝承の通り六所宮(現・大国多摩神社)の並木道だろう。
下手人は三人で、頭・肩・胴の6カ所をやられた。娘が脇を抱えて医者に連れて行き
一応の処置がされた。
以降、府中宿にいては危ないということで、四軒寺(吉祥寺)の藤蔵の下で介抱されたが、
回復せず、同年六月二十八日、遂に鬼籍に入った。
戒名の「勇道帰本居士」が示すように、島から帰って、一度は返り咲き、その後亡くなったようである。
色々説はあるが、やはりすぐれた親分であったと思われる。
- 903 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/12(日) 22:31:19.70 ID:7TyQXIXy0.net
- 祐天の仙之助は、講談等で言われる元紺屋町の行蔵院(こうぞういん)の生まれではなく、
そこより、西へ一本道をずらした元柳町の清長院に生まれた。
法名は「由天」(「宥天」とも)と書くのが正しい。安政6年還俗して、僧籍を捨てる。
その後「清長院仙明」という人物が修験としての跡を継ぐが、あるいはこれは
仙之助の倅である可能性がある。
- 904 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 18:31:39.61 ID:CFnaJoj/0.net
- 牧太郎の大きな声では言えないが… 「義〓心」という教育
(毎日新聞 東京夕刊)
http://mainichi.jp/articles/20170313/dde/012/070/004000c
> 「利根の川風、袂(たもと)に入れて、月に棹(さお)さす高瀬舟」の名文句で始まる「天保水滸伝」。
> 主人公の繁蔵は子供の頃から漢学や数学を著名な師について学んだ秀才だが、
> 体が大きく、巡業に来た江戸相撲の千賀ノ浦にスカウトされる。
> しこ名は「岩瀬川」。
> 力士を廃業してからは、故郷の下総・笹川(千葉県東庄町)に戻り、博徒の親分になった。
> もう一人の主人公・助五郎も力士上がり。
> 飯岡(千葉県旭市)を縄張りにする博徒でありながら、
> 関東取締出役の案内人として「十手を預かる二足のわらじ」だった。
> 当時、弱体化した幕府の治安警察の役割をやくざが代行するケースもあった。
> 浪曲では「権力」を振りかざす助五郎は嫌われ者だった。
> 天保15(1844)年、両者は衝突する。
> この「大利根河原の決闘」は繁蔵の圧勝に終わるのだが、
> その数年後、繁蔵は助五郎の闇討ちにあい殺害される。
> 実は、主役以上に人気を博した男がいる。
> 繁蔵の“一の子分”の勢力(せいりき)富五郎である。
> 「二足のわらじ」の助五郎と「関東取締出役」という警察権力に徹底的に抵抗する。
それはそれとして「?」が環境依存文字で使えないなら「侠」に置き換えればいいのに
- 905 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 18:34:39.44 ID:CFnaJoj/0.net
- 上の記事引用で下駄
いちゃもんで「?」になってるのは
「人偏+夾」ね
- 906 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/13(月) 23:17:09.42 ID:rjRY+sHu0.net
- 私は、その旧字こそが「侠」の本質を示していると思います。
この字は、全てが「人」から出来ており、しかも二人の人を小脇に抱える一人の人間の姿を現している。
人は社会の中に生きる動物ですが、
その中でも侠者は自らの不利を顧みず、他人を懐に匿い、守る者であることを示しているのでしょう。
その生き方は今の時代に反し、また全く得るところの無い損な役周りばかりかもしれないけど…
庶民が理想とする人間の在り方の一つなんじゃないかな、と思います。
- 907 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/18(土) 23:34:48.23 ID:o7ePAlgi0.net
- 一ノ宮万平事、杉本万平親分の墓は、一ノ宮の真明寺無縁仏墓石群の中央に建つ。
墓石には大塚勘五郎、東中野才次郎(小才次)といった万平腹心の大親分と
関戸長兵衛以下の直参クラスの名が刻まれて、一緒に供養されている。
施主の名は無いが、まず間違いなく万平子息の藤三郎と八王子の亀吉(伊野亀吉)の連名だとされている。
以前は気づかなかったが、墓群の中に万平だけの墓と、藤三郎の墓があることがわかった。
前者は残念ながら墓石の位置から、施主がわからないが、後者は施主がはっきりとわかる。
「伊野亀吉」と「永井忠吉」の名が刻まれている。
亀吉は有名なそば亀の事。忠吉は不明。
- 908 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/20(月) 20:57:11.42 ID:VXF8yA8f0.net
- 極めておおざっぱな分け方であるが、文久年間から先の東海道筋の仁侠史は
次郎長派と勝蔵派とに二分される。
次郎長派は、小俣周太郎、大和田友蔵、寺津馬之助、長楽寺清兵衛、和田島太右衛門、国分三蔵、小金井小次郎、高萩万次郎など
勝蔵派は、大場久八、丹波屋伝兵衛、雲風亀吉、宮島俊蔵、堀越藤左衛門と言ったところである。
- 909 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/20(月) 21:12:38.87 ID:VXF8yA8f0.net
- ここで注目したいのは武州の動向である。
駿州にも宮島俊蔵(吉原宿)という異端の勝蔵派がいたが、
小金井一家や高萩一家に代表されるように一見完全に「親・次郎長派」とも見える武州にも強力な勝蔵派がいた。
慶応年間、甲州藤之木村で警吏を殺した黒駒党の逃亡者十数人を匿ったのは、橋本村(相模原)、木曽村(町田市)の
「平野屋」一派である。
頭の平野屋政八は丹波屋伝兵衛の腹心。更に政八の子分・木曽の嘉十郎は、
当時八王子の道案内頭になったばかりの岡引親分・永戸屋和三郎(元、所沢道案内)に急接近する。
この働きかけにより、甲武州間の大動脈である甲州街道の、要衝「八王子」に親・勝蔵派の一拠点が生まれたと考えられる。
よって、この地で親次郎長派の小金井小次郎や、国分三蔵弟分の御殿伝蔵が捕まったこと。
また後年丹波屋伝兵衛が居住することになること等、この時の動向に無関係ではないだろう。
- 910 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/21(火) 22:50:53.75 ID:Ure4hPkb0.net
- 川越藩には「松平大和守日記」という史料がある。これは藩内の人事、事件、褒章など雑多な
情報を記したものだが、川越藩自体、武州川越、江戸藩邸、前橋陣屋と複数の要所があるため
年代・時期によって記録地が異なる。
興味深いのは、褒章や事件記録の際に、川越藩の目明しの表記がまま記されることである。
「関口栄次郎」すなわち大前田栄五郎義弟の福田屋栄次郎は、伝承の通り、
前橋の目明し頭をしていたことが、これで判明する。
- 911 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/21(火) 23:23:10.04 ID:Ure4hPkb0.net
- 「赤城録」の中で、栄五郎を「前橋の頴五」とも「川越の頴五」とも書くのは、ここに依拠してるのではないか。
浅田晃彦の『上州任侠大前田英五郎の生涯』では大前田栄五郎自身が「武州川越」に居住していたことを
上の記述に拠って推測しているが、事実は多分違っていて、
おそらく上州で勢力を構え、川越・前橋藩の十手を受け持っていたのだろう。
そして、後年になって十手業を栄次郎に譲った。
そう考えると辻褄が合う。
- 912 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/27(月) 22:07:45.81 ID:m5durtBg0.net
- 「伊藤好一」という学者の名は、関東近世の文献を当っているとよく目にする。
すでに98年に亡くなられているが、この方が掴んでいた近世後期、幕末期の農村部の状況や
社会制度の知識は追随する者がいない。
特に関東取締出役や改革組合村についての理解は、今日の誰も及ばないのではないか。
農村の日記や、各地方史の編纂など、この人が関わっていないものを探す方が大変なくらいだ。
岡引や無宿博徒の者についても、多大な知識をもっていたことが、そこここの書き物から
散見される。しかし一冊にまとめることなく亡くなってしまわれたことが実に残念だ。
- 913 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/27(月) 22:17:10.53 ID:m5durtBg0.net
- 増川仙右衛門
- 914 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/03/28(火) 00:47:43.31 ID:NBK0DdCr0.net
- 人模様 幕末・明治、熱い男に魅せられ 伊藤春奈さん
http://mainichi.jp/articles/20170327/dde/012/070/012000c
> 幕末期のノンフィクションものを中心に執筆を続けているライターの伊藤春奈さん(39)が
> 新著「幕末ハードボイルド」(原書房)を出版した。
> 立命館大在学中からライター活動を始め、歴史ものを中心に書籍・雑誌の企画や執筆を続けている。
> 前作は出身地の長野県伊那市ゆかりの博徒「伊那の勘太郎」の実態に迫った。
> 今作は対象を広げ、幕末動乱から明治初期に生きた熱い男たちを取り上げた。
> 新選組や高杉晋作の奇兵隊などは有名だが、それを陰で支えた博徒や〓客(きょうかく)、無名戦士がいた。
> 彼らこそが法外で面白い。
> 例えば後年、大阪で「老〓(ろうきょう)」と呼ばれた小林佐兵衛は、
> 私財を投じて町の火消し活動に燃えた「親分」だった。
- 915 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/04(火) 22:59:07.72 ID:hNi0U6qb0.net
- 上でもいくつか触れた「田中屋万五郎」について
『くにたち郷土文化館研究紀要 No.8』(2017、3)
に、短いけども、数々載っています。
こういうのは…良いのかわからないけど…
何より親分のことが周知されることが第一なんで。
一寸お許し願います。
- 916 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/09(日) 23:23:25.99 ID:UG0U0CZP0.net
- 一ツ谷の浅五郎(浅太郎とも)
- 917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/11(火) 23:56:49.91 ID:Ae3fz3S40.net
- 『古老の語る田無町近世史』(町史を聞く会 編)という本がある。1957の物で、手書きである。
しかし内容は豊富ですばらしい。
・「稲荷の増五郎が当町の幹部であった。」
・「小次郎の兄弟分が増五郎であり、増五郎の子分が徳蔵である。」
・「小金井小次郎が徳蔵親分の所へ年老いてから、”ツエ”をついて遊びに来た、という事は
よく聞いた。徳蔵親分が、神奈川へ出かける時は、何度も送り迎えが大変であった。
これを小次郎が聞いて驚いたそうである。
亦境界に浅五郎がいて、その人が長生きしたのでその家に遊びに行った。その後
”孫さん”というのがいて、博打を渡世に過ごしたという。(中略)
通称孫小僧は前科13犯であった。
- 918 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/15(土) 11:15:11.44 ID:OWVQbIOC0.net
- 増川仙右衛門
『東海遊侠伝』だと巻之四、第十回。いわゆる「菊川の手打ち」(次郎長と金平の和議の式)
が初出だろう。
登場と同時に次のような小文字の解説が入る。
「駿州増川ノ産、佐二郎の子ナリ。佐二郎遊侠ヲ以テ聞フ。後チ数年、金平ノ党、竹之助、民五郎、力松、
亀吉等、十六人、襲テ之ヲ殺ス。仙右乃チ走テ長五ニ依リ、以テ声援トナシ、竹之助等数人ヲ殺シ、
遂ニ長五ノ家人トナル」
おおよそ、彼の前歴を知るには十分な記録である。
- 919 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/18(火) 23:31:42.11 ID:syqMS+tm0.net
- 今の時代は長谷川伸や子母澤寛の頃よりも、遊侠の文書史料が手に入れやすい時代であると思う。
そのことは、90年代よりも更に簡易になっていると思う。
情報ネットワークの発達に拠るものだ。
しかし、それに奢って「足」を使う研究を止めたら、途端に、史料の中の遊侠たちは
姿をかくしてしまうだろう。
- 920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/18(火) 23:39:15.99 ID:syqMS+tm0.net
- 慶応2年 黒駒勝蔵、平井の雲風、駿州宮島俊蔵人相書き
一、中丈ニ而色白し 甲州東郡黒駒無宿 勝蔵 年三十四歳
一、大男ニ而色黒く惣髪ニ而前歯壱本なし 三州平井無宿 雲風 年四十余り
一、中丈ニ而色白く髪毛少し 駿州宮嶋無宿 本名市蔵 歳蔵 年四十余り
- 921 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 07:35:09.01 ID:SeWgsz5s0.net
- 幕末 裏舞台 品川宿のアウトロー 逸話紹介
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201704/CK2017042202000135.html
- 922 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 15:45:13.28 ID:zVSG8Psv0.net
- 往時の間取り再現へ 改修中の清水次郎長生家
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/351563.html
> 幕末・明治の侠客(きょうかく)清水次郎長(1820〜93年)の生家
> =静岡市清水区美濃輪町=の保存に向けた改修工事で、
> 天井裏に残されたすすや柱の痕跡から、次郎長が生まれたころの間取りが明らかになってきた。
> 改修に当たっているNPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」は、
> 地域の観光資源として往時の姿の再現を目指す。
> 同会会員で工事責任者の伊藤貴広さん(40)=焼津市=によると、
> このほど、柱の痕跡から現在の土間に部屋があったことが分かった。
> 天井撤去後に現れたすすで黒くなった壁から、もともと天井はなく、かまどがあった場所と推測できるという。
> 「町屋は改修を重ねることが多いが、履歴の資料が残っていることはほとんどない。
> 次郎長生家もかなりの頻度で手が加えられていたことが分かった」と伊藤さん。
> 改修は、次郎長が生まれた当時の間取りをもとに、
> 生活やリフォームの痕跡をできるだけ残しながら、
> バリアフリーや耐震性などにも配慮して6月末の完成を目指す。
> 同会の牧田充哉会長(静岡市清水区)は
> 「次郎長の人物像やまちの歴史を多くの人に発信する拠点にし、
> 清水港周辺をにぎやかにしていきたい」と改修を待ち望む。
> 生家は雨漏りやシロアリの被害、建物の傾きなど老朽化が激しく、
> 1月に修復、改修工事を始めた。
> 工事費用は募金を中心にまかなわれているが約300万円不足しているため、
> 同会は今後も募金活動を続けていく。
- 923 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 21:32:52.83 ID:pxn3ZYGO0.net
- 俗に言うところの「平井の事件」について。
雲風の所に逗留していた黒駒勝蔵を、次郎長一派が急襲したのは
「元治元年」という事が定説になりつつあるようだが、これは「文久3年」が正しい。
またここで「大岩・小岩」が死んだことになっているが、
実はどちらも死んでない。(ただし黒駒側が敗北し、子分五名が殺害されたのは事実である。)
- 924 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 22:29:42.85 ID:pxn3ZYGO0.net
- 随分前の書き込みで(587)で足利市寿徳寺にある江戸屋一家の碑の、
「玉吉」の部分を「慶応3年 勢州立野町戦死」と迂闊にも訳したが、よくよく見れば
「慶応2年 勢州立野町戦死」が正しい。
そしてこのことは荒神山の戦い(慶応2年4月8日で確定)の後、
安濃徳が「罪ヲ玉吉ニ帰シ、遂ニ之ヲ斬リ、其首ヲ以テ謝」した事と無理なく繋がる。
依って江戸屋一家碑にある玉吉は、「館林の玉吉」その人で間違いなく、
同時に、この碑文に記された人物の没年は、かなり正確であることが窺いしられる。
- 925 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/22(土) 22:33:57.04 ID:pxn3ZYGO0.net
- とすれば穂北の久六も
「安政2年6月1日 尾州葛郷大川村(知多郡乙川村)戦死」が正しいように私は思う。
- 926 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/25(火) 21:12:39.59 ID:D5S8XmSq1
- 明治4年に黒駒勝蔵事 池田勝馬が供述した、通称「口供書」は少なくとも勝蔵本人が
関わった箇所に関しては、たいへんに正確な史料で、他史料からその事実を確認することができる。
唯一曖昧なのは、自分が駿河にいた時分に起きてしまった安五郎(吃安)召捕りの一見部分だけだ。
- 927 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/25(火) 21:24:08.23 ID:D5S8XmSq1
- 上記を踏まえた上で、元治元年三月十三日、十五日の「国分三蔵屋敷」ならびに「勝沼祐天在所」
を襲撃した記録を見てみると、
「祐天在所」の勝沼宅(地元では風呂屋と伝わる)へ向かった人数は
勝蔵(本人)、塩田村玉五郎、北八代村綱五郎、成田村岩五郎、中川村岩吉、上万力村森太郎、八代北村猪之助、
落合村角太郎、国分村乙吉、東花輪村乙吉、駿河吉原坊主勝、遠州掛川万平、森の秀五郎、信州喜十郎、その他8名
とあり、「成田村岩五郎、中川村岩吉」(所謂大岩・小岩)がどちらも健在であったことが判明する。
要するに三州平井の共同墓地にある「大岩」との名は一体誰なのだ、ということになるのである。
- 928 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/28(金) 20:41:21.19 ID:oHfjj1oDY
- 訂正する。
一周回って、やっぱり「大岩」は平井の事件で討ち死にしていた。
ただし、彼は「成田村岩五郎」ではない。
- 929 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/04/28(金) 21:09:25.36 ID:oHfjj1oDY
- 先日からウチのPCではいつも書きこんでた「侠客の歴史」に書きこめなくなった。
そんなわけで、こっちに書く。
- 930 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/01(月) 21:57:03.20 ID:exm6+hr2p
- 宮島の俊蔵と並ぶ吉原宿の親分に「本市場の金七」がいる。あまり評判のよくない
博奕打ちであったことは、上でも記した通りだが、残忍な逸話ばかりが残るゆえに、
却って真相が知りたいものだ。
ところがこの金七の実在資料がほとんど見つからないのである。
- 931 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/01(月) 22:08:11.18 ID:exm6+hr2p
- 唯一彼の事だと思える資料は、長谷川昇先生が著した傑作『博徒と自由民権』に
紹介されている、「愛知県史料」に記載された明治3年の記録だけではないだろうか。
これには帰島後の侠客原田常吉の宅に、食客として滞在していた中山の七五三蔵の命で、
殺人を行った者として「駿州の金七」がおり、同じ同士に駿州の重吉(宮島俊蔵)がいることから
まず間違いないと思われる。
七五三蔵に関しても、実際の彼は、子母澤寛氏の描いた物語に登場するような老翁ではなかった。
- 932 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/08(月) 23:06:24.48 ID:gDmGSRJnD
- 黒駒勝蔵身内の大岩・小岩
一般的には大岩が成田村岩五郎。小岩が中川村岩吉とされているが、
実はこれは逆である。
大岩事中川村岩吉は、文久三年6月5日(7月かも)の平井の襲撃で命を落とし、
小岩事成田村岩五郎(岩蔵とも)は慶応2年8月、山崎の刑場で斬罪に処せられた。
後者戒名は「成岩禅定門」
- 933 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/08(月) 23:12:51.88 ID:gDmGSRJnD
- この他、黒駒身内には「大音」「小音」という者もいた。
一の子分の塩田村玉五郎は小田原の出で、本業は髪結いであったと伝わる。
貧しいため早死した女房の葬式を出してやれなかった時に、勝蔵が訪ねて来て、自ら墓を掘ってくれた
のに感激して身内になったという。勝蔵より五歳ほど下だった。
玉五郎、背は高く、色白で頬に十センチ程の疵があった。
- 934 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/09(火) 23:50:31.38 ID:3StAKO5tI
- 遠州横須賀は、都田の兄弟が拠点にした町で、広い海を眼前に持つ海港都市でもある。
ここには、また「大鳥」という名の相撲上がりの親分がいたとされる。
『遊侠伝』では黒駒勝蔵が逗留したと言い、明治にはいってからは黒須大五郎が、彼(大鳥)を頼り、ここに隠れたという。
大鳥、仔細は不明。しかしながら横須賀は、巨大山車を用いた、全国に類を見ない記載や、エキゾチックな凧が飛ぶ。
更に今日では、海岸の風を受けて、巨大な風車が発電の目的で、幻想的に回っている。
- 935 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/10(水) 22:28:13.99 ID:49MSuq9m1
- ウィキペディアは一種の事典なのだろうが、「黒駒勝蔵」のそれは、
本道に当る大事な部分は抜け落ち、周辺部分だけが過剰に盛られていて、何を言いたいのか
さっぱりわからぬ。
しかし世間的には影響力の多い媒体なので、タチが悪い。
- 936 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/10(水) 22:40:37.87 ID:49MSuq9m1
- 吃安と共に新島を抜けた者に角蔵という人が居る。彼だけは新島の手配書に出身地が描かれていない。
しかし、他の地域に回った手配書によると、伊豆多田村とある。
また丹波屋角蔵とする資料もある。つまり彼は伝兵衛の身内、または親戚の一人であったようだ。
- 937 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/11(木) 12:54:50.44 ID:Y9J/G7LnV
- 935
また夜に、酔って馬鹿な事を書いたようだ。訂正する。
ろくに読みもしないで。愚か者は自分のほうだ。
黒駒勝蔵の項、精読してみれば、いくつか誤りはあるが、現状十分な内容になってる。
- 938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/12(金) 22:13:27.42 ID:yR0JJaHwI
- 東京都立川市の、とある高校と隣接して愛宕神社がある。この神社境内に
長方形の白い石が建っているのだが、これが「博奕神様」。
博奕打ちが勝負の前にお祈りに来たのである。伝承では小金井小次郎の子分が建てたことに
なっているが、実際には小次郎と敵対した八軒の栄次が最初に祭った。
栄次は別名初次郎、または栄次郎とも云う。更に八軒新田は芋久保新田とも呼ばれたので
「芋久保の栄次」とも彼は表記される。一時は五日市街道、砂川一帯の親分だった。
子分には田堀の権蔵、そば屋の某、剣術の達者、清水さん兄弟などがいた(らしい)。
- 939 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/17(水) 22:58:40.14 ID:GDfii3VTF
- 「講談師、見て来たような嘘を言い」等と言われるが、明治の咄家は本当によく研究して、
演目を作っているので、時にそれは民俗資料と言っても良いくらい、豊かな史料的価値を残してくれている。
上州の「相ノ川又五郎」を演った松林太琉は、次の様な貴重な聞き書きを演目の端に組み込んでいる。
「伊勢の国の男でありまして山田妙見町丹波屋の伝兵衛というがあります、之は通名でありまして、
まことは半田屋の竹之助というのであります。この人は伊豆の生まれの人であります。18歳の時に故郷で賭場の上で喧嘩をして
人を殺して伊勢へ流れて行って、伊勢の山田の丹波屋という旅籠屋の家に居て、その家の娘さんの亭主になりまして、
半田屋の屋号を名乗っております。この伝兵衛さんと言う人は、明治26年秋、武州多摩郡八王子で亡くなりました。
今はこの人の孫さんが、京橋区五郎兵衛町に鳶の者の女房になっております。
一時は、この位の親分はありません」
五郎兵衛町は今の八重洲の二丁目だという。伝兵衛が「半田屋竹之助」であったこと、伊勢の丹波屋へ婿入りした事など、
この記録は有用な情報を提供してくれる。精読はしていないが、この講談(明治31年出版)は読み方によって、
得るところが多いだろうと思う。
- 940 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 21:53:24.60 ID:Q6Djuoqui
- 新茶屋村ノ増吉
- 941 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 22:58:39.97 ID:Q6Djuoqui
- 黒駒勝蔵が後年赤抱隊に入り、勤王の志士となったことの発端として
土佐の郷氏・那須信吾が関わっていたとの咄がある。当時黒駒に「幾之進」という
浪人が厄介になっていて、彼が那須の変名だと言う。
だが、多分これは「市之進」の事だろう。勝蔵と行動を共にした剣術家に「市之進」と「富さん」という
武家が居た。市之進は若く上背があり、富さんは年寄りで小さかった。だが、どちらも剣は相当に使ったそうである。
市之進は慶応まで生き残ってるから、那須信吾云々の咄は、多分誤りだろう。
ただし「山県小太郎」は確かに勝蔵と関係していた。
- 942 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/24(水) 23:30:14.40 ID:Q6Djuoqui
- 東京都東大和市の『里正日誌』翻刻、最新刊(明治6年)に、多摩郡神山村の
栄五郎の資料が随分豊富にあったのは嬉しいかぎりだ。
古くは子母澤寛がエッセイに書いた彼であるが、今回は人相書きに加えて、動向もまた記されていた。
(なお人相書は『武蔵野市史史料』に既に翻刻済みである)
栄五郎は小勇ノ米らと共に、南秋津不動(現・秋津神社)の賭場に顔を出し、そこから方々の
親分衆の元を訪れ、路銀をもらってあるいた。野口の源蔵、同所の平蔵、中藤の増五郎(田中ノ定右衛門の倅)、師岡の孫八ら
の名前が現れ、彼らが確かに親分衆であったことが窺われる。
惜しい事にはこれで、日誌自体が打ち止めという事実だ。
伝承では栄五郎は陣屋三之助と喧嘩し、其れが元で所沢の力山に、竹丘(清瀬市)の妾宅で入浴中に
斬りたてられ殺されたという。
次郎長の子分で、大政の兄弟分だったために、盛大な葬式が行われた。
墓石に施主・清水湊の山本政五郎とあることは今日でも確認ができる。他に子分が多く名を連ね、
何故かライバルだった陣屋の一家も名を刻まれている。
- 943 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 21:43:14.95 ID:z001Qe/xo
- 遠州中泉代官を務めた林鶴梁先生は人格者で、自身大変な学者。とくにその漢文は優れ
夏目漱石なども、若い日にはそれを暗唱したという。
先生の「鶴梁日記」は当時の文人のネットワークや、医療、そして遠州代官所の様子がわかり、
とても面白い。
まだ目を通したにすぎないが、代官所の手先として「山梨巳之助」の名が出てくるのは、
意外であると同時に驚いた。
巳之助は、別に「友吉」の名を持ち、袋井宿から二川宿まで広く顔が聞く存在だった。
その利点を買われ、鶴梁から目明しのような役目を与えられている。
この他、同日記は博奕打ちたちの鎗・鉄砲を用いた出入りの記録も留めている。よって本日記は
仁侠史を研究する上でも、第一級に有用な史料であることは間違いない。
- 944 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 21:49:14.53 ID:z001Qe/xo
- また「戸塚彦介」という当時江戸第一と言われた柔術家の弟子として、
『鶴梁日記』には田中軍之介の名が記録されている。
軍之介は、後の犬上郡次郎のことだ。
新撰組の篠原泰之進も、かつては戸塚先生の道場に居候をしていたというから、
あるいは二人は面識があったかもしれぬ。
ちなみに高杉晋作は、その稽古録の中に、武術の達人でありながら奇人でもあった
犬上郡次郎の風聞を書き留めている。
- 945 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/27(土) 23:13:01.97 ID:z001Qe/xo
- 幕末期の多摩地域の重大事件として、小野路村の小嶋鹿之助が上げているものは
@府中宿小常の殺害
A藤屋万吉の殺害
B川辺堀之内村、藤右衛門の殺害
の三つである。Bの藤右衛門は博徒兼名主とかいう話だが、詳細は不明。
川辺堀之内は、いわゆる京王堀の内とは場所が違うようだ。
- 946 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/29(月) 22:52:14.81 ID:WwJtnwL5O
- 俗に次郎長は山岡鉄舟に会って改心して、以後すぐれた人物になっていったという。
しかし、これはあるいは次郎長の方が役者が上だったのではないか。
ともすれば鉄舟は理想の為に身を投げ、時に熱くなりすぎる。対して次郎長は常に冷徹で、事に及んで判断を(だいたい)誤らなかった。
文字も自由に書けなかったり、店に「理学」を求めたり、素っ頓狂な逸話が数多いが、
これらすら彼の計算のうちであったのではないかと思える程、冷静で物の筋道がわかっていた。おそらく彼は実地で、
生き方を学んでいったのだろう、まぎれもない大物である。
一方、勝蔵は、次郎長よりもずっと感情に流される。彼の行動原理は若い日に一緒にいた兄弟分の
吃安の敵を討つことだけであり、そのためには実際どんな苦労も厭わなかった。
その目的のためには手段はえらばず、周辺村落に子分を放って金策し、悪名も鳴り響いた。
次郎長と勝蔵では、はるかに次郎長の方が上である。しかし、同時代の高名な親分衆である三州の雲風、駿州の年蔵、豆州の金平、遠州の米吉
、相州の政吉などは勝蔵の、その未熟な一途さに共感し、それ故に力を貸したのだろう。
博奕打ちの偉さは、決して、闘争の強さや、頭の良さばかりでは計れなかったのだと思われる。
- 947 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/05/05(金) 17:43:49.76 ID:yR3TX7JY0.net
- こんなスレあったんだね
俺はここでチラホラ書かれている吃安こと中村安五郎の子孫だから気になってしまうw
曽祖父が三代目の久義で祖父が吃安の妹の玄孫に当たるらしい
- 948 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/13(火) 22:52:58.38 ID:LMBPgx0F6
- 松村梢風は、著書の中で実際に武州高萩を訪れ、「親分に会って話をした」ことを
書いている。ただし、時代的にみて万次郎ではなく、その倅の仙次郎か、更にその跡目の誰かだろう。
ただ上記のような訳で『正伝・清水次郎長』の万次郎にかんする部分は信憑性が高い、
ということがわかる。
- 949 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/13(火) 22:59:35.78 ID:LMBPgx0F6
- 天田五郎が、次郎長の養子をやめて、元の姓に戻した理由は…
大政に恋人をとられたためだ、と梢風は伝えている。本当かどうかは知らないが、
一応書いておく。
ちなみに次郎長の手紙でも、大政が「酒」と「若い女」に現をぬかしたため
早死にした、との文言が見れるから、この道で大政には確かに弱みがあったのかもしれない。
「冷静沈着で大局眼」の大政も、弱いところはあったわけだ。
- 950 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/17(土) 11:40:24.51 ID:7yjkeLc4l
- 「善玉の次郎長に、悪玉の勝蔵」
これはおかしいとよく言われる。史実はどっちもどっちだろう、と。
しかし、次郎長=善、勝蔵=悪の見方はあながち間違っていないのだ。
各地の史料を見ると、本当に勝蔵一党は略奪・無法を行っている。
これは彼らが手配をされる悪党であったためだ。(もちろん悪党であることはお上が決める)
勝蔵らは、尋常な手段では資金を稼げぬがために、民家に押し入り、人質をとり、金を奪う。
そうやって得た金で軍備を整える。さもなければ、押し負けて屍を野に晒すだけだ。
一方の次郎長は、お上の用に立つので、ある程度の賭場の開帳も許されるし、良い顔なので各地を歩いて
稼ぐこともできた。
末端の子分には気の荒い者もいたろうが、なにも好き好んで略奪を働く必要はなかった。
- 951 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/20(火) 23:25:11.03 ID:LEVacGXVQ
- 今で言うところの三重県明和町、明野の駅の西側が、昔の新茶屋村らしい。
ここの新茶屋の勇蔵という親分が居た。天保9年頃、旅の途中の相ノ川又五郎は、ここで
勇蔵の助に入って、北伊勢の博奕打ち達(名は記されず)相手に勇気を示し、誉を得た。
勇蔵から十ニ人の助っ人の裁量を任された又五郎だったが、その内、又五郎子飼いの五人に加え、「新茶屋の増吉」以外は
怖気づいて使い者に成らなかった。(そのような訳で五人は帰された。)
以降増吉はめきめきと頭角を現し、親分勇蔵の跡を継いだのか、伊勢では知らぬ者の無い顔役になった。
山田新町の枡屋増吉(宗兵衛と名乗る)となり、明治の世まで盛名を得た。
彼の名は『東海遊侠伝』にも現れ、次郎長と丹波屋の間を取り持つ大事な役割を果たしている。
- 952 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/20(火) 23:34:01.51 ID:LEVacGXVQ
- 伊勢は言うまでもなく「神宮」で有名であり、「お伊勢さん」と唱えて巡礼の列が絶えない程の
盛況地だった。そんなわけで伊勢を地番とした遊侠は多い。
まずは丹波屋伝兵衛、次いで小俣(小幡)周太郎、新茶屋増吉、それに塩浜吉右衛門に松坂の醜五。
これらに加えて、浪人の白根清蔵と言うのが良い顔役だったようだ。
そうそう、松坂の米太郎という人も確か居る。
- 953 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/27(火) 23:11:23.15 ID:qOWVKdfR9
- 知らない内に国文学研究資料館の歴史アーカイブスで「連光寺富沢家」の日記が、
見られるようになっていて嬉しい。
同日記は今まで、「天保14〜弘化5年」と「安政7年〜明治2年」までが翻刻慣行されている。
それ以外のものも見ることができるわけで、これはなかなか楽しめる。
とりあえず、博奕打ちとは関係ないが、安政6年4月、近藤周平先生が府中六所宮に剣術の奉納額を
寄進している。
- 954 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/27(火) 23:23:00.51 ID:qOWVKdfR9
- 確かに博奕は娯楽以外の何物でもないだろうが、今と違って電灯もネオンも無く
夜がうっそうとした林に包まれる時代、
そこに盆御座を敷いて、明かりがついて、賭場が開かれる様はさぞかし幽玄に見得たことだろう。
一種神事に見えてもおかしくない。
民俗学では「昭和30年」は、一つの転換期と言われ、それは「囲炉裏」(いろり)がなくなった年
だと言うが、
同時に暗闇が生活からなくなった年でもあり、所謂近世からの「博奕」がなくなったのも
このころだろうと思われる。
- 955 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/28(水) 23:38:32.29 ID:qoJTT8p+/
- 源八の吉兵衛(都田吉兵衛)の経歴として、万延元年、宮島ノ年蔵と共に、
吉原宿の警吏を斬った、
というのが『東海遊侠伝』に書かれているが、これは年代も事件内容も、事実だ。
遊侠伝はあからさまに、年代が誤っている部分もあるが、意外な程真実を記録している部分もある。
- 956 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/29(木) 00:30:28.00 ID:KBSsRaRAj
- よくわからんが遠州侠客について
森ノ太一(五郎の倅)を殺したのが山梨の周五郎。
山梨の周五郎を殺したのが、森の新虎。
森の新虎を殺したのが大岩。
で、平井の襲撃で大岩を殺したのが、森ノ太一の子分だった八五郎。
山梨の周太郎とは、四角山周吉のことか。
- 957 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/06/30(金) 23:33:29.25 ID:f7K49S+yd
- 歴史的な文献をあさって、何か発見があったとしても、
心しておかねばならない大事なことは、
自分に才能があったわけではなく、
ただ、そういうものに出会えるだけのヒマと運が今の自分にあった、というだけの事だ。
- 958 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/01(土) 13:19:13.53 ID:BifuwKikr
- 安政3年、武蔵国の小川村幸蔵が、弟梅次郎と子分と三人連れで、八坂神社で、隣村野口村の百姓二人と
口論になり、不意を打って二人に疵を負わせた。
仁侠親分にしては随分と小さな事件だが、これがアウトローとしての小川の幸蔵の動向の初出と言われている。
ともあれ、この時の喧嘩相手の百姓・野口村の源蔵も、最近の史料だと博奕の貸元をやってた人のようで、
つまるところ、この一件は渡世人同士の喧嘩だったらしいことがわかる。
結果的には歎願が出て、おとがめなしということになるのだが、当の負傷者源蔵が、幸蔵の為の歎願に
署名しているのが興味深い。幸蔵の威勢によるのか、源蔵の男気に拠るのかはわからない。
- 959 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/02(日) 23:43:45.77 ID:eYgUQFTaR
- 駿州由比宿 平野屋ノ三平
- 960 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 00:40:04.25 ID:z/duPpfh0
- 甲州春日井辺りに、文七という渡世人がいた。
文七は下田の安太郎の跡目である常太郎の家で客死する。
文七、身なりは立派ではなく、むしろ小汚い格好であったが、褌の中に「五両」隠し持ち、
自分の葬式代としてそなえていた。
常太郎、その気持ちを組み、下田太安寺に、その五両を資堂金として立派な墓石を建てたという。
明治29年6月、日野原が苗字だと言う。
- 961 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 22:42:04.20 ID:z/duPpfh0
- 宮島ノ年蔵(俊蔵)の兄弟分だが、非常に評判の悪い親分が、本市場の金七。
別に加島の金七とも言う。
かつて甲州の、ある縞買い付け商人(名は伝わらず)が、吉原宿で惚れた遊女がいたので
見請けしようと思ったところ、金七がそれと察して、先に見受けし、妾にしてしまった。
商人はこれを恨んで、発起して中元奉公し、数年後、韮山で「足軽」身分となり、金七を捕らえることを主張した。
金七は一早く逃走したが、子分房五郎は捕縛されてしまい、韮山で二年間牢に入れられる。
- 962 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/03(月) 22:50:30.93 ID:z/duPpfh0
- ようやく獄を出た房五郎は、故郷に帰るが、既に子分は一人もいず、縄張りも
他所に取られてしまっていた。困窮していたため、自分の脇差を質に出すが、
そこから、親分金七とともに強盗を働いたことが知られてしまう。
(この脇差は「加島の源兵衛さん」の物だったと言う)
これを知った金七は、口封じのために房五郎を殺す。房五郎は剣は相当に使ったが、牢後の身で思うように動けず
無念にも殺害される。
更に房五郎の妻を騙して招き寄せて、わざわざ
海岸の砂丘に埋め、上半身をめった斬りにした。この殺人は目撃者が昭和の初めまで生きており、
彼に拠れば、「世の中にこれほどむごい殺人は無かった」との事である。
金七は、この一見を聞いた大場久八の怒りを買い、船に括られて海に流されたと言う。
- 963 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/10(月) 22:54:52.43 ID:aPEQar/v3
- 昨日偶然にして長谷川昇先生の『博徒と自由民権』を古本屋で見つけ、購入することができた。
これは快作。
歴史学からしたら異端で、文章形式などもアカデミックではないかもしれないが、
情念と、何より「足で稼いだぞ」という気概が伝わってくる。
書店は頼むからこの傑作を増版してください。
- 964 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/12(水) 23:05:51.21 ID:f1xQ/dJ/I
- 江戸末期の「村」は、たいてい今では電柱に貼られた「地名」になってる。
もう少し詳しいことを知りたければ、図書館に行けばわかる。
村のうち、大きい物が「宿」になり、たいていは街道の要地に当る。
次に大きい村は「町」になる。
博奕打ちの「親分」と呼ばれる者は、だいたい村に一人はいる。そして、町や宿なら
二人以上いることもざらにある。
松尾四郎はこのことを、現代で言うところの「パチンコ屋」に例えているが、
だいたいその通りだろう。
- 965 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/12(水) 23:15:58.87 ID:f1xQ/dJ/I
- 当り前の事だが、博奕打ちに「悪い奴」はいる。どうしようもない人間。
しかし、良い人、素晴らしい人間も「いる」ことは事実である。
(もっとも、これはどの世界にも共通して言えることだが。)
少し飛躍するが…子母澤寛や長谷川伸が書きたかったのは、まさにそういう
一見社会悪と呼ばれる中に出た傑出した人格者なのだと、最近氏らの著作を読むたび思う。
そして共通して言えることは、彼らは「負ける」ということの価値を、知っている、または体現している
ということなのではないだろうか。
- 966 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/21(金) 21:59:39.62 ID:tG5hvkpgU
- 色々と不明な点の多い神山村の栄五郎だが、明治六年の初春には南秋津不動(現・東村山市)
の鳥合せ(闘鶏博奕)の場に姿を現したことが記録に残っている。次郎長子分の愛之助、竹三郎を
連れていた。
そこから、中藤村の増五郎(博労の定右衛門の倅)の元を尋ねて旅銭をもらい、更に西へ行って、
師岡ノ孫八の元に逗留するが、孫八が既に引退していたのか、跡を継いだ馬之助の宅を訪れ
道銀をもらっている。
多分青梅街道沿いに移動したのだろう。そこから、大菩薩峠を抜け、甲州へ入ったか?と言うところで
この書類は惜しくも終わっている。
- 967 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/21(金) 22:05:43.50 ID:tG5hvkpgU
- 田黒村ノ文吉
嘉永二年に東海道を騒がせた、田中村岩五郎、石原村幸次郎、五明村亀吉の
一派の一人で、早くから関東取締出役の手配書に名前を出す。
文吉自身も親分格で、五明村亀吉と兄弟分であったという。
- 968 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/26(水) 22:58:22.12 ID:QVshA4pkY
- 「まさも、さけと、わかい、おんな
で、はらお、くさらせ、とても、ぜんかい、
なし、だんだん、かんかいて、
みると、かづのこお、しろみつで、
ひやして、みれば、よくわかる、
さけは、しろみづなり、つよいから、
たくさんのめば、はらがくさり、
ます、それだから、すてられぬ、
ひとには、よく、ねんごろに、おまゑさんから、よくはなして、おくれなさい、
五郎さんおよとりに
きめたからおたのみ
もおしますやまも
ことしからはみなこして
せいだいにするから
あんしんしておくれなさい
二月五日 山本 長五郎
山おか せんせいさん」
- 969 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/26(水) 23:13:14.19 ID:QVshA4pkY
- いったい次郎長の手紙は、見つかってる限り(写しも含めて)何枚くらいあるのだろう。
それまで文を書いたことに無い次郎長が、誰に習ったか、文字を書き始めたのは
明治に入ってからだと思われる。しかし筆致は素晴らしく、
配列といい、大きさと言い、他に類をみない。(と素人の私にも思わせる。)
上のは、明治14年のものと言われる。「まさ」は大政。米のとぎ汁に浸した数の子がダメになるように
酒ばかり飲んできた大政も、もういけない、という意味。(大政は、また、若い女にも当てられていたようだ。)
「五郎さん」は天田愚庵で、「およとり」(養子)に決めたとの意味。
「やまも」は富士市大渕の開墾のことを言うようだ。
- 970 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/27(木) 00:01:22.88 ID:CF5TjuaHt
- このスレッドでは三回も名前を書いた駿州由比宿の平野屋三平。
本姓は「畑」。没年は明治15年。(63歳と伝わる。)
この地方の大親分として、幕末期を生き抜いた。娘が一人いた。(シマと言ったとか、言わなかったとか)
宮島ノ年蔵や大場久八、更には黒駒勝蔵、鬼神喜之助と親しかった、とも言う。
それだけに、その最期は食客に扮していた博徒に刺されたとも、次郎長一家にやられたとも
伝わる。
- 971 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/27(木) 23:40:55.27 ID:CF5TjuaHt
- 天保八年時 天竺ノ乙五郎人相書
方山村矣宿
字てんじく事 乙五郎 酉三十歳
一、丈ケ高キ色白キ方
一、鼻筋通り高キ方
一、眼大キ方
一、顔角張りほをこけ候方
一、髪小まけはけすくなく
其節之衣類
一、木綿紺かすり単物着
一、帯茶はかた〆
- 972 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/27(木) 23:50:12.16 ID:CF5TjuaHt
- 「…入って来たのは音五郎、綽名は天竺の音と云ふ…(中略)…四五年前に片山村
に落ちついた。生まれが分からないと言ふ所より、彼奴は天竺で産湯を流したものだろうと、
そこでこういふ綽名をとった」(『講談・大前田英五郎』)
上州館林の江戸屋虎五郎は、武州新座郡岡村の生まれで、当時は「七五郎」と言った。
しかし当地に虎五郎所縁の逸話や史料の類は全くない。
唯一存在するのが、彼が対立した、と講談が伝える地元の親分の人相書だけである。
虎五郎(七五郎)は獅子ケ獄十五郎の義理弟・万吉と共に、天竺音五郎(音と乙は同音)
を襲うが果たせず、国を売ることになった。
- 973 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/07/29(土) 23:18:15.61 ID:lL9VwiSwq
- 国定忠治は立ったまま刀を上下に振るだけで人を真っ二つにした、というが、
こと、博奕がうまかったとか言う話はきかない。旅先で津向文吉とその一行に会って、
目にもとまらぬ早業で壱両づつみんなに握らせ、「急いでおりやすから」と、その場を去ったとかいう話
には事欠かない。
次郎長は、若い頃は大層巧みなイカサマ師で「ゴロ長」なんていう綽名までついた
というが、晩年になると、全くサイコロなど持たず、荒地の開墾や英語塾に精を出した。
大前田栄五郎は言うに及ばず、黒駒勝蔵や江戸屋虎五郎、相ノ川又五郎なども
あまり博奕に関する逸話はない。
彼らに比べて、小金井小次郎は本当に博奕が好きだったようだ。
在島中、三宅島普済院の住職から博奕のために借金はするわ、
本土に帰ってからも、明治3年、是政村で博奕をして上州まで逃げて捕まったりしている。
賭けごとはあまり強くなかった様だが、本当に博奕が好きだったのだと思わされる。
- 974 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/06(日) 01:00:46.07 ID:yYy+NKLg0.net
- 「石松三十石船」は、本当に良いよね
滑稽で笑える作りなんだけど、「これから石松が死ななきゃならない」
っていうことを、それとなく暗示させていて、聞き終わった最後が
なんとなくさびしい。
石松っていう無類の好男児を、わずかの間に余すところなく伝えている。
まさに話芸中の快作だと思う。
- 975 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 17:07:22.16 ID:J0Xq/xSR0.net
- 花山薫の話をしようじゃないか
- 976 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 22:29:36.99 ID:Bigy3eJZS
- 甲州青柳の市松・寅之助兄弟、別に「油屋の兄弟」と言う。
実家は青柳一の資産家で、宅から見渡す限り山裾まで油屋の土地だった。
兄弟は何不自由なく育ち、ある時隣の家の刈り取った稲の上で兄弟が相撲をとっていたことを
咎められると、「稲派皆買い取るから、二人の好きなようにさせてやってくれ」と父親の七兵衛が
答えたと伝わる。
ある年の盆の入りに、市川代官所の目明し「徳松」を斬り、国を売った。
兄弟は武州高山不動尊の高市で、関東岩五郎とその子分・喧嘩幸次郎(田中ノ岩五郎と石原ノ幸次郎)に会い、
意気投合して行動を共にした。各地の賭場を荒らし、甲州に戻って、津向文吉の女房(この時すでに文吉は島流しにあっていた)
に疵を負わせ、井出ノ久右衛門を暴行し、駿河へ出た。
- 977 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 22:39:03.78 ID:Bigy3eJZS
- 後は嘉永二年の「石原村幸次郎一件」に詳しい。
味方が次々と江川代官所の手代に捕まり、あるいは射ち殺されるのをしり目に、
兄弟は故郷に帰って来た。寅之助は青柳の諏訪神社屋根上へ隠れたが、思わず
草鞋を落としたのをきっかけに捕縛された。兄の市松は身延山まで逃げ、寺の境内を血で
汚しながら討たれた。
油屋、姓は中込。代々見事な墓石を持つが、兄弟のそれは自然石の粗末なもので、
今では誰もわからぬ。元は二基あったそうだが、今は一つしかない。
プロレタリア文学作家の熊王徳平が特に関心を持ち、色々調べ、小説にする予定をたてていたが、
未刊に終わった。
- 978 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/08(火) 22:45:07.94 ID:Bigy3eJZS
- 974は随分昔に自分が書きこんだものだが、どういう理由でこのコピーが貼られるのか
よくわからない。
いずれにせよ、あと少しでスレッドも終わる。色々粗末な愚にも付かないことを書きこむのも
終わる。
- 979 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/09(水) 23:01:44.09 ID:ZlzqorO6a
- 次郎長さんは昔、なにかの出入りで内腿を刃物で切られたことがあった。
当時の治療は、膏薬を貼ってから自然に治ることを待つのが基本であったため、
場所によっては後で不便が生じることもあった。
次郎長さんの場合、切れた箇所が内腿と離れて、そのまま治癒した。
結果的に股の間に一本棒のような肉が出来てしまい、
晩年風呂に行くと、それを見た子供に「次郎長さんは珍棒が二本ある」とはやし立てられたという。
- 980 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/09(水) 23:10:56.42 ID:ZlzqorO6a
- 次郎長さんが数百人の子分を持つ親分となるに至った理由を、
小笠原長生(後の海軍中将)がある時本人に尋ねると、
「自分は子分を然る時は本気で叱る。けれど昔から決して人前では叱らなかった。
ひょっとすると、そのせいかもしれません」と答えたと言う。
次郎長は人の心の細かいところまで敏感に気を使うことに出来る人だったことが、この話から知られる。
- 981 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/09(水) 23:35:27.70 ID:ZlzqorO6a
- >>947
久義氏は、明治40年に甲州国中を襲った大水害の時、子分を指揮して堤防の改修工事に従事させ、
工事終了後に思うところあって一家を解散させた、と竹内勇太郎先生が御本の中で書いておられますね。
また、子母澤寛氏が取材で伺った際には、「堅気様御相手ゆえに…」と終始頭を下げて対座をなさり、これに子母澤氏は
感激すると共に、ひどく狼狽したと書いています。
竹居の遊侠の名を後世に残したことを始め、思慮ある行いは、そのまま甲州遊侠の手本のような人だったのではないか、
と思わされます。
- 982 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 00:26:52.69 ID:WLAWFbGKy
- なんでかわからぬが、その寺の墓石を調査すると、後で体調が悪くなるという場所が
確かにある。
これも馬鹿馬鹿しい話だが…昔年お寄りに聞いたとおり、塩(食卓塩で可)を両肩に振りかけると治る。
単なる自己暗示なのか、本当に効果があるのか、本当の所はわからない。
- 983 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 21:45:40.58 ID:WLAWFbGKy
- 甲府の三井卯吉は本名を宇七(宇七郎)と言い、屋号で呼ばれる時は両国屋宇七と言う名の
目明しを務めた。役職は正確には門前目明しと言う。甲府城の東門を出て竪近習町前に
治安を掌る「会所」があったので、まあその辺から門前と言うのだろう。(推測)
この卯吉を「猿屋勘助」とする説がある。この説は村松梢風が嚆矢となって唱えたのだが、
村松は聞き書きを多く行っているので、一概に偽りとは言えない。しかし「猿屋」は
甲府牢の官吏を任された下吏であり、更に言えば被差別身分であるので、甲府牢番20俵3人扶持の三井家とは
一致しない。
実は卯吉の殺害された安政四年の10月に、牢抜けが企てられ、その際、牢番下役の「伊兵衛」と言う者が殺された。
猿屋勘助はあるいは、この伊兵衛のことではないかと思われるが…今のところ、決めてになる資料がない。
- 984 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 21:49:01.77 ID:WLAWFbGKy
- ちなみに
三井卯吉の殺害は安政四年の正月四日
牢番・猿屋伊兵衛の殺害は同年の十月十二日である。
- 985 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/12(土) 23:50:01.69 ID:WLAWFbGKy
- 勢州塩浜地区に吉右衛門という親分が居た。この吉右衛門が嘉永2年あたりに
同じ勢州古市の丹波屋伝兵衛の賭場で騒動をおこした。
その際、三州平坂の相撲取り頭にして侠客の伴兵衛(栗谷川伴兵衛、桐生ノ伴兵衛)が
丹波屋側に付いたため、吉右衛門が怒り、武州岩五郎、幸次郎らに依頼して七月二十日ごろに
伴兵衛を殺させた。
- 986 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/18(金) 15:17:11.26 ID:0KsXB8HB0.net
- 明治40年、当時街道一厳格な親分と言われた、神奈川の半鐘兼さん(堀井兼吉)が、
全国の大親分の霊牌を並べて大法要をした際の順位は、次の様であったという。
1.大前田栄五郎
2.大場の久八
3.丹波屋伝兵衛
4.丸屋の忠吉
5.相模屋政五郎
6.新門辰五郎
(7位以下は不明。次郎長、勝蔵、小金井小次郎などの名はずっと下にあった。)
(*子母澤寛『男の肚』より)
- 987 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/19(土) 08:49:47.08 ID:iPh/NoDq0.net
- 強きを挫き弱きを助けるような任侠道って本当にあったのかね・・・。
はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。
- 988 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/21(月) 00:26:08.58 ID:SZiITELCe
- 伊勢古市の丹波屋伝兵衛は、当時相撲伴兵衛の兄弟分だったため、伴兵衛の仇打ちと言って、
嘉永二年四月五日、遠州小松村庄太郎の元に逗留していた岩五郎、幸次郎らを
急襲した。
引き連れて行った面々は長州無宿伊達五郎、豆州無宿浅五郎、為五郎、駿洲無宿嘉吉、
相州大山無宿金五郎、上州館林初五郎、同相撲次郎、同千吉、其の他八人。その中には伴兵衛の
倅も入っていたと記されている。また、待機組として大場久八が、これも子分を引き連れて後方に
控えていた。
- 989 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/21(月) 19:39:57.36 ID:Y7/Rjc1x0.net
- 侠は見返りを求めてはいけない。
見返りを求めたら、それは侠ではない。
- 990 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/31(木) 22:57:15.48 ID:MCKP467Ic
- このスレッドだと829に当る方からご教授いただいた「季刊・清水」の該当部分を
ようやく手に入れた。ものすごい良資料・すぐれた論文の掲載された雑誌で
まさに目から鱗。これを目当てに清水の図書館へ行って本当に良かった。
とくに勝瀬光安氏の「和田島太左衛門」の研究には貴重な情報がたくさん載っていて素晴らしい。
このスレッドで情報を頂けて本当に感謝しています。
- 991 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/08/31(木) 23:15:34.80 ID:MCKP467Ic
- さて上の論文の中で、和田島太左衛門(太右衛門ではないとのこと)が官吏に捕まり
入牢の身になったことを示す兄や本人の手紙の翻刻が載っているが、
おそらくこれは嘉永4〜5(ないしは6年)のものであると思う。
というのは発端になった「由比宿の喧嘩」が嘉永4年に起きていることを示す史料が存在するからだ。
嘉永四年五月、由比宿の由比川とぶつかる海辺の道で博徒同士の喧嘩があり、十二人対五人。
五人の内、腕に覚えのあった信州の駒吉が奮闘し、後の四人を逃がした。
駒吉は結局、鬼神喜之助の刃を受けて倒れるが、12人の相手側にも多大な疵を負わせた。
この十二人の打ち分けは太左衛門子分と市川無宿喜之助の子分連合だろう。
- 992 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/01(金) 22:14:32.49 ID:juPHZWsY+
- 討ち死にした駒吉は公の資料では「信州無宿」とのみ記され、当時の風聞では
岩渕の弥七(岩渕源七のことだろう)の子分であるとされている。
この出入りには和田島太左衛門は全く関わってなかった、と手紙には書かれているが
多分そうだろう。ただ親分であるからには、彼も責任を取らねばならず、わざわざ武州まで逃げて
八王子近辺で八州回りに捕まったらしい。
おそらく「安東文吉伝史料」にある、由比における太左衛門と岩渕源七の喧嘩の元ネタはこれだろう。
「伝史料」では喧嘩の真っ先に太左衛門方の次郎長と、源七方の坊主勝が一騎打ちをしたと書いているが
これに関してはほんとかどうかわからない。
- 993 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/03(日) 22:47:26.28 ID:qWyXMQRIQ
- 穂北久六(初名は惣七)は今の愛知県一宮市の出生である。
母「のよ」が名古屋城下に奉公している間に、ある武家(名は伝わらず)との間に生まれた。
のよは幼い惣七を連れて出身村に帰るが、直後に隣村へ息子を養子に出し、自身は再婚する。
惣七は太左衛門という者に預けられ、13歳までを太左衛門の元で過ごした。
やがて川向うの村へ中間奉公に出され、奉公中に八尾ケ嶽の四股名を持つ相撲取になったようである。
細かい村名は伏せた。今のところはこれぐらいしかわからない。
- 994 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/03(日) 23:19:28.62 ID:qWyXMQRIQ
- 上のスレッドで、よく調べもしないまま袋井の四角山周吉を悪者の様に書いてしまったが、
「実談・原田常吉」によれば、遠島になろうとした常吉に、なんとか恩赦をもらえるように
雲風亀吉と共に運動したのが、この四角山周吉だったことを今さら知った。
早くに亡くなってしまった人は、後でなんとでも悪く書かれるものである。
四角山周吉だって、相当な侠客だったのかもしれない。袋井・用福寺の墓石も
実に堂々とした立派なものだ。
ちなみに元の四股名は「三毛猫」といった。
- 995 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/07(木) 18:24:18.84 ID:PTpbVIzE0.net
- >>987
あるわけがない。
今も昔も人間は同じ。
どうせただの作り話だろ。
ほんと昔話はガセが多い。
- 996 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/08(金) 23:17:13.61 ID:a7wnC2tW0.net
- 釣りじゃないなら伊藤春奈『幕末ハードボイルド』読んでみ
話はそれからだ
- 997 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/09(土) 10:02:36.32 ID:w4/XHcBzU
- このスレッドに散々書きこんできた我々は、「遊侠」の話が好きなので善い面を多く
強調して話題に上げてきたけど、995氏の様な見方は当然あると思うし、そういう態度も重要だと
は思う。「侠客・博徒・ヤクザ・渡世人・長脇差…」色々呼び方のある者を、手放しで
英雄視する気は毛頭ない。むしろ、騒動や紛争の源になることの方が古今多かったとは思う。
ただ中に何人か、見事で爽快な生き方をした人がいることも本当だし、そういった話題・伝承を
取り上げることは意味の無いことではないと思う。
- 998 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/09/09(土) 10:07:17.37 ID:w4/XHcBzU
- 八王子のソバ亀親分の手紙
本日六日御差出シニ相成候御書翰、同七日正午三十五分ニ落手、拝見致シ候処、
御老人様事、ツイニ去ル三日郡内谷村ニ於テ御病死相成候由、實ニ以テ驚き入候。
サゾ御家内御中様、御シウセウ之至奉察候。最早御老年ト云ナカラ甲州江御出立、
之折ニモ今少シク小生方ニ御滞在、全ク御病快気之上、御出立被致候様、呉々モ
御老人様ヘ申上候得共、日頃之勇気出立ト御自分ニ決定被致候ニ付、最早壮健ニ
相成候ニ付、是非共上ノ原江趣キ度ト被申、小生方ヲ出立上ノ原町え御越ニ相成共
御地ニテ病気再発ト聞、小生之心痛斯ラズ日々夜々安シ病ヒ存候ニ付、今日早朝
上ノ原町ヲ御立、最早御帰宅ニ相成候哉、如何御病気之趣キ如何伺度、御貴家宛ニ
三島町合川氏迄御伺ヒ御書面ヲ差出シ候処ヘ葉書落手、右之趣キ誠ニ家内中驚キ入
申候。直様小生ニ於テモ参上致シ霊顔ヲ拝シ度存候得共、最早御埋葬ニ及ビ、廿六年
三月十三日、壱百日霊ニ付、其節本葬式之由、御通知ニ相成、依テハ其日参上仕、霊位
ヲ送リ奉ルヘク候。乍去三島町合川佐十郎氏江、宜敷御伝可被下候。先ハ御見舞迄斯ニ
御座候。恐々敬白
八王子横山 亀吉 拝 (明治二十五年) 十二月七日
☆ 御老人とあるのは大場久八の事、これは久八が亡くなった際に出した手紙。
- 999 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/11(水) 19:29:02.30 ID:RqhsyDShC
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- 1000 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/12(木) 23:09:13.83 ID:r4D1XOCwB
- でーぷのぶぶんのねつぞうわすれたな なんだっけな
どなたのどのばんぐみのどのしーんはおぼえてるけど
- 1001 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/13(金) 23:20:33.59 ID:KW2dc0I+I
- くだらない広告で1000を越えてしまったが、どうしても書きこむ必要があるので。
青山光二という作家は、素晴らしい作家。
都田三兄弟や父の火の玉源八を考証した「都田一家の終焉」も忘れてはならないが、
それを離れても『吾妹子哀し』は知られるべき著書だ。
むろん「都田の終焉」も貴重な伝聞・研究資料だ。
- 1002 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/18(水) 21:49:34.88 ID:oZgjIHCU6
- まだ書けるようなので、丹波屋伝兵衛をまとめておく。
伝兵衛こと竹之助は、本姓「半田」(「多田」とも)。出生は伊豆国田方郡多田村で、
父宗右衛門、母りうの長男として文化十四年に生まれている。伝承では姉に「しず」がおり、彼女は大場久八の最初の妻になったという。
天保10年、23歳の時に博奕の罪から中追放の仕置きを受ける。その後弘化4年、再び博奕で捕まり、韮山の牢に入れられるも
牢抜けを成功させ姿を隠す。この時点で既に「丹波屋」と呼ばれているので、伊勢古市とのつながりは出来ていた。また「重き咎人」とされ、
子分も数人かかえるとの記述があるので、相当な侠客と成っていたようである。
嘉永2年には東海道で武州の岩五郎・幸次郎らと抗争し、4月には自ら得物をとって斬り合いに及んでいる。
この後暫く資料に名が出ない。
文久元年、菊川の手打ちで赤鬼金平と次郎長の間の仲裁人を務め、街道筋に貫禄を見せつけるが、
勝蔵と次郎長の抗争の際には、勝蔵派に組みしていたことから、次郎長の敵役として位置付けられ、
『東海遊侠伝』を通してあまり良いようには描かれていない。
しかし、実際にはその後も伊勢の古市の大親分として勢力を保ちつづけたようだ。
- 1003 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/18(水) 21:52:37.15 ID:oZgjIHCU6
- 理由は不明だが明治23年2月に、養子の「竹助」の実家である静岡県榛原郡川根本町に家族総出で転居し、
同年11月には今度は武州八王子の横山町に移っている。翌月12月16日に同地でなくなった。
八王子で彼を招き、面倒を見たのは「蕎麦亀親分」こと伊野亀吉。
伝兵衛の孫娘「たま」は、亀吉の養女として育てられ、伝兵衛死の直前に亀吉の家に籍が移されている。
伝兵衛は当時第一級の侠客とうたわれ、昔伊豆で世話になった村の人々を定期的に古市に招き、大層な歓待をしたと言う。
また、御一新の際には、伊勢に侵入してきた暴徒を子分を指揮して押さえたとも、
官軍と幕府軍の生き残りとの戦を説得して止めたとも伝わっている。
- 1004 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/21(土) 14:36:00.10 ID:U2C7bf0lB
- 和田島ノ太左衛門事 上田竹次郎に関して、最も古く豊富な情報を
記載している資料は、大正5年の『両河内村誌 下編』だろう。
貴重資料だが、有り難い事に静岡県立図書館の「デジタルライブラリー」で閲覧が可能だ。
これだとページ番号「109」から数ページに渡って彼のあらましが載っている。
有名な「和田島竹さん、火事より怖い 火事じゃ身ぐるみ焼けはせぬ」の歌も、これが出どころのようだ。
- 1005 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/21(土) 22:08:06.17 ID:U2C7bf0lB
- 遠州小松村七五郎は、代表的な打会士(=半可打ち、または親分を持たぬ博徒)であり、実在の人物で瀕死の石松を匿ったという人。
その妻が「おその」で、これまた女傑。
石松を探しに来た都田三兄弟を小脇に抱えた鎗と気風で追い払った。(夫に勝る大酒飲みで170cm長身。しかし不世出の美女。当時36歳。)
このおそのの義親に当る者が「庄太郎」。近隣に評判の良い人物で通称「題目庄太郎」。
甲州石和の人だったと伝わる。実は七五郎の方が流れ者で、庄太郎晩年にこの家に草鞋を脱いだ所、庄太郎に認められ、
おそのの旦那となって一家(?)を継いだらしい。
なぜ、こんなことを書くかと言えば、今まで「庄太郎」という人の伝承は嘘だと思っていたのだが、
江川文庫の嘉永二年、関東岩五郎・幸次郎が匿われた家が「遠州小松村庄太郎」とあることから、実在の人物と分かったことによる。(ここから岡田村の斬り合いに及ぶ)
「森ノ石松」自体が謎に包まれる一方で、その周辺の人々の伝承はかなり正確であるということは一寸面白い事のように思える。
- 1006 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/10/23(月) 21:56:07.98 ID:xcyhYygAU
- 東京都奥多摩河内村に「鶴の湯温泉」という幻の温泉場があった。
現在では小河内ダムの底に沈んでいる。
ここの逗留していた悪党を捕らえるための許可を武州の田中屋万五郎に
願い出た祐天仙之助の手紙が残っている。
- 1007 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/15(水) 22:56:59.35 ID:28SmoLi60
- 上記の手紙だと、仙之助は「萩原村」での刑事事件を担当しているらしい事がわかる。
彼は勝沼から、青梅街道の入口に当る萩原村(現・甲州市塩山)までを掌握していた。
萩原村には通称を「街道端(けいどうばた)の親分」と呼ばれた「萩原の秀蔵」がおり、
祐天とは飲みわけの兄弟分となっていた。
安政四年、この秀蔵親分が、同村の「太吉」と「あやめ」という若い恋人同士で、
親に夫婦になることを反対されている若者二人を説き伏せて、江戸へ欠け落ちさせた。
両人は故郷から出た出世頭・真下晩ッを頼り、新たな生活を始めるが、この二人の間に生まれた子供のうち、
二番目の娘が、後の天才女流作家・樋口一葉である。
- 1008 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/17(金) 20:53:58.20 ID:grn8B4QYX
- 清水次郎長と黒駒勝蔵の抗争は幕末の仁侠抗争史の代表だが、
実際に大規模にぶつかったのは
文久3年6月の平井の襲撃(愛知県豊川市平井)と、
慶応元年6月(と推定される)の富士川の抗争(静岡県富士市)の
二つの戦いだろう。
- 1009 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/21(火) 23:18:45.96 ID:VgGgTMHzz
- 明治43年からおよそ一年の間刊行された「週刊多摩新聞」には「小金井小次郎実動」という
連載小説が掲載された。作者は確か柳雷子(間違ってたらすみません)。
結局新聞自体の廃刊により、砂川村での喧嘩あたりで未完に終わるが、登場人物中に、
塚(現・三鷹市)の貸元、鍛冶留事・境村の留吉が出てくる。留吉は神山栄五郎との間で喧嘩になりそうな
雰囲気の中登場し、小説では無事に女房の元へ帰って来た、と言う所で終わっているが、
本当の所は、結局栄五郎一派によって命を落とす。
その仇を討つために陣屋が栄五郎宅へ乗り込むが、栄五郎と人違いした男を殺し、
帰って官憲に追われる身となる。
小説はそこまでは描いていないが、今日残る資料から、作者がそこを狙ってたことがわかり、
未完に終わったことが、返す返すも残念に思われる。
- 1010 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/23(木) 23:11:23.00 ID:gTgV5MwY4
- 日本では「明治八年」に警察機構が出来上がった(明治五年とも言う)とされるが、
それより前の幕末期に、既に「警吏の機構」が出来あがっていたと考えられる。
幕府領の都市部や藩領では「目明し」が連絡経路も含めて系統だった機能を持っていたし、
関東の村落では「道案内」が「頭」を中心にした連絡・命令網を用意していた。
これらはアメリカで言う所のsheriffの様なものだったと思われるが、明治に入ると、近代警察機構の登場により、
急速に瓦解された。
明治にはいって暫く「探偵」という職業が存在したのは、あるいは道案内・目明しの末路だったのかもしれない。
- 1011 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/11/27(月) 23:16:59.76 ID:tvyiR7ovm
- 松尾四郎の『竹居吃安 正伝』という本は不思議な本だ。
実際のところ、2017年の現在を以てしても、その全てを検証しきれない。
しかし、検証できる所は全て正しい。
松尾氏には40年くらい先くらいまでが見えていたとしか考えられない。この分野に関して
子母澤寛、今川徳三、高橋敏、高橋修などが太刀打ち出来ぬ程正確な史料を
早い段階で揃えていた。本当に恐ろしい人だ。
- 1012 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/04(月) 22:18:04.44 ID:sTG2sHMFr
- 大沼田村の周蔵
- 1013 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/13(水) 22:15:41.30 ID:TNrAD5s0Y
- 笹川の繁蔵と飯岡の助五郎が利根川で戦う、所謂「天保水滸伝」について
書かれた小説は多いが、白眉なのはやはり中山義秀の『平手造酒』だろう。
力量のある作家の筆だけに話としても、面白いが、逸話の類もかなり正確なものを
吟味して書かれているからだ。
今だと「ちくま文学の森」シリーズの『もうひとつの話』に収録されているそれが、一番手に取りやすいだろう。
- 1014 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/13(水) 23:07:14.35 ID:TNrAD5s0Y
- あらためて黒駒勝蔵一党
三州平井村雲風(亀吉)、駿州安居山佐左衛門、遠州米吉、駿州宮嶋村年蔵(←四人は勝蔵兄弟分)
塩田村玉五郎、八代村綱五郎、八千蔵村要次郎、成田村岩五郎(小岩)、中川村岩吉(大岩)(← 玉五郎は軍師、以下は四天王)
八代村村千代蔵、同多一郎、北八代村多五郎、八幡北村猪之助、同村勝吉 黒駒村惣吉、同村林兵衛、同村乙助、武川村由五郎、甲州吉五郎
古府中与五郎、落合村角太郎、国分村乙吉(大乙)、東花輪村乙吉(小乙)、轟村大五郎、
遠州掛川宿万平、 遠州森村秀五郎、三州勘作、同清五郎、同寅蔵
信州喜十郎(喜三郎とも)、信州文五郎、同州清五郎、信州飯山軍之助、松本在繁蔵、肥後次三郎、狐新居村兼吉、郡内吉田村房吉、同藤次郎、同庄次郎
郡内川口村安太郎、 伊豆無宿与兵衛、伊豆無宿国五郎(赤鬼金平倅)、同熊五郎、越後伝作、下田常五郎
中川村新左衛門、成田村文作、駿州吉原宿勝太郎、小笠原村伊三郎、
正徳寺村太八、上万力村森太郎、同照太郎(←正徳寺一家)、甲州築山村与十、栗原宿庄太郎、 身延村鉄蔵
坊主鉄(駿州岩渕繁八)、永井村新助 、尾州一ノ宮久太郎、同州遠治郎、濃州熊五郎、伊勢惣五郎、奥州啓次郎、
相州吉野宿輔次郎(ただし、黒駒出生)、浪人富(剣道達人)、浪人市之進(剣道達人)
- 1015 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/15(金) 23:58:47.19 ID:uMluSo7Ta
- 小金井小次郎の四天王と呼ばれる子分(自らは親分)に矢畑の藤五郎(藤蔵とも)がいる。
別に仙川の藤五郎とも言う。今で言う所の調布市と三鷹市の間のようなところに居住していた。
上にも記した『週刊多摩新聞』の小説だと「小金井一家一番の知恵者」と書かれる。
また小次郎の墓石には、陣屋三之助に次いで二番目に名が上がってることからも
その威勢が知られる。姓は高橋。
しかしながら、今日墓石はおろか逸話、資料の一切も残っていない。
と思っていたが、一通だけ安政3年の文書があり、それによれば
「小金井小次郎の子分として、小次郎遠島の後は自ら親分を名乗り、その配下を引き連れ、
府中宿で博奕渡世をし、上がりを親分小次郎遠島場所へ送っている」と記されている。
勢力からしても、また小次郎への忠誠心からも、藤五郎は四天王にふさわしい博徒である。
なお、彼は生涯百姓として生き、「無宿」とはならなかった。
- 1016 :名無しさん@お腹いっぱい。:2017/12/28(木) 00:31:13.58 ID:nclit2hXj
- 武州二子村の子之吉
- 1017 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/01/31(水) 13:40:08.80 ID:I/Y5AjPQ0.net
- 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ICSP8
- 1018 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/14(水) 23:10:27.31 ID:NcdSce0uw
- 「湊屋伝兵衛さんは畳をしょって死んだ」
毎回ながら甲州の話で恐縮だが、韮崎宿に伝わる歌の一つ。伝兵衛ではなく
「善兵衛」が正しい。湊屋善兵衛は姓・岩下。元々は甲府の博奕打ちで流れ流れて
韮崎宿の湊屋に婿入りした。兄弟分には宇津谷の伝右衛門がいる。
明治の初年(三年か四年ってとこか)出入りで負けて敗死した。
畳をどんと上に積まれて、その上に相手方の親分がデンと座ったら、肉片がつぶれ目玉が飛び出し、
悲惨な姿で亡くなったとのことだ。場所は御勅使川の河原とのこと。
- 1019 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/15(木) 22:56:30.94 ID:Kcpl9Sx5J
- みんな一体どうしてしまったのだ?
と思うくらい、明治になると突然手紙の文体が変わる。正直言って幕末より
明治初期の古文書の方がはるかに読みにくい。これは実感だ。
なわけで津向の文吉事宮沢文吉親分の、八丈放免以降の手紙は、
たとえ、写しを手に入れていても、読解に難を要する。文字は整っていて、細く、見た目優しい字である。
実際は帰国後、博奕に凝った若者衆を更生させるに際し、
とにかく「怖い人」と逸話が残るほど、威厳と貫禄を持った親分だったそうだ。
- 1020 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/22(木) 23:29:04.17 ID:NOT7fRhvf
- 『歴史読本』(昭和46年3月特別号)は「幕末任侠伝」と銘打って、その種の
研究、文学、逸話を中心に据えた実に力の入った号になっている。
執筆陣も青山光二、八切止夫、江崎惇、中田耕治、竹内勇太郎、今川徳三
と豪華だ。
どれも有用な内容揃いなのだが、なかでも中田氏の「博徒勤王に奔る」が看過できない。
氏は幕末の混迷期において、重要な役割を果たした侠者として、次郎長、勝蔵、津向の文吉、
長楽寺の清兵衛、日柳燕石と並んで、武州「腰塚喜三郎」という人の略歴を挙げている。
北武州で相当な勢力を張った人なのだというが、
不勉強のため、この人に関して全く知識が無い。また史料・逸話の類を見つけられないのだ。
ネットもない、その時代。やはり一流の研究者の知識は広く深いものだと改めて思わされる。
- 1021 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/22(木) 23:39:45.25 ID:NOT7fRhvf
- 小堀茂三郎(小森とも言う)は八丈島に長いこと流されていた侠客のようで、
後に江戸に帰り、上万さんに劣らぬ貫禄で知られた。
最近どうやらこの人の手紙らしい、三宅島遠島中の小金井小次郎へ出した手紙を
見る機会があったが、残念ながら保存状態が悪く半分も読めない。そもそも茂三郎のこと
じたいあまり知らないと言う不勉強さもある。近デジには彼の伝記講談もあるのだが、
なかなか手がつけられないでいる。
- 1022 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/27(火) 00:19:39.86 ID:xhhw3t6w5
- 仁侠の学術的研究は、中野好夫が「もはや戦後ではない」と発言してから二十年間あたりがピークだったと思う。
もっとも戦前には、そういった人々の実体を重視する研究者が多く居いたし、
上に示したように昭和40年〜60年には斯界の隆盛をむかえた。
「木枯らし紋次郎」が放映されたのが昭和47年。昭和61年には藤田五郎先生の『仁侠大百科』が刊行されている。
ついで2004年(平成16)の『博徒の幕末維新』高橋敏から先がうまく研究者を引きつけて
この分野を引っ張ることができれば、博徒の研究は進むし、ひいては、それが近世の「民衆」研究に繋がってゆくはずだ。
- 1023 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/02/28(水) 23:30:06.19 ID:wpDnWUvm/
- 野崎の藤五郎
- 1024 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/04(日) 23:07:55.80 ID:hBYuG2SA0.net
- 飯岡助五郎
- 1025 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/05(月) 22:40:57.29 ID:l5tycKipo
- 武州野崎村の藤五郎は小金井小次郎子分だが、天保12、13年あたりの生まれ
ということから鑑みれば、幕末期の子分ではない。おそらく陣屋三之助か矢畑藤五郎の
子分として売り出したのだろうと思われる。地域ではかなり良い顔の親分だったと伝わっている。(姓・岩城)
一度は成らず者を捕らえたことで、神奈川県から褒章も受けている。
彼の常賭場は深大寺門前の米屋藤助(米屋といいながら酒屋も兼ねていた)。
見た目は、
中丈中肉顔長き方、
色浅黒く眉毛濃き方、
鼻筋通り、髪の毛薄き方
だそうだ。
残念ながら墓碑がどこにあるのかは今のところ不明。
- 1026 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/06(火) 22:36:57.24 ID:dkkkghuDm
- ウィキペディアに「辺見貞蔵」の項が立った。
正直このメディア媒体は嫌いだったのだが、今回は素晴らしいと賛同できる。
一度は聞いたことがあるという盛名の割に、
余り知られていなかったこの侠客のあらましが実に詳しく活写されており、
後進の研究にも道を開いたと言えるだろう。
とても教えられるところが多かった。
- 1027 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/11(日) 22:18:50.29 ID:9u0c+B1fR
- 上総三直の玉吉
- 1028 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/22(木) 00:11:04.71 ID:itFVWA7eU
- 小島の米こと、杉山米吉
武州五宿(現・調布市)から神奈川にかけて名を知られた。
三多摩壮士とも交友があり、触れれば切れるような威勢の良い男だったと
伝わる。
米吉の屋敷には裏道がなかった。杉山家は名門であるが、これ以上
裏道を歩かれた日には堪らない、というのがその理由だったそうな。
- 1029 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/22(木) 00:29:06.02 ID:itFVWA7eU
- 小金井小次郎が三宅島から帰って来た当時、
若い者のなかで際立っていた者が、小島の米と新橋の長蔵。
米吉は、武州から相州にかけて侠客仲間の内で広く名を知られた。
一方長蔵は地元の堅気衆から「親分、親分」と慕われて何かにつけて頼りにされたそうだ。
家業が菓子屋だったことから、花見の頃にはたいそう忙しかったらしい。
二人に並んで、よい顔だったのが、神山の辰五郎に小川の幸蔵、陣屋の民五郎(三之助の倅)
二代目稲荷の増五郎、砂川の平蔵。
詳しいことはわからないが、砂川の平蔵などは、明治の刀狩り令を逃れるために
知り合いの百姓の田んぼに刃物・鉄砲などを全部埋けて隠したとか。
残念だが「丸辰」こと新宿の仁三郎のことは、私は全く知らない。
- 1030 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/03/28(水) 21:16:27.10 ID:y5Yy6dpih
- 二階の弥太郎
- 1031 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/02(月) 17:51:44.58 ID:p+kWlLJ8i
- >>1026
逸見貞蔵は東京では逸見の親分として尊敬を集めたと『関東侠客列伝』にある。勿論、貞蔵の子分である小川卯兵衛、卯兵衛の子分である井上吉五郎の存在を抜かせないが、当時とすれば生きた伝説の大親分だったのだろう。
しかし、時代は内川寛次郎、坂本林之助、前述の古河吉こと井上吉五郎、金子政吉に移っていく。明治期に内川が死ななければ面白い絵がかけたんだろうな。
- 1032 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/03(火) 00:03:07.39 ID:x7SMohG71
- さらっと「金子政吉」氏の名前を出すとは…すごいな 御見それしました。
佃政、川越寛次、秩父の中金三郎氏などは、本当に「侠客」と
呼べるような生き方をした人たちですよね。残ってるエピソードを読んでも
思わず背中が正されるようです。
貞蔵氏は、更に彼らの模範となるような大親分だったのでしょうね。
- 1033 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/15(日) 23:38:41.06 ID:q36sA0/oD
- 悟道軒圓玉は侠客物を得意とした講談師で、慶応年間の生まれという。
彼のモノとされる講談は多いが、まさにそれこそ、「講談師みて来たような事を言い」
との言葉が当てはまるだろう。決してけなしているわけではなく、嘘も多いが、
誰も知らない様な真実も盛り込んでいる。
白文館の「祐天仙之助」などはその最たるもので、本当らしいところも多いが、明らかな嘘もある。
しかし、「読み物」として洗練されている。
この作品で祐天仙之助の最期の様子、つまり切られた箇所は、当時の検死に基づいた
かなり正確なモノになっている。しかし、大村・藤林、更に市川文蔵らが画策して
祐天の刀に「松やに」を抜き、抜けないように細工したとの解釈は
何が出どころか、イマイチわからない。しかし、他の部分が正確なので、あるいは事実なのかも
と読み手に思わせるだけの力量がある。
これに比べれば、中村彰彦の考証などまるで当てにならない。
- 1034 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/15(日) 23:40:45.82 ID:q36sA0/oD
- すまん。「松やに」を抜き、
ではなく「松やに」を塗り、だ。情けない…
- 1035 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/16(月) 21:29:17.99 ID:5xY7m1sSf
- 博徒・仁侠の者と言えば、それを取り締まる八州回りや道案内(岡引)の旦那
などが対として付き物だが、その背景には当然、それ相応の「世相」がある。
「改革組合村」は文化十年に関東の主だった村々に敷かれた、治安維持の代表的制度だが、
実際には天保4年の「寄場圏」の設置によって本格的な警察制度として機能し始めた。
不覚にもこのことは全く見落としていたが、
宮沢孝至氏の「江戸周辺農村の取締構造―『寄場圏(おり)預』制を中心に」(『地方研究』1990年4月)は見事にこれを解き明かした
労作である。28年も前の研究である。惜しい事に著者はこれ以降、続く研究を世に出していない。
- 1036 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/20(金) 23:44:03.09 ID:+k5u5HvUl
- 信濃屋喜兵衛
- 1037 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 00:20:08.90 ID:aoJMy6ugp
- 小金井小次郎が天保15年、木更津で捕まったのは事実だけど、
一ノ宮万平も文政元年以降、長い間上総国に隠遁していた。
田中屋万五郎は、どういう理由か上総の道案内の任命権を持っていた。
武州多摩の侠客と総州博徒との関係は、相当に根深いものがあるようだ。しかし、
これは多分深く調べてもわからないだろう。
- 1038 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 21:43:08.42 ID:aoJMy6ugp
- 「武井の吃安」は間違いで「竹居の安五郎」だ、と厳しく主張するむきがあるが、
それこそ一体何に依っているのか、と問いたくなる。
近世後期の「呼び名」、あるいは「氏名」そのものが流動的(つまり、ある意味いい加減名もなもの)なのである。
往時は、本名が変わることなどザラにあったし、終生綽名でしか認識されない者もいた。
あるいは名のはじめの一文字でしか呼ばれなかったこともしばしばあった。(彦さんや勝さん等)
というわけで、竹居の中村安五郎は、「武居吃安」で正確なのである。
- 1039 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 22:04:26.04 ID:aoJMy6ugp
- 990であげた勝瀬光安氏という方は、研究者でもありながら自身、剣聖・中山博道氏に道を学んだ
武術家であることを知った。
勝瀬氏の流派は、本家本元の「水?流」であり、これが漫画の拝一刀の流派と偶然にも一致したそうである。
よって拝を演じた若山富三郎などが、実際に弟子入りしたと言う。
かなり余談だが、勝瀬氏の師に当る中山博道は、
本部朝基に学んだ小西康裕の空手を、「素手の剣術」として認めていたとのこと。
往時の剣術家の慧眼には戦慄すら覚える。
- 1040 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/24(火) 22:06:29.05 ID:aoJMy6ugp
- 「水おう流」と書きたかったのだが、文字が出ないな。残念。
- 1041 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/29(日) 23:22:50.81 ID:GoW7RXM9n
- 東京大学土屋家旧蔵文書(デジタルアーカイブス)にある「武州石原村幸次郎並びに与党取調一件」
が、嘉永二年の「石原村無宿幸次郎事件」に関しては一番詳しい史料である。
一党の成り立ちや、出入りに至った経緯、匿った地方の親分衆の名など、どれも興味深い。
残念なことは途中から史料事態の保存状態が悪くなってしまい、ほぼ閉じられた頁の中央に穴が空いてしまってる
ことである。うまく残っていれば鰍沢での周徳の殺害や、津向文吉らの動向が
明らかになったかもしれない。
- 1042 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/30(月) 22:43:34.82 ID:I7x/+M5ak
- 甲州正徳寺村の太八(多八)は、およそ文政元年の生まれ。
別名源左衛門ともいい、年番ではあるが、一度は名主も勤めた程の家柄である。
竹居吃安とは兄弟分だったと伝わる。
吃安没後は黒駒勝蔵に協力した。主な縄張りは甲州街道栗原宿。近村塩後村の兵右衛門事
塩山前の藤太郎とは激しく対立した。太八が黒駒、藤太郎が祐天についたのは極めて面白い。
外見は「中丈」で「常体」と、これといって特徴のある要望ではなかったらしい。
万力生まれの森太郎・照太郎と言う良い子分がいた。
逸話としては、吉原の遊女に懸想して、嫁にしたが「金に物言わせる態度」についに嫌われた
とか、塩山藤太郎との出入りで事の成り行きがてら、自分の子(嬰児)を殺害して
相手方の食に饗した、とか
眉をしかめるような逸話しか残っていない。
- 1043 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/04/30(月) 22:59:25.59 ID:I7x/+M5ak
- 侠客研究は一種の民俗学なので、やはり興味を持った人物の地元へ行って、地元の図書館にある
地元の研究者の書いた本を探すことが大切である。その中にたった一行でも大事なことが
書かれていることがあるからだ。
しかし、今日、図書館の有り様は「アーカイブス検索」とか言って、係員が「キーワード」を
パソコンに打ち込んで「お探しの図書はありませんね」とか返事をする、陳腐な仕組みになってしまった。
ところが昨年東海地方のある図書館を訪れた際、そこの司書さんは「後で連絡差し上げます」
と言って、その後本当に詳細な情報を教えて下さった。
嬉しかったので思わず、「何故そんなことがわかったのですか?」と尋ねたら、その人は恥ずかしそうに「目視で一冊づつ探しました…」
とおっしゃた。しかしそれこそ本物の司書と言うべき方だ。こういう人に会うと感謝してもしきれない。その時は本当に頭が下がった。
- 1044 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/04(金) 17:33:54.62 ID:xDuTtDS+0.net
- 元和泉村無宿甚蔵
- 1045 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/07(月) 00:20:11.83 ID:SBSS1qnwh
- 鳥沢の粂は
本名を粂吉と言うらしい。
猿橋に飛び込み、警吏の目をごまかしたというのは、本当だ。
しかし後に此の話は国定忠治、大場久八、祐天仙之助の逸話とすり替えら得て
継承されて行った。
粂自身は信州まで逃げ、「神田の豊吉」という親分の比護の元旅籠屋を営み、
病没したそうだ。
堅気になってから、その長男がやはり博奕打ちになった際、「お前がその家業を続けるなら
今、俺がお前を殺して、おれも自死する」と言った逸話はそこそこ有名だ。
粂は鳥沢宿の組頭の家の親類だとのこと。なお墓石・史料の類は上記を除いて不明。
- 1046 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/07(月) 23:56:39.40 ID:SBSS1qnwh
- 『仁侠大百科』によれば、小金井小次郎の子分で、どういうわけか
清水次郎長に気に入られ、その一家に入った「関東市」という人がいる。
生まれは武州府中宿で、姓は加藤、市五郎が正しいとか。
どういう経緯で清水に行ったのか、その経緯は知りたいが、おそらく永久に
わからないだろう。
- 1047 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/10(木) 23:50:33.62 ID:JMvSK+jvh
- 『東海遊侠伝』だと、天竜川の戦いの後に、黒駒勝蔵が袋井宿の芸妓を略奪して
去った、とされるが勝蔵自身がそれをしたかはともかく、
以降女づれで旅をしていたことは、どうも事実のようだ。
- 1048 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/13(日) 01:01:08.75 ID:XXNgsaPkO
- 「彼の追懐は重畳としておしよせる波のように、幾重にも重なって崩れ去っていったが、
その波の白い穂に映し出されるのは、きまって菜の花の海を駆けぬけて、寺々へ
欠入ろうとする百姓たちの群れだった。
しかしいつの年、守山の里に彼の追懐の息づかいがこときれたのだろうか
いま長興寺に伝わる『過去帳』にも、
忌日の四月四日だけしかしるされていない」
名作『目明し金十郎の生涯』の最期を飾る名文であるが、ここまで本書を読み進めて
くると、この最期の部分は、思わず目頭が熱くなる。
もっと言えば、涙なしには読めない部分だ。
80’s〜90’Sまでの研究者には、文学者並に文章が巧みな人が、まだいたのだろう。
- 1049 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/14(月) 22:16:44.04 ID:br66rF4Qy
- 侠客と香具師(興行師)、目明しに通り者。これらの実体に関して極めて詳細に言及した論文に
小林文雄氏の「通り者の世界と地域社会」(『新しい近世史D、新人物往来社、1996)がある。
なんで今までこれを知らなかったのだ、と思うくらい物凄い論文だ。氏はこれ以降、むしろ
侠客や目明しより、農村部の諸興行(浄瑠璃、芝居、相撲など)の方にウェイトを置いて活動されている
ようだが、少なくとも「目明し」に関してはこの論文以上の考察は今のところ無いように
思える。目明しとは通り者の内の権力によって承認された者なのである。目明しという者の存在意義の第一は
芸民の農村部への流入の「入口」となることであり、そこ以外の農民との接点を回避するための
存在との考察はまさに目から鱗というものだ。
無論侠客に関しても含蓄の深い、一読に価する名論文である。
- 1050 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/14(月) 22:43:13.56 ID:br66rF4Qy
- 「民俗学」は柳田國男によって開かれ、その初期には柳田の影響を受けた若者が
山村に入り、聞き書きを行った。しかし、惜しむべきは柳田の手法の通りに行った
ため、@村の祭礼、A近所付き合いの方法、B婚礼や葬送の仕方、C昔話などに
ウエイトが置かれ過ぎた。
当時であれば、まだ当代か一つ上の代の「世間話」であった博徒・侠客の逸話は
これらの学徒にとっては採集の対象とはならなかったのだ。
- 1051 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/23(水) 23:29:49.69 ID:RxSKNeEQS
- 多摩一ノ宮の万平が、洪水(安政6年)に際して、鮮やかな手筈で防災を行った
ということが、パルテノン多摩、最新の刊行物『災害と多摩』(展示も開催されている)で記されている。
こんな重箱の隅をつつくような記録を見つけてくるとは…
学芸員や研究者の誠意と執念が伝わってくるようだ。
なんにしてもすごい。
- 1052 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/18(金) 17:41:51.29 ID:qjr9q9vs0.net
- 次郎長生家、子孫から静岡市に寄贈 20日、贈呈式
(2018/5/18 08:00)
http://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/491380.html
> 幕末・明治の侠客(きょうかく)で清水港発展の礎を築いた>清水次郎長の生家(静岡市清水区)が、
> 次郎長の子孫から静岡市に寄贈されることになり、20日に贈呈式が行われる。
> 生家は3月に国登録有形文化財に指定されたばかり。
> 市の担当者は「市が目指す海洋文化の都市づくりに生かせるよう活用を進めたい」と話している。
> 生家は次郎長の子孫が受け継いできたが、高齢になったことなどから管理が難しくなった。
> 管理に協力するNPO法人地域づくりサポートネットによると、
> 寄贈を決めた所有者の女性は、市に生家を託すことで
> 清水の貴重な歴史財産を次世代に残したいと願っているという。
> 市は今後、NPO法人と連携して活用を進める。
> 具体的な取り組みとしては、多言語化による外国人観光客の誘致
> ▽子どもたちが港の歴史を学べる教育の場づくり―などを検討している。
- 1053 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/21(月) 05:27:20.23 ID:ONYRGj0h0.net
- 次郎長生家を市に寄付 静岡所有者「地域のお役に」
中日新聞 2018年5月21日
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20180521/CK2018052102000041.html
> 三月に国の登録有形文化財に登録された、幕末、明治の侠客
> 清水次郎長(一八二〇〜九三)の生家(静岡市清水区美濃輪町)を、
> 所有者が静岡市に寄付し、六月から市の施設になる。
> 今後は市が主体となって観光客の呼び込みや、まちづくりに生かす。
> 二十日、静岡市清水区島崎町の清水テルサで寄付の贈呈式があった。
> 次郎長生家の現在の所有者服部千恵子さん(74)や静岡市、市財界の関係者らが出席。
> 服部さんが目録などを田辺信宏静岡市長に手渡した。
> 服部さんは「協力してくれたみなさんのおかげで文化財になった。
> 地域のために役立ててもらえるとうれしい」と話した。
- 1054 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/24(木) 17:50:51.41 ID:POxaKVerA
- >>963
「博徒と自由民権」
1977年に中公新書から出版され、その後1995年に平凡社から出版されています。
別の機会に「侠客 原田常吉」を「東海遊侠伝」と対比したい、という記述がありますが、
きっとそれが水谷藤博氏に託して「東海近代史研究」に発表された論文なのだと思います。
>>1005
小松村七五郎
石松の知人であったというだけで、どれだけ清水一家とかかわりがあったかは不明ですね。
戸羽山 翰の「清水次郎長正伝」には、亡くなった時に「香奠もとどかなかったという。」との記述があります。
さすがにこれは想像を膨らませすぎだとは思いますが、「奥郡遊侠伝」という本では、
都田一家とともに石松をだまし討ちにした、ということにまでされています。
>>1038
「次郎長」も父親の名前が「治郎八」(あるいは「治郎右衛門」)だから
「治郎長」た正しい、と言われていますね。
榎本武揚が墓石に誤って揮毫したのが間違いの始まり、とどこかに書いてありましたが、
それ以前に天田愚庵が「東海遊侠伝 一名次郎長物語」で「次郎長」と書いています。
当て字も頻繁に使われていた時代ですし、身近にいた学のある養子が書いているので
「次郎長」でいいと思っています。
>>1047
同じく「清水次郎長正伝」には勝蔵とかかわりのあった女性として、
浜松の「お時」、雲風の亀吉の家で知り合った「お繁」、古市の「お君」、
安東文吉の家で知り合った「お京」という名前を挙げています。
小説的要素もある本なので、どれほどの信憑性があるかはわかりませんが。
>>1052 1053
20何年か前、「奥郡遊侠伝」は市販はされていないようで、愛知県立図書館で閲覧可能です。
親常吉、嫌次郎長の立場で書かれた小説で、新たな事実を求めたり、
様々な考証をするにはやや不向きな本です。
- 1055 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 14:21:51.36 ID:Wop9QL++0.net
- 盗賊、侠客から妖術使いまで 江戸の悪人が集結する『江戸の悪』展が再び
展覧会『江戸の悪 PART II』が6月2日から東京・原宿の太田記念美術館で開催される。
会期中は都内の様々な会場で「悪」をテーマにした展覧会が開催。
歴史資料や創作物の中の「悪人」および「ヒーロー」の虚像と実像に迫る『悪人か、ヒーローか Villain or Hero』が
6月6日から東京・駒込の東洋文庫ミュージアムで開催されるほか、
東京・渋谷の國學院大學博物館では6月1日から『惡―まつろわぬ者たち―』、
東京・銀座のヴァニラ画廊では5月30日から『HN【悪・魔的】コレクション〜evil devil〜』、
東京・半蔵門の国立劇場伝統芸能情報館では6月2日から『悪を演る ―舞台における悪の創造―(仮)』が行なわれる。
https://spice.eplus.jp/articles/188002
- 1056 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 22:25:01.70 ID:ajR4hOVOE
- >>1054
丁寧な返信を誠に有難うございます。
「奥群遊侠伝」とは、また全く知りませんでした。貴重な書籍の情報を有難うございます。
再度東海地方へ行って探す必要がありそうです。
「治」の字に関しては、小金井小治郎についても皆木先生が同じ様な事を書いていらっしゃったことを
思い出しました。
なお吃安さんに関しては、当時の資料にまんま「吃安」と書かれているので、
これで良いのだと思うに至った次第です。
このスレッドにぽつぽつ書いてたおかげで、凄い人たちから、いろいろ情報をいただけて
知識が広がりました。また、最近の新しい催しものや書籍の情報を書き込んでくれる方もいて、
非常に勉強になります。ありがとうございます。
- 1057 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 22:32:28.71 ID:ajR4hOVOE
- こういうやり方はフェアじゃないかもしれないけれど、
濃州水野弥太郎に関して、詳しい人は何か書きこんで下さい。
当方知っていることは、岐阜市史(近代偏T)の270頁から数枚の加納宿熊田助右衛門の「御用留」
に記されていることぐらいです(国会図書館の提携図書館なら近デジから閲覧可能)。
有名な新撰組の藤堂某と親しい間柄だった、というから詳しい方もいるかもしれないと思うので、
宜しくお願いします。
- 1058 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/25(金) 22:42:20.99 ID:ajR4hOVOE
- 慶応年間に勝蔵と行動をともにした親分として、平井の雲風、宮島の重吉(年蔵)、
安居山の佐左衛門と並んで、「遠州の米吉」いう人がいる。
多分袋井宿あたりの侠客だろうが、情報が全くない。
ただ、この人終始三人の女連れ(妾or妻と言う)で旅をしたという。同地には山梨巳之助、堀越藤左衛門、大和田友蔵、四角山周吉らが
絡んでくるが、米吉に関してはとんとわからない。
- 1059 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/26(土) 22:24:09.19 ID:AxPICJaD5
- 嘉永二年、九月六日石原村の幸次郎以下の博徒は、甲州鰍沢で土地の博徒「周徳」
を殺した。この情報は各地の「御用留」に記録されており、結構有名な事件である。
しかし、崩し字のこの「周徳」、「目徳」とも読める。という訳で現行では二派に分かれる。
目徳だった場合は、何か綽名を縮めたものだろう。たとえば「目玉の徳太郎」とか。
周徳の場合は「号」とも考えられる。僧侶か、あるいは医師か。(事実「医師」とされる資料もある。)
いずれにせよ、同じ甲州青柳村の市松・寅之助に遺恨を持たれたのが、殺害理由らしい。また「津向文吉」の
一番子分だったとも、言われる。
墓があればいいのだが、調べた郷土史家もいないだろうし、あのように過疎化が進んだところで
草に埋もれた廃寺の墓地・墓石を一基づつ調べるのは相当な根気がいる作業だろう。
- 1060 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/29(火) 22:05:39.19 ID:1nRnKgnYM
- 京屋の庄八
- 1061 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/29(火) 22:24:27.78 ID:1nRnKgnYM
- 幕末期の甲府(またか…)の遊郭は何と言っても柳町にあり、
そこには松阪屋、三井楼、三星屋、京屋などの女郎屋があった。(表向きは奉公人の娘であるが)
三井楼は言うまでも無く三井宇吉の本宅で、「両国屋」ともいい、宇吉倅の豊助(豊之助)が営業していた。豊助は宇吉と同じく十手は預かっていたが、博奕打ち親分ではなかったようだ。
「京屋」の主・伝六は宇吉の一派に属し、有能な岡引親分でもあった。宇吉が殺された際には処方に連絡をとって情報を集めている。また、慶応3年に、大場久八が甲州谷村で捕まり、甲府牢に移されると、その放免のための運動にも力を尽くした。
伝六と血縁にあるかは定かでないが、彼の跡を継いだのが庄八郎。(姓は林)京屋庄八郎を縮めて「京庄楼」という遊郭を営んだ。
彼の代に、柳町遊郭は→新柳町→増山町と火災に会うごとに拠点を移していった。
「安東文吉伝史料」によれば京屋の庄八は、安東家一家系列の親分となっている。
おそらく伝六の代に三井一家から、安東家一家に移ったのだろう。
- 1062 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/05/30(水) 21:32:32.15 ID:Ec03tC0IQ
- 小金井小次郎に関して
天保11年、3月25日の二ツ塚の喧嘩において、小川の幸八、堀端の与三兵衛、上鈴木平親王平五郎、八軒新田栄次、上連雀の嘉助らと
小次郎、万吉、一ノ宮万平子分の政次が戦った喧嘩に、小川用心棒の「伊勢原郷右衛門」という用心棒が加わったと『慶応水滸伝』には記されている。
この伊勢原郷右衛門、「今鬼月丹」の異名を取る剣客だが、小次郎との一騎打ちで肩腕を斬り落とされる。
もちろんこれはフィクションであるが、この伊勢原のモデルとなったのは、おそらく天然理心流の、恐れ多くも、達人「井滝伊勢五郎先生」。
とかく試合の際に「胴(腹)」を打つのが得意だったため「伊勢腹」と綽名された。
井滝先生、かつて門弟の広言から江戸の神道無念流の高名な剣客と立会うはめになり、試合の際に「胴が打てるな」と思ったが、後のごたごたを慮って、
剣を引いたという逸話を持つ達人である。(結果、両者引き分けとなった。)悪い事にこの一件もまた五日市街道沿いの野で行われたため、当時の里人の記憶に残っていたのだろう。これを柳亭種彦が、話のタネに盛り込み、小次郎の仇の浪人のモデルとした。
正味な話、もし実際に「伊勢腹」先生が小次郎と立ちあったら、小次郎に命は無かっただろう。
「伊勢腹」先生が亡くなった日時は「指田日記」に記録されている。近村に稀な程の剣術の達者だったことは間違いない。
- 1063 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/05(火) 21:18:52.03 ID:Wb9XtxYvE
- 夜に酔っぱらって良い気になって書くから、誤字や意味不明な箇所が多い。
1049は、
「目明しとは『通り者』と呼ばれる者達の中で、特に『権力によって承認された者』のことを言う。彼らの存在意義は芸民の農村部への流入の『入口』となることである。
言い換えれば、芸民と農民と直接交渉を回避するために目明しは存在しているのである。
この考察は、まさに目から鱗というものだ。」
としたかったのだ。
- 1064 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/06(水) 17:43:04.47 ID:3LXaxzTj0.net
- 博徒の幕末維新
高橋敏著 ちくま学芸文庫
文庫判 256頁
発売予定日 2018/06/07
ISBN 9784480098740
JANコード 9784480098740
本体価格 1,000 円+税
2004年に出版され、その後長く品切れとなっていた
ちくま新書版を文庫化。
- 1065 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/07(木) 23:11:18.37 ID:8NgOk3P8r
- 昔から疑問なのだが、
百姓は公文書に苗字を入れることができない。にもかかわらず墓石は勿論、石造物(庚申塔・馬頭観音・題目塔)では苗字の表記が許されている。
以前、この理由を近隣の郷土研究者に聞いたら、「地下の世界」であるから、現世のルールに従わなくて良いのだ、とのことだが本当だろうか。
任侠の徒も親分・兄弟分の墓石に自分の名を入れる時は苗字を入れる。
静岡県富士市、旧岩渕から富士川を越えて市内に入る大橋の渡りきった先に、「水神社」があり、この境内にある灯籠には川を行く船人の名がズラりと刻まれている。
しかしこれは名ばかり(吾兵衛、吉五居など)で名字なし。
いかにも暴れ川と共に生きた男たちと云う感じで、とてもインパクトが強い石造物である。
- 1066 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/08(金) 23:01:35.44 ID:GbEE2NlYq
- 去年の話で恐縮だが、
福島県の「守山藩御用留」(およそ160年分)が重要文化財指定されたそうだ。
そして、どの媒体でもあまり言及されていないが(私が知らんだけかもしれんが)、
これこそ阿部善雄氏が『目明し金十郎の生涯』の全ての元にした史料。
『金十郎』の「あとがき」には
土埃にまみれながら、昭和三十年代にこの史料(143冊)を笑顔で大事に抱える著者の姿が自身の筆で活写されている。
多くの研究者が見向きもしない中で、彼だけがその価値を十分に認識していたのだ。
- 1067 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/11(月) 05:13:01.86 ID:gBSe9alV0.net
- 「戊辰物語」(岩波文庫)と題する本を手にした…
=2018/05/28付 西日本新聞朝刊=
▼維新の年の旧暦5月、上野戦争が起きる。
旧幕府方は上野の山に陣を構えたものの、わずか1日で撃破された。
辺りは戦死者で覆われたが新政府は反逆者として埋葬を禁じたという
▼「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」。
処罰も恐れずに地元の侠客が寺に手厚く葬った、と本書は伝える。
新しい国づくりを夢見た者たちだけではない。
徳川家への忠義に殉じた人たちの戊辰の物語もある。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syunzyu/article/419957/
- 1068 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/12(火) 12:43:29.21 ID:2DxxaYMiQ
- 1054です。
著者に失礼だと思い控えめな書き方をしましたが、「奥郡遊侠伝」は史料的な価値はあまりないとお考えいただいた方がいいかと思います。
なので、名古屋から遠い地域にお住まいであれば、この本のためにわざわざ遠征するのは労力や費用がもったいないと思われます。
紹介しておいて、申し訳ありません。
小松村の七五郎の香奠に関しては、「次郎長から」とのいうのが抜けていました。
七五郎、久六やその子分、都田一家などははっきりした足跡があるのに、肝心の石松だけが謎が多いままですね。
最期の段落、中途半端なところで送信してしまっていました。失礼しました。
20数年前に初めて次郎長生家へ行った時、当時の当主の方が、清水には医者がいないから次郎長さんが医者を清水に招いた、という話をしてくださいました。
「東海遊侠伝」にも登場する親交があった医師がいたはずなのに、その方はどうなったのだろう?とちょっと不思議です。
>>1064の
「博徒の幕末維新」だったと思いますが、貴重な吃安さんの手紙や生家の記録等が載っていたと思います。
子母澤 寛氏や今川 徳三氏がずっと以前に甲州の博徒を調べていましたが、なぜ当時はそれらの史料を見せてもらうことができなかったのか、それも不思議です。勝蔵が、堅気のはずの吃安の兄を「博徒の巨魁 甚兵衛」とした謎もあっさり解かれています。
岐阜の水野弥太郎については、ご存じだと思いますが
「博徒の幕末維新」高橋 敏
「黒駒勝蔵」加川 英一
「黒駒勝蔵の『赤報隊』参加について―水野弥太郎冤罪・獄死事件―(東海近代史研究 第4巻)長谷川 昇
が出版されているものでは詳しく書かれたものだと思います。
長谷川教授の論文の引用、参考文献をたどれば多少何かが出てくるかもしれません。
- 1069 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/17(日) 00:19:34.03 ID:E5y1oHm8X
- 「東海近代史研究 第4巻」も熊田助右衛門の日記の引用が主ですが、それ以外だと、
元新選組隊士の永倉新八の聞き書きをもとにした箇所がある「新選組始末記」(子母澤 寛)、
文献の記載はありませんが新選組の高台寺党の一員で赤報隊にも参加した阿部十郎(隆明)が後年史談会で語った話、
「山の民」(江場 修)、
綾小路卿と楽総三を結び付ける役割を果たした吉仲直吉という人物が史談会で語った回想談「吉仲直吉実歴談」、
「復古記」があります。
「新選組始末記」、阿部十郎の話、「山の民」という本にはちょっと名前が挙がっている程度です。
「吉仲直吉実歴談」という本があるのかは不明ですが、弥太郎へ援助の要請に行き、人数と金を出してもらったという回想録が載っています。
「復古記」は引用されている箇所は主に弥太郎の処刑について、のようです。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能なようです。
照らし合わせてはいませんが、「黒駒勝蔵」(加川英一)は「東海近代史研究 第4巻」を参考文献に挙げているので、同様の内容が載っているかもしれません。
ご参考までに。
- 1070 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/17(日) 22:51:26.90 ID:lwREGAWGn
- >>1069
まったくご丁寧な返信を給わり恐縮します。また博識さには、いつもながら舌を巻くばかりです。
安部十郎の話や『山の民』というのは全く初耳でした。機会を得て探してみようと思います。
また「復古記」は読みでがある本のようですが、膨大で細かく、ちょっと気合をいれないと手がつけられそうにありませんね(笑)。
岐阜の弥太郎さんの資料としては、私は最近ようやく信濃屋喜兵衛の「覚え書」を見る機会があり興味をそそられました。
東海地方という所は筆まめな名主さん(庄屋さん?)が多くいたようで、「覚え書」と同じような興味深い古文書がまだ旧家に現存しているかもしれないという期待を抱かせる場所ですね。
- 1071 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/17(日) 23:07:27.90 ID:lwREGAWGn
- ちなみに
吃安さんの宗旨人別帳を含む中村家の古文書に関しては、実は竹内勇太郎氏がすでに昭和期に誌面で公表しています。
書籍の名前は今ちょっと思い出せず、「吃安の手紙」まで紹介されていたかは記憶にありませんが、安五郎=安蔵はその時言及されていました。
書籍が見つかったらまた報告します。
中村家の文書が子母澤寛氏の研究の際に出なかった理由は、
その時代には竹居の一家を継いだ久義氏が未だ健在でいたため、そちらの家を真っ先に訪問し、
結果「甚兵衛家」の古文書には当ることがなかった、というのが理由ではないかと(やや苦しいですが…)思います。
吃安さんの手紙は二通あり(千葉の歴民博のアウトロー展のパンフに写真が載ってます)、一通はウィキペディアにすら翻刻文がありますが、
あまり世間に出ていないもう一通の方は、「下条丈右衛門」と云う人に入牢中随分世話になった旨が記されています。
丈右衛門は長坂村(現・北杜市)の群中惣代を務めた人物なので、
この手紙は天保13年か14年、甲・信の間に収監されていた吃安さんが、其の地で書いたものと推測したいところです。
- 1072 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/22(金) 18:04:24.12 ID:wmeTQdj00.net
- https://mainichi.jp/articles/20180622/ddl/k12/040/097000c
浮世絵展 房総ゆかりのヒーロー描く 東金で30日まで /千葉
> 江戸時代の房総ゆかりの人物や事件を題材にした浮世絵など36点を展示した
> 「浮世絵でつづる房総人物伝アウトローたち」が
> 東金市求名の城西国際大水田美術館で開かれている。
> 30日まで。
> 浮世絵「天保水滸伝」は、幕末に利根川下流域を根城にした博徒らによる抗争を
> 中国の小説「水滸伝」にたとえて脚色した物語を、三代歌川豊国らが描いた。
> 歌舞伎の人気役者が演じる入れ墨を背負った博徒の親分や、
> 大立ち回りの場面などが色鮮やかに迫力ある版画で表現されている。
> 後に歌舞伎の演目や読み物にもなり、庶民の間で広く親しまれた。
> 山口真理子学芸員は「数千人の岡っ引きに囲まれて戦い、自決する博徒が、
> お上に抵抗するヒーローとして当時の人気を集めたようです」という。
- 1073 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/25(月) 22:24:46.51 ID:UhbOfy+iK
- 八王子横山宿の伊野亀吉事、通称蕎麦亀親分は天保7年の生まれ。
その侠客ぶりは、三田村鳶魚、増田知哉氏らにも、その道の規範として絶賛されている。
杉本万平(一ノ宮)から井上勘五郎(大塚村)を通して、一ノ宮一家の跡目を継いだ。しかし、その出生は判然としていない。
本当のところ、彼は八王子横山宿の出生ではなく、一ノ宮隣村の「寺方村」の生まれである。
実兄に栄三郎がおり、実家はその嫁と他に実姉一人、姪二人、甥一人の大所帯。
文久三年に突然欠落し、以降諸国を回って遊侠生活をしていたが、九年後の明治4年、ひょこっと故郷に帰り、
そのまま「八王子横山宿十四日場」に転出している。
彼の談によれば「どうしても伊勢の大神宮が見たかった」ことが欠落の理由と云う。
さらに「旅の途中大病に罹ったため、薬代を稼ぐため日雇い渡世をして稼いだ」そうだ。
これらが事実かはわからぬが、伊勢の丹波屋伝兵衛を後に世話した事実とは無理なく繋がる。
また帰住の歎願書に、この手の文書につきものの「農業を厭い、大酒を飲み遊び歩く」
という文言が付いていないのが印象深い。彼はおそらく百姓としても真面目な性分だったのだろう。
あるいは家族が多い故、実家の口を減らすため、遊侠生活をし選んだのかもしれず、
結局のところ、いろいろ調べてもやはり、亀吉に関しては「凄い人だ」との結論に至ってしまう。
- 1074 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 22:59:31.89 ID:ke5ieKxrl
- ずいぶん前に(467あたり)武州に黒駒勝蔵の縄張りは無い、と書きこんだが
甲州街道の吉野宿(現・相模原市)には「惣太郎」という勝蔵直参の子分がいて、地域の親分格になっていたようだ。
このスレッドを書くようになってから新しく知ったことが多くあり、今読むと過去の書き込みには明らかな誤りも多くてとても恥かしい。
その時は、それが唯一の真実と思いこんでいたのだ。この辺に自分の器量の狭さがうかがえる。
- 1075 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/06/29(金) 23:13:48.39 ID:ke5ieKxrl
- 長谷川伸先生の「八丈つむじ風」は黒須の大五郎を主人公にした小説であるが、七割方嘘である。
しかし、小説としては優れており、特に物語冒頭に大五郎が、後に自分の親分となる「今五郎」と喧嘩するシーンは考えさせられるものがある。
喧嘩自体は圧倒的に大五郎の勝ちであるが、老年の博徒親分・今五郎(所沢の商人に扮している)は、強力の大五郎に投げ飛ばされ、更に椅子を振りかざす大五郎に向かって、
不敵な笑みを浮かべ、「こいつは俺の歩が悪い、負けておこう」と言う。これを見て、むしろ勝利者の大五郎の方が恐怖にぶるぶると震える。
要するに「侠客の強さ」というやつは腕っぷしや武芸に依るものでないことを如実に示しているのだろう。
「負けっぷりの良さ」も侠客の一つの美徳なのである。
- 1076 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/09(月) 21:58:49.71 ID:WYul60dLw
- 松本捨助という人は近藤勇や土方歳蔵らと同流の友人で、腕の立つ剣客
実際に勝沼での戦いには新撰組隊士として戦ったと言う。
他方、小金井小次郎と兄弟分の付き合いをする程の侠客であり、小次郎留守中には
一方の有力親分として地域に君臨した。この辺のことは(『黒須大五郎』にちょっと記述がある)
小次郎の墓碑の前に、小さいが施主・松本捨助の墓が一基建っている。あまり言及されないが、
この意味は考えてみるべきだろう。しかし、残念なことには風化がはげしく、
一体誰を弔ったものなのかが判然としない。
- 1077 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/09(月) 23:15:44.14 ID:WYul60dLw
- 小次郎と兄弟分というのは、件の新聞記事による
しかし、小次郎が遠島に処された安政2年、捨助はまだ10歳そこそこなので、
ちょっと疑わしい記述である。
もっとも本土帰国後に、あらためて兄弟分に、ということは考えられる。
まあ、でもやっぱり子分衆の一人だったというのが一番しっくりくる答えだろうよ
- 1078 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/10(火) 22:02:50.04 ID:T6R0npUzh
- 1043で言った稀有な図書館とは岡○市立図書館の事だ。
なんだか事件があったとかでケチをつけられているようだが、
人材の優秀さとしては、一度しか訪れたことのない私にとっては、
ものすごく良い印象しか残っていない。
他に、静岡の清○中央図書館、浜松の舞○図書館も、親切で能力の高い司書さんがいる。
- 1079 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/10(火) 22:27:14.97 ID:T6R0npUzh
- 1074
ダブルミスを犯した相州吉野宿の親分は
「惣太郎」ではなく「輔次郎」だ。
彼が小仏一家とどういう風に繋がってゆくのかは今の処不明。
- 1080 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/10(火) 22:28:29.15 ID:T6R0npUzh
- 1074
ダブルミスを犯した。
相州吉野宿の親分は「惣太郎」ではなく「輔次郎」だ。
彼が小仏一家とどういう風に繋がってゆくのかは今の処不明。
- 1081 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/11(水) 22:37:58.62 ID:7WFTrdgZI
- 「舞阪の富五郎」事、原田富五郎は元々は三河の「ヲトオ村」の人だと言う(墓碑による)。
稗史ではいわゆる清水次郎長の28人衆というのに数えられているが、本来は独立の親分だろう。
ただし次郎長と好誼があったことは確かだ。(兄弟分だとも言う。)『東海遊侠伝』にも、かの菊川の手打ちで、親・次郎長派として名が出てくる。
出生は文政5年というから次郎長ともそう年が離れていない。
舞阪は宿を抜けると、キラキラとした海が見える。富五郎は船頭たちの差配や、もめ事の調停に尽力した侠客だったと言う。体格の良い、見るからに怪力を発揮するような人で、それでいて平静は穏やかだった。
今日、舞阪の和菓子屋「きくや」さんで「富五郎饅頭」が売られている。きくやさんは富五郎親分の子孫に当り、現在でも穏やかな御店主が店を切り盛りしている。
舞阪町教育委員会出版の『西町祭礼入用帳』には明治13年の「町内人名」として富五郎親分の名前も記載されている。
富五郎は地元で頼りにされ、また自身、地元に尽くした天晴な侠客であると言えよう。
- 1082 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/13(金) 02:14:53.64 ID:1U7MWZBG0.net
- 「博徒の幕末維新」高橋敏著
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/233145
> 博徒や侠客の足跡からたどる異色幕末維新史。
> 嘉永6(1853)年6月8日深夜、甲州竹居村の安五郎ら流人7人が流刑地・新島から島抜け。
> これまで多くの流人が島抜けを試みたが、ほとんどは捕らえられ、
> 再び世間にその名をとどろかせたのは安五郎ただ一人だという。
> 彼の島抜けが成功したのには訳があった。新島を所轄する韮山代官が、
> 数日前に下田沖に突如現れた黒船への対応に追われていたためだ。
> 博徒の安五郎を故郷のヒーローに押し上げた当時の甲州の時代背景を解説。
> さらに安五郎の遺志を継いだ黒駒勝蔵や下総天保水滸伝の張本人・勢力富五郎、武州石原村無宿幸次郎など、
> アウトローたちの人生を文献史学の手法で明らかにしながら歴史に位置づける。
> (筑摩書房 1000円+税)
- 1083 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/13(金) 03:33:10.50 ID:pegqJS3X0.net
- いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
UP4
- 1084 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/16(月) 23:07:03.37 ID:vqKQRwP0A
- 上州、甲州、越後という博奕打ちの多い土地柄に接していながら、「信州博徒」の話はあまり聞かない。地元の郷土史家もあまり乗り気ではないようだ。
唯一例外は相ノ川又五郎だが、彼は本来上州の産。
文化年間の頃であるが、十手持ちで、土地の人から侠客と呼ばれた、「伊奈の加藤源十郎」という人がいた。
この源十郎が甲府勤番士が妾に産ませた庄之助という身寄りの無い若者を引きとり、跡目にして座を譲った。
果たして二代目源十郎を名乗った庄之助は、近隣に隠れ無き侠客と呼ばれることになる。
一の子分が熊蔵佐太郎
二の子分が水代村の千代吉
三の子分が神田村の高根豊吉
四の子分が伊奈郡三日町の政太郎
五の子分が熊蔵寅蔵
六の子分が尾州三戸野友吉
七の子分が伊奈郡小川村秀太郎
八の子子分が松本白板村の茂十
一〜八の子分も、それぞれ手勢20〜30を持つ親分だったとのこと。
というわけで加藤源十郎、
文化年間辺りに信州は勿論、上州、甲州、相州、越後、濃州まで名を知られた侠客だったと伝わっている。
- 1085 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/21(土) 00:10:15.07 ID:tWzaKhiW3
- 次郎長の28人衆の中に「由比の松五郎」という人がいる。正直なところ逸話は特にない。
しかしながら、実在の人物で、姓は「鈴木」と言う。(これは地元のお寺で聞いた話)
現在の住職が若い時というから、「松五郎」のことではないだろうが、
由比は博奕が盛んで逮捕された者の「引きとり人」にしばしばなったとの話を聞いた。
次郎長が少年の頃預けられた家だったか、山岡鉄舟が匿われた「ボウガクテイ」のことだったか記憶が定かでないが…
ある家の作りは土蔵の土台の辺に、いつでも賭場になるような空間があったという。
由比は漁師町であり、上記の「松五郎」の他に黒駒に好を通じた「平野屋」がいた。
また、江尻の大熊と思しき人がここでは「由比の大熊」と呼ばれ、それはそれは貫禄のある大親分として扱われていたようだ。
- 1086 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/25(水) 23:00:24.67 ID:88eKYqu1n
- 「隣村」と「近村」は一字違いだが、論文や書き物にする際には
絶対後者を使った方がいい。でないと後悔するかもしれない。
立川(柴崎村)と三鷹(連雀村)を近村とはギリギリ言えても、
隣村とは言えない。
同じ様にあまり地理的に馴染みのない場所に対して、「隣村」を使うと
後で、もう、たまらなく後悔する。
- 1087 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/25(水) 23:29:37.41 ID:88eKYqu1n
- 次郎長28人衆に含まれる「相撲の常(五明の常八)」さん。
「法印大五郎」と並んでコミカルなキャラクターとして扱われることが多いが、
実際の彼は、なかなかどうしてシビアな人生を送っている。
常八、もともとは「都島勝五郎」という四股名の相撲取りだったという。
しかしその後、「瀬戸の吉五郎」という親分の子分となり、「伊勢の常八」(“ツネハチ”ではなく“トッパ”と呼ぶ)と呼ばれるに至る。
かの近藤実左衛門と兄弟分であり、この時分には後に親分となる信濃屋喜兵衛の賭場を実左衛門ともども荒らしまわった。
万延元年正月六日、大前田栄五郎が瀬戸、信濃屋間に割って入り、吉五郎と信濃屋喜兵衛を和解せしめた。
この時に実左衛門が信濃屋の身内となり、兄弟分の常八と向こうを張る形となる。そのため、常八は駿河長五郎(次郎長)の身内となった。
- 1088 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/25(水) 23:34:32.45 ID:88eKYqu1n
- 次郎長身内となってからは「相撲の常」さんと呼ばれて活躍し、また周囲にも愛された。
しかし黒駒勝蔵が次郎長と諍いを起こし、(理由は文久三年6月5日の平井の襲撃による。勝蔵は「大岩」を殺された。)
その矛先がどういうわけか目立ちやすい常八に向かった。
この時分、命を捨てて切りかかって来る勝蔵一党に正直なところ、次郎長らはおされ気味で、
仕方なく常八は、今一度信濃屋を頼り、喜兵衛の倅久三郎の子分という形でおさまる。
この時、侠客「五明の常八」と改名したそうだ。
- 1089 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/29(日) 23:31:49.40 ID:k3E4WAT8N
- 岡田の瀧蔵は文化5年の生まれ。信州更級郡岡田村に出生した。
父親は無宿の通り者で名を忠太と言い、瀧蔵の幼年時に彼と妹を残し行方知れずとなる。
瀧蔵は同郡牛鹿村の親類の元へやられ、養子として過ごす(妹は別家にやられ、後に堅気の百姓の妻となった)。
しかし長ずるに及び、次第に博奕、口論、喧嘩を好むようになり、
文政13年(天保元年)の23歳の時に義父から勘当され、無宿博徒の道を歩むようになった。
その後、もともと才があったのか、自然と子分も出来、「親分」と呼ばれるようになる。
20歳も下の越後生まれの妻や、信州の金弥、関東生まれの吉五郎などが集まり、善光寺門前で一家を構えた。
しかし天保13年にはお上に捕まり、許された後は旅の無宿となる。
嘉永二年再び捕縛されたが、折から武州熊谷、石原村幸次郎事件が起きた際に、中野陣屋から雇われ、十手を与えられ岡引親分となった。
時に42歳の厄年。
以降松代藩から重用され、二足わらじの親分として信州を代表する御用聞きとして知られるようになった。
- 1090 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/29(日) 23:59:20.45 ID:k3E4WAT8N
- 瀧蔵の人生は、典型的な「目明し」の生き方である。
徳川吉宗が厭い、三田村鳶魚が著した目明しの好例。
面白いのは目明しという立場にありながらも、他領では怪しい無宿者として
捕縛されたりしていることである。
中野陣屋手代の秋葉貫一郎は、その度に無理やりな説明を付けて瀧蔵を救っている。
やはり有能な目明しだったのだろう。
文久2年52才の時には黒駒勝蔵を他国に追ていることも記録に残っている。
- 1091 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/30(月) 22:44:33.23 ID:wvnZiTqn/
- 郷土研究者の中には、とんでもなく優れた成果を残す人がしばしば居る。
それもほとんど人に知られることなく亡くなっていたりするのだが、
今日の見地からして初めて「奇跡のような研究をしていた」とわかる人というのが、確かにいるのだ。
千葉県なら河田陽氏。氏は新聞記者であり、郷土史家であり、教師であったという。
いずれ、氏の書かれた『木更津』は非常にすぐれた御本だ。
後の『君津町誌』(といっても昭和48年刊行…)も氏の研究を一部の著述の中心に据えている。
上総の三直(みのう)の玉吉は、氏が明らかにしたことで誤解が解け、名誉を挽回した侠客である。
- 1092 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/07/30(月) 22:49:11.88 ID:wvnZiTqn/
- 玉吉は明治・大正にもてはやされた小金井小次郎を上総で罠にかけて捕縛させた、と戯曲の中で語られた親分である。そのため非常に分が悪い。
しかし、実際の彼は地元で万屋という料理屋を開き、村々の治安を守りながら悠々と暮らしていた。
小次郎を陥れたというのは、全くの作り話だと言う。(以下原文)
「…家業は一切は子女に任せ、自分は常に各所の盆ゴザの監督や紛争の仲裁をしていたという。
六尺豊かな大男で挙措悠容としており迫らず、外出の時は藤の網笠を眼深にかむり、
腰には朋金づくりの業物をぶち込み、大道をのし歩く様は威風堂々たるものであった。
然しその頑丈な体格に似合わず物腰は穏やかで、堅気の者に対しては謙譲で、しかもよく人のためにはかった」
しかし、彼の縄張りを奪おうとする敵も多く、有ることない事を役所へ讒言したため、遂に捕われ八丈島へ遠島の刑に処されることになった。
運悪く玉吉はここで病魔に侵され、文久三年三月病死してしまう。『八丈実記』に記述があるから確かな事だろう。
なお上総国君津にあって玉吉が差配した火場所は、鹿野山の祭礼に立つ賭場であったという。
- 1093 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/08(水) 22:52:02.45 ID:HKuri1Qon
- 江川農兵と言えば、韮山代官江川太郎左衛門英竜が構想した、まさに徳川幕府の最期に大きな成果を上げた制度として知られている。
例えば慶応2年の武州一揆の際に、農兵が存在していなかったならば、被害は大きく広がっただろうし、
最近の研究では相州川崎でも有事の際に大きな力を期待されていたと言われている。
だが、農兵を最初に実戦に持ちいるか否かの打診が計られたのは、駿州吉原宿だった。
元治二年六月、次郎長が黒駒一党を匿う宮島年蔵の家宅へ斬り込んだ際に、その一同の物々しさを恐れた吉原宿の宿役人は、
農兵隊の出動を打診した。
結局、早い段階で次郎長一党が引きあげたため、農兵の出動にはいたらなかったが、その可能性は多いにあった。
もし、次郎長一家が、武装十分な吉原宿の農兵隊と抗戦していたら被害は甚大なものとなり、
明治以降の彼の運命も全く違うものとなっていただろう。
「安東文吉伝史料」に次郎長側が勝蔵側に敗れた戦(富士川の血煙り)があった、とするのはこの時のことである。
- 1094 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/08(水) 23:58:40.81 ID:HKuri1Qon
- 道祖神や馬頭観音がアスファルトの路上の上に建っているのなら、
それは疑いなくもと在った場所から動かされたのだ。
問題は、その時関わった作業員がどれだけ旧来の状態を大事にしているかだ。
新たに置いた場所が、以前の場所と寸分狂いの無いものもあれば、だいぶ
離されてしまったものもあるだろう。
更に、意外に大事なのは向いていた方角である。昔の人はかなり方角に敏感である。
そんな訳でこういうのは、本来なら動かす前に教育委員会の文化財課が立ち会うべきなんだと思う。
しかし、今日そんなに士気の高いお役人などいるわけないので、
口では「地域の歴史を大切に」などと言いながら、実際には専門加こそが、一番
それを大切にしていない、という現状が出来上がる。
- 1095 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/11(土) 21:05:51.33 ID:RYnQZeeoD
- 行栗(七久里)の初五郎
- 1096 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/30(木) 22:37:00.50 ID:fJKL4o05q
- 随分以前に駿州岩渕の源七と相撲取り鏡岩浪之助とが親交を持っていたとの話を書いたが、
これは実際には浪之助ではなく「鏡岩源之助」という人の事のようだ。
浪之助という力士はいない。かわりに鏡岩濱之助という小結までいった名力士がおり、
源之助はその倅である。
源之助は若い時分に遊女屋の店主を務め、そのころから素行が良くなく悪事に手を染めた。
一度は父親の後を追って相撲界に飛び込んだが、一勝もあげることができぬまま土俵を去る。
しかし、後年悟る所があって突如改心し、自らの姿を掘った木像を作らせ、旅人に茶を振る舞いながら、
「私の罪滅ぼしだ」といって、乞うて客人にその像を打ちすえさせた。
そのことをもって自身の悪行に報いようとしたのである。
彼は加納宿に一寺を建造して、この行を死ぬまで行ったとのこと。
この逸話は、やはり彼が一角の人物であったことを示していると言えるだろう。
- 1097 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/08/30(木) 22:55:14.44 ID:fJKL4o05q
- 鏡岩源之助は羽鳥郡の生まれと言う。羽鳥郡には笠松宿がある。
彼がここの生まれとの情報はないが、木曽川を挟んで対岸に「起(おこし)宿」がある。
小さな宿場であるが織物と舟運で栄え美濃路が通る一繁華街として近世栄えた。
次郎長の敵役である穂下田の久六事八尾ヶ嶽宗七はここに生まれた。
彼が近村の一ノ宮久左衛門と対立するようになったのは自然の理であると言える。
尾州・三州にあっては博徒が力士であったり、力士が博徒であったりすることが非常に多い。
- 1098 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/10(月) 23:43:16.32 ID:fSRd/1bNa
- 竹居の吃安を召捕るために、
甲州の代官所は、わざわざ他国の有力な岡引や目明しを召還したとの話が伝わっている。
この事は『安東文吉伝史料』にも、そうあるのでまんざら嘘でもないようだ。
もっとも、勝手な憶測の上で、武州の高萩万次郎が呼ばれ、「国分の三蔵」との変名を使って
甲州に潜伏したという様な誤説も生まれた。
実のところ、この召捕りのために甲州入りした目明しは、「信州岡田の瀧蔵」だった。
彼は、一年前に祐天に捕われた浪人犬上郡次郎と祐天とを和解させ、
一方で犬上が祐天を未だ敵視しているとの情報を流布し、吃安一党にそれを信じ込ませた。
その上で犬上を吃安の元に送りこんだのだ。
この卑劣で巧妙な策は功を奏し、ついに吃安は捕縛される。まさに悪党・岡田瀧蔵ならではの水際立った策謀である。
凄まじいのは、自分自身の存在を黒駒勝蔵にすら悟らせなかったらしいというその手腕である。
ただし、虎造の講談によれば、瀧蔵の倅は黒駒に殺されたとされている。
今のところ、文献での裏付けはないが、
この話がもし本当なら、瀧蔵は見事に一番痛い方法で報復されたということになるだろう。
- 1099 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/11(火) 22:16:13.69 ID:xi8oYcd3K
- 国分三蔵の本名は矢崎三造。
墓碑によれば明治2年4月21日に亡くなったとのことだ。
妻は七年後の明治7年に亡くなっている。
まだ黒駒の余党がいたためか、13回忌の明治15年にはじめて墓石が建てられた。
墓石に彫られた関係者の名には郡内山中村や信州塩尻の親分衆の名もある。
三蔵の勢力が窺える格好の墓標である。
- 1100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/11(火) 22:17:41.67 ID:xi8oYcd3K
- 「妻は七年後の明治7年に亡くなっている」
⇒「妻は七年後の明治9年に亡くなっている」に訂正。
- 1101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/13(木) 21:57:58.76 ID:5yRrE7GNy
- 甲府の両国屋宇七(三井卯吉)が「安政4年」正月殺害される。
宇七の死を受けて、子分らが、東海道を犯人探索のため徘徊した。
↓
このあおりを受けて、次郎長が妻(お蝶さん)を連れて国を売る。
(宇七殺害に江尻の大熊の子分がからんでいたため)
お蝶は「安政5年」旅先の名古屋で病のため没する。
↓
昔世話をしてやったのに、お蝶の死に際して何の手助けもしてくれず、
あげく唯一手を差し伸べてくれた名古屋幅下の長兵衛を殺したのが保下田の久六。
次郎長は妻と恩人の敵として「安政6年」6月、久六を殺す。
↓
久六を殺した刀を金毘羅に奉納しようと、次郎長が使いに選んだ子分が森の石松。
石松は金毘羅宮の帰りに、都田の吉兵衛、常吉、梅吉に殺される。
これが「万延元年(安政7年)」
↓
次郎長は、石松の敵として都田吉兵衛を正月に殺害する。「文久元年正月」
↓
兄弟分の都田吉兵衛の敵と言って、赤鬼金平が清水湊に乗り込んでくる。
次郎長たまらず安東文吉を通して丹波屋伝兵衛に菊川で和解式を開いてもらう
「文久元年10月」
こう見てくると、史実と『遊侠伝』の次郎長の動きとは無理なくつながっていることがわかる。
- 1102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/13(木) 23:30:10.10 ID:5yRrE7GNy
- 江川文庫の「刑部類例」によれば
赤鬼金平の本業は「石切渡世」(石工)だったらしいことがわかる。
その後「困窮」につき、いろいろやったらしいので、「髪結」だったのは
その頃のことだろう。
- 1103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/14(金) 23:24:05.37 ID:RvLAr/+UD
- 駿河・安東の文吉親分は、
彼について書かれた書籍もあるし、ウィキペディアに記事もあるので比較的有名である。
静岡市の少し南西部にある本覚寺には、台座に子分の名を刻んだ
立派な墓も有る。
一方、弟の安東屋辰之助(安東辰五郎)は、稗史の上では無名だが、
当時の史料の上では駿府の岡引頭として多くの足跡を残す人物である。彼は確かに
駿河を代表する十手持ちとして、事件の調査や、無法者の捕縛に自身赴き、
また役人との折衝に当ったりしている。
安部川手前の、名刹妙音寺には彼の立派な墓石が建っている。
兄・文吉と趣は違うが、実に堂々とした、真に岡引親分といった風格がある、
大貫禄の墓石である。辰之助、没年は慶応3年。
- 1104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/18(火) 22:43:41.78 ID:PkLIe2a6X
- 調べていく程に
和田島太左衛門と鬼神喜之助とは
繋がりがあるらしいことがわかる。おそらくは江尻の熊五郎と
両者も関係があるのだろう。
富士川と身延路はほぼ同一路であり、経済通路であると共に信仰の順路でもあるので、
古今問わず、博奕打にとっては重要な地である。
文献的裏付けはとれていないが、この地域は駿州和田島太左衛門と、義弟の津向文吉を
二大巨頭に、
江尻大熊、清水湊次郎長、青柳市松・寅兄弟、市川鬼神喜之助、井出久右衛門、八日市場広兵衛らが
横一列に並ぶ形を形成していたのではないだろうか。
和田島に強硬に挑んだのが、岩渕源七。
- 1105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/19(水) 21:40:42.80 ID:ZwydEEZde
- 伊豆国間宮村出生、
後に大場の親分と呼ばれる久八の若い頃の人となりと動向を知る格好の史料が
江川文庫にある「伊豆無宿友吉」の口述書。嘉永二年のものだ。
博奕打ちがどういう場所で知り合って、兄弟分になるか。
どういう行動に義憤を感じて命をかけるか。
また、一般百姓の旦那にどのように対応したかが、一々よくわかる。
加えると、久八をはじめとする渡世人たちの足の強さや、
山間の地理にいかに通じていたかも理解できる。
- 1106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/19(水) 21:50:34.06 ID:ZwydEEZde
- 松尾四郎は、吉田の人切り長兵衛が自ら見込んで久八を自分の跡を継ぐ者と決めた、
と書いている。
久八が長兵衛の一家を継ぐことを許され、また後年、自ら辞退して
それを近之助に譲った、とのあらましも松尾が記すところのものである。
文献的資料は欠いているが、「松尾四郎」がそう言うのだから、信憑性は高い。
実際、上であげた口述書に加え、慶応の勝沼戦争資料や八王子・伊野亀吉の手紙など、
久八が甲州郡内地方に出没・闊歩していたことは様々な史料に現れる。
その最期も郡内谷村だった。
久八はいわゆる甲州博徒ではないが、同国に縁を持つ不世出の奕道の巨魁である。
- 1107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/21(金) 23:59:13.83 ID:VrQWgCThq
- 大前田英五郎(「栄五郎」が正しいのではないか?)のwikipediaには
栄五郎が佐渡送りになった後、
「島破りをして郷里に戻ったと伝わる。しかしこの話は本当かはっきりしない」
と記されている。
しかしその時の手配書が残っていることからして、「本当かはっきりしない」ではなく、これは事実である。
伝説では、この時栄五郎は兄の「盲の親分」こと田島要吉に「佐渡務めが我慢できないようで、どうする!」と叱られたと言う。
ともあれ、数年間お尋ね者となっていた栄五郎は、尾州名古屋在萩原村に逃げ、
ここに「勝五郎」と変名をつかって、ほとぼりのさめるまで潜伏していた。
結果的に、上州のみならず尾州にも大きな拠点を築くことができ、このことが
後年の彼の成功に多大な影響をあたえた。
- 1108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/24(月) 20:42:01.71 ID:yEfnolYr2
- 駿州岩渕の青木屋鉄五郎は、掏摸の元締めであり、
東海道で旅人が失くしたいかなるものも
鉄五郎に頼めばかならず元の持ち主の元へ戻って来る、と言われた。
ある時、毒まんじゅうと解毒薬を売ることで財を成し、その財をもとに
京都で武器を買い〆、利益を上げようと目論んだ者(名は伝わらず)がおり、
幕府役人はその者の召捕りを試みたが、いつもうまく逃げられてしまった。
遂に江川代官から直々に鉄五郎に命が下り、その者の召捕りを命じられた所、数日で
お縄にして連れて来たという。
以降、青木屋鉄五郎は当代名の知られた十手持ちとして起用された。
これは東海道に安東文吉が出る数年前のことの様で、
ほぼ沼津の菊池屋和助と同時代の人のようである。
一説に疵の源七事岩渕ノ源七は最初、この青木屋鉄五郎に盃をもらったとの事である。
- 1109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/24(月) 21:10:57.71 ID:yEfnolYr2
- 桃川桂玉は『大前田英五郎』(大正10年)を作るにあたり、この話のよりどころを、
明治26年3月に前橋の松坂屋という旅宿で会った江戸屋虎五郎からの実話に置いている、と記している。
時に虎五郎は88歳とのこと。
という訳で、『大前田英五郎』と銘打っているが、三分の一程は江戸屋虎五郎伝と言っても過言ではなく、それもかなり内容は正確であると言える。
虎五郎が遠州都田の源八を斬った後、源八の倅である吉兵衛、常吉、梅吉の母(とき)は、
幼い子供たちのために、虎五郎と都田一家の和解を望み、由比の大熊を仲立ちに頼んで、この手打ちを実現させた。
『大前田英五郎』によれば、「三州秋葉神社の境内にて手打ちを致した…
…仲人は由比の大熊に、伊豆の大場の久八、秋葉鳳来寺の境内が人を以て埋めたが如く三千人も出たと申します」
としている。
- 1110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/24(月) 21:12:36.87 ID:yEfnolYr2
- 「大場久八」の名が出ること、「鳳来寺」が舞台であること、また「都田一条」とあること。
要するにこの話は
上の722(あるいは717?)で出した虎五郎の手紙の内容と奇妙に一致するのである。
- 1111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/09/26(水) 23:30:38.06 ID:QneET5d8d
- つくづく思うが争いの仲裁ができるというのは、本当にすごいことだと思う。
まずは両者が闘争に至るまでの経緯を踏まえて、その中に両陣営が「不精」をしている
場所を見つけ出し、更にはいい塩梅の「落とし所」を定める必要がある。
よほどの知性と、
それと人生経験が無くてはできないことだ。
この場合の人生経験とは、誰もがうらやむような上手い人生を送ってきた、なんてものではなくて、
人より多く恥をかき、たくさん頭を下げ、情けない目にあってきたことが真にモノを言う。
どんな人間の気持ちでも「汲む」という腹積もりは、そういう苦労の中を渡ってきて
初めて身に着くものなのだろう。
『駿河遊侠伝』は特に「上巻」がすばらしいが、伝馬町の朝吉のとっさんの言う
「辛抱はぶっ倒れるまで耐えているのが肝心だ」という台詞は、
平易だが、決して忘れられない言葉だ。
- 1112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/02(火) 22:49:53.44 ID:XNfzy5y5Q
- 最近見つけた資料に
信濃松代藩の下級役人が、藩内の博徒に関して探索していたところ、
偶然、甲州柳町一丁目の「両国屋卯七郎(三井卯吉)」子分の源次郎に出会い、
卯七郎の手紙から、武州小川村で、「小金井小次郎」子分の田無の増五郎(稲荷ノ増五郎)
と野中の音次が「田中村岩五郎」の息がかかっている「小川幸八」元子分らに
襲撃を掛けられ、その情報を善光寺にいる「岡田の瀧蔵」と「島田屋伊伝次」に送ったと伝えているものがある。
ビッグネームが多すぎて、正直、どこから手をつけていいのか困る。
こんなこともあるのだな。
- 1113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/02(火) 22:57:45.88 ID:XNfzy5y5Q
- 島田屋伊伝次は、高瀬仙右衛門事相ノ川政五郎に、代をゆずられた親分
十手をあずかり、信州目明しとして知られた。
相ノ川又五郎の直接の親分がこの人だ。
- 1114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/03(水) 23:03:41.13 ID:bKc76JFak
- 今日の管理社会の中では、しょせん博奕打ちは「ヤクザ」の源流とみなされる。
つまりは暴力団・反社会勢力の元。
学問、特に歴史・郷土史はどうやったって市町村「教育委員会」が拘わるわけだから、
今後博徒・侠客の研究が推進されるはずがない。
仮に住人の中に賛同者が居ても、お役人がリスクを追うようなことをするはずが
絶対にないのだ。アカデミズムだって同じ。
網野善彦は「博奕打ち」を中世以前の「職人」と捉え、評価を下し、「遊行の徒」として
社会変革に大きな役割を果たした、と極めて真っ当・有用な節を展開したが、
網野死後学徒は途絶えた(ように見える。)
中沢新一や赤坂憲雄が網野を継ぐとか言ってるが、
だったら行動で示してみろ。法螺を吹くな。
唯一、郷土にばらまかれた仁侠研究者だけが、それを継いでるのが現状だ。
- 1115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/04(木) 08:02:11.34 ID:DTUtyDG1P
- またやってしまった。
なんて馬鹿な事書いたのか。
中沢新一氏が『僕のおじさん』で十分に博奕打ちのことを
再度重要視しているのに。
氏の学問全体が叔父のそれを完全に引き継いでいる。
ゐまっさらだが、上に書いたことは完全に訂正したい。
- 1116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/06(土) 20:56:03.56 ID:ISc70TX3H
- 保下田の久六について。
『東海遊侠伝』で久六は「八尾ヶ嶽ノ宗七」であった時代に
「一ノ宮の久左衛門」と戦って敗れ、国を売ったとされる。これが嘉永3年。
この時、次郎長の口利きで館林の江戸屋虎五郎の元へ逃れさせてもらった。
宗七は江戸屋虎五郎の元で「久六」と名を改めた。
次いで安政二年、既に東海へ帰り、名古屋に起居していた久六は十一月に再び事を構える。
『遊侠伝』には久左衛門との再戦とは書かれていないが、次郎長はこの際再び、
久六を助けるべく援軍を出す。
その後、次郎長が困窮し、お蝶が亡くなり、久六の不義理や色々やがあって、
安政6年、次郎長が久六を殺害するに至る。
- 1117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/06(土) 21:01:46.75 ID:ISc70TX3H
- やはり久六の死は『遊侠伝』の記す通り安政6年なのだろう。
よく言われる栃木県足利市の寿徳寺の碑にある「久六 安政2年6月」は、
たしかに保下田久六のことあろうが、
おそらくそれは久六が虎五郎の元から東海地方・名古屋へ帰った年なのだろう。
以来、虎五郎と久六とは遂に会わず終いになったわけだから、最後に姿を見た
安政2年の6月1日を以て久六の「戦死日」としたと考えたい。
- 1118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/06(土) 21:16:56.06 ID:ISc70TX3H
- ちなみに戸田純蔵氏の書かれた『東浦雑記』によると
久六を斬ったのは次郎長ではなく、後代次郎長28人衆に含まれる「緒川の勝五郎」
であったとしている。場所は増田知哉氏も言う所の「乙川光照寺門前」で
事件の様子も関係者の子孫の方の話を基にしたと言うから
かなり信憑性もあるように思う。氏によればこれは「安政2年」のことと言う。
その後勝五郎は警吏に捕まり、牢内で舌を噛んで自死したと言う。
緒川の東光寺に供養塔があり、そこに刻まれた「清見山幸四郎」
が緒川の勝五郎のことのようである。
- 1119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/07(日) 18:47:30.60 ID:d4OaIxtS0.net
- 『幕末アウトロー 維新の陰の立役者「侠客」たちの生き様』
マイウェイ出版 (2018/10/29)
こんなムックが出版されるらしい
よほど詳しい人物が執筆・編集に携わっているならともかく
既成の出版物をテキトーに継ぎ接ぎしたような内容なんじゃなかろーか
今のところ期待はまったくしていない
- 1120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/08(月) 00:36:24.45 ID:H8HAQfzv/
- >>1119
一体どうやってこういう誰も知らない新しい情報を仕入れることができるのか?と、
毎回驚愕すると同時に、そのお手際に畏敬の念と感謝を感じます。
有難うございます。
確かに一定の興味を持つ相を見込んだ、雑な編集の書物になるような予感はしますね。
それでも仁侠研究の分野が消え入りそうな今日、出版するだけでも価値があるのかも、
と好意的に解釈したい気もします。
そもそも高橋敏さんにしてからが、それ以前の在野の侠客研究者
増田知哉、今川徳三、竹内勇太郎、中沢正、松尾四郎、青山光司そして藤田五郎氏を
先行研究者として表記する過程で暗に無視してきたのだから、
大衆向け出版社が一々昨今の研究を顧みないとしても責めるわけにもいかないかもしれませんね。
- 1121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/09(火) 23:05:07.10 ID:O2Jp15aL9
- 大前田栄五郎は42歳の厄年に江戸浅草で木刀を買い、
以降長脇差の替わりにこれを腰に帯びて過ごした。
子分の幸松は「遊侠は長脇差を酔狂のために差しているわけじゃない」と言って
親分の元を去ったが、
江戸屋虎五郎は栄五郎のこの木刀を見て、
「なんだ、虎にも買ってきて下さればよかったのに」と言った。
これぐらい岡安虎五郎という人は出来た遊侠だったのだ。
典拠は『続ふところ手帖』(小母澤寛、中公文庫、昭和50年)
- 1122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/09(火) 23:26:57.48 ID:O2Jp15aL9
- 『小平ちょっと昔』という本は
ポスト近代(とでも言うか)に作られた民俗学的に編まれた本としては「白眉」と言えるものである。
作成年は1988。
侠客・小川の幸蔵と武州一揆の話などが民話・伝説として収録されているが、
それより、この中に「小平の智恵ぶくろ」という項があり、これが色々な意味で含蓄が深く、注目に価する。
(以下抜粋)
「小平の智恵ぶくろといわれた人が小川にいたんです。小川を代表するおおぜいの人(政治家)を育てましたよ。
人をもり立てるのがとてもうまい人でした。『丸いのは本当の丸いんじゃない。四角の角がけずり取られたのが本当の丸いんだ』
ってよく言ってましたね。立派な人でしたよ。」
これはあらゆる面に含蓄のある言葉だろう。
しかし、特に遊侠の例に限った場合、
江戸屋虎五郎という人は晩年貧乏をし、葬儀に三親等が来なかったとか言うが、
真に、これに近い生き方をした人だろうと思う。
- 1123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/14(日) 20:04:57.26 ID:5QU6lawak
- このスレッドでも以前に書いたことにある甲州花輪村乙吉の人相書がまたヤフオクに出ていたようだ。
しかも二か月前に落札されてた。
これは慶応二年に、相州木曽村嘉十郎宅に黒駒一党が匿われていたことを示す貴重史料だ。
乙吉は前年に藤ノ木村で出役に召捕られ、彼を取り返すために黒駒身内達が
役人宅へ襲撃をかけ、二名の取り方を殺した。これが決定打となって勝蔵らは大々的に手配されることになる。
人相書では、その時に受けたと思われる鉄砲傷まで記されていて生々しい。
他にも橋本の亀吉と大戸村の磯万との喧嘩のことも触れられていて実に興味深い。
なんにしても、今さら遅い。へばりついてでもチェックしとくべきだった!
- 1124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/14(日) 21:15:44.93 ID:5QU6lawak
- 木曽の嘉十郎も、橋本の亀吉も、もともとは橋本の平野屋政八の子分であり、
両者は兄弟分といえる仲だったのだろうが、次第に互いに対立するようになる。
折り悪く黒駒勝蔵の子分らは両宅に分かれて草鞋を脱いでいたため、亀吉と嘉十郎の喧嘩に
巻き込まれ、同胞を相手に喧嘩をしなければならなくなった。なんとも因果な話である。
- 1125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/17(水) 21:59:45.86 ID:e8dzQq0gm
- 上州館林藩福井氏の史料をデジタル公開するとは。
国文学研究史料館、一体どこまで太っ腹なのだ。
素晴らしすぎる。
- 1126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/29(月) 23:01:19.84 ID:hVdckCUwa
- 信州博徒に関する研究が少ないと以前書きこんだが、
信州の博奕打ち自体はとても多い。有力な親分、魅力的な生き方をした親分も
数多くいる。
順不同だが、名を上げれば
相ノ川又五郎、島田屋伊伝次、岡田の瀧蔵、塩尻の富之助、湯田中の鉄蔵、
真志野の喜三次、木ノ下の与惣次、
川路村の鯛屋鶴五郎(鯛鶴)、七久里(行栗)の黒田屋初五郎、
神田の豊吉、早木戸の権蔵、信州の波羅七
と、キリが無いくらい居る。
しかし、彼らの動向を追った研究は驚くほど無い。
あるいは信州人の郷土研究の志向も関係しているのかもしれない。
- 1127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/29(月) 23:19:59.41 ID:hVdckCUwa
- 世に国定忠治の単筒というのがある。要するにピストルだが、
忠治が嘉永三年に世を去っているので、これはかなり早い時期の登場ということになる。
(かの坂本竜馬が拳銃をひけらかせたのは慶応二年)
もっとも、駿河国由比の僧淳は、一般人でありながら安政五年に単筒を手にしてもいるから
流通自体はあったのだろう。
博徒でも拳銃を所持する者は多く、例えば子母澤寛氏の『よろず覚え帳』によれば
上州黒岩の寅五郎はこれを持っていた。
また同書にたった一行だが、「高萩の萬次郎などもその一人である」と書いている。
岐阜の弥太郎も、赤報隊に入るに及び、隊規を破った子分を単筒で成敗している。
あとは小金井小次郎兄弟分の稲荷の増五郎。田無柳沢宿の質屋に子孫の方が
売ってしまったそうだが、たしかに単筒があったという。
- 1128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/29(月) 23:37:41.66 ID:hVdckCUwa
- 上州館林藩福井氏の日記資料の中には、犬上郡次郎が登場する。
あとは何とか江戸屋虎五郎が見つからぬものかと探してみたが、
今のところ出てこない。
- 1129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/10/30(火) 23:21:35.29 ID:Qt3swmWi9
- 先日相州相模原の郷土史をしている方からいただいた史料に
嘉永二年に間宮久八が「大場村久八」と表記されているものをがあった。
通例では久八は嘉永六年のお台場建設に尽力したことにより「台場の親分」と呼ばれ
それが間宮村隣村の大場村に転化されて「大場久八」と呼ばれるにいたった
とされる。
しかし、それはどうやら誤りのようで、やっぱり彼は生まれ故郷の間宮村ではなく
隣村の大場村で売りだしたから、「大場久八」と呼ばれたのだ。
同じ様な例は、たとえば
大和田の友蔵=見附の友蔵
和田島の太左衛門=江尻の太左衛門
国分の三蔵=勝沼の三蔵
などに見られるだろう。
- 1130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 22:43:57.22 ID:F51v2mkwW
- 「顔役名鑑」の後半部には昭和初期に生存していた顔役たちの名前と住所が
大胆にもそのまま載っている。あと表向きの職業も。
東京都小平市の「大沼田」というところは、都心部も押さえて、
この顔役たちの居住地として1の比率を占める。なんでか、は分からないが
近代初期にここには大きな集団がいたのだろう。または土地がそれを許したか。
試しに言及すると、北は神山栄五郎の縄張り、西は田無の徳蔵、南と東は小川幸蔵のそれと接する
そういう色もあったのかもしれない。
大沼田の博徒の長というのはほとんど出てこないのだが、敢えて言えば
(やや小粒だが)大沼田の小政。本名は政五郎だ。
綽名の示す通り小兵ではあるが刃は鋭く動作は早い。加えて肝も座っていたようで
田無の増五郎を襲撃し、片足を不具にせしめ、小次郎と賭場で荒らしなどしている。
小次郎子分の新田の平次郎に襲われるが上手くかわして他人を殺させ、平次郎はこの罪で
三宅島へ流されることになる。
小政事政五郎の後年の足跡は不明。墓も無いし、親類もみつからない。
- 1131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/03(土) 22:46:13.56 ID:F51v2mkwW
- またまた間違えた。
「西は田無の徳蔵、南と東は小川幸蔵」ではなく
「東は田無の徳蔵、南と西は小川幸蔵」が正しい。
- 1132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/07(水) 23:56:17.02 ID:WZdi3+yR0
- "1119
『幕末アウトロー 維新の陰の立役者「侠客」たちの生き様』
マイウェイ出版 (2018/10/29)
こんなムックが出版されるらしい
よほど詳しい人物が執筆・編集に携わっているならともかく
既成の出版物をテキトーに継ぎ接ぎしたような内容なんじゃなかろーか
今のところ期待はまったくしていない
>>1119
寸分の狂いもなく、まったくその通りでした。
- 1133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 06:40:45.84 ID:iytpzer20.net
- 縁日ってなんの日?都市の肥大化が生み大岡越前が守った香具師文化
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00749/
香具師とかテキ屋とか、博徒・侠客とは別の存在なんだろうけど、
けっこう密接な関係があったんじゃないかな。
- 1134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 22:13:58.55 ID:u+fqHqIrB
- >>1133
毎回ありがとうございます。
本当に勉強になります。
- 1135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 22:18:57.24 ID:u+fqHqIrB
- 三代目中村仲蔵の『手前味噌』なんかを読むと、侠客(博徒)が芝居や浄瑠璃
相撲、軍談読みなどの役者・芸人を買い付けていることが、顕著に見てとれますね。
香具師(興行師)と侠客は強い繋がりがあるようです。
古文書とはちがうけど『手前味噌』の様な自叙伝(というよりトラベルライティング)
はとても貴重な文献ですね。
「郷土食」の面から眺めても面白い。
- 1136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 22:30:40.03 ID:u+fqHqIrB
- ちなみに『手前味噌』(s.19)を買いに東京都西部の山間部の本屋(?)へ行ったら、
表の営業はしていなくて、コンクリート会社の建物に間借りして展開している。
しかし、中に入れば蔵書の数はめまいがするほど(万は超える)で、
まるで『薔薇の名前』の修道院図書館を地で行く様。
活字文化は強かに、頼もしく生き残っているんですな。
- 1137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/10(土) 23:04:02.62 ID:u+fqHqIrB
- 祐天仙之助は甲府勤番士の同心などからは、ただの「悪党」と呼ばれてますが、
同じ時代の役者などからしたら、「路銀の無い者には、懐の金を与えてやるような
行き届いた親分」とされています。
総じて、百姓(名主も含む)の記した日記や伝記は、まるで奇跡の様に中立な立場で、
リベラルに筆を進め、まさにその時代を現出せしてめくれるのに対し、
「武士の日記」はイデオロギーで凝り固まった窮屈さに満ちたものです。
千人同心ですら「お高い」日記を書いています。
- 1138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/11(日) 23:20:49.12 ID:H55YehuwY
- 江古田の幸平こと、藤沢幸平氏の名前が見られる文献や金石文はあまりない。
そういう意味では三鷹市の真福寺の題目塔は珍しいものかもしれない。
台座真ん中に彼の名がある。並んで新橋の長蔵や高井戸の勇次郎
仙川の藤五郎などの名も見える。
建立年が明治14年(小次郎の亡くなった年)というのも何か意味があるのかもしれない。
ただし、住職も含めて題目塔建立のいきさつは既に知る人もいない。
- 1139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/12(月) 21:50:40.10 ID:fBz4SXan/
- 行く所血の雨を降らすと言われた
神山の栄五郎を最終的に闇討ちしたのは、所沢の力山という元・力士の博徒であったと言う。
通称を「バラ荒らしの力山」。
結局篠信太郎氏の報復の刃を巧妙に逃れて、浅草で晩年を迎えたという。
いずれ彼に関しては「逸話」の類しか残っていない。
力山一家というのがあったともされるが、資料創作をしても尻尾も出ない。
ただし、往時所沢には「甲山力蔵」という相撲親方が居て、近隣にかなりの勢力を張っていた。
(二代目は近村野火止村の朝嵐熊五郎。)
甲山はまた、南永井の新八三兄弟とも繋がりを持っていたとされる。
おそらく力山が勢力を得て居た理由は、かつてこの「甲山」の弟子であったからだと思われる。
- 1140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/12(月) 21:51:53.13 ID:fBz4SXan/
- 「資料創作」じゃねえよ。「資料捜索」。
- 1141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/13(火) 21:03:51.28 ID:HWnYR32Z/
- 朝ドラで鈴さんの国定忠治が一番受けていたのは
ここに書きこんでもいいくらいの
快挙だと思う。
- 1142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/13(火) 21:27:21.12 ID:HWnYR32Z/
- これは史実ではなく、講談や浪曲によってつくられたものだが、
俗に言う所の「清水一家二十八人衆」というのは
大政
小政
増川の仙右衛門
大瀬の半五郎
法印の大五郎
追分の三五郎
桶屋の鬼吉
大野の鶴吉
問屋場の大熊
お相撲の常
三保の松五郎
伊達の五郎
小松村の七五郎
関東の綱五郎
田中の敬次郎
辻の勝五郎
四日市の敬太郎
舞阪の富五郎
寺津の勘三郎
国定の金五郎
吉良の勘蔵
伊勢の鳥羽熊
清水の岡吉
興津の盛之助
小川の勝五郎
由比の松五郎
森の石松
吉良の仁吉
である。参考にしたのは商店街のシャッターに書かれてた画。
- 1143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/16(金) 00:13:40.22 ID:kfrxsfyMi
- 清見潟又市(三代目清見潟親方)は言うに及ばず、
藤島甚助、振分忠蔵、甲山半五郎(力蔵)、追手風喜太郎といった相撲年寄
たちは侠客と大いに繋がるところのある人々である。
相撲史の研究者の成果は素晴らしいものである。しかしこれまた仁侠研究と
同じく歴史学の俎上にはなかなか上がらず、
学者筋の間ではあまり取り上げられrぬ分野である。
- 1144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/16(金) 21:54:54.13 ID:kfrxsfyMi
- 全部幕末期だが、
清見潟又市は、武州柴崎村あたりの生まれ。三河・武蔵・遠江と手広に勢力を伸ばした。
有名な弟子に平井の雲風や袋井四角山がいる。言うまでも無く彼らは後年、侠客になった。
追手風は甲州道中の相州関野宿の人。侠客の弟子がいたかは不明だが、まあいただろう。
甲山半五郎は所沢宿、裏町の出生。藤沢の代五郎が弟子にいたり、南永井の新八と親しい。
高萩万次郎の奉納相撲にも、この人の名があった。あとは上野の戦いの時、彰義隊の武器運びに
弟子を派遣した。
藤島甚助は、和田島の太左衛門を匿ったりしている。
もう一人振分忠蔵だが、確たることは言えないが多分幕末期のそれは
八王子出生の八光山が継いでいたのではなかったか。
(八光山という人は、どうも二人いるらしく、江戸中期の八光山の方が地元では有名ではあるが。)
安政五年(だったか?)に青梅の孫八のとこに泊った振分一門が、土地の悪党に抜き身で襲われると言う事件が起こっている。
- 1145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/23(金) 23:58:27.87 ID:CYoYXpOpX
- あまり出自のハッキリしない(と言われる)甲州の祐天仙之助だが、
甲府の元柳町(北口・山梨大学方面)の修験寺院・清長院の嫡男として生まれた。
清長院は歴代位の高い法印の家柄であり、祖父は由宣。更に父由玄は祐天17才の時に亡くなっている。
「祐天」というのは他人がそう綴ってるだけで、本来の法名は「由天」。
もっとも安政6年に元俗してから、自身は「勇天」と表記している。
甲府駅北口を少し上がった「教昌寺」に、今日でも由天が建立した父母・祖父母の墓が建っている。
(教昌寺は『藤岡屋日記』に祐天の「叔父」とされる人物である。)
さて、父母の墓の右隣には台座のみの痕跡があり、実はそこに祐天の墓があったという。
台座には「門人」として多数の子分の名前があったとか。
しかし、いつの間にか盗難に会い、今日までその行方は知れないとのこと。
- 1146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 01:00:27.35 ID:1jUBxzV2d
- さて祐天、身の丈はそれほど高くなかったが、
腕は人の三倍程太かったとのこと。
顔にはあばたがあったが、笑うと何とも人好きのする人物だったとのこと。
玄法院は武田時代、信虎が諸国から情報をあつめるために、御密として用いた修験に端を発するが、その17代祐宣法院は、たいへん祐天を可愛がり、自分の跡を継がせようとすら
思ったそうである。
結局祐天は甲府牢番兼目明しの大親分・両国屋(三井)宇七の跡を継ぎ、
後年は竹居吃安、黒駒勝蔵と対立するため勝沼上宿へと遷る。
ただし部屋にはいつでも戦える用心として
四方の壁の中に刀・槍を隠していた。
- 1147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 23:23:32.65 ID:1jUBxzV2d
- 相撲年寄・清見潟亦市の墓は東京都立川市の常楽院にある。遠・三・武州の
弟子たちの奉納と書かれた立派なものであるが、石質からか(東海道さんの石灰石)
刻まれた文字がもう読みにくい。
実は清見潟の墓はもう一基あって、こちらは愛知県豊橋市悟真寺。(あるいは供養塔と言うべきか?)
いずれ清見潟親方を敬って建てられたものだが、施主は泣く子も黙る平井亀吉(雲風)と常吉。
珍しい事には常吉が原田で無く平井を名乗っているという点だろうか。
何度も書いたが、清見潟親方の元では、後に高名な侠客となった力士が多く出た。
雲風と四角山はその代表である。
- 1148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 23:26:25.42 ID:1jUBxzV2d
- いつのことかは不明だが、
松尾四郎は、遠州秋葉山の祭りで
四角山周吉と津向文吉が喧嘩になったことがあった、との逸話を残している。
例証の仕様も無いが、
(毎度のことだが)松尾四郎がそう言うのだから、多分そうなのだろう。
- 1149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/24(土) 23:49:29.52 ID:1jUBxzV2d
- Yahooだと「黒駒勝蔵」というワードを入れると
「清水の小政」の顔写真が一番に出るのは何とかしてもらいたい。
- 1150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/25(日) 21:05:34.81 ID:MGOXVe/Ok
- 「侠」は「情」とも違う。「勇」とも違うし、
「悪」とは全く違い、「正義」に近いが、そうと言ってはこそばゆい。
「心意気」ほど奔放ではない。
誠によくわからぬ言葉だが、
老若男女・障害の有無・経済的不遇関係なく、
人生一度は「侠気」のある行いをする人を目にした事があると思う。
私もしょっちゅう他人の中にそれを見る。
あるいは往来の見知らぬ人。あるいは親しい中に。
- 1151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/25(日) 21:09:35.62 ID:MGOXVe/Ok
- 存じ上げなかったが
加川英一先生は昨年お亡くなりになっていたようだ。
氏の著作なら『黒駒勝蔵』より『幕末・明治無名博徒言行録』の方を押す。
- 1152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/11/29(木) 00:19:24.10 ID:YqeLMqCV0
- 「金石文」というのは、庚申塔とか馬頭観音とか石橋供養とか
よく道端に建ってる、ああいう石造物に掘られた文字のことを言う。あるいは墓石なども含まれる。
これを調査するのは根気がいる仕事で、例えば一日の内でも日の入りに一番
その角度が良く見える時もあれば、正午でなければダメな時もある。あるいは雨や曇りの日が良い時も。
場所によっては「手鏡」で、まるで盗撮のように撮る(技を駆使して)人もいる。
だが、なにはともあれ、これをやっている自治体と、まったくやっていない自治体とでは、
いざ市史・町史にまとめるとき大いに差がでる。たとえ「博物館」を持っていても、それをやっていないなら、歴史の編纂は大変だろう。
特に任侠の徒は、文献資料より、この金石文に名を表すことが多い。
場合によっては村一つ越えた場所に突然その名が現れることもある。
そして、こういうのを調べるには、独自の「直観力」が必要になる。これは教育機関で学べるものでもない。
故・水谷藤博氏や増田知哉氏、藤田五郎氏はそういう能力に抜群に秀でた人たちだった。
そして今でも、それを継ぐ人は、
時間を取って、今日でも侠客の供養をするためだけに500キロも離れたところを歩くのだ。
こんなの「学者さん」が太刀打ちできるはずがないだろう。
- 1153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/01(土) 23:22:40.89 ID:CtZCerp6A
- 司馬遼太郎という人は幕末期を描いた諸作品で絶大な人気を誇る日本屈指の
大衆作家だが、こと「侠客」に関しては、まるで言及がない。
と、思っていたが、『項羽と劉邦』は、全編を通して大きな筋の一つで「侠とは何か?」
ということを扱っている。
好みの差もあるのだろうが、司馬氏の作品では、この『項羽と劉邦』のクオリティの高さが
他に比べて群を抜くものではないかと、
個人的には思っている(『竜馬が行く』『燃えよ剣』『花神』を読んで、なおそう思う)。
この作品は、原始的な「侠」の姿を突きつめて考えた傑作である。
- 1154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/08(土) 20:53:31.02 ID:jVnj7yUXR
- ちょっと突飛なのだが、
例えばイギリス小説の傑作と言われるディケンズの『二都物語』。
これに登場するシガニー・カートンという人物は挙措といい、境遇・立ち位置といい
「侠客」というにぴったりである。
前半部でたまさか素面の間に、清純な献身愛の誓いをヒロインに吐露する場面や、
一方で酒が手放せぬ放埓な日常、そこから来る凄身を帯びた刃物のような知性。まるで賭場での決断で鍛えたような肝っ玉などは、
時代をそのまま取り替えて、日本の侠客の誰かと容易に交換出来そうな程だ。
しかし、何よりも最後のシーンの彼の身の振り方が、
天晴見事な侠者の示しであることは誰もが納得するところだろう。
古今、洋の東西を問わず
侠客的な人間は存在し、「人類の歴史」にちょっとした彩りを加えるということなのだろう。
- 1155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/08(土) 21:17:28.85 ID:jVnj7yUXR
- 皆木繁宏氏の『小金井小次郎伝』は40年以上も前の著作だが
極めて詳細・簡潔な文章で、対象の人物(小次郎)にも客観性を欠かぬままに、
最大限の敬意を払っているという稀有な傑作である。
しかし、一点だけ完全な誤りがあり、それは小次郎の兄弟分と言われる新門辰五郎を
「目に一丁字も無かった(文盲だった)」としているところである。
実際の辰五郎は文盲どころか、慶喜に書を認め、「日記」まで付けているのだ。
今年(2018年)刊行された『近代日本成立期の研究 政治・外交編』に掲載された
藤田英昭氏による「幕末京都の新門辰五郎とその周辺」は、その「日記」を基に史実の辰五郎を追った論文である。
「ああ、なるほど辰五郎とはこういう人だったのか」ということを読み手に悟らせる手腕もさることながら、
侠客性、人情、リーダーシップ、先見性、不敵さ
など、残された少ない史料の中から最大限好意的に「侠客辰五郎」の人間像を構築しようとしている様がうかがえ、
好感が持てる。そうでありながら分析は冷静だ。
近世歴史学の研究(特に侠客研究)はかくあるべきだ、と思わせるような、近年稀な
抜群の論文である。
- 1156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/10(月) 21:43:06.22 ID:O37zSvnV1
- 香具師、テキヤ、露天商の調査というのは、これは驚くほど少ない。
(彼らの親方は「親分」と言わず「帳元」と呼ばれるが、中にはやはり「侠客」と呼べる人も少なくない。)
現代のそれに密着してのルポタージュなんかはわりとあるのだが、
明治より前となると、ほぼ無い。
添田知道氏の『てきや(香具師)の生活』(雄山閣、1967)が一番知られた研究と言ったところか。
幕末期の武州の中・南部に関してならば、江戸時代後期は
二本木(入間市)の大和屋新六
中山(飯能市)の枡屋市五郎
坂ノ下(所沢市)の山本藤助
の三人が多摩・入間・高麗の地域を統括していたようだ。
このうち、最も勢力があったのが、二本木の新六だろう。
姓は加藤。その墓石にはおびただしい数の子分衆が名を刻んでいる。情けない話だが、
その数を見ただけで、記録を取る気力を失くしてしまった。
ここは某博物館が目の前にあるのだから、研究一つくらいあってもいいものだが、
言うまでもなく「無い」。
- 1157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/10(月) 21:48:49.38 ID:O37zSvnV1
- 1154
シガニー・カートンじゃなくて
シドニー・カートンだ。なんでこういう凡ミスするかな。
- 1158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/10(月) 22:34:09.19 ID:O37zSvnV1
- 学者の論文集には、研究成果だけでなく、「討論の過程」のようなオマケが収録されていることがあり、
その討論の迷彩ぶりがまた面白い。
一座の親玉のような偉い先生が「侠客は関東の一部みに発生したものだ!」のような
的外れな鶴の一声を述べたことすら、記録されてしまう。もちろん、これは全く誤りというものだ。
某・仁侠研究者が最近東北の侠客の歴史を調査し、
埋もれた侠者の生き様を現出させて成果になさった。
幸運にも一見する機会を得たが、その内容たるや驚きの一言。全く未知の、
熱い侠客の歴史がそこに展開されていた。
一体どうやってそれを知ったのか、研究に至る過程すら及びもつかない。
こういう人は直観力もさることながら、「熱意の継続」が他の追従を許さないのだろう。
一点、臆面も無く言わせてもらえるなら、
これ程の成果がいつか一般の目に触れる機会があるのだろうか、ということだけが不安である。
- 1159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/11(火) 22:19:25.72 ID:USWlXFJVZ
- 今年で明治から150年なんだとか言っている。
だから、まあ幕末侠客の時代からもだいたいその辺だ。
そして墓石と言うのも耐容年数というのがあって、大体幕末期の墓はそろそろが限界のようだ。
今年、遠州の大和田の友蔵親分の墓を詣でた際気づいたのだが、
昨年よりも、はるかに刻まれた文字が読みにくくなっていた。これは他にも言えることだろう。
と、言う訳で記録にとるなら、ここ五〜十年位がラストチャンスなんじゃなかろうか。
- 1160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/11(火) 22:32:21.74 ID:USWlXFJVZ
- 幕末期の風俗を記す「日記」は、ここ数年緩やかながら注目されるようになってきている。
北武州(埼玉北部)なら医師をしていた家の「小室家日記」というのは、たまに聞いたことがある。
部分翻刻であるが、これが載っているのが『都幾川村史資料4 近世 明覚地区U』
天保4年から万延くらいまでだったと思うが、
天保12年、ここに「田木村辰五郎」に会ったとの記述がある。
彼が佐藤辰五郎であるのなら、
その墓石に、観音の徳を始め多くの侠客の名を刻む侠客の記録であることになる。
正直この地域(武州入間・高麗)侠客の足跡はそれなりに多いにも関わらず
金石文も古文書も調査が全く足りていない。
- 1161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/11(火) 22:38:11.05 ID:USWlXFJVZ
- この方も極めて優れた郷土史家であったが、(既に故人だが)坂戸の小川三郎先生。
上に上げた田木の辰五郎をはじめ、赤尾林蔵や観音の菊(徳ではない)に関する
極めて貴重な史料を多く残して下さった。
とりあえず手に入りやすいのは
『坂戸史談 第三号』(坂戸郷土史研究会、平成12)
- 1162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/11(火) 22:42:35.84 ID:USWlXFJVZ
- おじさんは酔ってるから1160に、また意味不明な書き方をしてしまった。
「その墓石に、観音の徳を始め多くの侠客の名を刻む侠客の記録であることになる。」
は、
「その墓石に、多くの者の名が刻まれた、かの高名な「田木の辰五郎」の記録ということになる」
に代えて置きたい。
なお、「観音徳を始め」ではなく「観音菊」を始めだな。
- 1163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/19(水) 22:56:55.45 ID:rQ7hIBPmK
- 件の図書館の一件に関して、「指定管理者制」の委託になることの弊害の一つに
「郷土歴史資料の散逸の可能性」が上がっている。
また、「地域史に理解のある職員がいなくなる」とも。
下の方は、これは指定管理者制度に関係なく、ほとんどの処(東京都のみとする)で既に「いない」。
また郷土資料の散逸に至っては古文書史料を所持していない図書館では、あまり関係ないだろう。
(「東京都」と一言いれたのは、例えば「掛川」とか「所沢」とか「舞阪」…etcとか、地方に行くと本当に郷土史に関して凄い知識を持つ司書がいるので。
こう言う所が急に指定管理者制度になって、それらの司書を切ってしまうと大打撃を受けるだろうから。)
さて、少なくとも東京の首都圏や多摩地域に関してなら、「西東京市図書館」(旧・田無図書館)でなければ、
私はあまり興味関心が湧かぬというのが本音だ。
それほど西東京の中央図書館の郷土史に対する姿勢はすごい。群を抜いている。
ちなみに、話題になっている図書館に関しても、電話レファレンスでお世話になったことはないが、
対応は非常に親切だったと記憶している。(たしか「練馬の万次郎」について聞いたのだった。)
- 1164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/19(水) 22:58:53.08 ID:rQ7hIBPmK
- 「電話レファレンスでお世話になったことはないが」
→「電話レファレンスでお世話になったこと『しか』ないが」
に訂正。
- 1165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/19(水) 23:44:24.32 ID:rQ7hIBPmK
- 地元の旅籠屋が岡引になるケースもあるし、
名主が岡引になるケースも、最近では史料の中にまま見られるようになった。
だが、まあ、だいたいは博奕打ちの親分格や、子分の2,3人付いた売り出し中の
兄い株がなるようだ。
面白いのは、こういう場合、出生地とはかけ離れた場所で岡引を営むことが多いということ。
また、旅籠屋や名主が成る場合でも、決して彼らが文弱ではなく、一端に悪党と対峙できるような
肝っ玉を持ってると言うことだ。どこで鍛えたのか。
あるいは『次郎物語』の俊亮の様に、自然とそういう風格が養われて行くのか。
- 1166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/22(土) 00:09:41.08 ID:kYR/pIo8n
- インターネット時代の弊害だろうから、何度でも言う。
「黒駒勝蔵」の写真は2018年現在、存在しない。
ネットで出回ってる勝蔵の写真とされるものは「清水の小政」のものだ。
間違えないように。
- 1167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/22(土) 00:18:53.43 ID:kYR/pIo8n
- 多分研究や探索の本道というのは、自分で止むに止まれず動くことにある。
言うなれば研究態度も調査も我流。
発表だけは若干、その業界のフォーマットに従うが、その中でも、他と比べれば多分に野趣が目立つ。
しかしながら、在野で本腰入れてやってる郷土・地域研究者のそれは
アカデミックな学者さんのそれよか、まあ、数倍ないし数十倍面白いし、生命を持つ。
- 1168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/22(土) 00:28:35.87 ID:kYR/pIo8n
- 最近思うことなんだが、
明治になると無宿人や博徒親分と言った人の墓石が建てられないことがままある。
同じ位の力量の人でも、御一新前は、まず墓石が建てられただろうというような人にだ。
やはり明治維新というのはでかい。この数年の内に、平安以来の職業人であった「博奕打ち」の
系譜は「社会悪」と見なされ、抹殺されていったのだ。
高井戸の勇次郎、矢端の藤五郎、野崎の藤五郎、荻窪の角太郎なんていう人たちは
相当な顔なのに、墓石が存在しない。彼らはみな明治中期に亡くなった人たちだからだろう。
- 1169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/22(土) 22:58:45.83 ID:kYR/pIo8n
- 甲州市川大門の鬼神喜之助
その墓碑を建てた人は孫に当る、南青山の「畳鉄」(××鉄五郎)だという。
と、言う訳で「青山」のイメージは私の中では侠客・喜之助の孫なのだが、
今日の青山は「侠」とはまるで無縁の人非人が跋扈しているようだ。
とは言っても生粋の地元民は、児童相談所の設立にも理解がある気風の良い人達のようではあるが。
- 1170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2018/12/28(金) 00:21:46.05 ID:Bpw4Hqhlu
- 名著『博徒と自由民権』の著者・長谷川昇先生。
ご存命でいらっしゃるようだ。しかも現役で東海学園大学の教授。
今94、5歳といったところか。
この作品はやっぱり凄いよな。
- 1171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/06(日) 22:34:25.47 ID:5bs+ih7VN
- 高橋敏氏の一連の著作、例えば『博徒の幕末維新』(筑摩書房、2004)などは
確かに良い著作ではある。あまり侠客・博奕打ちに興味ない読者にとっては、幕末という
時代背景も合せて目から鱗というやつだろう。また、『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003)において、
注釈付で『東海遊侠伝』を付録に付けたことの意義は大きい。
2000年代に入って、遊侠研究の流れに大きな転換点を与えたと言う点で、斯界において
大きな役割を果たした人と言えるだろう。
- 1172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/06(日) 22:41:57.01 ID:5bs+ih7VN
- ただし、『博徒の幕末維新』において、元治元年の「官武通紀」や
安五郎の成年時の「坂送り」などのエピソード、勝蔵と武藤外記の繋がりや、
天野海造と大場久八の繋がりなどをほとんどの読者が知らないからと言って、
自身の発見の様に扱うのは極めて遺憾である。
それ以前の仁侠研究者、戸羽山翰や増田知哉、松尾四郎ひいては(この人を含めるべきか自信が無いのだが)八切止夫
などの研究・功績を評価しないのは、それを知ってる者からすれば、やっぱり心苦しい。
- 1173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/06(日) 22:52:29.58 ID:5bs+ih7VN
- 近年、あまり物を知らん人は
高橋氏を「アウトロー研究」「仁侠研究」の第一人者と言うが、
そいつはちょっと違う。
やっぱりこの分野において指一本の位置に立つのは、
(本人はきっと嫌がるだろうが)長谷川伸・藤田五郎以来の実証研究を踏襲する
植田氏以外にはいない。
ただ、遊侠の活動を一般にも分かりやすく描写し、なかんづく「武州熊谷在石原村幸次郎一件」を
知らしめたのは完全に高橋敏氏の大功績である。
- 1174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/06(日) 23:10:36.79 ID:5bs+ih7VN
- 1108で記した駿州岩渕の青木屋鉄五郎や岩渕源七(これはかなり少ないが)
に関する古い伝聞資料は静岡県立図書館のデジタルにある
大正年『富士川町誌 下巻』、デジタル番号(?)でいえば86番目の「親方・親分」
の部にある。
ちなみに青木屋鉄五郎の最期は斬首。
岩渕源七はその子分から勢力を成した人で、源七の後は「信兵衛」という人が継いだとなってる。
信兵衛は甲州・武州の博徒に惨殺されたとのこと。
『安東文吉伝資料』にある岩渕の庄右衛門と、この信兵衛は同一人物か。
- 1175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/08(火) 00:04:02.93 ID:1GBdeGRXO
- 宇津谷の伝右衛門と、韮崎宿湊屋善兵衛は兄弟分であるが、
善兵衛の子分泰蔵を伝右衛門の子分小次郎が斬ってしまったので、
「義理のため」という理由で正月早々、伝右衛門子分四名が小次郎の首を上げるために
出立した、
という内容を記録した農村日記がある。
この四行ばかりの箇所以外は、誰が年始に来たとか、雨が降って橋が崩れたとか、割と普通の日常を描いているのが
翻って新鮮である。ちなみに刺客の一人は「関東吉」。
- 1176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/15(火) 22:17:00.22 ID:clCLSyGG5
- 慶応四年(明治元年)の四月というのは、武州の博徒史にとっては興味深い時期だ。
まずは一日に、武州入間郡勝楽寺村に所沢近辺の博奕打ちがあつまり、城跡に盤裾して
四隣に対峙する姿勢を見せた。もっとも農兵の一斉射撃ですぐに四散してしまったが、
御一新の混乱で「質屋」が休業し、金の循環が途絶えたので、何とかしてほしい
との抗議活動だったと当時の文書に記録されている。(ちなみに頭取りは北野一家の金五郎)
おそらくこれに関連したものとして、同月15日、飯能に名栗、入間の博奕打ち40人あまりが集まり、同じ様な示威行動に出た。これに対しては、高萩万次郎がいちはやく動き、周囲は警戒を解いたが、
博奕打ちの集団は今度は東京へ、やはり質屋の円滑な営業を求めて抗議に行ったとされる。
実のところ、慶応2、3に比べて、4年の一貫した生活を知る日記資料は少ない。
そのため、意外にこの時期の農村部のこうした出来事、引いては博徒集団の抱えていた
切羽詰まった問題などは明らかにできていないのである。
- 1177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/18(金) 00:19:43.02 ID:pXjOGqgXB
- 藤田五郎先生の『親分衆』によれば
子母澤寛が、松本の幸太郎を主人公にした小説があったようだが、
どれがその小説なのかわからない。
幸太郎は、神田の豊吉の協力を得て、成功し南信濃に広大な縄張りを持つにいたったそうだ。
- 1178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/22(火) 22:47:18.97 ID:8CTgg00X9
- 甲州長禅寺前の音五郎に関してわかっていることは以下の通り。
・弘化二年に起きた津向文吉と竹居吃安の出入りに仲裁に入ったらしい。
・弘化三年に人足寄せ場から帰ってきた小金井小次郎を匿ったらしい。
・嘉永一か二年に、青柳の市松・寅之助に殺されたらしい。
・坂折村の生まれらしい。
嘉永二年十月二十六日、青柳の市松・寅之助兄弟が身延山で自害するに及び、
その罪科の一つに「乙次郎」の殺害が上がっていることから見て、
長禅寺前の音五郎は、実在の人物であることがわかる。しかし確証のある史料は
今のところみつからない。
- 1179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/22(火) 23:18:24.69 ID:8CTgg00X9
- 橘樹郡二子村の子之吉(姓・小池)は十手持ちとして知られる。
『藤助日記』の明治年間には、岡引納めとして、相撲興行を行った旨が記されている。
明治期に入ると学校建設のために寄付をするなど、村政に寄与した。
彼に関する詳しい資料は上田恒三氏の『激流』(平成11年)
子之吉の前半生が香具師や博奕打ちであったことは事実だろうが、小金井一家の貸元であった
とするのは、実際のところどうなのだろうか?という気がする。
- 1180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/27(日) 00:12:40.49 ID:DJkDwYJRd
- 武州入間郡観音の菊次郎の斬刑は理不尽な仕置きと思わざるをえない。
菊次郎は寛政11年の生まれ。
赤尾林蔵の殺害に加わった観音の徳次郎の跡を継ぎ、各所に子分を持つ入間郡を代表する大親分だった。
地域住民との折り合いもよく、岩殿観音正法寺の門前に宅(千歳屋)を構え、商売も行っていたらしい。
実際に史料によれば、岩殿観音での興行を、名主を通して任されたことがあり、
その際には「参拝客の数が減ってきた昨今の状況を何とかしたい」と名勝地の営業に頭を悩ませてもいる。
知行所の領主とも懇意であり、岩殿村を領していた火付盗賊改の中嶋百助の屋敷の普請や、
地震災害の援助などもしていた。
その伝手を得て「取締役」を仰せつかり、入間郡の治安維持にも一役買っていた。
- 1181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/27(日) 00:15:02.21 ID:DJkDwYJRd
- ところが御一新が起きて、政体が変わると、途端に「多くの子分を持つ社会悪の親玉」とみなされて、入牢させられてしまう。
かつての領主や村の名主らも救いの手を差し伸べてくれず、結局、旧悪を理由に
明治3年に71歳で斬罪となる。
確かに博徒間の抗争なども起こしてはいるが、菊次郎の場合は村への寄与の方がずっと目につく。
七十も越えて、処刑された彼の立場は、
東西の差こそあれ、岐阜の弥太郎のそれをも思わせるものだ。
墓石は親しかった親分・子分らによって立派な物が建てられているが、
畳の上で死んでも決しておかしくない人生だったのではないかと思わざるをえない。
- 1182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/01/29(火) 23:06:54.75 ID:RV9FjlPPu
- この分野に興味を持って調べるようになって数年立つが(まだまだ駆け出しだが)、
江戸時代末期において、「博徒頭兼名主」というのは、割と多く存在するのだ。
名主は普通、文があって、計算が出来て、知識人で教養があって…というエリート的な存在だが、
その側面に「子分があって、私設の武力があって」という項目が加わる。
さらに村役人「村年寄」「長百姓」を考えると、これらと兼業で博徒の頭を務めている、
というのは、これはもう物凄く多い。
少なくとも幕末期近辺は、江戸時代の身分制度や村落の中での立場について、
「侠客」という点から、もう一度再考してみた方がいいのではないか、とおもえるほどだ。
- 1183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/05(火) 23:00:36.17 ID:N7NtT0JlW
- 東京都三鷹市は都心にも近く、割合に発展した場所である。
実際には武蔵野市に含まれる吉祥寺も、文化的にはこちらに入る様に思う。
行政サービスもそこそこ評価される。
だが、こと歴史に関しては、『市史』に古・中・近世・近代が無いというのは、忘れてはいけない点である。
とりわけ「近世・近代」は交通の便の良さもあって、ここは要地だったはずだが、
行政でそれらの「編」や「研究」を出してない、従って郷土史でも「近世・近代」
の考察が弱い。
近年、吉野泰三家の古文書目録が出たのが…
なんと目録は出しても、マイクロ・紙焼きの類の記録物は「無い」のだ(各々方決して騙されなさるな)。
言うなれば『吉野泰三家文書目録』は有名無実。
たとえその中に、神山栄五郎一件が詳細に残されていても、上仙川の藤五郎が出てきても、
連雀の嘉助が出てきても…アクセスする術はないのである。
- 1184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/07(木) 21:54:56.18 ID:ABS19GAGp
- 上のスレッド訂正する。
「三鷹市市史史料」という冊子は三冊ほど出ていた。
ただ薄く、それ程量はない。
あと、吉野泰三家ではなく吉野泰平家文書目録だった。
こちらも、いくらかの(特に明治期の)紙焼き類は資料館内に「ある」(なぜか他市の資料館だが)
ただ、侠客関係や治安・村政関係は撮られてないのだ。
- 1185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/09(土) 22:55:06.39 ID:SUuQ4O1Um
- 嘉永6年のとある旅日記には、富士山参詣に行ったら、吉田の大鳥居の辺りから、
どこもかしこも野天賭博が開かれており、近隣の博徒が連日集まり大盛況だと記してある。
要するに江戸時代末の名所・旧跡へ旅することの一つの醍醐味が、賭場遊びだったわけだ。
回り筒の賽博奕、花札、骨牌に始まって、賭け的(弓だけでなく、鉄砲の時もある)、賭け碁、賭け将棋。それに闘鶏。
女性ならほっぴき(ほうひき)などなど、とにかく多岐にわたった。
無論、本職の博徒のそれは動く金も半端ではなく、一晩で百両単位の金が動くことが
ザラにあったとのこと。
ところで、この「両」という単位(分、朱なども)。調べれば調べる程、現在の貨幣にして幾ら?
ということがわからぬ。
研究者の間でも諸説あるようだ。故にこれをビシッと自信持って言える人がいたら、
それはかなりの勉強家とみていい。
- 1186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/09(土) 23:04:23.08 ID:SUuQ4O1Um
- で、私は昔からよく言われているところの
一両=10万円
一分=四分の一両=2万5000円
一朱=四分の一分=6000円位
で換算している。
多分正しくはないだろう。
異論は幾らでも書きこんでほしい。
- 1187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/09(土) 23:13:14.03 ID:SUuQ4O1Um
- ところで一文(いちもん)ってのが幾らになるのかよくわからない。
(どういうわけか、よく文書だと「〆文」という風に書かれることが多いように思う。)
そういえばひい婆さん(明治生まれ)は、お見舞いに行くと、
必ず祖母に向かって「この子に一文やってくりょう」と言ってた。
あの頃自分が小学生だったから、
百円〜五百円くらいを指していたのかなあ。
- 1188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/09(土) 23:42:17.85 ID:SUuQ4O1Um
- 「平気で損ができるなら、八百屋の親父でも侠客だ」
みたいなことを、とある親分が言ったそうだが
これには大賛成だ。
- 1189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/12(火) 00:28:58.54 ID:hcVXJQy5q
- 武州入間郡の山中、坊村というところに村野忠蔵という浪人がいた。
祖父は「狭山茶」の製造を考案した出来人で、この地方では有名人であり
代々、小野派一刀流の免許皆伝の腕前を誇った家柄である。
忠蔵は兄(?)の弥七と共に、その技量が類代に優れ、将来も嘱望された若者であったが、
兄弟共に道を踏み外し、博徒に立ち交り、
「魔利支天講」と唱え同じ様な無頼の浪人を取りまとめて、戯れに周辺を荒らし回った。
幕末も最中の文久年間のことである。
文久元年の正月、忠蔵は弥七(変名十蔵)と信州岩村田に現れ、遊女屋で女を盗み出し、甲府まで逃れる。
そして、温泉場である「湯村」に逗留していた所、跡を追って来た信州の手先に囲まれるが、
そこは免許皆伝の腕前、二人して大いに暴れ回り信州手先どもを退散させた。
しかし、救援に駆け付けた甲府勤番配下の一本柳善九朗率いる番人と目明し・祐天手下たちは、
既にその技量を聞き及んでいたため、数を頼りに二人を取り囲み、次第にその輪を狭めていき
遂に二人を討ちとった。
一体両名は何がしたかったのか、今一つ真意が掴めない。
ただ、二人の数カ月の足跡だけは武・信・甲の三州にわたって点々と残っている。
- 1190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/13(水) 22:38:01.43 ID:iEoRLdn5h
- 明治に入ると、突然「悪銭」と言う言葉が文書に現れるようになる。
これは「賭博で稼いだ金」という意味だ。
本来、金は無機物であり、善も悪もない。しかし、そこに「稼ぎ方」によって善・悪が決まる、
というお上の思考が働く。そういう思考を万民に広めようとする新政府の目論みが見え見えなのだ。
これに対して、金は天下の回り物。「所詮金なんて運次第で入ったり、出たりするものだ」としているのが博徒の思考。
上でも上げた江戸屋虎五郎のエピソードがわかりやすい。このeasy-goingな考えを完全に否定して、
「勤労」によって得る金を善、そうでない金を悪としたのが時の政府
ということになるのだろうが…
これは単に金に縁の無い私のやっかみかもしれないな。
- 1191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/13(水) 22:53:14.43 ID:iEoRLdn5h
- 上でもあげた江戸屋虎五郎のエピソード、と書いたが、上げてなかった。
これは大失敗だ。という訳で・・・
ある時、立派な商家の倅が、何のはずみか
博奕打ちになりたいと言って虎五郎の処へ盃を貰いに来た。虎五郎は
断るでもなく、意見するでもなく、すたすたと庭に出て、目に着いた木の枝に
「百両」入った袋をぶら下げた。
そしてそのまま、商家の倅を連れて賭場へ赴いた。
虎五郎は何の気なしに博打をうつが、商家の倅は、枝へ結んだ百両の安否が気になって仕方ない。
結局、腰を据えて博奕をするでも無く、早々に引き揚げ、百両懸けた木のもとへ駈けて行き、
まだそこに在ったことに安堵した。
そこで虎五郎が言うには、「その程度の金の有無を気にしているようでは博奕打ちにはなれない。
悪いことは言わないから、堅気のままでおいでなさい。」とのこと。
要するに一般人からしたら、割にあわない位の損をする覚悟でなければ
本当の博奕打ちはつとまらないということを
虎五郎は言いたかったのだそうな。
- 1192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/15(金) 22:08:59.57 ID:fnpwiM+Fe
- 『塩の道』だったか『民俗学の旅』だったか、宮本常一が
自身の山間部・村落での聞き取りの方法をありのままに述べたくだりがあったが、
予定も立てず自転車にまたがり、あるいは雨傘と鞄だけを持って、家を出、
あとは気の向くまま野ざらしの旅をするのだ、とあった。
四五日すれば、衣類は真っ黒、ぼろになり、宿は人の好意に甘え、
あるいは野宿。あまり腹が減れば墓や地蔵さんのお供えも食う、とある。
その合間に、村の人々に立ち交り話を聞くのだ。
また、宮本は農業の知識があったため、
手伝ったり、教えたりする過程で村落に溶け込んでゆく。聴くとは無しに聴き、ノートは一切とらない。
と言う訳で宮本民俗学って、本来そういう手法のはずなのだ。
しかし、今日民俗学者は小奇麗な服で古民家の採寸をとって、綺麗なノートに写し、
片手間に「囲炉裏のそば」で「特定の人」の話を聞く。
まあお上品になって当然だろう。
別に非難しているわけじゃない。(十分批判的だろうけど)。
- 1193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/15(金) 22:12:16.55 ID:fnpwiM+Fe
- そのようなわけで、元々の宮本常一の民俗学とは
「旅人(たびにん)」のそれを踏襲しているようにすら思えるのだ。
そして、これに近いのは例えば裸の大将・山下清の生涯だ。
だから、
ある侠客の研究者が謙遜して、自分のことを「裸の大将」と言っていたが、
つまりそれこそ、この研究者が本物であることの証左なわけである。
- 1194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/15(金) 22:31:26.91 ID:fnpwiM+Fe
- 自分の祖母がまだ二十〜三十代の頃、(昭和20〜30年か)
近くに「山師」のじいさんが住んでいたそうだ。
山師とは金山を探す仕事で、勿論生活は不安定だが、運よく山を一つ見つけられれば、
一生安泰なのだという。詳しくは三角寛の著書を読めばいい。
祖母はあまり良い感じの人ではなかったというが、
その苗字と居住地が中沢正の著書にある「竹居吃安の子分だった人」に合致する。
若干年齢に無理があるが、本当に吃安の孫子分くらいではあったのかもしれない
と今では思う。
- 1195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/15(金) 22:48:51.30 ID:fnpwiM+Fe
- 南から甲府に入る場合、富士川(荒川)の橋の手前を石田(上石田・下石田)という。
昔で言う石田村だ。件の爺さんはここに住んでいたという。
さて、今日ここの上石田に「天神社」がすごく小さいものとして残っているのだが
(上石田天神社)、これは昔はそれなりの大きさだった。(近くには「甲府の突貫小僧」こと「富士桜」の実家もある)
慶応二年、確かにここに黒駒勝蔵一派が襲撃に入っている。
史料に従えば、この襲撃には珍しく勝蔵本人が加わっていたとのこと。
- 1196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/18(月) 23:20:41.96 ID:vKsoI4419
- 武州南西部の岡引人頭である田中屋万五郎は、幕末の世を全力で生き抜き、
明治の声を聞いてすぐに亡くなった(明治三年没、七十五才)。
死後、その声名が急速に忘れ去られたことからすれば、そんなに好かれていた人ではないのかもしれないが、
歴史上、彼の果たした役割が大きいものであったことは否定できない。
そして、その実体はまだ全く手つかず・未解明の状態にあると言って良い。
埼玉県新座市大和田にある彼の墓石には、盟友・子分の岡引五十人余りの名が刻まれている。
この中には「高萩万次郎」の名もあり、これは博徒・侠客が十手を預かり、
御上の役に立っていたことを示す有力な証左ともなりえる墓石である。
万五郎の戒名は「侠徳知?居士」と言う。
?の部分には「邦」とも「郡」とも読める字が入る。異体字というやつだろうが、今一つ確定できない。
ただし、一番上に「侠」の字が入ることは、この人の徳性をよく表していると思われる。
万五郎はまさしく侠客と呼ぶにふさわしい人だったのだろう。
- 1197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/18(月) 23:48:28.58 ID:vKsoI4419
- 東京都八王子市、今で言う所の野猿街道沿いの字(あざ)
東中野の全徳寺には「東中野ノ小才治」の異名を持つ才次郎親分の墓がある。
小才治は一ノ宮万平の子分で、万平が捕縛される身代わりに自分が縄につき、
江戸伝馬牢で若い死を遂げたと伝わる。
斯界では、その侠気ある死を悼み、
大正になって、関西のある親分が、箱根芦ノ湖畔に才次郎の碑を建てたと伝わる。
残念ながら、その碑が本当に存在するのかは不明だ。
もし知っている方がいらっしゃたら教えて下さい。
- 1198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/19(火) 23:32:11.80 ID:KNAEWKCeH
- 『梧山堂雑書』は博奕打の面から見ると又面白い。
地域がら、木曽村の嘉十郎は勿論、藤屋万吉、府中小常、
二子子之吉、祐天仙之助
などの名前が各所に現れる。
まだまだこういった日記資料は村の古蔵の中に保存されているのだろうか。
白日の元に晒されるのは
やはり「運」次第なのだろうか。
- 1199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/22(金) 23:08:54.41 ID:DUYjgqobn
- 墓石調査なら逆立ちしても植田先生には勝てないが、
文献調査なら、まあ五分とは言えぬが、四分くらいには打ちあえるだろう。
さて、信州の侠客に関してだが、いくつか有用な文献史料を見つけることが出来た。
現在こそまるっきり下火であるが、40年も前の昭和53、6月の高井地方史研究会発行の『高井』(44号)には、
徳永泰男氏の「天領中野支配地における博奕・博徒」が掲載されている。
学問的に優れた研究であるのは言うまでもなく、後半には権堂村の大物侠客・島田屋伊伝次に関する
文献史料が記されており、非常に有用な研究論文である。
まずはこれが一つ。
- 1200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/22(金) 23:25:06.89 ID:DUYjgqobn
- 次いで上記論文から芋づる式に、(参考文献を伝って)
小林計一郎先生の名作『長野市史考』(吉川弘文館、昭和44年4月)。
これは凄い。この一冊で善光寺門前に発展した長野市という共同体のみならず、
近世信濃国の支配の様子(実は非常に複雑)を知ることができる。
権堂村の飯盛旅籠主人であったところの島田屋伊伝次の本領を、文献上から遺憾なく検証してくれるのが本書である。
伊伝次は侠客であり、飯盛旅籠の主人であり、そして何よりも興行師(香具師?)
として、幕末期のこの地域に隠れ無き大物であったことが見てとれる。
上げられた文献史料の多様さは、何とか古本屋で一冊購入したいと強く思わざるを得ないほどだ。
中でも興味深いのは
嘉永元年から3年に渡って、権堂村の花町では善光寺と松代藩との間で熾烈な争いが起きたという一件で、
一時は権堂村の茶屋の廃止までが危ぶまれた際に、ここに割って入るのが、
相撲年寄り「追手風喜太郎」であるとの記述は全く驚いた。
彼の地元の相州藤野(神奈川県相模湖町)ですら知られていない事実だろう。
おそらく伊伝次からの何らかの働きかけによるのであろうが、
「侠客と相撲年寄」との連携がここからもうかがえるのである。
- 1201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/22(金) 23:33:24.30 ID:DUYjgqobn
- 最後にあげるのは直近の2018年、子孫の方が自ら古文書を翻刻し
刊行した『つちや武助日記』
中山道軽井沢宿の旅籠屋の主人・土屋武助の日記であるが、
同時代の他の農村日記が面白いように、御多分に漏れず、これも極めて面白い。
特に同じ中山道の宿ということもあって、塩尻の「大和屋富之助」の動向が、
わずかではあるが、確かに記載されており、注目に価する。
富之助は岡田ノ瀧蔵の兄弟分であったと伝わる、やはり代表的な信州侠客である。
- 1202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/24(日) 18:43:57.87 ID:NprBVkDm0.net
- 【第51回江戸時代サロン】
〜間違いだらけの時代劇を斬る〜江戸時代の侠客とは?
https://settsu.goguynet.jp/2019/02/15/edojidaisalon-4/
とき:2月25日(月)10:00〜11:30
ところ:摂津市立コミュニティプラザ第5会議室
参加費:500円(資料代・飲み物代含む)
申し込み:直接会場へお越しください。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:b2de917b728ab9e5558312d80b0923fb)
- 1203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/24(日) 18:49:06.47 ID:NprBVkDm0.net
- ただ忌み嫌うだけでなく、タトゥについてもっと知ろう
https://getnews.jp/archives/2125900
> 江戸時代中期には、和彫が大流行
> 鳶や大工、火消し、飛脚といった肌を露出することが多い職業の人たちや
> 侠客が、カッコよさを求めてタトゥを愛好。
> タトゥ=タブーとなった明治時代
> 明治政府は古い日本の風習を取り締まったもの。
> タトゥもその一つとなり禁止令が出たのが1872年、1948年まで非合法の存在となりました。
> 思うに、タトゥ=アウトローというイメージが強まったのはこの時期。
- 1204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/02/25(月) 00:22:50.90 ID:RSwtE4eI8
- いつも情報を本当にありがとうございます。
自分も本スレッドに書きこめばいいのでしょうが、パソコンに疎い物で、
気づいたらこっちだったもので、今さら戻れんのです。いろんな意味で情けない。
- 1205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/05(火) 23:46:21.24 ID:dUUBYHvd/
- 伊豆韮山江川文庫のデジタルデータベースの公開文書が更新されて
随分増えた。
試しに「無宿」とかのワードを打ってみると確かに新しい画像が出る。
カラーのやつが更新されたものだ。
今の処「大場久八」に関しての新しいものを見ることができ、なかなか重宝する。
ただし見られるのは
ttp://base5.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000002egawa
のページを開いた時だけだ。
「伊豆国田方郡韮山江川家文書(マイクロ)」のページを開いてしまうと
更新部分が見れない。
- 1206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/06(水) 00:11:21.98 ID:cDeKOJ++g
- 伊豆下田の赤鬼金平事由五郎の史料も多い。
菩提寺の海善寺の和尚はどういうわけか、金平のことを高く買っていたらしく
わざわざ僧躰にさせて「弟子」という形で彼を匿っている。
金平に関しては、この他にも
・ヒュースケンに刀を突き付け外交問題に発展しそうになった。
・明治二年に捕縛され処罰された。
などの詳細な史料が
是非とも欲しいものだ。もっともこれは相当に難しいことだろうけど。
- 1207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/06(水) 23:14:50.16 ID:cDeKOJ++g
- 最近岡田ノ瀧蔵の史料を調べているのだが、
彼が確実にその名を出すのは天保11年の古文書。次いで嘉永2年のそれだ。
前者では善光寺門前町の「博徒親分」として、後者では中野陣屋の「目明し」として。
その後、暫く経って嘉永7年、今度は転居をしたらしく更級郡稲荷山宿の「寛吾」という別名で史料に現れる。
この稲荷山宿は岡田村と共に「上田藩」の藩領に入るのだが、寛吾こと滝蔵は、あくまで天領「中野陣屋」の目明しを務めている。
彼が本当に所属していたのが中野陣屋なのか上田藩なのか、これは確定できないが、(あるいはそのどちらもか)、
兄弟分とされる大和屋富之助の住む塩尻村も上田藩領であることを考えると、どうも偶然ではないように思える。
甲州の勤番与力の個人宅の手紙史料によれば、祐天と犬上郡次郎の中を「稲荷山の寛吾事瀧蔵が取り持った」と書かれている。
『東海遊侠伝』では勝蔵を遠州に追いやったのも瀧蔵の仕業とされているので、彼こそは吃安召捕りの最大の功労者と言えるだろう。
耳寄りな情報として、文献史料は欠いているが、地元では「甲州の博奕打ちに仕返しをされて殺された」との伝説があるそうだ。
もう少し裏付けの欲しいところである。没年はまだわからない。
- 1208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/07(木) 23:15:49.99 ID:qA4deyFxt
- 火盗改の長谷川平蔵を本にするならば、
埼玉県蕨市歴史民俗資料館の一番新しい研究紀要(木龍克己氏の論文)の成果を
盛り込まないとという手はないだろう。
この論文に触れていないなら、書籍として優れていてもやや消化不足の感は
ぬぐえぬ。
- 1209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/08(金) 09:00:22.69 ID:WwtSJKTaM
- また酔ってどうしようもない事を書きこんでしまった。
朝になると心苦しい
- 1210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/11(月) 23:56:58.59 ID:jGG8yIECz
- 『勘太郎とは誰なのか?』を読むのを楽しみにしていたのだが…
読んでみると、正直、情報が雑なのに落胆した。
作者は、この時点では「嘉永水滸伝」という講談があるように思っていたようだし、
間宮久八も「甲州の博徒」と表記されている。
「伊奈」を舞台にしているにもかかわらず、鯛屋鶴吉や七栗初五郎ら、実在の人物に触れられることも無い。
また「信州侠客」というからには、八幡代五郎や稲荷山の瀧蔵、塩尻大和屋の史料を期待していたのだが…
- 1211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/12(火) 00:11:00.06 ID:o+FccKEDW
- 嘉永二年の石原村幸次郎一件は、
武州熊谷〜甲州までは幸次郎が主人公として人口に膾炙しているが、
甲州〜駿州、遠州までの間は、むしろ同グループの
青柳の市松、虎之助が主人公となる。要するに富士川に乗る所で役者が変わるのだ。
両者が出会うのは飯能高山不動であるが、おそらくその末路に差が出たのだろう。
幸次郎ははじまりこそ良いが、大場久八に足を切られた為、その最期はあっけないものとなった。
一方市松、虎の助は、最後に身延山の法域に捕り方を招き入れ大騒動を起こし、
遂には「腹を真一文字に斬り裂き」見事な自刃をして果てる。
この最後の一幕だけで兄弟は人の口の端に上ったのである。
- 1212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/12(火) 08:25:44.16 ID:o+FccKEDW
- 『勘太郎』に関してずいぶん意地の悪い事を書いてしまったが…
「勘太郎」と言う架空の人物がいかにして伊奈谷でヒーローとして
認知されて行ったのかと言う点に関しては、文化史と郷土の歴史とから
丁寧に説明しており、
総合的には、興味深い作品となっている。
(批判的に見てしまったのは、「やっかみ」というやつだ。訂正する。)
- 1213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/18(月) 00:53:36.18 ID:VL7C6c7rh
- 武州高麗郡にある高麗神社の神主が幕末期に記した、『桜陰筆記』という日記資料がある。
周辺の生活史が、在りのままに記録されていて大変面白い。
また武州高麗郡と言えば高萩万次郎の居住する高萩宿が入る地域でもあり、日記がカバーする圏内なので、
万次郎事喜左衛門の記事が出るのでは?と期待して読むのだが、なかなか幕末部分には出てこない。
だが一カ所だけ、
慶応四年世上の動揺に物価が上昇したため、博奕打40人程が飯能宿周辺に集まり、不穏な動きを見せ、
この動きに一早く「高萩の喜右衛門」が出動して事が甚大になる前に収めた、との記録がある。
武州一揆の時に暴徒の対応をしたことに並ぶ万次郎の活躍を示す確証ある資料である。
しかし、この『桜陰筆記』。今までに、@『武州世直し一揆史料(一、二)』(1971)、A『日高市史』(1995)、
B『桜陰筆記抄 : 高麗大記の日記』(1970)と、三度、転載される機会があったのだが、
なんと一番古い1970年のそれ以外は「高萩村喜右衛門」が「高萩村彦右衛門」と「誤記」されている。
くずし字は、その史料だけで読みこなすのは難しく、周辺の知識を参考にして翻刻してゆく。しかし、博奕打ちによほど気を払う人でなければ、
喜右衛門だろうが彦右衛門だろうが同じなのだろう。
よって、この場合、一番古い発行の本が一番真実を伝えているという皮肉な結果が出ることになってしまったのである。
- 1214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/19(火) 21:45:19.19 ID:XEEfAkl+c
- 東京都八王子市の北部、石川村や宇津木村と呼ばれる場所にも、
古くからの博徒集団がいたらしい。
ここは、多摩川の南岸をちょっと高台に上がって、滝山街道という古道に
乗った辺り一帯を指す、と考えればいい。
- 1215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/19(火) 21:49:43.99 ID:XEEfAkl+c
- よく名前の出る博徒は
石川村の忠蔵(綽名はビッチュウ)
組頭の忠右衛門の弟で、文政7年の生まれ。
明治の3年までは記録に残っていて、各地で賭場を開いたり、
喧嘩出いりをしている。日野之玉作さんこと玉川要蔵とも対立したことがあったようだ。
面白いのは、どういうツテか、しばらく野州宇津宮に「うどん屋」を開いていたらしい。
ただ、やる時は殺人も辞さない冷酷な面も持っていた。
- 1216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/19(火) 21:56:32.40 ID:XEEfAkl+c
- 忠蔵と同時代に、
石川村の金五郎というのがいる。これも知られた博奕打ち。
一説には忠蔵の親類のようだ。
忠蔵より前には「石川村無宿勇八」という人がいる。博奕渡世とあるからには
その筋のプロだったのだろう。だいたい文化・文政の頃の人。
そして忠蔵の跡を継いだのが、おそらく隣村宇津木村の廣吉。この人は
小金井小次郎の墓石にも「兄弟分・甥分」の位置な名を載せている。姓は石川。
生まれは弘化2年だ。
これを見る限り、恐らく石川村忠蔵が小金井小次郎と兄弟分だったのではないか?
後を継いだ廣吉は、よって小次郎の甥分になる。
今のところ、推測の域をでない。
しかも残念なことに、八王子の外れにあることから考察もないし、聞き取り調査の成果も無い。
この他、宇津木の久保金とかいう親分のいたらしい。
- 1217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/19(火) 21:59:18.61 ID:XEEfAkl+c
- なんか、誤字が多くてダメだ。下に書きなおす。
忠蔵と同時代に、
石川村の金五郎というのがいる。これも名の知られた博奕打ち。
一説には忠蔵の親類のようだ。
忠蔵より前には「石川村無宿勇八」という人がいる。博奕渡世とあるからには
その筋のプロだったのだろう。だいたい文化・文政の頃の人。
そして忠蔵の跡を継いだのが、おそらく隣村・宇津木村の廣吉。この人は
小金井小次郎の墓石にも「兄弟分・甥分」の位置に名を載せている。姓は石川。
生まれは弘化2年だ。
これを見る限り、恐らく石川村忠蔵が小金井小次郎と兄弟分だったのではないか?
後を継いだ廣吉は、よって小次郎の甥分になる。
今のところ、推測の域をでない。
しかも残念なことに、八王子の外れにあることから考察もないし、聞き取り調査の成果も無い。
この他、宇津木の久保金とかいう親分がいたらしい。
- 1218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/22(金) 21:26:32.13 ID:MOPyhP4N8
- なぜ石川村、宇津木村に侠客が多いか
一つの答えとしては
隣村であるにも関わらず、石川村は日野組合、宇津木村は八王子組合に含まれる
という所に在るのだろう。
組合と組合の接合点というのは、やっぱり抜け目なのだ。こう言う所で犯罪が起きた例は多いし、
有力な集団も生まれている。
結局は辻であり、周縁。無縁の世界に近いところなのだろう。
- 1219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/22(金) 22:04:03.71 ID:MOPyhP4N8
- 鈴木平九郎の「公私日記」に石川の忠蔵や金次郎(金平)の記述が多いのは、
平九郎が日野組合の大惣代を勤めたことがあったからだ。
しかし、それを抜きにしても、この「公私日記」(現・東京都立川市の名主日記)はすごい。
カバーするエリアが尋常でなく広い。同時代の武州多摩郡はもちろん、「風聞」に至っては江戸はもちろん
近国の情勢に至るまで網羅されている。
だが、何より貴重なのは、鈴木平九郎という人自身の(名主→組合村の大惣代)
人間的成長ぶりが回を追って見えてくるという点だろう。
小金井小次郎一家の動向であったり、小川の博徒の行く末、その他村々の悪党の跳梁や
百姓への対応、自然災害、家族の死、若者たちの増長と失敗など、(またその知りぬぐい)
こういった障壁を通して一青年が、
押しも押されぬ地域の実力者になっていく。
その傑物が筆を置くのが、老いた母親の死というのも、なかなか象徴的である。
- 1220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/24(日) 19:19:06.48 ID:cPB1Bz/C0.net
- 門口を借り名前を申し上げ
失礼にございますが
お貸元東雲一家
下河原重蔵さんと仰せられる
親分さんのお宅はこちらでございますか
御意にござります
修行中の者です
- 1221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/24(日) 22:36:58.16 ID:k8JglXBs0
- 私は松尾四郎氏を高く評価したいし、
同じく竹内勇太郎氏を本物の研究者だと思う。
青山光二氏も、良い物を書く人だった。
身近な場所では比留間幸一氏や皆木繁宏氏。
そして、存命では植田憲司氏。
他にも浅田晃彦氏、小川三郎氏、河田陽氏、小林計一郎氏…(もちろんこういう人はもっと居るだろう。)
皆在野の士だ。それだけに「知る人しか知らない」方々だが
こういう人たちがやっぱり本物と呼べる任侠研究者だろう。
- 1222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/24(日) 22:37:43.11 ID:k8JglXBs0
- やばい、sageを忘れてしまった。
- 1223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/24(日) 23:05:43.84 ID:k8JglXBs0
- 駿州鞠子宿のあば虎、
うかつだったが、安東文吉の一家だったとのこと。
ということは十手持ちか。
鞠子宿は(府中から来る場合)宇津谷峠のちょっと手前にある。とろろ汁が名物である。
峠を越えれば次は岡部宿。
- 1224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/25(月) 00:45:42.88 ID:xxAJyU3J4
- 桜井誠、西村斉
- 1225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/27(水) 07:37:26.62 ID:obu3+SZn0.net
- 中日新聞 静岡
https://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20190325/CK2019032502000039.html
「森の石松」町の誇り 仮装行列にぎわう
幕末の侠客(きょうかく)で映画や浪曲などでおなじみの
森の石松のふるさととされる森町で二十四日、
「森の石松まつり」(町観光協会主催、中日新聞東海本社後援)が開かれた。
- 1226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/27(水) 22:05:16.94 ID:DQ/GSV3H+
- 八州廻り事・関東取締出役に関して、件の本の影響で
任侠の徒の底力に翻弄され、その形成期から幕末まで後手に回り続けた存在だったとか、
地元の悪徳な村役人・道案内と癒着した退廃的な存在だったとか、
思われがちだが、
これは史料を当たってゆくとまるで違うことが分かる。
その点、八州廻りに関して、的確な評価を下しているのは牛米努(うしごめつとむ)氏。
氏の編纂するところの『関東取締出役:シンポジウムの記録』(岩田書店、2005)は
任侠の研究をしている者でも、携帯していて損はない素晴らしい御本だ。
高価なので、所蔵しているところでのコピーがおすすめだが、歴代出役の表がある点に
他の追随を許さぬ態度が見受けられる。
ちなみに、この書評を書いているのが戸森麻衣子氏であるというのも凄い。
実力者は実力者を知る、ってやつである。
- 1227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/27(水) 22:17:15.09 ID:DQ/GSV3H+
- 御一新が来た時に、甲州街道沿いでは
官軍によって見せしめとして首を晒された二人の博徒がいる。
一人は日野の無宿卯吉、もう一人は宇津木村の無宿和四郎。
もうこれだけでもどこの集団かがわかるだろう。
要するに、幕末期は@府中〜小川間の対立から、A木曽(町田)〜橋本(相模原)
に以降し、御一新の頃にはB日野〜石川・宇津木辺りの対立へと移行していたのだ。
卯吉・和四五郎の同類として手配書に名が上がっているのが、廣吉、金次郎、弥吉、忠次郎、八十吉、
又五郎というのは、なんだか出来過ぎているようにすら感じられる。
今の処彼らのその後は不明だ。
- 1228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/03/28(木) 00:49:14.97 ID:ORbX/y4KD
- 桜井誠、西村斉
- 1229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/08(月) 17:38:44.02 ID:BoWeYR450.net
- こりゃあ何と 驚いたもんだ
秀次郎じゃないか 懐かしいじゃないか
これは兄弟
まあいいから 上がれよ
- 1230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/10(水) 23:02:16.48 ID:e7YyceVJL
- 甲州博徒の大親分として
西保周太郎と三井宇吉が共に有名だが、
両者に接点はない。ただし、生まれた年は同じで、
どちらも寛政9年(1797年)に当たる。
このうち、宇吉さんは生まれ年も巳年、なくなったのも安政四年の巳と奇妙に揃う。
行年は60才。
何かの講談に、この人が出ればどんな喧嘩も収まる「素敵に良い顔」との文言があったが、
何に書かれていたか忘れてしまった。
また、その表現をそっくり子母澤寛氏が使っていたようにも思うのだが…これも失念してしまった。
ちなみに、今日宇吉さんの生まれを「享和二年」(1802)としてるのがあるが、
あれは誤りだ。
- 1231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/11(木) 07:20:32.76 ID:EvE2HUoYE
- 間違えた。数え年だから寛政10年だな。うっかりしてた。
- 1232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 14:09:07.08 ID:kDXc92jqc
- 人は桜木、花は武士。
桜井誠の任侠にかなう者おらず。
- 1233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/21(日) 14:10:15.26 ID:kDXc92jqc
- 冷静に考えて、高度に近代化された現代社会で、任侠的に生きれるか?
なんか特定の「しのぎ」のようなものを持たずにだぞ?
江戸時代や明治時代なら官憲に補足されずに凌いでいく方法ならあったかもしれないがな?
- 1234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/28(日) 02:32:23.26 ID:/7xEIU170.net
- 【元号の風景】(17)明治(1868〜1912年)
静岡市・清水港 「敵も味方も同じ仏」次郎長の男気
https://www.sankei.com/life/news/190427/lif1904270017-n1.html
咸臨丸が係留しているとの情報を得た新政府軍の軍艦「富士山丸」など3隻が入港し、いきなり砲撃をはじめた。
副長らは白旗をあげて無抵抗の姿勢をしめしたが、新政府軍の兵士らは甲板上に乗りこむと、
抜刀して斬りかかり、旧幕府軍の兵士をつぎつぎと殺害した。
遺体は海に投げすてられた。静岡藩をはじめ、漁民らは仕返しをおそれ、収容しようとはしなかった。
このとき、周囲の反対を押しきり、乗りだしたのが一代の侠客(きょうかく)・清水次郎長(本名・山本長五郎)であった。
- 1235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/30(火) 23:35:57.06 ID:AizqMWl00
- 芋窪ノ大五郎
- 1236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/30(火) 23:42:42.58 ID:AizqMWl00
- 芋窪ノ大五郎は
武州多摩郡芋窪村の人。
青梅街道沿いの侠客で、博徒の頭として名を知られるが、
一方で、花会興行なども行い、村に文化をもたらす者でもあったらしい。
自宅は何度か襲撃も受け、手入れも入るが、そのたびに巧みにかわしたらしいことを
地元の資料に見ることができる。(『里正日記』や『指田日記』など)
狭山丘陵南部には、他にも田中ノ定右衛門や富士山村佐吉などがいる。
北部林村の利平・利八なども、後年は南部の藪敷村に住んだようだ。
大五郎の墓石は、すでに風化が進みほとんど読むことができない。しかし
直近の地元では「大親分だった」として威光が残っている。
- 1237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/04/30(火) 23:46:52.03 ID:AizqMWl00
- 中藤田中ノ定右衛門は
博労の大親方で、その道で多くの門弟を持つ。
なので、その墓石に彫られた人名のほとんどは「弟子」のようだ。
しかし、上記の大五郎なども施主に名を連ねているので、やっぱり
博徒親分としての側面も持ってたらしい。昭和初期の『狭山の栞』にも
彼の事が出てくることからすれば、地域で隠れ無き大物、あるいは名物男だったのだろう。
確かなことは言えないが、大五郎と定右衛門は兄弟分だったのではないだろうか。
- 1238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/05(日) 23:00:45.13 ID:vTVsyZqyE
- 甲府新柳町の京庄楼の主人
京屋庄八郎は、明治の甲府を代表する侠客だろう。
文献調査・研究はあまり多くないが、明治27年甲府の火消しが二手に分かれて
大きな喧嘩をした際には、その仲介に入って事をおさめた。(この時、
もう一方の火消しの雄・相撲定(だったか?)も入った)
庄八郎の父は宇助(金五郎)で、その祖父が伝六。
代々遊郭「京屋」を営んだ。
伝六は甲州の産で、代表的な岡引。おそらく三井宇吉の子分に当たる。
宇助は駿州藤枝あたりの生まれで、庄八もそこを出自にしている。ともに
遊女屋を営みながら、目明しの親分でもあり続けた。
後年、庄八郎は安東文吉の一派に属した、というが、出自が駿州ということも
その大きな理由だったのだろう。
- 1239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/06(月) 20:31:56.94 ID:eb0AJL487
- 伝六、宇助、庄八郎、姓は「林」
宇助は伝六の養子になったようだ。また伝六自体は郡内谷村の生まれともいう。
甲州の大親分三井宇吉が殺害された際に、京屋伝六と倅宇助が連名で
手配書を作成している。ちなみにこれを読むと、
当時の「人相書」が、実際に探索・捜査にかなり有効に活用されていたことがわかる。
- 1240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/06(月) 21:01:17.84 ID:eb0AJL487
- ずいぶん「場違いな」とも思われるかもしれないが…
「侠客」の心根として、
それを体現した人として、
「コルチャック先生」を挙げたい。
えらく飛んだ人選と思われるかもしれないが、「子供の日」もあったし、
ちょうどいいだろう。
弱い立場に立つこどもたちに寄り添い、励まし、ともに亡くなった人だ。
自分より強いものにも毅然として立ち向かい、(こどもに暴力を振るうナチス党員に一括し、圧倒した。)
最後まで愛情と人間としての尊厳を失わなかった。
彼に比べれば権力を以て、歴史的に「英雄」などと謳われる人間など、
なんの価値もない。
侠客といったら彼はまぎれもなく侠客だし、市井の人間、
一介の教師だって、気持ち次第で侠客になれる、という最高のお手本だ。
- 1241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/12(日) 23:30:55.53 ID:D8GXU+8P8
- 最近博徒のことで多く言及している人が
講演をするというので、出席しようとしたが
遅刻してしまい、現場まで来たが、中に入ることができなかった。
われながら本当チキンだと思う。
- 1242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 01:05:14.62 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke 2019年5月11日
明日SF乱学講座で「幕末ヤクザをどう描くか」という講師をするので、
集めた資料を読み直しているが、
上州では博徒が古墳(玄室や横穴墓など)を利用した賭場を開帳することがけっこうあったらしい。
「古墳ヤクザ」という相当にパンチのある言葉を思いつく。
古墳ヤクザ、何か心惹かれる。
- 1243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 01:13:04.77 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke
これは以前もツィートしたが、
昔のヤクザが賭場をどう開いたかの手がかりとして、
「民家スケッチ紀行」という本に群馬の四万温泉にあった
「博奕打の家」の間取りが載っている。
- 1244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 01:16:17.88 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke
この家は廊下のない全7部屋の家で、
中央の6畳で博打をし、周辺の部屋には見張りがいて、
一方からお上が踏み込んで来てみて、
反対方向に逃げられるように入口や窓が四方にあったらしい
- 1245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 01:25:22.16 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke
「群馬県遊民史」という本で紹介されている賭場に使用されていた民家は、
二階が賭場で脱出口が設けられていたとのこと。
白土晴一 @manetoke
賭場の建築を研究している人はいないんだろうか?
- 1246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 01:34:48.70 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke
ちなみに賭場ではないが、以前取材した甲州博徒の国分三蔵屋敷跡。
今は石垣しかないけど、この石垣が立派だった。
大親分の吃安や黒駒勝蔵を相手にした親分で、
幕末甲州ヤクザ抗争の中心人物だけに
財力や地位を感じさせるのに十分な感じさせる作りだった。
- 1247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 01:47:19.36 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke
ちなみに割と調べると、ここに賭場があったという記録は結構あるけど、
今もあるお寺や神社の境内なので名前を出しにくい。
賭場の場所代を「寺銭」というくらいだからねぇ。
明治になっても「○○寺の祭礼に賭場が立って、
混雑するから警官が整理に派遣された」なんて記述を見ると、なんとも・・・。
- 1248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 02:09:28.99 ID:80VrI6010.net
- 白土晴一 @manetoke
天保水滸伝で有名な笹川繁蔵親分が地元の笹川の諏訪神社で奉納相撲を催し、
花会(博徒仲間に回状で呼んで行う臨時の賭場)を開いて
関東一円から親分が集まったという話もあるが、
こうなるともう観光資源なので問題もないんだろうけど。
- 1249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 13:54:48.87 ID:mlShJi+70.net
- <奥羽の義>番外編・列藩同盟群像(1)多くの伝説 型破りな生涯
> ◎仙台藩「からす組」隊長 細谷十太夫
> ゲリラ部隊「からす組」を率いて30余戦無敗。
> 新政府軍に恐れられた仙台藩士細谷十太夫の生涯は、多くの伝説に彩られている。
> 戊辰戦争勃発後、探索方(諜報活動)に従事し、侠客や博徒と人脈を築いたことが転機となる。
> 白河で大敗した仙台藩のふがいなさを嘆いた細谷は、彼らを集めて「衝撃隊」を結成。
> 夜襲を仕掛けて新政府軍に勝利を重ねた。
> 隊員が黒装束だったため、からす組の異名が付いた。
https://www.kahoku.co.jp/special/spe1195/20190407_02.html
- 1250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 19:32:40.34 ID:HlfUu1Fj0.net
- 甲州侠客傳 竹居の吃安 純米吟醸 【山梨県】
https://www.47news.jp/2848916.html
日本酒研究会月例会 全6回の2
瓶の裏のラベルは吃安について、以下のように紹介している。
竹居の吃安(1811〈文化8〉〜1862〈文久2〉)
本名を中村安五郎という。
八代郡竹居村(八代町)の名主中村甚兵衛の四男に生まれた。
しゃべる時どもるので『吃安』と呼ばれた。
子供の頃、家を勘当されて吉田の人斬り長兵衛に預けられたのがきっかけで博徒の世界に入った。
賭博によって捕らえられ、伊豆の新島に流されたものの七年後、島を破って甲州に戻り、黒駒の勝蔵一家を引き立てた。
男伊達を看板に義理と人情の世界に生き、村人からも慕われた甲州の侠客の大親分の一人である。
- 1251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/13(月) 23:14:50.00 ID:Q0WpfzYbO
- 竹居吃安(安五郎)が、新島から抜けて
御坂道経由で、故郷に帰ってきた際、真っ先に母親のもとを訪れたそうだ。
母親は、嬉しくともすぐ手先が嗅ぎつけることを見越して、安五郎が実家に
泊ることを許さず、すぐに発たせた。
しかし、その時、やはり心に思うところがあったのだろう。
餅を十三切れ、包んで息子に持たせたという。
この「十三」という数字に何らかの意味があったのか、なかったのか、
と松尾四郎は言うが、
私はやはり子を思う親の気持ちがなす、何かがあったと思えてならない。
- 1252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/16(木) 21:37:35.83 ID:axE0jU3DZ
- 新宿の角村巳之助
- 1253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/16(木) 21:40:10.04 ID:axE0jU3DZ
- 間違えた
角村巳之吉
- 1254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/16(木) 21:48:09.07 ID:axE0jU3DZ
- 角村巳之吉は、明治初旬の四谷署の巡査なのだが、数多の「子分」を持ち、
彼らを使って探索を行った。自身はいわゆる幕末期の岡引、道案内の
生き残りだったのだろう。
探偵実話『黒須大五郎』に登場するが、実在の人物。
お茶の水の女学生殺人事件の犯人を捕らえたのも彼だったという。
明治の初期には、警察の影の協力者として公然と博徒・任侠の親分が存在していた。
似たような話は各地の明治期の新聞に多数報告されている。
- 1255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/18(土) 09:10:46.82 ID:VTeh+trpn
- たしかに博奕打ちに関する内容が、歴史学論文の趣旨にといって異質なのは
わかるが、
さすがに一年半も自分の手を離れて、未だに論文雑誌が刊行されないのは
心苦しい。
ゆるやかな自死に至りつつある大学だから、この腰の重さはある程度予想していたが
想像以上だった。
- 1256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/19(日) 23:36:48.83 ID:cUN9pmv60
- 「武○野○さと歴史館」は、
地元の大侠客である新橋長蔵氏について質問したのに、
「不明です」と言って調査すらしてくれなかったのに、
当の本人が菓子屋を開いていた際の「許可証」を、それと分からずに
常設展で展示している、
そういう無神経さ
つまり「侠客・博徒の親分なんて歴史学の対象ではない」
と思ってる態度が、ありありと知れて、それがすごく嫌なのだよ。
功なり名を上げた学者が、その一門と共に天下った先という位置づけなのは
見る人が見ればすぐわかる。
しかし、このご時世、そんな風に余裕こいていられる場所なんか、
本来無いはずなのだよ。
- 1257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/20(月) 01:14:21.20 ID:UqlBpPuI0.net
- 親分、てぇーへんだ! 悪党はあっしらだとバレやした 『江戸の目明し』 | J-CAST BOOKウォッチ
https://www.j-cast.com/bookwatch/2018/10/20008106.html
> 目明かしの実態は改心したとみえる元犯罪者であり
> 「一般の町人が目明しになるのはおかしい」と著者は指摘する。
> その前歴から江戸の裏社会に通じており、役人にとって情報収集にはうってつけ。
> 「蛇の道は蛇」。犯罪の手口に詳しければ捜査にだって役に立つ。
> 著者は、将棋史や盤上遊戯史、賭博などについての研究者。
> 遊戯史学会会長を務めている。賭博についての著作を準備中に、
> 江戸の博徒を調べている間に目明しに行きあたり、さらに資料に当たるなどして本書を著した。
- 1258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/20(月) 22:12:58.59 ID:mklBDZZMT
- 一つの場所で起きた事件や、その地域の推移を知るには、
少し離れた場所の情報や伝聞を見るのが良い時がある。
下手なバイアスもかからず、これが意外と多くの「見方」を教えてくれることがある。
(こんなの言わずもがなだが…)
そんなわけで信濃国に回覧された御用留や廻状留をみると、他国の事がわかったりする。
たとえば慶応二年の武州一揆は
「米価高値」につき、「上州・武州」地域で起きた百姓による大騒動だった
と、単純にして要領よく理解できる。
そして、これと並列して信州で回覧されてたのが、甲州石和辺に蜂起した博徒集団の取り締まりだった、というのは興味深い。
要するに、甲・武・信・駿・相州にわたる黒駒勝蔵一党の「刈り込み」である。
前者は六月、後者は四月と極めて近い時期に起きているのだ。
勝蔵という人間も粗野なエネルギーの裏に、勤皇博徒の思想があり、
さらに、それを利用した勢力があったことが最近示唆されている。
武州一揆も、多くの研究にも関わらず、
誰が、一体どのような目的の元に始まったのかが、いまいち腑に落ちない。頭取りと言う「名栗の悪惣」も何故急にこんなことをしたのか。
というわけで、両者が並列して並べられていると、その間に何らかの関係を穿ってしまうのは仕方がないことだろう。
ただ、決めてになる証拠がなければしょせん唯の空論。
- 1259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/20(月) 22:19:53.26 ID:mklBDZZMT
- 博奕打ちが、諸国の親分の元へ一宿一般の挨拶をする時に
肝になるのは「てぬぐい」という品であることは、前に上げた。
同じように親分が興行をする際には、有力者やご近所へ、
やっぱりてぬぐいを配ってる。(甲州では「てのごい」な。)
今でも引越しするとご近所へてぬぐいを配るが…
いまっさらこんな事考えるんのも何だけど、
あれは何でだ?
- 1260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/24(金) 23:03:23.63 ID:IUa72bdFj
- 江川文庫が新しく開示した文書の中には
嘉永二年に大場久八をかくまった家に手入れが入った際の文書も含まれている。
相州安良里村の某の姉だかは、身を呈して久八一党をかくまった、と記される。
この女性、名を「もん」と言う。
早くに女房に死に別れた久八が後妻として迎え、以降なにこれと
そつなく久八の世話をしたのは「おもんさん」という女性であったことは
周知の事実である。
- 1261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/24(金) 23:24:06.30 ID:IUa72bdFj
- 江川文庫の「公事方御用留(日記)」は博徒・任侠の者の記録の宝庫では
あるが、いかんせん、量が多い。(好きだから見る分には苦労しないが)
ただ、下田の記述で、文久三年あたりのそれは
いきなり、「今日宿内で首のない男の遺体が見つかった」とか報告されていて
衝撃度Aランクである。
そして読み手はほとんど気づくように、これは金平の仕業だろうと思われる。
数ある者のうちでも伊豆の金平、宮島の年蔵、本市場の金七の三人は
いざという時の残忍さの度合いが、ちょっと他の者たちと違いすぎるように思う。
もちろん「時代の風」というのもあるのだろうが。
- 1262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/29(水) 21:23:47.76 ID:reHJ8cAVd
- 信州権堂村の島田屋伊伝次は、当地に隠れ無き大物である。
彼に関して、以前『高井』や『長野市史考』を挙げたが、
なんと2009年以降、京都橘大学の研究論集に
権堂村の遊郭であった島田屋の古文書類を翻刻して収録なさっていることを知った。
これを主に行ってるのは横田冬彦先生。
実物を見てみたら確かに島田屋伊伝次が各所に顔を出し、
中にはまだ彼が越後に居たころの史料さえある。
だが、それ以上に、この史料群は近世後期の遊女に関する豊富な情報を与えてくれる
すごいモノだ。
残念なことは、これほどの代物でありながら、アクセスがしにくい媒体であるということか。
国会図書館まで足を運ばなければ、関東地域ではまず見る事が出来ない。
しかし、存在が知られ、見る人がみれば極めておおくの成果を導き出せる
研究史料となるだろう。
京都橘大学所蔵・信濃善光寺門前茶屋「島田屋文書」(1〜5)
京都橘大学大学院研究論集(2009〜2012) 横田冬彦
- 1263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/29(水) 21:27:58.49 ID:reHJ8cAVd
- …ここで文章を書くと、全体文がどうなってるか確認ができないもので、
よく文の主語と動詞、目的語の位置関係がおかしいままに乗ってしまう。
あと、誤字も多くする。(言いわけにすぎないのだけれど。)
というわけで、
「京都橘大学の研究論集に
権堂村の遊郭であった島田屋の古文書類を翻刻して収録なさっていることを知った。」
の部分は、
京都橘大学の研究論集に、識者の先生が
権堂村の遊郭であった島田屋の古文書類を翻刻して収録なさっていることを知った。」
に代えておきたい。
- 1264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/29(水) 23:10:26.59 ID:reHJ8cAVd
- 武州 栗原村の権次郎
- 1265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/29(水) 23:12:49.13 ID:reHJ8cAVd
- 栗原村の権次郎は
『探偵実話・黒須大五郎』に名前だけ出る親分。
幕末から明治5年くらいまでにかけて、青梅街道北部を領し
その一帯を田無の徳蔵と二分していたという人。
- 1266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/30(木) 23:46:18.70 ID:n8z9YwxXD
- 講談『小金井小次郎』には
小次郎とはほぼ関係の無い全国の親分たちの名が次々と現れ、
そこが帰って面白みになっている。
揚名舎桃李事態が、とにかく取材に熱心で、土地の古老や事情通を
歩いて情報を得た、というので、
講談ではあるが、それらは貴重な文献資料となりうる。
甲州塩山一帯を持つ親分に「塩山藤太郎」がいて、講談によれば
隣村正徳寺村の太八としばしば事を構えたという。
ちなみに、太八は吃安の兄弟分。藤太郎は三井宇吉の子分筋に当たるものだという。
確証は今一つ欠いているが、この藤太郎、
おそらくは「上塩後村藤太郎」、別名「平右衛門」ではないかと思われるのだ。
- 1267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/30(木) 23:53:11.52 ID:n8z9YwxXD
- この上塩後の平右衛門が現れる古文書が
先ほどtwitter上で挙げられてるのを見て正直驚いた。
自分は、そこにアクセスできないが、
いずれこのような貴重史料がパソコン上で容易に見られるようになったことは
歓迎すべきことだろう。
- 1268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/05/31(金) 23:15:27.47 ID:q4hPSyHEE
- 侠客とは関係ないかもしれないが、
以前上の方(749あたり)で次のようなことを書きこんだ。
「ついでと言っては何ですが同日記慶応4年5月6日に彰義隊の隊士で
身の丈6尺の豪傑が一人で海軍18人と戦い、目覚ましい働きをした、
という部分があります」
この人物、どうも柳剛流の剣術家で彰義隊に入った小川重助ではないかと
思うに至った。
根拠は蕨市民俗資料館の研究紀要(6号)小林雅助氏…(と、私のメモにはある。)
切った相手は16人ともいうが、いずれにせよ、他の史料同士を突き合わせることで事実性が証明できる。
- 1269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/01(土) 00:01:26.06 ID:3It8tub0V
- あのさ「学○大」さんさあ。
一年半も論文雑誌未刊行の状態にされたら、在野の研究者なんか
次の手が打てなくて干上がってしまうのだよ。
月毎に「次の月に刊行予定」って替えていくけど、こっちはエサをもらう猿じゃないんだから。
そんなやり方で納得はしてないよ。(態度ではえへへと笑っているがね)
まあ、立場は弱いからね、呑むしかないけど。
論文って書いて、刊行されてからが本当の勝負だってのは、
狭い研究室にいる人たちには認識されてねえのな。
- 1270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/01(土) 23:25:16.16 ID:3It8tub0V
- 韓信は能力があるから、下手な待遇されたら居なくなる。
で、それでいいのだよ。蕭何みたいな人間がいなければ、連れ戻すことなど
到底思いもよらない。(わからなければ漫画・横光版の「項羽と劉邦」を読んでくれ。)
だから「武○野○○さと歴史館」が、気鋭の博徒研究者(任侠研究者とは呼べない)
を失ったのもむべなるかなだ。
もっとも本人だって相当な野心家であったのは確かであって、小さな機会から
大きな運をつかんで大成した。ただし、任侠の研究から、絶対的に離れてしまったが。
- 1271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/03(月) 00:04:57.37 ID:fceMbah7r
- 天竜川の西岸、磐田からまっすぐ北へ向かう。
秋葉街道と名付けられるだけあって、昔の面影を残す言い道を
行くと寺島というところに出る。この一角の大きな寺に、都田吉兵衛の弟
梅吉、常吉、さらに兄弟の父である源八の眠る墓碑があると聞き、
行っては見たものの、どれがそれだかわからない。
身体も疲労していたので、「こういうこともあるだろうよ」とあきらめ、
帰り道には何年に一度と言われるほどの台風の中、
朝方にもかかわらず大雨にぬれて次へ行った。
そんなことを、今時分ありありと思い出す。その時の次の目的地は、
天竜二俣にある行栗の初五郎さんの墓石の探訪。
こちらの方は運よく、住職が寺の門前に残しておいてくれたので、
線香をあげて手を合わせることができた。
忙しい今日になると、やっぱり旅はいいものだな、とその時のことを思い出す。
それが人生を本当に豊かにしてくれる。
- 1272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/03(月) 00:16:06.90 ID:fceMbah7r
- かの都田吉兵衛が縄張りとした「都田」は、今では
笑ってしまうほど近代的な道路と町割りがされている。「テクノ都田」とか言うらしい。
まだ、人が本格的に居住して馴染んでいるようではないが、
それでも数年のうちに、それなりの計画都市になるのではないか。
(あるいはならないままかも)
面白いのは都田川と、丘陵(山?)を挟んで南側に出ると
昔ながらの山がちな畑の風景に、いきなり遭遇する。坂一つ北へ超えると
近代的な人工設計都市に出る。
このギャップは源八、吉兵衛らも想像だにしなかっただろう。
ちょうど丘陵の手前に、吉兵衛の家跡がある。行った時は看板が立っていたが、
今でもあるだろうか。
- 1273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/15(土) 16:08:59.64 ID:92o0jc8wV
- 人は桜木、花は武士!
在特会!日本第一党!
桜井誠、西村修平、黒田大輔、瀬戸弘幸、西村斉、川東大了!
- 1274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/19(水) 17:19:06.27 ID:pBr1nazF0.net
- 言葉は相手の為にこそ。
山岡鉄舟が清水次郎長に教えられた真の「頭のよさ」とは?
https://news.nicovideo.jp/watch/nw5510612
- 1275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/19(水) 23:35:17.80 ID:Z4eawAZ8M
- 大和田の友蔵事磯部友蔵氏が「警視」とされている例を前に出したが、
どうも岡引、いわゆる組合村の道案内で
明治以降は「警官」になったという人は結構多い。
黒須の茂助事 畑茂助も『埼玉県史料叢書1』の「褒賞」によれば
巡査・畑茂助とあるし、
他にも下板橋の馬之助事 石田馬之助や
白子村の仙蔵事 並木仙蔵なども巡査になっている。
そして、どうも彼らは、巡査になる以前から、探偵業を私的に行っていたり、
奉職してからも、もっぱら隠密捜査やおとり捜査に、
その力を発揮したようだ。
ただ今のところ、どういう経路で岡引が警官になり、
また、どのような立場に置かれていたのか、といった点に関しては全くわからない。
- 1276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/20(木) 00:11:35.60 ID:yd9MA2WCt
- 俗にいうところの「キツネの嫁入り」というのは本当にあって、
これは八ヶ岳のふもとの村に生まれた私の祖父もよく言っていたのだが、
「たしかにある」そうだ。
キツネは集団で走ると、その目が夜赤く光る。そいつが何匹も列になって続くので、
遠くから見ると赤い閃光が一列に続くように見える、とのことらしい。
祖父は大正生まれだったが、村の祭りで「鉄砲」のおもちゃを買った夜に、
真っ暗な中家に帰る時、それを見たそうだ。
今となると、キツネの嫁入りよりも、
そんな小さな山中の村でも鎮守の祭りの時は香具師がたくさん来て店を張り、
立派な長銃のおもちゃが当時からあって、
後に世の中の酸いも甘いも経験した祖父が、子供ながらにそんな祭りやおもちゃに
熱を挙げていた時期があった事の方が興味深い。
もちろん、親類や本家筋の大尽が、その地方の賭場に行って家財を傾けたり
家宝を博奕のかたに取られてしまったなんて、しょちゅう聞く。
山がちな地域では、どうも自然につくられた「穴(洞窟)」が身近にあって、
そういうところで賭場が開かれたそうだ。
- 1277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/20(木) 00:14:05.89 ID:yd9MA2WCt
- しょちゅうじゃなっく「しょっちゅう」だな。
口語では始終使うが、漢字だとどう当てるのか。まったくわからぬ。
- 1278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/22(土) 22:50:07.67 ID:g6IO8pPDS
- 近世後期だと、
俗に博徒は「長脇差」「遊び人」「博奕打ち」「無職親方」などと言う名称で
呼ばれるが、「渡世人」という呼び名はない、と思っていた。(三田村エン魚もそう言ってる)
しかし、「博奕渡世人」という名称で呼ばれる例が天保14年、武州柴崎村(立川)
「公私日記」にあることを知った。
ここから、単なる「渡世人」に流れてゆくのなら、意外にこの名称も今後、幕末期の文献には
現れるかもしれない。
- 1279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/22(土) 23:00:09.16 ID:g6IO8pPDS
- 週刊多摩新聞の連載小説「小金井小次郎実動」には、
布田宿の大総代原惣兵衛の弟として治安警察のような立場を務めた
関東友五郎という人が出るが、あるいはこの人は元「友之助」と言ったのかもしれない。
友之助は布田の銘家・原家の出で惣兵衛の弟であるが、幕末期には大変な放蕩者で
自家ならびに周辺に多大な迷惑をかけている(そういう形で記録されている)
ただ、その筋では顔が聞いたらしく、捕縛された藤屋万吉に面会や見舞に行ったりもしている。
要するに若いころは同じ様な境遇の者だったのだろう。
金持ちの二男でちょっと才気があって、周囲からも立てられた。
ある者はそのまま博徒の親分に担ぎあげられ、ある者は成り行きで村役人や地域の実力者になってゆく。
元は似たような者なのだろう。
- 1280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/22(土) 23:20:43.21 ID:g6IO8pPDS
- 日野の名主にして、後に凶徒となる隼太事七郎右衛門は
嘉永二年以降剃髪して僧籍を名乗る。その法名は「恐入」という。
この諧謔にはまさしく恐れ入る。
長いことこの人の法名がわからなかった。
文書中で恐入と急に出たので、七郎右衛門(隼太)が何かに憚っているのか?と
思っていたのだ。
この男、一ノ宮万平の時代から、多摩地域では何これと話題を振りまく博亦打ちである。
同時代には万平、初代藤屋和十、福本屋源太郎、三ツ木村忠蔵、林村利兵衛などがいる。
- 1281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/23(日) 23:18:55.90 ID:hptSW+eo/
- どうも七郎右衛門ではなく、七郎左衛門が正しいようだ。
この人はとにかく名前が多い。
「隼太」であり「七郎左衛門」であり、また「蘇六」とも言い、「恐入」でもある。
身体能力も抜群であったらしく三田村鳶魚も著書の中で、「梯子責」の実例として
彼の捕縛の場面を挙げている。
ご存知のように、染っ火事の直後に、被害者の親類によって殴打され落命しているのだが、
その際の傷跡は鈴木平九郎によって詳細に記録されている。
- 1282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/23(日) 23:36:27.62 ID:hptSW+eo/
- 保下田の久六は、亀崎の陣屋に出入りする目明しだったとされる。
どうもこれはありそうな話であるが、
目明しが殺害されたのなら、相当な確率で当時の村落の話題に上がったはずである。
というわけで、多分どこか東海の、とくに乙川近辺の農村日記には
彼が殺害された一件が記されているはずである。運がよければ「長五郎」の名も出るかもしれない。
そして、名もあり、子分、盟友も多い親分であったというのなら、
きっとどこかに墓石も存在するはずであると思う。
- 1283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/25(火) 23:04:23.38 ID:ub789p0vz
- ここ数週間の自分の書き込んだものを見てみたら、
なんとも偉そうなことばかり書いており、我ながら本当に恥じ入る。
書き込むときは良い気になって、書き込めば何かしら気持ちがおさまるのだから
ついつい書いてしまう。
インターネットというのは恐ろしいものだ。
自制心や品性が無い自分のような者が利用すると、まったくこのザマだ。
- 1284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/30(日) 23:04:45.57 ID:Up6y5TgZ3
- 甲州八代郡下曽根村には弥十郎という親分がいたそうだが、
今はどうやってもその噺、墓石等が見つからない。
ただ、たしかにこの地域は博奕が盛んで一家があったらしく、
おそらく弥十郎の子分だったと思しい者たちの手配書などは、わりとある。
山梨の市町村誌をみると「下曽根の廣八」という男の人相書がよく出る。
廣八は駿河の梅吉と対で挙げられているのだが、
駿河に回覧された同じ手配書には、
「これを今日、安東村文吉子分の金五郎が持ってきた」と書かれており、
むしろ安東文吉の名がでることで価値を目を引く資料となっている。
(これのほかに文吉が出る史料を自分は知らない。)
- 1285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/30(日) 23:09:24.00 ID:Up6y5TgZ3
- 下曽根は、(本当に来るとすれば)リニアの立ち寄る駅の建設地ときわめて近いので、
多分土地は買いたたかれて、数年の後に家々が立ち並び、今の風景は
様変わりしてしまうだろう。
近代初期の昔から(ひょっとしたら近世以前から)おそらくそのままだったろう
地層や自然が残るいい所なのだ。
傍からみれば何も無いのかもしれないけど、見る人が見れば
本当に涙が出るくらい良い所なのだよ。
- 1286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/06/30(日) 23:23:05.58 ID:Up6y5TgZ3
- 真鶴の喜左衛門
- 1287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/02(火) 23:31:21.34 ID:EZthHkxBS
- 祐天仙之助は、しばしば新徴組の癌のように言われる。
まともな思想も実力も志もないかのように扱われる。
対比されるのは武士である根岸友山とか近藤・土方などだ。
「博奕打ちのクセに伍長などおこがましい」というのが主な論調だ。
しかし、生前、錦絵に書かれたように、当時では親分の敵を討った
悪漢ヒーローとして世に知られていたし、目明しとしては、十分実地で経験を積み、
実際に地域の治安維持に役立っていた。更には員数を連れて浪士に参加したのだから、
彼が伍長だとしても別段全くおかしくないのである。
なお、よく浪士隊参加の建前として、直前に「山本」を名乗ったと言われるが、
確実な文献から安政6年にはすでに、その姓を名乗っていたと判明する。
僧籍を捨て、彼は一介の人物・山本仙之助となっていたのだ。
- 1288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/02(火) 23:39:04.16 ID:EZthHkxBS
- 今だと古本屋で百円くらいだが、子母澤寛氏の『遊侠ものがたり』
正直言って目が覚めるくらい面白い。
中には「投げ節弥之」みたいに、「こんなんでいいの?」と思われるような結末のも
あるけれど、やっぱり作家の力量も数が質を作るのだ、と思い知らされる。
それだけでも読む価値がある。
さらに言えば、子母澤市は、自分が採取した「聞き書き」を、
どこに入れてくるかわからないから、ほんの一二行に大事なことが現れるともかぎらない。
亡くなってすでに何十年もたつのに、氏の著作からは今でも
さまざまなことを発見することができるのだ。
- 1289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/02(火) 23:44:49.35 ID:EZthHkxBS
- 中山義秀の『平手造酒』と、この『遊侠ものがたり』中の
子母澤が書く平手造酒(深喜)とは、同一人でありながら、
描かれ方がまったく正反対である。
どちらも甲乙つけがたい。
- 1290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/05(金) 22:31:55.22 ID:Jpxl73Dht
- 少し気を使って書かねばならぬ分野だが、
関東の非人が全て団左衛門の統括かと言えば、そうではなく、
たとえば甲府なら甲府牢番・三井、藤曲氏の統括だった。天保4年に
藤曲氏が追放されると、維新後解放令が出るまで、三井氏の配下におかれることになる。
なお非人と違い、穢多は、甲府の一本柳善九郎、市川大門の浅平、高畑の善四郎(だったか?)の
三分統治となっていた。
よく知られているように、一般百姓から非人への移行というのは(戻りも含めて)
わりとよくあった。そして大店の商人よりも金をためている非差別身分の者も
多く致し、何しろ「番人」として村落を守っていた程に、
彼らの内には送伝してきた武術を修練し、
腕の立つ者も多くいた。(『豊秋雑記』によれば関西の橋を守備する非人は
武術の達人だったとされている。)
彼らの多くは昭和初期、大正期は確実に、まだいた。
その後、ある時突然に姿を消し、二度と表に出てこない、というパターンが
全国の聞き書き資料に記録されている。
- 1291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/05(金) 22:39:10.45 ID:Jpxl73Dht
- 博奕打ちは「無宿者」なので、しばしば非人・穢多出自の者とも
共に行動する。実際には彼らの内には様々異種感情があったのだろうが、
少なくとも普通の百姓身分よりも、両者の接近はあったように見える。
つまるところ、博徒には当時の「世間」以上に「人種」あるいは「クラス」的に
「平等」の原理が(結果的に)存在したということが言えると、
これは主張しておく。
要するに侠客は一般より「下」にたつからこそ、同じような身分制度で弊害を受けているもの
を邪見にしない性質があると言えるのだ。
- 1292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/05(金) 23:20:43.24 ID:Jpxl73Dht
- 東京都立川市は馴染みある土地で、今ちょうど市史編さんのまっさかりなのだが、
驚くこと「清見潟又市」に認知度が地元でも極めて低い。
もっとも市史編さん員、中央図書館司書、民俗資料館職員がこぞって
知らないのだから、仕方がない。
かえって東海地方、特に岡崎へ行ったた方が彼の真価が知られている。
豊橋の悟真寺の表門すぐそばに、平井雲風、常吉連盟の供養碑(墓石?)が建立されている。
これとて地元では知られていなかった。
誰かがやるだろう。とみんなが思いこんで、結局誰もやらなかった。そして
地元でも知る人がいなくなり、歴史が消える。
そういう所は全国に多いだろう。
- 1293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/06(土) 07:57:03.91 ID:WDAKrVIUU
- 非人が善九郎の統括
牢番がそれ以外の人の統括でした。
すみません。
- 1294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/15(月) 20:17:11.74 ID:JoFKSAyZv
- 灯台もと暗し、とはこのことだ。
安東文吉に関する確実な資料が『静岡市史』にでてるなんて。
井川の殿様事海野信茂の日記には
博徒親分としての安東文吉の姿がありのままに現れてくる。これは昭和54年の出版。
これを確認せずして「これのほかに文吉が出る史料を自分は知らない。(ドヤっ)」
みたいな事を書きこんでしまったよ。
同資料には安倍の由も出るらしく、博奕の様子だけでなく、安東一家の者が
信茂宅を訪ねる際に「手ぬぐい」を必ず土産に持ってきたり、
また文吉が駿府紺屋町御陣屋の御用(目明しとしての仕事)をしていることも確認できる。
賭場も豪勢だったらしくたくさんの食べ物や酒が費やされたこともわかる。
何度も書くが54年に出版されたものだ。
新しい史料ばっかり探すよりは、既にあって目立たないでいる史料に目を向ける方が
ずっと大事な事の様だ。
- 1295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/15(月) 20:29:23.25 ID:JoFKSAyZv
- また、これは偉大な任侠研究の大先輩に教えていただいたことだが、
まさか「国分三蔵」を主人公にした新聞連載小説が存在しているとは、知らなかった!
しかも、作者が途中で投げてしまい、20話でおしまい。未完に終わっている。
それでも前半部は極めて有用な内容が書かれていて
三蔵の実父が小田原藩浪人であり、村の娘と結婚して文政元年四月に三蔵が生まれたなどという
話は作者のしっかりとした取材の跡があり、信ぴょう性がある。
(なにしろ小説自体明治一七年のものだ。)
三蔵の親分は、川俣の熊五郎とのことで、今でいえば埼玉県羽生市。
嬉しいことにまた調査の幅が広がるというものだ。
- 1296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/15(月) 20:35:37.94 ID:JoFKSAyZv
- 三蔵の墓石によれば、没年は明治二年四月二十一日。
よって誕生年の文政元年(上記)とあわせて五二歳没で良いように思う。
ちなみに、この墓石を教えてもらったのは本当に信じられないような偶然で
山登りが趣味の女の人にたまたまご教授してもらった。
その後、お礼の連絡を取ろうとおもっても一切消息がつかめず、お名前もわからない。
あの時聞いておけばよかったのに、と思う事が
私の人生ではありすぎて、自分のうかつさがいつも悔やまれる。
- 1297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/19(金) 23:53:50.59 ID:Owaw2H3yX
- 角田桜岳日記によれば
丹波屋伝兵衛(善兵衛と表記される)は弘化年間には
すでに一丁前の親分として扱われ、彼は江川代官所にとらえられるが、
そこから牢抜けをしたことが判明する。
その後、善兵衛は再度捕らえられた、とされるが、実はそれは善兵衛の子分とのことが
後にわかる。
おそらく伊豆韮山江川家文書の明治4年の「書状」を作成した
「伊勢古市番屋竹之助」が後年の彼の事だと思われるが、同資料をまだ確認してはいない。
竹之助の筆になるものとの情報書きがあるので、
手続きを踏んで閲覧させてもらえれば、大侠客と呼ばれた彼の筆跡を知ることができるだろう。
彼は明治も23年まで生きているので、あるいはその写真もどこかに存在するのかもしれない。
各地に残った聞き書きや伝承を丁寧に追っていけば、あるいはそんなものも見つかるかもしれない。
- 1298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/22(月) 23:50:01.05 ID:sLZXftbJW
- 任侠大百科には
増川の佐次郎の墓がある寺に
「角太郎」なる人物の墓がある、と出ている。
私は多分これが、竹居吃安と共に脱島した無宿角蔵の墓だと思う。
角蔵は豆州多田村の生まれ、と八王子の手配書にあり、また沼津の植松家の日記には
「丹波屋角蔵」とある。
これらのことから、丹波屋伝兵衛・大場久八の血縁なのだろう(事実、講談では久八の甥としてる)
墓石が本当にあるのか、確認はしていない。あるとすれば、その墓の主は
唯一新島を島抜けして、官憲にも捕まらず、天寿を全うした人ということになる。
- 1299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/22(月) 23:53:08.64 ID:sLZXftbJW
- 吃安は新島を抜けて、久八の所を頼りに訪れた際、
島土産として、「スイカの苗」を持って帰ったそうだ。
たしか四角いのができるのだとか、色違いのができるのだとか(詳しくは忘れてしまった)。
- 1300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/23(火) 23:25:52.08 ID:4lDuATjsr
- 埼玉県秩父市中津川地区に「幸島家文書」というのがある。
炭鉱業を営んでいた大きな家が残した文書であるが、
昭和刊行の「大滝村誌」に翻刻されている。
この中に一点だけ、江戸期に唯一「津向文吉」の名のでる文書がある。
文書ないでは「つむきの文七」とされる点も興味深い。
嘉永二年の石原幸次郎一件にかかわる文書で、作成者は田中屋万五郎。
ただこれ惜しいことに、当時の担当者がたまたま翻刻技術が低い人だったらしく、
ほとんどが謝りの表記になっていて、原典が想像できないのである。
たとえば間宮(大場)村の久八は、「間宮の尺八」になっていたりして
一々「多分こうだろう」と直していってもキリがない。
更に不運なことに、当時のマイクロやコピーもない。そして、肝心の幸島家は
すでに文書を門外不出として、外部閲覧することを断っているのだ。
- 1301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/24(水) 22:42:05.74 ID:X2NleZkWE
- 「太郎、カマイタチにキンタマを切られ候」
といきなり出てくるのは卑怯だ。
三河国八名郡乗本村菅沼家の日記(文久)に突然出てくる文言。
武州の佐藤彦五郎日記の中にも、金玉を蹴られて死亡した遊女屋店主の話が出てくる。
それを「金玉一件」と書くのも、どうかと思うが。
博奕打ちの史料を探しながら、他のものもついつい目に映る。
やっぱり近世の終わりにあたるこの時代は、いろいろと面白い。
- 1302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/24(水) 22:49:20.88 ID:X2NleZkWE
- 日記史料というのは、何度同じものを見ても、見るたびに新たな発見がある。
こちらの見る方に知識がついてくると、今まで歯牙にもかけなかったものが、急に
重要な意味を持ってくるからだろう。
武州小野路村小島家日記、万延元年秋には、貝取村の大福寺で博奕が行われていた、
とのことが書かれている。参加者は壺振り(胴)が柚木の幸次郎、客が「関戸の玉長と万平」
と書かれている。玉長は長兵衛、万平は大侠客一ノ宮の杉本万平だろう。
このことは、以前に開かれた地元のアウトロー展でも触れられてなかったし、
私も初めて気づいた。
史料はこっちが新しい知識を入れるべく努力すると、それに応じて新しい情報をくれるようだ。
だから、何度も繰り返し読むことが大事で、読むたびに何か気づくところがある。
以上のことを、今になって肝に銘じているわけだ。
- 1303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/25(木) 20:56:40.33 ID:K8H9oGlwP
- これは高尾善希氏が既に「石碑からみた『慶應水滸伝』」(『宗教社会史研究』立正大学史学会、2005)
で言及していることだが、
連光寺富沢家文書に「当宿組合博徒名前」というのがある。当宿組合とは日野組合のこと。
以下に人名を上げると
川辺堀之内村幸太郎
関戸村長兵衛
石川村忠蔵
中川原村源右衛門
中神村市五郎
越野村喜代次
柴崎村峯吉(伊之助「抹消」ともある)
堀之内村幸次郎(泰次郎、「古返新キ」?)
同村借家真次郎
粟須村吉五郎
豊田村民五郎
平山村忠次郎
大沢村権五郎
〃 孫七
日野本郷新田丑松
乞田村重兵衛(重次郎)
落川新田菊次郎
寺方村梅太郎
一ノ宮村梅吉
郷地村三吉
ちなみに、これは二種あるので、両方の情報を足したもの。本文は訂正の×印や訂正も入っているので
真情報が知りたければ本物を確認したほうがいい。
- 1304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/25(木) 21:10:15.95 ID:K8H9oGlwP
- 上記のうち、関戸の長兵衛(多摩市)、石川の忠蔵(八王子市)、中神の市五郎(昭島市)
はよく資料に名前の出る人だ。いずれも相当な親分格。
堀之内の幸次郎は上で出てきた「柚木の幸次郎」とまず間違いない。真次郎は対で行動しているところを見ると
弟分か。
一ノ宮村の梅吉は万平の弟ともいわれるが、本当かどうかはわからない。
川辺堀之内の幸太郎は不明ながら、この人も数人の子分を持っていたらしい。
同じ一期には藤右衛門という力のある人がおり、藤右衛門は謀殺される。
両名の間の関係は全く不明。
一番興味が涌くのは越野村喜代次。
行ってみればわかるが、今日でも本当に辺鄙な、東京都とは思えぬ山中、峠を有する田舎路に当たる。
ここになにかしら営んでいた喜代次は、一体どんな風に生計を立てていたのか。
佐藤彦五郎日記だかに、たしか一度だけ名前が出るが、彼に関しては
是非とももっと知りたいと、個人的に思う。
- 1305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/25(木) 22:25:09.68 ID:K8H9oGlwP
- 市史、町史に関しては、
詳しい情報が「史料編」で、そのダイジェストが「通史編」だと思っていたのだが、
状況によっては「通史編」に乗らなかった資料(何らかの理由で全文を載せる事ができなかった)
や地域で伝えられている伝承を「通史編」が押さえていることがある。
とくに最近の編さんでは「資料編」の後に「通史編」が出るので、その傾向が顕著だ。
長楽寺清兵衛は『藤枝市史』の「資料編」には全く情報がないが、
偶然見かけた通史編では、御一新の後、明治下で地域の消防の頭として一党をまとめていた事が
記されている。短い記事だけども、こんな風に侠客の歴史が書かれていることがあるのだ。
- 1306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/25(木) 22:38:53.26 ID:K8H9oGlwP
- 今日もめちゃくちゃ誤字脱字、文意不明な箇所がありまくりだが、
もう仕方ない。そのままにする。
あと、今日は暑かったし
もう寝る。
- 1307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/26(金) 06:24:51.21 ID:PuH8VvIpF
- 「状況によっては『資料編』に乗らなかった資料(何らかの理由で全文を載せる事ができなかった)
や地域で伝えられている伝承を『通史編』が押さえていることがある。」
としたかったのだ。
- 1308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 23:47:24.83 ID:5MJNz2kYW
- 「井川の殿様」事・海野信茂は、若い頃は駿府と井川の間を往復し、
家督を倅(養子)に譲った後、隠居となってからは井川の名望家として名を知られた。
名望家で知識抜群な教養人でありながら、博奕場の貸元も度々務める。
そのような訳で「信茂日記」は当時の賭場の金の動きや、またいかに博奕が一般に
普通に、浸透していたかをよく伝えてくれる。
そして、うれしいのは当時の実際の博徒・侠客の類が顔を出すという点で、
なんといっても、安東文吉の動向がここまで知れるのは、この資料をおいて、他にはないだろう。
- 1309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 23:51:08.04 ID:5MJNz2kYW
- 地図で見ると、驚くほど井川は山の中にある。
しかし、安政六年の十一月の記録では、安東文吉自身が鰻(うなぎ)を携えて
「登山」してくる。
この鰻は信茂への高価なお土産で、その真意は井川で博奕を開かせて欲しい、というもの。
これより前、井川の博奕打ち(そんなのもいたのだ)定右衛門、重左衛門は、
やはり文吉から同じ頼みをされたのだが、はっきりとは口には出さないが「迷惑だな…」と思っていた。
両人の心がわかった文吉は、土地の最有力者である信茂に口をきいてもらおうと、
土産を携え、宅を訪れたのである。
- 1310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 23:57:28.19 ID:5MJNz2kYW
- 信茂にしてみれば、地元の博奕打ち達の顔もあるし、一方で文吉の頼みも聞いてやりたい。
結局折衷案を取り、何故文吉がそんなに賭場を開きたいのかと尋ねる。
すると、駿府御陣屋から江戸への出張の命が下ったが、その準備費用が、無い。
そこで一丁賭場を開いて、その費用を稼ごうと思ったとのこと。
今回は、井川で賭場は開かせられないが、かわりにその出張費を立て替えてあげることで、
信茂はこれをおさめている。
天下の大親分・安東文吉といえども、博徒親分の家計は火の車であったことがこれでわかる。
(後年、井川に安東家の貸元が出るが、それは文吉の抜かりないやり方を示しているのかもしれない。
また、それほど、賭場として井川は重要視される場所だったということになる。)
- 1311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 23:59:25.69 ID:5MJNz2kYW
- なお、同日記に、はっきりとその名が出る文吉の子分は
岩下の初五郎。
- 1312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/30(火) 22:12:53.49 ID:3NBHQIzxj
- 井川の殿様日記事、「海野信茂日記」は1978年、井川村史刊行会から
『史料編年井川村史 別巻一』として刊行されている。
編集・翻刻は全て、宮本勉先生。
静岡市史の中での先生の考察といい、「海野信茂日記」の冒頭に記された
刊行までの経緯と言い、ただただ熱い情熱が伝わってくる。
素晴らしい研究者だ。
氏は安東文吉の動向にも注意を払い、数ページにわたり追いかけ、客観的な感想を述べられておられ、
それによれば「言うほどの男でもなかったのでは」としている。
しかし「日記」のあとがきにおいて、博奕に負けたことのない名人である信茂が
安東の子分らが来たときは負けていることを差して、
「それが遊び人なかまの仁義であったかもしれない」としている点は印象的だ。
書物の上を通ってきただけの学者には無い宮本氏の眼力が、よくうかがえる一文だと思う。
- 1313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/30(火) 22:27:41.26 ID:3NBHQIzxj
- 最近博奕打ちの中でも「十手持ち」に興味を持ってきているのだが、
随分上で触れた日野の岡引・八五郎と良助。
上の方の話により天保10年、武州多摩郡谷保村の谷保天満宮(やぼ天)での喧嘩で
傷を受けた際の詳細な状況を知ることができた。
その後の二人の動向だが、
(まだ確定ではないが)若干哀れな末路かもしれない。
まず良助は、これは日野の年寄・玉屋栄蔵の弟である伊勢屋良助で間違いない。
彼は弘化4年、2月22日に病死する。
さらに八五郎だが、これより以前弘化3年7月3日、多摩川渡しの船が転覆して
十数人が水死したという事故が起き、その中に「日野下宿八五郎」がいることから、
あるいは彼はないか、と思われる。
なお、この時は扇屋馬場家(後壺伊勢での斬り合いに参加する剣士が出る)の家の
親族小三郎も亡くなり、また振分門下の相撲取・出水川伝七も亡くなった。
(この力士の四股名にはなんとなく因果を感じてしまう。)
- 1314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/30(火) 22:38:43.45 ID:3NBHQIzxj
- なお、八五郎、良助の後に、日野組合の道案内(岡引)を継ぐのは
はけの粂蔵と連光寺の次郎吉。粂蔵は姓中島で、鮎漁の漁師元締。この人に関する論文は
確か「新立川市史研究」だかにあったが詳細は今思い出せない。また思い出したら書く。
次郎吉はよくわからない。
そのあとを引き継ぐのは日野の磯八、多分「平野屋磯八」と言い、文献だと、取り立てて目立つ能力があるではないが、
弱点もないというタイプ。この磯八に加えて、大塚村喜兵衛が同時期の道案内となる。
文久元年からは、磯八の子分だった兼助(山崎兼助)と喜兵衛というコンビで動く。
ご存知のように兼助は殉職するので、その後を継ぐのが新十郎。
彼は田中屋万五郎の元へ送られ、岡引の修業をするように大惣代から仰せつかった、くらいしか文献に出ない。
そしてここで江戸時代が終わる。
- 1315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/30(火) 23:28:23.63 ID:3NBHQIzxj
- 施主に五人以上の名前があったので、あるいはこれは博徒親分の墓か?
と思ったのだが、帰宅して調べると
中原市五郎という歯医者の祖の先生のお墓との事(日本歯科大学の創設者)。
今は無縁。
八王子市は何か説明書きくらい建てておいてもいいだろうに。
- 1316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/30(火) 23:30:01.43 ID:3NBHQIzxj
- 「中原市五郎」の先生に当たる人のお墓、という意味。
- 1317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/31(水) 23:32:48.17 ID:muiNzWDXq
- 1034で、越野村をとんでもない辺鄙なところと書いたが、訂正する。
それは「打越」だ。越野は現在でもわりあいににぎやかなところで、
当時もまあ周辺とそう変わらなかっただろう。もっとも
一ノ宮から先は緩やかな登りになっおり、何と言っても山間部だが。
『農民の日記』の名で一冊の本になっている連光寺村名主日記は、
あらためて読むと実に多くの当時の農村の情報を伝えてくれる。
越野の喜代次は「喜代松」と表記され、ところどころに現れる。
慶応3年喜代次は突然、博奕渡世が嫌になったので「改心したい」旨を
大総代に訴えている。
そして、本当かどうかわからないが「心機一転」のために「神楽」を世話させてほしいと頼み込む。
ちょうど折よく鎮守諏訪神社の新たなデザインが江戸の彫り物師によって作成されたので、
村自体浮き立っていたのだ。そしてその神楽も同年三年8月29日に行われた。喜代次が実際に興行したかは
わからないが、その日が雨であったため、急きょ場所を変えて高西寺で行われたとのこと。
- 1318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/31(水) 23:39:08.24 ID:muiNzWDXq
- ところで、博奕打ちがしばしば興行をするに当たって、方便として「改心」すること。
あるいは、農民として再出発するべく「心機一転」のため、との文言を使うのは
結構、興行をするための常套手段であることが多い。
喜代次の場合、どうであったのか。
これ以降記述が無いため不詳ではあるが、博奕打ちを続けたにせよ、全うの農民になったにせよ、
いずれにせよしたたかに時代を生き抜いたと思いたい。
越野の喜代次(喜代松)、生年も没年も姓も、子孫がいるのかどうかもわからない。
- 1319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/01(木) 23:20:31.50 ID:2VBpaiyd7
- 塩山藤五郎事、上塩後の平右衛門が博奕で捕まったのは
天保15年8月13日。
藤太郎は正徳寺の太八と激しくやり合った。しかし、『講談小金井小次郎』によれば
両者は後に兄弟分になったとのこと。(だが多分これはうそだろう。)
歴史読本だかに、竹内勇太郎が上塩後の親分として上げている「楠次郎」なる人は
多分藤太郎の系譜に位置する人だろう。
- 1320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/02(金) 23:39:22.69 ID:OPB8o/Eur
- 船田の紋次郎
- 1321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/02(金) 23:51:03.27 ID:OPB8o/Eur
- 船田の紋次郎は
今では八王子の小学校の名前にしか残っていない、八王子の旧「船田地区」に住んでいた侠客。
大正2年あたりの九十歳で大往生をとげたとのこと。よって文政5、6年生まれということになる。
大柄で上背があって、気前がよかったという。
一ノ子分だった人の倅から聞いたという話では、旅人が来ると、その旅人はまず
手ぬぐいを出して仁義を切る。すると紋次郎親分は山盛りの飯で歓待し、
もしその手ぬぐいが、汚れていたり古かったりする時は、新しいのに取り換えて、そこに
いくらかの金を包んだとのこと。
旅人は山盛りの飯を平らげるが、それができない者は、残った飯を包んで持ちかえる。
以上は『船田の歴史と思い出』(高橋貢、自費出版?)より。ただし置いてある図書館が少ない。
これらの話が真実であることの証拠としては
小仏一家の藤吉氏の墓石に、紋次郎も名前を載せていることからわかる。
しかし小仏健次や船田紋次郎、上野原伊助、吉野福蔵らといった一流の親分が名を
連ねた藤吉という人が何者なのかは、正直言って不明のままだ。
- 1322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/03(土) 00:06:22.32 ID:THdCa8yW5
- 埼玉県深谷市長在家の仙五郎氏の墓なんて、数年前に行った時ですら
既に摩耗してほぼ読めなかった。
多数の人の名前が刻んであるのに、
地元の教育委員会なんか見向きもしないし、記録も取っていない。
任侠探訪の先生が記録していなかったら、もう今は「在った」ことすら無くなっていただろう。
博奕打ちだから文化財にはならず、教委の仕事としないのか?
一方で、任侠探訪の先生は損得無しで動いている。どちらが正しかったかは、
何十年も後になって分かるだろう。
一体何人の侠客が、一人の研究者によって存在を救われたのだろう。
- 1323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/11(日) 00:14:45.25 ID:zGftd/GY/
- 安政5年、11月15日、江戸の神田で大きな火事があった。
この火事で伝馬町牢屋敷が燃え、どさくさにまぎれて囚人数名が逃走した。
そのうち主な者は、西へ逃げ、多摩から入間、秩父へ入り山へこもった。
途中、扇町谷組合の村々を襲い、金子・衣類・脇差などを略奪したことから、
府中の田中屋万五郎や飯能の森太郎といった出方頭に居所がばれ、
ついに、三つ峯山で出方の集団と撃ち合いになり、ほぼ全員射殺される。これは三つ峯はじまって以来の
大騒動とされるが、
撃ち殺された面々の名も不明なら、騒動自体の伝聞や文書史料も極めて少ない。
- 1324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/18(日) 22:06:23.02 ID:P18mTw1XH
- 結構上で林鶴梁先生の事を書き、「鶴梁日記」のことにも触れた。
この「鶴梁日記」は全部翻刻済みで大きい図書館では全巻置いてあることが多く、
中泉代官として赴任していた時代(安政期)の博奕打ち同士の出入りなどが記録されていて面白い。
- 1325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/18(日) 22:21:18.00 ID:P18mTw1XH
- 当然、自分も「林鶴梁日記」に当たり、ほぼ大事な所はメモしたと思っていたが、
それ専門に一冊にまとめた研究書というのは、やっぱり凄いもので
保田晴男氏の『ある文人代官の幕末日記』によれば、鶴梁が橋本佐内に宛てた次のような書状があった、としている。
無宿小常と申すもの、これまで遠州第一の博奕打ちにて、だれの支配の筋も何分召捕かね候えども、
それがし術計をもって召し捕り、吟味の上、遠島に相成り、諸人安心のこと。
(安政三年八月一日)
これは、原田常吉の事に相違ない。
常吉は荒井の番所に鉄砲を打ちこむという荒技をやってのけた後、福知山辺りまで潜伏していたようだが、
兄の「まあ、地元でも大人しくしていれば捕まることもあるまい」との手紙を受けて、
変装して尾張まで来たところで捕り方に縄を打たれた、とされる。
鶴梁先生が一体どういう「術計」を用いたかはわからないが、この大物の召し捕りに彼が
一枚かんでいたとは、全く予想外だった。
それにしても安政の大獄で早くに命を落としてしまう橋本佐内が常吉の遠島を聞き及んでおり、
更にその佐内より常吉がずっと長生きをして侠名を
今日にまで残すとは!
これは一寸容易に想像できるものではないだろう。
- 1326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/18(日) 22:50:16.37 ID:P18mTw1XH
- 甲州なら韮崎からは湊屋善兵衛、
それより東は宇津谷伝右衛門、甲府に入っては宇吉、祐天、京屋庄八だったようだが。
ここでは伝右衛門の縄張りに入るだろう菖蒲沢地区をこの盆には一寸歩いてみた。
他県人なら知らないだろうが、それは素晴らしい場所であり、谷間の小集落なのだが、
江戸時代がそのまま形を残していると錯覚するくらい、家屋・風景が昔のままなのだ。
ここには昭和初期に掘られただろう防空壕があり、
この防空壕を見ていれば、往時、空襲の度にここに逃げ込んだ人たちのことが容易に想像できる。
- 1327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/18(日) 22:59:53.64 ID:P18mTw1XH
- 「自分」などはともかく、おそらく自分の母親や、一般の年をとった女性は
ここへ走って逃げ込むのも大変だっただろう、と容易に想像がつくだろう。
中には、途中で撃たれ、命を落とす人もきっといたはずだ。
多くは弱い、老人や女性。戦火で第一に犠牲なるのは、こういう人たちだ。
言い換えれば
エネルギーが有り余っていて、威勢よく、防備・国体の名の元に戦を肯定する輩ではなく、
どこにでもいる一主婦、一母親、老人たちが犠牲になる。
身近な戦争遺跡を見ただけでも、それぐらい想像がつくだろうに、
何故国を左右するような立場の人間たちが、軽々しく威勢の良い戦争賛美を口にできるのか。
- 1328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/19(月) 22:50:29.29 ID:891l9PnZ2
- あまねく侠客の間に名を知られた三井卯吉だが、
実際は遊女屋勤めを「嫌や!」と言って逃げ出した遊女のとこへ行って、
「まあ、もうちょっと辛抱してみろよ…」と宥めすかしたり、
迷惑のかかった遊郭の主人たちに頭を下げたり、
芝居を開くために、金の無心で歩きまわったり…と云った
地味で根気のいる、更に言えば人がやりたがらない様な作業を続けている。
その一方で、目明しの書類を作成して、子分に持たせて他国へ送ったりと
忙しい。
正直言って彼の家業をまとめて並べるのは、非常に難しい。
だが、目の前に出てきてくれたのは稀有な幸運なのだ。
そして知れば知るほど、やはりこの人物は一角の人物だと賞賛したい気持ちになる。
自分で選んで、この人生を生き、如何なく力を発揮して、
それから死んだのだ。
- 1329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/19(月) 22:54:45.76 ID:891l9PnZ2
- やくざ、博徒、侠客、ならず者、遊び人、長脇差、無宿渡世人。
なんと呼んでも良い。
しかし、知れば知るほど、彼らはどうしようもなく一生懸命、自分たちの人生を生きていたのだと
思わざるを得ない。
- 1330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/22(木) 23:12:55.21 ID:FD5VbdoDI
- 静岡には次郎長や安東文吉以下、吉原宿の宮島年蔵、本市場の金七、江尻の和田島太左衛門事竹次郎、
同紺久、同大熊、同房五郎、由比の平野屋三平、岩淵の源七。
鞠子のアバ虎、安東屋辰五郎、増川佐次郎、仙右衛門、今泉の小勝、
まだまだ、阿幸地の某、沼津の菊池の和助、城之越の長吉、岩淵庄右衛門…
それこそ散々いる。けれど植田先生を除いて、
地元でも公機関でもこれらの人をしっかり調べた例ってないよね。
「〜を知る会」だって、また聞きのまとめをしてるに過ぎない。
県民性というのもあるのだろうけど、静岡県でしっかりと侠客の動向を調べないのは、
実にもったいないし、残念だ。
- 1331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/23(金) 22:25:36.13 ID:N0QPw3mKC
- 前にも上げたが、改めて、
「通り者の世界と地域社会」
(小林文雄、『新しい近世史D、新人物往来社、1996)
というのは、博徒、侠客、目明し、通り者、無宿渡世から始まって、
浄瑠璃、手踊り、相撲、軍談渡世などの「芸民」、
引いては「無縁」の世界に至るまで、
幅広く示唆を与えるすさまじい論文だ。
- 1332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/02(月) 23:27:14.34 ID:wJH53/qXc
- 「宮脇に過ぎたるものが三つあり、火の見櫓に五郎、善八」
甲州街道沿いに信州へ抜けようとする土地に勢力を張った侠客が
宮ノ脇の五郎右衛門。元は武士で、恰幅よく、早々に刃物を抜いたりはしなかったが、
どうしても…の時には「抜く手も見せず、三人、四人はなぎ倒してしまう早業で、
優れた腕をもっていた。縄張りは北巨摩(甲州北東部)から信州の蔦木宿あたりまで(現・富士見)という。
幕末期に同じ宮脇で知恵者と言われた善八と共に「火の見櫓」を作った。これは安政2年の大火に見舞われたことに教訓を得て、という。
五郎右衛門が子分を総動員してつくった、この櫓は立派なもので、他村からも見物人がそうとう来たとのこと。
善八は幕末の動乱に義勇軍に志し「断金隊」に参加し、板垣退助と共に戦う。
五郎右衛門には同郷の庄八という良い子分がいて、まず彼が一家を継いだともいう。
他に知恵者に下円井(しもつぶらい)の忠右衛門、日野春の滝田りん(「滝田ます」のことか?)
などがいたそうだ。
- 1333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/03(火) 23:10:36.82 ID:vZ16TGFuY
- 「牛に引かれて善光寺参り」
と言うが、善光寺というのはなるほど遠いところで、洗馬宿から始まって
塩尻を通り、松本から山中を超えて稲荷山〜追分(軽井沢)へ出るまでを「善光寺街道」
または「北国街道脇往還」という。
ここで、やはり大事なのは「塩尻」である。
明治16年だかの大火で燃えて大事なものは大方失ってしまったそうだが、
この塩尻宿は「大和屋富之助」に代表されるような有力な十手持ちの
親分がいた。他にもここは甲州の博奕打ちからの繋がりも多くあったようだ。(国分三蔵、伊勢楼茂吉など)
- 1334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/03(火) 23:17:21.27 ID:vZ16TGFuY
- 大和屋富之助という人は相当な人だ。
天保15年高野長英が逃亡している際に追跡の廻状(信州目明しの)
が回った際にも名がでるらしい。
以降も嘉永、安政くらいまでは強健に過ごしたらしい。
しかし、何のとも、この人の史料・墓石がなかなか出ないんである。
- 1335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/04(水) 18:18:13.01 ID:rJ5kzYGd0.net
- りとるべるてんちょー
- 1336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/04(水) 18:20:02.72 ID:rJ5kzYGd0.net
- 士農工商得た否認
- 1337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/09(月) 21:49:23.86 ID:O/iovoMdy
- 信濃音五郎
- 1338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/10(火) 21:59:32.44 ID:v5SeC/rEP
- 信濃音五郎、鬼よりこわい
六尺、朱鞘の、落しざし
- 1339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/10(火) 22:06:59.35 ID:v5SeC/rEP
- 信濃音五郎は、玉木音五郎とも
信州佐久の侠客で、黒駒勝五郎(勝蔵)と兄弟分だったと伝わる。
上の歌は「山人の歌」とされ、まだ続きがあるが、
一連の音五郎物語なのか、それとも別の物語が続いてゆくのか、今一つ不明。
六尺は音五郎の身の丈のことだろう。1.8メートル。隆々たる偉丈夫。
刀を水平ではなく斜めに落とすように差していて、それが
朱の鞘に収まっているという意味か。
- 1340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/11(水) 22:34:16.12 ID:0StdZDGd8
- 国定忠治が天保7年、信州に茅場の兆平(長兵衛)の敵を討つために
信濃に乗り込み、波羅七(原七)と「目明し・中野ノ滝蔵」を殺そうとした、との言い伝えがある。
此の時忠治は有名な大戸の関所破りをしたという。
茅場の兆平や波羅七が実在かどうかは知らないが、滝蔵は多分、中野陣屋の目明しという
意味だろう。とすれば、これは実在の人物で岡田ノ滝蔵に他ならない。
滝蔵は目明しとして権堂の島田屋伊伝次と並ぶのだが、両者は忠治に愛されたのと憎まれたのとで
雲泥の差にある人物だ。
- 1341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/11(水) 22:41:24.99 ID:0StdZDGd8
- 仕事上、少年・少女とその家族の貧困を扱う時があるのだが、
日本にあって、坊主はほぼ何もしていない。
対して、一生懸命なのはキリスト教の教会。身銭を切って食を与えてくれる。
母体自体そんなに余裕はないだろうに。自分は無宗教だが、この点に関しては
尊敬する。いわば、キリスト者の侠気を感じる。
一方で情けないのは仏教界だ。
あんたらが貧困家庭や社会問題で、表だってなりふり構わず動いた例を見たことが
(ここ十数年)無い。
- 1342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/12(木) 08:41:31.92 ID:6DGi1dy92
- またバカなことを書いた。久々に飲むとこれだ。
- 1343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/12(木) 21:18:26.71 ID:6DGi1dy92
- 夏狩ノ九兵衛
- 1344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/12(木) 21:33:03.63 ID:6DGi1dy92
- 当たり前のことだが、旅をすることの収穫の一つは、史料の一点一点の出所が
何処に当たるのかが具体的に分かるということだ。
宿場や城下町からどれだけ離れているか、あるいは近いか。
どのような文化圏に属するのか。
川が近いのか(舟運で栄えた可能性がある)、峻嶮な山地なのか(村毎に僻絶している)
有力な藩の領地なのか(飛び地でも文化が似ている)などなど。
また、国によって村の生活制度や警備制度がちがうし、すごい時にはしきたりや風俗ががらりと違う。
そういうことの一つ一つがわかるので、金、あるいは時間がかかるが、やはり
現地になるべく足でおもむくことが、調べ物をする時は一番いい。
- 1345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/12(木) 21:54:41.24 ID:6DGi1dy92
- 『里正日誌』に出る三州の房吉という人は
多分吉田の房吉のことだろう。彼の経歴の中で唯一、「夏狩の九兵衛」という親分の
存在が言及される。
房吉が甲州郡内で相当な博奕打ちと呼ばれたのは、この九兵衛の子分を名乗ったことが
大きかったのだろう。そうすると九兵衛自体のことは全く不明ながら、
それ相応の勢力を持った人だったことがわかる。ちなみに原典では「武州夏狩村」となってるが、
夏狩村があるのは甲州であり、また国中では無く、「郡内」(笹子峠より東)
房吉は文久元年、国分三蔵子分の千米寺村源吉に金川河原で斬られる。
黒駒勝蔵の流浪の後半生は、房吉の敵を討ったところから始まると言っても過言ではない。
- 1346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/13(金) 22:24:39.45 ID:RWWwVcEpX
- いや、間違えた。
千米村源吉を討ったために、
祐天の子分らに金川河原で射殺されたのが房吉だ。
同日(文久元年五月三十日)、中川村新左衛門も殺害された。いずれも黒駒派。
房吉は狐新井村、新左衛門は坪井村地内「三本杉」(=金川河原沿い)で
翌日それぞれの遺体が発見される。
- 1347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/13(金) 22:37:48.59 ID:RWWwVcEpX
- 新左衛門に関して、中川村の村役人が素性を書き表した書状もあるので、
その背景が窺える。家庭は随分複雑で、
初名は美之吉といい、縁を頼って勝沼に住んだが、いずれ博徒の群れに入った。
遺体となるにおよび、
中川村でも、「自村の人別帳からは既に抜けているので遺体の引き取りは遠慮したい」と言いった旨が記録されている。
実母、実父、義父も全て健在だが、可哀そうにもどう対応したかは書かれていない。
新左衛門は無宿ではなかったが、およそ家族の愛情を十分に受けていたとは言い難く、
あるいは、彼にとって、黒駒勝蔵とその一党は
居場所として暖かく、居心地がよかったのかもしれない。
- 1348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/13(金) 22:47:33.99 ID:RWWwVcEpX
- 文部政務官が最終ポストだとして何が悪い?
自分に真っ正直で、覇気があって、存在自体が人に笑顔を与える様な
素晴らしい人だった。
- 1349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/15(日) 21:33:54.27 ID:/eF+l7Sz0
- 野川の黒勝
- 1350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/16(月) 23:26:22.32 ID:aKwoqVHEE
- 雪ヶ谷村の三五郎
- 1351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/16(月) 23:43:01.87 ID:aKwoqVHEE
- 博徒、侠客、目明し、その土地の顔役なんかが行う興行の一つに
「手踊り」がある。どういうモノなのか今一つ想像できないが、
定義を見るに、地歌に合わせてリズミカルに踊るもの、のようである。また
多人数で踊るものも指すらしい。
今で言うところの、アイドルユニットによるパフォーマンスみたいなものだろうか?
本日目にした神奈川県の何とかいう自治体の市史には、「手踊りはもう古いのだけど…
敢えて興行します」みたいなことが書かれた興行チラシが紹介されていて、ちょっと面白いと思った。
幕末期には、この芸能、もう古かったということか。
また、プロの手踊り集団というのもきっと居たのだろう。
- 1352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/16(月) 23:53:00.24 ID:aKwoqVHEE
- 小金井小次郎が三宅島で島民のために、わざわざ用具まで本土から取り寄せて
上演した興行に「映し絵」というのがある。
セロファンの様なものの上に絵を描いて、それを裏から光で照らす。
部分、部分を適宜組み合わせて、光に浮いた絵が動く仕組みのようだ。
これが江戸末期には「説教節」とコラボして上演された。今見ても映画や動画と
違う特殊な趣があって非常に目を奪われる。
時代時代で芸民は、何とかして新しい技・ウケる技を開発しようと躍起になったのだ。
説教節や浄瑠璃のような耳を主体とした芸が、映像を主体とした芸と組み合わさることで
新しい分野を生み出す。と、思えば話術は、声の出し方、節のまわし方の違いを強調して
新しい話芸の芸術を生み出す。(桃中軒のような)
惜しいことは、既にそれらの文化(その芸を受容できた時代の文化も含めて)が下火もしくは消失してしまった
現在では、どう頑張っても往時の人々が熱狂した、その臨場感を
共有することができない、ということだ。
もっともこれは現在流行りの文化に関しても言えるかもしれない。あと三十年もすれば、私たちが熱狂した文化は
その頃の主流世代からは共感できないものになる。
- 1353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/17(火) 22:53:58.03 ID:gzD8wpARm
- 『市史』や『町史』は新しい方が情報が良いかと言えば、そんなことは絶対になくて
たとえば『川崎市史』ならば、こと侠客・博徒に関する限り、昭和48年版の
『川崎市史 通史編』が非常に有用な情報を与えてくれる。
万延元年三月、関東取締出役が宿役人に命じて作成させた「組合内博徒名前」という書類がある。
以下それを記す。
蒲田新宿村:與五郎、鉄五郎、平蔵
糀谷村:崎次郎
荘中村:小七
雑色村:捨五郎
八幡塚村:捨次郎、福松
羽田村:惣十郎、八五郎、新郎次、三次郎、鍬五郎、太郎吉
大師河原村:勘五郎、安五郎、常次郎、鶴吉、徳五郎、三五郎、友次郎
中嶋村:栄蔵
大嶋村:長蔵、定次郎、金五郎、
渡田村:栄蔵、五郎吉、馬之助、道五郎
市場村:熊次郎
小田村:市五郎、捨五郎、新五郎、惣五郎
小倉村:金五郎、瀧蔵、元吉
南河原村:徳次郎、七五郎
川崎宿:藤太郎、幸次郎、三五郎、清次郎、紋次郎、金次郎、喜代松、瀧次郎、巳之助、甚太郎
組合外博徒
小向村:甚七
戸手村:新次郎、國太郎、直次郎、増五郎
峯村:政次郎
三園村:増次郎
下丸子村:留五郎、作次郎、與茂
今泉村:藤五郎、雪次郎、平五郎
北蒲田新田:丑五郎、寅次郎
川崎宿:助次郎、弥五郎、権太郎、長五郎、捨五郎
- 1354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/17(火) 23:15:16.40 ID:gzD8wpARm
- 信州佐久郡軽井沢に今は含まれる「追分宿」は
かつては同國善光寺前・権堂村に引けをとらない繁華街であったという。
この宿には殊のほか遊郭が多かった。
北国街道と中山道の分岐点であるという地理的条件ゆえか、殷賑を極め、
宿の旅籠屋の子孫の話では、大前田栄五郎が籠に担がれ多数の子分と共に逗留した、ということである。
栄五郎は田舎の農夫のそれと変わらぬ珍竹林で、しかし、素人衆の前では深ゝと頭を下げたとのことだ。
- 1355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/20(金) 23:25:51.92 ID:+pcA/2arM
- 堀端の与三兵衛
- 1356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/05(土) 19:06:33.74 ID:V60BN82sU
- 高崎の源太郎
- 1357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/05(土) 19:38:53.70 ID:V60BN82sU
- 高崎の源太郎は享和元年(1801)の生まれ。
初名を久五郎といい、背が小さかったために「小久」の源太郎のあだ名をとった。
在る時、深谷の十五郎(十太郎とも)という無法者が大勢の手下を引き連れて、源太郎子分の浜川の勇次郎宅を襲った。
十五郎は源太郎の首を獲るつもりで来たが、折よく源太郎は不在であり、代わりに子分の八田の才吉と言う者がいたので
これを血祭りに上げて去って行った。
この顛末を聞いた源太郎は憤慨し、子分銀十郎(非常に腕が立ったと言う)、勇次郎、
それに助っ人の北新波の忠次を引き連れて押し出し、烏川で双方混戦となり、
ついに十五郎を討ちとった。
- 1358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/05(土) 19:47:13.15 ID:V60BN82sU
- 人をあやめた源太郎は、最初大前田英五郎にかくまってもらい、そこから
国を売って浜松、新潟などを転々とするが、遂に故郷に帰って油断したところを
御用弁となる。
十五郎を斬ったことは事実であり、言い逃れもできないので「打ち首獄門」と裁可が出たが、
ここが源太郎の侠客たる由縁か、牢内での挙措の立派さや、とりわけ病気になった囚人への
厚い手当・心配りが賞賛され、一等罪を減らされて遠島刑となる。
天保11年新島に流された。
島でも、病気の流人に情けをかけ、率先して看病等を行い、多くの流人から慕われたが、
流されて3年後の天保14年、今度は自分が病に倒れる。
享年43歳。
- 1359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/05(土) 19:56:27.66 ID:V60BN82sU
- 早い時期に亡くなってしまったことから、今日あまり侠名は伝わっていないが、
たしか群馬の郷土史家の本の中には、名前だけではあるが、忠治や虎五郎、大前田栄五郎らと
並んで、有名な侠客として名が上がっていた(ような記憶がある。)
文献史料としては『新島村史』史料編Uの流人帳
それと『御仕置例類集』12 「取計之部 御仕置宥恕御赦其外願筋取上有無之類」の
リード番号14あたりから。(デジタルで閲覧可)
- 1360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 00:21:52.52 ID:QJPulKEVM
- 目明しは俗に岡っ引と呼ばれるが、
この目明しも江戸近郊の目明しと、地方の目明しとではかなり違いがある。
江戸の目明しは、幕末期には近代的な制度に組み込まれており、今の警察(police)に近い。
岡本綺堂の半七なんかはこれに当たる。
更に関東の「道案内」もまたかなりそれに近い。いわば制度によって形を変えられた
岡っ引だ。
で、本来の目明し(岡っ引)だが、これは藩領に多くその足跡を見る事が出来る。
江戸の目明しで言うなら17世紀(1600年後半)のやきもち九兵衛やなんひん四郎右衛門の
類に当たる。彼らは本来的には男伊達で、後年は通り者である。
が、いずれも「無縁」の原理をもっていた。
- 1361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 00:32:57.28 ID:QJPulKEVM
- 無縁者を端的に示すのは明治10年まで生きて、川越藩の目明し(手先ともされる)
をつとめた師岡孫八さんの例だ。
孫八さんのお宅には、警吏としての手配書と共に、実は周辺の村々の「離縁状」
が多く残っているのである。これが目明しの本来の姿をよく示している。
板橋に「縁切り榎」というのがあるが、他にも縁切り寺というのが各地にある。
要するに無縁の場である。
そして目明しもまた「無縁」の者であったからこそ、このような離縁状が残ったと思われる。
有縁・無縁とは平たく言えば、農民と芸民(通り者)の違いということになるだろう。
- 1362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 00:42:50.80 ID:QJPulKEVM
- 通り者(俳優、講談師、相撲取り、浄瑠璃、祭文読)などは田畑を耕さない。
芸を売って身をたてる。彼らには安定性がないし、どこで死んでも
葬ってくれる人がいない(かもしれない)
しかし、彼らは村落に文化と活気をもたらし、それにより各地に「風土」という
ものができたと言っても過言ではない。
目明しは、土地にあって、この通り者を差配することを、第一に命ぜられた者である。
よって、彼らの存在の第一原義は「御用御用」の犯罪人の捕縛ではなく、
「通り者」の宿泊施設を提供する者だったのである。
- 1363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 00:53:37.76 ID:QJPulKEVM
- 目明し自身もまた「通りもの」から選ばれたようだ。
小林文雄氏がうまいことを言ってるが、通りものの中で権力によって承認されたものが
「目明し」なのだそうだ。(これはかなり上手い表現だろう)
例えば前述の師岡の孫八さんは、元相撲取であり(四股名は「内野川」)、
しかも当時の周辺日記史料には彼が相撲の大規模な興行を行っていたことが
確認できるのだ。
- 1364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 08:56:54.99 ID:QJPulKEVM
- 孫八さんが相撲興行をしている箇所が出るのは
青梅市(小曽木)の『市川家日記』。
翻刻が出ており、文久元年(だったか?)の中に出る。
- 1365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 09:05:43.14 ID:QJPulKEVM
- 同史料は、明治の何年かに「青梅の権四郎」(大柳の権四郎)も出る。
青梅の権左衛門、権四郎らの聞き書きを載せた興味深い文献資料には
清水利三郎氏の「幕末の世相と多摩川上流域の仁侠道覚書」
(『郷土研究 第六号』奥多摩郷土研究会、平成7年)がある。
- 1366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 00:08:36.78 ID:MMkMUX/NZ
- 川越の料亭「初音屋」はまさか、と思っていたのだが、
店主が言っているからにはそうなのだな。(こういう態度は清々していて素晴らしい)
書名はちょっと思い出せないが榎本武陽が北海道に行った時、力を貸した親分に
関東「川越の政」というのが居た。残念ながら初音屋の政と同一人物かの決め手はない。
- 1367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 00:20:07.06 ID:MMkMUX/NZ
- 先日の台風で氾濫した「新河岸川」
その歴史は川越近郊にあって、多くの船が出て品物を江戸まで届けた
商業の要所だ。この辺りを支配したのが「倉親分」や「浦親分」が出た
三角一家。その賭場が主に積荷を運ぶ船の上で行われるのも、この地方ならではだ。
今のこの地方の現状では一寸想像がつかないが、往時は豪勢に飾った船の中で
豪勢な博奕場が立てられていたのだ。
川越近辺には有名な親分衆が多く出たが、ほとんど調べられていないのが現状であり、
このまま、消えてゆくことを思うと非常にもったいない気分になる。
なんとなれば博奕打ちはその地域の活況を示すバロメーターともなるのだから。
- 1368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 00:29:30.18 ID:MMkMUX/NZ
- 甲州の北部。ほぼ信濃と接するところに武川という名の場所がある。
大武川、小武川という流れの早い川が流れ、割合に水利の良い所であり、
それだけに良い米がとれる。
実はこの米は駿信街道を通って、更に韮崎から船に乗せて「上米」の名称で駿府へ送られた。
(代わりに「下塩」と言って塩が戻ってきたそうである。)
宮脇はこの武川にあり、小武川を渡ると現在でも宮脇に出る。小さな集落だが
「宮脇一家」という甲州を代表する勢力が、江戸末期には出た。
始祖である「五郎右衛門」は何度かここでも取り上げたが、その父を「仲右衛門」と言い、
方腕の上円井の忠四郎と共に、米の輸送・輸出のことで何度も清水港の問屋とやり合っていることがわかる。
博徒の殴り込みの様なことこそしなかったろうが、要するに水運をめぐって司法の場に出ても堂々やれる様な
貫禄が宮脇や武川の人間には必要だったのだ。この訴訟のプロの子が五郎右衛門であることは
後年宮脇一家を開く彼の人生が「当たり前」の道筋だったのだと納得されるようで興味深い。
- 1369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 00:34:36.62 ID:MMkMUX/NZ
- なお、宮脇の江原院には、五郎右衛門の跡を継いだ庄八(小澤姓)の墓石はある。
台ケ原の源松五郎が施主になっているので、まず間違いないだろう。
けれど五郎右衛門のそれはついぞ発見できない。山梨県立博物館の史料によれば
明治六年までは生存が確認されるため、五郎右衛門の没年はそこから十年とは経たないだろうと
思われるが、どうにも見つからぬ。姓は小澤とされ、元「士身分」、
剣術の達人で、大柄ながら動作は俊敏で、肝の短い時もあったが、
涙もろく弱者には親切だったとか。
台ケ原松五郎は大正には高名な親分だったらしいが、まことに惜しいことには
逸話や履歴の類が存在しない。
- 1370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/30(水) 00:25:32.61 ID:zC3hmWMJj
- エキセントリックに見えて極めて冷静にアウトローや侠客、ヤクザに関して
tweetしている人が、全く思いがけず先日すさまじいヒットをたたきだすtweetをしてしまった。
ようするに「秋葉原」「元に戻す」という二語が本人の意向を越えて共感者を呼んでしまった。
「天晴れ」と思うのは、本人はこの盛況ぶりを喜ばず、さっさと対象を風俗嬢に入れ上げる老大学教授に移したことだ。
このtweet主の持つバランス感覚や言葉の巧みさ、ひいては知性には、本当に驚嘆するしかない。
- 1371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/31(木) 00:34:45.84 ID:xKgL1c35w
- 1323で出した、安政5年の神田の火災で逃げ、その後大瀧村に籠った
囚人らの名前が出る史料があったので記す。
加州(加賀国)無宿甚之助
尾州(美濃国)無宿 坊主 清助
常州(常陸国)無宿文助
武州(武蔵国)無宿圓吉
結局彼らの末路は三つ峯山近辺に籠って捕方と抗争の末
射殺された。
此の時警吏を率いていたのは飯能の小山森太郎。
- 1372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/31(木) 08:02:16.36 ID:xKgL1c35w
- 尾州は尾張国か。
- 1373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/31(木) 22:28:05.36 ID:xKgL1c35w
- 多摩川沿いを歩くと先日の台風の被害が甚大なものであったことがありありとわかる。
自分のホームグランドは中流で、今日は日野橋が折れ曲がって通行不能というのに驚いた。
この周辺では草木が皆流され、北岸からでも聖蹟桜ヶ丘が見えるほど何も無くなっている。
先日東京都で唯一の被害者と報じられた川岸生活者の男性が居た場所には
花とお供物が捧げられていた。誰がなさったか知らないが、本当に奇特な方だ。
川岸の木陰、藪の中に小屋をかけ、ラジオの音がいつもしていた、
この男性が確かに存在していたことを気にかけてくれていた人がいるのだ。
- 1374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/31(木) 22:37:00.07 ID:xKgL1c35w
- 大正の頃、立川、国立方面に井上キチノスケという代議士がおり、彼が
自分の土地に、「お助け長屋」と言う今のアパートの様なものを作り、安い家賃で
人を住まわせていたという。
住人の中にヤクザ者で「アッさん」という人がいて、「義侠心が強く相撲取りみたいに大きかった」そうだ。
この「アッさん」は、地元に強盗が入った時には寝ずの番をして人々を守り、
また今回の様な洪水で日野橋(当時は木製)が浸水し、橋の真ん中に四五人残された時には、
海みたいになったところを泳いで救出に向かい、全員を助けた。
「アッさん」の名前は伝わらない。この話は以下の聞き書き資料によるもの。
『古老の語る谷保の暮らし』(国立市教育委員会、1987)
- 1375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/31(木) 22:50:17.12 ID:xKgL1c35w
- パワーショベルという乗り物はすごいもので、浅い川程度なら、半分くらい水につかっても
向こう岸まで進んでゆく。その雄姿はすばらしく格好いいものだ。
同じ武蔵国でも江戸以外は多摩地域、今でも東京西部は多摩川を中心とした文化なのだな、
とつくづく思わされる。
考えてみれば、小金井小次郎が名乗った屋号も「玉川屋」だし、これは二代目小次郎事
市村和十郎も継承して玉川屋和十郎を名乗る。
明治の侠客天野要蔵も「玉川亭」の要蔵を名乗る。
八王子の岡っ引頭源左衛門も確か、玉川屋源左衛門と言ったはずだ。
- 1376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 22:59:35.25 ID:p5YeqW6Zl
- 近年どうしても気になるのが、埼玉県東松山市、観音の菊次郎氏だ。
明治3年71歳で斬罪される。菊次郎は近隣に多くの子分を持つ博徒親分でありながら
地元の村役人や幕府の下級官吏とも交流し、地域で幾度も興行を行った。
どう考えても面倒見の良い親分であったと思われる。
それにもかかわらず、「明治」になったからと言って、勝手に過去の罪を背負わされて
断罪された。
黒駒勝蔵や岐阜の弥三郎並みに理不尽な仕置きとしか言いようがない。
岩殿正法寺の向かいの池の辺りに建つ墓石を建立した人々をあげれば
岩殿の志村貞庵
岩殿の内山久五郎
根岸の根岸源次郎
藤沢村の酒井代五郎(酒犬代五郎か?)
秩父郡大野村の堀口佐蔵
菅谷の根岸 雄蔵
比企郡毛塚村 荻野長八
比企郡田木村 佐藤九造
上州南勢多郡大胡村 田島要吉
錚々たるメンバーが名を連ねている。
- 1377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/02(土) 20:12:13.91 ID:o3mOBqEN/
- 幕末の人々が指輪をしていたことが、先日判明したそうだが、
「人相書」にはしばしば、「薬指に銀指はめ…」などの文言が登場する。
当時は指輪とは言わず「銀指」と言ったようだ。
(なお、この史料は関東取締出役の渡辺園十郎が書いたもの。)
- 1378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 22:46:33.44 ID:kqiwJ05Mq
- 二本木の安太郎氏の墓石に刻まれた「刎頸」の中には
(今のところ)二人の剣術の名人が入っている。
一人は二代目島田虎之助事島田孝造
もう一人は三内流の達人谷路治作(司作)
というわけで場合によっては、もっといるかもしれない。
- 1379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 22:54:10.01 ID:kqiwJ05Mq
- 指定管理者制度の元、民間委託された図書館は
たとえ「地元の郷土史」となる論文や史料でも「抜き刷り」形式では受け付けないのだと。
もちろんもう二度と持ってい行かないが、
そりゃ、地元の「歴史」が無くなるわけだ。
研究の対象が、博徒だ、アウトローだとか言う以前の段階だ。
- 1380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 22:50:44.27 ID:ZsVVINOk8
- 谷路治作の門弟には二本木安太郎の弟、庄五郎(庄之助)もいる。
門人帳が残っているから、それがわかる。
ただ複雑なのは、上でも書いた小野派一刀流の村野忠蔵が、谷路に師範代を頼み、
その間に一刀流の道場に彼らが通っていたということ。
つまり谷路は本来三内流だが、小野派一刀流も学んでおり、むしろそちらの師範代を
務めたことで名が知られていたということだ。
谷路が師範代として道場を運営してくれていた時に、村野は多摩、甲州、信州と旅して、
上にも書いたように遊女を連れ出し、捕り方と抗争になって、斬り死にした。
二本木の庄五郎(瀧蔵か?)は、この村野の剣術道場に通い、その技を学んだと見てよい。
- 1381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 22:58:32.60 ID:ZsVVINOk8
- とにかく、この辺りの剣術家に関して詳しいのは
大多和晃紀氏の『入間市の剣士たち』(自費出版、1985)
安太郎の事が一文でも出てきたのは本当に嬉しかった。(地元でさえ、これと『二宿物語』くらいだ)
見れるのは埼玉県入間市の図書館くらいだが、
地元の郷土史という意味ではぶっちぎりに良い資料だ。多分ここの政府刊行物
のどれよりも優れている。
- 1382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 23:24:56.27 ID:bELV5GK6l
- 苦労すること
責任ある立場に立つこと
恥をかくこと
これらは男の価値を上げる修行である。
- 1383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/14(木) 22:59:02.13 ID:ZdkTfjElJ
- 中新田の源七は本名を高篠源兵衛と言う。
墓石も在って、そこには観音の徳や山ケ谷の源太郎(矢部源太郎・通称権次郎)
なども名をあげている。
地元では高麗川の源七とも呼ばれていた。
不可思議なことは、講談にこそ赤尾林蔵の敵として名前がでるが、
公の文書では、まるで彼の名前が出る事をはばかるように、まったく、この事件に関して
源七の名が出ないことだ。
一体どういう人であったのか、実体が遥としてつかめない。
- 1384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 22:43:51.22 ID:NXWSvzsH0.net
- 新潟市歴史博物館(みなとぴあ)@minatopia
みなとぴあファンクラブに入りませんか?
観覧料割引や史跡ツアーなどの特典があります。12月には会員向け館長講演会を開催!
テーマ:「博徒と抗争」
講 師:伊東祐之(当館館長)
日 時:12月8日(日)午後1時30分〜3時
※12月4日(水)申込み〆切
講演会申込みで新規入会できます!
https://twitter.com/minatopia/status/1194865559449374720
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- 1385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 21:46:07.92 ID:u7pPblBuh
- 東京都町田市の小島資料館の蔵書『梧山堂雑書』の元治年間分が
翻刻された。ADEACで元史料は見れたが、やはり崩し字を見続けるのは結構しんどいので、
これは有難い。
何しろ、この巻には「甲斐国勇てん子分」をはじめとして、木曽の嘉十郎、小川の博徒などの動向が
詳細に記録されている。
岡っ引きとしても広袴の音ニ郎に、厚木の増五郎などの名前が出てきて興味ふかい。小野路組合では
ほかにも為吉という人もいたようだ。
だが、何より目を引くのは二代目島田虎之助事、島田孝造が日野の理心流に喧嘩を吹っ掛けた一件が
記録されていることだろう。布田や上石原、押立、府中といった所にも孝造の門人はいたらしいし、
彼自身、振武軍に身を置いていたこともあり、とにかく活動的な人だった。
そうそう、上でも書いた孝造が弟子と共に震武軍から脱走して、その際に追ってに手やりを投げていったとの
史料は『此花新書』(慶応4年)という「新聞」の走りみたいなものにある。
わりと翻刻や転載されたものが多いが、一番閲覧しやすいのは
『幕末明治新聞全集』だろう。
- 1386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 21:52:37.77 ID:u7pPblBuh
- なお子母澤寛が『幕末奇談』(だったか?)の中でやはり島田孝造(幸蔵)の聞き書きを
書いており、それによれば、彼は島田虎之助の倅や血縁ではなく、
その直弟子の一人だったとのこと。
腕が立ったが、それを鼻にかけすぎた所、本家島田先生に道場で散々に打ちすえられ、
息も絶え絶えのところを叩き出された。これは島田虎之助の愛情だったようだが、
叩き出されてはじめて、己の愚と師の愛情を知り、号泣したとか言う。
以降は田舎で剣術を教授し、青梅の芝居横町というところに道場を開き、80いくつで死ぬまで
面・小手をつけて指導にあたったとのこと。
ある日、稽古の最中に道場で亡くなった。
どこまで事実かはわからぬが、まぎれもなく一角に人物だと思う。残念ながら墓所や子孫は今のところ不明。
- 1387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 19:01:02.47 ID:cW2ruZ7f0.net
- 「姐御」の文化史 伊藤春奈著
https://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2019112200087.html
>上州(群馬県)は江戸期から養蚕が盛んな地域だったが、
>農家の副業である養蚕はその担い手である女に一定の現金収入と発言権をもたらしたという。
>なかには養蚕の技術と経営権を手にして一家の主導権を握る女性までいたそうだ。
>幕末の博徒・国定忠治を逃走中にかくまった菊池徳もそんな女性で、
>映画で拳銃をぶっ放したりする姐御・お品のモデルも徳だった。
- 1388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 22:26:08.21 ID:hWyBLtCu6
- 明治10年に亡くなった師岡の孫八の後を継いだのは
おそらく宮崎馬之助。この人はまず間違いなく、根ヶ布の諏訪神社(虎柏神社)の
神主、宮崎家の出自だろう。
諏訪神社は今でも神聖な雰囲気を漂わせているが、それ故か、
おそらく延喜式の虎柏社はここなのだろうと思わされる。
孫八が若い時分に帳外にされ無宿者であった時に、世話をしてくれたのが、ここの神主だった
宮崎主馬なのだそうだ。その御に報いるつもりが、知らぬまに宮崎家の二男を侠客にしてしまったわけであるが、
馬之助も一角の親分になったわけだから、そう悪い結果でもない。
ただし、今日、当社の宮崎家は断絶し、墓がどこにあるのかもわからぬ。
なお、根ヶ布のあたりは相撲が富に盛んであり、そのことはこの神社の水鉢下に奇妙な力士の石像が
いらっしゃることからもうかがい知ることができる。
今じゃ、地元でも伝えが残っていないけれど。
- 1389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 22:50:00.97 ID:hWyBLtCu6
- 小学校の校長先生をやっていた「島田先生」が郷土史に関しては抜群の知識を持っている
権威だったと。
そんな訳で何か古文書があればみんな島田先生の所に持って行くか、預けたりしたのだそうだ。
まだ、郷土史なんてゆるい時期のことなので、地元の郷土館でも
島田先生に見てもらった古文書は場所もとるから、と処分したりもした。
いずれ島田先生がまとめるだろうからと皆期待していたのだ。
しかし島田先生は何も書かぬままお亡くなりになり、膨大な郷土の歴史実話がそのまま消えてしまったのだと。
埼玉県南部の博物館で職員から実際聞いた話だが、全然笑えないぞ。
- 1390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 22:09:22.84 ID:YZy1ZuP+q
- 二子村(神奈川県川崎市高津区)の子之吉さんのお墓は立派だ。
中世の板碑につかう秩父青石の様な大型の自然石にただ姓と名前だけが彫ってある。
子之吉は溝之口組合の道案内(岡っ引)であるが、若いころは任侠の世界に身を置いた。
ただ小金井一家だったというのは信用できない。子之吉は小次郎よりも年上だし、
道案内になった安政五年には、小次郎は三宅島だし、まだその勢力が川崎まで及んでいたとは思えない。
道案内の親分であった者はわりと多くいるが、はっきりと目立つ墓石が立てられている者は少ない。
それだけに子之吉は地元でも相当に名の知られた(地元に寄与した)侠客だったと考えられる。
今では地元でも「子之吉」の名すら知られておらず、実に残念だ。
- 1391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 22:59:32.05 ID:IPF9hnrbt
- 『相撲博物館紀要』は年に一回しか出ないようだが、今年度(2019)のものは
師岡の孫八さんが触れられている。
丁度調べていた時なので驚いた。こういう奇遇はよくある。
孫八さんは文久三年相撲興行を行うが、なんとそれは江戸相撲という規模の大きいもので、
それも偶然、この年の相撲興行の色々なあおりをうけて行われたとのこと。
孫八さん自身が「内野川」の四股名をもつ相撲取りだったことはさすがに触れられていないが、
著者である土屋喜敬さんの嗅覚はすごいものだ。(以前には柴崎のはけの粂蔵についても書かれていた)
土屋喜敬「文久三年の江戸相撲について」(『相撲博物館紀要(17)』2019)
- 1392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 22:42:46.38 ID:zl0P+K/Hc
- 皆木繁宏氏の『小金井小次郎伝』の扉のカラーページに掲載されている
相撲番付は、この文久三年に孫八が催した相撲興行の際のもので間違いないことが
これで明らかになった。
40年以上たって研究書が研究本の秘密を解き、「当時」から考えれば160年近く経って、
当時の事実が詳らかにされたわけだ。
- 1393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 22:57:44.45 ID:zl0P+K/Hc
- 結局ここに到達せざるをえないのだが、中里介山の『大菩薩峠』
そもそもが主人公の机龍之介が三田佐内をモデルにしているという。
三田佐内、島田虎之助、谷路治作、村野忠蔵(弥七)はいずれも博徒・侠客と関係が深い(自身が博徒・侠客)
の剣術家だ。
介山自体血の気が多く鉄砲をぶっ放したり、同じ文人久保田万太郎に喧嘩を吹っ掛けたりした。
龍之介がニヒリストの人切りだというのも彼の性向に合っていたためで、要するに
「侠気」があったわけだ。
介山の「創作ノート」というのがあるらしい。個人蔵なので閲覧はできないが、
彼が大菩薩やその周辺の山村で得た聞き書きをまとめたもので、「裏宿七兵衛」等に関して
いくつも逸話を載せている。
あるいは鳥澤粂や祐天仙之助、下手すれば師岡孫八や青梅権四郎、二本木瀧蔵に関して
有用な情報が記録されているのかもしれない。だが、まあ、とにかく今は閲覧不可とのこと。
- 1394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 23:10:32.63 ID:zl0P+K/Hc
- 人生は別れと出会いの連続だと言うが、
別れの場合、どうやってそれを耐えればいいのだ?
いつもそこに居てくれて、風景のように当たり前で、多分、自分が老いるまで
相変わらずそのままだと思ってた人が急にいなくなったら、どうしたらいい?
先方さんは気づきもしないだろうが、こっちからしたら大問題なのだよ。
そもそもが自分の様な小心者の、この侠客の小咄を喜んで聞いてくれていた
暖かいコミュニティーが無くなるということが、自分には、今は耐えられないほどの損失なのだよ。(まあ、結局は耐えるし、慣れるだろうけど)
本当お世話になりました。本当にありがとう。
- 1395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/10(火) 23:35:17.49 ID:pURHcfZjd
- 価値があることはわかっているのに、誰もそれをやらない、
というのはよくあることだ。
多分これほど有名なのだから他の誰かがやっているだろう、と思っているのだ。
だが、誰もやっていない。
安東文吉の墓石の台座の子分らの人名を記録にとったり、
大前田や赤尾の林蔵に剣を教えたという(本当かどうかはわからんが)秋山要助の墓石の
門弟の名をとったり、
次郎長の墓の「囲い」の関係者の名をとったりと、
以外にそういうのが見過ごされている。
悔しいのは、近くに博物館や資料館があるのに、それが行われていなくて、しかも
職員もその存在を知っている時だ。たいていは人ごとだし、摩耗して今は見れなくなっていても
「まあ仕方ないね」といった反応。
最近だと青梅市清宝院の島田虎之助の剣術奉納額がまさにこれで、いまさら目視と写真撮影とで本来書かれていた文を
解析しているが、正直摩耗してとてもきつい。だが、価値が相当あることは確かだし、
そのことはみんな知っている。
- 1396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/10(火) 23:42:07.25 ID:pURHcfZjd
- とりわけ正面向かって右面の中段はどういうわけか、劣化がはげしく、
もうほとんど読めない。
農村部に流行った剣術に関しては、実は異なった二派から同時に習うことなど、
ザラにあり、相反するような流派両方の免許を同一人物が受けていることも多々あるようだ。
それだけに人々の動向を知る上でも、
こういった史料は大事にされ、少なくとも記録に取られるべきなのだと思うのだが。
- 1397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/13(金) 23:04:21.08 ID:B28CzR09B
- 二本木の安太郎の兄弟分でもあった剣術家・谷路治作(司作)は、天保9年の生まれ、
明治23年に53歳で亡くなるまで、剣名は武州に鳴り響いた。
剣は三田佐内(宗美)に学ぶと同時期に村野盛任にも学び(前者関平三智流・後者小野派一刀流)
、後年は盛任の道場で師範代を務めた。
しかし、三田佐内が慶応三年御岳山に自身の創出した剣術流派の奉納額を掲げようとしたことから
師範筋の甲源一刀流比留間半蔵一派からクレームが起き、両派の門弟の間で一触即発の危機となった。
この時治作は佐内に付き、自らの弟子を集めて加勢に加わる。
途中、橋を渡る際に連れてきた門弟らに対して、「再びこの橋を渡れると思うな」との並々ならぬ決闘の覚悟を
示したので、一同ぞっとして真っ青になったとのこと。
(なお、この決闘は仲介者が入って水入りとなった。仲介は指田茂十郎とも松崎和多五郎とも言う)
- 1398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/13(金) 23:17:35.70 ID:B28CzR09B
- 治作はまた強弓を弾くことでも知られ、七分の弓(「分」の単位がよくわからんが、六分半でも相当「重い」らしい)
を操り、筋骨は逞しく、姿は西郷隆盛によく似ていたとのこと。
剣はこれまた夜盗をたたきのめしたり、近江の剣客と闘って子供の様にあしらったりと
無敵ぶりを伝えるエピソードが多い。かの黒須大五郎の盗賊団も「俺は谷路治作だ」と偽って、
入り込む家々を恐れさせたと言う(これを聞いた治作がまた怒って、盗賊の一人を捕らえ、耳を斬りおとしたとのこと。)
墓地は入間市根岸。残念ながら墓石は現存していない。
参考文献は『金子人物誌』(中島幸太郎、昭和45年)
それと、上でも挙げた「入間市の剣客たち」。
- 1399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/24(火) 00:35:44.50 ID:hwH1T9vB6
- 甲府町年寄坂田家・山本家が交互に記録した
通称『坂田家日記』は、江戸中期から幕末・明治初年までを押さえており、
とりわけ甲府城下の治安を定期的に扱っているので、博徒・任侠の徒の動向に関しては
抜群の史料である。
数えられるだけでも、
竹居吃安、三井宇吉、国分三蔵、祐天仙之助、鬼神喜之助、小天狗亀吉、正徳寺多八、石原幸次郎、
大場(間宮)久八、宮川勝左衛門、陣屋三之助(全くの偶然)、宮脇五郎右衛門、若神子弥十、富竹亀吉、
永井新助、竹居市五郎…などが出る。
しかし、コレ甲府の史料なのに、甲府では閲覧できない。
御坂町(笛吹市)にある県立博物館で、一々指定して頼まないと見れないし、それも17時まで。
だが、そのことは百歩譲るとしても、
甲府ではなく、東京都立川市の「国文研」では、
紙焼きのコピーがあるため閲覧可能なのである。
つまり、「甲府町年寄」の史料が「甲府」では見れず、県の片田舎の博物館でほぼ一般に見られることなく死蔵されており、
一方で「東京」の「多摩地域」ではいつでも閲覧できる。
このアホみたいな図式はいくらアンケートで訴えても効きはしない。
そりゃ、当たり前だ、史料の価値も知られていないし、所蔵場所もそうそう知られていない。
なによりそこまで興味を持つような好事家は、そうそういるもんじゃない。
お役所からしたら、それを一々目くじら立てて糾弾する方が異常なのだ。
けど、そのままでいったら、間違い無く郷土研究という文化や、郷土の伝承、伝統といったものは
消滅するぜ。
- 1400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/24(火) 00:43:21.85 ID:hwH1T9vB6
- 上に居れそびれた
黒須大五郎、塩山藤太郎、二階弥太郎、三井健次郎、山形屋重兵衛(小澤一仙の協力者)など。
- 1401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/28(土) 00:03:55.56 ID:FArVdDUu/
- 子母澤寛の短編小説「秋野紺屋」は遠州相良の竹屋騒動とその前の、
秋野亀三郎による上州熊五郎の殺害を題材にしている。短編だが、
史実(『相良史』)や聞き書きに基づいた内容でいろいろと役に立つ。
今なら『子母澤寛全集二一』に掲載されているそれが入手しやすい。亀三郎は
若年だったが、器量があったので相良の富吉の弟分になった。
二人して、賭場荒しの熊五郎を仕留める。
富や紺亀、切る気はないが、
運の尽きかよ熊五郎
との里謡がこのとき出来たそうだ。
- 1402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/28(土) 00:18:21.29 ID:FArVdDUu/
- 富吉や竹屋騒動に関しては
『相良史』や『相良藩』、『遠州侠客伝』といった史料があるが、
なんにしても、この周辺の歴史に関して
地元の碩学・河原崎陸雄先生の御研究に勝るものはないようである。
(訪問した際に史料館の職員が熱心にそう言っていたのをよく覚えている)
- 1403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/29(日) 12:12:23.91 ID:0otFUUPDC
- 菅沢欣一『近世後期の御改革組合村』(青史出版、2015)
国会図書館にも無いが、非常にすぐれた著作。江戸末期の関東取締出役や
組合村の変遷、当時の世情に関して凄まじく良くまとまっている。引用文献がとにかく幅広い。
- 1404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/29(日) 12:49:47.26 ID:0otFUUPDC
- 相良の富吉に剣術家・小泉勝三郎が付いており、知恵を与えていたと言う。
勝三郎は富吉が捕まり、その宅が全焼した後は安東文吉の元で食客となり、
文吉死後郷里に帰ったという。色々伝承はあるが良くは分からない人である。
何度も挙げてるが角田桜岳日記。
天保14年5月〜8月の項に、名前が出てくる。と言ってもただ名前のみ。
・小泉某といふ剣道者… 275頁
・此間尋ね参候、小泉勝三郎といふ修行者、蒲原より… 276頁
これではあまり参考にはならないだろうが。
- 1405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/10(金) 23:57:46.55 ID:oMH2udaJH
- 甲府柳町は江戸末期の甲府の中心地で、南北に延びる通りである。
ただし、甲州街道からの直接の道は、二丁目に通じるため、勢い一丁目と四丁目は「場末」にならざるを得なかった。
そのため「遊女屋」を一丁目(四丁目にも、との説もある)に集中させ、
ゆえに、甲州道中一の歓楽街となるに至った。現存する史料も豊富であるため
街道筋の遊女屋街として様々な地域で、研究に使用されている。
柳町一丁目に江戸末期から明治3年までを通して、八軒の遊女屋が置かれた。
新京屋、京屋、藤之屋、菱屋、松坂屋、大黒屋、狸々屋(ショウジョウ屋)、そして三井楼。
三井楼は三井卯吉が後見となって、倅の豊助に営業させていた。
- 1406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/12(日) 14:41:25.13 ID:eOJMPoGM0.net
- 新潟市歴史博物館(みなとぴあ)
講座「幕末蒲原地域の無宿・博徒と民衆世界」(全4回シリーズ)
日時:3月1・8・15・22日(いずれも日曜)13:30〜15:00
講師:伊東祐之(同館館長)
申込:2月21日(金)必着
第1回 3/1 無宿と幕藩制社会
第2回 3/8 博奕と民衆
第3回 3/15 無宿・博徒と町村
第4回 3/22 村のあぶれ者と騒動
http://www.nchm.jp/
- 1407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/12(日) 23:32:51.28 ID:Zk6Ke90Ie
- >>1406
この返信、本スレッドからは見えないとは思いますが…
いつも有用な情報を誠にありがとうございます。
- 1408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/13(月) 21:54:24.47 ID:LKdGR4bxz
- まず結論だけ先に言っておくと、
武州府中宿の田中屋万五郎と甲州柳町の三井宇吉(卯吉)は兄弟分だということが判明した。
その根拠はまたいずれ。
- 1409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/16(木) 22:40:22.23 ID:hIJTjUmPh
- 本物というのはすごいな。
偉ぶらないし、自分を不自然にアピールしないし、他を貶めない。
淡々と自分の道だけを進み続ける。
幸運にして人生で何人かそういう人にお会いしてきたが、
その都度、こちらが多くの事を教えられる。(知識のみならず態度・生き方だ)
侠客に興味を持つということは、ひいては人間そのものに興味を持つということだ。
- 1410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/16(木) 22:58:01.90 ID:hIJTjUmPh
- 大正時代、ハワイに移住した日本人のために発行された「日布時事(にっぷじじ)」という新聞がある。
この中に1914年1月17日を第一回として百何話くらいまで連載された「祐天仙之助」
という講談小説がある。作者は一立斎文慶。
これが最近hoover institionのHoji shinbun Digital Collection (Nippu Jiji)として読めるのだが、
この例えば第62回(3・27)には次のような部分がある。
この武州府中の宿に田中屋万五郎という大きな名大の目明しがあって、この人は
小金井小次郎という当時の大親分、小次郎をあれだけの親分にしたのは、全く田中屋万五郎の
骨折りであります(中略)スルト、田中屋万五郎はかねて三井の卯吉の兄弟分ということになって居りますから
この凶変については通知も受け…
あからさまな間違いも大いが、この新聞連載講談小説、相当に本当の部分も多く、
それもあまり聞かない情報(おそらく真実)があるので、一読に値するのだ。
- 1411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/16(木) 23:03:25.97 ID:hIJTjUmPh
- 万五郎の元には事実卯吉が自身で何度も訪ねてきており、
手紙で借金を依頼したことも確認できる。卯吉はその金を興行の資金に使った。
また、卯吉死後の三回忌を知らせる三井楼からの手紙も届いているし、
彼の後継である祐天が面会を願ったことも記されている。
万五郎と卯吉とが兄弟分であるのなら、これらのものが存在している理由も納得がいくのである。
- 1412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/26(日) 22:53:40.71 ID:xy0IDfjrn
- 「甲州の『宮ノ脇一家』について、
書かれた史料を探しています。何か御存じの方いらしたら
教えて下さい。」
↑が自分の、このスレッド上最初の書き込みなのだが、
あれから七年経って、
いろいろすごい情報も貰えたし、新しいことも分かってきた。
「2chなんて雑多でいい加減なものだ」と言われていたが、
なかなかどうして、(自分には)役に立つ場所だ。
- 1413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/26(日) 23:17:41.79 ID:xy0IDfjrn
- さて、興味深い点として
宮脇一家「三代目」とされる「上手の八百蔵」に関して、文書史料にこうあることだ。
此八百蔵と申す者、大造の家作り、長屋門等にて、余程身元宜敷様、相見え、
甲州第一の博徒に之有り、関東は勿論、処々より無宿、無頼の者ども
まず、八百蔵方へ便り参り、小遣い銭等貰候よしにて、平生は近郷博奕の…
某有名大学が保有する、石原村無宿幸次郎事件に関しておそらく一番詳しいと思われるこの史料に
ある一文の大凡訳である。 (なおNo48 朱書)
事件の内容から「嘉永2年」の事なのであるが、東に吃安、甲府に宇吉、南に津向、富士川に鬼神らの一家がいた頃の話である。
なのに、八百蔵に関して、「甲州第一の博徒に之有り」とあるというのは見のがせない。
ひいき目に見ても八百蔵の実力の程が相当なものであったことが窺えるのである。
と、同時に本当に「八百蔵」は「三代目」なのか?との謎も生じてくる。
- 1414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/01/29(水) 00:12:38.05 ID:tvnKI2kiG
- 昔は講談師は、新しい講談をする際に、その主人公とするところの人物にとって
馴染みの地域を野別隈なく歩いたものだ。
地域に住む古老に逸話を尋ねて、一年、二年、それこそ自分で作家や学者のように
自分だけが知る面白い実話を数個見つけて、
それからようやく話を組み立てる。
だから、今でも新しく見つかった講談小説からは多くの事実的示唆を得る事ができる。
他の事象から例証できれば、それこそ一級品の史料として扱えるのである。
翻って今日、どんなに重鎮と言われる人でも、斬新と言われる新人でも、
もう鼻から、幕末の侠客の「新事実」を漁って歩くような「馬鹿正直」な真似のできる人はいない。
今では本気で、どれだけ「御話」が上手いかしか考えていない。歩いて史料集めようなんて「前時代」のやることなのだろう。
だが、それってつまるところ、講談師はもう死んだ、と言ってるようなものではないか。
- 1415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/06(木) 22:52:48.60 ID:zAXI9uG5q
- 小川幸八(文化2年生まれ)
藤屋万吉(文化13年生まれ)
小金井小次郎(文政元年生まれ)
師岡孫八(文化2年生まれ)
田中屋万五郎(寛政8年生まれ)
一ノ宮万平(安永8年生まれ)
小川幸蔵(天保2年生まれ)
以上を参照すると、例えば小次郎が三宅島へ流された安政3年
幸八(51)、万吉(40)、小次郎(38)、孫八(51)、万五郎(60)、
万平(77)、幸蔵(25)
という年齢になる。
- 1416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/06(木) 23:18:52.53 ID:zAXI9uG5q
- いや、「数え年」だと、これに一個づつ年を足さないといけないのか…
よくわからん…
- 1417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/11(火) 00:28:37.64 ID:vAILjP6v3
- 賭場というのは「寺銭」という言葉が有る様に、寺社仏閣で立つことが多い。
これは仏教・神道が堕落したという訳ではなく、もともと「博奕打ち」がそういう
神事に近い場所から生じた存在だからに他ならない。要するに「筋」が通っているわけだ。
どこが賭場として重視されていたかは、その後の歴史の中で有る程度「恥」として隠されてしまったようだが、
伝承や口伝えには残っている。
甲州なら一番は身延山大野の本遠寺や塩山恵林寺の例大祭、西郡の高尾山事穂見神社の夜祭り、
都市部なら一蓮寺の遊行上人来着時や、今日でも伝わる正ノ木さんや湯村の厄地蔵さん
峡北なら鳳凰三山の駒形神社の祭りや穴山岩観音…等々である。
ところで、より限定された場所として、よく史料に名が出るのが一ノ宮、中山の廣厳院。
堀内良平の『勤皇侠客黒駒勝蔵』でも祐天と勝蔵が初めて顔を合わせるのがここであるのだが、
確かに当時(幕末期)の記録の中でも、名指しでここに賭場が立ったという記録が多いのである。
- 1418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/11(火) 00:41:39.49 ID:vAILjP6v3
- 最近では博奕打ちの存在が「金と物流」の面から語られがちだが、(かく言う自分もそうやって
解釈してきたが)それ以上に神聖な場所である、という点が大事なのだろう。
連綿と続く歴史と神性があって、博奕打ちはそういう処に集まる人々なのだ。
だから、静岡と山梨をつなぐ富士川沿いは「物流の集合地点」であるという俗な見方以上に、
日蓮宗の名刹・要地、富士山麓の寺院が川沿いに密集しているという点の方こそ
重視するべきなのだろうと思う。(他にも鬼島観音や、小室山、大石寺や富士浅間の大宮、大宮の大頂寺…等々)
俗に言うところの甲州博徒は、この土地に根差した多種の宗教抜きには存在しえないと
すら言えるだろう。この点、駿州の博徒は甲州の博徒とある種共通し、
一方で上州長脇差とは一線を画すところなのではないかと思うのだ。
- 1419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/11(火) 00:50:16.80 ID:vAILjP6v3
- 私が知らぬだけなんだろうが、上州長脇差と宗教的名刹はあまりつながらないように思うのだ。
あくまで自分が無知なだけなのだろうが。
それよりは群馬県市や太田市史掲載の史料が伝えるように、都市部での隠れて行われる
賭場の、クラクラするような熱気の描写や、方や、空っ風の中をただ歩く、
覚めた長脇差渡世人の姿が上州の気風には合うように思うのだ。
信心の末家業を捨てた西国の大侠・黒田屋祐蔵の様なエピソードは、
どうやったって上州の大侠・大前田栄五郎には似つかわしくない。
- 1420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/11(火) 23:51:07.54 ID:vAILjP6v3
- 味岡源吾先生の『実録 荒神山』(株式会社アジオカ、1992)は非常な労作である。
荒神山の喧嘩、仁吉や治助、三代目お蝶や、西尾市に関してすぐれた研究成果を上げた御本だ。
こんなこと書くのは、若干さもしいだろうが、
某所で、この御本をほとんど丸写し的に参照していながら
書名、著者名を全く上げていないので、ここに記しておく。
- 1421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/13(木) 23:53:09.62 ID:k1CAUePsC
- 今泉の小市
- 1422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/14(金) 00:02:43.69 ID:B8H475L09
- 岩淵の源七と決闘をして、優勢でありながらその器量に打たれ、弟分となった
坊主勝というのがいるが、その弟らしき人に今泉の小市という人がいるらしい。
任侠研究最高峰の人のブログの残存にそんなことが書かれていることを本日偶然目にしたが、
私のレーダーが反応することには、
今泉の小市は『原宿問屋渡辺八郎左衛門日記』に名前だけ出るようだ。
旅をした時の書き付けに名前だけ出ている。p100あたりらしい。
「今日捕縛された」ぐらいの情報でしかなかった様に思うが(その史料自体現地に行かないと見れない)。
それより、この博徒名簿、やはりすばらしい。普通ならどうやったってわからない事柄が惜しげなく
記されている。文章から、その地域独特の風土、風俗が感じられる。
坊主勝という人もとにかく辛子の効いた人で、魅力がある。
同じ様な名前に坊主音というのがいて、こちらの方は子母澤寛氏の説だと、飛んでもない悪党とされる。
都田吉兵衛の知己だとのことだ。
- 1423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/16(日) 22:36:39.56 ID:j22DUD45/
- 大前田栄五郎の言う
「割の良い喧嘩はしても良いが、割の悪い喧嘩は我慢しろ」
が今は心にジンと沁みる。
もちろん会ったこともないが、すごい親分だと思う。
この一行に随分救われてきました。
- 1424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/02/25(火) 23:42:41.91 ID:yVfplb8DT
- 安政4年正月四日に三井宇吉を斬った、市川の亀吉を匿った
武州足立郡高尾村(埼玉県北本市)の団七という博奕打ちがいる。
親分だったのか、半か打ちの独り者だったのかはわからない。
別名を団平と言う。
もっともこれほどの凶状持ちを匿ったのだから度胸のある人だろう。
団平宅は多数の警吏に囲まれて、団平は亀吉(と、その連れ二人)を出すように言われるが、
答えなかったのか、答える間もなかったのか、亀吉以下3名が急に飛び出し
出方を二人斬って逃走した。
団七(団平)の素性は全くわからないが、当所には「ダンペイ坂」という地名が
残っており、博打うちダンペイがここに住んでいたとも、ここで斬られたとも言う。
郷土カルタにも「運の尽きだよ、ダンペイ坂」の一首がある。
- 1425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/03(火) 19:10:10.96 ID:ay6YbWRfr
- 何日か前に浜松城の新地図が見つかったとかで、
その鑑定者として神谷昌志氏の名前が挙がっていて、驚いた。
九十歳でまだご存命だったのだ。
氏は遠州の歴史郷土史に多くの研究成果を上げた偉大な在野の研究者だ。
遠州博徒の動向や素性に関しても、今日それらが残っているのは、この人の
寄与による所が多い。
手に入りやすいのは『遠州の史話』(静岡新聞社、平成2年)あたりだろうか。
小松村の七五郎、山梨の巳之助、四角山周吉に関して貴重な実物史料や墓石史料をあげ、
かつ聞き書きも記録に残している。
非常に有用な研究成果だ。
- 1426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/03(火) 19:19:07.60 ID:ay6YbWRfr
- だが、何と言っても神谷氏の面目躍如は雑誌『東海展望』の歴史部門の記者として
多くの記事を手掛けたことだろう。この雑誌では記事を書いた人の名前が記されていないのであるが、
今日の紹介のされ方からして神谷氏であることがわかる。
要するに、足を棒にして歩いて、頭をさげて聞き込み、手をつかって文献を探り、
頭を絞って文章を作っても、それらを自分の手柄とすることなど、氏にはどうでもいいことのようだ。
(すぐれた研究者にはそういう人が多い)
とりわけ、同雑誌の1959年7月の「都鳥吉兵衛」から1982年9月、10月の「山梨の巳之助」
同年12月の「堀越の藤左衛門」などは貴重である。
浜松市が浜松城の新発見史料を一番に神谷氏の元にもってゆくのも、尤なことである。
- 1427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/03(火) 19:29:34.62 ID:ay6YbWRfr
- 遠州博徒と言えば、森の石松ばかりが突出して有名だが、
山梨の巳之助、堀越藤左衛門、四角山周吉、大和田之友蔵、
更に何と言っても
相良の富吉(富五郎)一党だ。
(相良富吉とその周辺のことは、また神谷氏とは別に素晴らしくレベルの高い研究成果がある。)
伊豆や三河もそうだが、遠州も任侠研究者の残した(あるいは現在進行の)賜物は多い。
反対に、こういう人たちがいない地域は、実にさびしい。
勿論侠客のことのみならず、である。
- 1428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/03(火) 19:35:53.77 ID:ay6YbWRfr
- ADEACというのがあって、要するに全国の心ある図書館の郷土資料をデジタルで
公開するという連合機関だ。
この中の「浜松市立中央図書館」の上げているものはなかなか見ごたえがある。
最近公開の更新された郷土資料に『都田風土記:わが町文化誌』(都田公民館、1996)がある。
この中の「都鳥一家」の項はとても良い。文章も簡潔で内容も価値が高く、何より
源八や妻、梅吉、常吉兄弟の位牌の図すら載っているのだ。
- 1429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/03(火) 19:45:04.66 ID:ay6YbWRfr
- あとは『都田村郷土誌』(富田準作、昭和15年)も貴重な資料だ。
都田の源八には卯吉という物凄い子分がいて、里謡にも
都田卯吉は火事よりこわい
火事は抜き身で来はせまい
の歌があったことが記録されている。
- 1430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/04(水) 09:32:44.96 ID:D0perusTN
- 神谷昌志氏のことを取り上げたのは、
インターネット上で大学の研究員の先生が
「全く素人の人間を『専門家』にでっち上げた、中日新聞と浜松市の社会的責任は重大!!
(中略)なんの学術的根拠も示さず、本物と決めつけた90歳の郷土史家の罪も同じく重い。」
などとおっしゃっていたからだ。
おそらく大学でしっかり「中世史専攻」の「学問」を積んで
さらに「大学院出」でなければ、彼らの基準では専門家とは言えぬのだろう。
それ以外は、例え歴史を愛して長年地元で成果を発表し、地元でも認められた人であったとしても
「自己満足で歴史研究している自称郷土史家」と呼ばれ、糾弾されてしまうわけだ。(神谷氏レベルであっても。)
私の様な趣味人なんぞ、これはもう、間違いなく槍玉にあげられるだろう。
こういう「専門家先生」の執念は本当に恐ろしい。
- 1431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/06(金) 00:14:35.79 ID:ODuaMG34k
- 藤田五郎氏の『関東の親分衆』はすごい本だ。
あそこに載った聞き書きは、おそらく本当に当時の親分衆や「〜一家」の古参から
直接聞いたものだろう。地元の本にだって書いてないことばかりだ。
自分の様な半端者、本から得た知識ばかりの者には逆立ちしたって太刀打ちできない話ばかり。
どれも貴重な逸話だが、其の中でも、一番印象に残るのは四軒寺の三代目、村田市五郎氏の話だ。
先代、先々代が自前の道場で武芸の腕を磨いたのに対し、市五郎氏はもって生まれた体躯だけを
頼りにそういう稽古は一切行わず、それでも抜群に強かった。
しかしながら、子分の起こした騒動から、事を修めるのために、対立する勢力の賭場に赴き、
どっかりと腰をおろして、自ら全く抵抗しない一方的な攻め苦に耐えるという業に打ってでた。。
その際、数多の傷を受け、気を失いながらも、
博奕打ちの命である賽をその手に握り続けたとの逸話。これは頗る印象に残っている。
- 1432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/06(金) 00:26:49.27 ID:ODuaMG34k
- 東京都立川市は南の甲州街道沿いに拓けた柴崎村と
北の多摩川上水沿いに展開した砂川村を南北につないだ地域から成り立っている。
この砂川という地域は広大で、江戸時代から一番から九番という番地で呼ばれ、東西に細長く続いている。
三浦朱門ではないが、武蔵野の面影を唯一今でも(少し)残す地域だ。
ここに幕末期「平蔵」という親分がいたという。文献からすれば「清水」か「小野村」のどちらかの
姓と思われる。あるいは「どちらも」かもしれない。小川の幸八側だったとも小金井の小次郎の盟友だとも。
あるいはそのどちらでもなく独立していたともいわれている。
更に言えばこの砂川には勢力が対立する勢力がいくつかいたようで、上組と下組のそれぞれの博徒が抗争した、
などという記述も現れる(『指田日記』など)
平蔵親分は、関東取締出役が巡回に来た際に、近日中の起こした出入りで遣った武器類を
みんな近所のお百姓の畑へ埋けさせてもらって難を逃れたという。
笑い話として今でも地元に伝わる話だ。
- 1433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/06(金) 00:31:25.81 ID:ODuaMG34k
- また誤りの多い文章を書いてしまったが、仕方ない。
「勢力が対立する勢力が」は「対立し合う勢力が」と、
また「近日中の起こした出入りで」は「近日中に起こした出入りで」
と、それぞれ書きたかったのだ。
- 1434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/16(月) 00:13:23.57 ID:tS6z4sOKH
- 明治になって清水の次郎長の勢力が南から甲州へ入ってくるのだが、
それが出来た一番の理由は黒駒の勝蔵がいなくなったからではなく、
市川大門の鬼神喜之助一家が壊滅したからの様である。
喜之助が弟亀吉ともども国を売った後、その一家を継いだのは倅の慶次郎(慶蔵とも慶之助とも)
だが、明治すぐに亡くなった。それより以前、おそらく実質的にその勢力を引き継いだのは
上今井村の久左衛門(庄太郎)という人だろう。
- 1435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/16(月) 00:21:30.30 ID:tS6z4sOKH
- 安政四年、子天狗亀吉が三井卯吉を斬った際に、同行した子分として「上今井村久五郎」がおり、
この人は別の史料に「久右衛門」と記録されることがある。
それから大分時は経つが、
慶応二年、黒駒勝蔵の手配書(清水町のもの)に、岩淵の坊主鉄や永井の新助の「親分」として
「上今井村庄太郎事久左衛門」という人の名が現れるのだ。
彼は富士川沿いに船を使って南下し、勝蔵らと合流したとされる。
おそらく彼が上述の喜之助・亀吉子分だった久右衛門(久五郎)だろう。上今井村出生という点でも一致する。
よってこの時、故・鬼神喜之助一家は勝蔵勢力と手を結び、反次郎長側に回ったと考えて良いのではないかと私は思う。
- 1436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/16(月) 00:24:25.42 ID:tS6z4sOKH
- 更に勝手に、与太な推測を続ければ、
この上今井の庄太郎事久左衛門とは、『安東文吉伝史料』で勝蔵に斬られる
岩淵の庄右衛門と同一人なんじゃないだろうか。
共に同士だったが、些細なことで諍いが起き、黒駒が庄右衛門を殺したという。
- 1437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/16(月) 00:40:44.77 ID:tS6z4sOKH
- ともあれ、上今井の久左衛門は幕末期辺りに亡くなった様だが、
その後、鬼神一家で主要な役割を果たしたのは
大塚の甚五右衛門、通称「アゴさん」だった様だ。このあだ名はアゴが大きくて目立ったからなのか、
他に由来があるのか今のところは不明だが、
山梨日日新聞、昭和8年6月12日には、「明治16年3月」「大塚のあご」の身内30人余りと
清水次郎長の杯を受けた「布施の仙次郎」の子分50人余りとが大喧嘩をした、との話が聞き書きで紹介されている。
また同じ闘争が別に、伊豆下田の安太郎の子分「下曽根の弥十郎」と「布施の仙次郎」の喧嘩と記録されてもいる。この喧嘩で
弥十郎が捕まり、彼は病死したと言うが、明治11年あたりのこととされる。
どれも伝聞資料なのでよくわからぬが、大塚のアゴ事甚五左衛門と下曽根の弥十が子分あるいは兄弟分で、
下田の安太郎の旗下にあり、布施の仙次郎(早川助十の親分)が次郎長の子分だとすれば、
きれいに陣営がわかれる。ちなみに、市川大門、大塚、下曽根はほぼ丘陵沿いに横に隣接する村々である。
この決闘あたりで、増幅する次郎長勢によって、黒駒盟友の鬼神一家がほぼ決壊し、次郎長勢力の進出を許したのではないだろう。
大塚のアゴさんは最初、市川陣屋の十手持ち奥野屋伝四郎(善四郎とも)の子分だったらしいが、後年市川大門松坂屋喜之助の身内になったと言う。
姓は塩島。興味深い人だが、史料も墓石も何にも今のところわからない。
- 1438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/16(月) 00:48:00.76 ID:tS6z4sOKH
- 「次郎長勢力の進出を許したのではないだろう。」
じゃなくて
「次郎長勢力の進出を許したのではないだろうか。」だ。
ちなみに、この明治16年11月のことだが、喜之助の子分だった元気者の鬼松は
布施の仙次郎の子分マムシの重兵衛を斬っているようである。
先の抗争と、この事件が関係あるのかは不明だし、全て聞き書きの更に文献転嫁されたまた聞きなので
信用はイマイチだが、
ともかくどれも興味深い話だ。
- 1439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/16(月) 21:04:40.46 ID:tS6z4sOKH
- 新撰組の永倉新八が晩年語った内容を新聞記者がまとめた
『新撰組顛末記』というのがあるらしい。詳しくは知らないが、書店で見かけたら
まだ若いころの新八は、野州佐野宿で「猿屋」の親分という侠客にけし掛けられて、地元の藩の道場
にいた剣客とやり合い、散々に打ちのめしたとの武勇伝が記されているそうだ。
立ち会った剣客の名前などは割合に正確に記されているそうだから
野州佐野宿に「猿屋」という侠客がいたことも本当なのかもしれないが…聞いたことがない。
- 1440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/19(木) 00:56:59.48 ID:gkyfQl8rx
- ちなみに、文章のはじめを「ちなみに」ではじめる奴には
ロクな奴がいない。
そろって頭でっかちで自己顕示欲の強い、今の世に恨みをもつような連中ばかり。
ちなみに、自分もそんな一人だと最近知って愕然としてしまったよ。
- 1441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/23(月) 22:04:16.90 ID:n7QR2BNeI
- 1317で武州多摩郡の西部・野猿街道沿いの博奕打ち
越野ノ喜代次(喜代松)について
「…『心機一転』のために『神楽』を世話させてほしいと頼み込む。
ちょうど折よく鎮守諏訪神社の新たなデザインが江戸の彫り物師によって作成されたので、
村自体浮き立っていたのだ。そしてその神楽も同年三年8月29日に行われた。喜代次が実際に興行したかは
わからないが、その日が雨であったため、急きょ場所を変えて高西寺で行われたとのこと。』
と書き、場所も「鎮守諏訪神社」としたが、これは間違いだった。
『農民の日記』の中の他の祭礼の記事と喜代松の行った祭礼とを「同じもの」と誤読してしまった。
越野には諏訪神社も高西寺もない。
日記には「鎮守の社」とあるが、これは「日枝神社(当時は山王社)」に該当すると思われる。
またこの地域の寺は玉泉寺である。
日枝神社は小山の上にあり、眺めが素晴らしく、この時期には桜の名所ともなっている。
裏山はちょっとした散策が出来る程、林中へ路が続いている。
残念ながら喜代次の墓石や手掛かりは全く見つけられないでいるが、
ほとんどが新しく立て替えられた墓石群の外に、一基ポツンと残った墓があり(大正九年)
八王子と真光寺の姓の違う二名が施主になっている点は何か言われが在るのかもしれないが、
博奕打ちと関係があるとは言い切れない。
いずれにせよ、こういう山上の神社や寺は絶好の賭場になったことだろう。野猿街道沿いには
こういう場所がいくつかあるのだ。
- 1442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/24(火) 23:33:43.44 ID:gtygepMqS
- 江尻の大熊
『東海遊侠伝』に出る江尻の「紺久」というのは紺屋久兵衛、すなわち和田島の太左衛門の兄のことだろう。
推測だが紺久と太左衛門は、竹居の甚兵衛と吃安の様な
関係なのではなかろうか。(一応「兄」が親分だが、博徒としての面よりも地元の顔役という趣が強い。代わって弟が「親分」的振る舞いをしていた。)
この跡目を継いだ(あるいは最有力の子分)なのが「江尻の大熊」。
よって大熊は相当な親分ということになる。実際のところ「信濃屋喜兵衛留書」だと次郎長は「江尻の熊五郎の子分」ということになっているが、
これはある程度は真実を言っているのではないだろうか。
更に言うと『東海遊侠伝』で都田吉兵衛や丹波屋伝兵衛と関わりをもっているとされる点から、
やはり江尻の大熊が、同時に大物侠客「由比の大熊」でもあるのだと思われる。「蒲原の大熊」と言う人物も
おそらく同一人。
これらの「大熊」は、次郎長以外の、他の侠客の聞き書きや講談小説などで、かなりの大物として扱われている。
してみれば、『東海遊侠伝』で「大熊」にスポットを当てすぎてしまうと、次郎長の影が薄くなって
しまうおそれがあったため、わざと彼はそれほど詳しく説明をされなかったのかもしれない。
結果的に、今日では全くわからなくなってしまった。
- 1443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/03/28(土) 22:22:31.77 ID:9G2k5f0lG
- 慶応三年十二月二十八日、
甲州芦川村(上芦川)に永井村の新助という博奕打ちが来た。
吃安の子分で、黒駒勝蔵と一緒に方々を荒らしまわったという。背丈は並みはずれて高く、
右の手は数多くの切り合いで五本の指すべてを斬り落とされてしまっていたという。
新助は子分二人を連れて、威勢良く、正面から名主甚五郎の家に押し入ってきたが、
既に村ではどこも、無宿者への対策を十分にしており、彼らが来たと知れるや、たちまち板木の音がそこかしこに響き渡り、
それを聞き付けて、村中の男衆が白タスキにトビ口、スキ、竹ヤリを手に三名を取り囲んだ。
新助は縁の下にもぐりこんだが、引きだされ、そのまま石和の陣屋へしょっ引かれることになっていたのだが、
途中のお宮の前で秘密裏に切り殺された。
最初に切ったのは中芦川の博奕打ちで、新助とも顔見知りの要右衛門。
一太刀浴びた新助が「要右衛門さん、無理じゃねえか、無理じゃねえか」と言ったら、
要右衛門は「無理と無理じゃあ、十二理だ」と答えて、止めを刺してしまった。
三名の死骸は村下の大橋のたもとに埋められたが、
後に新助の妻という女が、また子分二人を連れて、峠を越えてやって来て、三人の埋葬地を弔い、
遺髪とツメをもって帰ったという。
以上は「新助騒動一件」といって『甲州伝話』(朝日新聞甲府支局・甲州伝話会、昭和39年)に
記録されたもの。話者は野沢昌康氏。
- 1444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/10(金) 19:40:14.32 ID:CTdiyHxOh
- まったく数日の間に世間は想像も出来ない様な状況になってしまったな。
日本でテレワークという仕事が流通しない理由の一つに「紙文化」が根強く残っているから、という
論調がある。要するに書類文化だ。
また、同様な者として「印鑑」の文化というのも挙げられている。
紙に字を映して、手続き書類を作り、そこに印を押す。そのプロセスが手間を要するというのだ。
確かにこれはパソコンで遠方に居ながらにして手続きを済ませることよりも
時間がかかろう。それはその通りだ。
- 1445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/10(金) 19:48:46.76 ID:CTdiyHxOh
- ただし、かつては紙と印鑑とは、遠くに居ながらにして、大きな利を動かす手段。
人と人とが対面せずとも、事を運べる手段として最先端の「用具」であった時期もあったのだ。
廻りくどい言い方をしたが、
例えば三井の卯吉は、挨拶状付きの借金証文を認め、それを子分に持たせる。
更に彼に同時に「自分の印鑑」を預けることで、遠方の相手からすぐに金を借りだすという方法を取っている。
書状を読んだ相手が「良し」といったら、その場で子分に預け持参させた「印鑑」を推させて、
金と印鑑を持って帰らせる。
これはなかなか斬新なやり方で、おそらく当時の金のやり取りにはよく行われた方法なんだろうが、
まさに「時短」の最たるやり方だったわけだ。
この時借りた金は「十五両」で、その用途は芝居の興行のために急きょ必要だ、とのこと。
同じ様な手法で百両集めなければならない、とも書いている。
大親分といえども、一々の活動のためには、家計は火の車だったことがよくわかる。
そしてあまり自分の得にならないだろう様なことに、命をかけているということも、
よくわかる。
- 1446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 19:46:58.52 ID:KYWnP88Bc
- 昔(と言っても10年位前なだけだが)高萩万次郎について、聞き込みをしていた時に
ものすごく詳しいお婆さんに会った。
自身が万次郎の親類に当たる方で、その家業のお茶屋で、かつて後に有名な親分になるという
人を奉公人として使ってもいたと言う。(その方は事あるごとに万次郎の墓を磨きに帰省してきた。)
ところでこのお婆さんに、そういった知識をまとめた書きものは何かないのですか、と尋ねると
結局残さないままにしてしまった、とのお返事。
これを聞いてはじめて、自分の様なものでも何かしら書きものを残そうと思った次第。
だって無くなってしまうからな。結果的に
毎回拙いものばかりだが。
- 1447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 19:52:39.33 ID:KYWnP88Bc
- 当時は誰でもインターネット上で見れたのが、全く奇跡としか思えないが、
仁侠の研究に関してコツコツと、それこそ全国規模でやってた人がいて、
恐ろしいことに、この人は自分の名声、利益なぞ全く省みていなかった。
今日、その情報が姿を隠してしまってから、どこそこの大学の先生が著作を挙げて、
結果、侠客研究・博徒研究の「第一人者」などと呼ばれてるが…
本当にすごい仕事をしている上記の人は翻って全く表に出て来ず、自分の成果をおごることもない。
この人もまた侠客。
- 1448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/12(日) 20:26:27.55 ID:KYWnP88Bc
- 子母澤寛氏が、
旅人の中で、仁義が立派として挙げていたのが
・国定忠治の身内
・佃政の身内
それから
・信州斎藤一家の身内
もちろん目にしたことがあるわけではなく聞き書きなのだろうけど。
- 1449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/17(金) 22:43:21.26 ID:Rrjsu+fa6
- こいつは食えない奴と言われたりすることもあるし、
元より善人であるとは思っていない。卑怯なこともするし、
面倒だったり無駄なことは、ズルしてサボることもしてきたと思う。
しかし他人の不幸を喜ぶことだけは、
これは決してしてはいけないと思う。
- 1450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/18(土) 10:03:24 ID:o2kQSg/C0.net
- 希代の博徒にあやかって 東庄・延命寺 笹川繁蔵 勝負石
【月刊ほぼ実物大ニュース】
https://www.chibanippo.co.jp/news/local/670107
講談や浪曲、映画などで知られる、二人の侠客の勢力争いを描いた物語「天保水滸伝」。
舞台とな…(続きはログイン必要)
- 1451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/18(土) 10:07:58 ID:o2kQSg/C0.net
- 新選組で暗躍した隊士・山崎烝の人的・情報ネットワーク?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191219-00010989-besttimes-life
近江国八日市宿の四郎左衛門は、侠客であったという。
この人物は慶応3年(1867)3月、田村佐弥太の仲介で会津藩に頼みごとをした。
田村は現在の近江八幡市出身で、新選組に入隊後、江田小太郎と名乗ったといわれる。
なぜ山崎は、このような手荒なことまでして、侠客の願いを叶えたのであろうか。
ひとつには、この時期には京都町奉行といった従来からの行政機関が、
機能しなくなってきていたということがあるかもしれない。
しかし、それよりも侠客が持っていた「ネットワーク」が注目される。
京都に非合法的に潜入してくる長州系の志士たちを把握するためには、
社会の「裏」のネットワークを握っているアウトローを把握するのが、最も合理的な方法だからだ。
- 1452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/22(水) 21:15:18.22 ID:f6qy7nHzR
- 木曽の富五郎
- 1453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 03:21:41 ID:YeT2zSAM0.net
- 清水の小政
- 1454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 03:23:33 ID:YeT2zSAM0.net
- 清水二十八人衆
清水次郎長
大政
小政
森の石松
増川の仙右衛門
大瀬の半五郎
法印の大五郎
小松村の七五郎
桶屋の鬼吉
大野の鶴吉
相撲の常吉
関東の綱五郎
寺津の勘三郎
追分の三五郎
国定の金五郎
舞坂の冨五郎
田中の敬次郎
三保の松五郎
四日市の敬太郎
問屋場の大熊
清水の岡吉
鳥羽の熊
辻の勝五郎
伊達の五郎
由比の松五郎
吉良の勘蔵
興津の清之助
吉良の仁吉
- 1455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 15:48:33.34 ID:nS1gvJnG0.net
- 清水港の名物は〜♪
- 1456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 20:47:57.68 ID:Qjxf1KVZz
- 木曽の富五郎とは言いながら上州の生まれ、
本名は倉林金八と言う。明治20年に愛知県監獄で亡くなるのだが、
明治の講談では割合に名が知られていた人物の様だ。
講座での話が先なのか、書きものの方が先なのかはわからぬが、
『探偵実話、木曽の富五郎』という新聞小説になっており、国会図書館の近代デジタルで閲覧が可能である。
三州から東京、信州、甲州と舞台が広く急速に展開するので、咄として受けたのだろう。
また富五郎自体好感で、
そうでありながら、何とも運命に翻弄された悲運に終わるところが印象的だ。
富五郎はおはるという娘と相思相愛になり、色々な偶然が重なって、甲府一蓮寺前で
一時平和な夫婦生活を送った、と書かれている。
『探偵実話』は割合そうなのだが、本当に実在の人が登場し、かなりリアルに作られていて、
それでいてやはりフィクション。どこまでが史実で、どこからが虚構なのかが、わかりにくい。
加えて言うならば、やっぱり後代の「小説家」(この時代はまだ「居なかった」)に比べて
文章も話の構成も上手くなく、
正直飽きる。そんなわけで全部目を通すのには骨が折れる。
- 1457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 20:53:36.87 ID:Qjxf1KVZz
- しかし、注目すべきところとしては「四軒寺の藤蔵」の名が出てきたり(56)
「久米川の稲熊」(108)の名が出てきたりする。*番号はリール番号
さらに加えて富五郎に、好を結ぶ侠客として甲州八代郡西條村の「西條の敬太」(94)
という人が出てくる。名字も記されているので、かなり実在したっぽいが、
正直聞いたこともない名前だ。
現状が終息したら是非とも調査に行きたい。
- 1458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 21:01:29.78 ID:Qjxf1KVZz
- 武州久米川村、稲荷の熊蔵こと橋本熊蔵という人は明治の講談や新聞小説では
よく名前の出る人で、何といっても有名なのは川上行義の復讐譚だろう。
これは先日多くの国民に惜しまれてなくなった偉大なコメディアンの故郷・東村山で起きた
実話で、父の敵を息子が討ったというものである。なんでも日本で最後から二番目の敵討事件だったそうだが、
その展開がやはり衝撃的なので、すぐに戯作や新聞小説として広まったのである。
熊蔵は主要人物の一人で、主人公行義に力を貸す侠客として登場する。
敵である高木某を討った行義は、その血首を引っ提げて菩提寺を訪れ、住職以下が顔面蒼白で居る中、
父の墓にそれを手向け、そのまま役人(警察)に出頭し、獄中生活を送ることになる。
一個の好青年が復讐の鬼となって、話は終わるのだが、
事実の行義は、人を斬って以来その性向が曲がり、遂には三多摩壮士の懐刀となり、
再度殺人を犯すことになるのである。
- 1459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/23(木) 21:05:55.80 ID:Qjxf1KVZz
- これまた『探偵実話川上行義』では、
久米川の稲熊と、田無の徳蔵がにらみ合い、一触即発、血の雨を降らせるところまで
行ったという話が盛り込まれているが、これは、本当かどうかわからない。
大沼田の伊十郎とか小川の銀蔵とか言う貸元連の名もでるが、この辺は創作ではないかと思う。
田無の徳蔵も、本来なら姓は尾林だが、下田と誤って表記されている。
- 1460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/24(金) 10:45:54.05 ID:J4dGgjP5z
- ≫1454
大政:尾張の回船問屋の伜。元武士は創作。大政使用の槍が梅蔭寺の資料館にあった記憶あり。
小政:牢内で毒殺説、殴り込まれて斬り殺された説、病死説あり。
背が低いから小政、背は人並みだが大政と比べて低いから小政。どちらの説もあり。
森の石松:三河出身。「森の」はおそらく後付け。「魯直ナリ」と書かれている。
「魯」は「おろか」という意味があり、次郎長が、石松はおろかだったと話し、愚庵がそれをわざわざ文字にした。
それほど実際におろかだったのだと思われる。
「遠州森の」に惑わされなければ、詳細な出生が調べられていたかもしれない。
増川の仙右衛門:兄弟も博奕打ちで梅蔭寺近くの寺にお墓があると何かで読んだ記憶あり。
大瀬の半五郎:明治10年32歳で清水から故郷へ向かった。荒神山で大怪我をしたのは20歳頃ということになる。
法印の大五郎:荒神山で死亡。実は甲州に逃げ帰っていた、というのはおそらく無関係な人物。
小松村の七五郎:石松の事件の時に活躍しているが、清水一家とのつながりはそれほど強くないと思われる。
- 1461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/24(金) 11:25:31.52 ID:J4dGgjP5z
- >>1454
桶屋の鬼吉:おそらく「桶屋」は創作。暗殺説と江戸の別の一家の後見人になったという説がある。
東海遊侠伝に書かれている前者が正しいと思われる。
大野の鶴吉:一人目の子分とも言われているが、東海遊侠伝には「乾児鶴吉ナル者」と紹介の仕方がややさびしい。
他の有力子分のような注釈もない。
相撲の常吉:裾野の開墾地に、相撲取りの墓、と伝えられていたものが相撲常の墓だという説。
のちに伊勢の一家を受け継いだ、という説。
前者をとなえている著者は、後者をご存知なかったのではないかと思う。
関東の綱五郎:→丑五郎。元は大前田の英五郎の子分。
人を殺めて、復讐に来たその一家にとろろ汁を食べながら悠々と対応した、という逸話がある。
同じ逸話が石屋の重蔵にもあり、面白いことに両方とも載っている著者がある。
重蔵の方が古い著書に単独で載っているから、元は重蔵の話だと思う。
寺津の勘三郎:金平との手打ちの時の「間之助ノ代理ナリ」の関三郎と同一人物か?
追分の三五郎:架空の人物。都田一家が駕籠屋に来ていることを清水一家に報せる人物として創られた。
- 1462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/04/25(土) 05:56:31.48 ID:LK/O/met0.net
- 精神満腹
- 1463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/03(日) 16:06:13 ID:elJ/HjCa0.net
- 朝日新聞デジタル みちのものがたり
国定忠治の道 群馬県、長野県 侠客がヒーローだった時代
テキスト https://www.asahi.com/articles/DA3S14460709.html
画像 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200430001366.html
> 侠客(きょうかく)や博徒がヒーローではなくなったのはいつからだろう。
> 海道一の大親分といわれた清水の次郎長や、
> 勝海舟と交流があった新門辰五郎らが活躍する映画や時代劇も近年見かけなくなった。
> 彼らと並ぶ著名な侠客の一人が国定忠治(1810〜51)だ。
> 劇や歌謡曲「赤城の子守唄」などで知られる生涯はどんなも…
- 1464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/12(火) 23:24:25.57 ID:KgF8q+I6I
- >>1460
>>1461
まことにありがたい書き込みです。次郎長一家に関しては実は知らないことが多かったので、
たいへん為になりました。感謝します!
- 1465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/12(火) 23:58:10.50 ID:KgF8q+I6I
- 以前に荒れた教育機関で校正に関する仕事をしたことがあり、
いわゆる不良・問題児を引き受けたことがあった。
その時わかったのは「彼ら」の仲間内で評判になるためには
目立ったこと(悪事等)を継続して行わなくてはならないということだ。
結果的に一事は次の二事を呼び、最終的には「法の裁き」を受けるところまで行くことになってしまう。
この一連の流れは、時を越えて似たような立場の者にも当てはまるのだろう。
「その世界」での「成功」は次の「成功」を必須とし、結局、それを繰り返すことで
いつかは「社会」での制裁を受けるはめになる。
この一連の因果を、ある者は既に早い段階で気づくのだが、では、それに対してどう対応するのか?まさにその判断に、個々人の性質が色濃く表れるのだろうと私は思う。
これは極めて個人的な意見だが、
そんな中でも自分で自分のことを引き受ける者(たいていはリーダー格)は割合に話が出来るものだ。面倒なのは他人に依拠する輩。
- 1466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/13(水) 00:26:37.07 ID:HpmqQ6uLA
- たしか安政2年の「御用留」だったと思うが、
武州岡村の桐五郎、同人弟の伊豆の岩五郎というのが、子分を連れて豆州辺りで
出いりをし、その結果負傷して周辺を徘徊している、
という旨の人相書があった。『東村山市史』や『膝折御用留』には確実に見つかると思う。
他でも結構目にする。(酩酊気味の現在ではちょっと見つからない。)
これはなかなか興味深い史料だと思っていたが、結局のところ、何が背景にあったのか皆目わからない。
武州岡村は江戸屋寅五郎の出身地だが、桐五郎がどうつながるのか。
また何で伊豆で出いりをしたのか。
とにかくまた再確認したら書く。
- 1467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/18(月) 00:03:38.13 ID:sNUy+zLTu
- 川越藩は、飛び地の治安管理を地元の侠客に十手を預ける事で行っていた。
侠客たちは川越火役改「手先」という名称で名前を残している。
立場は若干低いのだろうが、「川越目明し」の一種とみてよいだろう。
「未年」とあるので、おそらく安政6年(1859)のものだろう。
・野田村勘平
・大塚村長五郎
・河辺村與吉
・的場村定吉
・大町清吉
・高麗郡野田村伴造
・寺竹村久左衛門
・室岡(師岡)村孫八
・南小曽木村栄造
野田村が二つあるが、一つは川越市の野田、今一つは入間市の野田。
川越藩の目付様が交代になられたので、目明し、手先の面々は、一度謁見を賜るように、
との内容が書かれている。お役人の処へ十手持ちの親分衆がご挨拶に伺うわけである。
- 1468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/18(月) 22:48:24.83 ID:sNUy+zLTu
- 博奕打ちは名前を多く持つ。
これは博徒だけでなく一般の百姓でも二つくらい名前を持ってることは
江戸時代にはザラにあるのだけど、渡世名やあだ名も含めるとやっぱり博徒の持つ名前の数は
一般より多いと思う。
例えば文化五年に出回った人相書きなんかは良い例で、
上州無宿八蔵事徳次郎改名
松次郎事 重追放 団七 午廿三
これだと、八蔵は徳次郎であり、改名して松次郎であるところの団七だと言う。
これに加えてその世界で通用する「石松」とか「長徳」とかのあだ名があったりすれば、
もうどれが本当だかわからなくなる。
- 1469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/18(月) 23:00:09.80 ID:sNUy+zLTu
- いまだったら、名字で呼ばれることが多いので、
渡辺なら「ナベさん」とか、松本なら「マっちゃん」とかあるのだろうが、
当時は一般に百姓は名字を名乗ることができなかったから(あったけども)、自然と名字関連の呼び名は
無いことになる。
そうすると逆に名前によるバリェーションが増えることになるのだろう。
(あいつが「金次郎」なら、俺は「金八」だ、みたいな感じか)
困ったことには要となる宗旨人別帳ですら、同じ人間が去年は「梅次郎」だったのに、今年は「梅五郎」になっていたりする。
更に言えば墓碑ですら、「正式」な名前を留めていない。
というより正式な名前などそもそもあったのだろうかとすら思う。
本来人間の存在なんて案外そんなもので、名前が先にあるわけではなくて、
ボゥっとした「存在」がそこにあって、その頼りないのがまさしく自分。
名前なんて「それ」に何となく附けられた認識記号程度のものでしかないのかもしれない。
死ぬときは名前が先に死ぬのではなくて、何となくいたその人の存在がまず居なくなって、
それで名前も無くなる。
案外その方が自然かもしれないね。
- 1470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/18(月) 23:30:29.74 ID:sNUy+zLTu
- 黒駒の勝蔵の子分が田子の浦辺りに舟を留めて、
長刀を手に周辺の民家を荒らしまわったので、
江川代官手代が手下を引き連れて、その根城であるところの吉原宿在宮嶋村へ押し寄せた。
情報ではそこに根を張る「重吉」の家が黒駒組の隠れ家になってるとのこと。(元治、慶応の話という)
宅に踏み込んでみると
坊主頭の四十くらいの主人と、元女郎だったという三十前半の内縁の妻が、悪びれもせず悠々と煙草をくゆらせる。
さらにその女が、「お早い時間に旦那様方、御精が出ること」と艶やかに笑いながら言う。
「ここには甲州の旦那方なんて一人もおりませんよ」
捕り方は、即座にそこを離れ由比、蒲原方面を追うのだが、後で聞けばあの時の坊主「年蔵」というのが
「重吉」と同一人物だったとのこと。
この様な感じで、他に土地の首魁(由比の三平など)二、三軒を捜査するが、
結局目指す勝蔵一派は結局見つからなかった。
江川の手代だった前田源之丞が後年そのことを手記に書いていたそうだ。(原本の所在は不明)
*ここでも宮嶋年蔵が「重吉」という別名を巧みに利用していたことが示唆されている。
- 1471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/20(水) 20:36:55.21 ID:cq2oLq5XO
- 今はインターネットというものが出来て、情報の検索方法が発達しているので、
史料の発見方法というのも増えている。
だから、昔の文献や逸話を記録した書籍から、それこそ古文書史料まで、
割合に目が届くようになった。新発見といったことが多いのも当然だ。
対して、ちょっと前までは歩いてモノの有る場所までいって、人と会って、交渉して
やっと成果が出せるという時代だったわけだ。
この時代に『侠客百選』のような資料と逸話の類を集めたのは、だから、
ものすごいう労力と手間暇がかかっているわけで、
今日からしたら「間違いが多い」と言って鬼の首をとったように、批判している輩がいたとしても、
やっぱり今川徳三先生のお仕事は素晴らしいものがあることは間違いないわけだ。
- 1472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/25(月) 20:49:09.44 ID:VOV9punmg
- あまり成功した人ではないのだろうが、心が動かされるという人物はいるものだ。
武州多摩地域は小金井小次郎と小川幸蔵、それに神山栄五郎といった親分たちが、近い地域で
濫立している。(南に目を向ければ、がっちりと一ノ宮一家の牙城がある。)
小次郎、幸蔵、栄五郎とも、墓石や碑文に子分・関係者が名前を連ねており、
そこから、だいたいの縄張り傾向がうかがえるのであるが、
三者の関係者のうちで、ただ一人、全てに名前を出す村田庄蔵という人がいる。
- 1473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/25(月) 21:02:27.57 ID:VOV9punmg
- この人は、極めて零細な博奕打ちだったらしく、方々転居しており、
小川宿にいたこともあれば田無宿に住んだこともあった。
田無で明治になってからの文書に、家に盗人が入って、家財道具の唯一であった「ナベ」を持って行かれてしまったよ、
と届け出ているものがある。
堅気の人の家屋を借りてひっそりと居住しておられたようだが、何とも不器用な生き方に思える。
しかし、上に述べたとおり、各親分の墓石や記念碑には、必ず名前を出し(おそらくこれにも費用がかかるはずだ)て供養しており、
さらに言えば極貧であったにもかかわらず、
明治になってから、小学校が立てられた際には、地元の学校へ「時計」を寄贈しているのだ。
全く事跡は伝わらないし、目立つことをしたわけでもなく、(こどもは居たようだが)決して楽ではない生活を
生涯送ったのだろう。にも関わらず、義理がたい態度を貫いていることが、わずかに残る石碑や文書から少しづつ分かる。
- 1474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/27(水) 21:38:41.82 ID:X8m0yXhiO
- 1466の文書は安政2年と書いたのは間違いで、
安政4年のものだった。
『東村山市史7』によれば、その手配書は
同年八月十一日付けで、「岡村無宿桐五郎」「桐五郎の兄で伊豆無宿の岩」
「桐五郎子分常吉」「同梅吉」「深谷在高柳村豊次郎」の5人
彼らに加え、あと4人(名、人相不明)が歩きまわっているとの事。
一団は方々で旅銭を地元の博徒から貰いうけて旅を続けている。
さらに追い書きによれば、「右者伊豆国辺ニ而喧嘩致シ手負候ものも有之趣…」だと言う。
ひょっとしたら、どこかの史料につながる話なのかもしれないと思うが、
皆目わからない。
- 1475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/31(日) 23:40:55.81 ID:+ryFwgD1b
- 多く博徒、侠客が身を置く「無宿」というのは
単に宗門人別帳から名前を抜かれるというのではなく、
要するに「死者」と同じ様に扱われるぞ、というもの。
ではあるが、
「近世最末期(幕末期)には、実は多くの者が好んで無宿者になったのだ!」
とする論調がある。無宿は自由の象徴でもある、みたいにつなげることもあるし、
反権力の最たるものとするのもある。論じる分には自由だ。
しかし、忘れてならないのは無宿者の死は、「埋葬」ではなく「片付け」であり、実際に死に及んでその様に扱われる例も多々散見されるということ。
「片付け」には明確な規定があり、人一人入るくらいの穴までしか掘られず、そこに遺体を置いた後、土をかける回数も三回までとされている。
そして墓石は決して建ててはならない。
当然、地表から浅いその亡きがらは野犬に掘り返され、そこに猛禽が加わり、畜生類の餌として消化されることとなる。
無宿になるというのは、そういう覚悟を持つと言うことであり、それでも(おそらく納得して)
無宿となった者たちが、史料に出る無宿者。
そしてそうまでして、彼らの内の何人かは確かに自由であることを欲したのだろう。
- 1476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/05/31(日) 23:59:49.98 ID:+ryFwgD1b
- 「世間師」というものがあり、時に「世見師」とも書かれる。
これは二つの意味を同時に持つ言葉で、一つは世間をよく知り、賢く頼りになる人。
もう一つは生業から離れふらふらする信用できない人、である。両方合わせて「世間師」
明治・大正くらいまで使われていたと言う。
だから、あの人は世間師だと言えば、良いようでもあり悪いようでもある人のことを指す。
こういう「両義性」というのは昔の日本ではとても多いが、むしろ本来、
白黒つかないもののほうが本当なのかもしれない。
世間師には、人生の一時期に無宿者だった者が多い。
そして年を経て村のいざこざなんかに名前を出して来る時、はじめて彼が世間師とわかる。
史料の上で若い時分に博奕を打ち、大酒を飲み歩き、帳外になったはずの「〜次郎」が、
年を経て史料に再登場した時には、社会的に弱い立場の者の方にたって嘆願を認めたり、
訴訟の責任を負ってやったりしているのを見ると、ああ、これが世間師か、と思う。
「〜次郎」にとって若いころの無宿期間は、世間を知るための窓口であり、あるいは他人の釜の飯を食ったことで
人格を形成した、決して無駄な期間ではなかったことがわかる。
- 1477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/04(木) 23:31:21.76 ID:uU27mfzUY
- 「世間師」に関して一番有名で、読んで損がなく、心が動かされるのは
やっぱり宮本常一の『忘れられた日本人』であり、この中の増田伊太郎や左近熊太の例だろう。
ただこれは西日本だし、あまり両者とも博奕打とは係わりがないので、
侠客の歴史的という意味では違うかもしれない。
ただ、世間師を知る上では最良の書籍だ。
宮本常一の様な方の著作を読むと困ることは、「一体自分は何を知ったような気になっていたのか」
と自責の念にかられることだ。
結局たかだか150年ばかり前の時代のことが、何にもわかっていないことがわかる。
しかも、いまさらその生活に関しても、人の行き様に関しても全く理解する術がないのだ。
渡辺京二ではないが、本当に明治以前の日本は「逝きし世」に他ならず、いまさら知りたくても知りえない。
- 1478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/04(木) 23:39:15.11 ID:uU27mfzUY
- 自分がこどもの頃は、まだ「小笠原」に行けば、それなりの町、商店街があったし、
青柳だって大都市の名残があり、鰍沢にしてもかつて船着き場だった趣があった。
そこに至るまでの道にだって、地方文化の名残があったのだ。
それらが完全に亡くなったのはごく最近だと思う。大人になって気づいたらもう無くなっていたというのが、
今の30代、40代の者の共通認識ではないか。
山梨に限らず全国的にそうだろう。
- 1479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/04(木) 23:52:09.92 ID:uU27mfzUY
- 「くどき」と言うものは時に歴史的事実を扱うこともある。
そんな時は、節をつけて、その事件の内容を印象深く語りながら読み解いてゆく。
だから文学でもあり、口碑としての歴史でもある。
加えて「くどき」の様な発声芸能は、旅先の山中でお互いの居場所を知らせるための合図になったり、
寄り合いの時の親睦を深めるゲームや、時には逢引きで相手の気を引く技能(美声や美しい所作の披露)にも使われた。
「国定くどき忠次節」や、「黒駒勝蔵評判くどき」、「きおい市松寅松」、「おかね裕かいくどき」など
歴史史料としても通用するが、それと共に当時実用性が重視されたものだったことが
民俗学の本なんかを読んでいくとなんとなく理解できる。
- 1480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/06(土) 21:20:00.24 ID:5MhyHpFAU
- 近世、人が住む集落は、村・町・宿などと呼ばれるのだが、
このうち「町」は地域によって「宿」と呼ばれる時もある。要するに村よりも
繁華であることが条件で、それは交通の便がいいということにつながっている。
「宿」は村よりも町よりも大きく、繁華な所でだいたい合ってるのだが、
どうも以下の二点をクリアしていないといけないようだ。
・村内に本陣、脇本陣があること。
・伝馬制が定まっていること。
本陣・脇本陣というのは大名やその周辺が宿泊できる施設である。一般の旅人が泊まれる旅籠屋と違って、
明確に規定された本陣、脇本陣があるということは「宿」であることの一つの目安なのだという。
伝馬とは、「郵送業」だと思えばいい(と私は思う。)。
重い荷物を運んでくれるのは、今では専門業者がいるが、当時は農民に課せられた税の一つで、
その荷を運ぶための馬を徴用・養育することを義務付けられたわけだ。これは村に課せられる。
たとえば熊谷宿伝馬を科せられたら、その村は、大名の荷物なんかの運搬に、
馬を伴って出かけることを絶対にしなければならなかった。これが伝馬。
その二つが義務付けられる土地が、いわゆる「宿」なのだと。
こういのは明確な規定があるわけではないのだろうが、だいたい研究者と呼ばれる人はそのことを
弁えているようだ。
私は基本が無いから、今日、初めて知った。
- 1481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/06(土) 21:26:15.66 ID:5MhyHpFAU
- そういう目で見ると、一見繁華街と思われたような土地が、実は
宿ではなく、ただの村であった、と言う様なこともある。
例えば、「所沢」は行く筋もの道が土地の中を通り、周辺20キロ近く遠い村の
住人がわざわざ来るほど、大規模で活気ある「市」が開かれた場所だが、
上の条件を両方とも満たしていないので「宿」ではない。
しいて言えば、ここは田無宿(現・田無)と扇町屋宿(現・入間市)の間の
「あいのしゅく」の一つになると言う。
所沢に代表的な侠客がいない、というのもこれに関係していると私は思う。
- 1482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/07(日) 08:03:33.79 ID:h8EUitT31
- 伝馬制じゃなくて「助郷」の制度だった。
近村の住人が「宿」に関して荷物運びなどの仕事をする義務を負う、そういう制度(税)だ。
勉強してもホントすぐ忘れてしまう。
一見侠客と関係ないかもしれないけど、こういう当時の村同士のあらましがわかった上で
その土壌の上に侠客が発生するわけで、かなり強引だが…関係はあるのだと私は思う。
- 1483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/07(日) 22:49:23.81 ID:h8EUitT31
- 『東海遊侠伝』の中の、それぞれの侠客の名が出る部分をピックアップする、
という地味だが効果的な作業をやってゆくと思わぬ発見があるかもしれない
と思う。
赤鬼金平だと、安政二年あたりに警吏を殺害して、次郎長一党がその与党と見なされて
逃げたとか、
宮島年蔵が、当時食客だった都田吉兵衛らと役人を殺傷したとか。
『遊侠伝』には次郎長自身の人生とはかぶらないところで、意外な記述が多くあるので、
それらを突き合わせれば、これはまた成果が出るのだろう。
- 1484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/07(日) 23:03:22.49 ID:h8EUitT31
- 小夜の中山というのは、関東住みの人間でも何故か、そのいわれを耳にしたことがある
「夜泣き石」のあるところで、真夏に行けばふうふう言いながら坂を登らなければならない場所である。
ここを東から来て越えると日坂宿。
なんでこんなところに宿場町が。と思うが立派な宿場がある。山の真ん中でも素晴らしい繁華町が
往時は存在したわけだ。
おまけに大物侠客日坂栄次郎やその二代目の権太郎を輩出している。
子母澤寛の『駿河遊侠伝』でも、栄次郎宅に黒駒一党が隠れていた際のエピソードを
書いている部分は、子母澤先生の筆が冴えわたっている部分だと思う。勿論聞き書きを元にした
貴重なエピソードだろうが、
栄次郎の妻という人が、また何とも素敵に良いのだ。
なお栄次郎の菩提寺の御住職は、頭下げても下げ足りないくらい御親切な方だ。
- 1485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/08(月) 00:08:56.70 ID:YEroIyUU6
- 黒駒勝蔵と清水次郎長の抗争に関して
「富士川の利権をめぐって両者が対立した」ということが結構出回っているが
そんな事は史料をどう読んでも見つからない。
侠客の抗争を無理やり地域論に置き換えようとする学者先生の悪い癖だ。
勝蔵にしてからが「勤皇の志士」だったから評価する、とか言うが、おかしいだろ。
ただの私怨で動いていたなら歴史上の人物として評価できない、
というのなら有史以来、ほとんどの人間は歴史学の俎上には挙げられないことになる。
どうしても許せない怒りや、あるいは一身かけても報いたい人の恩、そういったものにがんじがらめに絡みとられて
どうしようもなく懸命に生きてたのが勝蔵であり、次郎長。
つまりは「幕末侠客」という存在なのだろう。
- 1486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/15(月) 22:19:53.05 ID:at8KZpWUP
- 「荒磯倉吉」という相撲年寄の墓が、自分の住む自治体からそう遠くない
ところ(埼玉県狭山市)の山中の墓地に建っている。
どれほどの勢力があったかはわからない。文久4年に亡くなっているが、ほとんど史料を見つける事ができぬ。
ただ子弟からは敬愛されたようで26人の弟子筋の名前が墓の台座に書かれている。
墓はけっこう痛みがはげしい。墓碑はここが属する自治体の市史あたりには、運が良ければ記されているのだろうが、
まだ未検証。
荒磯倉吉は、確実な史料では文久2年に飯能観音寺で小山森太郎(飯能の森太郎)
が催した相撲番付けによって知ることが出来る。
富士嶋甚助や甲山半五郎、振分忠蔵らと共に、大宮寺(現・高麗神社)の元へ届けられたことがわかる。年次はおそらく文久二年。
- 1487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/15(月) 22:22:06.35 ID:at8KZpWUP
- 「文久2年」をかぶって書いてしまった。すみません。
まあ酒飲みの放言だから仕方ない、と思って下さい。
- 1488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/16(火) 20:45:28.89 ID:d4lMyZhUo
- やっぱり現地には足を運ぶべきだ。
上の荒磯倉吉のことを追って地元の博物館を訪ねたら、同じ地域に
鬼面山という横綱が出ていることを知った。ほぼ同年なので、
何らかの関係があったのだろう。
と思って飯能の相撲番付を見ると、なんとここにも鬼面山(枠外だが)が出ている。
鬼面山谷五郎、美濃の生まれだが墓石は武州入間郡にある。
江戸時代には「横綱」はまだ無かったが、
彼はその横綱に早い段階でなった力士。それほど強かった。しかも43歳ではじめて横綱を張ったとのことだ。
- 1489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/16(火) 20:53:43.15 ID:d4lMyZhUo
- 荒磯倉吉は現役時代「関の川」といったらしいが、当時の絵入りの史料では
「川越出身」とある。さらにその弟子の仮名頭久米七という力士がいるのだが、
これまた「川越出身」とある。(両者とも本当は武州入間郡加佐志村出身。
「川越出自」とは、出身ではなく、どうやら「川越お抱え」力士という意味だろう。
かの獅子ヶ嶽重五郎も「川越お抱え」となっていた。とすれば
内ノ川孫八こと師岡の孫八も、もし力士次代が記録に残っていれば
川越領の人なので川越お抱えなのだろう。
川越藩と相撲と侠客、さらには目明しとは、強いつながりがあるようだ。
- 1490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/17(水) 23:46:01.23 ID:i94ZvqAUK
- 自分はあまり総州が詳しくないので、天保水滸伝に関しては人並みの知識しかない。
飯岡助五郎は老舗の十手持ちで、笹川繁蔵は若くて売り出しはじめの気負い組、
という認識だ。結局は笹川が死んで名を残して終わるわけだが、
「時代」から見れば、この両者の対立は歴史的転換であって、
たとえば一世代前の赤尾林蔵と高萩伊之松のそれとは、まるで意義が違っている。
地域の社会に与える影響や、公の危惧が段違いに大きいのがいわゆる「天保侠客」の
時代からになるようだ。それまでは赤尾林蔵と言ったって、西部の周太と言ったって、
たかが一地方の元気の良い兄ちゃん同士の小競り合いといったところだったのだが、
飯岡、笹川の間は、まさしく「抗争」。放っておいたら幕府が転覆しかねないほどの
強大な武力集団の衝突となる。これ以降、その危惧は、勢力、国定、石原幸次郎とつづき、
黒駒でピークを迎えるのだろう。
- 1491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/18(木) 23:53:26.55 ID:OfChNRqiV
- 仕事でも趣味の分野でも二足、三足の草鞋を履くというのは良いことだ。
どこかの分野で行き詰った時に、代わって他の分野に、精神的に逃げ込むことができるから、
ではない。
むしろ、一つの分野で上手くいっている時でも、他の分野で失敗して、
結果的に絶えず「世の中油断できないなあ」と言うスタンスを、忘れないでいられるからだ。
- 1492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/19(金) 21:31:13.46 ID:z20rSeeFD
- 比留間一郎は武州の侠客が石造物や興行の版物(相撲会状など)に名前を出すことを
早くから注目していて、そういうものを論文の中に書き遺している。
「〜市の石造物」というタイトルで、結構心ある市は地域の石造物を一生懸命
記録して成果を挙げているところもあるので、こういう所は大変心強く有難いのだが、
意外に盲点なのが「寺の鐘」だ。
古いやつは天保まで余裕でいく。しかもほとんど自治体史などに記録が残っていない。
「鐘」は造るのに高価だし、笹本正治が『中世の音・近世の音』で言っているように
世代を越えて残るものなので、当然その鋳造時の村の顔役が金を出し合うことがある。
結果的に表面にその名前が残ることがあるのだ。(侠客は結構村の良いとトコの出が多いので、
本人あるいはその父親の名が残ることがままある。)
墓は近年では調査する分に、プライバシーとかでいろいろ言われる可能性もあるが、
鐘はあんまり嫌がられることがない。だから見ておいた方がいい。
よく戦時中に溶かして軍事に使うために無くなってしまった、という話を聞くが、
その割に結構古い物が残っているもんだ。
- 1493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/19(金) 21:35:40.95 ID:z20rSeeFD
- この「鐘」の鋳造に関して、少なくとも関東では「粉川市正」という人の
手になるものが非常に多い。田舎に行って古い鐘を見ると、
また「粉川市正さんかよ」と思うくらい多い。
にもかかわらず、これについて詳しい研究はほとんどないようで、
唯一内田勇樹という人が「鋳物師『粉川市正』について」というのを書いているくらいだ。
かく言う自分もこの論文を読んだことはないのだけれど。
- 1494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/21(日) 21:47:49.32 ID:+bp/3a8ah
- 話術というのはすごいもんだな、と思う。
極めて昨今新宿の末広亭の話者の技量は見る見るうちに落ちたと実感してしまうのだが、
噺家自身が手を抜くのも芸能の内と思ってるようだから、仕方がない。
宮脇の一家の滝田ます婆さんに育てられたという曰くを持つ
名人・桃中軒雲右衛門が
当時盛んに売り出しだった本多燕左衛門という浪曲師に語った言葉は、
話術の持つ奥深さと可能性を、今日でも示唆している。
「君の芸は聞き手の胸倉をとってぐんぐんと自分の方へ引っ張ってくる立派なものだが、あれだけでは
いけないよ。引っ張られ放しでは相手が苦しくて堪るまいじゃねえか。
引っ張っておいて、頃合いを計ってぱっと放す、放して一息ほっとさせておいて、
またすぐ引き寄せなくっちゃあいけねえ」
話術は、真に人の心を動かすのだ。
近年では画像・映像といった「目」に影響を与える分野ばかりが発展し、勢い、映像万能の時代に
なっているが、あらためて「音」「発生」に耳を向けて、その
妙味と可能性を模索してみるべきだと思う。
かつて持っていた偉大な技術を我々はむざむざと放棄している気がしてならないのだ。
- 1495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/21(日) 22:01:19.69 ID:+bp/3a8ah
- 齢をとって涙腺が緩んだか。
かつて仁侠研究の大先輩に教えていただいた新聞記事の中の、
桃中軒雲右衛門と滝田ます婆さんの邂逅の場面は、
地方の新聞の一記事ではあるにもかかわらず、読み返すたびに涙が出てしまう。
世に名が売れて、その不敵さでも当る者がない、話芸の名人となった雲右衛門が、
一地方の寄席で、当然満員の中、ずっと探していたかつての命の恩人かつ母親代わりであった
老女侠を、桟敷の一番後ろに見つけるや、思わず調子をストップして、
次の瞬間には、大声を挙げながら諸手を挙げて彼女の元へ駆けつけ、かぶりつくように抱擁し、大衆の面前で恥ずかしげもなく
こどもの様に泣きじゃくった。
この描写は、それはやっぱり涙無しには読めない。
雲右衛門はそれまで、滝田ますさんは、既に亡くなっていたと思いこんでいたそうだ。
ちょっとしたボタンの掛け違いから、まだ存命と知り、本人半信半疑で甲府へ乗り込んできたら、
上の様な訳。
以降雲右衛門は戸籍上、ます婆さんの「悴」としてきろくされているそうだ。本当かどうかは
知らないけれど。
- 1496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/21(日) 22:25:52.19 ID:+bp/3a8ah
- 目の前に腹が減って動けぬ親子がいるとして、行政なら、
「只今手続きをとりましたので、三日以内に食べ物が支給されますよ!」と伝えて、
「法的に自分はできる限りをした」と自分に言い聞かせるのだろうけど。
侠気(客気)の有る人間なら、そんな時、すぐに身銭を切って、今必要としている
人に食料を持って行くのだろう。
後者の様な人は、現在でも少なからず居る。
- 1497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/27(土) 23:15:46.96 ID:Ubfsh+GI1
- 日光の円蔵と言う人は子母澤寛の小説などでは最後まで国定に付き合うように
書かれているが史実では天保13年の秋には関東取締出役に御用弁になってしまったようだ。
とすれば事実の国定忠治は、その後十年近く日光円蔵の協力無しで生延び、
勢力を保っていたことになる。
蕨市立歴史民俗資料館紀要(7)掲載の「歳中日記留」(天保13年、11月二十二日)に、
「今日通行致候、野州無宿円蔵与申者大悪党之由、御召捕之節大名方ヨリ千人程加勢、
上州赤城山住居、侍道具鑓三本、鉄砲・長脇差之類…」
とある。
早くに国定とは別れてしまったが、大物であったことは間違いない。
一説に、円蔵は野州今市の歯医者になってその後も生き延びたとのことだが、
これの信ぴょう性は一体どれほどなんだろう。
- 1498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/27(土) 23:29:10.44 ID:Ubfsh+GI1
- 国定忠治に日光の円蔵がいるように
黒駒勝蔵には塩田の玉五郎がいる。
子母澤寛の小説で両者が似ているのは偶然ではない。多分性質的に二人は似たものをもっていたのだろう。
この理由は一つには、対した相手が、強大な時の政府(公)であり、
それ故に鼻から負け戦が目に見えていたことだ。
結局のとこr、国定も黒駒も結局は刑場の露と消える。
結局のところ敵対した相手が強大だったからこそ、自身の力に一家の知恵者の力を加えなければ立ち行かなかったわけで、
そこに軍師としての円蔵や玉五郎の必要性が生まれてくる。
一方で次郎長は自分の運命と向き合って、どこまで自分の道を極められるか
が問題なわけだから、軍師や智恵袋など必要としない。
大政はややその趣があったが、結局次郎長の手の内を出ない程度の才能としてしか描かれていないだろう。
敵の強大さを知った時にはじめて、自分以外の者の中にある才能を必要とする。
そこまで追い詰められた主人公は、だから、仲間を必要とし、
その仲間が居なくなると弱くなり、遂には滅亡するのだ。
- 1499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/06/27(土) 23:43:37.54 ID:Ubfsh+GI1
- 「結局」ばかりやたらに使いたがるというのは、結局それだけ、
一日の終わり、かつアルコールが入ることで
気分が高揚しているということだ。一方で理性や文章力が、
結局のところ追いつかない。
- 1500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/05(日) 23:10:44.36 ID:Uqvie3lAK
- 『三国志』で曹操は関羽から張飛の勇猛ぶりを聞いたときに
それを感嘆し、自分の士卒らに、その名を忘れないように襟首にでも書いておけ、
と命令したとのこと。
新撰組でも、小金井小次郎でも良いが、武州多摩地域の幕末期を研究するならば、
「倉員保海(くらかずやすみ)」氏の名前は、同じく襟首に刺繍してでも
覚えておくべき名前だ。
氏の書かれたものは、40年前の論考なのに、今でも他の研究の追従を許さない凄いもので、
それどころか十分現在でもその研究成果は応用が効く。
特に人情や家族愛に至る繊細な部分の考察では、今日ではもう及ばないほど
デリケートに扱っており、その心眼っぷりはちょっと底が知れない。
- 1501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/06(月) 19:12:22.76 ID:fbzRUBWyJ
- 夏目漱石の養母やすという女性は、もともとは国分寺村の榎戸源三の娘だったという。
榎戸家は、いわゆる御鷹場で、殿様を案内することができる家であり、
文書中でも姓付きで名を記すことができる実力者だった。
源蔵が多摩地域でも一、二と言われる実力者だったことは、この地域の言い伝えの本を一二冊読んでみると
必ず書かれていることだ。
小川の幸蔵も、小金井小次郎も、榎戸の旦那様の言う事なら二つ返事で引き受けたし、
命じられたら嫌と言えなかったという。
何に書いてあったかは覚えていないのだが、上記の漱石の養母やすが子どものころ、
よく小金井小次郎に肩ぐるまをさせて、村のお祭りに行ったという逸話を
本人がしていた、なんてことを読んだ気がする。
やすが後年語った内容の様だが、それを誰に言ったのだったか。
とにかく、あまり彼女をよく思っていなかった漱石が、そのことを自著に記していないのは確かだ。
- 1502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/06(月) 19:26:01.10 ID:fbzRUBWyJ
- 肩ぐるまと言えば、これは静岡県の江尻の郷土の本にあった話だが、
(これまた今書名が確認できない)江尻の太左衛門の家には
よく大政・小政が訪ねてきて、そこには道場が拵えてあって二人で熱心に稽古していたという。
江尻の古老の一人で、その頃はまだ幼児だったこの話の話者は、珍しくもどういう訳か、小政に可愛がられており、
彼に肩ぐるまをしてもらったことがあるそうだ。
だが、なんと、その肩の上で小便を漏らしてしまったとか。
このことを事あるごとに小政は笑いながら「あんな目にあったことは他になかったよ!」とよく人に語ったそうだが、
なんと言っても清水一家中「凄まじい男」で知られる小政に、こんなエピソードがあるというのは
貴重なことだと思う。
- 1503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/06(月) 19:48:08.10 ID:fbzRUBWyJ
- 随分上で由比の松五郎の姓を鈴木と書いたが、
これがどうもよくわからない。
由比の松五郎は、井出松五郎という人のことを指すらしい。これは田中淳一という方が
『清水次郎長の「次郎長開墾」の歩み』(自著、平成16年)で正確に記しておられる。
松五郎は、
杉田新田の井出源八の長男として天保12年に生まれ、長らくは興津にも住んでいたようだ。
明治2年、次郎長一家と黒駒一家の抗争(?)で富士の久沢という所で
打死したとのこと。供養塔、墓石もそこにあるそうだ。
松五郎に助五郎という倅がおり、彼が書き遺した著作が存在するらしく、田中氏はそれをもとにしている。
- 1504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/06(月) 22:58:37.26 ID:fbzRUBWyJ
- 1401で遠州相良の唄を
富や紺亀、切る気はないが、
運の尽きかよ熊五郎
としたが、これは間違いだ。
「紺亀」は「コンカメ」ではなく、地元では「コンカ(あるいはコンカさん)」と
読むそうだ。だからこれは
富や紺亀は、切る気はないが、
運の尽きかよ熊五郎
でなければ、おかしい、
「富ヤコンカハキルキハナイガ、運ノツキカヨ熊五郎」だ。
勝手に、自分の解釈でゴロを合わせると、飛んでもない失敗をするものだ。
- 1505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/09(木) 23:19:09.62 ID:b67LqALZ4
- 物凄く良く斬れる剣、名刀みたいな人は、実はそこそこよく居る。
一方で、本当に貴重なのは、木こりが持つ斧みたいな人で、物凄く切れ味が良いわけではないのだけど、
森を切り開いたり、材木を切りだしたりできる。
それがいずれ家屋となり、村にも町にもなる。
そういう人が実は一流の人。
一方で利刀、名刀はどこまでいっても狭い世界で一流を誇り、二流以下を
冷笑するだけで、ついに終わる。
鋭い批評眼を持っていたり、下手に弁が立ったりするから、
知らず知らずSNSの様に安いところに姿を現してしまう。
…と考えてみれば、自分もまた同じ穴のムジナだなと。愕然とするが…
まあ仕方ないだろう。
- 1506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/14(火) 22:56:03.03 ID:1jbJ1VIsu
- 大場久八の性格は判断の分かれるところだと思う。
強面で、悪く言えば融通のきかない昔堅気の仁侠か、
あるいは、柔軟で時代を読むのが上手く、社交的な親分かということだ。
角田桜岳の日記だと、大宮(富士宮市)近辺の温泉場で、桜岳が偶然大場久八に会って、
「鯛」の差し入れを送られる場面がある。それ以前の日記に久八は登場していないが、両者は旧知の仲だったようだ。
堅気の旦那とも親しくする久八の実体が記録されているし、その心配りも行き届いていて、
どうも武闘派一本の気難しい親分とは思えない。ここでも桜岳と久八はわざわざ差しになって酒を飲み合っている。
このことから共に酒を酌み交わす程の仲だったことは明白で、つまり久八は少なくとも飲める口だったことがわかる。
次郎長も、吃安も酒は飲まない。
一方で久八に関は、酒を介して人と仲良くなるという描写が史料の中に多々見受けられるのが面白い。
当時の酒は今より度数も低く、なんだか飴いろに濁っていて、余り旨いものではなかったらしい。
それに酒に酔うなんてこと自体、常時「臨戦態勢」であるべき仁侠者にとっては不利なことに違いない。
それでも、飲んで酔っ払って胸の内を示すことで他人と心を通じてゆくというのなら、
それは結構なことではないか、と思うし、やっぱり懐が深いなと思ってしまう。
大場久八のそういう所は人間臭くてやはり良いなあと思うのだ。
国定忠治も磔の前に、旨いのを出す家の酒を一杯所望しているから、イケル口だったのだろう。
小金井小次郎は巨躯で、酒はいくらでもいけたというから山岡鉄舟と同じ系統のウワバミだったのだろう。
祐天仙之助も、博徒仲間と酒を飲み合うという描写が見受けられる。
大政が、一日中酒瓶を欠かさなかったということは、言うまでもない有名な事実である。
相良の石重は臨終の際も、酒を飲み続けたとのことだ。
- 1507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/14(火) 23:07:01.12 ID:1jbJ1VIsu
- ところで、この大場の久八が若いころ、喧嘩した相手に
真鶴の儀左衛門というのがいる。
これがまた凄まじい男で、根は漁師。
有る時博徒仲間が集まった酒の席で、肴が無いため、自分の腿の肉を少し切り裂いて、
「これを肴に一杯やってくんな」と言った程の途方もない男だったと言う。
儀左衛門の姉というのがまた物凄く、規格外の美人だが、性格のキツさは儀左衛門以上で、
真鶴の橋のたもとで、若い久八が儀左衛門のこと一寸悪く言ったことを根に持って、
儀左衛門をけしかけて、久八を闇討ちさせたと言う。儀左衛門の刀は久八の背中を
傷つけ、久八は間一髪で急所を免れたが、その一筋の深い疵は背中に終生残ったとのことだ。
- 1508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/14(火) 23:12:36.93 ID:1jbJ1VIsu
- 正確な記録がないので、何とも言えないが、この一件を聞いて、
病床の久八を訪ねた兄弟分の竹居の吃安は、
久八の敵を取ると、儀左衛門の元へ赴き、初めは田舎百姓の真似をして、儀左衛門と
その子分らを欺き、近くに来た儀左衛門を一刺しに刺殺した(という)
儀左衛門もさる者で、刺されながら吃安の頭髪を力一杯に掴み、
結果、一方は息を止められ、一方は頭の皮を剥がれるまでに至った。
儀左衛門を何とか刺殺した吃安は、断崖から海に飛び込み、その後漁師の舟に拾われ
九死に一生を得たという。
だだしこの殺人が後に尾を引き、嘉永3年(4年)に捕縛され新島に遠島になったというが、
上の話、どこまで本当なのか、
実際のところ、皆目見当がつなかい。
- 1509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/14(火) 23:20:33.03 ID:1jbJ1VIsu
- 真鶴の儀左衛門、
喜左衛門と書かれるものもある。確かな史料があるのか無いのか
わからない。講談『夕立勘五郎』には一寸登場するようだから実在の人だったのは
確かだろうが「。
- 1510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/20(月) 21:04:42.39 ID:RpuwKDJZ0
- 『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげる先生の残した、
俗に言う「幸福の七カ条」というのがある。物を書いたり、調べ物をしたり、
趣味に没頭する人にとっては有用な言葉だ。
内容はインターネットで調べればすぐ出るだろう。
この中で一番大事なのは
何と言っても「怠け者になりなさい」という言葉だろうな。
- 1511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/20(月) 21:10:16.77 ID:RpuwKDJZ0
- 全員とは言わないが、この言葉を知っていれば、
日本や韓国の様に、自分で自分の命を断つ割合の多い国民の何割かは、
命を永らえさせることができるだろう。
- 1512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/25(土) 11:31:47.27 ID:5E/LqJThF
- 話題になってる静岡市長の会見を見ていると
糾弾する側の記者の頑張りがよく伝わり、思わず手に汗にぎる。
そして市長と、その取り巻きの男女二名の対応には、
どうしようもない程の嫌悪感を感じる。
この言い知れない嫌悪感・怒りの理由は、
似たような経験をしたことがあるからだろう。
多分多くの人が「自分似た経験がある」と思ったはずだ。
お役所や、それに類する機関では、自分たちが正義。
とくにその施設内に入ってしまえば、施設運営側のルールで動いているので、
外の世界で、どんなに理不尽であっても、身内の間では通ってしまうし、それを認めて謝罪したり
改めるどころか、詭弁を弄して追い返そうとする。
不思議なことに、どこへ行っても似たような構図で、似たような対応が起きている。
まるでデジャ・ヴを見ている様に感じたのはそのせいだろう。
今後もこういうことは起こり続けるだろうが、それにしても今回の記者がやった
相手の引きずり出し方は見事だった。
- 1513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/25(土) 20:26:06.91 ID:5E/LqJThF
- 一見、侠客と関係ないような連投をして申し訳ないが、
例えば任侠の徒が現れる歴史史料・古文書の類も
市役所の教育委員会文化財課担当なんかに納められた場合、相手によっては閲覧にこぎつけるまで厄介だ。
というよりだいたいが悲惨な結果に終わる。
全てとは言わないが、時々、文化財課に送られる職員は、「有能ではない」とされた人である場合があり
(全部がそうとは言わないぞ)、そういう自治体では文化財課は「閑職」とされ、
結果、全く話もできない人が窓口対応をすることがままある。あるいは非常に高圧的な人とか。
かつては志ある地元の研究者・郷土史家が、家々を回って頭を下げて受け取った古文書は
たいてい、昭和の中期〜後期にすばらしい目録になって、「残って」いるのだが、
そもそも「モクロクって何?」という様な人が文化財担当に入る場合、
なんやかんやで絶対に閲覧不可ということになる。
「今は整理されていないので」とか「ウチではそういう対応はしておりません」とか。
結局、向こうの「場」に赴くので、悔しいが向こうルールに従う他ないのだが、
そういうことが続けば、地元の歴史に注意を払う人がいなくなり、結果的にその自治体が
被害をこうむることになるとは思う。
もっとも、窓口に頓珍漢な自説を延々と披露する老人もたまにいるから、
そういう人を避けるために、塩対応なのも仕方ないかもしれない。
そういう人たちと、熱心な郷土史家はそうは言っても「区別」できる様なものではないのかもしれない。
…難しいものだ。
- 1514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/25(土) 20:41:52.09 ID:5E/LqJThF
- 件の市長の市だが、
これはもう文化財対応は…誉められたもんではない。
しかも、清水、蒲原、由比という任侠研究にとって絶対はずせない地域が
不運なことにここに含まれるのだ。
ここでは、あるいは古文書類は図書館が管理していると言い、図書館では市役所が管理していると言い、
その実は小さな公民館や、資料館で段ボールに入って倉庫に押し込められていることがままある。
ごくまれに地元の郷土史クラブが、それを見つけて翻刻したりするのだが、そういう訳で
凄いものが稀にでる『年代記話伝』(古文書考房、平成26)なんかはまさにそれ。国会図書館にも勿論ないし、
それよか地元の図書館では置いてあっても価値は知られてない。
(石原村幸次郎や青柳市松にとっては、貴重史料だ)
- 1515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/29(水) 22:50:38.90 ID:qBni0tFun
- 史料(古文書や公文書)は怖い。
そこに出てきた事実は変えることはできない。あとはその解釈を
どれだけ贔屓目に見れるかどうかなんだが、バイアスがかかってしまっては
そもそも研究とは言えないだろう。
侠客のうち、特に十手持ちは遊郭の経営者であることが多く、
その内には、「女衒(ぜげん)」や、かつて女衒を経験した者も多々ある。
宿の内に一人はいた「奉公人口入業者」のうち、労働力を調達するものを「けいあん(ケーヤン)」と言い、
遊女(飯盛り女)を調達する者を女衒といったようだ。
女衒は、その存在自体「忘八(ぼうはち)」と呼ばれ、要するに人として
欠いてはならない八つの徳(義・忠・孝・礼・智・悌・仁・信」(ギチュウコウレイチテイジンシン)
を忘れた者と唾棄された存在である。
そう言われるのもむべなるかなで、七つ八つの女児を里親として育て、教養を仕込んだ上で
遊里に売り飛ばした。親子の情を持たせる意味と「商品」としての価値を教育で上げるためである。
そういうやり方で、抱えの女を意のままにする。
勿論、当時の社会状況(飢饉が多く、間引きが頻発した)を鑑みれば、
女衒にも相応な存在価値や、なにより自分たちなりの理由があるのだろう。しかし、
今日的に見ればその擁護は難しく、頭を抱えざるを得ないのだ。
人口に膾炙した侠客の中にも、女衒であったり遊郭の経営者であったりする者は
多い。彼らをどう評価するか。今後の仁侠史の大きな課題だろう。
- 1516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/07/29(水) 23:04:40.54 ID:qBni0tFun
- 『民衆史研究 (34)』(民衆史研究会、1987年)に掲載された
下重清氏の「身売的奉公と女衒について」は示唆に富む、この道の必読論文である。
宇佐美ミサ子や五十嵐富夫、岩井伝重らとはまた違った(あるいはより鋭い)飯盛女に関する
考察をしている。
正直この分野の研究は枚挙にいとまがないほど、多い。
その中でも、上の四氏は頭一つ分上をいっている。
ある時期まで、あるいは有る程度の「侠客」は、やはり、遊女業にかかわっていた者が多いというの
事実だ。
- 1517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/09(日) 23:22:02.88 ID:chmTZmhAp
- また侠客と関係ないことを書きこんで恐縮だが
長崎や広島の大参事を、風化させることなく今後も伝えてゆくことは、
我々日本人が永久に行っていかなければいけない重要事だろう。
賛否もあろうが、年齢に関係なく、幼児から若者、中年、老人まで一番インパクトを与えるのは
歌だろう。そういう意味では
新垣勉の歌う『長崎の鐘』と、
氷川清の歌う『一本の鉛筆』は共に魂がそのまま音と節と言葉になった様な
すばらしいものであり、多くの人に共感されるべきパフォーマンスだと思う。
(個人の性格や性質は知らない。あくまで芸術家(音楽の)としての技量だけで言う)
惜しいことに両者とも、ネットの動画では、あまり出回っていないようなのだが、
間違いなく次代を越えて残るべきクオリティだ。
it's embarrassing, but when I hear these songs, I always cry.
- 1518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/10(月) 00:05:53.14 ID:rgrneBwOc
- 交戦状態にあった国同士だから、
戦争を終えるために、決定打の化学兵器を使った。
「あれを使わなければ、もっと多くの人命が無くなっていただろう」
なんてことを言うし、理屈としては通ってるかもしれんが、
それじゃあ、
子供が自分を生んでくれた母親が「炭」になった姿を、子供が見るなんてことが、有史以来あっていいのか?
または、自分の妻が、一瞬で家事をする姿のまま「骨」だけになって、声をかけた途端に崩れたなんて、
そんなことを記録に残させるようなことをしておいていいのか?
経済や発展の歯車だけ進めば、「かつてそんなこともありましたなあ」なんて首脳同士が手を携える。
そんな馬鹿なことないだろう。
アメリカの前期大統領は広島まで来た。それだけでも、経済政策が図に当たったなんてことより、
ずっと暖かい。
- 1519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/25(火) 00:08:28.67 ID:F9FJNdw5n
- 偉人・江川英龍の悴、江川英敏は早死したこともあって、その才能が十分に
認知されていないが、
三井宇吉の死に際し、甲府勤番が宇吉子分の博徒に役人の証書を与え、
東海道を闊歩させた際には、「あいつら全員切り殺すぞ」との威嚇を
与えている。
舐められちゃいかん、という気負いもあったのだろうが、父親譲りのガッツも受け継ぐ
才気あふれる人物であったのだろう。早世は返す返すも惜しまれる。
- 1520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/25(火) 00:28:21.60 ID:F9FJNdw5n
- 相州津久井県吉野宿(今の相模原市)にあった栃木楼は、
小仏の健治が経営した遊郭なのだろうが、吉野宿大火という明治後期の
大火事で、それも無くなってしまう。
その後の健次郎の足跡はよくわからず、三田村鴛魚にかかれた姿にまで行きつくのか
と思っていたのだが、
同じ甲州街道上野原宿にあった関山遊郭に、明治30年、栃木楼の名前が見受けられる
ことを最近知った。あるいは健治はここへ移っていたのか。
- 1521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/26(水) 23:16:43.89 ID:McYDuCZp5
- 闘争は本来、生き残るための術なので、
別に負けても生き残れるなら、闘争する必要もないし、
勝ちにこだわる必要もないのだ。
格闘家は職業なので、テクニックや身体能力を磨き、
「負けないよう」にリングに上がる。
侠客は、「負ける」と分かっていても場合によっては敵地に赴く。
幡随院長兵衛なんかまさにそれで、結局は、水死体として翌日上がるわけだが、
その行動に華が咲く。
「負けたら何にもならない」「そんなのは愚者だ」
と、言われようが構わぬ。筋を通すことが第一だ。
近代では誰もかれも「負ける」ことをひどく恐れる。負けたら何も残らないと
思っている様だ。
本当にそうだろうか。
- 1522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/27(木) 22:38:36.72 ID:6KJ5eTZ/L
- 行動力のあるバカは手に負えない。
ある格言では、この種は「処刑」するしかないと言う。
その通りかもしれない。
このスレッドも、そういった人間に利用されたということは、
もうそろそろ、こんなの書くのを止めるべき時の様だ。
- 1523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/28(金) 21:46:17.15 ID:2hTg3xWzu
- 武州府中宿の藤屋万吉は、本姓市村で、実家は府中宿で先駆けて煮売渡世(食い物屋)
次いで旅籠屋渡世を営んだ裕福な家である。一説には伝馬の統制も同家が司っていたとか。
万吉の兄豊助は堅気の町人さんで宿政にも加わる良い顔の人。
だが親の和十郎は完全な博奕打ちで、万吉はこの人の縄張りを継いだと考えられている。
この和十郎は、しかし「宿年寄」の役目をしていたこともあるから、
それなりに有能な人だったのだろう。多く一ノ宮万平や福本屋の源太郎とつることが多く、
後に戸籍の上で別家を建て、「平蔵」を名乗った。(多分この時、博奕打ちは自分の代限りとしたかったのだろう)
だが、結局万吉が跡を継いで侠客となり、その縄張りはそのまま兄弟分の小金井小次郎へと
引き継がれることになった。
- 1524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/28(金) 21:53:01.52 ID:2hTg3xWzu
- 平蔵は長生きしたらしく、様々な史料に名前を出す。(金石文が主である)
本日初めて知ったのだが、府中市の寺の石造物に
この平蔵さんが、万吉と共に名を載せているのだという。
古い書籍史料で偶然それを目にしたが、信ぴょう性はイマイチわからない。
ただ元治元年の冬だと言うから、万吉没後ということになる。
平蔵は倅の万吉を不憫に思って、一緒に名前を刻んだのか。
万吉は色々言われるが、良い親分だったと思う。墓石が無いというのは腑に落ちない。
また平蔵(和十郎)の墓石に関しては言及すらない。
言うまでもないが、万吉の悴(甥とも)の玉川屋和十郎は、祖父から継いだ名であり、
両者は当然別人。
- 1525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/28(金) 22:01:52.70 ID:2hTg3xWzu
- 多分私はこのまま、武州、甲州、可能なら駿州までの侠客の研究で止まるだろう。
考えてみれば、増田知哉や戸羽山カン、松尾四郎だってせいぜい四つの県くらいまでだ。
任侠研究をうたっている他の氏もだいたいその程度だろう。
そう考えると藤田五郎氏と植田憲司氏だけは、熱量が違うのか、別格で、分野が全国にわたる。
天才羽生善治は、「才能とは情熱と気力を継続する力」との言葉を残しているが
上の二人はまさしくそれに当てはまる。
- 1526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/28(金) 22:33:28.39 ID:2hTg3xWzu
- いろいろ調べてみたら「信濃屋喜兵衛覚え書き」は2020年8月現在、
未だに岐阜県の豪農の蔵の中に納まってるそうだ。
実に膨大な量の内容が詰め込まれているあの史料だから、そもそもいつ書かれたか?
がわかるだけでも相当な成果に成るはずだし、
幕末期の次郎長の動向を示す有力な資料なのだから、ごたくは述べずにかの
次郎長翁会が200年生誕祭に乗じて調べればいいに、
まあ、結局はやらんだろう。
- 1527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/29(土) 22:38:17.29 ID:ymrmOC1ju
- 舌先でコロコロと大事な飴をなめるように
その分野の専門家は発見物を後生大事にして、結論を出さずに十年二十年静観するわけだが、
〆切りが迫るような零細な研究者は、その道では「未熟」な見解と言われようが
とにかく自身の旗幟を示し、具体的な読解を出さねばならん。
遊郭における「大福帳」の読みなんかはまさにそれで、合ってる、合ってないはともかく、
「こう読むのだろう」という見解は出す必要が有ろう。
さて、追いつめられて初めてわかることは、いわゆる専門家は、本当の所、
大事な史料の読解に関しては明確な示唆は示さないということだ。
これは多分下手な解釈をして、後でなんか言われることを恐れているのだろう。
だったらバイトで生活費を稼ぎ、趣味で学術をやるような輩は、代わりに
喜んで、恐れることなく自説を述べよう。
たとえ世に名高い高名な侠客の正体が女を食い物にする女衒で、
岡っ引がそろってその生活費を貧しい女子を品物として扱うことで生活費を賄っていた、
なんて身も蓋もない結論が出るとしても、
自分の見解を信じて押し出そう。
そのうえで身も蓋もない、生き馬の目を抜くような社会を泳ぎ渡った侠客の
本当の有り様が、分かる様になると信じよう。
- 1528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/08/30(日) 12:27:17.41 ID:6cqHpoiZx
- 俺夜中に何書いてたんだろう。もう駄目だな
- 1529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/01(火) 23:53:41.75 ID:eX3mQQDAM
- 「一筆啓上仕候」というのはよくあるのだが、稀に
「一筆令啓上候」というのがある。しかも「啓」の口の部分はほんのわずかな
点になっていることもあって、こんなの素人にはわからない。
万が一、このレベルまでわかる師匠が近くにいてくれたら、幸運というものだ。
また分の〆で「御伝聞可被下候(ご伝言下さるべく候)」なんかはよくあるが、
まさか「御鶴声可被下候(御鶴声下さるべく候」なんて良い方があるとは。
古文書読みの文化は、地域ごとに、絶対継承していかなければならない文化だと最近強く思う。
- 1530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/08(火) 23:54:49.65 ID:PK47IN7y0.net
- (文化の扉)次郎長、大親分の実像 「義侠心」何度も物語化/世に尽くした後半生
https://www.asahi.com/articles/DA3S14612451.html
- 1531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/18(金) 21:17:03.62 ID:8gFQk4Lgz
- 狂った事を言い出す様で恐縮なのだが、(いや、自分からしたら全然狂ってはいない意見なんだが)
このコロナ禍で、まだ一度もキャンパスを踏んでいない大学生が多くいる。
これが短大だと、結局一度も大学の土地に足を踏み入れぬまま、卒業なんてこと
すらあり得るそうだ。
自分だって(随分昔だが)大学に入った一年生時は、情けなくも、親が苦労して学費を出してくれたことが申し訳なく、
同時に感謝しかなかったし、なんとも無駄にはすまいと、そればかり気にしていた事を今でも思い出す。
若い新入生の心境など今も昔もそう変わるものではなく、
多分、入学して嬉しい気分よりも、親に対する感謝と申し訳なさに押しつぶされそうに
なっているものではないだろうか。
ところが、その貴重な学費を、一歩も足を踏み入れぬ大学が、当然の様に満額受け取ってるわけだが、
この状況に、
「私は生徒に申し訳ない」と言って、自分の給料を何割か返納する様な教授が、日本には「一人もいない」
というのがおかしくはないか?
(私はよっぽどズレてる人間なので、理解はされないかもしれないが、私的にはとてもおかしいと思うのだ)
多分、一人の教授がそんなことやったって無駄、と言われるだろうが、
そうじゃなくて、気概の問題だ。少なくともそれを誰かがやれば、少しは状況が動くのではないか。
それは厚い鉄の壁に小石が当たる程度の、全く目にも見えない様な動きかもしれないが。
私はとても大事だと思うし、一人くらいいてもいいだろう。だって「学者先生」だぜ。
(網野善彦が生きていたら、俺はそうすると思う。)
昔加納治五郎は、金のないアジア諸国からの留学生に、優秀ならば学費を免除する、と鶴の一声で決めたというじゃないか。
そんなのは理性の無い蛮行と言う向きもあるかもしれないが、
侠気・思いやりの無い四角四面な理性よりは、ずっと価値が有る様に思うのだが。
- 1532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/09/18(金) 21:21:11.21 ID:8gFQk4Lgz
- もっとも私は口げんかになれば、理詰めでいつも人に言い負かされる人間だし、
知恵は相当に無い、と自認しているので理路整然と正論で反対されれば、
二の句が継げないとは思うのだが、
理論では多分、心の底は全く納得しないだろう。
だって、結局、今年入学した大学生とその親があまりに不憫じゃないか。
- 1533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/10/11(日) 08:19:18.84 ID:MhXTRX9IN
- 子孫や身内に関係なしにインターネットに墓写真をあげ、
文献資料も、出典を上げず、他人のそれを無断で使用するようなことが
まかり通る様になった。
このスレッドでの私の書き込みも
そんな手合いに利用されるに至ったようなので、猛省の意味もあって、
これでおしまいにする。
- 1534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2020/12/10(木) 06:42:24.66 ID:73/vDQdi0.net
- 初めに「仁侠」という言葉の定義から。
辞書的な意味は「弱きを助け、強きをくじく気性に富むこと。」
そうした生き方を建て前とする人を「侠客」と呼ぶ。
仁侠映画の第一人者、マキノ雅弘監督は、
侠客を「やくざな稼業をしていても、やくざな生活はしない人」と定義している。
たとえば、賭博を生業にした渡世人でも、普段は貧乏長屋で暮らし、
近所の人から頼まれた仕事は何でもやってやり、
周りから粋な男と思われるために、角帯をピシッと結んだり
刺青を入れたりしている――
そうしたストイックな生き方をしているのが、本物の侠客。
ところが今の暴力団は、運送業とか土建業とか稼業の方がまともで
生活がやくざだから困ったものだ、とマキノは嘆く。
※運送業、土建業のほとんどが暴力団とは関係ありません。
- 1535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/04/27(火) 14:15:25.94 ID:Uvu+CjRo0.net
- 誰か身延半五郎について詳しい人いますか?
いたら、教えてほしいです。
- 1536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/04/29(木) 23:17:00.61 ID:5YOP9JvG0.net
- 子孫や身内に関係なしにインターネットに墓写真をあげ、
文献資料も、出典を上げず、他人のそれを無断で使用するようなことが
まかり通る様になった。
このスレッドでの私の書き込みも
そんな手合いに利用されるに至ったようなので、猛省の意味もあって、
これでおしまいにする。
- 1537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 01:53:10.25 ID:/jVsxlS50.net
- 清水次郎長の生誕200年記念 ゆかりの地を歩く
https://www.asahi.com/articles/ASNDL72X5NDDUTPB003.html
> 幕末の侠客として知られ、清水港の発展や
> 富士山麓の開墾などに力を尽くした清水次郎長(1820〜93)。
> 生誕200年を迎えた今年、改めて
> その人となりに触れてもらうための町歩きイベントがあった。
> 参加者らは、次郎長ゆかりの地を歩き、逸話が残る「名物」も堪能した。
- 1538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 01:55:58.07 ID:/jVsxlS50.net
- 清水次郎長 生誕200年 虎造節は今…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/72712
> 今年は侠客、清水次郎長の生誕200年。
> 一家を率いたヒーローが大衆の心をつかんだのは浪曲、
> とりわけ二代目広沢虎造(1899〜1964年)の「次郎長伝」の力が大きい。
> 老いも若きもまねした「旅ゆけば駿河の道に茶の香り〜」のだみ声の名調子。
> しかし、浪曲ファンは減り、義理人情に厚い次郎長を知らない世代も増えている。
> 希代の名人が魂を吹き込んだ「海道一の親分」に未来は―
- 1539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 02:01:26.20 ID:/jVsxlS50.net
- 紙芝居や講談 愛着育む
https://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO044595/20210621-OYTAT50082/
> 竜王町立竜王西小で絵本の読み聞かせを行うボランティア団体「ぽえむ」。
> 2010年に紙芝居「近江牛を愛し育てる人たち」を作った。
> 講談では、牛を連れた久次が箱根で山賊に襲われた際、
> 「海道一の大親分」と称された清水次郎長に助けられた故事なども盛り込んだ。
- 1540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 02:08:30.42 ID:/jVsxlS50.net
- 青年はいかにして侠客となったか…池波正太郎の小説をコミカライズ「侠客」1巻
https://news.mynavi.jp/article/20210628-1911670/
> 池波正太郎原作による落合裕介「侠客」の1巻が、本日6月28日に発売された。
> 主人公・塚本伊太郎は、主人の使いの途中に父・伊織が斬り殺される場面に遭遇する。
- 1541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 05:47:34.23 ID:1+LxvbcH0.net
- ある日突然、浪曲に惚れたB
https://www.jiji.com/jc/v4?id=21yk3rokyoku0001
> 浪曲を聴いていると、この人かっこいいと憧れたり、
> いやぁ面白い人だわと記憶に強く残ったりする登場人物がいます。
> 私にとっての一人は、清水次郎長伝の中の一話、
> 『お民の度胸』に登場する小松村七五郎の女房、お民です。
> 私自身が日本酒ファンということもあり、
> 飲みっぷりの良さにひかれるのは『天保水滸伝』の剣豪、
> 平手酒造です。
- 1542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 05:52:25.33 ID:1+LxvbcH0.net
- 【新国立劇場】『斬られの仙太』水戸天狗党への旅 動画公開!
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000225.000047048.html
> 江戸末期から明治にかけての動乱期を舞台に、
> 農民上がりの博徒・仙太郎が、水戸天狗党の乱に関わるようになるも、
> 組織の理想と現実の間で翻弄される物語
- 1543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/06/29(火) 06:05:04.79 ID:1+LxvbcH0.net
- 鶏食文化は福岡にルーツ 竹川克幸氏
https://www.sankei.com/article/20170901-G3ZYI4UAZFLH5DJYK7DUG6CJYU/
> 四国に亡命した高杉晋作を庇護したことでも知られる
> 讃岐国(香川)の勤王の志士、日柳燕石が弘化元(1844)年の
> 九州遊覧の際に記した紀行文「旅の恥のかきすて」
マスゴミは燕石を「漢詩人」とか「志士」としか言わねーな
「侠客」はダークサイドで都合の悪い事実だから無視ですかそーですかw
- 1544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/06(火) 07:05:01.45 ID:3n356Xz90.net
- 『灸まん』の由来
手前どもは昔 代々 麻田屋久八という旅宿でございました。
その頃のこんぴら(琴平)の宿屋は石段上の並びにあったもので、他人さまには麻田屋ですが、
私どもは石段屋のおじいさんとこと斯様に申し慣れていたのでございます。
天領地のこんぴらには他国から学者、画家、やくざと
それは、それは、いろいろな人種が出入りしたものでございます。
天保何年のことでしたか、江戸から小金井小次郎という親分が、私どもへ泊りまして、
これが、また苦味走った鄙には稀れな好い男ッ振りでございまして、
『おい、女中さんよ。ここには、こんぴら灸てえのがあるそうぢゃねえか。』
あ、申し遅れましたが旅の疲れを癒す脚灸で、私ども婆ァがお客さまへのサービスで
一点灸をすえて差上げていたのが、ひどく、よく効くので、方々評判になっていたのでござります。
- 1545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/06(火) 07:05:18.69 ID:3n356Xz90.net
- 何しろ、相手がいい男なもので、
女中共が奪い合いで果ては、ぢゃんけんで決めたということでございますから、
男前には生まれたいものでござります。女中が特別柔いのをすえたのでしょうか、
『こいつは甘めえお灸だわぁー。』
と親分が申したそうで、小金井小次郎が甘いお灸だといったのが始まりで、
よく効く甘いお灸の麻田屋の金比羅灸というので名物になり、
家運益々繁盛致したということでございます。
私で丁度七代目、時勢でございますな。
もうお灸ではあるまいと、折角祖先の創めた甘い灸というのをとりまして、『灸まん』。
これで旅の疲れを癒して貰おうと存じ創めたのが、石段屋の灸まん、卵解きの饅頭でござります。
どうぞ、よろしゅうお引立てのほど御願いいたします。
- 1546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/07/08(木) 17:27:35.90 ID:3hIDhKG20.net
- 幕末のアウトロー:激動の時代に散った裏社会のあだ花
(高橋敏 国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学名誉教授)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01117/
> 江戸時代末期、博徒は親分と子分からなる「一家」を各地に形成し、
> ばくちの胴元として地域社会に深く根を張っていた。
> 黒船来航で生じた混乱に乗じ、彼らは公的な場に躍り出て一躍民衆のヒーローとなった。
> その後、幕末のアウトローがたどった運命やいかに──。
> 武装した反社会的集団が誕生
> アウトローが取り仕切る裏社会が成立
> 仁政を行った武闘派博徒・国定忠治
> 天保水滸伝の英雄・勢力富五郎
> 黒船来航に乗じて島抜けした甲州博徒・竹居安五郎
> 明暗が分かれた黒駒勝蔵と清水次郎長
> 秩父困民党を率いた博徒・田代栄助
- 1547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/10(火) 23:53:28.32 ID:2hH/1XCK0.net
- もう書かぬ、と言ったが、
事情が違う。
一つだけ書き込ませてください。
甲州の大親分・三井宇七郎さんの墓石が何の前触れもなく撤去されたことを
本日ただいま知った。
ほぼ破砕済みと考えられる。現在できうる限り最大限、追跡してはいるけれど。
一つにはSNS等でもっと広く知らせられなかった自分の責任だ。悔やんでも悔やみきれない。
だが、事情・状況を十分に知りながら断行した寺側、
現状の問題から、その貴重性を訴えたのに、一切耳をかさなかった市教委の面々など
心から私は絶対に許さない。
- 1548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/12(木) 01:49:47.44 ID:5LUzSIjr0.net
- > 山梨郷土研究会会員で『甲斐』第150号掲載「博徒三井宇吉とその周辺について」を執筆した
> 博徒研究の雄・原祥氏が先年ある寺院の無縁墓石群中に三井宇吉の墓石を発見。
> しかし昨日墓参へ訪れると全ての無縁墓石がなくなっていたとのこと。
> 原氏が各方面へ発見報告と保存依頼を行っていた矢先の出来事…。
https://twitter.com/jack1972frost/status/1425306634478243842
(deleted an unsolicited ad)
- 1549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/12(木) 01:58:09.96 ID:LGfzzHwV0.net
- 三井卯吉事、三井宇七郎の墓に関してもう一つ言うと
この墓石は「宇七郎妻」によって建立されており、このことだけでも
注目に値する。
安政四年正月四日、山田町二丁目で宇七郎が殺害された際には、
傍らに妾の「しも」の遺体があり、彼女もまた惨殺されていた。
このことから、当時の検視では「夫婦殺害」とされてきたが、
少なくとも、宇七郎には「しも」とは別に「妻」を任じる女性がおり、
彼女が「夫」の墓石を建立したのだ。
そして墓石には宇七郎と共に「彼女自身」の戒名も合わせて記載されていることから、
その結びつきを永久に残そうとした、
その様に解釈できるのだ。
- 1550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 00:55:59.33 ID:oeWYtXnKo
- 強い憤りを感じますね。
市の教育委員会と言っても、その地域と無関係の人達が多く郷土史に無関心なのかもしれません。
だからといって許されることではないですね。
寺にいたっては、悪意を感じます。
貴重だと知りながらの処分。稗史に対する嫌がらせのように思えます。
- 1551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 00:05:36.95 ID:RuCMlwMM0.net
- 撤去された墓石群は、甲府の中心街にあった寺院のもので、
およそ70基。
その中に、三井宇七郎の他に私が確認できたのは、宇七郎弟(孫とも)とされる三井健次郎、
宇七郎の父とされる三井庄蔵の三名の甲府牢番の墓。
他に甲府勤番士、香具師の帳元。商人などなど。
これらが全部消えてしまったのだ。
再三市の調査要請をしたが、遂にされなかったのだ。
特に、甲州では非差別身分の皮作りの人々や、猿引、ささらすりといった芸能民、などが
甲府牢番支配に入り、その勢力圏は厳格で、浅草の団左衛門も介入できない。
三井氏とはそういう家系であり、それだからこそ
三井宇七郎(三井卯吉)は甲州一の顔役になれたのだ。この点を考察する上で一番大事な
証拠史料がなくなってしまった。
- 1552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 20:15:04.90 ID:UBt5V1yoh
- >>1550
ありがとう。
ただ今は、全力、血眼で墓石の動向を追っていますので、
結果が出たら、またここに書かせてください。
刺し違える心づもりで
交渉中です。
- 1553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/13(金) 21:44:55.33 ID:RuCMlwMM0.net
- ブログとかtwitterとかの上手い人は、本当に物事が紛糾したり、正念場を迎えてるときは
上手に静観している。
決して助け船なんか出してくれない。
そして一連の厄介ごとが終わったあたりで、無難な記事を出して(たいてい「本」や「墓石」を写真にあげて)
一席ぶつ。それに追従者がでてもてはやされる。
そういうバランス感覚が良い人間がうまくやってるようだ。
最近は侠客を取り上げる人間もそんな輩が多い。
一方、泥臭く、けったいで、目立たず地道な活動をする人々、加えるに、損を平気で引き受ける人々
はもてはやされない。だいたい昔から何か(任侠研究も含め)一途にやってる人なのだが。
でも困ったり、困難を覚えているときに、こういう人たちに限って、ささやかにアシストしてくれたり
助言をくれる。
そういうのこそ、万金にも代えがたい、心からありがたく心強いものなのだ。
- 1554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/14(土) 00:59:23.30 ID:lKbIMh6LY
- ある分野で貴重なものだと伝えているのに、わざわざそれを処分する神経が全く理解できません。
それに、三井宇吉と言えば、何年か前の県立博物館の特集でも触れられていましたし、博徒というよりも公儀に関わっていたという側面の強い人物です。
1152さんのように、足を使って調査をされ、それを発表していただいているお陰で私達は通常知り得ない貴重な事実を目にすることができています。
寺と教育委員会の愚行は、調査をされている方の努力を踏みにじり、この分野に興味を持つ人間を失望させる本当に罪深い行為です。
- 1555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/15(日) 22:56:30.87 ID:uYJvh3UJ0.net
- そりゃ一般人だし、年収も多くないから
公機関や、企業相手に突っぱねたり主張するのは勇気がいるさ。
でも、やらないと後悔が残るからね。
それに、できるとこまでやったなら、結果的に申し訳なくてもせめて言い訳になるから、
墓石の返還は続けるよ。
そして、ここに書き込めば、自分で火のついてる時の気持ちを忘れないからね。
それが大事。
それが有用だ。
- 1556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/16(月) 04:06:13.48 ID:iDm/5SRD0.net
- すみません。また酔っていて変な文面を書き込みました。すみません。
- 1557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/16(月) 04:20:27.42 ID:iDm/5SRD0.net
- 日野の「河野日記」、明治12年には玉川要蔵(の身内)と砂川の平蔵が喧嘩をした
という個所が、本当に一行だけ書かれている。
正確に言えば、要蔵の子分筋にあたる立川(柴崎村)の者が平蔵の賭場で辱めを受けたため、
帰ってから仕返しをしようとしたところに、いち早く平蔵側が奇襲をかけたというのが
そのあらましである。喧嘩は平蔵側の一方的な勝ちとなったが、要蔵は全く参加していない。
上のどこかに書いたかもしれないが、武器類をみんな畑に埋けて管理の目をくらませたのは
この時の話の様だ。
興味深いのは、この喧嘩に平蔵の助っ人として、田無の徳蔵とその身内が加わっていることだ。
平蔵、徳蔵は共に小金井小次郎の子分で、小次郎の墓石でも上位のところに書かれているから
多摩地域の相当な顔役だったと考えられる。あるいは両者は兄弟分だったか。
一方で要蔵は小次郎の子分だった、という話がたまに聞かれるが、どうも違うらしく思える。
むしろ柴崎から日野、八王子に入るところまで独立して勢力を持ち続けた親分のようである。
- 1558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/16(月) 04:34:13.37 ID:iDm/5SRD0.net
- 武州多摩地域周辺は、幕末から完全に小金井小次郎一家の縄張り一色かというと、そうは言えないらしく、
砂川、田無の間にある小川(大沼田、鈴木新田等も)は当然小川の幸蔵の持ち分だし、
新座郡に入って片山から先もどうも本来は違うらしい。
八王子へ入ると、一ノ宮の蕎麦亀、日光屋の吉五郎(兵吉の子)、小仏の健次郎、橋本一家の常吉
がそれぞれ独立して持っていた。このうち日光屋は兵吉(”ひょうきち”と読むらしい、正確にはちょっと字も違う)
が小次郎の兄弟分だったといい、また中心地の天王森には、天王森の民(または寺町の民)
という小次郎の子分がいたらしい。
さらに「絹の道」である浜街道沿いには町田へ向かって、藪柑子幸次郎、橋本宿の歴代親分たち(複数いる)、
大戸の万次郎(下川尻"かわしり”の万次郎)、木曽の嘉十郎、淵野辺の喜六、原町田の弥兵衛なんかがいて
それぞれ独立の一家を成している。
- 1559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 18:09:53.63 ID:wdGlldhA0.net
- 墓石の回収は、残念ながら成りませんでした。
40ミリまですでに細かく砕かれてしまったとのことでした。
前に自分はここに、「故人は自分が出ることを望んだ時に、史料や遺跡として姿を現してくれる」
みたいなことを書き込みましたが、同じように、
「用事が済んだので、帰って行かれた」と考えるのは、
自分に都合の良すぎる勝手な解釈でしょうけど、
今はそこに気持ちを落とすしか方法が無い。
わずか3年の間だったけど、確かに墓石が確認できていた間に
左右・正面の文字は全て記録できたので(お写真も一枚だけ)、それだけでも
(こっち側としては)よかったと、勝手に思っておくことにします。
- 1560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 18:32:47.76 ID:wdGlldhA0.net
- とにかく最大限、対象に好意的な視点で、
史料に基づいた調べを、これからも続けてゆく。今回のことをした奴らには
三井宇七郎がいかに大物で、その時代の歴史を語るのに必要不可欠な人であったかを証明してゆくことで、
後々、必ずやったことを後悔させる。
- 1561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 19:01:07.19 ID:wdGlldhA0.net
- 黒駒勝蔵と信濃で抗争した行栗(七久里)の初五郎事黒田初五郎さんの墓石は、
前に訪れた際、天竜二俣のお寺にしかと残っていた。
やはり今回と同じように、無縁を含むお寺のお墓を整理した際に、
わざわざそれだけ、住職が山門の前に残してくれていたのだ。ほとんど名の知られていないこの人を
それでもしっかり地元で残してくれていたと言うのは、今思うとほんとうに素晴らしい判断だったのだ。
- 1562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/08/20(金) 23:00:21.63 ID:wdGlldhA0.net
- 結局のところ、墓石の保護を早く行えなかった自分の責任が大きいのだろう。
無縁の墓同士が隙間なく並んでいて、なきに等しいわずかな墓石正面の空きスペースに、
行くときは線香を立てていたのだけど、寺側にも存在を伝え、喜んでもらえて、市教委は鈍いけどいずれ理解して
そのうち広いところに移すはずだから…と高をくくっていた。信じて油断しすぎてた。世間の道理も危機の意識も働かない世間知らずとはこのことだ。
その結果、お花を供えたことが一回もないままに終わってしまったのだ。このことは悔やんでも悔やみきれない。
- 1563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/07(火) 20:59:52.98 ID:mgMZnzI40.net
- 侠客の墓石の情報は、開示すると、アホがやってきて、写真にして
twitterに上げたり、下手なブログで陳列したりする(線香立てて手を合わせるだけでいいだろうに)
と言って全くの秘密にすると、今度は世間に周知されないで、結果的に市町村文化財課が動かず、
墓石自体が無くなることにもつながる。
兼ね合いが非常に難しいが、最悪は「無くなってしまう」ことなので
やはりなるべく機会あるごとに、情報を出していった方がいいのだろう。
- 1564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/16(木) 16:01:10.34 ID:smkLyeL96
- 墓石の件、本当残念です。
話を聞いているだけで悔しさがこみ上げてくるのに、当人様にとってははらわたの煮えくり返るおもいだと思います。
でも、墓石を発見してもらっただけでも、宇吉さんにとっては良かったことなんだと思います。
先ほど勝蔵生家でシャインマスカットを買い、観音堂のお地蔵様に手を合わせて来ました。
だいぶ風化はすすんでしまっていますが、誰にでも手がとどく所にありながらしっかりと鎮座されていて、勝蔵さんは地域の人にも大事にされているのだと実感しました。
生家敷地内のお墓の横には新たな石碑が作られ、今月末に除幕式が行われるとのことでした。
- 1565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/16(木) 22:13:44.97 ID:smkLyeL96
- ふと思い出して検索したら、今日は今川徳三さんの祥月命日なんですね。
亡くなられたちょうど1年後にたまたま勝沼に行っていた自分にビックリです。
「万延水滸伝」の増田伝一郎が蓮台寺温泉に勝蔵を捕縛に行く前後の描写、創作が大半だと思いますがなかなか面白かった覚えがあります。
- 1566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/17(金) 06:59:45.66 ID:lR1cKc/yA
- 今川徳三氏の功績は大きい。なのに、晩年は書いてきた著書の内容が
根拠のないガセと批判され、そのことをひどく気に病んでおられた。
県立博物館の展示やそれに伴う研究、特に国分三蔵のそれを言っておられたのだろうが、
本当に残念なことだ。
展示や研究者は、そう思われることを意図していなかっただろうが、情報の行く末というのは
どんな風に展開してゆくかわからぬ。
亡くなった時には新聞に記事もちょっとでたが、地元の郷土会やメディアでもっと
取り上げるべきだったように思う。
あるいはこれからでもいいから。
- 1567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/17(金) 07:06:15.14 ID:lR1cKc/yA
- 勝沼にある三蔵の墓石のことは情報が出たし、台座に刻まれた人名を追跡することで、
今後研究が進むだろう。
と思うが、地元の文化財課や史家が枯渇した今日の状況では無理かもしれん。
またぞろ、どっか東京の大学研究者の調査の的になるのがオチだろうか。
全国に言えることだけど、郷土史家を無くすような体制をずっと取ってきた
市政や教委が相当非難されるべきだろう。
山梨に関して言えば、武田武田の礼賛は、もういいよ。戦国ブームが過ぎ去った時に、
いったいどうする気なんだ。
- 1568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/18(土) 21:41:14.16 ID:lEkV5Ud+5
- 海野弘という人は、やっぱりこの時代に生まれた天才の一人なんだろうな
と思う。美術史家としてアールデコを再評価したり、カリフォルニアの文化に着目し、
ビートジェネレーションなんかの解説をしていても、頭に入るしなるほどと思わせる。
でありながら、江戸の風景を小説にして描かれても絶品じゃないですか。
カルノーじゃないけど「弱点は無いのか」と思わせられるすごい人だ。
『江戸よ語れ』(河出、1999)はあまり評価されていないようだけど、面白かった。
この中でさりげなく祐天仙之助が出るけど、この祐天が一番、本物の祐天親分に近いんじゃないかと思える。
何気に最期も『藤岡屋』ではなく『東西紀聞』からとってる。
- 1569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/18(土) 21:57:52.26 ID:lEkV5Ud+5
- 武州入間郡藤沢村というところがあり、今では埼玉の入間市に含まれている。
東西南北に道が走り、中世には新田義貞も通ったというから、歴史も古く、交通の要所でもあったらしい。
ここに藤沢の代五郎と言う人がいた。元力士で荒磯倉吉・甲山半五郎親方の門下にいたが
病気になり廃業、草津温泉で治療した後は故郷に帰り、日雇い仕事で口を糊していたようだ。
が、生来腕力もあったからか、博奕打ち仲間の口車に乗り、夜盗・強盗仕事にも手を貸すようになり、
明治の初年に御用となった。
だが大五郎が光るのは、むしろここからで、留置された監獄で、おりから流行した悪疫により
多くの囚人が倒れるなか、自らの身も顧みず献身的に彼らを看病した。
その姿勢は看守や役人の目にも、奇跡を見る様に映ったようで、刑期は短縮、褒賞を得て出ることになった。
臭気の絶えない囚人部屋に躊躇わず踏み込み、老囚には肩をかして厠まで連れて行く、というのは
なかなかできないことだろう。
だが、この人の墓石、現在地元には見つからず、逸話の一つも残らない。そして藤沢には
藤沢一家と言うのがあり、大五郎はそこの親分(あるいは重鎮)として、埼玉県内の各地の墓石などに
義理堅く名を刻んでいるが、やはり地元では存在自体が消された格好となっている。
- 1570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/18(土) 22:06:08.55 ID:lEkV5Ud+5
- そうそう大五郎のことは
国立公文書館のデジタルアーカイブス、「埼玉県史料、政治部、刑罰1(明治4・5年)のリール番号120辺りから
詳しく書かれている。
(他には横浜毎日新聞の明治7年、7月のどこかにあった気がする。)
代五郎が名前を刻む墓石は、岩殿の観音菊、二本木の安太郎など。他にももっとあるかもしれない。
- 1571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/20(月) 23:40:42.90 ID:MWwr4gr0m
- 立川『公私日記』嘉永3年10月2日の項には、次のような事件が記録されている。
甲州悪党共弐拾人ほと徒党横行ニ付、石和陣屋ヨリ逃れ大菩薩峠青梅山中江かがまり(中略)
府中田中屋万五郎頭取、道案内人並剣術熱心之もの共大勢相催シ青梅郷、五日市郷ヨリ取りかかり候所、
又々甲州路へ逃去(中略)万五郎等ハ桧原村之内字へんほり辺ニ数日逗留、米穀、入湯茂無之、
わらし之儘起臥いたし居候よし
時期と場所から考えて、この「甲州悪党共」は竹居吃安一党とみて間違いないだろう。
石和陣屋から直々に依頼が来ていると言う点も面白い。
多分、三井宇七→田中屋万五郎の順で指示が来たのだろう。
万五郎は、「へんほり」(元・日野原村字「人里」)に集団で逗留し、寝る間も草鞋を脱ぐことが出来ないほど
緊急対応をしていたことがわかる。
万五郎も相当にタフだが、なんと言っても、興味を惹きつけられるのは、一緒にいた「剣術熱心之もの共」だ。
「多摩」という地理的条件からすれば、彼らはおそらく天然理心流、近藤周助門下生だったのだろう。
とすれば、詳しい人名がわかる史料が、是非とも出てきてほしいものだ。
あるいはこの一団は実際に「吃安」本人と会い、剣を交えたかもしれず、
昔何かの雑誌で、今川徳三氏が、吃安と少年の近藤勇を相まみえさせている話を書いていたが、
それさえ、あながち無理な設定とも言えないのかもしれない。
もし何か残ってるとすれば、奥多摩近辺の名主や組頭の史料の中だろう。そんなのが見つかるのは
何千分の一の確率だろうけど。
- 1572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/21(火) 21:56:03.37 ID:LpvIXURdL
- 残念ながら侠客・博徒の情報は(今のところ)なかったのだが、
埼玉県狭山市に「水富郷土研究会」というのがあり、そこが出していた「わらやね」という
雑誌はすごい。民俗学的にすごいし、発行年が昭和53年から10年ほどなので、
今では既に聞くことが出来ない明治を生きた人々の証言を朴訥に記録しており真に迫る。
場所柄もあり、今注目の、彰義隊、振武軍の戦いに巻き込まれて、風呂場の桶に鉄砲が当たって穴が開いたとか、
誰それのおばあさんが若かったころ、肘に流れ弾が当たったとか、
名のあるらしい侍が衆寡敵せず切り死にしたのを見た、とかガリ版の紙に手書きで
書かれており、思わず息をのむ。往時の郷土史への人々(当時は若者だったのだろう)の熱意が伝わってくるような
力作だ。
しかしこれほどの一級資料なのに、中央図書館ではコンプリートしておらず、文化財課でも
全ては保持していない。
それでも狭山市の文化財課では言えば心よく見せてくれる。
- 1573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/21(火) 22:08:19.35 ID:LpvIXURdL
- 場所柄、「黒須大五郎」や「笹井の喜太郎」、「高萩万次郎」らの聞き書き、
それから、かならず存在したであろう「掘兼」地域の博奕打ちなどの話があるかと期待したが、
目を通した「号」では今のところなかった。
もっとも当時の学術状況からすれば、柳田民俗学や、生活史の記録法を重視するあまり、
完全に「村の博奕打ち」なんかは(学術的であるほど)無視されたから、
振り返られもしなかったのかもしれず、こういう点はかえって「進歩的な」研究会の方が、
期待薄な内容しか残していないことはままある。(”博徒”以外の分野ではきっと「濃密」なんだろうが…)
またこれほどの史料であるにも関わらず、後年一冊にリメイクしてまとめられなかったのは、
あまりにプライバシー保護がされていないことや、表現が生生しすぎる点にあるのだろう。
個人名はもちろん。
たとえば焼夷弾が直撃した、親しい人の遺体が「キューピー人形」のような色合いで焼けて、
衣類も溶け、丸裸のままだった、と言うような、
当時そこにいなければ絶対に知ることが出来ない生の声で、
読み手の心に容赦なく、寝る前に光景を思い出さざるを得ないほどの衝撃を与えるからだろう。
- 1574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/22(水) 23:07:28.17 ID:QfD9abh5o
- 黒須大五郎の子分には、
梶ノ山多助(相撲取り)、峯ノ尾岩吉(相撲取り)、紀州の田中清次郎(剣術家)、
鉄砲ノ卯之吉(深川大工の子)
小雲雀ノ芳五郎、鷲ノ喜太郎(南入曽の喜太郎または高倉ノ喜太郎)、沼袋ノ清吉、
宮崎源之丞(軍師)、奥州釜石の菩薩ノ粂吉、日影和田ノ岩吉、笹井ノ勝蔵・・・
と言った者がいることが
『探偵実話・黒須大五郎』に書かれている。
小説ではあるが、事実を伝える部分も多々あるので、あるいはこれらも実在の人物なのかもしれない。
特に小雲雀の芳五郎は、「大五郎子分」として古文書史料に現れる「上州無宿芳五郎」と、多分同一人物だろう。
- 1575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/22(水) 23:25:47.08 ID:QfD9abh5o
- 黒須の代五郎一味は「義盗」と称し、多摩・入間から東京都下まで荒らしまわったらしいが、
確かな聞き書きとして残っているのは、昭島市で、いわゆるこの地方指折りの大店である
「中久」に入った時(明治5年、1月17日)のことで、金253両余りと、衣類、織物多数を奪って
悠々逃走した。
仕事をするに及び一党は中久の家人(女性)十数名を縛り、一列に並べ「黙っていたら褒美をやる」
と言い、引き上げの際には言葉通り、一人一人に盗んだ博多帯一本づつを与えた。
そのまま築地の渡しを通るとき、渡守に見咎められたため、哀れにもこの渡守は切り捨てられてしまう。
上記は昭和28年(!)に郷土研究会がまとめた『昭和町誌』(手書き・ガリ版)
同じく昭和33年に同会がまとめた『築地部落の研究』に記録されている。
- 1576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 22:38:39.53 ID:bGf/SR+wm
- 地方の古文書のうち「日記史料」というのは思わぬ収穫があるので、
見れたら見ておいた方が方がいい。もっとも全く空振りに終わるかもしれないが、
それが「当たり前だ」くらいの気持ちで居ればストレスも少ない。
旅先の図書館とかだと、全部ゆっくり目を通すような余裕はないだろうが、
共通して言えることは、
天保15年
嘉永2年
文久1年、2年、3年
慶応2年
明治2年
は何としても目を通しておくことを勧める。
可能なら上記の年の前後も。
「なんで」と言われたらよくわからないのだけど、博奕打ちの大事件に関しては
この年度に固まって多く記録されていることが多いように思うからだ。
- 1577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 23:03:28.41 ID:bGf/SR+wm
- 武州大里郡三ツ本村(熊谷市)に鷲太郎という博奕打ちがおり、これが
甲州巨摩郡西井出(清里の辺り)で捕まった。安政四年の八月のことだ。
この鷲太郎は、韮崎から若神子辺りを徘徊し、一ツ家の浅五郎の家に泊まったり、
西井出の定吉の宅を訪れたり、大八田の多兵衛の家を尋ねたりしている。
いずれも博奕貸元と目される人たちだ。
結局お縄になったが、大した悪事もないことから解放されたようだが、
九年後の文久2年、
再び今度は武州青梅辺で手配に上げられる。今度は同類として、黒須大五郎、その子分芳五郎。
黒駒勝蔵子分寅五郎。塩後の権次郎らと一緒に行方を探索される。鷲太郎自身は、若神子の弥十の子分と書かれていて、
おそらく兄弟分の弥十の弟である千代三郎も一緒だ。
彼らは、武州入間郡名栗村の町田滝之助宅へ強盗に入り、八百両とそのた多くの品物を奪う。
更に二人を殺傷。大事件となる。
先の時期に捕まえた鷲太郎を何とかならなかったのかと、地域が違う古文書同士ながら思うが、
それ以上に気づくことは、秩父から、甲州の峡北、あるいは信州へと抜ける道が、
当時は非常に機能していた、という事実である。
甲州街道、青梅街道に次いで第三の道が秩父を伝って、武州ー甲州間にはあり、それは信州にも通じていた。
これを博奕打ちたちは非常によく利用したのである。
今日では、車の行ける道はなく、自転車で行っても、途中通行止めに合う幻の道だが、かつては当たり前の様に機能していたのだ。
- 1578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 23:11:01.52 ID:bGf/SR+wm
- 私がここに書いた文は、
「宇宙忍者ゴームズ」の吹き替えの「悪魔博士」のしゃべり方で
再現していただければ、これに勝る喜びはない。
とにかくマトモってのが大嫌いだ。
- 1579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/09/26(日) 23:51:28.67 ID:bGf/SR+wm
- 2017年に『武州世直し一揆』という分厚い本が慶友社から出た。
森安彦とか大舘右喜とか斎藤洋一とか碩学の論文集なので、
地方の学術雑誌でも若手が一生懸命に「いいね」といった感想文を書いているのだけど、
正直言って、武州一揆の史料ならば、「山中清孝」氏一人だけの論集にすればよかったと
すら思う。それくらいこの問題に関しては山中氏の見立てが群を抜いていた。
他の方は史料は山ほど考察したが、山中氏は既に目の付け所からして斬新だった。
山中氏は若くして志半ばに亡くなったが、武州一揆に関しては
全て示唆が的を得ており、今読んでも身震いする。そしてなにより困るのは氏が唱えた示唆や問題点が
その後、全く解消されずにいることだ。
武州一揆に関しては、史料集がすでに二巻出ている。が、山中氏はそれが、史料を完全網羅していないので、
是非三巻を出すべきだと言っていた。そして、彼が今後注目するべきと名を挙げた史料には
名栗の大五郎(黒須大五郎)や八王子永戸屋(和三郎)、黒熊の勝(黒駒勝蔵)と言った博奕打ちの存在を
無下にするべきではない、との有用な示唆が含まれていた。
しかし残念ながら、今日武州一揆は「民衆の抵抗」や近代の「民主主義獲得運動」の関係でもっぱら語られ、
そこに博徒が介在した点はますます薄くなってきている。
山中氏は、それが大事と気づいておられた稀有な方だ。
- 1580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/02(土) 12:29:41.90 ID:5c4HgDzEh
- Yakuza Wikiがすごい勢いで更新されている。
更新というより開拓といってもいい。
はじめはどこかの好事家がやらかしてるんんだろ、くらいで思っていたが、
最近のは、その知識量が前代未聞だ。
文句なく凄い。
現代任侠(やっぱりここは"やくざ"と言うべきか)の情報なんて
逆立ちしても対抗できない。
全体からして自分など足元にもおよばない。
(任侠研究者全員を見渡しても、多分ただ一人しか、同等の知識を持つ人はいないだろう)
とにかくすごいことが起こっている。
- 1581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/02(土) 23:21:01.50 ID:5c4HgDzEh
- 大前田栄五郎は、まあ誰でも知ってる(ここを見る人間なら)だろう。
むろん「歴史人」に書かれた与太記事なんて誰も信じたりしないと思うが、
地方地方で聞かれる逸話や、残った手紙史料、それに浅田晃彦さんの抜群の研究を
読めば、やはり超大物だったことがわかる。
幕末期の東西きっての大横綱にあたる侠客が田島栄五郎その人だ。
しかし、その勢力伸長に一番寄与した、弟分の福田屋栄次郎事関口栄次郎のことは
地元前橋ですら主だった研究が無く、まして栄五郎のことを食い扶持にするような歴史家が
触れるようなこともない。
栄次郎こそ実史料に富み、目明し頭としての動向が追える人物は、そういないのに。
同様に白銀屋文七や、駿河の安東屋辰五郎(辰之助)も、惜しくも注目される度合いが少ない(まるで無い)。
- 1582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/02(土) 23:33:52.76 ID:5c4HgDzEh
- 安倍川を渡って、階段で高く昇って、川を見下ろすような寺院。
ほとんどの墓は改装されて古いものは残っていない中で、岡っ引き頭
安東屋辰之助のそれは子孫の方が丁重に残しておいてくれていて、
詣でた時は、かかっていた霧と相俟って、涙が出そうなほど嬉しかった。
正直兄の安東文吉以上に立派に見える造りだ。
「公」の侠客として、安東辰五郎は史料中にかなり多く名を出す。
地元が本腰で調べれば、きっとたくさんのことが明らかになるだろう。
- 1583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/04(月) 20:48:26.32 ID:IUUkKBjut
- このスレッドだと942に書いた、東京都東大和市の『里正日誌』(十三巻)明治6年の
神山栄五郎の動向は、短いながらも渡世人(旅人)のあり様を今に伝える好資料だ。
渡世人は方々の親分の家を訪れて路銀を頂き、あるいは一宿一飯の世話になる。
これを続けることで最北端から最南端まで日本列島を旅して回れたわけだ。
何のために、と言えば多分己の修行のためか?もしくは「そういう存在」だったからだろう。
生涯を旅に費やすのが任侠道の一つの在り方だったのだろう。
- 1584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/04(月) 21:11:28.80 ID:IUUkKBjut
- ただ、平べったい言い方だが、これは、言い換えれば、山間部や過疎地域の奥地まで「宿泊施設」が備わっていたという風にも言えるだろう。
そして今日、道路は舗装され、国民の末端まで乗用車がいきわたり、結果的に比較的自由に旅行が出来ると思われており、
ーさらに最近ではアウトドアな生活が流行っていたりするが―
では、このおかげで日本の至るところまで足を延ばせるようになったか?と言えば、
間違いなくNoだ。
むしろ明治以前、それこそ渡世人・任侠者・博奕打・博徒・遊び人・ヤクザ者(何と呼んでも結構)が
一宿一飯の名の元に、各地を旅して回った時の方が、
絶対に人々は列島の奥地にまでアクセスすることが出来ていたに相違ない。
車社会があるゆえに、次の宿泊地(町)までたやすく行けるのだから、何も峠に宿や茶屋がある必要はないのだ。
だから、今日、かつては茶屋や小店のあった峠には、今は何もないだろう。
同じ理由で山間の小集落は消えたし、下手をすれば「道」自体が閉鎖されてすらいる。
地図に無い道は、今日では既に「行けない」場所だ。
- 1585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/04(月) 21:31:43.24 ID:IUUkKBjut
- 竹居の吃安の十人衆に
鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎(政右衛門)
なんてのがいるが、「鶯宿(おうしゅく)」、「上芦川」なんて地図で見てみればわかる通り、
本当に山の中、今日では人も通らぬ道だ。
でもここに貸元がいて居を構えていたわけだ。
上芦川の政右衛門は、通称を「人斬り政右衛門」。
言い伝えでは、政右衛門は、「おりは」の夫だったと言う。
(他にも「永井村新助」が夫だったとも、はたまた「御殿の伝蔵」がそうだったとも多節ある)
政右衛門が人を切るときは、散々相手に譲歩して、相手が図に乗るまで待ち、ちょうどいい頃合いになると
ちょっと笑顔を浮かべて、顔色も変えず、一刀のもとに斬り殺したそうだ。
慶応年間、役人につかまったが、唐丸駕籠で運ばれる途中、スズメバチの巣を誰かが突っつき、
それに役人が怯える中一目散に逃亡した、
とか言う話が残ってる。その後は不明。
- 1586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/09(土) 19:15:01.88 ID:Jl55j317O
- また喜之助さんの墓写真をわざわざ上げてるバカがいやがる
子孫の方が、自分の日記にすら画像を上げなかった理由をちっとは考えてみろよ
- 1587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/10(日) 08:12:17.84 ID:xsZoAKk8H
- 上であげた上芦川の人斬り政右衛門の逸話は
松尾四郎の『竹居の吃安』ならびに『境川村誌』にある。
- 1588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/10(日) 21:40:14.98 ID:xsZoAKk8H
- 武州入間郡二本木村には、江戸末期から二本木一家と言う老舗があり、
地元では「森田の親分」と呼ばれる侠客・安太郎のすばらしく立派な墓石がある。
施主は二代目を継いだ安太郎弟の庄五郎で、庄五郎の墓石もまた立派なものだ。
ところで伝承や、書き物ではここに「二本木の多喜蔵」という親分がおり、彼は
慶応2年6月の武州一揆の頭取として活動したとされる。
とくに一揆が引又(志木市)へ到達し、川越藩の私兵と対峙した際には、旧知の侠客・南永井の新次郎らに対し、
談判を行っている。(新次郎らはこの時、川越藩側について一揆勢と戦った)
これが単なる伝承の類でないことは『武州一揆史料』に確かに「二本木無宿滝蔵」という人物がいて、
捕まっていることからもわかる。(その後の処遇は不明)しかも「博徒安五郎弟」とあり、
二本木安太郎の「弟」であったことになっている。しかし実際に記載された年齢は当時の安太郎より上であり、
つじつまが合わない。しかも安太郎の墓域にも系図にも滝蔵(多喜蔵)などという人物はいないし、
子孫の方も聞いたことが無いとのこと。
- 1589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/10(日) 21:51:28.33 ID:xsZoAKk8H
- 二本木村は、いわゆる日光脇往還・千人同心街道(八王子千人同心が日光の警護のために往来する街道)
に位置している。「宿」と呼ばれることもあるが、問屋場や本陣、助郷村があったのか、ちょっとわからない。
(なければ、一応「村」である)
ただ古くから人の多く住んだところであることは確かで、「谷合氏見聞録」に元文4年(1739)
裏宿の七兵衛(青梅の伝説的盗人・侠客)が捕まった際に、同類として「二本木の庄助」というのが
出てくるくらいだから、元々その類の人物が輩出される土地だったのだろう。
- 1590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/12(火) 22:08:27.24 ID:03WIxrK9C
- 信州岡田村の滝蔵は、幕末期の信州を代表する任侠親分である。
この岡田村を筑摩軍岡田村(現・松本市)とする向きが多く、『長野県警察史』なんかは
そうしているが、
実際には更級郡岡田村(現・長野市)の方が正しい。共和とかあの辺だ。もともとは
「岡田焼」という陶器で有名な場所なのだと言う。
滝蔵の動向に関しては『東海遊侠伝』や『相之川又五郎』が有名だが、
異色なものに役者の三代目中村仲蔵の記した『手前味噌』がある。これは滝蔵の飾らぬ様態を示す
好著である。
が、同時代の記録として絶対に外せないのは国文研の「真田家文書」に蔵された嘉永2年の
「無宿滝蔵追払後中野役所横行ニて公辺御伺一件」という古文書である。
内容はかなり彼の真実に迫るもの(と言っても嘉永2年なので、前半生だけ)、
ただものすごく長く、繰り返し表現が多いので、難物ではあるよ。
- 1591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/12(火) 22:20:15.58 ID:03WIxrK9C
- さて、このコロナの収束時期に当たって、入館の際にチェックシートをやらせて、
その中に大真面目に職員が「本日体調に不調はありますか? ある/ ない(「ある」の方は申し訳ありませんが
ご入館をお控えください)」というアンケートをやらせる館は、
文句なく「何も考えていない博物館(郷土館)」である。
いわゆる上からの「やってる感」だけ。
またそういう館に限って、理不尽に急きょ閉館したり、資料閲覧を断ってくるが、
それも全部理性ではなく、
上の「やってる感」を補強するためだけである。
現代日本だから、まあ潰れることはないだろうが、みんな職員(非正規・バイト含めて)
死んだ目をしていらっしゃること。
もちろんこういう処の研究は「当たり障りない」程度。
職員が飛び込んで行って本当に必要な民俗や、歴史的特徴なんか誰もやりはしない。
もちろん地域の任侠研究なんて、やるはずもない。
規則でがんじがらめにしたら、人文学の研究なんてできるわけないだろう。
研究(探求・探訪と言い換えてもいい)の基本は「遊び」「好奇心」である。これは絶対。
- 1592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/14(木) 23:03:26.36 ID:Sp/K9nChB
- Yakuza wikiに野田一家の項が立ち、それを見ていくと、
津島伝右衛門という人が祖として出る。さらに
野田盲重、
起喜右衛門と続く。
伝右衛門は元相撲取りの親分、野田と起は、愛知、岐阜のそれぞれ村名で
起(おこし)は宿だったはずだ。
保下田の久六は、実はこの起とは縁の深い人で、母親がここの出生で、久六自身も
「八尾ヶ嶽宗七」の名で相撲取となるまでを、この近辺で過ごしている。
だから、この辺りの任侠のことは非常に興味深い。
それにしても津島伝右衛門、盲重、まして喜右衛門なんて、、、知らなかった。
まったく見識には度肝を抜かれる。とともに、やっぱり起や一之宮近隣の任侠史料研究・探訪は
絶対にまたやりたい。なんとも素晴らしくいい風土の場所だ。
なお、古文書読解で、かならず誰でもお世話になるかの碩学・林英夫先生は、
起宿の宿役人の家の出であられたはずだ。
資料館だかに行ったときそう聞いた。
- 1593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/15(金) 00:51:30.22 ID:ogPiD+BD0.net
- さあ、一緒に語ろやないか
【昭和極道史】村上和彦総合スレ【修羅の劇場】
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/rcomic/1377447075/
- 1594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/15(金) 00:51:30.23 ID:ogPiD+BD0.net
- さあ、一緒に語ろやないか
【昭和極道史】村上和彦総合スレ【修羅の劇場】
http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/rcomic/1377447075/
- 1595 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
- 2ch.netからのレス数が1000に到達しました。
- 1596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 22:39:10.63 ID:NzEN0WHC7
- 秩父の新井佐次郎という人は、元「秩父新聞」の編集長を務めた人で
多産な作家。非常に面白い本をいっぱい書いておられる。といって1924年の
お生まれだから、もうご存命ではないだろう。
『秩父西谷老譚』や『秩父事件の妻たち』なんかはとても面白い。
「退職して暇になったから、一丁郷土史でもやるか」と言って
江戸時代の風土記や、既存の研究本を丸写しにする輩とはまるで違って
オリジナルに「自分の記録して伝えたい」ものを書く、というスタンスの本当の郷土史家だ。
秩父事件に田代栄介に代表される「侠客」が多くかかわることは、今日ではよく知られている。
しかし、秩父に生まれ、秩父の歴史を調べ、しかも筆も研究眼力も優れた新井氏に
よれば田代はいわゆる「博徒」ではなく、これはその時期(明治17,18年)丁度
行われていた博徒狩りを利用した監理の策略だとしている。
- 1597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 22:50:01.38 ID:NzEN0WHC7
- これが実際に官吏の策略で、田代を「博徒親分」に作り上げたのか、
いや、実際に田代は「博徒親分」だったのかは、
決着はつかないだろうが、
(私個人としては「博徒親分」だったろうと思う。甲州宇津ノ谷の伝右衛門の様に「名主」で「親分」と言う人は多いから。)
氏は天下の長谷川昇氏の『博徒と自由民権』にも「秩父事件の頭=武州博徒」としている点に攻撃(批判)を当てている。
しかし、この批判も上に書いたように、筆の立つ、しかも地元を隈なく知っている氏のものなので、
「なるほど」と思わせるのである。
だが、それを置いておくとしても、むしろ端役として、管理の側に立って、事を収めようと腐心した
玉川金三郎(仲金三郎、仮名・中敬助)や浅見岩吉の動向や博徒酉蔵(小林酉蔵)のことを、サラッと当たり前の様に
出すあたり、秩父を完全に抑えている人の凄みが出ている。
今日、地元でも田代栄介=博徒親分となっているが、新井氏が言うのなら、一考の余地があるように思えるのだ。
- 1598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 22:55:56.83 ID:NzEN0WHC7
- ながなが書いてしまったが、本題を言うと、
新井佐次郎氏の一番すごい書き物は、『埼玉史談』に昭和52年(1977)に書かれた
「秩父事件と地芝居」(『埼玉史談(第24号、2号)』であると言っていい。
これは凄い。
しかも他の本に収録されていないので、その号(第24巻、第2号)を見るしかない。
東京都府中市の比留間一郎氏の書き物(「論文」などと言うと失礼だ)以来の
すげえなこれ!と思う書き物だ。
本当に昔の研究には、たまに凄まじいものを見せつけられることがあり、頭が下がる。
- 1599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/16(土) 23:11:26.65 ID:NzEN0WHC7
- 昔、子母澤寛は彰義隊か、何かの小説の中で、「下手に学のある人間は土壇場で意気地が無い」とか言う
台詞を書いていたが、その通りだろうと思う。
今日、大学に入って、学士、修士、博士と進んだ人は、その過程を終了するのが如何に苦しいのはわかるが、
それゆえに「自分の興味が向く研究」などはできず(やらず)、もっぱら世間や恩師を通じた「学問世界」が認可する
研究をやらざるを得なくなるようだ。
まあ、収入とか考えれば仕方ないのだろうが。
そんなだから、結局、学歴の高い先生方より、「興味・情熱」だけで動く一般の研究者(道楽者?)の書き物の方が面白いし、
各段に有用、後に残るものとなる。
だからまあ、つまり、1152で言った、足を使って調べて世に出す(何の得もないだろうに!)植田憲司氏の様な
人がいてくれることは、これは日本の歴史全体にとってすさまじく幸運なことなのだ。
- 1600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/19(火) 23:23:55.00 ID:Sir2ePkkx
- 東京都武蔵野市の『武蔵野市史(続資料編十、境・秋元家文書)』(武蔵野市、平成一七年)
の中に、「関野新田陣屋三之助 並家内一同乱防人覚」という史料が掲載されている。
慶応三年七月のものだ。
三之助の養子菊五郎(小川村力蔵の忰)、境新田の留五郎(鍛冶留)、同村長蔵(後の新橋長蔵か?)
の三名の若者が素人バクチで「いかさま骰子」を使ったのがばれて、土地の若衆に
袋叩きにあった。(この時三人は刃物を抜いて応戦したようだが、多勢に無勢、散々な体で取り押さえられた。)
これで事が終わるかと思いきや、若者たちはエスカレートして、三人の保護者に当たる
陣屋三之助に「一言、詫びをいれろ」と強気な姿勢に出たのである。
元・道案内の田無の辰五郎は「これはまずいことだ」とすぐに事の鎮静化を図るが、若者衆は聞き入れない。
結局彼らは数を頼んで、関野新田にある陣屋(もと、代官の「陣屋」を三之助一族が受け継いだ)へ押し寄せたのだが、
そこには三之助はおらず、その娘だけがいて、要領をえない。
- 1601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/19(火) 23:31:24.65 ID:Sir2ePkkx
- 三之助はこの時「上石原」に借家していたそうで、若者衆は使者を遣わし、
三之助からの「わび状」を得ようと、しばらくそこで待機したのだが、これが裏目にでた。
「断る」との「破談の一言」が戻った使者の口から伝わる間もなく、
当の三之助が鉄槍、脇差、さらに種子島(銃)で武装した一団(五十三名)を連れて、若者衆の前に現れたのだ。
これを見た若者衆は自分たちが「やりすぎた」ことを悟ったが、後の祭り。
そのまま「杵築大社」の境内まで追い詰められ、「明日をも知れない」状況に追い詰められ、集団で震える他ない状況に追いやられる。
- 1602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/19(火) 23:46:26.72 ID:Sir2ePkkx
- さて、この事件を聞きつけ、田無寄場の道案内(岡っ引)、万吉、元吉、源蔵らがすぐ
駆けつけるが、相手は武闘派の陣屋三之助、一筋縄ではいかぬ。
ここで、一計あったのか(それとも折よく向こうから来てくれたのか)三名の仲裁人が入った。
共に上連雀の人で、「八十八」「梅五郎」そして「嘉助」だ。
とくに「嘉助」は、かの伝説の「連雀の嘉助」
この三人に道案内の説得を受けて、三之助は若集の身を開放し、代わりに博奕の貸し賃を返済させて、
一団ともども去って行った。
ちょうどあと一年で明治になる時期の、多摩地域の一村での出来事である。
ここからは、親分小次郎の帰還まで、縄張りを守りつづける必要があった三之助一党の武器の準備
と実力。素人衆であったとしても(素人衆なればこそ)舐められてはやっていけないという気迫。
道案内(公の警吏)にも対抗できる武力集団であること、などが如実にうかがえる。
加えるに古強者「連雀の嘉助」の威光も伝える好資料である。
嘉助は、かの「二つ塚の喧嘩」に参加した人物。そしておそらく・・・石井姓ではないだろうか。
無念にも全く史料がなく、墓石も見つからない。逸話の類もない。
唯一、宍戸幸七氏の書き残された『三鷹の歴史 江戸時代から昭和中期にかけて』(けやき出版、2006)には
「馬喰であった」と記されている。
- 1603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/29(金) 22:50:14.78 ID:nsneUVDYp
- 川越の幸町、蔵造りの家々が並ぶ、観光地となった今では一番繁華な
路沿いの「うんとん処」あるいは「金笛醤油店」の一角が
かつて「枡木屋」といい、
枡木屋三之助(仙之助だったか?)、鶴松という人(父子だろうか)が住居していた。
両者とも川越目明しを代表する頭で、結構ながく活躍している。
姓は小川。
この枡木屋というのは、川越領では結構広く店を構えていたようで、桶川にも
枡木屋太郎吉という目明しがやっぱりいた。そして川越の枡木屋と桶川の枡木屋は
互いに情報交換をしていたようだ。
三之助・鶴松は史料は多いわりに墓石の場所や子孫の有無がまるでわからぬ。
なにより川越において、その名が全く伝わっていない。
もっとも「川越目明し」の研究自体まったく無いというのも問題なのだ。
- 1604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/10/29(金) 23:03:28.58 ID:nsneUVDYp
- 関東取締出役が文化二年に出来て、領界関係なく犯罪者逮捕に踏み切れるようになったうえで、
それを円滑に用いるために、関東には改革組合村という、村ごとの連合組合が
出来るわけだ。
近場の村40〜50ケ村を、「寄場(=一番利便の良い村、あるいは宿)」を中心に一つの組合村にまとめ、
その上でこの組合村を関東取締出役に統括させた。
これにより出役は一々村に出向かずとも寄場の役人(惣代)の元を訪れることで、40〜50ケ村の様子を
確認することが出来る様になったのだ。
しかし、川越藩は少し変わっていて、自領をこの改革組合村に編入させることを拒んだ。
代わりに多少離れていても自領だけで、川越藩独自の組合村を組ませた。
この組がどういう村によって、いくつに分かれていたのかはいまだに史料の欠乏もあって
よくわかっていないのだが、
川越藩が、この変則的な組合村の治安を維持するために、土地の顔役を「目明し」に
採用し、種々興行権を与える代わりに、その地域の安定を任せたことは事実である。
もちろんここで目明しに採用された者は、地元の侠客たちである。
- 1605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/03(水) 22:06:28.36 ID:rW2gpbt91
- 私など幼年期には、当然携帯やスマートフォンなど無い訳で
今の10代、20代からしたら「どうやって生きてたの?」と聞かれそうなものだが、
その頃上に見ていたお兄さん、お姉さん方もそんなものなくても十分生き生きと
次代の最先端を生きていた。
つまり、機器がなくったって十分充実した、掛け替えのない最上の時間を人間は生きれるのだ。
ただ転換期というのはあるもので、そこでより良い(と思えるような)技術や機材・発明物に
乗り換える、というのは時代の常である。
紙の出現や、あるいは書き文字の出現、そして「書き文字の学習」なんかが生まれた時は
まさにそうで、「そんなもの、俺はいらねえや」という人間も多くいただろうが、
「次の世代を生き延びていくために必要だから」と無理強いして学習させられた者もいたのだろう。
- 1606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/03(水) 22:23:25.63 ID:rW2gpbt91
- 江戸時代は、かなり早い時代に寺子屋が村落に生まれ、農民でも文字を読む学習を
することが出来るようになった、というが、
やはりお百姓は田んぼや畑を耕すことが主であり、あるいは馬を飼ったり、家畜を
育てたりであるが、つまり必ずしも文字を必要とはしない。
それでも有ると当然便利であり、実用だけでなく、やがては娯楽(歌や詩、物語、恋文、日記など)
にもつながる、かなり万能なツールであったわけだ。
これは当時の身分制度とは、全く比例しないというのも重要で、
たとえば、村の治安を守る「非人」からなる「番人」などは、文字を使って犯罪者の逃走経路や
人相、注意すべき点などを情報共有していた。彼らには「文字の読み書き」という技術は
必須であり、それゆえある種の非人は農民よりも早くにそれを習得することを必要とした。
その様にして文字を書く能力を獲得したり、あるいは村落の治安のために振るう武芸を磨いた人々が
ただ生まれ落ちた場所、というだけで差別の対象となってきたことは、どう贔屓目に見ても
江戸時代の悪習である。
そういう意味で刮目させられるべき凄い史料は、やはり
埼玉県の部落問題関係史料集『鈴木家文書』(埼玉県同和教育研究協議会、1977〜)である。
これを刊行した人々には本当に、いくら敬意を表しても足りない。
(なお、この史料には大前田栄五郎の手配書も出る。)
- 1607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/03(水) 22:35:53.90 ID:rW2gpbt91
- ところで、大前田栄五郎が、初代・相ノ川政五郎とのいざこざから「勝五郎」
と名を変え、「尾張の久六」親分の元で庇護されていた時期を、桂玉の話だと
「42歳」の時と記している。つまり天保6,7年ということになる。
保下田の久六は、この時代、まだ「八尾ヶ嶽惣七」にすらなっていないので、
当然「久六」であるはずがなく、
大前田栄五郎をかくまった「尾張の久六」という親分(非常によくできた人)は
保下田の久六とは別人ということになろう。
あるいは、この「尾張の久六」親分の後を継ぐと言う意味で、惣七(宗七)は
「久六」の名を頂戴したのかもしれない。例証することはかなり困難であるだろうけど。
- 1608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:07:17.70 ID:w1BPUIVEE
- 小金井小次郎子分の「矢端の藤蔵」について、ようやく少しわかった。
どうやら本名は高橋藤次郎である。別に藤五郎、藤蔵とも名乗った。
上でも書いたが、安政3年の古文書だと親分小次郎が遠島になった後の賭場を守り、
その上がりを義理堅く小次郎の元へと送っていた。
しかしそれほどの位置にいながら、その後表立って自分の勢力を拡張した様子もなく、
盛名を聞かない。
盛名を聞かない、ということは、要するに目立つような暴力行為や賭場荒らし、勢力抗争を
しなかったということなので、翻って「よくできた人」だったということになるだろうか。
- 1609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:18:01.88 ID:w1BPUIVEE
- 三鷹の牟礼というところにある名刹真福寺には、境内にバカでかい(失礼…立派な)題目塔が建っている。
これは天明5年(1785)に多摩川の大氾濫が起きて、多くの人命が失われたことから
ここの住職が法要を初め、二十代目の日真さんは天保5年(1834)に職について初めて法要に加わり、
そこから50年目の明治16年に「50回」を祈念して、この題目塔を建てたのだ。
これを建てるに当たり、寄付を募るのに尽力したのが藤次郎、すなわち矢端の藤蔵だった。
だから彼は多くの人名が刻まれる台座の真っ先に「篤志者」として名を入れている。個人でも金五円、無縁の人々のために
出している。そして台座に多くの高名な侠客が名を出すのは、藤次郎が働きかけた故だろう。
圧巻なのは藤沢幸平こと江古田の幸平の名があることで、
その他にも中野の江川平吉、境村(新橋)の谷合長造、小島分の杉山米吉、野崎の岩城藤五郎、高井戸の
鈴木勇次郎(饅頭屋)などの名前が、名主や村の有力者と共に台座に見ることが出来る。
極めて貴重な史料である。
- 1610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:24:27.06 ID:w1BPUIVEE
- さて藤次郎の墓は、地元の墓所にも菩提寺にもない。
一族がひょっとしたら絶えてしまったのかもしれない。しかし、この題目塔には16名の人の
戒名が記されており、おそらくこれは50回を記念して
あるいは親族の供養、あるいは逆修(生前に戒名をもらい法要すること)として
戒名を入れてもらえたのだろう。
よって、法要を行ったその日(明治16年、3月5日)、
まさにその日に法要をされている「浄山信士」(たったこれだけのシンプルな名!)
、この人こそが藤次郎本人であると考えたい。
- 1611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:25:30.16 ID:w1BPUIVEE
- 「…鈴木勇次郎(饅頭屋)などの名前が、」→「…鈴木勇次郎(饅頭屋)などの名前を、」
に訂正
- 1612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:36:27.04 ID:w1BPUIVEE
- ところで、皆木繁宏氏はこの「矢端の藤蔵」を「八幡の藤吉」と同一人物である、
としている。どういう根拠があってそう主張するのかはわからないが、皆木繁宏氏が言うなら
まず、そうなのだろう。(なにしろ昭和40年代に、彼は聞きとり調査をしているのだ。今の自分のような好事家には
もう手も出ない時間差で情報を入手しておられる!)
八幡は当然、「府中八幡宿(現・八万町)」
この「八幡の藤吉」という人は実在の人で六所宮(大國魂神社)神主猿渡家の日記の中にも
博奕打として名が現れる。(弘化2年あたり)
更には子母澤寛が『国定忠治』の中で藤屋万吉の代わりとして登場させている。
本当に矢端の藤蔵が八幡の藤吉かどうかは、今のところ確証は見つけられない。しかし
藤次郎が小金井小次郎遠島後に縄張りを守ったと言うのなら、遠い矢端から府中宿内の八幡宿へ移住していたことは
十分にありえる。
それよりも大事なことは、これほどの下働きをしながら、この人は自分の名を後に残すような
示威行動をしなかった、という事実だ。いろいろあるだろうが、やはり矢畑の藤蔵は一廉の人物だ。
- 1613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/06(土) 21:48:23.84 ID:w1BPUIVEE
- 今初めて、「変換」の関係から「矢端」と「八幡」が「ヤワタ」で重なることに気づいた。
まさか皆木先生、これで藤五郎と藤吉を同一人人物視したのでは・・・ないですよね?
- 1614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/09(火) 23:48:56.49 ID:daPINxzb+
- 東京都町田市相原の「大戸(上相原村とも言った)」には、上でもいくつか書いた
大戸の万次郎の供養碑がある。
明治九年、施主は子分(弟分?)だった藪柑子こと、八木幸次郎。
万次郎は別に下川尻の万次郎、通称「船萬」とも「砂萬」とも呼ばれ、
子分に日連の伊之助や荻野の佐吉を持った。(佐吉は荻野陣屋焼き討ちで知られる鈴木佐吉な)
子分連が強盗を働いたため(あるいは万次郎自身もか)、明治四年あたりにつかまり、
流刑先で亡くなる。明治9年。墓はないが、この供養碑だけがある。
大戸一家と呼ぶべきか、川尻一家とよぶべきか、それとも跡を継いだ幸次郎の居住区から
中沢一家と呼ぶべきか、いずれが正式かはわからぬし、いずれ小勢力であるが、
黒駒勝蔵子分らが橋本宿の平野屋亀吉の所に厄介になり、ここに仲間を引き連れてこようか、
と言う時に、この万次郎が先頭に立って平野屋と出入りをし、結果的に、この介入をふせぐ。
だからやったことの大きさは相当評価に値するものなのだ。この敗戦から黒駒の子分らは平野屋らと船で
伊豆へ逃れていったと言う。
明治に入って、小仏の健次郎は、「国定の子分たちが武州に入って来るのを、八王子近くの任侠が協力してふせぎ止めた」
との逸話を三田村エン魚に語っているが、健次郎の年齢からすれば、これは「国定の子分」ではなく、
「黒駒の子分」の方が正しいだろう。あるいは、この時の万次郎の出入りがそれなのかもしれない。
- 1615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/09(火) 23:55:18.51 ID:daPINxzb+
- 大戸の万次郎と橋本&黒駒の党の喧嘩は慶応2年4月10日のこと。
場所は今のところ不明。
- 1616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/10(水) 23:02:40.25 ID:QwG0VeZDk
- 信濃音五郎は長野県小海町の侠客で、上にも挙げたような里謡が伝わる。
黒駒勝蔵の兄弟分で、『東海遊侠伝』に文久元年、二年に「勝蔵が甲信の境にとどまって周辺で略奪をしている」
と書かれた時期には、この音五郎の所に厄介になっていたのだろう。
他にこの時期、黒駒の一党が潜伏したと、候補にあがる地は、若神子の弥十一家や宮之脇一家、上手一家。あるいは信州斎藤一家。
一方でこれを追い散らしたのは稲荷山に移住していた目明し・岡田の瀧蔵。
小海町史には信濃音五郎の本名(別名?)なども書かれていたが、追跡調査はまるでなく、ここでも
すでに当時の古文書群(とくに日記、「五郎兵衛日記」)などは散逸してしまい、
もう無いとのこと。
(だからそういうの、町史や市史が終わったからと言って、やたらに亡くしてしまうなよ。
お願いだから。いくらでも頭下げるから、見せてよ。)
- 1617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/10(水) 23:33:10.60 ID:QwG0VeZDk
- 市町村で持ってる古文書が「閲覧不可」というのは、まあ腐るほどある。
「まだ見せられる状況ではない(修復・裏打ちをしていない)」なんて、よく聞くが、
そういう所は、「十年前もそう」、そして「十年後もそう」なのである。
ましてヌシみたいに居座ったバブル時代からの遺産のような学芸員がいる場合、
「ウチはそういうサービスはしていません!」なんて一声もよく言われる。
だけど、これで退がっちゃうと、相手の思うつぼで、一生その史料はみれないと思う。
かといって、突貫しようとしても
ダメなときはダメだ。(それでも、やらないよりはいい。)
だから、何かを求めようとする時はある程度、対立を辞さない、としなければならないときがある。
それをすると、後になって、「如何にも自分が理不尽な奴」と自分を責めるときもあるし、
他からも煙たがれるが…
かつてイギリスの演劇演出家ピーター・ブルックは、「善意的で寛容な人間には、何も生み出せない」
との名言を残したが、
その通りで、
時に「不寛容」であることや「非善意的」であることが、研究者・探訪者・創造者であるためには
ある種、必須な特性であるのだと、私は思う。
- 1618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/10(水) 23:50:03.23 ID:QwG0VeZDk
- これは体制に立って、閲覧希望者を「拒否する」ような「不寛容」、「非善意」ではなくて、
逆に、公に対立してクレームし続けたり、聞き分けが無かったり、
足掻いたり、時に喧嘩腰(攻撃的)であったりといった技法を、「個人研究者」
が組織に対してすることが、(時によっては)大事だということを言いたいのだ。
- 1619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/14(日) 22:08:06.31 ID:o1Cqg1Zvv
- 観音寺久左衛門
- 1620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/14(日) 22:19:05.87 ID:o1Cqg1Zvv
- 7年も前に同じのを書いているな・・・
誰か、ずっと詳しい人が久左衛門について一言書いてくれんかな。
- 1621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/15(月) 22:46:00.56 ID:ZqunVepDw
- さて、久左衛門に関してはネット上で、新潟の教育委員会が出してくれている
「村史こぼれ話」が史料に則った話をまとめていてくれて読みやすく、情報も信が置ける。
全く有難い。
これとは別に、地元の古老に取材して実地で情報を得た貴重なもの(と私は思う)に
「滝沢農園」さんの「新潟侠客史」がある。
久左衛門に関しては、他にも書物、ネット情報、様々あって材料に困らないが、
ひとまず上の二つがいい。
- 1622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/15(月) 23:00:00.12 ID:ZqunVepDw
- 「仕置例類集」には久左衛門の息子の勇左衛門の史実がそのまま乗っていたはずだが、
どこがそれだったか、今ちょっと書付ノートがない。(見つかったらまた書く)
それより「村史こぼれ話」で面白いのは、久左衛門が元々は「飴売り渡世人」を家業としていた
ということ。
この稼業、ただの飴売りのおっさんではなく、裏に広い同業者のネットワークをもっていりる。
初代久左衛門はこの情報網を利用して「目明し」の仕事をし、それが博徒としての勢力伸長にも一役買ったと言う点だ。
うろ覚えだが、この「飴売り」のネットワークがばかにできないと実感させられた読み物に
『信濃国松代藩地域の研究』(岩田書院)があった気がする。五冊くらい出てて全部論文集。
どこかに「飴売り」の論文があり、そのネットワークや利益の出ることに驚愕したものだ。
(思いだしたらまた書く。)
- 1623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/27(土) 21:42:40.05 ID:ftFvgBxZF
- 「素っ裸でも足袋だけは…」
竹居安五郎の記事らしいが、この角田って人は、こんなWikipediaの
まとめだけの出来損ないの文章を、よく人前に晒せるものだな
末尾の「参考文献」すら不十分だというのに
- 1624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/11/27(土) 22:03:36.16 ID:ftFvgBxZF
- 杉浦日向子氏は本当恐ろしい。
簡単なエッセイを手に取って、頁をめくってみても
本当にその時代に生きていた人が飛び出て来たみたいにすら思わされる。
江戸時代の知識が五体に沁みついた人が切々と眼前で語ってくれるような錯覚を覚える。
一方で現代漫画家としての才能(これは我々の時代の人として)も抜群で、
凄まじく取りまとまった短編を残してくれた。
もうこんな人現れないんじゃないだろうか。
残してくれた作品を、本屋で見る度に買い、家に帰って読むたびに新しい知識と
新鮮な驚きと、新たな学問的切り口の端々を教えられる。
ほんとにもう圧倒的にすごい。
- 1625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/02(木) 22:58:48.89 ID:NrrJjYUq3
- 大黒屋光太夫は文政11年(1824)に亡くなるわけで、
江戸では後期の始まりくらいになる。
別段「侠客」であったわけではないが、彼の生き様はちょっと類例がない。
もともとは伊勢の廻船問屋だが、嵐によって漂流してロシヤへ着き、そこで過酷な運命を生き延び
ラックスマンの協力のもと、後年、エカチェリーナ二世に謁見して帰国がかなった、
という奇跡のような人生を送っている。
途中異郷で仲間たちが死んでいくわけだが、光太夫は生き延び、上の様な帰国を勝ち取る。
彼の生涯は当時(江戸時代)から話題となり、以降、多くの書物に書かれたわけだが、
やっぱり凄いのは
井上靖の『おろしや国酔夢譚』だろう。(吉村昭先生の方が事実には近いらしいが、これは次点とし、ここは井上を採りたい)
さて『おろしや国酔夢譚』、原作も素晴らしいが、「映画」もまた良い。
といっても、ほとんど最後の場面での俳優の妙によるのだが、
緒形拳の扮する光太夫が、ようよう叶ったエカチェリーナ二世との謁見で
「そなたの国の歌を歌ってみて欲しい」との要求に答え、歌を「吟じる」場面、そこに全てがもって行かれるのだ。
(このエカチェリーナの要求や、それに答えた場面は原作には無い)
「なごりおしや、さらばよと、言うよりほかは涙にて・・・」
とにかく緒形拳の演技が凄すぎるのだ。このわずか3分ほどの場面で、この映画のみならず原作、
ひいては大黒屋光太夫の存在が、印象をもって残るに至ったと言っても過言ではないだろう。
- 1626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/03(金) 23:38:31.25 ID:PAVyrGqqm
- こりゃあすげえ戒名だ、という博奕打ち親分の墓石を見つけたりすることが
続いているが、どこの誰それさんで、苗字は何。まして戒名を書きつけたりすることは
さすがにここではできんので、それは一寸残念だ。
- 1627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/03(金) 23:43:38.91 ID:PAVyrGqqm
- 普通墓石の戒名に「侠」とか「奕」とかは入れないものだ。
また、明らかに「勇猛」とか「義理」が間に一文字入って離れていてもそれだとわかるような
戒名も多々ある。昨日見つけたお墓は、「博奕」の二次の間に「雲」が入っていて、
さらに「道」と続く。(これはほぼ言ってるようなもんだな)
なんて洒落た親分の戒名だろう。本人がつけたのか、施主が付けたのか。それにしたって豪儀ってものだ。
- 1628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/05(日) 22:22:59.55 ID:3gKZ/Q7vH
- アメリカの小説家マーク・トゥエイン(本名サミュエル・クレメンズ)は
1835年生まれ。日本で言えば天保6年だ。亡くなったのは1910年だから明治43年だって。
(黒駒勝蔵が1832年の生まれだ)
『トム・ソーヤ―の冒険』なんかはアニメにもなっているので、日本では児童作家のように思われてるかもしれないが、
とんでもない。
『ハックルベリー・フィンの冒険』なんかは、笑いも交えながらすごいシビアな内容が書かれており、
やたらに人が死ぬし、他殺体は川上から流れてくるし、撃ち合いでの殺人も多数描かれる。
ハックと黒人逃亡奴隷のジムが「自由州」を目指してミシシッピ川を
筏で流れてゆくなんて主題自体が、藩領を逃亡して幕府領へ逃げる無宿のそれを彷彿させるし、
そのまま男伊達を売る「Man(侠客)」なんてキャラクターも登場する。
トゥエイン自体、決闘騒ぎから州を経て逃走してきた、という履歴を有しているのみならず、他の
短編にはまんま「博徒」を扱った作品も多々存在する。
洋の東西を問わず、博徒・侠客と呼ばれる同じような種類の人間が、同じ時代に存在していたことは、
本当に興味深い。
なお、トゥエインの文はヘミングウェイに言わせると、アメリカ文学全てのお手本とされる文体、とりわけ
『ハックルベリーフィンの冒険』はその最高峰なんだと言う。
- 1629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/07(火) 19:25:16.98 ID:vvlYyArzl
- 現代語訳 勤王侠客 黒駒勝蔵
橋 修(著/文)
発行:敬文舎
紹介
富士急行グループの事実上の創業者であり、政治家で文筆家でもあった堀内良平(1870〜1944)が、
故郷山梨県黒駒村出身である勤王侠客 黒駒勝蔵の、謎に包まれた生涯を著した『勤王侠客 黒駒勝蔵』を、
東京女子大学教授の橋修が現代語訳。勝蔵とは、いかなる人物だったのか? 清水の次郎長との関係は?
勝蔵の謎に包まれた死の真相とは?
堀内良平の綿密な調査に基づいて、勝三の生き方・死にざまをわかりやすく現代語訳した一冊!
目次
前記
甲州の生んだ勝蔵
本記
大侠の生い立ちを見よ
勝蔵を立ち上がらせた動機
大侠一躍檜舞台へ
情義に生きた勝蔵
問題の人 石原先生
大侠は大侠を知る
颯爽たる勤王武士
後記
信念に殉じた生涯
黒駒勝蔵を弔う辞
解説・年表
著者プロフィール
橋 修 (タカハシオサム) (著/文)
1971年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了、博士(文学)、
東京女子大学現代教養学部教授。
主要著作は、「西保周太郎」「黒駒勝蔵」
(高橋敏編『アウトロー―近世遊侠列伝』敬文舎、2016年)、
「特撮映画技師 松井 勇 伝
―日本映画界最初期の特撮技術の開拓者(一)(二・完)」
(『東京女子大学紀要「論集」』69-1・69-2、2018・2019年)、
「引札の様式論的考察―国立歴史民俗博物館蔵『懐溜諸屑』
と大阪歴史博物館蔵コレクションの比較検討を中心に」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』222、2020年)
などがある。
- 1630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/11(土) 00:02:19.69 ID:hPWPCDMxq
- 春は馬車に乗って
@jounalduvoleur
·
12月9日
地方の図書館は何をやらせてもダメ。
駅から遠い。
蔵書がない。
検索機がない。
職員のやる気がない。
郷土資料のキャビネットになぜか鍵がかかってる。
鍵開けてもらっても当然蔵書はしょぼい。
そのくせお局みたいなババアが訳のわからないルールで邪魔してくる。
↑は全くその通り、ものすごく納得できる。
特に
「郷土資料のキャビネットになぜか鍵がかかってる。
鍵開けてもらっても当然蔵書はしょぼい。」
の個所は全くその通り。
「七千万回”yes”を言い続けたい。よくぞ言ってくれた。
- 1631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 21:53:10.44 ID:OpePIZTCl
- 次郎長子分28人もかなり怪しいものだが、
とりわけ追分三五郎は昔から、神田伯山の創作だと言われている。
しかしこれ追分羊羹で有名な、清水の「追分」を名に背負っているのかとずっと思っていたのだが、
何と今日では、信州追分宿(軽井沢)にされているそうだ。(映画の影響らしい)
でも、これは虎造の語りを聴けば、やっぱり清水の追分としか思えんよな。
- 1632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 22:11:23.75 ID:OpePIZTCl
- 急に思い出したが、
以前愛知の御油へ行った時、生涯学習課(市によって文化財課となってたり生涯学習課
となってたりする)で、御油の玉吉について聞いたら、地元で調べていた方がいたそうだ。
連絡先を伝え、あとで連絡しますと言ってくれたのだが、
もう何年も経つが、ついぞなんも来ない。
(その時は有名な御油の松原の片隅を借りて、一夜泊まらせてもらった)
これから先なにか連絡があるのだろうかなあ。
かと言えば、そういう小さなリクエストでも、律儀に情報をくれる所もままあるから
世の中は面白いものだ。
そういう所(というより人)にはひたすら頭を下げる。
群馬の高崎の学芸員の先生、これは女性の方だったが、ちょっとした電話で質問しただけなのに、
封筒一杯の史料を送ってくれた。
どこの馬の骨とも知れん自分のような者に、この対応。
ありがたくて涙が出そうになったよ。
- 1633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/13(月) 22:27:25.25 ID:OpePIZTCl
- 甲州道中上野原宿は、当然大事な場所。
しかし上野原市史(町史?)も相当に昔に編まれたもので、それ以来
全く地域研究が無い。やや遠いが隣の藤野・相模原市に『石老山』を出してる
すごい郷土史団体がいるが、メインで上野原はやらない。
この地域の古文書類はみんな市役所の文化財課が保管したままだ。
市内(宿内)「赤井戸」には、かつて八郎という人がいた。嘉永年間のことだ。
ここは大工がよく輩出されたから八郎もそういう人だったのかもしれない。しかし、いずれにせよ
この宅に大場の久八が泊まり、匿われていたことは事実だ。ほんの二、三にちではあるが。
後明治になって久八配下(とも言うし、小仏一家ともいう)上野原の伊助という親分が出た。
もちろん地元にのこる逸話・史料はない。
小仏の健治が転居して開いた遊郭があったのもここだ(関山遊郭というのがあったわけよ)。
でもそれもわからない。
本気になって市を再発展させたいのなら、少なくとも古文書史料は表にだし、
市民で郷土の歴史を(博徒・侠客に限らないでいいから)追跡していかなきゃだめだろうよ。
- 1634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/14(火) 07:36:58.65 ID:SEk11IoB3
- 1632はまちがえた。
玉吉ではなく、「御油の源六」の方だ。
なんでも御油音頭というのに「駿河屋源六」という名で出るらしいが、
それ以外はわからない。
そもそも御油音頭自体の歌詞がわからない。
駿河屋源六は問屋場の人足口入稼業のようだが、
たしかにここは宿場であるのだから、それはありえる話だ。
- 1635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/18(土) 23:17:51.15 ID:fuz2zMgSD
- 歴史学で、「交通史の神様」と言われるその名も偉大な児玉幸多先生は、
信濃国更級郡稲荷山の生まれだとのこと。
交通史というのは、五街道のあらましや、当時の状況の詳細な復元、旅籠屋が何件、問屋場がどこ、
といったことから、遊女屋の件数、その内容、つまりはサービスの仕方、しきたり、ひいては宿場での博奕、
誰が親分格か、まで幅広くまとめてカバーする文野である。
ここを誰よりもよく知っていた。
で、その泰斗が稲荷山の生まれであると言うなら、せめて故郷の郷土史を一つは残しておいて欲しかった。
児玉先生なら絶対地元の侠客である「岡田の瀧蔵」の史料や逸話など知っておられたに違いない。
あるいはどこかの著書に出てる可能性もあるが、いまのところ見つかっていない。
- 1636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/18(土) 23:32:28.62 ID:fuz2zMgSD
- 問屋場の人足たちがしょっちゅう博奕を打っていたことは
例えば歌川芳艶(国芳の弟子)の文久3年「程ヶ谷(保土ヶ谷)」に
まことにあからさまに活写されている。
(「貨幣博物館」のHPのどこかで見れる)
よくよくこの「人足部屋」で博奕が行われていたこと、ゆえに人足を束ねる頭(親分)は
そのまま博徒親分・侠客として力を持つに至ったとの話を耳にするが、
この点で文献史料から実証できるのは和田島の竹次郎、すなわち和田島の太左衛門だけだろう。
彼は江尻へ出てそこの人足調達に力を示した。それゆえに親分格となったのだ。
正直言って太左衛門は、この地域でもっと突っ込んで研究されて良い人物だと思う。
なんで上田から昌姓になったかもよくわからない。
- 1637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/19(日) 21:40:45.06 ID:KRVgtplyk
- 竹居吃安の四天王の内、一ツ谷(一ツ家)の浅五郎は割合に史料が残る。
古文書に名前を残す。
(もっともこの人の"実在性自体"は植田先生が初めて知らしめた)
十人衆では、芦川の政五郎は、まず間違いなく芦川の政右衛門事、人斬り政右衛門。
年齢、姓は今のところ不明。ただし実在は確認できるし、逸話も残る(境川村誌)
最近わかったのは鶯宿の武兵衛。
姓はわからぬが、生年は文政6年、明治二年に相次ぐ博奕の罪で捕縛になっている。
- 1638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/20(月) 22:11:17.56 ID:nveL+2ltt
- 例えば、今現在、某芸能人で昔はそこそこ名の知られた人が、
20歳も年下の妻を得て、しかし彼自身は働かず、高い志だけを誇り、
「煙草も辞めない」と臆面もなく言う。結果的に妻は愛想を尽かして出てゆき、
自身も困窮する。以上の様なことが、紙面、TV媒体のほんの底辺を飾っている。
確かにこの人、斬り合いはとても出来ない(モノにならない)だろうし、意気地もない。
だから多々違う面もあるだろうけど、
侠客伝に出る人物の中にも、同じくらい、世間様からすれば唾棄すべき人間、
配偶者に苦労をかけ続け、子供にも申訳けが立たないような人間は腐るほどいる。
なんぼ否定されてもこのことだけは事実だ。
だから手放しで「侠客は日本の宝だ」なんてことは言えない。
ただ死ぬ間際になって、「短所よりもやや長所が勝ったか」と言える程度の人間。
それが侠客のありていに見た本質なのかもしれん。
- 1639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/23(木) 23:33:00.25 ID:0nBmo+2N/
- 北条の清作
- 1640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/27(月) 22:41:13.96 ID:TglZ7KnwV
- 静岡県伊豆の国市の下田街道沿いに「北条」と言う所があって、
そこが清作の出たところだ。
大場久八の子分の内でも一番子分と言ってもいい、と言う人もいるとか言うほどの人だ。
久八の死後は、御存じの様に、三島の玉屋佐十郎が継ぐが、本当なら清作が継ぐはずだったと言う。
それほどの人物であり、韮山、大仁、修善寺方面全てを差配した。
惜しむらくは久八より先に亡くなってしまったことだ。(M25/9/30)
だから名は知られていないかもしれないが大物だ。
姓と菩提寺は…また馬鹿がお参りに来て、SNSに上げるかもしれんから不明としておく。
調べればすぐわかるだろう。
- 1641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/27(月) 22:42:52.41 ID:TglZ7KnwV
- なお清作の跡目は花村の房吉じゃ。
- 1642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/28(火) 10:08:27.80 ID:Y5/sV+hfj
- 小田原の集月
- 1643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/29(水) 23:04:16.83 ID:KyXcvda6M
- 集月は、
本名熊次郎。あだ名は綿熊という。
じゃあ、なんで集月かと言えば、小田原の松原神社前に「集月」という
小料理屋を営んでいたから。
人呼んで、綿熊の集月というのだ。
大場久八の子分。
往時小田原には大安という親分がいたが、大安が失脚して以来、集月がここを収めた。
綿熊は集月に加え、富貴屋という寄席も営業していたとのことだ。
熊次郎は大正5年、78歳で没。
- 1644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2021/12/29(水) 23:08:23.62 ID:KyXcvda6M
- 集月の後は、竹亀と小常の兄弟(竹亀が兄、小常が弟)が継いだそうだ。
竹亀は元巡査
- 1645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/05(水) 23:09:33.91 ID:dnc5kYmii
- しつっこいようだが、
黒駒身内の「大岩」「小岩」は、
中川村の岩吉が「大岩」
成田村の岩五郎が「小岩」だ。
世間で流布してるのは(といったって、よほどの好事家しか知らんだろうが)「逆」になってるので、
注意が必要だ。
- 1646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/05(水) 23:33:44.91 ID:dnc5kYmii
- かなり上で、武州多摩郡中藤村でのコレラ獣のことに色々言ったとき、
三ツ木村の平十郎というのがいて、博奕打ちだって、自分は言ったけど、
どうもあれは…多摩郡三ツ木村ではなくて、入間郡三ツ木村にいた平十郎さんの方らしく、
やっぱりコレラ獣を食った平十郎さんは、普通のお百姓さんだったようだ。
- 1647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/05(水) 23:41:53.78 ID:dnc5kYmii
- ただ、三ツ木丹次郎っていう親分、これは確かに居る。
立川「公私日記」の天保11年8月4日の記事に出る。
上では被害にあったみたいに誤記してしまったが、それは私の読解力がなかっただけで、
どうも畿内の仲間たちと、申し合わせて喧嘩相手の家に鉄砲をぶっ放したようだ。
この他、一ノ宮万平と一緒に博奕を打っている記録もあるので、
かなり早いうちに親分として知られてた人物の様に思える。
三ツ木村は青梅街道沿いでわりと大きい。南の地域は「残堀」と呼ばれる。
この地域は「人柱」や「コレラ」など、面白い逸話が多く残る。
地元に郷土館があるのだから、もっと調べろよと思うが、前に喧嘩したから、もう期待はしていない。
- 1648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/07(金) 23:49:58.14 ID:RV/zu5VS2
- 「博徒」というのは味気ないので「博奕打」
少し格好良くて「侠客」と呼びたいのだけど、
最近思うに、
無宿 →侠客
盗賊・泥棒→侠客
人足頭 →侠客
香具師 →侠客
目明し →侠客
名主 →侠客
村年寄 →侠客
商人 →侠客
となるようだ。
要するに侠客はどこにでも発生する。
- 1649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 21:30:51.46 ID:Psh5voKdP
- 正月初めだというのに、おっさん(私)は、
地域の小さな図書館に行き、思わず児童書の棚にあった「宮川ひろ」著の
『桂子は風の中で』という本を手に取ってしまい、
少し読んだら止められなくなって、しかも読みながら涙が止まらなくて困った。
(年は取りたくねえな。本当に涙腺がゆるむ)
ただ、この本、時代が昭和初期の話なのだが、
これこそ、その時代の日本だ!というのがこれでもかとリアルに描かれている。特に山村、農村。
当たり前だが、歴史は、江戸時代からいきなり現代になるわけではなく、その間に「近代」がある。
しかし、あまりに「近代」が遠いのだ。要するに想像ができない。
それにくらべれば、近世や中世は「歴史書」の上を通ってくれば見れる(もちろん本物なわけない、ストーリー化=歴史化された近世・中世だ)。
この宮川ひろ先生の書かれた昭和初期や、そのほかの心ある小説家の大正、明治
こういった本物に触れるとき、
やれ文献だ、やれ古文書からの例証だ、と勇ましく述べ立てる自分が恥ずかしくなる。
ただそれらの御本を読むだけで、ものすごい多くのことを教えられる。
かつての時代の日本の村の姿を一番活写するのは、やはりその時代を生きた経験を持つ小説家。
しかも力量も抜群だ。そして、本当に優れた書き手の多くは、
「児童文学」の中にこそおられるような気がする。
だから、子供むけの本、地元の小さな図書館、恐るべしだ。
かと言って、いいおっさんが、子供コーナーの机で読むわけにはいかないが。
とにかく気づいたら手に取るべきジャンルだ。
- 1650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 21:51:44.09 ID:Psh5voKdP
- 文献調査の鬼・白土晴一という映画・アニメ・映像の時代考証を務める
当代の才人がいるが、
この人が恐ろしいと思わされたのは、「文京ふるさと歴史館」について、
「安政年間駒込富士神社周辺之図」の重要さを一発で見抜き、
その中から「バクチ打ち常次郎(小川)、字名こぶ常」をきちんと探し出したこと、
正直言って、私しか知らんだろうとタカをくくっていたから、
これを指摘された時は、びびった。
氏は広く浅くではなく、広く、深く(あるいは中くらいに深く)、ものごとに精通している。
多分、本来的に「好き」なんだろう。「調べること」が。
好きを仕事にしている人は(もちろんそれゆえの苦労もあるだろうが、)
やはり強い。強い。水木しげるややなせたかし、あるいは山下画伯みたいな所へ行ける人間だ。(加えれば植田先生もそうだ。)
- 1651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 21:59:38.79 ID:Psh5voKdP
- ちなみに、この常次郎、詳細は一切わからぬ。
学芸員もノーマークとのこと。
実は23区よりも多摩地区の方が、郷土の研究ははるかにレベルが高く、
層が厚く、人材も豊富である。
- 1652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/08(土) 22:10:14.15 ID:Psh5voKdP
- 所沢在坂之下の寅五郎は、岡っ引らしい。
台座には子分とおぼしい名前が刻まれているが、そのうちの大部分が、
明治初期の巡査であることを鑑みれば、この人の立ち位置が
結構重要であることがわかるだろう。墓石の建立は、明治5年。
わからないのは、施主に忰の「権之助」に加えて、
上野国新田郡太田町の「西澤清八」という者の名があること。
子孫の方でも誰だかわからない。
いろいろ思うに、寅五郎の若い頃はやはり長脇差だったのではないだろうか。
上州で修行をして、十手持ちになって、そうやって故郷へ帰ってきた、そんなところだろうと思う。
田中屋万五郎の墓石にも名を出すので、万五郎の子分になって、
大和田町(新座)か所沢の組合道案内を務めた、といったところだろう。ただ子分たちは
時代もあって、新政府の警察官に採用されたのだろう。
幕末→明治という過渡期の「公」の侠客の行方を知る上では大事な人だと思う。まだまだ調査は足りないが。
- 1653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:16:59.42 ID:vgj0ijPio
- 題名で損しているかもしれないが、
竹内勇太郎氏の『甲府勤番物語』は侠客研究の面からしてもいい御本だ。
吃安親分に関しては、
竹内勇太郎の名前が出れば、増田知哉も松尾四郎も引き込む(まして高橋某や原なんざ相手にならん)
くらい、この道では詳しい。
なんしろ大正8年生の塩山生まれだからな。
読むたびに色々示唆を与えられる。
- 1654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:23:03.12 ID:vgj0ijPio
- 安五郎が「生来酒を受け付けない体質」であったとか、
あるいは「妾が四人いた」ことなどを聞き書きで記録しているから強い。
中には「賭場から戻った安五郎が山門前で長脇差を子分に渡して寺に入っていく姿や、
外出の折には無腰のまま山門まで来て、そこで待ちうけていた子分から刀を受け取って
腰にさして行くのを見た」なんて記録さえある。
妾は、竹居に一人、下曽根に一人、信州富士見に一人、伊豆に一人の四人がいたとのこと。
- 1655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:26:51.92 ID:vgj0ijPio
- 最愛の女は「とめ」と言い、
この女に吃安、ずいぶん入れあげ、賭場の上がりをこの女に譲渡した。
当時賭場でかけるものは当然「金」だが、白熱し、負けが込んでくると
「土地」も賭けた。
このおかげで「とめ」の家はたいそうな土地持ちになったそうだ。
竹内氏の本では姓や、元の夫(これは吃安の子分)の名もあるが、まあ、これは書かない。
- 1656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 21:34:05.52 ID:vgj0ijPio
- 下曽根の妾の話が、もし、見つけることができればいいなあ、と思う。
まずまず無理だろうが。
おそらく竹居から御坂路を通って、中道往還の脇道(あるいは本道)を通ることで、
下曽根−浅利−大塚−上野−市川大門と行くのだろう。
市川からは韮崎へ出て諏訪まで続いてゆく。途中に一ツ谷(一ツ家浅五郎の縄張り)なんかがあるのも
非常に興味深い。
- 1657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/18(火) 22:06:07.24 ID:vgj0ijPio
- 『熊谷市史』ね。
今順次でているけど、全く一行も博奕打ち・侠客のことが出ない。
これって、歴史学的にもいいのか?
この地域は関東でも随一の博徒の本場(妻沼一家、田中一家、寺谷一家などなど)なのに、
ここを対象とする市史に、その動向が全く書かれないというのは、本当に、それでいいのか?
「江南町」がまだあった頃、そこの学芸さんは調べていたのだけど、今回の市史には
この方は参加されていない(参加させない)らしい。
馬っ鹿じゃねえの。
- 1658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/19(水) 07:07:24.34 ID:eK3HQ7UAK
- すみません。また酔っていい気になって迂闊なことを書いてしまった。
市史編纂は想像を絶するほど大変だろうに。上のは完全に撤回する。
馬っ鹿じゃねえの、は自分の方だ。
- 1659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/25(火) 20:32:09.89 ID:maKe7Czdt
- 安藤正文『山梨県郡内地方の覚え書きー地域史からの学び』、アスパラ社、2022
なんということか。お亡くなりになっていたとは…
優しく朗らかで、頼りがいがある素晴らしい方だった。
本書はお亡くなりになる4日前に脱稿したものとのこと。
安藤さんは、東京都の小平市の職員で、歴史、民俗学、図書館などに携わり、
多くの素晴らしい聞き書き書物などを手掛けられた。
中には小川の幸蔵や、小金井小次郎の話なども散見した。本書でも犬目兵助と
東京都町田市の関わりなど、今後に続いていくであろう近世史の辺々を採取・発表なさっていらっしゃる。
近世、近代、地域史、戦争跡研究など、極めて充実の内容。
- 1660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/01/31(月) 22:55:18.61 ID:Azf/SeyX1
- 中江克己という人が「歴史人」とかいう電子書籍のような媒体で、
大前田栄五郎について、随分いい加減なことを書いている。
特に佐渡金山へ行かされていたところや、そこで役人の元で活躍したり、悪役人を
凝らしめたりしたことは「確証」の無い伝説と言い、
かと言えば「あったかもしれない」なんて、逃げ手を打ってもいるが、
看板に「大前田栄五郎」と銘打ったコラムなんだから、それくらい調べろよ、と言いたい。
佐渡に居たのは確かだよ。史料もあるし、そこから島抜けしたのも本当だ。
- 1661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 22:58:52.15 ID:84jpCCLZp
- 「まさも、さけと、わかい、おんな
で、はらお、くさらせ、とても、ぜんかい、
なし、だんだん、かんかいて、
みると、かづのこお、しろみつで、
ひやして、みれば、よくわかる、
さけは、しろみづなり、つよいから、
たくさんのめば、はらがくさり、
ます、それだから、すてられぬ、
ひとには、よく、ねんごろに、おまゑさんから、よくはなして、おくれなさい、
五郎さんおよとりに
きめたからおたのみ
もおしますやまも
ことしからはみなこして
せいだいにするから
あんしんしておくれなさい
二月五日 山本 長五郎
山おか せんせいさん」
侠客の歴史にも挙げた上の「次郎長手紙」の翻刻。今では実物が何処にあるかすらわからぬ。
しかし、次郎長の手紙は、稚拙な表現だが、簡にして要を得た文面であり、
史料的価値が高い。
これらを(翻刻でもいいから)まとめた研究があれば、素晴らしいだろう。
何となれば、それらの中からこそ、真実の次郎長本人に一番近い姿が得られるだろうから。
上は次郎長スレッドに昔書いたやつだが、あっちは無くなったようだから、
こっちにも記しておこう。
- 1662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:00:52.69 ID:84jpCCLZp
- 『東海遊侠伝』に活写される遠奕道の親分としての次郎長さんの史料は
現在、明治より前はほぼ皆無といってよい。(まあ、慶応三年とかぎりぎりのそれはあるが)
戸羽山先生が報告している安政二年の御油付近を歩行ていた手配書は、既に
行方不明であるし。
そんな中、由比宿長栄寺の「日記」と
豊川市威宝院の「住職日記」が、かなり信をおける次郎長さんの動向を
とどめた一次史料である。
- 1663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:01:33.89 ID:84jpCCLZp
- 梅岩禅寺には次郎長の墓を始め、大政、増川仙右衛門、それに都田兄弟との戦の前に
フグの毒に当って死んだ子分三人の墓などがある。加えて、若干小さいが、
清水一家を訪れていた際に急病で没した、武州高麗郡双柳の都築竜蔵の墓石が在る。
次郎長が若かりし頃、裸で武州を尋ねた時に六角棒を持って対応した兄弟分、双柳清五郎が竜蔵である。
- 1664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:02:26.08 ID:84jpCCLZp
- 誰も読んでないだろうから、次郎長と武州博徒との関係について少々
次郎長が「兄貴」と慕う博徒に、武州高萩(現埼玉県日高市)の高萩万次郎
がいる。万次郎は当時「関東侠客の神様」という程に信奉され、まず上州の
大前田に次いで、実力、名声とも衆を抜いていた。
武州の他の侠客・小金井小次郎、小川幸八、師岡孫八、田中屋萬五郎なども、
まずこの人を頼み、親しく交際した。
次郎長が万次郎の元を訪れたのは記録によれば、弘化二年、安政五年の二度のことと言われるが、
どちらも役人の目を逃れるための、のっぴきならない旅の途中であった。
そのうちどちらの時ことであるかは不詳ながら、
万次郎宅で開かれた盆の上の勝負で、次郎長は当時売り出し中だった上鈴木村(現・小平市)の博徒、
平親王の平五郎を散々に打ち負かし名をあげた。
平五郎は背中に将門の紋々を入れていたため、「平親王」と恐れられ
かつては小金井小次郎とも大きな出入りを打った古強者である。
ともあれ、万次郎の親類筋に当る高萩の「亀屋」の子孫の家に、次郎長と、なぜか
山岡鉄舟、そして末広亭の写真が今も残っている。一時は万次郎の写真も
存在したが、残念ながら現在は散逸したとのことである。万次郎の
立派な墓石(増田知哉氏が再発見した)は今も変わらず残っている。
- 1665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/01(火) 23:02:47.29 ID:84jpCCLZp
- 黒駒勝蔵、宮島重吉(俊蔵)、大場久八、丹波屋伝兵衛、安東屋辰五郎、小金井小次郎、
などは明治以前の資料に度々名が記されるが、次郎長に関しては明治以前の資料が皆無である。
戸羽山カンが記した寺津治助の脇差を質に入れ、武州無宿金五郎と旅していた次郎長の探索書が
唯一であるが、惜しい事にこの資料の所在が現在ではわからない。
- 1666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/02(水) 21:36:53.63 ID:N1R6aviJ/
- サンリオの辻信太朗氏が、母校の機関紙に寄せた寄稿文には、
黒駒勝蔵や祐天仙之助のような甲州博徒になって出てゆく人と
若尾一平や根津嘉一郎に代表されるような甲州商人(甲州財閥)の二派がいた、
というような内容が書かれている。
このセンシティブな人が、博徒の位置づけを十分に認識していたとは恐れ入る。
そして、おそらく自分も、その一流のうちに含まれると考えていたのだろう。
だいたいが「サンリオ(さんりお)」だし。今ではブラジル語の意味だとか、曖昧にしているけど。
当然それは方便ってやつだ。
という風に考えると、天下の「マイメロママ」の現実主義な生きざまも元をただせば、
その起源は、上の二行目三行目に行きつくというわけなのだろう。
- 1667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/02(水) 21:52:35.92 ID:N1R6aviJ/
- このスレッドで第四番目に挙げられている小泉又次郎(又二郎)という人は、
慶応、明治、大正、昭和を生きた神奈川の政治家で、若い頃は請負家業を務め、
身に入れ墨をいれて気風のいい、まさしく侠客を地で行くような人物だった。
というより元総理・小泉純一郎の祖父と言った方がわかりやすい。
ピストルを懐中に用意して、通称「いれずみ大臣」呼ばれた。
で、この人の名の出る石碑を最近見かけたのだが、
府中安養寺に、「矢部甚五左衛門」の碑文石があり、その文面が又次郎のものだった。
当時多摩も神奈川だったので、その縁もあって記したのだろうが、それ以上に
博徒の多い府中宿と又次郎との明治期の交友の可能性も見逃すわけにはいかないだろう。
執念深く、細かく調べないと見えてはこないだろうが、実に興味深い接点だ。
- 1668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/03(木) 23:07:14.92 ID:B5RtLdcSB
- 講談の「石松代参」だと、次郎長が穂北の久六を切った刀を金毘羅様に奉納するために
石松を使いに選ぶ。
その際、次郎長は石松に「酒絶ち」を命じるのだが、石松は
「あっしは大好きな酒を飲むために博奕打ちになったのだぁ」と言って、
一歩も譲らず次郎長の命に対抗する。
本当にこんな問答があったかどうかはさておき、
お百姓さんが朝から夜遅くまで野良仕事に一生懸命な中、それが嫌で
好きな時な酒が飲めることを望んで、欠落(戸籍を捨てる)し、博奕打ちになった人間の
一番基本的な動機を、この時の石松が代弁していると言えるだろう。
しかし、一博奕打ちで、人の子分ならこれでいいのだが
「親分」になってしまうと、
それこそ堅気の百姓の中でも、一番素行が良く、勇気と機知に富んで、それでいて天命には
逆らわない、そういう「出来た」人間でなければ務まらないというところに、
大きな皮肉があると共に、「侠客」であることの本質があるのだろう。
大きな責任を背負って、その重圧の中、うんうんうなりながら、なんとかどうにかやってゆく
確かに、侠客の真実の一面なのだろう。
- 1669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/03(木) 23:13:39.79 ID:B5RtLdcSB
- へんな文章になっちゃたけど、つまりは、親分になったら、たいへんってことだ。
下手な市井の大庄屋・大名主の旦那より、人間的に苦労を積まなければなれるもんじゃない。
このことは戸羽山瀚氏が、よく著作に書いておられる通りだ。
「侠客」とは、苦労の末に、一流の僧侶、雲水のような境地に立った者を言うらしい。
- 1670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/07(月) 23:05:14.97 ID:ntg7pYhWS
- 戸森麻衣子氏という人は文も上手いし、実力もすごいぜ。
最近、『江戸幕府の御家人』東京堂出版、2021)というのが出た。分厚い。
金も高いから買ってはいないが、立ち読みを繰り返して全体把握をしても、
これは価値のある本だ。
氏は江川代官やその周辺に関しても知識抜群で、おそらくアウトローなんかのことも
(本人は興味ないとしても)いやでも知識がはいっていると思う。
若い研究者は、目立たないままに、やたらずぬけて実力のある人もいるから、わからん。
- 1671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/08(火) 23:39:01.36 ID:6eFcO54Uc
- 石原村無宿幸次郎と「喧嘩幸次郎」を同一と書いたが、
どうも違うみたいだ。失礼した。
喧嘩幸次郎は一党に参加した越後の無宿で
元馬喰だとか。(まあ、でも同一人物って可能性も捨てきれないでいる)
幸次郎を捕まえたのを非人善九郎の手下と書いたが、これは明らかにあやまりで、
三井卯吉の手下。
日にちは嘉永2年9月29日だ。捕縛時に随分暴れ捕手は散々てこずった。
一般には10月9日甲府勤番の手によって、とされている。
下で実働する者たちの手柄が上に取られるのは今も昔もかわらないということだ。
- 1672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/08(火) 23:49:45.96 ID:6eFcO54Uc
- もう一個言っとくと、幸次郎を追い詰めた江川代官らが所持した「ドントル筒」というのは、
当時の欧米のドントル銃とは全くの別物である。
欧米のドントル銃は小型の短銃で、画像検索するとすぐにでる。
だからこれだと思ってる向きが多いけど、
実際には長銃のゲベール銃がそれだ。
でなけりゃ「腰だめ」じゃ撃てないだろ。(御殿場の茱萸沢で江川代官手代が撃った様子を「腰だめ」と書いているが、
要するに狙いも定まらぬ間に抱えてぶっ放したってことだろう)
- 1673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/09(水) 20:12:35.18 ID:wMNACIwnX
- 両義的っていうのは善でもあり、悪でもあるっていう意味だ。
誰にとっての善で悪であるのか、という問題もあるが。
侠客の中でも目明しは、まさにそれに当たる。
不幸なことに日本の講談・小説・映画なんかでは目明し自体が「卑怯者の悪」と
定義され、加えれば「滑稽」な役回りまで与えられるが、
海外に目を向けてみると「保安官」はまさにこれに当たるわけだ。
西部劇は、ちょっと脚色され過ぎている。
と言って、いずれどの作品でも脚色はつきものなんだが・・・
スチュアート・ウッズが1981年に書いた超傑作『警察署長』に出る
保安官スキーター・ウィリスなんかは、まさにこれ。善悪両義的な人物だ。
これはドラマ(1983)のシーンだけど、
特にKKK(クー・クラックス・クラン=白人至上主義者連盟:黒人をいわれなき罪で弾圧した集団)
が丘で十字架を焼いているところに、スキーターが現れ、クランの連中が半ばビビってるところで、
さりげなくスキーターが握手を交わし、自らの差別的な視野を彼らと共有するところを示す(スキーターが敵に回る)
シーンなんて、まさに目明しの不気味さを一番示す名シーンだと思う。
このドラマ、小説を未読なら読むことを薦めるし、ドラマを未見なら見ることを薦める。
動画は探せばすぐ見つかるだろう。
- 1674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/10(木) 21:45:40.68 ID:KV9UdP7Lf
- このスレッドだと826で、非常に慧眼な方(わたしなど足元にもおよばない)
が問屋場の大熊=江尻の大熊ではないか、と書かれていたが、
今になって、これは正しいように思えて来た。
というのも宿場と問屋場の意味がわかってきた、今になってようやくということなんだが。
いかに自分は物を知らなかったのか、と今になると恥ずかしい。
とすれば、江尻の大熊=問屋場の大熊≒由比の大熊(蒲原の大熊)といったところだろうか。
そして、『遊侠伝』の情報を集めれば丹波屋の子分(弟分)、都田兄弟の保護者、赤鬼金平の兄弟分
大場久八の甥分、そして次郎長の義兄ということになるのだろう。
- 1675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/11(金) 20:32:06.29 ID:dlwP29/RE
- 森の五郎は評価も、実態も判定が難しい。
唯一わかるのは山梨の巳之助を親分と慕っていた、ということだけだと私は思う。
石松を養育した、とかは本当かどうかわからない。
かなり信憑性があるのは相之川又五郎の手記に、五郎が巳之助と「女」のことで不義理を働き、
命を狙われた時に、又五郎が救った、ということくらいだろう。
五郎自身が殺されたとの説もあれば、五郎の忰が殺された、との説もあり、
いずれ次郎長もこの人の世話にになり、終生忘れられないくらい出来た人だと回顧している。
(一木藤重がその人自身なのかすら私は確信が持てない)
A級の情報、しかも確実な情報からすれば、嘉永2年の田中の岩五郎の相良殴り込みにも大きくかかわっていた
ということだ。
いずれにせよ、遠州を代表する侠客ということは事実であり、とにかくもっと地元で調べる必要のある人だ。
- 1676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/11(金) 21:34:18.10 ID:dlwP29/RE
- 他にも森の十五郎とか、五郎八とか言う人が史料(日記や古文書)には出る。
同一人物で五郎のことを指しているのかは、確証が持てない。
一方、山梨の巳之助(姓松井)は、友吉との別名ももっていたことは確実だ。
目明し、人足頭、興行師だったそうだ。
- 1677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/11(金) 21:49:42.44 ID:dlwP29/RE
- ところで同じ地方の見付には、大和田の友蔵の他に、「巳之吉(美之吉)」という
親分もいたらしく、この系統は二代くらいまではつづいたそうだ。
苗字などはわからないが、たしか『任侠大百科』にはさりげなく書いて有った気がする。
巳之助とも別人だ。
それと『磐田市史(町史?)』の史料編だかに、この巳之吉が傷害事件(殺人だったかもしれん)を起こした
記録が掲載されていたはずだ。見付も東海道の宿場なので、人足集めのための顔役(親分)が
自然と必要とされ、侠客発生の下地ができていたところだ。
そもそもが大盗賊・浜島庄兵衛事「日本左衛門」がねぐらとしていたのも、この見付宿だった。
もっとも幕末よりもはるか前の、
これは享保(1716〜36)・延享年間(1744〜1748)のことだけども。
- 1678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/20(日) 22:03:11.54 ID:9hW3PcO+k
- 『東海遊侠伝』だと、安政6年6月、保下田の久六を殺した次郎長とその一味は
尾張から、昼伏夜行して甲斐へ入ったと記される。(すごい端折り方だが)
甲斐で次郎長らをむかえたのは「三日市の政吉」という人物であり、事績が全く伝わっていない。
ただそこで、同家に逗留していた瀬戸熊という者が気概を見込んで、以降次郎長に順ったという。
そこから一行は高萩万次郎の家に行き、良く知られるように「刀」を万次郎に預け、
研いでもらうという件にいたるわけだが、
明治になって天田五郎が万次郎の家に逗留している記録があることからすれば、ここの記述は
かなり信憑性があることにある。
さて、尾張から甲斐までの道順は定かでないが、甲斐の三日市から高萩までは、
これは明らかで秩父往還を通ったと察せられる。三日市は今でいう塩山で、青梅街道と秩父往還が交差する
場所にあたる。名からも明らかなように「市」も開かれた便利な場所だ。
秩父を通って、少し下れば吾野・飯能であり、当然万次郎の勢力圏となる。
秩父もまたおそらくは高萩一家の威勢が強かった場所だろう。(ここのところはもっと精査する必要があるが)
中金三郎が万次郎の盃を貰っていたとの説を何かで見た記憶があるが、
多分それは正しいのではないかと思う。吾野・飯能間の永田の萬福寺に万次郎寄進の水鉢もあるし。
- 1679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/20(日) 22:11:25.80 ID:9hW3PcO+k
- で、三日市の政吉だが、
国分三蔵の墓石の台座には、三日市場(三日市)の筒井常四郎という人の名前が
刻まれていて、これは見逃せないのではないか。
三蔵と次郎長は、ともに黒駒と争ったという共通点から盟友の間柄であり、
三日市の政吉という人は、三蔵の側の人間であったことから、次郎長をかくまったと
見て良い。そして政吉が何者かは不明だが、上記の筒井常四郎が三蔵派の博奕打であったことは
たしかなのだから、あるいは筒井が政吉の姓であるかもしれない。
この人の事績を細かく調べることは困難だろう。筒井姓というのも当て推量でしかない。
しかし、こういう雲をつかむような無謀な努力を続けてゆくことが、
やっぱり大事なのだろうな。
塩山付近なら他にも塩山藤太郎(楠藤太郎…なのかなあ、やっぱり)や正徳寺太八(根津源左衛門)
らがいるが、こういう人たちとどうつながって来るのか。
- 1680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/20(日) 22:20:27.99 ID:9hW3PcO+k
- それと、国分三蔵と高萩万次郎が同一人物とされ、
そうかと思えば最近は別人と否定されているわけだが、
両者の間に繋がりが無かったとまでは言えないだろう。理由は上に見たような
地理的なものだ。実際秩父往還を通ればそう遠くなく、
さらに三蔵も万次郎も十手持ちであったことを考えれば交流が無かったという方がおかしい。
これも実証するのは相当に困難だろうが、がんばれば伝承くらいはみつかるかもしれない。
- 1681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/21(月) 20:30:38.28 ID:ANDEHxeap
- 子母澤寛の『悪猿行状』(文芸春秋、1965)は良い本である。
侠客の聞き書きも多い。そのくせ割合に図書館に置いていないのである。
タイトルの「悪猿行状」は子母澤の飼っていた猿の話で、その一連ものだけをまとめた
『愛猿記』はけっこう何度も再販されている。
でも任侠研究からしたら、欲しいのはそっちじゃないのだ。
三ちゃん(猿の名前)の一連のお話は、たしかに面白く、せつなく、感動的ではあるけれども。
- 1682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/23(水) 21:43:10.01 ID:DbESGX7Cw
- こういう事書くから嫌われるんだが、
信州、岡田の瀧蔵さんのお墓を探して、立派な寺を尋ねて
聞きこみをしたとき、上げてもらえたが、家の方が「お茶でも」というのを
目の前の老住職が「こんな人にいらん」、と言って、散々説教みたいのを聞かされたことがある。
地元じゃあ威張れるたいそうごりっぱな大徳らしいが、下手に出ているからといって、
あの対応。
俺は忘れんからな。
- 1683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/02/23(水) 21:51:02.49 ID:DbESGX7Cw
- かと言えば、困り顔でありながら、過去帳を調べてくれて、(残っていれば)墓石まで
案内してくれる方もいらっしゃる。お忙しい中、どこのウマの骨ともわからん
変な来訪者に時間を割いてくださるのだ。
こういう方々のことは、思い出すだに、ありがたくて目頭が熱くなる。やっぱり
忘れられない。
世の中やっぱりいいもので、そういう方にお会いする機会もちょくちょくあるが、
最近だと相撲年寄、甲山半五郎の墓参の時だ。
- 1684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/04(金) 23:30:27.30 ID:ZDD7djnXu
- 本はなるべく買った方が良いに決まってる。自分で書き込みや線もひけるし、
必要な時に、すぐ手元で全文を閲覧できる。
「読まなくてもいいから、ツンドク(傍らに積んでおいておくこと、いつかは読むから)だけでもしておくように、
とは優れた研究者や碩学も言う事だ。事実に違いない。
そんなわけで、最近は自分の蔵書を誇る人も少なくない。(特にSNS上で)
だが、そもそも収入の多くない者には無理だ。
中には鹿島茂先生のように、自分の資本を越えて、どうしても買ってしまうと言う人もいるが、
それはなんといっても「鹿島茂」だから笑い話にもなるのだ。
さて、そういう点で、なんと本を買わず、「コピー派」を自称する碩学も実はいるのだ。
アメリカ文学の舌津智之先生がまさにそれだ。(これは実際に当人からお聞きしたから間違いない)
同分野の研究者としても、超一級だが、
教育者としてもすばらしい人だ。品性、実力、熱意どれを文句がつけられない。
(そして多分、そういう人は見えない部分で、すさまじい苦悩・苦労を味わっているのだろう)
- 1685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/04(金) 23:33:19.87 ID:ZDD7djnXu
- 言いたいのはつまり、史料を、丸々買ったり、本を一冊買ったりすることが
偉い訳じゃない、ということ。
自分だって、そんなことできてはいないが、
史料(が、もし手に入ったなら)、大事なことは、どれだけそれに向き合い、熱量を費やしたかということだ。
- 1686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/04(金) 23:58:44.63 ID:ZDD7djnXu
- 全然侠客スレじゃないことを書いてしまったので、テコ入れ。
田無の増五郎=久米川の増五郎ではないだろうか。
こう考えると、
田無の徳蔵と、久米川の稲熊がともに反発したことも合点がいく。(親分が同じ)
あとは、田無宿と久米川村とのつながりがどの程度あったか、だけだ。
田無ー久米川ー所沢は公用。
加えて久米川村は、当時の史料に
「酒喰屋商渡世人多、所々悪ものとも落合不宜始末数多有之候処」
とのこと。
- 1687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/05(土) 06:36:34.25 ID:W0vfTX05B
- またやってしまった…
朝になって反省すると、また自分は偉そうなこと書いてしまったな、と悔やまれる。
結局は、金が無いので欲しい本一つ買えずにおる、貧しい自分のやっかみを
超偉そうにあらわしただけのもんでしかないな。上の書き込みは。
それと「田無ー久米川ー所沢は公用」は、「田無ー久米川ー所沢は公用道でつながる」と書きたかったのだ。
- 1688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/05(土) 06:44:02.47 ID:W0vfTX05B
- とにかく武州多摩郡久米川に関しては
『東村山市史8 史料編 近世2』東村山市、1999に掲載の
「弘化二年十一月 久米川村吉五郎所行不埒につき、拝島・府中・所沢各寄場村々より愁訴状」
という史料がものすごく面白い。
極悪な岡っ引き・久米川の吉五郎が、所沢の博徒や小川の幸八の喧嘩相手などと
つるみ好き勝手やってるので、何とかしてほしいという訴状である。
ところどころ周辺史料とつながるような描写があって、見逃せない内容だ。
- 1689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/05(土) 06:50:05.71 ID:W0vfTX05B
- 上の史料だけで名前が上がる面々は、久米川の吉五郎を初めとし、
小川村の幸八、野中新田無宿乙五郎、
所沢裏町の徳次郎、入間郡北野村坊の前の岩次郎、
所沢の岡っ引き藤五郎(松葉屋)、田中屋万五郎(吉五郎の親分として登場)
奈良橋村安五郎、それと香具師で久米川の高萩屋藤助
などなど。
- 1690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/09(水) 22:10:54.23 ID:7awgpvX11
- 上の1156で挙げた香具師だが、
大和屋新六と、升屋市五郎、山本藤助の三人は、「中武蔵三帳元」
と言うらしい。広域を支配した親方だ。
新六に関しては(どうも二代目らしいが)、上にも書いた通り、墓石に挙がる人名とても
記録しきれない。
坂ノ下(所沢市)の山本藤助の墓石にも多く同業(子分)が名を挙げる。
子分と言っても、それぞれ、一方の帳元と呼ばれる人たちだ。
日本木新六 連中 烏山清吉 連中
所沢宇兵エ 同 府中宇八 同
秋津文治郎 同 赤坂源治郎 同
癜タ平蔵 同 中神丈右エ門 同
栗原権左衛門 同 拝嶌庄兵エ 同
深大寺五右エ門 同 福生傳七 同
小金井勘兵エ 同 五日市重右エ門 同
中山市五郎 連中 川越平七 連中
大和田彦兵衛 同 久下戸吉五郎 同
牛沼直右エ門 同 大袋傳兵エ 同
青梅吉兵エ 同 富谷兵右エ門 同
扇町谷久兵エ 同 岩渕傳五郎 同
廣瀬儀右エ門 同 坂ノ下藤助 連中
豊田権治 同
これは文政二年のもの。
- 1691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/09(水) 22:20:41.29 ID:7awgpvX11
- いろいろあるだろうけど、個人的に一番興味があるのは
栗原権左衛門、多分、明治期に勢力を持ち、田無の徳蔵や黒須の大五郎といった
博徒と対等に立ち会った栗原の権次郎とはこの権左衛門のことだろう。
明治になると、香具師の帳元の子分に博徒の某がいたり、なんてことがよくある。
両者の住み分けが非常に曖昧になっていたのだろう。
元々、江戸時代に「興行」を行っていたのが、地元の博徒・顔役・侠客だったと言う事実も
無碍にできない。香具師ばっかりが芝居や話芸、踊り、奇術の興行を行っていたわけではなく、
若者衆や名主、村(宿)年寄、大商人、目明し、顔役(博徒のことが多い)など、さまざまな人間がかかわっていた
ので、その境界線が曖昧になっていたのだろうことは想像に難くないのだ。
- 1692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/09(水) 22:31:47.76 ID:7awgpvX11
- 正徳寺太八こと根津源左衛門は、いわゆる甲州博徒の一人で、
『安東文吉伝史料集』では竹居の吃安の兄弟分とされているが、
年齢から見てもそれは正しいだろう。
それと、この人は、興行に関する史料も残していて、これは大変注目に値する。
山梨県立図書館デジタルアーカイブで「正徳寺」といれれば、
多八事、源左衛門が催した花会の興行案内状が見れるだろう。
これは「未年」とあるので、安政六年か明治四年のどちらか、(あるいは弘化四年)
いずれかであろうと思う。
- 1693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/12(土) 23:49:22.78 ID:s6dB/NCMW
- 「今日教えてもらったのですが、ウチのお墓の隣が甲州博徒鬼神喜之助のお墓だった。
やっぱり近世の甲州は修羅の国だわ。」
だって。
親族に許可も撮らないでSNS挙げることが許されるなら、
私など出る幕もない。喜之助さんが駿河とつながっていようが、
その後目を継いだものが、黒駒とつながり、清水と対立しようが…私はもう知らん。書かない。
兵藤と
牛乳屋が、
後は責任もって後代に続く成果を出していけよな。
- 1694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/26(土) 22:48:16.04 ID:h4UJaz+/e
- 「三井宇吉なんて人知らないし、そんな墓残すことできない」
って今日、
山梨の坊主兼考古学者が、研究会でのたまわったが、あんたさんの無知をひけらかしただけだぜ。
相手する気にもならぬ妄言だが、「壁に耳ありってなんとやら」ってやつだ。
俺はその「言葉」を忘れねえからな。
- 1695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/26(土) 22:49:29.41 ID:h4UJaz+/e
- 「三井宇吉なんて人知らないし、そんな墓残すことできない」
って今日、
山梨の坊主兼考古学者が、研究会でのたまわったが、あんたさんの無知をひけらかしただけだぜ。
相手する気にもならぬ妄言だが、「壁に耳あり障子に目あり」ってやつだ。
俺はその「言葉」を忘れねえからな。
- 1696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/29(火) 22:13:53.31 ID:UoNcfz+3m
- 自分はわりと単純な人間なので、美談とかグッとくる話に弱い。
多分大方はテコ入れされているのだろうが、それでも一部は事実だろう。
95才になっても、いまだにかくしゃくとしたあるご老人に
「今までで一番の後悔はなんですか?」と伺ったら、
「80才の時にバイオリンを習おうと思ったけど、やらなかったことね。
もしやっていれば、今頃キャリア15年のベテランになってたはずだわ」
というのがある。
これ全くその通りで、しかし難しいだろうが、人は自分の先を考えず、
とにかくどんどん前に前に出て行ってほしい。(関節の痛みや筋肉の衰えを知らぬ若造が、苦労も知らずに勝手を言うのだけど)
ある種のご老人の中には、本当に敬意しか感じないという人がいる。
人とつるむことなく、ご自分で道を切り開いてきた方だ。
そういう人に対するときは、どうやったって、未熟で至らぬだろうが、最大限敬意を表するのだ。
それしか方法がない。とにかくすごいご老人というのはいるものだ。
- 1697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/01(金) 23:03:36.82 ID:G6oC+DBG/
- 犬上郡次郎人相書
秋元但馬守家来
犬上郡次郎 申廿八歳
一 丈並ヨリ低キ方
一 色白くずんくりと太り
一 丸顔
一 眼細キ方
一 口小サキ方
一 歯並抜こまかキ方
一 眉毛薄キ方
一 髪毛薄くなで付ニ致候哉
一 耳小サくづぶれ
一 弁舌小声ニ而口数少キ方
- 1698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/01(金) 23:07:48.29 ID:G6oC+DBG/
- 小説にしたい人は、スラっと痩身の浪人に
生きなセリフを吐かせるのだろうが、意に反して
郡次郎はずんぐりむっくり。
ただし現代の格闘家のように「耳はつぶれ」、細い目ながら獲物を的確に捉える。
なにしろ柔術扱心流の家元だから、腕っぷしは相当に強い。
- 1699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/01(金) 23:09:52.65 ID:G6oC+DBG/
- 郡次郎の相方の弥助(宮島弥助)の人相もあるが、これは良いだろう。出さんでも。
- 1700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:10:29.98 ID:UvkvQizKp
- 4月12日はいわゆる信玄忌と呼ばれ、戦国時代の雄・武田信玄が死んだ日である。
だから彼の菩提寺である塩山恵林寺では、祭礼が催された。
安政3年のこの日、恵林寺の祭礼で大喧嘩があり、甲府の祐天仙之助によって、駿河吉原宿の
留吉という親分とその子分が切り殺されている。
- 1701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:14:24.91 ID:UvkvQizKp
- この事件を扱ったものには、『藤岡屋日記』と『東海遊侠伝』があり、
前者だと、
…吉原亀も中々以、一方之大将ゆへ、大喧嘩に相成、祐天壱人二而吉原亀並同人子分三人迄
切殺し、其場より祐天は出奔行衛相知不申候
とある。
こちらだと、吉原の留吉は「吉原亀」と書かれているようだ。
- 1702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:19:35.43 ID:UvkvQizKp
- 一方『東海遊侠伝』だと
此時二当リ、甲斐二祐典ナル者アリ、大熊ノ子弟ヲ丸山前二襲ヒ、守太郎、八百留、六蔵等ヲ殺ス。
大熊ノ党之ヲ怒リ、祐典ノ乾父、甲府ノ隠居ト称スル者ヲ殺シ、以テ之二酬ユ
となる。
八百留というのが、吉原留吉(吉原亀)だろうか。そして大熊の子弟であったということになる。
- 1703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:24:35.02 ID:UvkvQizKp
- で、この事件なのだが、当時の実際の史料(日記)などでは、次のように記録されている。
今日昼頃、塩山前二而切殺弐人在之、博奕打人、壱人者駿河、壱人者武州
(「依田家文書」 四月十三日条)
塩山前即死弐人、手負弐人、無宿ものよし風聞
(「保坂家文書」 四月十二日条)
死人は二人、負傷者は二人で、死んだ者の内一人は駿河の者なので、
これが吉原留吉ということになるのだろう。
- 1704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/13(水) 23:30:39.90 ID:UvkvQizKp
- この事件が尾を引いて翌年の正月に三井宇吉が殺されるわけだが、
上で見たように資料(史料)上「吉原宿留吉」の名は確認できない。
にもかかわらず、講談や伝説・逸話では、そろって吉原留吉となり、ものによっては
岩瀬留五郎と言う名の武士が身を持ち崩し、駿州岩淵で貸元をやっていた、なんて風にもなっている。
大場久八の子分だったとか。鬼神喜之助の子分だったとか、(または逆に親分だったとか)
まちまちである。
ただ誰か、吉原留吉らしき貸元がいて、彼が信玄忌に殺されたことだけは間違いない。
- 1705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/14(木) 23:06:59.34 ID:svfH7l28R
- 昔の民俗学者は「自分は何も知らない」という態度が基本にあり、その上で渇するように
知識を、手段を選ばず求めていて、おもわず「すごい」と思わされる。
対して、今の民俗学者は「世間は何も知らない」から、お勉強と研究を経て来た私が教えてあげましょうみたいな
態度の人が多すぎる。
民俗学はお勉強の量・学歴ではなく、本来軽いフットワークとセンス、情熱と人柄の良さが物を言う世界ではなかったか。
- 1706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/14(木) 23:13:14.86 ID:svfH7l28R
- 吉良の仁吉の跡を継いだ、勘蔵という人は、あまり履歴の出ない人
と思っていたが、各県の明治(元年〜6年くらいまで)の「刑賞」にはよくよく名前が出てくる人で、
性根を問わず客人を大事にした親分だったことがうかがえる。
ちょっとした凶状持ちだって、勘蔵はよく逗留させている。あるいは先代の仁吉よりも
懐の深さでは上だったのかもしれない。吉良の勘蔵(太田勘蔵)は清水次郎長の28人衆にも入れられている。
- 1707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/14(木) 23:26:17.19 ID:svfH7l28R
- 明治3年の『里正日誌(第十一巻)』には、小川の幸蔵自身の申口(口供書)が
載っていて、彼の出自や動向・三体一でも死ぬ気で決闘に趣く性格などが
知られてとても面白い。彼は同年、所沢の賭場に来ていたところを捕まった。
それまで誰と博奕勝負をしていたか、とか小川村の住人とはどんな関係だったか、
父(幸八)・母(とら)がどのような人たちだったか(とらは大変こども思いだったようだ)
などなど、情報がものすごく多い。
- 1708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/17(日) 22:07:49.72 ID:XSJlAGaTF
- 丹波屋伝兵衛は、竹之助とも言うが、専助とも言う。
あるいは伊豆多田村での代々の継承名か。
伝兵衛は伊勢で婿入りした際に名乗ることになったのかもしれない。
- 1709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/17(日) 22:08:28.89 ID:XSJlAGaTF
- 「伝兵衛」は伊勢で婿入りした際に名乗ることになったのかもしれない。
に訂正。
- 1710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/25(月) 21:55:55.97 ID:unOWIkAQ5
- Yakuza Wikiの記事の充実ぶりといったらない。
ものすごい知識量と、調査力。
また先日植田憲司氏のかつてのHPの残巻の、別に残った部分を見たら、
やっぱりため息しか出ない。
ものすごい人というのは、いくらでもいるもんだ。比べると自分の知識など豆粒ほどに等しい。
- 1711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/25(月) 22:05:55.24 ID:unOWIkAQ5
- 新宿の田中屋万五郎の裏には、内藤新宿問屋主の高松喜六がついている。
甲府の三井宇吉の裏には、同じく柳町問屋主の加藤源六郎がついている。
万五郎と宇吉は兄弟分であり、共に甲州道中(甲州街道)を押さえていたが、後ろにつく
高松・加藤は本当の意味で甲州道中の「元締め」と表記される。この構図は馬鹿にできない。
一方、富士川を経由して甲府と結びつく江尻宿の問屋場に人足を供給していたのは
和田島の太左衛門。太左衛門子分(大熊&喜之助)と宇吉・祐天の構図も無視できない。
なお祐天にとって田中屋は叔父(伯父)貴に当たる。
- 1712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/04/25(月) 22:09:34.39 ID:unOWIkAQ5
- なにが言いたいかと言えば、侠客の抗争は基本的には「恨み、つらみ」や
「義理・不義理」なんだろうが、
本質的にはそのバックグラウンドである所属地域の
利害対立やいさかい、不平不満のぶつかり合いの代理抗争なのではないか、ということだ。
- 1713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/05(木) 21:40:38.89 ID:ayoPZik68
- 黒駒勝蔵の新しい墓(?)が建てられたとの話で、
子孫が資料室も作って整備した、というが、私にはきな臭い物しか感じられない。
そもそも墓無いだろう。戒名すらないのに。
それに一族から追い出して、抹殺したのだと言うのに、今になって末裔という人が地域ぐるみで
、偉い先生も巻き込んでそれをやるのだが、
なにぶん別の種類の偉い先生も一枚かんでいるので、政治的な匂いしか感じない。
人は自分が見たいものしか見ないものだからな。
創作物を用いて、死人に、自分たちの言いたいことを語らせることなんて朝飯前だからな。
- 1714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/08(日) 22:31:41.20 ID:p5NSQT4lv
- ちょっと変なことを書くようだが、
嘉永何年かだかに、保下田の久六と、一ノ宮久左衛門が戦って
久左衛門が殺された、とした本がある。
これが結構よくできた本で名著とよばれており、私も全くそう思うのだが、
この本が依ったところの『東海遊侠伝』では、久左衛門が殺害された、とは
どうしても読めず、ここは誤記ではないか、と思ったのだが、
以降そのままこの説が採用され続けている(ように思う)
困っちゃったことには、何の本に書かれていたのか、それに『遊侠伝』が挙げられていたのか、
それすら定かでないということだ。
ただ、なんというか、それを読んだ時に、「ああ、ここは要確認だな」と思った事だけは
よく覚えているんだな。これが。
誤記や、思い込みで史料を読み間違えていたことは、自分にも多々経験があり、
あれは何としても「起こってしまう」ものなのだ。だからそれはしょうがない。
でもそれ以降が、確認をせぬままその説を使い続けるのは、なんとかストップをかけないと
まずいよな。
なんともあやふやな文面で申し訳ないけれど。(要するに一ノ宮久左衛門は抗争では死んでいないと思うのだ。)
- 1715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/09(月) 21:50:34.56 ID:XC8boiw4C
- 三州豊橋吉田藩の家老、西村次右衛門の記した『西村次右衛門日記』というのは
分厚いがかなり面白い。地域柄、次郎長が平井で黒駒勝蔵の元へ奇襲をかけた時のことが
記されていたり、非常に良い史料だ。(「博徒黒駒勝蔵の文久元年以降の動向について」でも使用した。)
で、あらためてよくよく読んでみると、平井の雲風のこともわりとよく出てくる。
下巻の878頁(安政五年十一月一日)の記録には、
去ル卯春中泉江被呼出調有之、其後村預ケニ相成居候、平井村市作後家忰亀吉相撲名雲風、
過日鳳来寺祭ニ而不宜義有之、御風聞此節専有之由ニ而、御目付衆ヨリ奉行衆江御打合有之候由
ニ付、早々帳外被仰付候
とある。
私も古文書は独学(今でもかなり読めない)なので、書いておくと「被」は「〜される」で、
「有之」は「これあり」、二而は「にて」だ。
さて、卯年とあるので安政二年だろう。この年、鳳来寺の祭礼で何かしでかしたのだ。
このことは『原田常吉訊問書』で、安政元年に兄雲風が鳳来寺の祭礼で、
金屋橋の勝助子分・弥吉の腕を切り落とし恨みを買った事件から一年後のことにあたる。
あるいはこの事件自体が(常吉の記憶違いで)この卯年に起こっていたのかもしれないな。
次右衛門日記はやたらに分厚く読むのに骨が折れるが、よくよく読めば、もっと情報が引き出せるかもしれない。
- 1716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/09(月) 22:03:49.82 ID:XC8boiw4C
- たとえば同史料の691頁(嘉永六年か?要確認)なんかには
賭場で口論が起き、刃傷沙汰に及んだことが活写されている。死者も一人出たようだ。
関わったのは、牧野村歌吉、鵜飼島村無宿竹、深溝村無宿鉄、南金屋村蔵、
行明村常吉、種之上村喜六、馬場村花蔵、雨谷村藤作、豊川村千三郎など。
多分みんな博奕打ちだろう。
- 1717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/14(土) 10:40:46.43 ID:Kms9wilDV
- いわゆる自治体の文化財課に何度も出向いて、見つけた史料や成果物(論文とか冊子、刊行物)
を持って行って、
目録に記載の古文書を見せてくれるように頼んだり、重要な石碑や墓石の調査や保護を
訴えても、「良い人(職員さん・場合によってはボランティアの方)」に当たるまで
3年も4年もかかる。
なんといってもあほらしいのは、窓口で話した内容や、持って行って無償で渡した成果物なんかは
御役所では情報共有をしていないから、いつでも一から。で、目の前では会話をしている体でマニュアル対応を繰り返す職員。
これがだいたい平常だ。
それでも中にはものすごく優れた人に会える時があって、
そういう方は後々まで本当にお世話になるし、こっちもずっと敬意を払う。
今でもこうしてお会いできた方々には頭を下げ続けている。
不思議に実力のある人ほど腰が低い。その逆はその部門で専門の椅子に座った学芸員先生。こちらは男女老若を問わず。
自分の立場を守るために「疑わしいことには手を出さず」の態度を貫かれる。まったくご立派だよ。
- 1718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/15(日) 21:58:10.52 ID:9YKSg1Tnr
- 森の石松が、都田吉兵衛に殺されたのは万延元年6月1日のことと『東海遊侠伝』にある。
この三日後の6月3日に、次郎長もまた七人連れで「遠州本坐の為五郎」の家に逗留することになり、
そこで石松を殺したばかりの吉兵衛一行と偶然遭遇してしまう、
と言う筋書きになるのだが、
何故、次郎長らがここへ来たかと言えば、
初メ年蔵ノ下役ヲ斬ルヤ、其子十四人ヲ率ヰ、来テ長五ニ依ル。長五之ヲ憐ミ、海路伊豆ニ
脱セシム。捕手之ヲ聞知シ、並ニ長五ヲ捕ントス。
という理由だったことになる。
「年蔵」というのは、宮島年蔵(重吉)のことで、さらに言えば、この一ページ前にも
同じ事件が、
吉兵駿河ニ来リ、長五ノ家二客タリ。而シテ宮島ノ年蔵等ト加島二下役ヲ斬り、
走テ其国ニ帰ル
ともある。
つまり、都田吉兵衛は、宮島年蔵と駿州加島(吉原宿)で下役を斬り、次郎長に匿ってもらい、
そのことが捕手にバレたので、次郎長が今度は国を売った、
ということになるだろう。
- 1719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/15(日) 22:06:41.74 ID:9YKSg1Tnr
- で、実はこの宮島年蔵および吉兵衛一党による下役の殺害事件は、
当時の史料に記録されている(ように思う。)
それによると事件は万延元年の五月二十四日の夜、二十五日の朝にかけて起こったらしく、
「中島の重」(多分、宮島の重だろう)以下7人が元市場へ押し込み、そこでは
雇われ剣術家と主人が白刃で対応し、追い払ったが、
その足で一行は蓼原の番人十蔵の忰を切り殺した。(妹にも手傷)
そのことで十蔵から公儀へ「敵討を願出」たとあり、一方の下手人たちは「豆州へ逃候由」とあるので、
まず間違いなくコレだろう。
ということは、吉兵衛も次郎長も、ほぼ同じころに逃げたのであり、当然石松が吉兵衛と
一緒にいても全くおかしくないことになる。
あるいは、一同全てが同じく逃走する過程で、仲間内でいざこざが起こり、その末に石松の一件になったのではないか、
とすら思えるのである。
- 1720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/15(日) 22:13:46.02 ID:9YKSg1Tnr
- 「当然石松が吉兵衛と
一緒にいても全くおかしくないことになる。」
はちょっと間違えた。これはおかしいな。
石松は同年の四月に次郎長から久六を切った刀を金毘羅に奉納してくるよう頼まれ、
出かけたが、その間に吉兵衛は加島で人斬りに加わり、次郎長の世話で、故郷に帰還した。
まさにそのタイミングで次郎長の子分の石松に会った、
という時系列が正しいように思う。
つい先日まで世話になっていた親分(次郎長)の子分だから、
気安いと同時に、甘えの意味もあって金を無心してしまい、それがこじれて
石松を殺すにまで至った。と、こんな感じの心理が働いていたのではないだろうか。
与太であてずっぽうな推測だが。
- 1721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/17(火) 21:56:59.96 ID:TsuNWwpC4
- 「嘉永二年7月27日夜、半兵衛は、武州の石原村幸次郎以下の博徒集団に、突如
勢州古市の居宅で襲われ、重症を負う。薬石効無く兄弟分の丹波屋伝兵衛が看取る中、翌日死去した。」
↑ああ、俺がこう書きこんでしまっている!
これは間違いだ。「嘉永2年7月27日夜」ではなく、「嘉永元年」が正しい。
でなけりゃ、翌四月に大場久八と石原幸次郎が斬り合いなんてしない。
認識ミスを教えられた。
ありがたいです!
- 1722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/17(火) 22:05:08.55 ID:TsuNWwpC4
- 大場久八に関しては、嘉永2年に久八が敵を殺して後、逃走・潜伏した時に
一身を賭けて、その身を守った
後の妻「もん」さんのことを是非とも書かねばならん。
しずさん、もんさん、ともに侠客の妻というに値する立派な人たちだ。
- 1723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/17(火) 22:16:13.76 ID:TsuNWwpC4
- 侠客の妻という話だと、国分三蔵の妻(友代?)は、
加勢に来た清水の子分たち(関東綱五郎、法印大五郎ら)が捕まえた
勝蔵と鬼角(落合村角太郎?)の妻・妾を、乱暴される前に逃がした、と伝わる。
これに腹を立て、清水の一行は三蔵の元を去り、その後三蔵宅が勝蔵に焼かれるわけだが、
この妻の捕った行動は、彼女なりに筋の通ったものだったのじゃないか。
それに三蔵も同調したのではないか。(なにしろ「仏の三蔵」だから。)
三蔵と妻は、甲州天目山栖雲寺(武田勝頼が死んだところ)で、黒駒の子分に見つかり共に殺された
と言う。しかし、三蔵は明治2年、妻(名は墓碑に見えず)は明治9年に
亡くなっているので、仮に人の手にかかったのだとしても、夫婦一緒と言うわけでは
なかったのだろう。ただ三蔵が自然死というのは、年齢が若すぎる(54,55歳)ことからすれば無理がある。
やはり人手にかかったのだろう。
- 1724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/22(日) 20:55:14.18 ID:jUfjAO9CK
- Yakuza Wikiに出た「坂ノ下の実五郎」の項。
まあ面白いし、すごい。
世の中すごい人はいるもんだし、それをネットの他の分野で見れないのに、
こんな(失礼だが)ところで、唯一情報が挙げられているという点で、ほとんど感動に近いものを覚えた。
(今日の「鎌倉殿…」と同じくらいな)
ただのヤクザの話、と言ってしまえばそれまでだろうが、侠客の歴史に携わっている人全てが、
「学歴」とかまったく関係なく、いわゆる「人文学」の研究者に値するのだろうよ。
- 1725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/31(火) 22:13:46.27 ID:m0Y7j/oW0
- インターネットの時代はやはりすごい。年々便利になってゆく。
ネット上で『大小胡町誌』の全文を見ることができるのだが、ここには
高橋周偵著、明治26年発行の『近世上毛偉人伝』から田島栄吾の項が転載されている。
なんていったって栄五郎が明治7年に亡くなっているのだから、それから20年と経ってない頃の著作なわけで
内容はかなり信が置ける。
15歳で義弟の栄次郎と共に仁手の清五郎を斬り、名古屋へ逃走し、そこでもひと悶着起こすが、
箱根で強賊集団を斬り、公に激賞され、以降名古屋・上野を行き来し、その際一度はとらわれ
佐渡へ流されるも脱嶋して帰って来る・・・などなど
子母澤寛氏などがエッセイに書くのは、これが元だったのかと納得させられる。
多分、大方が事実なのだろう。
義弟の栄次郎が甲州郡内の博徒の家の入り婿になっている時、栄五郎が来て、
栄治郎が「あれは天狗様だよ」と家人に言うのも、これが出典。
古いけども新しく、なにより情報が多く、どうも正確らしい、今一番注目に値する資料がこれだ。
- 1726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/31(火) 22:27:38.88 ID:m0Y7j/oW0
- 失礼、「義弟の栄次郎が甲州郡内の博徒の家の入り婿になっている時」というのは間違いだ。
上の本にはそんなこと書いていない。これは子母澤氏のエッセイの中ではそうなっていたが、
多分あそこは子母澤氏の創作なのだ。
事実は栄次が郡内博徒の家に、ただ居候になっている時に、栄五郎が来たというだけの話だ。
この「甲州郡内の博徒」わざわざカッコ書きで「家屋も立派にして長屋門あり、相応の資産家なり」とあり
名は記されていないが、おそらく吉田の長兵衛のことだろう。
なんとなれば、栄五郎の子分になる江戸屋虎五郎も自身の回想の中で、都田源八を斬った跡、
吉田の長兵衛の家を訪れたことを記している。この時の縁が後々も響いていたと見ていいだろう。
あるいは郡内で江戸屋虎五郎が仲裁人となって、大場久八と竹居安五郎の間の衝突を納め、
その際、栄五郎が諸人集まる中ひょっこり立ち寄り、虎五郎が足を洗ってあげたというのも
この時のことがあって故かもしれない。
- 1727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/05/31(火) 23:28:04.49 ID:m0Y7j/oW0
- 『大小胡町誌』って、なんだこれ。
『大胡町誌』のまちがいだ。
- 1728 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/03(金) 22:59:46.06 ID:L0tt+hUaW
- 山本八重さん(執筆中)
@aizu_sniper_yae
·
5月30日
平政だけでなく木曽の嘉十郎も小門の亀吉もこの時期はどこ派閥で〜誰と兄弟分で〜みたいな複雑怪奇の情勢(*´ー`)
- 1729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/03(金) 23:04:12.59 ID:L0tt+hUaW
- ↑
こいつは多分、橋本の五萬蔵兄弟と
横山宿の伊野亀吉の区別がついていない
- 1730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/03(金) 23:33:24.15 ID:L0tt+hUaW
- 昔、個人研究家が情熱を傾けて、その分野で、狭くはあっても、どこまでも深く深く探求して、
その界隈では当たり前になっている知識が、
研究特許を取っていないからと、近年大学などの「研究者」様のお目にとまり、
新たに、その方の「発見」となって日の目を見る。
その際、学問分野の「越境だ」などと、ご高説と共に発表され、
かつての深く狭く何の見返りもなく一個人情熱家によって開拓された分野が、
その研究者様の独自の分野に指定されるような(アホな)ことがまかり通っている。
先日そのことを皮肉った昔気質の研究家が書評が世間に出たら、
却って(その人の芸風も知らぬ)多くから非難されたようだが、
結局のところ、先生方は大衆を味方につけるのがうまい。
それは情熱を持った趣味人なんか相手にならんわけだ。
近年ではさらにtwitterのpseudo研究者様がお出ましになるのだから、ますます
本当の意味で面白い調査・研究に血道を上げる人が本当に評価されず、
上手にその上澄み液を取る人間だけがもてはやされる。
侠客も相撲も興行も遊里もみんなそうだ。
せめて自分の手と自分の足を使って書けよ。
- 1731 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/04(土) 23:39:41.48 ID:JKGmd/VCM
- twitterってのは、自己満足充足装置なのだな
こんなもの相手にして、
いちいち目くじら立ててた自分が馬鹿だったようだ。
- 1732 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:35:46.42 ID:eXYhxcvxV
- 信濃国御取締出役というのがあり、
これは関東取締出役ができた文化2年に創出され、
まったく八州廻りの信濃国版といったものだったのだそうだ。
(こんなの知らなかったよ。)
信濃国の四代官所から選ばれた、というのも関東取締出役と全く同じだ。
中野代官所の荻野広助は、まさにこの信濃国取締出役に付いていたのだ。
だから、手下(目明し)に岡田の瀧蔵や相之川又五郎、場合によっては島田屋伊伝次、
藤屋祐三郎なんかもいたわけだ。
- 1733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:39:47.83 ID:eXYhxcvxV
- 藤屋祐三郎は、堅気の遊女屋主として知られている。
善光寺門前では一番の顔役だ。
片や島田屋伊伝次は、博徒としての顔をちらつかせる存在なのだが、
それだけに住人からしても一番の実力者と見なされ、しかも目明しもつとめた
藤屋は、単なる好々爺だったのか、と言う疑問が湧く。
あるいは伊伝次や、その兄貴分(親分か?)の政五郎(高瀬仙右衛門)と
同等以上の人物だったのかもしれない。
- 1734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:45:09.61 ID:eXYhxcvxV
- 『二足草鞋の相之川又五郎』にあるが、
又五郎は荻野広助の心のこもった御教諭(御説教)で心を入れ替え、
目明しになったという。
荻野広助は、『高井』に徳永泰男氏が書かれているが、
もっと調べられるべき人物だろう。秋葉貫一郎もそのような人物の一人だし、
もっともっといる。
- 1735 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:51:28.30 ID:eXYhxcvxV
- 長野市というところは、松本から山の中を通っていかなけりゃならないので、
車という移動手段のない者にとっては、なかなかに命賭けになる。(もっともその達成感は大きいが。)
とりわけ信濃の山々は広大で。朴訥峨峨としている。
そういう時に、山一つ越えたところに立っている庚申塔や石観音なんかは、グッとくる。
そういう一瞬だけ、近代以前にここを通った旅人の気持ちに連なることができる。
もちろんすぐそういう幻想は消えるけれども。
- 1736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/11(土) 22:56:39.53 ID:eXYhxcvxV
- 岡田の瀧蔵は、多分本名・林部寛吾(林部瀧蔵)でいいのだろう。
ただ岡田村や稲荷山宿からは生前に、追放されているらしい。
- 1737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/14(火) 22:34:08.85 ID:vDbRygys2
- 国定忠治を護送した岡っ引きに
岩槻の嘉重という人がいる。別に嘉十郎とも書かれる。
田中屋万五郎当ての某(丁度切れていて読めない)の手紙の中で、鬼神喜之助の動向を追う際にも、
「そっちへ逃げたので岩槻の嘉十さんに連絡を取ってください」とある。
国定護送の史料は確か群馬県立図書館がもってる。
それなりの子分も多い親分格だったのだろうが、手掛かりがまるでない。
- 1738 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/14(火) 22:38:24.33 ID:vDbRygys2
- 似たような人に上総国姉崎村の一作という人がいる。
(あるいは「市作」とかの名でも出るのかもしれない。)
これも親分格で、東大和の「里正日誌」にもちょっと名前だけは出る。
元治元年の天狗党の召捕りに参加したみたいだ。
でもどういう人かはまるでわからない。
- 1739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/06/26(日) 23:48:34.55 ID:LzxZr3qCw
- 今泉貞三というのは
どうやら津向文吉の子分のようだが、他で情報が出ない。
同類に井口田勘左衛門、上野信福、依田直高、坂本与兵衛、藤原吉助、進藤彦右衛門
、高野喜三郎、細田伊右衛門、河内弥右衛門。
このうち河内弥右衛門は後に、火消の親分になって、林庄八郎と甲府を二分する勢力をもつようになる。
明治11年のはなし。
- 1740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/05(火) 22:56:55.98 ID:dey4HUM3W
- 先日の金曜ロードショウで『時をかける少女』をやっていたのだが、
白状すると一ミリも感動できなかった。(2006,8年の時もだ)
しかし(当時から)年若い友人たちは、これで泣いたとも言う。
で、これは彼らの鑑賞眼の質度が低い、なんていう気はさらさらなく、要するに
私が新しい世代の感受性についていけなくなったのだ。
私は宮崎駿の『カリオストロの城』で今でも胸が熱くなるのだから、
自分の世代の文化には理解があって、共有できるのだが、次の世代とはズレる、と言う言訳だ。
(こうやって時代に置いていかれる)
だが、これは凄いことで、
例えばこのスレッドで表題に上がる侠客の時代にも、お芝居や、日墓のニュースに
心動かされただろうことは、それこそ今の私やあなたと変わらない、ということだ。
なかんづく侠客は、自らが芝居を「買い」、興行主となることがあったわけだから
目が肥えていなければならないのはもちろん、世代間の差や、次に来る当たり物が読めなければならん。
どういう意味では、「感性」からしても、侠客は、意図的にこれを磨かなければならなかったはずであり、
一体そういうのはどうやっていたのか、不可思議に思うわけである。
- 1741 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/05(火) 23:00:47.32 ID:dey4HUM3W
- と言う言訳だ→という訳だ。
日墓のニュース→日ごろのニュース
どういう意味では→そういう意味では
- 1742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/11(月) 19:02:39.34 ID:wm0s3AcV5
- 明治11年のことだが、
長野県下で監獄に繋がれていた凶状持ちの北原富五郎
というのが、流れて甲州都留郡宝村の高部正平の宅で博奕を打っていたところを
官憲に捕らえられた、というのがある。
どうやって監獄を抜けでたか、わかっていないらしいが、
この時賭場にはほかにも、埼玉県の山崎計佐五郎ら四五人がいたらしい。
高部正平というのは清水一家の人間らしく、後に寺谷一家の碑の中に名前を載せている。
手広く付き合いをもった貸元だったようだ。
- 1743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/11(月) 19:11:30.20 ID:wm0s3AcV5
- 中村仲蔵の『手前味噌』には芝居の買い付けということで、
実在の侠客がよく登場する。侠客は興行主でもあり、彼らと付き合いのあった役者が残した非常に貴重な史料だ。
岡田の瀧蔵や祐天仙之助などの普段見せないような親切な顔が垣間見られるからだ。
弘化4年に当たるようだが、信州飯田滞在中に「遠州浜松の笠屋の使いできた」という者が
登場する。おそらく笠屋の子分ではなく、香具師である笠屋から依頼されてここへ来た
侠客だと思われるが、瀧蔵とは顔なじみで、しかもかつては一人で五十人を相手に一歩も引かなかった男
と激賞されている。翻って現在では長脇差すら身に帯びず、至って温厚な人間になったとのこと。
惜しいことに名前が記されないままなのだが、あるいは遠州の棒周さんなのかも、
と思わされる。
- 1744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/11(月) 19:14:40.47 ID:wm0s3AcV5
- 遠州の棒周事、中村周蔵という人は子母澤寛や安東文吉史料集では、大物とされている。
目明しも務め、国領屋亀吉の親分である。でもこの人も若い頃どんな人生を送っていたのかは
よくわかっていない。史料も探していないし考察もない。
子母澤は、東海道近辺では一に安東文吉、二に棒周、三に両国屋宇吉と言っているが、
これもどこまで本当なのか。
- 1745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/14(木) 22:26:23.80 ID:pd3C/Xow1
- 東北なんて仙台・丸屋の忠吉くらいしか知らない。
なのにYakuza Wikiの東北侠客の充実ぶりは何なんだ!
すごすぎる。
恐ろしい探求者がいるものだ。
すごくいい仕事だ。
頭が下がるし、まさしく「シャポゥを脱ぐ」というやつだ。
- 1746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 21:38:01.65 ID:gJiqsnEUz
- 大塚の甚五左衛門(通称アゴさん事)
塩島甚五左衛門
- 1747 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/16(土) 21:42:59.24 ID:gJiqsnEUz
- 甚五左衛門は、黒駒系・鬼神喜之助の子分
有名な「赤烏元年呉銅鏡」を発見した人としても知られている。
後は息子の芳太郎が継いだ。
明治前期の真冬に、芳太郎は甲府住吉村の飯沼想次郎と喧嘩をして
一触即発の状況になる。
- 1748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 22:47:00.36 ID:WFsiSMgX5
- 次郎長は悪役に書かれることは、ほとんどない。
敵役(かたきやく)ならあるが、それでも一廉の強敵として書かれる。
黒駒勝蔵はよく悪役にされる。
しかし勝蔵が主人公になるときは、祐天が悪役、次郎長は強敵に書かれる。
翻って祐天が主人公になる時は、勝蔵はやっぱり悪役に書かれる。
この辺りは間反対の役柄を同じ人物が受け持つため、その替わり方が面白い。
吃安のかたき討ちや、宇吉のかたき討ちも、その都度、主人公/敵役、どちらに立っているかで
描写や心の置き所が違うわけだ。
そして、仲間連中もそれに応じて印象がまるで違う。
肥満して脂ぎった女好きの悪党三蔵のときもあるし、冷静沈着で涼しげな眼をした心強い三蔵のときもある。
同じことは吃安にも、大岩・小岩にも、宇吉や犬上郡次郎にも言える。
このあたりが甲州博徒の面白さだ。立つ位置によってまるで人物が違って見える。
- 1749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/17(日) 22:55:31.33 ID:WFsiSMgX5
- 信州の無宿者で尾花智三という人物が史料に出てきた。
前にどこかで見た名だが、どこで見たのか思い出せない。
- 1750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 22:59:21.19 ID:sSPxbFS6n
- 天保15年、高野長英が逃亡した時に、
信濃の目明しの間で彼の人相書が回覧された。
目明しには探索が義務付けられらとのこと。この時人相書回った目明しを上げてみると、以下の通り。
塩尻宿大和屋富之助
松本城下元右衛門、正徳院
伊奈街道三日市村政五郎、幸五郎
木下村与三郎
上諏訪大和屋栄蔵
岩野村幸五郎
権堂村島田屋伊伝次・ふじや勇三郎(祐三郎)
- 1751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:01:22.57 ID:sSPxbFS6n
- 塩尻の大和屋と権堂の島田屋は言わずもがなだ。
正徳院は、松本にいた修験だろうかね。
上諏訪の大和屋栄蔵は一寸(ちょっと)気になる。
- 1752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:16:18.69 ID:sSPxbFS6n
- 埼玉県新座石大和田の大和田氷川神社は、ふつう裸祭りで有名なわけだが、
鳥居すぐを入ったところに建立されている石橋供養塔は
田中屋万五郎親分が建てた物だ。(元治元年)
石橋供養塔はふつう、石橋を建てた時に一緒(あるいは時間差を以て)建てられる。
当時の橋というのは、建立に莫大な金がかかったのだから、
それこそ一生一大だ。
…というのは民間で使う大きな川にかかった橋。
しかし神社や寺前の、用水路の様な川にちょっとした橋を立てることが、実はこの方が
ずっと多い。しかも老若男女が参詣のために渡れるのだから、これもまた有用だ。
おもしろいのは橋の建立には、民俗学的意味があること。
それ以上先への悪疫や魔物を封じることを「防ぐ(塞ぐ)」意味合いがある。
本来来れない所に、筋道を通すというい意味で、
橋の建立は大事業なのだ。
- 1753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/27(水) 23:36:31.16 ID:sSPxbFS6n
- たとえば、八軒の栄次とか回田の栄太郎の子孫のとこへ、
「研究で載せたいから」と言って、頭を下げて頼み込むわけだ。そんなのピンポン押すところから恐怖だ。
でもそうやらないと、筋が通らないでしょ。血縁が、先祖の逸話を記録していいか、ダメか
墓を詣でて、場合によっては写真を撮っていいか、ダメか、決めるのだから。(これは侠客だけでなく万人にそうでしょ)
すごいストレス(場合による)だが、この過程をすっ飛ばしては駄目さね。
だから、遠方からやってきて、墓の写真を無断で取って、すぐ既存資料(普通は研究者の本のコピペ)
と一緒にアップする馬鹿は
俺は許せんわけだ。
…もっともこれ自体、自分の「筋」の押し付けなんだろうけどね。(時代は、むしろそういう「勝手にアップする」ことに傾いてるから)
でも最低限そこは守らないと、やっぱり嫌じゃないか。
- 1754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/28(木) 22:33:49.36 ID:rzq+JN2ND
- 馬鹿だなあ。ほんっっっっっとに馬鹿だなあ。
「岡島」を閉めるなんて。
甲府の町が無くなるということじゃないか。
冗談じゃねえ。ほんっとに冗談じゃねえ。町が無くなるじゃないか。
故郷が無くなるじゃないかっ
- 1755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/28(木) 23:14:03.44 ID:rzq+JN2ND
- 三井宇吉の墓も若尾逸平の墓も、全く無邪気に何の罪悪感も無く廃棄したよな。
何が嫌って、物を捨てる・つぶす・終わらすことになんの躊躇もないのが、この県だってことだ。
多分、自分らにその拒否権・執行権があっても、自分の事と思っていないのだろうな。
それくらい思考がマヒしてんだ。
与えられたエサばかり食ってきた連中が年寄になって中心に居座ってるのだから、
もう駄目だ。公務員になれたらお殿様。そして、そうなったら改革や改善よりも、
なるべく目立ったことはしないで自己保身に回ることが最重要と教育される。
あとは労働者だけ。
典型的な地方の人員構成だ。これが地方都市の一般的なモデルというやつか。
あとになって悔やんだって、無くなったものは、もう戻らんのだぞ。
- 1756 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/07/31(日) 20:48:38.92 ID:7D2mHLJ8v
- 柿沼仙右衛門
- 1757 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 21:54:57.55 ID:af/bUou9R
- 小金井小次郎と抗争した堀端の与三兵衛
苗字は「おない」という。小内か小家か。どういう漢字か忘れてしまった。
が、元の姓は林。
どこで「おない」に変わったのかはわからん。墓もない。
静岡の方にあると、子孫が言っていたが、その子孫も先日訪ねたら居なくなってた。
一宿一飯の義理のために富士の裾野の出入りに加わり亡くなった。
それゆえ子孫は「博奕」を避け、トランプすら触ってはいけないと言われた。
そんなことを十数年前に聞いた。
- 1758 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:02:59.03 ID:af/bUou9R
- 国分の三蔵のルーツを探して利根川沿いの明和町、川俣宿まで、
この熱波の中行ってきた。
なるほど日光脇往還(千人同心街道)という点で、高萩宿(日高市)とつながる。
高萩万次郎と国分三蔵には確かに類似点が多い(目明し+次郎長と親しい等)。
だが、まあその間には坂戸宿、高坂宿、松山宿、吹上、忍(城下町)、新郷宿と結構な距離がある。
面白いのは、この宿場もそれぞれ侠客発生地だということだ。
しかも川俣は、天下の利根川の川岸。なんといっても平手三木の「大利根暮らし〜」からしても
侠客とつながりが深いだろう。
川俣は南北も、東西も侠客にはさまれる土地だ。しかも組合の寄せ場だったらしい。
- 1759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:10:34.13 ID:af/bUou9R
- さて、川俣40ヶ村組合の惣代としては
高瀬仙右衛門、つまりは相之川政五郎=上総屋源七が有名だ。彼が
これを務めていたのは事実。
その一方でもう一人の実力者柿沼仙右衛門のことはさほどしられていない。
しかし、この人も大した侠客だ。
どうも博徒ではなく、名主お旦那の出であったようだが、気風がよく
江戸屋虎五郎や赤荒地の鉄五郎らが八州廻りに捕らえられたときは、身を挺して守り、
彼らを逆に目明しに取り立てることで、地域の治安を守った。その他治水、渇水の際の農村の守りなども、
この人が率先して行ったらしい。事績を記す書物は少ないが、『明和村誌』に記載がある。
川俣宿西の江口の普済寺に墓石がある。明治4年に69無くなっている(と思う。)
この墓所は、正直見つかりにくい。この夏日に、正直死ぬかと思ったくらいだ。
何か地理的な探し物をしている時に、一番大事なことは、
一旦止まって地図をじっくり眺めることだ。
- 1760 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:25:42.40 ID:af/bUou9R
- 日本全国に所々存在する「道の駅」というのは野宿をする者にとっては、
非常に都合の良いものである。しかし、世の中みんなだいたい同じような考えをするものらしく、
田舎では、バイク乗りやもうちょっと鉄火な若者たちが、「集会」を開く場所として利用される。
そのようなわけで自分も何度もそういった集団と同じ場に出くわした。
幸い何の悶着も起きずに済んでいるが、
そんな時にぐうすか眠るほどの度胸は自分には無く、結局、朝までもう少しという時まで、
精神が覚醒を命じるものだ。
くたくたな頭が、そんな時にようやく自分に教えるのは、しょせん自分など、無力、ちっぽけ、臆病で、愚者
だという認識だ。でも、これは万金にも代えがたい。全くありがたい認識だ。
苦しい旅の良いところは、自分を絞れるという点だけだろう。他には何のメリットもない。
- 1761 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/02(火) 22:47:57.81 ID:af/bUou9R
- 「川俣宿西の江口の普済寺に墓石がある。」
またまた間違いだ。「川俣宿東の江口」が正しい。
なおこの近隣の津島神社は奉納額も石灯籠も見るべきものが多い、ちょっとした
名所だ。
- 1762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/03(水) 23:42:05.54 ID:8accUCYFJ
- 正直言って、宮島の年蔵と森嶋の重吉は同一人物だと私は思ってる。
『安東文吉史料集』は、国分三蔵と勝沼三蔵のように
同一人物を別人に表記してしまう注意点がままある。
- 1763 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/09(火) 22:06:26.24 ID:P9hcl3opF
- 随分かかったが、
甲州布施の仙次郎と下曽根の弥十郎が衝突したのは、
明治12年3月5日と翌6日の二日間。どちらも場所は下曽根とのことだ。
通説だと11年とか16年とかあるが、これは12年が正しい。
- 1764 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/09(火) 22:10:02.90 ID:P9hcl3opF
- さらにその10日後、同じ下曽根で長五郎という博奕打ちが
妾と間男を殺傷し、
おまけに外にも間男が5人いるとの風説を信じて、毎夜林野に隠れては
住人を突け狙った。
これにおそれを抱いた村の男たちは、日が落ちると外出をやめ、ある夜
近隣の家が出火した際も、だれもその消防に努めることができなかったのを
甲州中から笑いものにされたとのことだ。
無論この不名誉なことは、どんな伝説・伝承にも語られることはなかったが。
- 1765 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 21:54:20.82 ID:m4SRGzuvi
- 五明の亀吉
田黒の文吉
- 1766 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/26(金) 21:56:14.22 ID:m4SRGzuvi
- 増尾村の橘勝
- 1767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:10:48.72 ID:ruaV/vnhE
- 増尾村(埼玉県比企郡小川町)の橘勝こと重左衛門は
相当な親分だったのだろうが、本人の事績は見つからない。ただし子分には
西ノ入村無宿平太郎などがいた。
平太郎ら橘勝の子分数名が長脇差を帯びて、秩父・比企一帯を歩き回り、
旅人や百姓にけがを負わせていることから、手配に上がっている。
これは天保4年と、随分早い時期のことだ。
この年からして、近隣の博徒である田黒の文吉や、五明の亀吉は
橘勝の子分のような存在だったのではないか、と推測される。
橘勝の出る史料は『小川町の歴史 資料編5 近世U』、小川町、平成13年
の464頁
- 1768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:36:27.41 ID:ruaV/vnhE
- 五明村の亀吉は、
嘉永二年の石原村幸次郎騒動で、共に行動した仲間として有名だろう。
もちろん親分格。
嘉永二年の10月には捕まり、打ち首(?)らしい。
しかし、それ以前から亀吉の活動はこの地域ではちらほらうかがえる。
中には「亀吉とその子分に宿を貸さないように」などという触れも出ているくらいだから、
結構な知名度が地元ではあったのだろう。
今でも五明は道が交差する交通の要所で、南から来た場合小川町への入り口の様な場所に位置する。
それだけに人の往来もあり、金銭収入を目論む博奕打ちにとって、都合がいい場所だったのだろう。
- 1769 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/27(土) 23:40:22.46 ID:ruaV/vnhE
- 田黒村文吉は、五明村亀吉の兄弟分だと書かれている。
いずれ、今でいう埼玉県の生越、都幾川、小川の辺りの人たちだ。
嘉永元年には、はやくも入間郡の寺竹村で捕まっている。割合に南に降りてくることが多いらしく、
扇町屋(入間市)辺りで博奕を催したりなどしている。
これを捉えたのが、飯能の岡っ引き・森太郎。
なので、報復として一年後に森太郎の宅は文吉の子分や兄弟分から襲撃を受ける。
ただ、本人は何処からか情報が回ってきたのか、いずれにせよたまたま留守にしていて
無事だった。
- 1770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 13:28:41.79 ID:3ZWO2cBsq
- 読めば読むほど、『博徒の幕末維新』は、
それまでの任侠研究者の発見を、さも自分で見つけたもののように扱う点で
ダメだ。
もっとも侠客・博徒を「学術」の世界に置いた点で「初」と
著者が、自分で言っているので、そういう意味で「発見」となるのかもしれない。
鹿島茂のような頭のいい人でも、
分野が違うことから、その辺りの差異がまるでわからぬので、
手放しで称賛したあとがきを書いてしまう。
よっぽど任侠研究史に詳しくなければ、それは確かにわからんだろう。
でも誤魔化されない人間は、結構多くいるものなのだ。
- 1771 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 19:17:40.18 ID:3ZWO2cBsq
- 卯年(天保14年)に多摩から入間、高麗にかけて回覧された人相書きには
武州比企郡玉川村 無宿金八、
忰 八蔵
同村 伝三郎
同州同郡立原村 無宿代三郎
同州同郡田黒村 文吉
同州同郡五明村 亀吉
右玉川村 菊
とある。計七人の人相書きだ。(人相部分は略)
これは上尾宿の目明し枡木屋太郎吉が、青梅の川越領へもたらした。
最期の菊という人は女性なのかもしれない。二十三才くらいで、丈は低く、痩せがた、色黒、顔は細く、眉は太い。
さらに鼻筋が通っているという。
この文書には、手配に挙げられた理由は書かれていないが、他の史料と照らし合わせると、
どうやら八蔵が岡っ引きを二人斬ったことが、手配に挙げられた理由のようだ。
なお八蔵の渡世名は「砕岩(破岩)の八蔵」らしい。
- 1772 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 19:19:50.38 ID:3ZWO2cBsq
- 武州比企郡玉川村は、現在では埼玉県ときがわ町
- 1773 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/28(日) 21:45:47.53 ID:3ZWO2cBsq
- 豆州の浅五郎
- 1774 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:26:54.19 ID:ricNYUTBn
- 樋口村無宿平六
- 1775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:37:06.43 ID:ricNYUTBn
- 樋口村の平六は、やはり嘉永二年の石原村無宿幸次郎の件で、
連座して捕まった博徒親分。
いろいろと経歴はわからないわりに、大物だったらしく、後の時代になっても
樋口村平六の子分だった、という任侠が村々を騒がせている。
(小川村の弥十郎、鷲太郎など)
さて、この樋口村だが、今日検索すると、秩父郡樋口村というのが一番に上がる。川船流れで有名な
長瀞あたりの村だ。
だが、平六の捕まった時の記録によれば、彼の出自は大里郡樋口村であり、実は違う場所なのである。
大里郡樋口村は既に地名としても残っていない(実はあるのかもしれないが)が熊谷市の「樋春」というところがそれにあたる。
樋春は明治五年に樋口(ひのくち)村と春野原村とが合わさってできた地区なのだという。
合併が何と言っても明治の5年なので、それ以前の樋口村という地名が完全に消え去ってしまっていても
これはもう仕方がないことだ。
というわけで平六はこの辺りの出身。
- 1776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:38:41.20 ID:ricNYUTBn
- なお田中村岩五郎も大里郡田中(深谷市)であって、比企郡田中(ときがわ町)ではない。
五明の亀吉が比企の田中のすぐそばの出生ではあるが、岩五郎はもっと熊谷寄り。
中仙道や荒川に近い方を出自としている。
- 1777 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/30(火) 22:45:06.33 ID:ricNYUTBn
- いずれにせよ、埼玉県北部の侠客を調べてみると、やはり熊谷に中心があるように
思えてくる。なのに現在進行形の熊谷市史では、
その点を全く無視しているというのは、けしからん話だ。むしろ昭和に編まれた市史の方が、
そういったアウトローと呼ばれる人々の記録を市史・町誌・村誌に挙げた。
今の学問世界がいかに政治的な歴史観の下にしか機能していないか、露骨に示す事態だろう。
手に負えないのは、編纂を行っている大学院での先生方が、本気で地域の博徒・侠客、伝説、伝承の類を
知らない、ということだ。彼らに全く悪気はないし、純粋。(人間的にも良い人が多い。)
単にそう言った者にたいする興味や存在そのものを問うという姿勢が、いまや初手から全く無いのだ。
歩いて歴史を見つけるなんてのは、もう化石化した、古い古い学問態度なのだ。
- 1778 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:34:47.22 ID:QnvFQTIvz
- 豆州の浅五郎と書いたが、友五郎の誤りだ。すまんことです。
- 1779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:52:57.25 ID:QnvFQTIvz
- 伊豆の友五郎は最初、相良の富吉の子分だったが、
富吉が田中の岩五郎との抗争で、藩の意向に背いた行動をとったため、
流浪するに及び、さらに後年、安東文吉子分の小出の繁蔵に召捕られ、不運にも牢死した後は
明治5,6年まで安東文吉の元に厄介になっていたという。
その後、同郷の兄弟分だったとの理由で伊勢の丹波屋の元へ行った。
姓も分からないが、実在の人であったことは、確かな文書に残っている。
- 1780 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/08/31(水) 20:56:39.15 ID:QnvFQTIvz
- 中条の弥五郎
- 1781 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:17:54.01 ID:uZysahKDF
- 「中条弥五郎さんと勝頼さんは死んで新府に名を残す」
これは甲州韮崎に伝わる歌だ。いうまでも無く「勝頼さん」は武田勝頼。
父信玄が死んだ後、織田、徳川と戦うため、新たに新府城を韮崎に築き、ここを
中心に国を固めようとした。しかしその矢先に織田の侵攻に合い、泣く泣く出来上がったばかりの城を捨て、
東へと落ち、笹子峠を越えられぬまま死んだわけだ。
だから、地元の同情も込めて、死んで新府に名を残した。
一方中条の弥五郎さんは、博奕打ちだったと言われている。詳しいことは何もわからないが、
多分賭場の上の争いで亡くなり、その様が天晴だったのか、名が残ったのだろう。
(もっとも歌にしか残らず、伝承の類は消えた。もちろん史料も無い)
一点いえることは、中条は「佐久往還」の宿場だった、ということ。信州では、
佐久甲州街道と言い、往時は結構盛った土地だった。今ではその片鱗もないし、研究も、
ここが宿場だったことは地元民ですら認識していない。
でもだからこそ、弥五郎さんのような博徒・侠客が活躍できたのだ。
- 1782 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:30:44.78 ID:uZysahKDF
- 秩父には「忍藩秩父領割役公用日記」という日記が残っている。
秩父の図書館に行けば紙焼きで膨大な数残っている(閲覧・印刷可)し、『秩父市史資料』として、
翻刻が今も出続けている。
秩父で事件が起こると、わりあい近場の組合から人員(人足や岡っ引き)が呼ばれ、その中には
飯能組合や扇町屋組合も出ることがある。
飯能では小山森太郎はほぼレギュラー入りで名を出す。注目したいのは扇町屋組合(扇町谷組合とも)で、
基本になる場所は、今の「入間市」近隣の村々だ。
ここの道案内(目明し)として、まま名がでるのが、「安五郎」と「庄五郎」。
これはひょっとしたら、二本木村の安太郎と庄五郎兄弟なのではないだろうか。
基本的に、道案内(=岡っ引き、目明し)は、その組合村の人員の中から選ばれる。
二本木村は扇町屋のすぐ隣で、当然扇町組合に含まれる。
もちろん人違いということもあるが、名前がほぼほぼ一致するし、立場としては申し分ない。
彼の墓石にいる「黒須の茂助」や「大井の加藤健三郎」なんかも同類だったらしいし。
とすれば、あの立派な墓石や、勢力の理由もよくわかるというもんだ。
- 1783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/12(月) 23:41:04.83 ID:uZysahKDF
- ただし、慶応2年の武州一揆に際し、同一族からは「瀧蔵」(滝之助)という
博徒が出ており、一揆に参加し、頭どりとして騒ぎ立て、ついには捕縛までされている。
瀧蔵が実在したことは史料からも明らかで、そこにはご丁寧にも「博徒安五郎弟」とある。
「安太郎」とは無いが、これは安太郎本人に違いないし、あるいは安太郎は渡世名が「安五郎」だったのかもしれない。
(他にも例がある)
つまり、二本木の親分は三兄弟で、安太郎、庄五郎、その下に瀧蔵がいたのかもしれない。
上の二人は幕府に尽くし、滝蔵は「変革」に賭けたということになるだろうか。
いずれにせよ瀧蔵の墓は無い。
存在は子孫にすら伝わっていないし、子孫は自家の詳しい履歴さえ、もうわからぬとのこと。
(責める気は毛頭ない。当然、もうそういうものだ。明治よりまだ前なんだもの)
菩提寺のご住職も若く、とても良い方だが、地元の侠客一家の存在や、その土地がどういう地理的位置づけだったかすら、もう知らない。
これも責める気はない。全国的にそういう時期なのだから。就中、俺だって「何にも」知らない、わかってないのだから。
- 1784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/13(火) 00:01:53.79 ID:fMLaPnVXy
- せっかくだから南信州出すと、諏訪は、おいておくとしても、その東側の道を通る
佐久(岩村田)。
手前の佐久穂から南牧村(海尻、海瀬、海口)などに関しては、
『川上村誌 資料編』(川上村、平成10年)の662頁あたりに、割とその筋の人間のいざこざが
書かれている。岩村田の伊勢松とか、松井田の嘉市、海瀬の嘉兵衛、広瀬村吉右衛門とか言う人たちがいたようだ。
文久3年のこと。
- 1785 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:17:08.64 ID:rrimjqskJ
- 黒駒勝蔵一党の永井村新助は
姓藤巻。
芦川村での新助騒動一件として、伝承(あるいは古文書史料)が残っており、
あらましは、1443に記したとおりだ。
しかし親族には恵まれたらしく、明治になってから兄ちゃんによって、なかなか立派な墓が
建てられた。「遺言により」とか寺の過去帳には入っているそうだ。
没時は慶応3年十一月。
- 1786 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:26:33.90 ID:rrimjqskJ
- 勝蔵と一緒に名をあげる手配書の中で、
墓石が残っているのは、正徳寺の太八(根津太八)と、万力の森太郎、それとこの永井の新助。
甲州外では平井の雲風と宮島の歳蔵(←もう現存していなかったように思う。)
川口の安太郎はひょっとしたら(けっこう正しいと思うのだが)弁天安太郎事笹本安太郎かもしれない。
他にも以外にあるかもしれないので、調査を続けよう。
- 1787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:31:21.77 ID:rrimjqskJ
- 八千蔵の要次郎というのは、文久3年(元治元年と「口供書」にはある」では、
祐天と三蔵宅に殴り込みをかけた際に、
三蔵方相手に一隊を率いていった程の、黒駒組では重鎮にあたる人物。
古屋留吉の証言では四天王の一人という。(大岩、小岩、要次郎、綱五郎)
けれど伝承もないし、史料もない。
慶応二年の手配書には名前がないから、それ以前に切り死にしたか、捕まって牢死したか。
- 1788 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 22:42:48.88 ID:rrimjqskJ
- 八幡北村猪之助は、四ノ介とも書かれる。
(悪いけれど)今川徳三さんの本では、東京にいった勝蔵に付き従った腹心子分の様に
かかれていたが、多分慶応2年に勝沼の田の溝に遺体となって倒れていた
猪之助(亥之助)が彼の事だろう。出典は詳しくは忘れた。勝沼町史料のどこかだったように思う。
ただ、元治元年の犬上郡次郎襲撃では、猪之助の棒が郡次郎の足を払ったおかげで、
仕留めることができた、と「口供書」に確かに書かれている。
思うのだが、もう死を覚悟した勝蔵が、子分連の名前を挙げるとき、
あるいはかつての仕業の中でも特記すべき郡次郎殺しを挙げる時、かなり詳細な記録を口述していることになる。
勝蔵は、事件の年度こそ、度忘れすることはあっても、子分の面々の名前や
活躍はしっかり覚えているのだ。(他失念の面々と言う時は、現命していて、名前を挙げると本人の不利になるとわかっているから
挙げないのだ)
だから、これらの血なまぐさい活動を、新政府の下で窮屈に陳述するとき、
その時だけは勝蔵の口角は上がっただろうと思われる。
勝蔵はなんやかや言って、仲間たちとわいわいやってる時が一番うれしかったのだと、私は思う。
蛇や蚊や蜂、ネズミだってでるような山奥のぼろやにいるときも、
武装した役人や農民兵の追跡を受けるときも、頼りになるのは
かけがえのない仲間だ。
給金を払うでもなく、未来を保証してやるわけでもない。現在すら危ういのに、
逃げずに固まって傍にいてくれる。人間たちだもの、忘れるわけがないのだ。
- 1789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/18(日) 23:08:09.95 ID:rrimjqskJ
- 村芝居(天下の守屋穀氏が好んだ言い方)
には、地元の侠客が関わることが多かったという事実は言を俟たない。
彼らは村芝居を支える「若者組」の相談や、後ろ盾として(もちろん自分の利益第一だが)
興行の表に立って交渉した。
好い例が『手前味噌』の岡田の瀧蔵などである。
このことは他にも守屋氏の著作や、天才氏家幹人、小林文雄などの論文・著作を読めば明らかだ。
ところで、これを逆に考えれば
村芝居(最近でh「地芝居」「田舎芝居」「農村歌舞伎」と呼ばれる」
の盛んだった場所を当たれば、そこに勢力のある侠客がいた、ことになる。
もちろん上に上げた碩学の本を読んだ上で、同じようにフィールドワークをすることなど、
凡人には出来ないことだが、
遠州で、「都田」が昔から村芝居の盛んだった(今はどうだか知らんよ)という点は
無下にできまい。
都田源八、吉兵衛、常吉、梅吉が登場した場所というのは言うまでもない。
ちなみに今は都田テクノポリスだ。
- 1790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/19(月) 21:57:50.70 ID:bj4Ud06lG
- ヤフーオークションで古文書が高騰しているのは、周知の事実だが、
大事なのは、その古文書なり史料なり、あるいは墓石史料(きちんと供養の心があるなら、碑文は十分史料と言っていいはずだ。)なりが、
自分のところに来るか、どうかだ。
自分のところに来ないのなら、それは縁がなかったのだし、「お前はこれについて色々言ったり発表したりするんじゃないよ」
と云う意味なのだ。いわゆる縁がないというやつだ。
だから大金を積んで無理をする必要はない。
しかし自分が適合だった場合、これが来てくれるんだわ、向こうから。
そして来てくれたら、それに答えるだけの努力をする。これが唯一の返礼と言うものだ。
これが最近やっとわかったことだ。教科書は無い。自分で模索するしかない。
しかもそんなの当然わかっていて、ずっとそれをやってる人も多数存在するのだから
まったく参る。
- 1791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/20(火) 22:32:57.78 ID:MlE9VE6WD
- 18世紀のイギリス文学者にサミュエル・ジョンソン(ジョンソン博士)という人がいる。
生まれつき、片耳が聞こえず、片眼が見えず、首には醜いコブがあった。
しかし文が立ち、多少変人ではあったが、人格が高潔で弱者を愛し、権力には反抗した。
英語史の上では『英語辞典』を編纂した(それも独力で)ことで有名だ。(他にもいろいろやったが)
この人は多くの警句・格言を残したことでも知られるが、次のそれは侠客を考える上でも有用だ。
「愛国主義は無頼漢の最後の避難所である。」
そうであってはならない、ということ。さらには、後世の人が無理やりに、そういう評価を下してはならないということだ。
- 1792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:22:01.89 ID:Vd3b5tvAi
- いまだに後悔するのは堀端の与三兵衛のことだ。
ちょうど10年前に子孫と思しい方にお会いして、話をした。全く偶然だった。
ただそこで、ちょっと苦手な人だな、と思ってしまい、またいずれ…
としてしまった。
今では引っ越してどこへ行ったか定かではない。
上でも何度か書いたが、富士の麓の出入りに一宿一飯の恩義で参加して戦死した、
との話を聞いたし、それ以来子孫の間では博奕は絶対手を出してはならない。
トランプに障るのすら禁忌とされている、とのことだった。
もっとも、このトランプに障るのすら御法度!というのは、かつて先祖に博奕打ちがいた、
というお宅ではまま同じフレーズが聞かれるので、何か元ネタがあるのかもしれない。
『慶応水滸伝』では与三兵衛(與惣兵衛とも)は、親分格となっているが、どうも一本独鈷の
博奕打ちだったと伝わっている。これは義兄に当たるとされる回田の栄太郎や連雀の嘉助も、どうもそんな話だ。
平親王平五郎、小川の幸八は確かに親分だったらしい。八軒栄次はむしろ
地元の顔役で、香具師みたいなことをやってたらしい。
- 1793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:27:28.65 ID:Vd3b5tvAi
- 小金井小次郎の周辺だと、意外に大物なのが、
田無の増五郎と野中の音次郎だろう。この二人は小次郎の子分では無く、兄弟分で、
それぞれ小川の幸八と敵対している。これは推測だが、増五郎は久米川にいたこともあったのではないだろうか。
田無には他に鉄五郎(鉄蔵)という人もいて、この人が事跡は残らないが、相当な勢力があったっぽい。
まず小川ー田無間で反目があり、それが府中ー小川間に飛び火した。その後、所沢、前沢、砂川といった地域が
それぞれ分かれて、共闘し、小次郎が一つにまとめるまで各々独立して気炎を吐いていたのだろう。
- 1794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:35:05.46 ID:Vd3b5tvAi
- 砂川に清水三兄弟という小次郎の兄弟分がいたようだが、
彼らの父は清水与五右衛門と言って、八王子千人同心を務めていた。
武芸も達者で、伊勢腹(伊滝伊勢五郎)先生の門下で天然理心流を学んでいる。
どういう理由か与五右衛門さんは千人同心を首になり、没落した。なにか大きなミスをしでかしたらしいが、
今のところ、それがなんであったかは不明だ。
腕も立つし、一時は立場も普通の百姓よりちょっと上だった三兄弟が、
気落ちする父親の後ろ姿もみながら、気合入れて頑張ってしまうという気持ちもわからないでもないだろう。
砂川は新田としては非常に広大で、資料なんかだとしょっちゅう博徒の抗争が起きている。
玉川上水が中央に流れ、木々も豊富だ。オウム事件の時にサリンをここの橋のたもとに隠した、
なんてことを地元の風呂屋(今はもうない)で聞いたこともあるが、
ちょっと他の村、新田とは趣やシステムが違うように思える場所だ。
砂川は良い郷土研究会があって、精力的に機関紙をだしている。ご高齢だが、
すごい方々が集まっておいでだ。ただ、博徒・侠客に関しては何も書かれない。
知っていてわざと口をつぐんでおられる可能性が高いが、みな人間レベルの高い方々なので、俺など
行っても手も足も出ない。
- 1795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:44:04.94 ID:Vd3b5tvAi
- 酔ったついでに書いてしまうが、郷土史で一番つまらない文章を書くのは、
若い頃に史学をかじった、または史学科に所属した、という人達。
下手に学会を意識したような、史料を元に分析した、みたいな文章を書いてしまう。しかも
結構紙面を使って、気合のはいった表なんかを貼る。
実はこれがつまらない。一番とは言わない。(一番つまらないのは、自分の生い立ちや経歴、職歴を並び立てる輩だ。)
これに比べると、自分が昔見たことや、上から聞いたことを、そのまま陳述してくれる
朴訥な書付の方がずっといい。(というよりこれは理想だ。)
しかし今気づいたが、これはそのまま自分に向けて跳ね返ってくることだな。
- 1796 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/09/26(月) 22:51:39.83 ID:Vd3b5tvAi
- 赤間源右衛門
- 1797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 22:40:28.32 ID:JaJ8Lc/L2
- 赤間源「左」衛門が正しかった。
芝居『与話情浮名横櫛』で、敵役として登場する侠客が赤間源左衛門である。
主人公与三郎は「切られの与三」として名高い。
作り話ではあるが、与三郎も源左衛門も、それにお富もモデルがおり、
当時の風俗を活写した作りになっている。そこで源左衛門の登場する「赤間別荘」の場はこんな感じである。
一「されば、ここの親分の赤間源左衛門様は、この木更津で羽のきく親方」
ニ「近郷近在を男を磨く手合いが、時折ふしの見舞い」
三「その喜びだと言って、この通り、酒肴もたっぴつ(たっぷし?)に」
四「村方のわしらへまで、酒をたらふく振る舞わっしゃるからは」
全員「さてさて気を張られたことでござる!」
この芝居が瀬川如コウに書かれたのが嘉永6年(1853)というから、だいたい当時の
言い回しや単語、そういう慣習が書かれているわけだ。
この時源左衛門は「御用を達す身分」になったとされている。つまり目明しに任命されたわけで、
得意の源左衛門は子分ではない、村の若い衆にも「酒をたらふく振る舞わっしゃ」ったのである。
侠客と百姓、とくに若者衆とはかなり近い距離にあって、
しかも一種、憧れの存在という意味合いも、この十手持ちの侠客にはあったということがわかるだろう。
以上は、もちろん私の思い付きではなく、氏家幹人氏の『江戸の少年』の一部分を
抜き書きした。(この本は侠客研究でも必携と言っていい)
赤間源左衛門、モデルになったのは実在の侠客である「山本源太左衛門」という
人との事。木更津の人かどうかは不明で、一説には東金。あるいは品川の人とも言う。
- 1798 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/04(火) 22:44:23.97 ID:JaJ8Lc/L2
- ああ、一、二、三、四、全員というのは、
源左衛門の宅に招かれた若者衆である。四人いて、それぞれ台詞を言った後で、
最後に全員そろって「さてさて気を張られたことでござる!」
という訳である。当時のこの芝居の呼吸というのは、衣裳のすばらしさや、台本の妙や(もちろん芝居自体の巧みさ)
らがわかれば、きっと相当に面白いだろうなとは思う。
ただ今日では日本の芝居・歌舞伎は日常からは遠いところにありすぎて
とっつくことができない。まだミュージカルの方が身近にあるというのが、なんとも皮肉なことよ。
- 1799 :名無しさん@お腹いっぱい。:2022/10/16(日) 20:52:11.18 ID:SSvWyrVxe
- 黒駒勝蔵は悪者に決まってるだろ。
だから良いんだろ。
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