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デカルト論破

1 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 00:58:54.85 0.net
「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…

俺「いつまで続くのですか?」

デカルト「無限に続くよ。だからこそ思う主体、そう、我だけが残り、我が存在することが確実なんだよ。」

俺「でも、無限に続くって確認できなくないですか?無限に疑った人っているんですか?無限って疑わしくないですか?」

デカルト「あっ…えっと…。」

俺「論破ああああああああああ!」

2 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 09:19:59.27 0.net
帰納的推論だから真理を述べたものじゃないよ。もっとも正しそうだという言明にすぎない。

3 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:16:26.58 0.net
>>1
と思う、ゆえに汝あり

4 :DJ学術 :2018/02/10(土) 11:30:08.47 0.net
悪霊に食われるから世界ができたって意味で初。

5 :DJ学術 :2018/02/10(土) 11:30:57.13 0.net
しょ

6 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:41:03.04 0.net
無限でなかったとしてそれがデカルトの論証にどういう影響を与えるのか

7 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:45:29.45 0.net
>>3
「と思う、ゆえに汝あり」と思う、故に…

以降無限

よって論破

8 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:46:20.53 0.net
>>4
そう俺は初発明

よってノーベル賞となる。

9 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:48:37.85 0.net
>>6
本当は「我思う、ゆえに我あり」の「我思う」の部分で止まっているということや。
途中で「我」がなくなる可能性もあるんや。我でない悪霊に置き換わる可能性もあるやということや。

「我思う、ゆえに無」とか「我思う、ゆえに悪霊」とかやね。

10 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:54:17.69 0.net
池田晶子がそのへん論破してたな

11 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 11:58:05.91 0.net
>>1
我が思う→我がいる
じゃなくて
我が疑いまくる→疑う我が残る

だから永遠には続きませーん♪

12 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 12:03:29.50 0.net
>>11
その「疑う我」をも疑う。

13 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 12:23:53.60 0.net
>>9
「我思う、ゆえに無」
「我思う、ゆえに悪霊」
こんなの論理が飛躍しすぎだろ

14 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 12:36:37.20 0.net
我思うの我とは何かを疑えてないってのが一般的なデカルト論破

15 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 13:04:07.40 0.net
だから二元論になったんじゃないのか。思想ってのはしょせんエッセイなんだから
真正のことが書いてあるわけじゃないぞ。デカルトの神髄は物心を分離させたと
しても世界が構築できることをあの時期に論証してみせたことだろ。現代人に
いわせればあたりまえの話しをあの時期とキリスト教社会の前提で言明できたから
すごいだけであってだな

16 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 13:05:04.92 0.net
それただの無限後退じゃねーの
無限後退って要はアスペだぞ?

17 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 13:13:14.95 0.net
>>10
調べたらしょーもないエッセイストじゃないか

18 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 15:35:31.04 0.net
>>13
極めて論理的じゃん。

19 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 15:36:38.80 0.net
>>16
デカルト→無限後退→アスペ

だとすると。デカルトはアスペか。

20 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 16:10:48.69 0.net
>>19
アスペはお前だったな

21 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 17:31:08.11 0.net
デカルトの「我思う故に我あり」の“思う=思考する”とは、方法的懐疑の“疑う”という思考作用のことであり、
この“疑う(=思考)”という意味は、“疑うことの出来ない究極の真”に対して、主観的事象(自分自身)と客観的事象であるところの
すべてを“疑う=究極の真に対して真偽を問う”ことである。

自分自身、そして科学的・客観的事象のすべてを“疑っている”その状態の於いて、『疑っている私は疑えない』という、究極の状態に於いて、
認識される超越論的な“私”のことを“我あり”と定義している。

ここで、超越論的な“私”と述べると、一般的な解釈としては難しい認識に思うが、そうではない。
一般的な思考活動の過程で、“疑っている、〜その思考活動を行っている、“自意識”が超越論的な私です。
この様な“自意識”は、冷静に考えれば誰しもが持っている。

デカルトの方法的懐疑という思考は、17世紀〜18世紀のフランスに於いては、日常的に用いられた思考形式である。
今日でも、形式論理思考と並んで、フランスのみならず世界的に活用されている思考形式でしょう。

22 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 18:34:07.82 0.net
>>18
どこから「無」や「悪霊」がでてくるんだよ

23 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 19:02:26.85 0.net
>>17
無知の無知から無知の知までの弁証は秀でてた
知の無知から知の知までの自覚的な弁証には欠けてた
しょうもないエッセイストなら藤澤令夫が認めたりはしない

24 :考える名無しさん:2018/02/10(土) 23:51:30.40 0.net
1の論法はヒュームで既出でしょ

25 :考える名無しさん:2018/02/11(日) 10:14:09.70 0.net
波平いい加減にしろ

26 :考える名無しさん:2018/02/11(日) 19:36:23.78 0.net
>>1だが、ここで謝罪会見を行う。

【謝罪会見と】デカルト論破できず【俺の真理】


デカルトは「我思う、ゆえに我あり」を決して疑うことができない絶対確実なこととして真理とした。
俺は、決して疑うことができない絶対確実なことなんてないと思っていた。そのため、デカルトのそれを論破しようとした。

俺「結論を前提とする論点先取の虚偽、すなわち論理違反である。」
デカルト「そもそも論理ではなく、直観によるものである。」
俺「なるほど。では、我とは何か。」
デカルト「我とは、考えるということそのものである。」
俺「なるほど。「「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…というように無限に続くが、無限ってそもそも疑わしい。」
デカルト「最初の「我思う」は全てを対象とした「我思う」であり、
2回目の「我思う」は「我思う、ゆえに我あり」という一部を対象とした「我思う」である。したがって、全ては一部を含むため、2回目以降の「我思う」は、最初の「我思う」に含むことができ、結局「我あり」は決して疑うことができない絶対確実なことである。」
俺「なるほど。もう、手も足も出ないよ。」
このように、俺の反論の結果はフルボッコ。
論破しようとしたが、もう、手も足も出なかった。完全に敗北である。
ここに謝罪する。申し訳ございませんでした。

しかし、ここで、改めて俺は悟る。

「ああ、こんなこともあるのだな。

この世界は、まったく、【俺の真理】」

敗北してもなお、俺の真理はそこに依然としてあったのである。
すべてを認める俺の真理。それはとても愛おしい。
これこそ真理である。

申し訳ないが、ここでは俺の真理の公表は控えさせていただく。
以上である。

27 :考える名無しさん:2018/02/11(日) 20:08:05.00 0.net
>>26
デカルトのママ「1くん学校行け働け」

28 :考える名無しさん:2018/02/11(日) 20:16:06.02 0.net
デカルトのコギトが成立しないのは、コギトの同一性を論理的に担保できないからじゃないのか?

29 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 00:16:15.30 0.net
>>1である。


私には自信がある。

私は、自分を信じている。なぜなら真理を発見しているからである。

真理とは、すべての本質であり、すべてに適用でき、すべてを認めるものである。申し訳ないが、ここでは真理の公表を控えさせていただく。

世の中には、正しい、正しくないといった概念が存在する。
しかし、真理を発見し、真理に基づいて生きている私が、すべて正しいかといったらそうではない。

なぜなら正しさ(マナー、合法・違法等)は、時間と場所によって変化するからである。
例えば、昭和には駅ホームの任意の場所でタバコを吸うことは正しかったが、今では正しくない。アメリカでは正当な銃の所持は正しいが、日本では正しくない。

ではなぜ、正しくもない私は、自分に自信があるのか。

なぜなら真理を発見しているからである。
それは、正しい、正しくないといった概念をも含むすべての本質であり、すべてに適用でき、すべてを認めるものである。そして、不変である。

いかなる場合であっても、真理は依然として、そこにあり続けるのである。

私は、その真理に基づき生きている。

だからこそ、正しくなくても、私には自信があるのである。

30 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 00:55:31.69 0.net
「Aが存在する」の意味は次の内どれですか?
1.「私は「Aが存在する」を知っている」
2.「「Aが存在する」を知っている者が存在する」
3.「私は「Aが存在する」を知っている可能性がある」
4.「「Aが存在する」を知っている可能性がある者が存在する」
5.「「Aが存在する」を知っている者が存在する可能性がある」
6.「私は「Aが存在する」を知る可能性がある」
7.「「Aが存在する」を知る可能性がある者が存在する」
8.「「Aが存在する」を知る者が存在する可能性がある」
9.「私は「Bならば「Aが存在する」」を知っているかつBである」
10.「「Bならば「Aが存在する」」を知っている者が存在するかつBである」
11.「私は「Bならば「Aが存在する」」を知っている可能性があるかつBである」
12.「「Bならば「Aが存在する」」を知っている可能性がある者が存在するかつBである」
13.「「Bならば「Aが存在する」」を知っている者が存在する可能性があるBである」
14.「私は「Bならば「Aが存在する」」を知る可能性があるかつBである」
15.「「Bならば「Aが存在する」」を知る可能性がある者が存在するかつBである」
16.「「Bならば「Aが存在する」」を知る者が存在する可能性があるかつBである」

31 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 00:59:45.26 0.net
1〜16について、真偽とその根拠を述べて下さい

32 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 01:42:55.16 0.net
>>31
答えを言おうか「何でもあり」ですよ

33 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 05:03:36.01 0.net
>>30
光が届かない速度で遠ざかる遠い宇宙空間の事象は人間が知る可能性は無いがこれは存在しないと言って良いのだろうか

34 :DJ学術 :2018/02/12(月) 08:09:27.46 0.net
方法序説何て哲学を読んでもしょがないってつくりになってるわけだが。たぶん。

35 :DJ学術 :2018/02/12(月) 08:10:28.48 0.net
当時の哲学でも短絡的なものは切ってないと。哲学オンリーとか。
ソクラテスも哲学ばかりが分野じゃないだろ。

36 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 10:42:03.37 0.net
>>32
いい線いってるね。

まわりが育ってきてるから、もう俺(>>1)が書き込まなくてもいいかな。

37 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 10:43:00.64 0.net
なんという上から目線

38 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 11:09:37.83 0.net
>>37
メタに立っていたいんだよ立たせてやんな

39 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 13:51:56.53 0.net
>>30
正しくは「Aが存在する」と同値の命題、あるいは「Aが存在する」の諸々の必要条件ではないかな?それにしても「存在する」はどう定義したらいいものだろうか

40 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:00:16.05 0.net
>>36

哲学板は、波平のおかげでにぎわってるが(笑)、基本的に過疎っている。

スレを立てた以上、自分でレスを書き続けないと、すぐ埋もれるぞ。

41 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:02:27.65 0.net
机やイスが存在する。
犬や猫が存在する。

それと同じように、存在も存在する。

42 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:04:10.22 0.net
ここで、仮に、「存在」が存在しないと仮定してみよう。

それは、「存在」であることと矛盾する。

ゆえに、「存在」は存在する。

43 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:10:22.46 0.net
BはAよりも大きい。CはBよりも大きい。そのハテには、「これより大いなるものが存在しないもの」がある。

もしも、「これより大いなるものが存在しないもの」が、存在しないとしてみよう。

それには、「存在」という要素が欠けていることになる。

それは、「これより大いなるものが存在しない」ということと矛盾する。

44 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:13:02.70 0.net
神は全知全能だというが、「存在する」という属性が欠けているのならば、神は完全無欠ではない。

45 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:13:34.43 0.net
>>37

>>1だが、実際に、上にいるんだから問題なくね。

46 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:16:21.05 0.net
BはAより完全である。CはBより完全である。Dは・・・というのを続けていくと、
いつかは必ず、「完全無欠」に行き当たるはず。
完全無欠なものよりも完全なものはあり得ないから、そこが終着駅となる。

しかし、その完全無欠なものに、「存在する」という要素が欠けているとしたら。

それは、まだ完全無欠ではない。
まだまだ、上には上がある・・・ってことになる。

47 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:17:55.79 0.net
>>1は波平だろうがやっぱアホだな
方法序説すらまともに読めないのか

48 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:18:43.23 0.net
あ、今は禊健太郎だったか

49 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:19:57.08 0.net
直感は推論の過程がない認識であり、理解は推論の過程のある認識である
「Aがある」や「Aが存在する」というのは直感だろうか?理解だろうか?
「Aが見える」や「Aが聞こえる」や「Aが触れる」は直感だろう
では「Aがある」や「Aが存在する」は直感だろうか?
恐らく「Aがある」や「Aが存在する」は直感ではなく理解であり、我々は成長の過程で「直感されるものは存在するものである」という言葉を学び、諸々の直感が生じる度にこの言葉を思い出して推論し、「Aがある」とか「Aが存在する」とか言っているのではないか

50 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:23:06.57 0.net
この世が存在するのかどうかは、確信が持てない。

でも、少なくとも、私は存在する。
自分のことは、自分が一番よくわかっている。
だから、私が存在するということが、私にはわかる。

私が存在するということは、私よりも完全なものはあるはず。
さらに、それよりも完全なものはあるはず。
さらに、それよりも・・・というのを続けていくと、いつかは「完全無欠なもの」に行き当たる。

ところが、その「完全無欠なもの」に、「存在する」という属性が欠けているとしたら。
それは、まだ最高に完全無欠ではない。まだまだ、上には上があるってことになる。

51 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:23:47.68 0.net
>>48
なんだ、いまは波平じゃなくて禊健太郎なのか?

52 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:25:52.57 0.net
私には、「完全無欠な存在者」という明晰判明なる観念がある。

私は、不完全なものである。

不完全なものから完全なものが生じることはあり得ない。

つまり、この「完全無欠な存在者」という明晰判明なる観念は、私から生じたものではない。

53 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 14:51:44.10 0.net
波平スレを見分ける方法を教えてください

54 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 17:48:02.64 0.net
不完全でつまらん論理学講座は終わったかね?

55 :考える名無しさん:2018/02/12(月) 18:08:42.82 0.net
プキ?

56 :考える名無しさん:2018/02/13(火) 11:45:40.89 0.net
デカルトのやり方だとある日とつぜん目の前の空間を切り裂いて「外部」の存在がやってきて
「じつはお前が思考できてるのはおれのお蔭だったんでしたー」と宣言するような事態は
想定してないからな。そういう意味では帰納法の現界をもった推論にすぎず、確定的な
真理を述べたものでは無いのは当然。

57 :考える名無しさん:2018/02/13(火) 13:06:43.65 0.net
働いたら負け引き籠もりの祖に敬意を

58 :考える名無しさん:2018/03/11(日) 03:27:47.39 0.net
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

YWR63

59 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 17:51:00.55 0.net
デカルトの“疑っている私は疑えない”の「私」とは超越論的な「私」であり、日常的次元での「私」と、
方法的懐疑(思考法)によるすべてを疑った結果認識された「私」とは異なる。 この両者の違いを知識としてだけではなく、
経験・体得することが求められる。

60 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 18:09:56.51 0.net
超越論的ってどういうこと??

61 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 18:13:14.66 0.net
>>56
そのぐらいのことデカルトは考えてるよ

62 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 19:12:04.44 0.net
イギリスのほうの海にいるニシオンデンザメって
400年ぐらい生きてるそうな
かつて生きていたデカルトさんと同じ時期から
まだ生きてるってことになる

63 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 22:36:10.56 0.net
>>60

>超越論的ってどういうこと?

>デカルトの「疑っている私は疑えない」の“疑っている私”を超越論的な“私(コギト)”とデカルトは述べている。

しかし、この様にデカルトに言われても、我々は“超越論的な私”を、なかなか理解できないのも事実としてある。

“超越論的な私”を具体的に述べると、〜デカルトは、疑っている私(=超越論的な私)に至る為には、「方法的懐疑」という思考法を
使い、“自分の存在を含めて、客観的存在のすべてを疑いなさい”と述べている。 そして、疑っている思考過程に於いて、
“疑い続けている、その思考のバック(=背後)に、思考を意識している自分がいることを認識する”…この思考する自己意識”をデカルトは
超越論的主観(=私)と定義したのである。

64 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 22:49:18.42 0.net
デカルトは超越論的主観など定義してませんよ
たんに「私」としか言っていない

65 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 23:02:51.31 0.net
自分と俯瞰でよくね?

66 :考える名無しさん:2018/03/15(木) 23:07:40.93 0.net
超越論的って、理解してる人あまりいないかもな
難しいもん
俺でも分かるときと分からんときあるし

いつか講釈したるわ、別の場所で

67 :考える名無しさん:2018/03/16(金) 15:41:01.45 0.net
>>64

たしかにデカルトの方法序説・省察には、“私”しか書いていない。 しかし、デカルトの言う“私”には
二つの異なった概念が存在している。 二つの異なった概念とは、我々の一般生活世界での“日常的次元の私”と
“純粋な次元の私”である。

我々一般の読者にとっては、デカルトの本を読んでいるうちに、“日常的次元の私”と“純粋な次元の私”を混同してしまう
ことが往々にしてある。

デカルト哲学での“日常的生活世界次元の私”とは、いわば“よろい(鎧)をまとっている自我”である。
自分の身体に纏っている“よろい(鎧)”を「方法的懐疑」という思考法によって、その“よろい”を一枚づつ取り除いていき
“純粋な自我(=私)”となることだ。 この“純粋な自我”を超越論的主観と名付けている。

デカルト哲学を論究する為には、同じ意味の私(自我)と捉えてしまう間違いは、論理的に考察するうえで障害となり、
誤った論理結果を導いてしまう。
この過ちを防ぐ為に、分かり易い“別の名前”として「超越論的」と付けている訳です。

尚、“超越論的”という言葉をデカルト哲学に対して最初に使用したのはフッサ−ルである。その後、今日まで多くの哲学者が
“超越論的”という言葉を哲学考察する過程に於いて使用している。

68 :考える名無しさん:2018/03/16(金) 16:35:20.63 0.net
超越論的主観はカントの用語であって、デカルト関係なし

69 :考える名無しさん:2018/03/17(土) 14:51:24.27 0.net
>>68

“超越論的”の概念には、カント的な「超越論的」と、フッサ−ル的な「超越論的」の2通りの概念がある。

カント的な「超越論的」とは、 “対象に関わらないで、ア・プリオリ(先天的)に可能な限りでの対象の認識の仕方に関する
認識のこと”をカントは「超越論的」と定義した。

フッサ−ル的な「超越論的」とは、 “現象学的還元”あるいは“方法的懐疑”によって、対象に直接的に関わって認識される
ことをフッサ−ルは、「超越論的」と定義した。

上記でも分かる様に、フッサ−ル的な「超越論的」の概念は、“方法的懐疑”によって“一切の対象”を疑い、対象そのものと
直接的に深く関わっている。  従って、「超越論的主観(コギト)」は、デカルトと密接に関係している訳です。

70 :64:2018/03/18(日) 10:28:17.43 0.net
>>67>>69
そのフッサール自身が

「デカルトは超越論的転換に失敗した」(デカルト的省察第10節)

と書いているのに
フッサールの言う「超越論的主観性」がデカルトの言う「私」と同じだなどと
何を根拠に貴方は言っているのですか

71 :考える名無しさん:2018/03/18(日) 19:02:22.76 0.net
>>70
「デカルト的省察」(第10節)で、フッサ−ルはデカルトの超越論的な転換の失敗の原因を
“デカルトの場合は、我を思うところの実体とみなし、“因果律のための出発”とするという、致命的な転換によって
まさにそんなふうに考えてしまった。…それゆえに“超越論的主観性”のもつ意味を捉えそこなった。」と記述しているが、
しかし、私はデカルトが行った論理的過程から失敗とは思わない。

それは何故かというと、デカルトは“方法的懐疑”によって、主観的事象そして客観的事象のすべてを“疑い” その究極の
次元に於いて、『不可疑的存在』としての“純粋な自我(私)”に至っている。 そして、次の部分が最も重要なところだが、
“純粋自我(超越論的主観)”と“因果律次元”とは切り離された別々の次元(=領域)として捉えられている。

何故ならば、“純粋自我(超越論的主観)”は、疑うことのできない“不可疑的存在(=超越論的主観)”として独立した領野であるからです。

72 :64:2018/03/18(日) 19:41:33.99 0.net
>>71

不可疑的存在であることが、即ち超越論的主観であることの根拠は何ですか?

73 :64:2018/03/18(日) 19:57:18.69 0.net
フッサールは自己の用いる超越論的主観性について貴方は

『“現象学的還元”あるいは“方法的懐疑”によって、対象に直接的に関わって認識されること』

と言っているが>>69、貴方は現象学的還元と方法的懐疑は同じものだと考えているのですか

また、「対象に直接的に関わって認識される」ことは実際に可能だと、貴方は思いますか

74 :64:2018/03/18(日) 20:05:58.12 0.net
貴方がデカルトの論理的過程は失敗とは思わないと言っているが
フッサールはそれを失敗だとした

つまり、フッサールの超越論的主観性は、デカルトのいう『私』とは違うものなのでは、と
貴方は思わなかったのですか

75 :64:2018/03/18(日) 20:13:04.46 0.net
もし、デカルトの「私」がフッサールの超越論的主観性と同じものだとして
貴方の言うように、デカルトが“失敗していない”とするなら
デカルトを失敗だと断じたフッサールこそが失敗したのだ、と
そういうことになりませんか

また仮に、どちらも失敗はしていないのだ、とするなら
デカルトの私と、フッサールの超越論的主観性は、別の概念である
そういうことになると思われますが、それでよろしいですか

76 :64:2018/03/18(日) 20:29:40.34 0.net
デカルトの哲学が成功した大きな理由は
存在を疑うことのできない「私」を推論の出発点とすることで
合理的に世界を理解することを可能としたことにあり、
それによってデカルトは近代哲学の父となりました

もし、デカルトの私が因果律のための出発点とならないものだとするなら
デカルトの哲学的成功はは崩壊すると思いますが
貴方はそう思わなかったのですか

77 :考える名無しさん:2018/03/19(月) 08:37:51.73 0.net
なぜ私の存在を疑うことができないのだ?疑えるだろう

78 :考える名無しさん:2018/03/19(月) 09:02:04.88 0.net
誰が疑うの??

79 :考える名無しさん:2018/03/19(月) 09:02:22.06 0.net
仏教の教えはわれ思うの「我」を忘れよと云ってるけどね

80 :考える名無しさん:2018/03/19(月) 09:05:05.18 0.net
疑っているうちは忘れられないね

81 :考える名無しさん:2018/03/20(火) 04:00:07.80 0.net
超越論的私
デカルトのは神のコピー(劣化コピー)的オリジナル
 コピーは部分的にミスる可能性
フッサ−ルのは神のクローン的オリジナル
 クローンはHolisticなリセット

超越的私は神的(the Holy)かな

82 :考える名無しさん:2018/03/20(火) 14:16:46.68 0.net
>>75
>もし、デカルトの「私」がフッサ−ルの超越論的主観性と同じものだとして
貴方の言うように、デカルトが“失敗していない”とするなら、デカルトを失敗だと断じた
フッサ−ルこそが失敗したのだ、と、そういうことになりませんか。

>フッサ−ルは、デカルトと同じ概念として「超越論的主観(=私)」を理解していたが、
しかし、フッサ−ルが実行した“方法的懐疑”の思考過程は、“主観的事象の一部(学としての部分)”を
意識的に、“疑い(エポケ−)”の思考過程に於いて制限(=除外)していた。

この“疑いでの制限”について、イデ−ンI にて「私たちは、このエポケ−の全般性を制限する。〜ましてや“学”に
至っては、制限は言うまでもないからである。」とフッサ−ルは述べている。

上記の“学”とは、フッサ−ルが唱えている「厳密学としての哲学」としての“学”のことであり、この、自身の“厳密な学”を
意識的に“エポケ−(疑う)”がら除外していることである。
その為に、フッサ−ル自身が“真の超越論的主観(私)”を理論的に理解していながら、あえて、“学に固執”してしまい
実際には、“超越論的主観(私)次元”の一歩手前で踏みとどまってしまったのである。

本来の正しい“方法的懐疑”とは、デカルトも述べている様に、“主観的事象のすべて”と“客観的事象”を疑い(エポケ−)、
その究極の次元に於いて“超越論的主観”を認識することです。

83 :64:2018/03/21(水) 09:44:35.19 0.net
>>82
そうすると貴方は、次のように考えているわけですね

 <デカルトによる方法的懐疑は、厳密な学(としての哲学)を求めることが目的ではなかった>



そう捉えてよろしいですね

84 :考える名無しさん:2018/03/21(水) 13:17:43.65 0.net
>>83

フッサ−ルの目標とした「厳密な学としての哲学」は、“超越論的主観次元”であるところの
“純粋意識(=純粋現象)に於いて、本質観取”することであり、フッサ−ルの求めていたてものは、
デカルトと同じである。 しかし、>>82でも書いたように、フッサ−ルは方法的懐疑に於いて、“主観の
一部(学としての部分)”を除外した為に、フッサ−ル本来の目標としていた「厳密な学としての哲学」に至らなかった
と言うことです。

従って、デカルトは方法的懐疑によって“純粋意識(純粋現象)”に至り、この次元にて現れる現象を、本質観取している。
この、方法的懐疑による“純粋意識”から本質観取までの一連の思考過程は、『方法序説』第二部に「四つの規則」として、
記述されている。

85 :DJ学術 archive gemmar 髭白紫の上:2018/03/21(水) 13:20:12.82 0.net
超人論も懐かしいけど
、厳密な学問の哲学というと、主観客観の認識を排除したという無理な状態であって、
余るものの予後を考えていなかったという反省に立っています。

86 :考える名無しさん:2018/03/21(水) 13:30:04.72 0.net
>>82

その観点だと、仏教もそうだよね。仏教で説く無執着を真に実践するのであれば、
そうした仏教の教え自体をも棄却して、そこから離れていなければならないので
あって。だから、仏教者が仏教の教えを深く信奉し、そこに集中するのは、
その教義の無執着と解脱に矛盾してしまうというパラドクスがそこに成立する。

まあ、世の中には、そうした論理的に突き詰めていくと、
パラドキシカルな状況になることが多々あるので、
適当な所で、エポケー、妥協できるのが正常人なのだろう。

87 :DJ学術 archive gemmar 髭白紫の上:2018/03/21(水) 13:32:06.40 0.net
女性に執着をなくすことは無理。時間論の問題になってくる。

88 :64:2018/03/21(水) 14:15:29.57 0.net
>>84
デカルトが“純粋意識”に至ったと貴方が判断した(デカルトによる)記述を
引用してもらえますか

89 :64:2018/03/21(水) 14:20:12.39 0.net
>>84
それから、貴方の言う主観の一部(学としての部分)ですが
“学”とは何を意味していると思いますか

まさか既存の学問のことだとは思っていませんよね

90 :64:2018/03/21(水) 14:27:16.76 0.net
>>84
デカルトが採用した「4つの規則」とは何か、引用してもらえますか

91 :64:2018/03/21(水) 14:38:38.49 0.net
貴方もお忙しいでしょうから、私が引用しましょう

デカルトが敷いた4つの規則

1)私が明証的に真であると認めなければ、どんなことも真として受け入れない
2)私が検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの小部分に分解する
3)私は思考を順序にしたがって導く
4)すべて場合に、完全な枚挙と全体に渡る見通しをして、見落としがないようにする

<デカルトは方法的懐疑の対象からこれらの規則を事実上除外している>
と私は思いますが、貴方はそう思わなかったのですね

92 :考える名無しさん:2018/03/21(水) 18:08:49.61 0.net
>>91

デカルトが方法的懐疑の対象から「四つの規則」を事実上除外している
という根拠を具体的に述べて下さい。

93 :考える名無しさん:2018/03/21(水) 18:20:19.64 0.net
>>89

「主観の一部(学としての部分)」の“学”とは、フッサ−ルが創設した「厳密な学」という
新しい“現象学の哲学”のことをいう。

94 :64:2018/03/21(水) 19:35:47.72 0.net
>>92
方法的懐疑に於ける原則がその4つの規則なのだから
それを除外したら方法的懐疑そのものが成り立たないでしょう

以前にも言ったかもしれませんが
馬鹿は哲学なんかしないでください

95 :64:2018/03/21(水) 20:04:17.87 0.net
>>93
その新しい“現象学の哲学”は、既存の学問ではありませんよね
(新しい哲学としての現象学、と言った方が良いのでは?)

それまでの哲学は厳密ではなかった(と少なくともフッサールは思っていた)
つまり、いつまでも「あーでもない、こーでもない」と不毛な形而上学をぶち上げては
その批判をする、その繰り返しでしかなく、「学ぶべき哲学」としては結実しない

フッサールは「学ぶべき哲学」の結実を望んだ
その意味は、「客観的に基礎づけられたな哲学」」ということです
万人が納得するための基礎となり得る岩盤を探り当てましょう
その思いを「厳密な学」という言葉に込めたのです

これは私勝手なの思い込みでも何でもなくて、「厳密な学としての哲学」で
フッサール自身が宣言していることです

その新しい歩み(厳密な学を求める道程)を踏み出すために、「判断停止」という武器を
発見した

しかし結局フッサールの挑戦はは成功したとは思えません
中途半端かつ絶妙に論理を内包するデカルトの「私」の方が成功したのとは対照的です

貴方の言ってることは、まるで的外れだと、私は思いますね

96 :64:2018/03/21(水) 20:13:50.85 0.net
ああ、これは誤解を招きますね>>94、すいません

?それを除外したら
○それを懐疑の対象としたら

97 :考える名無しさん:2018/03/22(木) 16:52:36.75 0.net
>>95

「現象学的思考」は貴方も理解していると思うが、「前提(命題)」を設定しない思考です。そして、演繹のように「前提」を
設定する思考が「形式論理思考」です。

デカルトの「四つの規則」の(三)で「私の思考を順序に従って導くこと、すなわち最も単純で少しずつ、いわば段階を追って、
最も複雑なものの認識にまで登って行き、かつ、自然のままでは前後の順序を持たぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。」と、
述べている、 そして、そのあとに「すべての事物のうち、真ならぬ いかなるものも真として受け入れることなく、かつ、それら事物の
あるものを他のものから“演繹”するに必要な順序をつねに守ること。」と、デカルトは述べている。

上記の「私の思考を順序に従って導くこと。」と、デカルトは述べているが、この“思考を順序に従う”とは、『演繹的思考』のことであり、
(三)の項目は、“形式論理思考(演繹)”を記述している。

従って、デカルトの「四つの規則」の(1)は、“明証的にその通りであると認識”するのは、“純粋意識(純粋現象”)であり、
(2)は、現象学での“本質観取”と解釈している。
(3)は、上記の(2)で本質記述された諸現象を“演繹を基底”として、命題化(=前提化)し、推論から結論へと諸現象を順序だてる。
(4)は、現象学的思考(1)→本質観取(2)→形式論理思考(3)までを、完全な枚挙と全体にわたる通覧をする。

上記の(1)〜(4)が、私の解釈している「四つの規則」の内容です。

98 :64:2018/03/22(木) 18:04:13.85 0.net
>>97
デカルトが明快に述べている4つの規則を
わざわざ現象学の小難しい用語に置き換える意味が分かりません

そもそも、そのような置き換えは不可能であるし、意義がないと私は思いますが
貴方はそうは思わないのでしょう

デカルトとフッサールが似ているのは目的だけであり、やりかたは全然ちがう

純粋意識というのは多分こういうことです
通常我々が生きているときには、「自然的一般命題」に従って世界を認識している
それはつまり、意識の外に時間空間的な形でものが存在している、そういう認識です

しかしその認識に対しては、、
<単にその存在を信じているだけである(主観が超越的なものを定立している)>
と疑う自由がある、これが普通の懐疑論

デカルトは、その存在を疑えない「(論理的に疑う)思惟」を論理もろとも救い出し、
“神”と論理の力で時間空間的な世界を構成し、懐疑論を粉砕した

フッサールの場合は、通常定立される“もの”は超越しているから、そこで態度変更を行い
認識される対象を括弧に入れて(判断中止)、超越世界を定立する働きだけを排除し、
<対象としてはなにものも失うことなくそっくりそのまま内在世界に取り込む>
この取り込まれた領域を(とりあえず領域とでも言っておくしかない)、『純粋意識』または
『超越論的主観性』と呼ぶことにする
と、そういうことでしょう
(フッサール自身、現象学的残余と口走ったこともあるようですが、後に否定したようです)

99 :64:2018/03/22(木) 18:23:21.80 0.net
本質観取(本質直観)というのは、現象学的な態度変更によって成立した純粋意識の
(本質的)構造を記述的に分析するために、(フッサールによって)許可された力、
とでも言ったら良いのでしょうかね

簡単に言うと、<聞こえてくる音と見えている色は、本質的に違うものである>
そのような区別を可能とする直観的な力のことを本質直観と言うようですが、
どうしフッサールがそのような定立を妥当としたのか、私には分かりません

100 :64:2018/03/22(木) 18:32:17.48 0.net
ここまで書いておいて>>97を読み返してみましたが、
何を言っておられるのか、私にはさっぱり分かりませんね

101 :考える名無しさん:2018/03/23(金) 10:50:23.48 0.net
>>98
「現象学的還元」によって至るのは、“純粋現象(=主客未分化)”の領野であり、「方法的懐疑」によって至るのは
“超越論的主観”領野であるという違いがある。 しかし、両者は疑うことの出来ない“不可疑的存在”であり、その思考過程は
“一切の主観的事象と客観的事象”を排する(=疑う)”思考の働きであり、“排する(=疑う)”という思考作用は“前提を設定しない”
思考法です。
従って、現象学的還元と方法的懐疑は同じ“現象学的思考”と解釈している。

現象学的思考が“前提を設定しない思考法”に対して、形式論理思考は“前提を設定する思考法”であることは貴方も理解できると思います。

デカルトの“四つの規則”で、(三)の項目が“形式論理思考”であるという根拠は、デカルトが“四つの規則”を実践して、数学の問題を
究明していることです。 数学は公理、定理を前提とした“形式論理思考”です。 そして、デカルトは種々の問題に対して“真”としての
明証的な認識を基に、“演繹”すると述べている。  この“演繹”という思考作用は“前提を設定する”ので形式論理思考である訳です。

従って、デカルトの“四つの規則”は「現象学的思考法(一)」から「形式論理思考法(三)」へと思考を進めていく思考過程を解説したものである
ことが分かると思います。

102 :64:2018/03/24(土) 09:56:29.84 0.net
>>101
『現象学的還元とは前提を設定しない思考法」だと貴方はそこで言っておられるが
しかし貴方は>>82
「フッサールは、自身の“厳密な学”を意識的に“エポケ−(疑う)”がら除外している。」
と言っていますね
それは「フッサールは現象学的還元をすることができなかった。」と貴方は言いたいのですね
そのように理解してよろしいですね

また貴方は、デカルトは方法的懐疑によって“純粋意識(純粋現象)”に至り、
この次元にて現れる現象を、本質観取している。」と言っていますよね>>82

デカルトは方法的懐疑をするに先立って4つの規則を設定しましたが、
その4つの規則は方法的懐疑の対象から除外しても純粋意識に至り
本質観取するのに問題はない、と貴方は考えているということですよね
そうなんですよね

自分でダブルスタンダードだとは思いませんでしたか

103 :考える名無しさん:2018/03/24(土) 12:45:05.28 0.net
我悟る。
我矛盾を内包す。
故に哲学なり。

104 :考える名無しさん:2018/03/24(土) 13:52:45.10 0.net
>>102

>デカルトは方法的懐疑をするに先だって四つの規則を設定しましたが、
その四つの規則は、方法的懐疑の対象から除外しても純粋意識に至り本質観取するのに
問題はない、と貴方は考えているということですよね。

>>101でも書いている様に、デカルトの“四つの規則”の(一)が“方法的懐疑”という思考法を実行している状態であり、
“疑う(排する)”という思考活動の究極の次元に於いて“純粋意識(純粋現象)”に至る。 つまり“、四つの規則”の(一)の項目が
“方法的懐疑”思考法を実行し純粋現象(純粋意識)”という〈認識状態〉を創る。

“四つの規則”の(二)で、純粋現象という認識状態に現れる諸現象を“本質観取(=本質直観)”し、本質記述する。

“四つの規則”の(三)が、“形式論理思考法”であり、(二)で本質記述された諸現象を“前提化”し、推論をし、結論を導き出し、
一定の論文とする。

“四つの規則”の(四)が、(三)での“形式論理思考法”によって作成された種々の論文を完全な枚挙と全体にわたる通覧をする。


上記の内容で分かるように“四つの規則”とは(一)が方法的懐疑の実行です。
(二)が方法的懐疑で実行された“純粋現象”の状態で“本質観取”し、そして“本質記述”する。
(三)は、(一)と(二)の〈現象学的思考状態〉を終了し、思考法を切り換えて“形式論理思考”を実行する。

私は“方法的懐疑”を一つの思考法と捉えている。又、“形式論理思考”も一つの思考法として捉えている。
デカルトも同じように各独立した“思考法”として捉えている訳です。

“四つの規則”は、(一)現象学的還元→(二)現象の記述→(三)形式論理思考→(四)完全な枚挙と全体の通覧という
進行方向を持った思考法の手順を著したものであると解釈している。

105 :64:2018/03/24(土) 15:01:51.86 0.net
>>104
で・す・か・ら、
その(二)(三)(四)はどうして無条件に正しいことになるのですか

方法的懐疑によって「真」だとされたのは
「私」が存在すること、それだけでしょう

106 :DJ学術archive gemmar髭白紫の上:2018/03/24(土) 21:21:59.29 0.net
もっとも複雑なものが必ずしもなぜ最後に来るんだい。そんな現場に対応できない哲学
に何の価値があるのだね。書きなおしなさい。

107 :考える名無しさん:2018/03/25(日) 00:01:05.02 0.net
方法的懐疑によって「真」とされた「私」と、一般的な生活世界で認識される「私」とは
まったく概念が異なるでしょう

108 :64:2018/03/25(日) 00:15:25.60 0.net
>>107
異なるだろうね

だからどうしたのかね

109 :考える名無しさん:2018/03/25(日) 16:24:01.39 0.net
>>105

私たちが普段認識している日常的生活世界の「私」は、外界(=世界)を意識し、
外界に対する、一個の存在として、「私」を認識している。 しかし、“方法的懐疑”を実行し、究極の状態に至った
超越論的な「私」(主観)」の概念は、日常的生活世界の「私」の概念とはまったく異なっている。

超越論的な「私(主観)」は、日常的生活世界の「私(主観)」とは異なる“哲学的な意識次元”にあるということを念頭に
置いて、超越論的主観(=主観)に至る思考の流れを述べることにします。
哲学的考察となるので非常に難解となりますが貴方なら理解できると思います。

超越論的な“主観”とは、“真”を究極の目標として、一切の事象(=既成概念)を対象として“偽”なるものを振り分ける。

究極に於ける“真”を目標として“一切を疑う(エポケ−)”のであるから、究極の“真”の状態は、「私」としての、すべてを
内包した「領野」としての内在認識(=主観)が構成される。 つまり、超越論的としての“主観的領野”となる。

この“主観的領野”は、『世界のすべてのものが、その主観的領野の内で構成される』という捉え方をする。この思考過程で
日常的生活世界(私)から超越論的世界の主観(私)へと主観(私)の概念が変様している訳です。

超越論的次元での“主観的領野内”にて現われる種々の現象の本質を観取する思考作用が“本質観取”であり、“四つの規則”の
(二)の思考手順となる訳です。

110 :64:2018/03/25(日) 17:01:30.22 0.net
>>109
貴方の話はデカルトの思考過程とは全く関係ない(デカルトは疑わしいものはとりあえず
否定するので、そのまま真として主観に内包するようなことはしない)が、もう仕方ない

その話に乗っかるなら、「現象の本質を観取する」というのは
『検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの小部分に分解する』のと同じことなのですね

もし違うなら、現象を本質観取する例を挙げてみてください

111 :考える名無しさん:2018/03/25(日) 19:24:34.89 0.net
>>110

その通りです。
「検討する問題の一つ一つを出来るだけ多くの小部分に分かつ」とは
“主観的領野の内”に現れる現象をできるだけ多く分かつ”そして、種々の現象の本質を観て取ることを“本質観取”という。

112 :64:2018/03/25(日) 19:27:54.49 0.net
>>111
おおなるほど

そうすると、『現象をできるだけ多く分けてその現象の本質を観て取る』ことは
真理を掴むために無条件に正しい行為であるわけですね

113 :考える名無しさん:2018/03/25(日) 22:42:28.20 0.net
>>110
「デカルトは疑わしいものはとりあえず否定するので、そのまま真として主観に内包するようなことはしない」と
書いているが、その通りです。


>>109に書いた「究極の真の状態は、「私」としての、すべてを内包した「領野」としての内在認識(=主観)が構成される。」という意味については、
上記の「究極の真の状態」が、“究極の真を目標として一切の事象を疑って〈偽〉となるものを否定(=排する)した不可疑的な状態であり、
「私としてのすべてを内包した領野という意味」は、“主観的領野は不可疑的存在(疑うことのできないもの)として在る”と言う意味です。

114 :64:2018/03/26(月) 03:03:53.36 0.net
>>113
おおそうですか

つまり、『主観的領野の“存在そのもの”は疑えない。』、そういうことですね

そこで次は、主観的領野に内在的に展開される現象に対して、本質直観がどのように
機能するか、という問題になりますね

さて、あらためて確認しますが
「現象の本質を観取する」というのは
『検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの小部分に分解する』のと同じことなのですね

そのときに、『現象をできるだけ多く分けてその現象の本質を観て取る』ことは
真理を掴むために無条件に正しい行為であるわけですね
それが正しいかどうかについては懐疑しないでよい、と貴方は考えているのですね

115 :考える名無しさん:2018/03/26(月) 20:12:35.65 0.net
我が分裂する統合失調は、デカルトを超えてると思う

116 :考える名無しさん:2018/03/27(火) 22:29:35.51 0.net
>>114

その通りです

主観的領野は不可疑的存在(疑うことのできない領野)であり、主観的領野に現れる
“種々の現象”の本質を観て取る。 そこに現出した種々の現象の本質を“ありのまま”に記述する。
私は、この“本質記述”を“カ−ド”へ記入するようにしています。

117 :64:2018/03/28(水) 15:47:20.65 0.net
>>116
ああ、主観的領野の存在が疑えないのではなく、
主観的領野はそもそも“不可疑的領野”なんですか

ところで「学」というのは本来的に主観的領野に現出するものですから
主観的事象の一部である「学」に対して、懐疑を制限することに問題は無いはず、ですよね

しかしそれでは貴方が>>82で言っていることと矛盾してしまいます
辻褄合わせてもらえませんか

118 :考える名無しさん:2018/03/28(水) 18:39:34.10 0.net
>>117

>ところで「学」というのは、本来的に主観的領野に現出するものですから
主観的事象の一部である「学」に対して、懐疑を制限することに問題は無いはず、ですよね

>フッサ−ルの述べている「学」というのは、日常的生活世界で、自身が考えた「厳密学」としての「学」であり、
この、フッサ−ルが固執している「学」は、主観的領野(不可疑的存在)に現出するものではありません。

フッサ−ルが考えた「厳密学」そのものは、日常的生活世界での“既成概念”としての一般的な主観的事象である訳です。

従って、主観的事象と客観的事象の両方に“方法的懐疑(エポケ−)”を実行するのが正しい現象学的思考法です。

119 :DJ学術archive gemmar髭白紫の上:2018/03/28(水) 18:45:24.59 0.net
分裂をもたらしたキリストとドバイミレニアム。

120 :DJ学術archive gemmar髭白紫の上:2018/03/28(水) 18:46:28.58 0.net
世界中が祝祭ムードに。ええじゃないかの乱舞以来だな。

121 :DJ学術archive gemmar髭白紫の上:2018/03/28(水) 18:47:39.45 0.net
統廃合 の失策 音調の失調 神託 神託 地方銀行 マイネナンバー

122 :DJ学術archive gemmar髭白紫の上:2018/03/28(水) 18:48:18.64 0.net
悪霊を食うとかより悪霊に食われる方が新世紀。エバ 使徒

123 :64:2018/03/28(水) 18:56:08.34 0.net
>>118
それは違いますね

なぜなら、フッサールの言う厳密学としての学とは『現象学』のことでしょう
貴方自身がそのように言っている!!>>93

そしてそれは既存概念ではなく
貴方の言う『エポケー』と『本質観取』によって導き出される学であるはずです

それを踏まえて、もう一度どうぞ

124 :DJ学術archive gemmar髭白紫の上:2018/03/28(水) 19:07:29.50 0.net
エボケー・シフォンケーキのほうが。本質的に読むといいかもね。
現象学も地味だけど、危険性はないね。

125 :考える名無しさん:2018/03/29(木) 15:14:47.59 0.net
>>123

たしかにフッサ−ルの言う厳密学としての学とは『現象学』のことです。 私が>>118で述べているのは、
方法的懐疑、あるいは現象学的還元を実行する場合に、 その対象となるものは“一切の事象”である訳です。
ですから、いかに“優れた論理・理論そして、学”であっても、一旦、“すべての事象”は、還元あるいは懐疑されねばならない訳です。

一切の事象(主観的存在と客観的存在)をエポケ−(括弧入れ)した超越論的『主観的領野(不可疑的領域)』にて、本質観取が
行われる。 

つまり、フッサ−ルの“学”は方法的懐疑によって、一旦、【括弧入れ(エポケ−)され】、その後に、超越論的な“主観的領野にて、
“学”が括弧入れ(エポケ−)から“解放”される訳です。

上記を具体的に述べると、 従来からある、自分の考え・理論などの諸々の既成概念を鎧(よろい)に例えた場合に、
還元・懐疑によって、自分(=主観)にまとわり付いていた鎧(よろい)を脱ぎ捨てた超越論的主観(主観的領野)に於いて、
一旦、括弧入れしておいた“学”などの一切の事象を、“括弧から解放”し、超越論的な主観的領野(=構成的内在)にて、
“本質観取”される訳です。

126 :64:2018/03/30(金) 10:00:58.65 0.net
>>125
ええ、ええ、ですからね

その

>全ての事象は還元あるいは懐疑されねばならない

そして

>一切の事象(主観的存在と客観的存在)をエポケ−(括弧入れ)した超越論的『主観的領野(不可疑的領域)』にて、本質観取が行われる。』

それこそが現象学であり、“学”の部分なんですよ

貴方のために分かりやすく説明いたしますとね

>一切の事象(主観的存在と客観的存在)をエポケ−(括弧入れ)した超越論的『主観的領野(不可疑的領域)』にて、本質観取が
>行われる。

その現象学的手法に対して、貴方は懐疑なりエポケーなり『しないまま』に平気な顔でおられるわけだが
それは、学に対してエポケーを制限しているのと同ことだと思いませんか、と

そういうことを言っているのです
分かっていただけましたかね 

127 :考える名無しさん:2018/03/30(金) 10:21:35.65 0.net
もし、自己や世界をあるがままに観察し、
「これはわれに属するものではない、これはわれではない、これはわれのアートマンではない」
と知るならば、自己や世界に関する誤った見方を捨てることができるであろう。
(マッジマニカーヤ 8:3)

この場合、自己や世界のあるがままの観察は「われに属するものである、われである、われのアートマンである」と見做していいのですか?
そう見做さないと無限に観察を続けないといけないことになりますが…

128 :考える名無しさん:2018/03/30(金) 21:22:37.57 0.net
あるがままの観察

が無常だったら無我
恒常だったら我

129 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 14:11:03.55 0.net
>>126

形式論理学(伝統的形式論理学と現代論理学)は、一つの“学”であり、この形式論理学は
“前提”を設定する思考法を基底とした学問です。 フッサ−ルは、形式論理学に対比する形で“前提”を設定しない思考法を
基底とした“厳密学”を学問として確立した。

フッサ−ルが、エポケ−に於いて“学(厳密学)を除外した”ということは、エポケ−の実行状態に於いて、そこに、
自身の“主観”が働いていることを意味しています。

フッサ−ルの“厳密学”も、一つの学問として確立しているのであり、その意味から形式論理学と同じ様に従来からある
一つの“既成概念”としての学問です。 従って、“厳密学”そのものは、フッサ−ルの“主観的事象”である訳です。

>>125の「いかに“優れた論理・理論そして“学”であっても、一旦、全ての事象は還元あるいは懐疑されねばならない」という意味は、
エポケ−が“実行されている”思考状態では、「厳密学」は、一つの学問(論理)としての“既成概念”として、エポケ−の『対象』となる訳です。

つまり、エポケ−の実行状態に於いては、客観的存在として認識されるもの、そして、主観的存在であるところの“自身の理論・論理・学問”も、
一旦、エポケ−(括弧入れ)されるということです。

130 :64:2018/03/31(土) 14:47:56.20 0.net
>>129
はい、ですから、学とは現象学のことなのでしょう?>>93>>125
そしてエポケーこそが現象学の根幹なのですから
現象学に対してエポケーを行使する(制限しない)というのは
『エポケーをエポケーする』ということなんですよ

貴方はそれで良いのですね

131 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 14:59:26.12 0.net
>>127

主観的領野にて現れる現象には、“実的内在の現象”と“構成的内在の現象”の二通りの現象があります。
思考過程の流れとして、最初に主観的領野にて現れるのは、個的直観による実的内在であり、 個的直観は
知覚、想起、想像などの「純粋な明証性」として現れる。この“個的直観”において 現象が“ありのまま”の状態として現出する。

そして、思考過程は次ぎの肯定として、“構成的内在”へ進が、この構成的内在は、本質直観によって“実的内在”によって
現出した“現象”の本質を構成する。“現象の本質の構成を観て取るのが“本質観取(=形相的還元)である訳です。

132 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 15:22:25.04 0.net
>>130

>「ですから、学とは現象学のことでしょう?」

その通りです。 フッサ−ルの述べている“学(現象学)”と“エポケ−を実行している場合の“学”の意味が異なっている訳です。
エポケ−を実行しているときの〈対象としている学〉と言うのは、“一つの学問”としての概念(=既成概念)です。

つまり、“エポケ−の思考そのもの”と“厳密学という一般化した論理体系”とは別ものであり、この場合は、両者を分離して
捉えなければならない訳です。

133 :64:2018/03/31(土) 15:30:16.19 0.net
>>132
おお!そうですか
だとすると、貴方の言う「エポケー」なり「本質観取」も既成概念なのですから
もう一度それをエポケーするべきでしょうね

丁度いい
>>132の「実的内在の現象」という主観的概念を超越論的主観性の中で本質観取した内容を
近くのカードに記述して、披露してもらえませんか

お願いします

134 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 15:37:03.88 0.net
現象学的手法を遂行するとき
なぜ現象学的手法そのものは現象学的手法によってエポケーされず、遂行を許されているのか

135 :64:2018/03/31(土) 15:39:58.70 0.net
>>134
そういうことです

ただフッサールは、この人と違ってそのことに自覚的でしたよ

136 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 15:46:47.01 0.net
>>135
今までの議論とは全然関係ないんですが
フッサールはこのことをハイデガーと決別したあたりで気づいていたんですかね

137 :64:2018/03/31(土) 15:50:16.71 0.net
>>136
それは私なんかには分かりません
ごめんなさい

138 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 15:51:49.84 0.net
>>137
いえいえ
私もわからないのでお気になさらず
自力で検討してみます

139 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 15:57:35.56 0.net
>>133
>貴方の言う「エポケ−」なり「本質観取」も既成概念なのですから
もう一度それをエポケ−するべきでしょうね。

>その通りです。 エポケ−を実行した場合は、すべてがエポケ−の対象になります。

それから、「実的内在の現象」をカ−ド化し、構成的内在に於ける、カ−ドによる“己ずからの構成(カ−ドをしてカ−ドに語らしめる)という
思考現象は、まず、自分が実践してみて、その実感と体験が重要なので、一度、自分で実行してみて下さい。

140 :64:2018/03/31(土) 15:59:28.35 0.net
>>139
エポケーをエポケーした場合に、エポケーの正当性は何によって保証されるのですか

意味わかります?

141 :64:2018/03/31(土) 16:02:21.98 0.net
>自分で実行してみて下さい。

貴方は本質観取なんかできないことが分かりましたので
それはそれで良いですよ

142 :64:2018/03/31(土) 16:18:48.30 0.net
フッサールはたしかに、イデーンの32節に於いて、エポケーの普遍性を制限しています
しかしそれは、この人の言うような『エポケーの対象から学を除外する』というような
単純な内容ではありません

長くなりますが、少しだけ引用してみます

“我々はデカルトの普遍的懐疑試行の代わりに、我々の厳密に規定された新しい意味での
普遍的「エポケー」を代わらせることができるであろう。しかし我々は十分なる根拠をもって
このエポケーの普遍性を制限する。なぜならば、もし仮にこのエポケーが苟もその可能な
限りに包括的なるものであるとするならば、いかなる措定ないし判断も全く自由に変様され、
判断の手段とされるいかなる対象性も括弧に入れられ得るゆえ、変様せられざる判断に
対する余地、いわんや学に対する余地はもはや残されないということになるからであろう
からである。しかるに我々の目指すところは、一つの新しい学的領分、しかもまさに括弧入れ
(けれどもこの場合は一定の制限された括弧入れ)の方法によって獲得せらるべき領分の
発見に他ならぬのである。”

簡単に言えば、現象学を学として成立させなければならないので、エポケーを馬鹿みたいに
拡大するようなことはしませんよ、と宣言しているわけです

具体的な制限の内容についてはその続きにあります

143 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 16:34:18.44 0.net
>>139
現象学は現象学的手法を実践する限りにおいて、その実践の「内部」では有効な手段です

が、問題はまさにその遂行の始まりにあります
或る人がエポケーを「はじめて」遂行するときに、遂行「する」エポケーはエポケー「される」ことなく済んでいるように思われます
ではなぜ初動のエポケーはエポケーされることを免れるのでしょうか?
なぜ初動のエポケーは他の態度とは異なり、いわば特権的に遂行を許されるのでしょうか?
現象学的態度をとらねばならぬ動機があることはわかります
が、なぜその動機は許され、他の動機は許されないのでしょうか?

144 :64:2018/03/31(土) 16:48:36.50 0.net
続きがあります

“以上の制限は、次の如く言い表せ得る
自然的見方の本質に属する総措定を我々は作用の外に置く。即ちこの措定が存在の点に
於いて包括するあらゆる全てのものを我々は括弧に入れる。即ちそれ故、この全自然世界
(これは恒常的に『我々に対しそこに』、『手前に』ある、そして我々が勝手にそれを括弧に
入れてもなお、意識的現実として引き続きそこに残るであろう)を括弧に入れるのである。
このように私が私の完全な自由によって上述の如く括弧入れを行う場合に、私はあたかも
ソフィストであるかの如くこの『世界』を否定するでもなく、宛も懐疑論者であるかの如く
この世界の定在を疑うのでもない。私が行うのは、私をして時空的定在に関する判断をも
まったく差し控えせしめるところの『現象学的』エポケーなのである。”

つまり、フッサールは、全ての概念をカオスに墜とすような馬鹿なことをしたかったではなく
『日常的に当たり前に定立してしまう世界』は意識がやっていることなのだから、
そのことを自覚した上で、いったいそれはどういう事態なのかを考えてみよう、と

やろうとしていることはカントと同じなのですが、そのための武器として判断中止を使って
みますよ、ということと思います

145 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 20:11:18.84 0.net
(フッサール論破スレはここですか?)

146 :64:2018/03/31(土) 20:34:52.43 0.net
ごめんなさいね

デカルトは偉いよ、現象学とは関係なく

147 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 21:01:44.30 0.net
デカルトさん『情念論』の第一部三一の松果腺(小さな腺)に関するところは間違いだったわけだけど(現代科学的には)
その直前の三〇「精神は身体のあらゆる部分と共同に合一している」で興味深い見解を述べている

三一以降で最終的に脳に精神の主座があるっていうことになるわけだけど
むしろ三〇を発展させて身体に限らずあらゆる物体の総体とともに精神もまた自然全体に広がっている、的な議論も出来たんじゃないかと思う

もうちょいデカルトさんが生きていたらひょっとして『哲学原理』までとは違う形而上学を構築してたんじゃないかなーって妄想する

148 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 21:38:37.85 0.net
>>140

エポケ−を、そのエポケ−の思考中に別のエポケ−をすることは論理上できないでしょう。
それは何故かというと、エポケ−をすることにより“不可疑的存在”となるからである。
つまり、“疑うことの出来ない思考状態”となっているからである。 >>133で貴方が述べている「エポケ−なり本質観取も
既成概念なのだから、もう一度それをエポケ−する」と言う意味を、“エポケ−を実施した後に構成的内在に於いて本質観取し、
その“結果”として、出された一定の解答に対して、新たにエポケ−を実行することだと”私は解釈したからである。

再度、述べるが、「エポケ−をその思考中、或いは、エポケ−を終わった後に、すぐエポケ−をすることは論理的に出来ない。」そこのところは
貴方も理解出来ると思う。

149 :考える名無しさん:2018/03/31(土) 21:52:26.06 0.net
エポケ−(括弧入れ)は、それだけが単独にあるのではなく、疑う(エポケ−)という思考過程は
次の実的内在→構成的内在から本質観取までの連動した思考活動としてある。
従って、エポケ−だけを単独で取り出す様なことは、論理上できない。

150 :64:2018/03/31(土) 22:08:00.80 0.net
>>148
エポケーの途中でも、直後でも、しばらく経ってからでも
こちらとしては別に問題ありません

ためしに『既成概念としてのエポケー」について考えてみましょう
貴方によれば、既成概念であるエポケーは懐疑の対象なのですから
もはやエポケーの正当性が疑われている

だとすれば、エポケーを行使することは正しくないかもしれない
そのようなエポケーであるならば、そもそも行使する意味がない

そういうことでよろしいですね

151 :64:2018/03/31(土) 22:13:27.19 0.net
>>149
エポケーというのは既に言葉であり、概念なのですよ

たとえば、ホップ、ステップ、ジャンプが連動する運動活動だとしても
ホップはステップとは違うものとして理解されるのです

ですから、エポケーは本質観取とは違う概念であり
一緒くたにできるものではないのです

152 :64:2018/03/31(土) 22:22:58.00 0.net
>>149
思考過程が連動していたとしても同じこと

その、「エポケー→実的内在→構成的内在→本質観取」は“主観的事象の一部”>>82
なのでしょうから、それは懐疑の対象であり、何か正しいことである根拠が『そもそもない』

153 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 14:31:40.94 0.net
>>151
>エポケ−というのは既に言葉であり、概念です。

 エポケ−は本質観取とは違う概念であり、一緒くたに出来るものではないのです。

>その通りです。
「エポケ−→実的内在→構成的内在→本質観取」は、それぞれが連動する概念です。
そして、それぞれの概念が全体としての“現象学的思考作用”を担っている訳です。

例えていえば、人体での各臓器の様に、個々の臓器が連携して全体としての機能が成り立っているが、
これと同じことが“現象学的思考作用”でも言える訳です。

「概念としてのエポケ−」と「思考活動中のエポケ−」とは、どの様な連関にあるのかということですが、
“概念としてのエポケ−”は、一般的な学問的理論としての客観的な“固定した理論”としてのエポケ−であり、
「思考活動中のエポケ−」というのは、現象学的思考活動中での“生きたエポケ−”ということである訳です。

従って、「固定化した概念としてのエポケ−」と、「生きたエポケ−」とは、切り離して捉える必要がある。

154 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 14:38:58.95 0.net
>>126

“超越論的主観(私)”と“一切の事象をエポケ−する”、 この両者の連関のことを述べているのでしょうか。

155 :64:2018/04/01(日) 15:05:15.13 0.net
>>153
エポケーという言葉は概念であり
貴方がそこで言っている『生きたエポケー』とはエポケーの実践ということですよ
エポケーの実践とは、エポケーの方法論による行為
概念の内容には当然、方法論が含まれている

貴方によれば、エポケーという方法論(貴方に言わせれば“現象学の論理”)の正当性は
疑われなければならない
なぜなら、エポケーという方法論は、既成概念であり
貴方は>>82において、『全ての主観的事象を疑う(エポケー)のが
正しい方法的懐疑だ。』と、そう述べているからだ
『そうでなければ超越論的主観の次元には行けない』と
貴方はそう言っているわけだ

しかし貴方がエポケーという方法論の正しさを懐疑したとき
それがすでに疑わしいことに気がつくだろう
もはや貴方は、貴方の言う『不可疑的領野』に達することはない

さあどうするのですか

156 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 15:57:23.55 0.net
>>155


いいですか、貴方はここで、「貴方がエポケ−という方法論の正しさを懐疑したとき
それがすでに疑わしいことに気がつくだろう」と述べているが、“疑う”ということは

“一切の主観(自己の意識・意志)”をも疑うことです。

貴方が記述している“それがすでに疑わしいことに気がつく”という意味は、エポケ−に於いて
“自己の意識・意志が残って在る”ということです。つまり、自己意識が働いている訳です。

自己意識(主観=私)が、エポケ−(懐疑)されていないのであるから、それは正しい懐疑(エポケ−)ではない訳です。

157 :64:2018/04/01(日) 16:01:39.88 0.net
>>156
『疑う』ことがそもそも自己意識の働きだと思いますがね

158 :64:2018/04/01(日) 16:04:35.13 0.net
それともあれですか
本質観取などなどのそれらは、意識を喪失した中で行われるわけですか

なかなか傑作なことをおっしゃいますね

159 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 17:24:40.06 0.net
コテ付きのエポケー
名無しのエポケー

160 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 18:11:11.05 0.net
もはや議論ではない
それはわかる
それしかわからない

161 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 20:56:28.15 0.net
>>157
>「疑う」ことがそもそも自己意識の働きだと思いますが。

>方法的懐疑によって、究極の超越論的主観に至るまでの“思考過程”が重要である訳です。
“真”を最終目標として一切の事象を疑い“偽”となるものを否定(排する)する一連の“思考活動”が最も重要である。

一連の“疑う”という思考活動において、日常的生活世界の自己意識(主観)が変様する。では、どの様に「自己意識が変様」するのかというと、
疑う(括弧入れ)という思考作用によって、“日常的生活世界の自己意識(主観)そのもの”は、エポケ−(括弧入れ)され、不可疑的領野へと変様する。

ここで、現象学的思考に慣れ親しんでいない人は、一つの疑問を持つ。 それは、究極の存在である「超越論的主観」も、
日常的生活世界の主観と同じ“主観”ではないか。と疑問に思う。 しかも、超越論的な「主観的領野」にて、現象の“実的内在”そして
“構成的内在”において主観としての“超越論的主観”が働いているではないか。と疑問に思う。 何故、「超越論的主観」は、エポケ−されないのか、と
疑問が湧き上がる。

エポケ−の活動中に、「超越論的主観」がエポケ−されないのは、「究極の存在に於ける、“不可疑的存在”として超越論的主観があるからである。」
超越論的主観が“不可疑的存在”であるからこそ、デカルトは“不動の一点”と呼んだ訳です。

162 :考える名無しさん:2018/04/01(日) 21:14:42.04 0.net
デカルト「何の話や」

163 :64:2018/04/01(日) 21:20:47.28 0.net
>>161
超越論的主観は、既に「現象学に於ける(既成)概念」
貴方によれば、現象学を懐疑の対象からから除外しては超越論的主観に至らない
そうなのですよね>>82
であるなら貴方は、懐疑の正当性を疑わなければならない(除外できない)」

貴方は
『究極の存在に於ける不可疑的存在としての超越論的主観がある』
そのことを疑わなければならない

なぜ疑わないのですか

164 :考える名無しさん:2018/04/02(月) 04:44:59.61 0.net
疑う働きが可能となるのは、コトバがあ
るからですね
コトバがコギトを制約してるんですね
というか、コギトとは、コトバがコトバ自身を自覚するための媒体でしかない
自己とは、コギトの自己ではなく、コト
バの自己だからだ
自己とは、一個の他者だ

165 :64:2018/04/02(月) 06:40:03.75 0.net
そうね

コトバの起源というか、その源泉は謎だね

166 :考える名無しさん:2018/04/02(月) 12:12:50.59 0.net
>>163

>究極の存在に於ける不可疑的存在としての超越論的主観がある。そのことを疑わなければならない。

>超越論的主観を何故、疑わないのかと言うと、>>161でも述べているように、“超越論的主観が、究極の存在として、
『疑うことの出来ない不可疑的存在』であるからです。

167 :64:2018/04/03(火) 09:35:54.68 0.net
>>166
確認しますが
貴方の言う『疑う』から超越論的主観を除外しても良いのですね
そうであっても超越論的主観を獲得するのに問題はない、と
貴方は考えているのですね

168 :考える名無しさん:2018/04/03(火) 22:07:39.49 0.net
>>167

超越論的主観を獲得するには、“疑う”という思考活動を、日常的生活世界に於いて、
方法的懐疑を実行し、そして、究極の“不可疑的存在に至った時に“超越論的主観を獲得する。

従って、“疑う”という思考活動は、日常的生活世界から不可疑的存在としての超越論的主観に至る手前まで行われる。
だから、超越論的主観そのものを“疑うという思考活動”は、無い訳です。

超越論的主観(=超越論的主観領野)に至った次元にて、その領野にある現象が、実的内在→構成的内在(本質観取)へと
思考が進み、意味として現象が構成され、一定の解答が示され、その解答を本質記述する。

現象学的思考は、「方法的懐疑→超越論的主観→実的内在→構成的内在(本質観取)→本質記述」という連動した
思考活動であり、いわば、ある問題を解決する場合に、方法的懐疑から超越論的主観を獲得し、実的内在から本質記述までが
“一セット”として実行される。

従って、解決すべき問題がA、B、C、と別々にある場合は、A,B,C,の問題に対して、それぞれ個別に新たな対応として、
現象学的思考を実行することになる。

169 :64:2018/04/04(水) 05:46:43.87 0.net
>>168
そうですか、超越論的主観を疑うことは『ない』
つまり超越論的主観は、懐疑から除外されているわけですね、分かりました

しかし貴方によれば、『現象学は懐疑せねばならない』らしい
そうでなければ超越論的主観に至らない、と貴方は言っていますね>>82
ところで現象学とは、厳密な現象学的思考により構築されるものですよね

それでは、貴方の言うところの「現象学的思考」
つまり「方法的懐疑→超越論的主観→実的内在→構成的内在(本質観取)→本質記述」ですが
貴方によればこれは、『連動した一セットの思考活動』ということですが、もしそうであるなら
ここにも懐疑する余地はなさそうです(あるのですか?)

繰り返しますが、厳密な現象学的思考によって構築されるのが現象学ですよね
どうしてそこに懐疑する状況が生まれるのですか

納得できる説明を御願いします

170 :考える名無しさん:2018/04/04(水) 12:38:25.27 0.net
>厳密な現象学的思考によって構築されるのが現象学

初心者が間違えるところだよ。

171 :考える名無しさん:2018/04/04(水) 21:41:14.61 0.net
>>169
>厳密な現象学的思考によって構築されるのが現象学ですよね。
どうしてそこに懐疑する状況が生まれるのですか。

>フッサ−ルが提唱した“現象学”は、我々を含めて誰しもが認識している客観的な学問としての“現象学”として
理解している。つまり、我々が理解している“現象学”は、『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”として認識
し、理解している訳です。

現象学的思考は、>>168でも述べたように、まず、最初に“方法的懐疑”を実行します。 “方法的懐疑”を実行中に於いて、
“一切の事象を“疑う”ということは、「日常的生活世界の一切の事象を疑う」ことです。 この日常的生活世界の一切の事象の中には、
“日常的生活世界”次元にある“現象学”も入ります。ですから、“現象学”も疑われる訳です。

172 :考える名無しさん:2018/04/04(水) 22:18:53.42 0.net
>>164-165
源泉がみえないコトバを認識し影響を受けている純粋な存在がコギトだから、それが真理なんじゃないの? 
>>1 に関しても正体不明の何等かの主体が存在することをデカルトは証明しただけであって、永遠や普遍についての言及ってあったの?
見識不足でスマソ

173 :64:2018/04/05(木) 10:23:49.28 0.net
一応つぶやいておきますと、>>142にも書いたように
フッサールは、「エポケーから現象学から除外する。」と言ったわけではありません、
ありませんが、しかしそんなことはもはやどうでもいいことです

>>171
貴方の話で腑に落ちない点が二つあります

一つは、『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”、とはいったい何のことなのか
どの本を読めばそんな“学問”を学べるのか、貴方は知っているのでしょう
教えてもらえませんか

もう一つは、もし『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”などというものが“仮に”あったとして
いやしくも現象学の創始者たるフッサールが“現象学”と言う場合に、それが
『日常的な生活世界の学問としての現象学』のことを意味している、などと考えることは、
果たしてまともな思考なのでしょうか(おかしくないですか?)
なぜならフッサールは、『日常的な生活世界』が成立してしまう、その源泉に到達すべく
現象学を建設している途上にあったからです

いつものように適当なときにテキトーなレスをしてみてください、お願いします

174 :64:2018/04/05(木) 10:24:50.59 0.net
>>173二行目、「エポケーから現象学“を”除外する。」でした、すいません

175 :64:2018/04/05(木) 10:46:50.34 0.net
>>172
『私(コギト)がコトバを認識している』というのは、まことに健全な話ですが
実際のところ、その『私』などというものは『存在しない』とそう考えることもできます
デカルト的な私というのは、所詮は感覚でしかないからです

なぜなら、思惟は思惟の存在を疑えない、のは確かであるように“思えます”が
だからといって、思惟は「=私」としてまちがいなく存在する、とまでは言えないのです

コトバという普遍的実在が働くことによって、『私』という現象が生まれている、が
それをもって「私は確実に存在する」、と結論する必然性は(心理的な理由の他に)ない
そう考えても別段、無理なことにはならないように思います
ただしこの場合、コトバは、単なる記号以上の内容と、自律的な力を持っていることに
なろうかと思いますが

まあ、これこそ見識の無い、テキトーな妄言ですが

176 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 11:02:52.59 0.net
「存在」の意味をメチャクチャに使っているようでは困った人だ。
君の使っている「存在」という言葉の定義を言ってごらん。

177 :64:2018/04/05(木) 11:15:02.30 0.net
>>176
ああそうか

実体としてある

こんな感じで

178 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 18:16:15.06 0.net
>>173
私が述べている「日常的な生活世界」というのは、フッサ−ルの「生活世界」の意味とは異なる。

私の「日常的生活世界」とは、“超越論的主観領野”と対比する次元の世界として使用している。

つまり、「超越論的次元」に対して、 「非超越論的次元」として、分かり易く理解出来るようにするために

“日常的生活世界”と述べている訳です。

“日常的生活世界”=“非超越論的世界”として用いている。

179 :64:2018/04/05(木) 18:31:47.76 0.net
>>178
貴方の言うように、“日常的生活世界”=“非超越論的世界”だとして
『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”>>171
とは何のことですか

180 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 18:50:39.99 0.net
>>173
「純粋意識(超越論的主観)こそ私たちが求めている“現象学的残余”として存在しているものであり、
この純粋意識は、たとえ私たちが求める全世界を、従ってあらゆる事物と生物を、そして、更には“私たち自身をも含めた
すべての人間”をも“排去”した(=そのスイッチを切った)としても、あるいは最っと適切に言えば、それらすべてを“括弧に入れた”としても
それとは関わりなく残存しているのである。」(イデ−ンI)とフッサ−ルは述べている。

上記で、フッサ−ルは「私たち自身をも含めたすべての人間」をエポケ−(括弧入れ)するとのべているのは、これは「主観的存在(自身の学も含む、自身のすべて)」と
客観的存在」の、全ての事象を現象学的還元(エポケ−)することが“正しい現象学”であることを本人自身も論理として理解しているのである。

従って、>>142で「しかるに我々の目指すところは、一つの新しい学的領分、しかもまさに
括弧入れ《 けれどもこの場合は、一定の制限された括弧入れ》の方法によって獲得されるべき領分の発見に
他ならぬのである。」とフッサ−ルが記述しているのは、そこに我々の想像することのできない“自身の学への、こだわりと非常に強い固執”を感ずるのである。
そして、 その為に、正しい“現象学”を十分に理解しながらも、その一歩手前で留まってしまったのである訳です。

181 :64:2018/04/05(木) 19:05:22.57 0.net
>>180
『強い固執を感ずる』と言われましても、
それは貴方の感じ方の問題に過ぎないわけですから
フッサールが現象学の手前で留まってしまう根拠としては
全く足らないように思われます
そもそも、フッサールの固執しているのは、それが『正しい現象学』であること
に対してでしょうから、そこにこだわるのは当たり前のことですよ

ですから、「フッサールのやり方が方法論として間違っている、あるいは不十分である。」
そのことを示さなければ、フッサールに対する貴方のネガティブな評価は、
「貴方による空転する気分の問題」でしかないということになりますよね

182 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 19:12:12.05 0.net
>>179

「日常的生活世界(=非超越論的世界)」とは、普段、我々が生きて生活している世界のことです。

学問としての現象学とは、形式論理学、ヘ−ゲルの論理学、或いは、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」、
又は、ウイリアム・ジェ−ムズのフラグマティズム等々の学問と同等レベルとして捉えている。

183 :64:2018/04/05(木) 19:20:51.05 0.net
>>182
貴方の言うように、「日常的生活世界=非超越論的世界」だとすると
『日常的な生活世界』の学問としての“現象学”、とは
『非超越論的世界の学問としての現象学』となってしまいますよ

超越論的○○は、現象学の根幹ですから
現象学から“超越論的”を除いたらそれは、“もはや現象学ではない”
(そうは思いませんでしたか?)

いったい、『非超越論的世界の学問としての現象学』とは、何のことですか

形式論理学もヘーゲルの論理学もプラグマティズムも、現象学ではないし、
メルロ=ポンティはフッサールより後の人ですから、イデーンTには関係ないですよね

184 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 19:25:03.04 0.net
>>17
レスありがとう!
プラトン的イデアみたいなことかな? コトバに普遍性があると。でもコトバは地域のバリエーションが多種多様
だし流動的だよね。単語も用法も無限に増え続ける。もしそれを観測しているのがコギトでないとしたら、どういうことだと思うの?
各種感覚器の個体差が存在するのだから、我々は世界に対して歪んだ認識しかできない。しかしながら歪んだかたちで世界を認識しているということを自覚する『私』が存在するということ
をデカルトは言ってるのだと理解してるんだけど、間違ってない? あっているとしたら、感覚を受動して統合する存在がコギトなのだから、コギト自体は感覚ではないと思うんだけど、それは俺の拡大解釈なのだろうか?

185 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 19:44:35.46 0.net
>>181

貴方自身は、正しい現象学をどのように理解しているのでしょうか。

186 :64:2018/04/05(木) 19:48:05.32 0.net
>>184
それは拡大解釈ではないと思いますよ
デカルトはそのように考えたであろうし、哲学の王道です

『世界がどうであろうと、それは“私”にとっての世界である』

(西洋)哲学はこのテーゼから外れない
東洋的に無我と言ったところで、単に『忘れろ』と言っているに過ぎない

だけど、そんなのはおかしい話だと、私は思いますよ
『主観(あるいは意識)からしか話が始まらない』なんて
この人が言うように、鎧を剥ぎ取っていって最後に究極の存在としての“私”が残るのか
なにも残りません
玉ねぎの皮を剥がしていって、最後に『玉ねぎそのもの』が見つかるのか
ありませんよ

コトバにはたしかにバリエーションがあって、違う言語は記号的には互いに排他的です
(使われなくなった未知の言語の記号規則だけを比較しても翻訳できない)
しかし生きている言語同士は翻訳できる
それはなぜか
それは、コトバの意味を成立させるには論理が必要であって、
その論理にはコトバの壁を超えて強力な普遍性があるからです
しかしその理由、そして論理の源泉は謎、のままです

身体が論理と調和するとき、“私”が生まれる
まあ妄言ですが

187 :64:2018/04/05(木) 20:11:43.61 0.net
>>185
少なくとも、フッサールが正しいと考えていた現象学的還元というのは

世界の自然的見方、つまり「自分を含めた世界」が当たり前に(空間的に)存在している
それはどういう事態であるのか、
人間がそう判断してしまう根源は何なのか
それを見極めるために、一旦、その「自然的見方」を排除してみよう
そのような態度変換によって、対象は対象のまま、超越論的主観に移ることになる
そこから始めてみよう

そういうことであって、
貴方の言うように主観も客観もなんでもかんでもエポケーしたら
『いかなる判断もできなくなる』
それをフッサールは危惧したのですよ、それがイデーンTの32節でしょう

188 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 21:14:42.25 0.net
いまから思うと、あんなもんを信じていた人がいたのが不思議。
いまだに、平家の落人みたいなのがいるんだから、フッサール教もたいしたもんだよ。

189 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 22:23:41.93 0.net
>>187

「いかなる判断も出来なくなる。」 だから、客観はエポケ−するが、主観はエポケ−しない。

これが、正しい現象学のあり方と言うことでしょうか。

190 :考える名無しさん:2018/04/05(木) 22:35:25.28 0.net
>>186

「身体が論理と調和するとき“私”が生まれる」と述べていますが、なかなか意味深い言葉ですね。

その“私”というのは、“心身合一”した“私”という意味でしょうか。

191 :64:2018/04/06(金) 04:35:05.85 0.net
『非超越論的世界の学問としての現象学』とは、何のことですか

192 :64:2018/04/06(金) 04:39:32.35 0.net
>>189
そんなことは言っておりません

そもそも、エポケーは懐疑ではありません

193 :考える名無しさん:2018/04/06(金) 17:57:05.60 0.net
論理(言葉)と身体(生物としての生存機能あるいは本能)が融合したときに、自我が生まれるという発想はかなり面白いね。
伊藤計劃のハーモニーを思いだしたわ。https://www.amazon.co.jp/dp/B009DEMA1Q/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
文明的に未発達な地域の言語も、英語や日本語と変わらないボキャブラリーがあって、ジョーク
の質すら変わらないレベルだっていう話をこの前読んだよ。英検の問題テキストだからソースを探るのが難しいんだけどね。それを考慮すると、言語体系はコミニティの
発達に伴って成長するという仮説が成り立たないから、あなたの言うコギトに対する懐疑に説得力が出てくるね。
あらかじめ言葉によって定義されているものしか人間は認知できないような気がしてくる。個性や創造性は誤謬に過ぎないのかと思うと
アイデンティティー不安に陥りそうになるよ。


コギトエルゴスムが破綻しているかは別として、近代的自我の正体に迫るには言語の本質にアプローチする必要があり、デカルトは
その部分に対して明確な説明をできていないということが、理解できたわ。ありがとう!

194 :考える名無しさん:2018/04/06(金) 17:59:24.84 0.net
今の>>184にたいするコメントね(汗)

195 :考える名無しさん:2018/04/06(金) 18:11:51.67 0.net
>>186だった
みんなの掲示板を荒らしてホントすみませんm(__)m

196 :DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上:2018/04/06(金) 21:43:21.81 0.net
私が一番残りにくいものであることを知らないデカルトというバカは貴重だ。

197 :DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上:2018/04/06(金) 22:34:44.70 0.net
昔の言葉が多いな。論旨バキャ。

198 :考える名無しさん:2018/04/06(金) 23:05:54.67 0.net
>>192

>そもそも、エポケ−は懐疑ではありません

>現象学的還元(エポケ−)は、一切の事象を“括弧に入れる”ことですが、この“括弧に入れる”とは、
一切の事象を“排すること(排去)”することです。

我々は普段の日常的の生活をする中で、自身の論理、哲学、そして、種々の既成概念を鎧(よろい)の様に
身に纏っている。 これらの鎧を“取り除く”ことが、“排する(エポケ−する)ことであり、そして、自身の人生観、論理、哲学等を
“排する(取り除く=エポケ−)”ことにより、純粋な超越論的な自己(私)となる訳です。

他方に於いて、方法的懐疑は、疑うことによって、真と偽を振り分け“偽となるものを斥ける”ことであり、
この“偽となるものを斥ける”ということは、《偽となるものを取り除く(排する)》ことです。 この“取り除く(排する)”という思考活動は、
現象学的還元(エポケ−)と同じ思考活動である訳です。

199 :64:2018/04/07(土) 05:55:33.38 0.net
エポケー(判断中止)というのは
“ものごとの存在(=世界)に対する見方(自然的態度の一般命題)”を定立させている
働きを除き
定立作用によって定立されていた諸々の対象を括弧に入れ
結果として対象は、意識に於ける事象(≒括弧つきの対象)となる
そのような態度変更のことです

事象を排することでは『全くありません』
“事象そのものへ”が現象学の理念です

以上でお分かりいただけたと思いますが
デカルトの方法的懐疑とは全く違います

200 :考える名無しさん:2018/04/07(土) 13:26:57.56 0.net
>>199
>事象を排することでは全くありません。“事象そのものへ”が現象の理念です。

>フッサ−ルが述べている“事象そのものへ”という意味は、
普通、我々が日常的に生活している世界というもののあらゆる認識判断は、肯定や否定、
必然性と偶然性、可能性や現実性、推量や想定、といった一般に「様相」と呼ばれるものをともなっている。

SはPである、SはPでない、SはいついかなるときもPである。等々のように、これらは各々の“命題”の中核をなす「SはP」という
部分が端的に定立化されている。
この論理は、すべての認識判断は、前提化(定立化)による結論という「形式論理学」を基底としている。

この様な定立作用によって定立された諸々の対象(=既成概念)を“括弧に入れる”ことによって主体意識は“本来のあるがままの状態”と
なる訳です。 この“本来のあるがままの状態”とは、諸々の鎧(よろい)を取り除いた(排した)、“ 純粋で明証的な状態”であり、 この状態を
〈事象そのものへ〉という意味に解釈している。

そして、“あるがままの状態(事象そのものへ)”から、超越としてある客観的存在、 そして、主観的存在を明証的な内在領野(実的内在)にて
認識し、そこに現れる現象の本質を構成化する一連の活動を現象学的思考と解釈している。

201 :64:2018/04/08(日) 11:23:46.80 0.net
>>200
対象を括弧に入れることによって主体意識は本来のあるがままの状態になる
わけでは『ありません』(なるわけないでしょ)

対象を括弧に入れるというのは
対象の「存在妥当(真理妥当)」の“判断作用”を控えるだけです(>>144参照)

貴方のレスに乗っかるなら、「SはP」から鎧を取り除くことでは、『なく』
「SはPである」という判断の意味内容を“排除せずに”宙吊りとしたまま“保持し、
「SはPである」とする判断の『作用のみを停止』する

こういうことです

202 :考える名無しさん:2018/04/09(月) 22:14:19.38 0.net
>>201

>「SはPである」とする判断の“作用のみ”を停止する。

>「SはPである」という定立の思考形式を考察してみる

「SはPである」という思考過程を分析すると、この場合は、「S」が前提(定立)であり、
「P」は結論という関係が成立する。この思考活動は「前提」を必ず設定するので、“形式論理思考”である訳です。

フッサ−ルは、前提を設定する“形式論理思考”について「“SはP”という事態の存立=存在を端的に受容することで成り立つゆえに
“原信憑(Urglaube)”と呼び、“SはP”という事態の存立を基盤としている。」と述べている。

つまり、客観的事象、そして、主観的事象を対象とした“すべての認識判断”は、「原信憑」の様相的変様として捉えることができる。

この「原信憑」の様相的変様に対して、フッサ−ルは“、ここで新たに、こうした様相的な変様のいずれでもない特異な変様として、
現象学的還元による「中立性変様(宙づり)」を行い純粋現象(=あるがまま)に至る”ことを述べている。

203 :64:2018/04/09(月) 22:31:12.44 0.net
>>202
中立性変様は、否定でも取り除く(排する)ことでもありませんので、
『エポケーと方法的懐疑とはぜんぜん違うものだ』
ということが貴方にも分かっていただけたことでしょう

204 :64:2018/04/09(月) 23:40:45.27 0.net
あ、ついでに
純粋現象は(=あるがまま)ではありませんよね

205 :考える名無しさん:2018/04/10(火) 23:27:52.28 0.net
>>199
「定立作用によって定立されていた諸々の対象(客観的存在=世界)を括弧に入れる」の
“定立作用”というのは、「SはPである」という「形式論理」を基底として構成された“実在”の「ものごとの存在(=世界)」を
「括弧に入れる」ということでしょうか。

それから、「結果として対象は、意識に於ける事象(≒括弧つきの対象)となる」と述べているが、
「エポケ−の実行」→「不可疑的領野」→「括弧内の事象の解放」の、手順の中間にある「不可疑的領野」が抜けている。

つまり、“ものごとの存在(自然的状態の世界)を“括弧に入れる”ことにより、内在意識は、明証的で“不可疑的領野”となる。
この“不可疑的領野(超越論的主観領野”に於いて、“括弧に入れられていた事象”が、〈解放〉される。

従って、ここで注意することは、日常的次元の主観(エポケ−前の主観)と超越論的次元の主観(エポケ−後の主観)とは、
根本的に異なっていることです。

>>199の文面を見ると、“日常的次元の主観(意識)”が、エポケ−の実行により、“括弧内の事象”を直接に
“日常的次元の主観(=自然的状態の主観)”から認識できるのだと、誤って解釈されてしまうことです。

206 :64:2018/04/11(水) 04:36:52.87 0.net
>>205
現象学において「不可疑的領野」に至ることなどありませんし、
括弧内の事象を解放する意味もないでしょう
そもそも、“括弧を付ける”というのは“自然的態度の一般定立を中止した”という
態度変更を示す比喩に過ぎないのです

“括弧を付けたまま”の「純粋意識」としてのそれは、“○○についての(単なる)思い”
となってしまうのですが、さて、そこからどうしたらよいのか、疑問に思いませんか
だからどうなんだ、と     (まあ貴方は思わないのでしょうけど)

フッサールによれば、
純粋意識は、“それが意識である限り”、この『○○について』という『志向性』を持つために、
純粋意識は『意識体験と意識相関者との間の本質的諸関係』という領野になる
(とりあえず領野とでも言っておくしかない)
その内在する領野こそが“世界の意味”を構成する『起源』となっているはずだ(その意味で超越論的)
そこで志向性を手がかりとすれば純粋意識の内実を探求することが可能であり、超越の謎が解ける

と、そのようなことのようです
(それが成功する確証がどこにあるのか、私には分かりませんが)

それはともかくとして
方法的懐疑とエポケーとは全然ちがう、ということはご理解いただけましたでしょうか

207 :考える名無しさん:2018/04/12(木) 18:27:54.71 0.net
>>206

私たちは、日々生きて、生活する中で、いろいろな難題に直面する。その“難題”を解決する為には、
どうすればよいのか。 それには、まず、自分自身の頭の中に、こびりついている、諸々のドクサ、自身の人生観、伝統、そして
規制の権威(学など)を取り除くことが必要となる。

これらの“一切の先入見(一切の既成概念)”を取り除く手段として、現象学的還元が考え出された訳である。 
そして、現象学的還元によって“一切の先入見”が取り除かれた明証的な“不可疑的状態”が何故、難題を解決する為に必要なのか
ということです。 それには、“不可疑的状態(疑えない)”の反対であるところの、「可疑的状態(疑う)」がどの様なものとなるかを考察するとよい。

物事を“疑うこと(可疑的)”が出来る状態というのは、普遍性がなく、不確かな状態であるがために、問題解決の結果として出された解決策は
すべて“不完全なもの”になるからである。

まず、現象学的還元、そして、方法的懐疑によって創り出された“明証的で不可疑的な状態”を領野として確保することが、難題を解決へと
導く 第一歩となる訳です。

208 :64:2018/04/12(木) 20:54:23.46 0.net
>>207
「日々生きて生活する中で直面するいろいろな難題」などというものは
それこそ『日常的次元』の話であって、現象学的還元はそんなものの解決を
目的とはしていませんし、そもそもそれに対して無力ですよ
日常生活での難題に対して有効なのは、日常的な学習能力であって
現象学を実践するかしないか、とは全く関係ありません

現象学というのは、
<そもそも日常的な理解が可能なのは、いったいどういう事態なのか>
について探求する活動、だからこそ超越論的なのです

しかしどうやらここまでくると貴方は
方法的懐疑とエポケーとは全然ちがう、ということを理解できないようですね

貴方は>>63のような、自分で作り出したドクサに絡まったまま
いまだに身動きがとれないのでしょう、難題ですね
解決するために、貴方の考え出した“現象学的還元”を、ご自身で実践してみてはどうですか
なんとかなるかもしれませんよ
なんともならないとしたら、貴方の現象学的還元は、その程度のもの
ということなんでしょう

209 :考える名無しさん:2018/04/12(木) 23:19:14.00 0.net
現象学的還元という古語を久しぶりに聞いたよ。
懐かしいね。
時代に取り残されちゃったんだろうね。

210 :考える名無しさん:2018/04/13(金) 12:55:41.82 0.net
一人二役で会話するのも論理力を鍛えるのに良いかもね

211 :考える名無しさん:2018/04/13(金) 15:26:10.46 0.net
最近はせちがらくなって、
「金儲けに役に立たないもの」は廃れる傾向にあるからね。
現象学的還元が金儲け役に立てば、また復活するよ。

212 :考える名無しさん:2018/04/13(金) 18:24:55.09 0.net
わふわふ、プログラミングの話題なのです。

213 :考える名無しさん:2018/04/20(金) 09:50:10.53 0.net
デカルト、コルネーユ、スウェーデン女王クリスティナ―一七世紀の英雄的精神と至高善の探求
エルンスト カッシーラー (著), Ernst Cassirer (原著), 朝倉 剛 (翻訳), 羽賀 賢二 (翻訳)
出版社: 工作舎 (2000/09)

214 :考える名無しさん:2018/07/28(土) 00:56:15.09 0.net
野田又夫の概説書や山田弘明の翻訳には世話になった。
小泉義之の研究の世話にこれからなる。

215 :考える名無しさん:2018/08/04(土) 12:14:58.47 0.net
氣志團のように、「我ら思う、故に我らあり」みたいに存在論を前面に押し出すデカルト解釈を
デカルト右派と言うならば、
小泉義之のように、唯物論的にデカルトを解釈するのは
デカルト左派といえようか。

216 :学術:2018/08/04(土) 14:55:13.44 0.net
コギト論パク

217 :考える名無しさん:2018/08/15(水) 16:25:55.14 0.net
野田又夫の新書を読んだだけでは不十分だった。
野田の『デカルトとその時代』を眺めたが、こんな詳細な啓蒙書があった時点で
小泉義之がデカルト研究で自分の独自性を発揮しようとして
すごい新書(のちに講談社学術文庫入り)を書いたのがわかった気がする。

218 :考える名無しさん:2018/12/04(火) 13:08:28.46 0.net
私は考えるゆえにうんたらかんたらよりも鏡を観て自分を確認した方が早くないかい

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