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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

234 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:01:48.26 ID:+cAOF/6mW
そもそもからして、
漢字の元となった、甲骨文字とは、
卜占の結果を、骨や亀甲に刻み込んで成文化して記録するためのものですね。

・卜占で占う内容は複数ありますから、それらを忘れないよう記録するため。
・卜占で出た結果を、王に文字で伝えるため。
・卜占で出た結果を、公式文書として残すため。

しかし、日本で出土する卜占史料には、甲骨文字が刻まれていない。

と、いうことは、
日本での卜占は、

・その場で占って、その場で結果を共有した
>>225
出陣直前の吉兆

・卜占の結果を、大王に報告した
>>51
絹布に帛書

などであった、と考えられます。

235 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:03:22.33 ID:+cAOF/6mW
我々日本人の母系である田〇山遺跡を貶めるかのような、
相変わらずの偏向軽薄記事が見受けられますが。

そもそも硯で墨を解いて、その目的は何か?

一つは、文字を書いていた。
木簡竹簡に墨書したり、
帛書に墨書したり、ですね。

もう一つ考えられるのは、
近くの古浦遺跡からも卜占が出土していますから、
卜占結果を強調してよく見えるようにするため、
の可能性も高いですね。

現代に伝わる亀卜の流儀には、
亀甲を焼約してできるひび割れを強調するために、
墨を垂らす、
という作法がありますね。

236 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 03:22:37.92 ID:+cAOF/6mW
卜占を行う一族の、男性を、
自らの舟に乗せて、
水先案内をさせ、
最終的には成果を上げたので、褒美を与えた。
(北部九州倭国でヒコになった)

>>191
後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

237 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/09/10(土) 21:33:40.75 ID:fU6mRurCk
  〜〜37:32〜

https://www.youtube.com/watch?v=JxF6ub7LvV8&list=PLs6xnxTmbWh0iZkyPUOYEFhqxsMPlpF2v&index=27

238 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 13:40:15.29 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

239 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:17:54.48 .net
>>238
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
今どき水行陸行の意味すらわかってないとかw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

240 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:18:07.00 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

241 :日本@名無史さん:2022/09/18(日) 15:11:19.84 ID:wo4UJOzPX
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」

台湾へ水行

242 :sage:2022/09/19(月) 07:17:21.92 .net
>>240
伊都国から方向も里数もないんですけど?

243 :日本@名無史さん:[ここ壊れてます] .net
>>242
方位と日数が書いてあるが

244 :日本@名無史さん:2022/09/22(木) 06:15:53.60 ID:RIqFAUeFg
>>239
>水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
>これを押さえておかないと正解には辿り着かない

>>241
>台湾へ水行

里程●●日程▲▲という表現は、「里程ならば●●掛かり、日程ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえると正解である平原遺跡に辿り着く。

245 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:36:16.08 ID:N9t/XXqbM
日本列島で最古相の卜占出土

新撰亀相記 壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部
       壱岐卜部の祖が天比登都柱命(あまのひとつはしらのみこと)
       対馬卜部の祖が押見命(おしみのみこと)
       伊豆卜部の祖が雷大臣命 東国卜部の祖とも

延喜式 壱岐対馬伊豆から卜占の神祇官を選出 905-927-967

現代対馬 地方国として唯一の亀卜が行われている


卜占というのは、祝詞も秘伝、卜占技術も秘伝、でどちらも高等難解ですから、
一度途絶えると再開は極めて困難ですし、
平安時代の京都政権に壱岐対馬の卜部が採用されたという点だけでも、
壱岐対馬、特に対馬の卜占というのは、
日本最古から連綿と行われてきたことが明らかですね。

246 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:37:31.69 ID:N9t/XXqbM
>壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部

魏志倭人伝の里程にて、
對海國が方可四百餘里。
一大國が方可三百里。

島の大きさと合致していない、という指摘がありますが、
これも過去スレで検討した通り、
島の大きさではなく、國の大きさであった、ということですね。

対馬島には、後の上県・下県の元となった、
對海國と、おそらく魏略の對馬國、の2国があったことになります。

またそれぞれ到ではなく至ですから、
渡一海千餘里で至るのは、それぞれ對海國や一大國の国境までであって、
方可四百餘里=800里余と、方可三百里=600里の、
合計1400里も、対馬海峡渡海部分そして女王国までの12000里には、
合算する必要がありますね。

247 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:38:02.54 ID:N9t/XXqbM
>>215
>『其辭如令龜法』
>倭の卜占で使われる祝詞が、
>中国の令亀法で使われている祝詞のようである。
>大きな一文ですね。

>と、いうことは、
>漢魏使が体験した倭の卜占は、
><漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

なれば、魏使は倭人の卜占を実際に体験しているわけで、
その観点から、
魏使が体験した卜占とは、魏使が到達した伊都までの卜占。
つまりは壱岐対馬の卜占であったであろう。

倭人の卜占の祝詞は、当時はまだ卜占を伝えたおそらく燕人の祝詞を使っており、
漢語だった。

と、いうことは、
文字で伝えるか、
もしくは漢語を話す人が周囲にいる環境か、
でなければ漢語の祝詞を伝えることは困難であり、

「硯の分布域」
もしくは
「楽浪土器の分布域」
における卜占であったことが、『其辭如令龜法』からわかってきますね。

そうなると、
壱岐対馬〜北部九州〜田〇山遺跡のエリアがそれに該当し、
倭人倭種が居住するという魏志倭人伝の記載とも対応します。

248 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:53:38.78 ID:N9t/XXqbM
倭人の卜占が、<漢語>で行われていたからといって、
卜占を行っていたのが中国からの渡来人(おそらく燕人)の貞人であった、
とは言えませんね。

その強力な実例が、
後に伝来した仏教の『お経』です。

仏教の最初期には渡来人の僧侶が伝えたのかもしれませんし、
鑑真和尚や隠元和尚のような感謝すべき中国僧もいたことでしょう。

しかし、日本の仏教を支え、その宗教世界・哲学世界・知識世界を発展させたのは、
紛れもない多数の日本人僧侶ですね。

にもかかわらず、
遅くとも6世紀の仏教伝来から、現代の我々に至るまで、
1500年間の長きに渡って、我々日本人は、
『お経』を漢文体で敬っていますね。

つまり、
天皇家すら崇拝した仏教の経典『お経』においてすら、
日本人僧侶が漢文体での『お経』を使用し続けることに何の違和感もなく、
それどころか逆に有難いものとして敬い続けてきているわけですね。

よって、
『其辭如令龜法』だからといって、
卜占を行っていた貞人が、中国からの渡来人(おそらく燕人)によって独占されていた、
ということにはならない、ということになります。

249 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:54:24.05 ID:N9t/XXqbM
仏教の『お経』は、漢文体であり、
経典のみならず、中国伝来の最先端知識も習得することが、
長らく日本人知識層の教養であった。

のと同じく、
卜占の祝詞は、伝来当初から漢文体であり、
祝詞のみならず、中国(亡命燕人)伝来の最先端知識も習得することが、
長らく倭人知識層の教養であった。

250 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:55:12.12 ID:N9t/XXqbM
それが故に、逆にわかることもあります。

・仏教の『お経』は1500年間に渡って、漢文体で使用され続けている。
・前3世紀に伝来した卜占の祝詞も、少なくとも後3世紀まで600年間は漢語で行われていた。
・にもかかわらず、現在の卜占の祝詞は、日本語の祝詞になっている。

・現在の卜占の祝詞は、基本的には記紀、特に古事記の天孫降臨に焦点を当てた大祓祝詞である。
・記紀編纂の主たる勢力は中臣氏であり、延喜式の神祇官も中臣氏の息がかかっている。

以上の条件から見えてくることは、
仏教ですら漢文体のお経を長らく使用しているのに、
卜占の祝詞を倭文(日本語)に変更した、あるいは少なくともそれを許容した、
ということは、
中臣氏は卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)の末裔では無い。
ということがわかりますね。

251 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:56:03.12 ID:N9t/XXqbM
中臣氏は
卜占の祝詞を、中臣氏が天皇家に奉公した天孫降臨をメインテーマとしたものに変更し、
卜占を国家祭祀に取り入れさせた。

中臣氏の首脳陣は伊豆・壱岐対馬であり、それはすなわち雷大臣の子孫である。
その他の神社の卜占も、国家命令によって、それまでの祝詞から、中臣氏指定の祝詞に変更させた。

卜占はケズリによって調整できるので、
国家の重要案件は、中臣氏によっていかようにもコントロールできる。

非常に合理的な、国家支配体制の確立の一部が見えてきますね。

252 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:56:52.73 ID:N9t/XXqbM
時期としては、白村江の戦の敗戦直後ですから、
太平洋戦争末期の鬼畜米英と同じで、
敵性言語を使用するとは何たることか、
というのが、
卜占の祝詞を日本語に変更する大義名分だったと思われます。

そうなると、
白村江の戦の敗戦後の国家再建が、唐占領軍による指導の下に行われたという説は
明確に否定され、
むしろ半島利権を喪失したけれども、
日本列島一丸となって、唐には屈しない、という覚悟の表れが、
卜占の祝詞が、
魏志倭人伝の『其辭如令龜法』から、
日本語の祝詞へ変更されたことに凝縮されている、ということになりますね。

253 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:52:11.08 ID:N9t/XXqbM
では、卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)から、
燕人以外へ卜占が伝えられた事案とは何か?

>>131
山鹿貝塚女王から始まる、豊国(古代出雲+古代伯耆)の沖ノ島祭祀が、
カモの東方入植に伴って東方拡散してきますね。
その一つが田〇山遺跡。

一方で、燕系亡命人が、各地のカモに受け入れられ、
特に古浦遺跡には、衛氏朝鮮滅亡に伴って亡命してきた、旧燕国王族末裔がやってきて、
カモ女王系の女性巫女と婚姻を続けます。
卜占が出土していますね。

>>235
田〇山遺跡に硯が出土しており、
旧燕国王族末裔の夫→田〇山遺跡の豊国カモ女王系の妻
に、卜占が伝えられた。

254 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:54:11.26 ID:N9t/XXqbM
>>134
奴国王がT姫にAタカヒコを産ませたことで、
T姫を豊国女王に推薦した。

この時点では、
豊国元首女王はT姫。
豊国首相事代主はAタカヒコ。

古浦の燕貞人と切り離されたT姫が、
Aタカヒコに、卜占を伝えたわけですね。


しかし軍事力を背景に実権を握るのはワニのス〇リビメ。

255 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:55:15.62 ID:N9t/XXqbM
ス〇リビメは子を成さぬまま逝去し、
N国王支配下での勢力弱体を回避したいワニの強い圧力にて、
豊国女王はワニ系のT2姫に。

T姫は失脚して、柏崎遺跡の〇津国玉神の元へ。

既にN国王の子を身ごもっており、〇ワカヒコを出産。
それが>Aタカヒコそっくりと、>国津神の子では?の伏線。

豊国元首女王がT2姫になり、
豊国首相事代主もT2姫とN国王の息子になる。

さらに半島出兵で勝利するために、辺境豪族の次男坊だが軍略に長けた、
軍神が招聘され、ワニ女王系女性と婚姻して、
女系ワニの一員となる。

256 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:56:34.87 ID:N9t/XXqbM
よって、カモとワニの古代豊国有力氏族争いにおいて、

前夜において、
豊国女王はワニT2姫。
豊国首相はワニT2姫の息子。
金印保持はワニ女王系女性と婚姻した軍神。

>>144
事が成った後は、
豊国女王はカモI姫。(T姫とN国王の娘)
倭国王妃はカモK姫。(T姫とN国王の娘)
倭国首相はカモAタカヒコ。(T姫とN国王の息子)

だった可能性が高くなりますね。

257 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:57:30.60 ID:N9t/XXqbM
つまり、N国王失脚時に詰め寄ったのは、
Aタカヒコであり、人物をぼかすために、
武器や船の名前になっている。

家族で考えると、父を子が、という構図ですが、
部族で考えると、ワニとカモの生存競争、ですね。

>>142
>その直後に、父親が死去した、あるいは不服な兄の一部に〇された

おそらく後者であり、
2代続けて、そのようなことがあった。

Aタカヒコは、新伊都2代目の兄と手を組んだ結果、失脚してしまいますから、
2世紀からしばらく、親〇氏として、
ワニ勢力から攻撃され続けていたのでしょう。

それを払拭するために、ぼかしてスッキリしたかったのでしょうね。

258 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 22:00:00.77 ID:N9t/XXqbM
古浦旧燕国王族末裔の夫
→田〇山遺跡の豊国カモ女王系の妻
→息子のAタカヒコ=大物主?
→狗奴国王とその妃
→雷大〇


259 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 22:03:41.44 ID:N9t/XXqbM
>>256
男女の双子でない限り、

倭国王妃はカモK姫。(T姫と柏崎遺跡の〇津国玉神の娘)

でした。

260 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:45:04.83 ID:NazgEnPA8
いわゆる「幕府」であった、と考えれば辻褄が合いますね。

伊都説で解析すると、
旧伊都に吉武高木大王がいて、宗像に田熊石畑王族東征将軍がいた。

奴国は渡来人の密集地帯であり、
その貴族男性の一人が出世して、東征将軍まで登り詰めた。
吉武高木大王にはなれないので、「幕府」の形で実権を握った。

後漢から金印を貰って、権威強化したが、
那珂川の治水に失敗して、大洪水土石流で失脚した。

糸島平野の新伊都に三雲井原大王が出現したが、
これも「幕府」であった。

そう考えると、「倭国」ならびに「倭国王」というのは幕府になりますから、
伊都国王が本来の元首であり、
倭国王は伊都国王に任命された幕府将軍であった、
ということになります。

261 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:45:46.27 ID:NazgEnPA8
>>82
のように考えると、
元々日本(ひのもと)があって、日本大王がいた。

奴国王は将軍で、幕府。
日向の三雲井原大王や平原女王も将軍で、幕府。

日向前者三代の子孫が日本国王になったので、この三代は記録には残されたが、日本国王の代数にはカウントされない。
後者の子孫はそうではないので、日本国の正史には載せてもいいし載せなくてもいい。

262 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:46:07.62 ID:NazgEnPA8
漢書・王莽傳上
元始五年(後5)秋

『莽既致太平 北化匈奴 東致海外 南懷?支 唯西方未有加
 乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌 使獻地 願?屬
 憲等奏言「羌豪良願等種 人口可萬二千人 願為?臣 獻鮮水海 允谷鹽池 平地美草皆予漢民 自居險阻處為藩蔽
 問良願降意 對曰『太皇太后聖明 安漢公至仁 天下太平 五穀成孰 或禾長丈餘 或一粟三米 或不種自生 或?不蠶自成
 甘露從天下 醴泉自地出 鳳皇來儀 神爵降集
 從四?以來 羌人無所疾苦 故思樂?屬』 宜以時處業 置屬國領護」
 事下莽 莽復奏曰「太后秉統數年 恩澤洋溢 和氣四塞 ?域殊俗 靡不慕義
 越裳氏重譯獻白雉
 ?支自三萬里貢生犀
 東夷王度大海奉國珍
 匈奴單于順制作 去二名
 今西域良願等復舉地為臣妾 昔唐堯被四表 亦亡以加之
 今謹案已有東海 南海 北海郡 未有西海郡 請受良願等所獻地為西海郡
 臣又聞聖王序天文 定地理 因山川民俗以制州界
 漢家地廣二帝三王 凡十三州 州名及界多不應經 堯典十有二州界 後定為九州
 漢家廓地遼遠 州牧行部 遠者三萬餘里 不可為九 謹以經義正十二州名分界 以應正始」
 奏可
 又摶@五十條 犯者徙之西海 徙者以千萬數 民始怨矣』

263 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:46:45.58 ID:NazgEnPA8
論衡
『周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉 服鬯草 不能除凶』
『武王伐紂 庸 蜀之夷佐戰牧野 成王之時 越常獻雉 倭人貢暢』

越裳と倭人は度々セットになって記録されており、
漢書と論衡は同時代の書物であることから、
漢書についても論衡の記載を前提にしていると考えられていますね。
つまり漢書の東夷王は倭人である。

論衡の倭人は縄文時代の話で、暢草を献上していた。

漢書の東夷王も倭人を意味していると思われるが、
論衡を前提にして、越裳が白雉を献上しているのにも関わらず、
東夷王が奉ったのは國珍と書かれているので、暢草ではない。

つまり
漢書の東夷王は、論衡の倭人と同系統のように思われるのだが、
論衡の倭人とは別の場所に居て、暢草が特産品ではなくなっていたのだろう、
ということですね。

264 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:47:27.63 ID:NazgEnPA8
『越裳氏重譯獻白雉
 ?支自三萬里貢生犀
 東夷王度大海奉國珍
 匈奴單于順制作,去二名』

このメンツで、後5年に「大海」を渡ってくる東夷王、となれば、
倭王しかありませんね。

そして考古学にも、三雲南小路1号大王+2号妃の、
圧倒的な副葬品
 東夷世界あるいは当時の中国を含めてもダントツの銅鏡数
 ガラス璧
 金銅四葉座金具
によって、
漢書の東夷王が、倭王であったことが証明されます。


ちなみに?支自「三萬里」貢生犀とありますので、
四夷は一万二千里で統一されていた=一万二千里は里程の合算ではない、
という主張は完全に否定されます。

魏志倭人伝の一万二千里は、奴国に至る。
女王國=邪馬一(ざまい)國=卑彌呼の前任地=奴国+不彌國+α、に至るですね。

265 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:48:08.45 ID:NazgEnPA8
洛陽から漢鏡を大量入手する機会は以下のようになります。

5年 東夷王
57年 奴国王
107年 倭国王師升
後漢末 狗奴国王
239年以降 卑彌呼壹與が複数回

基本的に各銅鏡は、王が外交して入手した権威の証ですから、
奴族が入手した銅鏡を倭王が重宝することはありませんね。
しかし、倭王が入手した銅鏡を臣下である奴族に下賜して墓に入ることはありえることになります。

洛陽焼溝漢墓による漢鏡の年代分布も検討すると、
三雲南小路王墓の銅鏡はほぼ全て5年の時のものとなり、
5年 連弧紋鏡(清白銘、日光銘、昭明銘、星雲紋)
となります。

266 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:49:36.03 ID:NazgEnPA8
5年に旧伊都の大王が入手した銅鏡群が、旧伊都では出土せずに、
新伊都の大王の墓に入っている。
と、いうことは、
5年東夷王の死去時には、
東夷王を盛大に葬ることが出来ない、状況であった、ことになります。

>>118
>>134
伊都説で解析すると、5年であれば吉武高木大王の時代ですね。
奴国王はまだ子供。
平形銅剣女王が高地性集落群を開発中。

10年代中旬〜後半に奴国王が平形銅剣女王と結婚後離別して銅矛銅剣戦争が発生。
20年代に銅矛銅剣戦争が終結。

その後奴国王の時代も挟んで、
70年に新伊都へ遷都。
という流れですね。

5年東夷王が田熊石畑将軍であった場合、
奴国王が義父から実権を受け継いだ際に、義父の親族がバックなのだから、
宗像で銅鏡群も盛大に副葬されていた筈。
そう考えると、5年東夷王は吉武高木大王自身であった。

一方で、中広形銅矛は伊都から出土せず、伊都を飛び越えて壱岐対馬から出陣している。
ということは、幕府を開くにあたって、
奴国が伊都を武力制圧したのではなく、
クーデター的な政変によって、吉武高木大王が失脚する事態が生じた、可能性が高くなりますね。

267 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:51:24.51 ID:NazgEnPA8
中広形銅矛将軍が伊都王家を倒した場合、
そのまま自らが大王になればいいわけですし、
伊都に命令できる立場になって、
伊都からも中広形銅矛が出土する(=伊都を占領あるいは伊都からも出陣)はずですね。

それが無いということは、
中広形銅矛将軍が王になってからも、伊都が独立性を保っていたことになります。

このような条件を満たす経過としては、
5年東夷王=吉武高木大王が銅鏡群を入手する

10年代に田熊石畑将軍がクーデターを起こして5年東夷王が失脚する。
<伊都王家内の勢力争い>

田熊石畑将軍には娘しかおらず、5年東夷王には5人の息子達。

10年代後半に田熊石畑将軍が死去。
田熊石畑将軍には娘しかいないので、
娘婿の奴族中広型銅矛将軍が実権を握って奴国王に。
<伊都とは戦わずして、田熊石畑将軍後継の奴国王が実権を引き継いだ>

70年に奴国王が失脚したので、
5年東夷王の銅鏡群と共に、孫が新伊都へ移動して新幕府・倭国王となった。

268 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:51:46.24 ID:NazgEnPA8
57年奴国王については、既に洛陽に存在していた筈の、
方格規矩鏡がまだ倭地にもたらされていませんね。

想定されるのは、
銅鏡を重宝するのは倭人、であり、
奴族は銅鏡を重視していなかった、のではと考えられます。

ですから、奴族が希望する威信材は、金印や鉄鏡であり、
57年奴国王の主目的は金印であり、キ龍紋鏡は贈り物の一部。
後漢末狗奴国王の主目的は鉄鏡であり、画紋帯神獣鏡の鏡職人が贈り物の一部。
であったのだろうと推測されます。

269 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:52:38.18 ID:NazgEnPA8
107年師升から、大量の方格規矩鏡と、連弧紋のいわゆる内行花紋鏡とがもたらされます。

と、いうことは、
連弧紋鏡〜内行花文鏡というのが、日本(ひのもと)の後5年東夷王の権威鏡。
方格規矩鏡が、日向の幕府倭国王の権威鏡。
と推測されますね。

270 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:53:05.27 ID:NazgEnPA8
三雲南小路1号大王に清白銘連弧紋鏡。
2号妃に日光銘と昭明銘ですから、
伊都国王男系の最高権威の銅鏡は、清白銘連弧紋鏡ということになります。

これが出土する墓というのは、
伊都国王男系の墓である可能性が高くなりますね。

70年に土井ヶ浜遺跡英雄などの貝輪製作一族、つまり軍神の親族が追われますから、
貝輪をつけているならまずまず1世紀以内。
銅釧をつけているなら間違いなく70年以降、だとわかります。


非常に興味深いのは、
香川県高松市の双方中円墳の、猫塚から、三角縁神獣鏡と共に、
清白銘連弧紋鏡や蝙蝠紐座内行花文鏡などが出土しており、
双方中円墳は狗奴国系だと想定しつつありましたが、
実は伊都国王系だった可能性も高くなってきますね。

271 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:54:04.90 ID:NazgEnPA8
須玖岡本遺跡D地点の王墓からも、清白銘連弧紋鏡が6枚ほど出土していますから、
最期に古代出雲(旧狩尾神社)で捕縛されて失脚した奴国王の墓ではなく、
伊都国王族の墓であったことになります。

さらに、
・107年師升と想定される井原鑓溝遺跡と同じ、希少な草葉紋鏡の連弧紋鏡が出土している。

・洛陽焼溝漢墓だと2世紀後半になる、?鳳鏡(キホウ)が出土している。
(墓に2世紀後半なので、107年に入手できた可能性あり)

・井原鑓溝遺跡が大量入手している方格規矩鏡が無い。

ということから、
須玖岡本遺跡D地点は、三雲井原倭国王の王族であるが、
日向の幕府将軍系ではない。
つまり、
吉武高木系の伊都国王であった、可能性が高くなります。

272 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:55:05.36 ID:NazgEnPA8
須玖岡本遺跡D地点と、籠神社、は、共に昭明銘連弧紋鏡を保有しています。

丹後国風土記に、大穴持命が高志国に坐していた時に天火明神に丹後の国を治めるよう詔したとあります。
ので、
大穴持命は東征将軍でしたから、職務として各地の武官任命権があり、
天火明が若い頃に、丹後国で若狭湾水軍大将を勤めていた時期があった。
その名残りが昭明銘連弧紋鏡なのではないか、ということですね。

伊都早良平野の王ですが、投降した奴国福岡平野を占領支配するため、
そこにいたということですね。

273 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:58:31.68 ID:NazgEnPA8
5年 東夷王 連弧紋鏡(清白銘、日光銘、昭明銘、星雲紋)
57年 奴国王 金印 キ龍紋鏡
107年 倭国王師升 方格規矩鏡 四葉方格規矩鏡 キ鳳鏡 草葉紋鏡
後漢末 狗奴国王 金銀錯嵌珠竜文鉄鏡 画紋帯神獣鏡(の鏡職人)
239年以降 卑彌呼壹與が複数回 方格規矩鏡など

274 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 12:11:51.83 ID:NazgEnPA8
〇火〇神については、
5年東夷王の孫であり、
若い頃に中広形銅矛将軍に命じられて丹後若狭湾水軍大将を勤めていた。

吉武高木遺跡(=魏志倭人伝の到伊都地点)から、
70年に、弟は西の糸島平野へ。柏崎遺跡のカモ系姫と婚姻。
夫婦とも兄より先に亡くなり、三雲南小路1号2号へ埋葬された。(短命長命神話)

70年に、兄は伊都国王に。
奴国も領地に追加され、早良平野(天)と福岡平野(地)の洪水被害からの復興に尽力する。
福岡平野には?馬觚(シマコ)を配置し、旧領主奴族の妹との間の息子ウマ〇〇ジを任命する。

大倭を介した東方交易など、福岡の発展に長らく尽力して、
甥の107年師升から銅鏡を贈られて、
107年以降に死去。(70年に30代だとして107年に70前後)

275 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 18:59:23.73 ID:NazgEnPA8
清白銘連弧紋鏡

立岩遺跡10号甕棺墓(福岡県飯塚市)
 清白銘3、中細形銅矛、絹、朱、鉄剣、砥石?2

稗田地蔵堂遺跡箱式石棺(山口県下関市)
 清白銘1、鍍金蓋弓帽(漢王族クラス)

東小田峯遺跡10号甕棺墓(朝倉郡筑前町)
 清白銘1、日光銘1、ガラス璧、鉄戈、鉄剣

二塚山遺跡15号甕棺墓(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)
 清白銘1

猫塚

276 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 19:19:03.64 ID:NazgEnPA8
こう考えてみると、
やはり倭人というのは、山海経に記されたように親燕であり、
であるから、反秦であり、微妙に反漢。
反漢の王莽が有力になると、誼を通じようと出向いた。朝貢ではない。
師升も朝貢ではなく、出向いただけ。新銘の方格規矩鏡を入手。

倭地の覇者であるから、倭王には自然と神性の権威が備わっており、
求めるのは銅鏡。
倭王の権威の元に、銅鏡を入手して、外交権威の証としただけ。

日本(ひのもと)の証が、連弧紋鏡〜内行花文鏡
日向の証が、方格規矩鏡

その希少性が故に、
倭国王の鏡は、盗掘悪用されないように、破鏡とした。


奴族は漢と同調して楽浪郡開設時に勢力伸長した。
親漢。グローバリズム。
倭地においては渡来系の一部族に過ぎず、
後漢の権威を求めて、里程測定を許可し、金印や鉄鏡を求めた。


倭人と奴族
ワニとカモ
全ての二面性を併せ持つ
卑彌呼とは、不思議でありだからこそ魅力的であるのですね。

277 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 17:49:59.66 ID:lYOAX7JeK
同じ三雲井原王墓群で、井原鑓溝で方格規矩鏡を重宝していて、
平原女王墓でも方格規矩鏡を大量副葬していますから、
57年に伊都勢力が遣使したのであれば、方格規矩鏡も入手していた筈ですね。

三雲南小路1号2号において、
方格規矩鏡無しで、前漢鏡(連弧紋鏡)のみを大量入手している、
ということは、
方格規矩鏡が出現する前の、
5年東夷王が伊都勢力であった、としなければ説明がつきませんね。

278 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 18:02:49.94 ID:lYOAX7JeK
さらに三雲南小路1号2号において、
方格規矩鏡無しで、前漢鏡(連弧紋鏡)のみを大量入手している、
ということは、
57年奴国王は伊都勢力とは別である、
金印が主目的で、方格規矩鏡など銅鏡にはあまり興味が無かった、
の2点も強く示唆されますね。

そうなると自動的に、
107年倭国王が方格規矩鏡を入手しないと井原鑓溝の説明がつかなくなります。

平原遺跡に八葉の超巨大内行花文鏡が作られるためには、
国産での開発期間が必要ですから、
107年の段階で、四葉内行花文鏡がもたらされる必要がある。

また蝙蝠ではなく八葉ですから、
蝙蝠内行花文鏡は、後漢末狗奴国王か、239年以降の卑彌呼壹與か、
が入手したことになりますね。
九州内での蝙蝠出土分布はほぼ邪馬台国側ですから、
まずまず卑彌呼の銅鏡百枚の一部だったかと。

279 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 18:21:43.77 ID:lYOAX7JeK
>>278
こちらの推論は、伊都説が前提の場合ですね。
伊都説を外して考えると、

5年東夷王が三雲南小路1号2号勢力であることは確定。

57年金印王が伊都勢力と仮定すると、その時に方格規矩鏡を入手することになり、
井原鑓溝が金印王になりますね。

須玖岡本遺跡D地点は方格規矩鏡が無いので、
どちらにせよ三雲南小路1号2号の一族で、その下であることになります。

107年倭国王が浮きますが、四葉内行花文鏡はこの時に入手しないと、
八葉超大型内行花文鏡ができない。

どちらにせよ蝙蝠内行花文鏡がもたらされていますから、
蝙蝠が来るのは卑彌呼壹與時代であろう、ということにはなります。

平原遺跡に蝙蝠が入ってないのは、
八葉超大型内行花文鏡を権威鏡として作ったのに、<大型化>
中国では<蝙蝠>方向へ進化していたので、
平原女王からしたら面白くなかったからでしょうね。

280 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 20:38:42.33 ID:lYOAX7JeK
大事な条件を忘れていましたね。

後漢書 東夷列傳
『桓霊間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主』
魏志倭人伝
『其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國乱 相攻伐?年』

桓霊間が146-189年。
其國=倭国ですから、倭国の男王時代の上限が、
146-80=66年。
つまり57年金印王は、倭国王とは別王統、なのでしたね。

よって、
>>278
となりますね

281 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 22:52:27.25 .net
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)


・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)


・文部科学省検定済教科書

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

282 :日本@名無史さん:2022/10/14(金) 21:59:19.37 .net
纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、その建物群をあえて「大型建物群」と呼んでいる
本来であれば「建物群」ないしは「大型建物一棟を含む建物群」と呼称すべきであろう。
一般人が「大型建物群」という言葉を聞けば、複数の大型建物の集合体であると勘違いするのは至極当然のことである。

これに対して纏向説論者は

>大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
>建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
(邪馬台国畿内説Part540>>880

という実に見苦しい言い訳をしているが、
纏向遺跡を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を意図的に使用していることは明白である

纏向遺跡にはその調査のために多額の税金が投入されており、
その遺跡の実態を虚飾する行為は日本国の納税者、日本国民に対する重大な背信行為である
纏向説論者は詐欺師集団、反社会勢力も同然と言えよう
日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニと言い換えても良い

纏向遺跡関連の予算は大幅に削減し、発掘調査は早急に中止すべきであろう

283 :日本@名無史さん:2022/10/15(土) 00:21:39.21 .net
スクラ■ン■■ブルまだか

284 :日本@名無史さん:2022/10/15(土) 15:07:22.72 .net
スクールランプル?

285 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:39:33.77 ID:r3vux1zYK
>>228
其年冬十月丁巳朔辛酉
天皇親帥諸皇子舟師東征
至速吸之門 時有一漁人乘艇而至
天皇招之 因問曰「汝誰也」
對曰「臣是國~ 名曰珍? 釣魚於曲浦 聞天~子來 故?奉迎」
又問之曰「汝能爲我導耶」
對曰「導之矣」
天皇 勅授漁人椎?末 令執而牽納於皇舟 以爲海導者 乃特賜名 爲椎根津?(椎此云辭?)此?倭直部始?也

行至筑紫國菟狹(菟狹者地名也 此云宇佐)
時有菟狹國造? 號曰菟狹津?・菟狹津媛 乃於菟狹川上 造一柱騰宮而奉饗焉
(一柱騰宮、此云阿斯?苔徒鞅餓離能宮)
是時 勅以菟狹津媛 賜妻之於侍臣天種子命
天種子命 是中臣氏之遠?也

この下りを読むと、中臣氏自ら、
「是時=出発前」に菟狹津媛を娶ったのだから、元は日向〜宗像(筑紫の宇佐なので古代宇佐=宗像)に居た。
おそらく椎根津?は中臣氏の一族もしくは配下で、亀卜に用いる亀甲を採っていた。
と告白しているようにも見えますね。

286 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:40:14.64 ID:r3vux1zYK
>>180
そう考えると、
三雲南小路1号大王が全体の倭国王ではあるが、
直轄地としては新伊都(=糸島平野)+唐津+対馬海峡

三雲南小路1号大王の兄が、旧伊都の伊都国王=〇本国王であり、
直轄地としては旧伊都(=早良平野)+旧奴国(福岡平野+筑後)
ということになりますね。

287 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:40:42.79 ID:r3vux1zYK
昔我天~ 高皇産靈尊・大日?尊 舉此豐葦原瑞穗國而授我天??火瓊々杵尊

抑又聞於鹽土老翁 曰『東有美地 山四周 其中亦有乘天磐船而飛降者』
余謂 彼地必當足以恢弘大業・光宅天下 蓋六合之中心乎
厥飛降者 謂是饒速日歟 何不就而都之乎

卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
因登腋上?間丘而廻望國?曰「?哉乎 國之獲矣 ?哉 此云鞅奈珥夜 雖内木錦之眞?國 猶如蜻蛉之臀?焉」
由是 始有秋津洲之號也
昔 伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國 細戈千足國 磯輪上秀眞國 秀眞國、此云袍圖莽句爾」
復 大己貴大~目之曰「玉牆内國」
及至饒速日命乘天磐船而翔行太?也 睨是ク而降之 故因目之曰「?空見日本國矣」

288 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:41:38.82 ID:r3vux1zYK
であれば、豐〇原瑞〇國とは、
伊都説であればすなわち
大王の全領土と考えるなら、北部九州倭国のこと。
大王の直轄地と考えるなら、新伊都(〜唐津〜対馬海峡)のみを指す。

289 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:42:53.36 ID:r3vux1zYK
東にある山に囲まれた土地とは、すなわち筑後。
旧三輪町があって、硯が出土していて、
1世紀から2世紀にかけて各種工房鋳型が大量に出現し、
そして南方の熊本トンカラリンからの木材など、
急成長を遂げていた地域。

博多湾経由ならびに、日田街道を抜けての大分経由、にて、
瀬戸内畿内交易圏とも繋がり、
成長著しかったこの地域を、
新伊都の倭国大王が差し押さえにかかった、ということでしょうね。

290 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:44:18.67 ID:r3vux1zYK
>>274
ウマ〇〇ジは、ヒコやミミがついた名を持ちませんから、
北部九州倭国の内にも外にも領地を持たなかったことになりますね。

瀬戸内畿内経済圏の覇権争いの結果なわけですから、
奴族の長〇ヒコ(庄内式)から、
伊都国王族のウマ〇〇ジに、大倭長官職が移された。

交易には、鉄器つまり武器や、生口つまり労働力であり兵力にもなる、
が含まれ、
しかも海上交易ですから、そのまま海運力=水軍力でもある。
よって、領地領民はもたないけれども、潤沢な兵力は持っている。

だから、長〇ヒコは戦うことができたし、
ウマ〇〇ジも越や美濃を平定したりできたわけですね。

三雲南小路1号大王の兄は福岡県内にいて、その部下の長〇ヒコがあちこち出張していた。
その息子くらいから、東方へ足しげく訪れるようになりえます。

291 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:45:51.44 ID:r3vux1zYK
>>180
イザ〇ギが、細戈千足國と言っているのですから、
紀元前に精巧な武器が満ち足りている国、となれば、
考古学的には、吉武遺跡群が筆頭候補になってきますね。

つまり、
初代が東征した新領土=南小路1号大王の兄の領土とは、
旧伊都(=早良平野)+旧奴国(福岡平野+筑後)ですから、

初代東征による新規獲得領土の各地について、
お三方がそれぞれ、
旧伊都の吉武遺跡など早良平野、
狭義の奴国の福岡平野、
広義の奴国(倭國之極南界也)の南方部分である筑後、
について残したコメントであり、

東征にてそれらを総括したものを譲り受けて、
伊都国王として、日向領土+伊都国王領土を史上初めて統一統合した、ということになります。

292 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:47:11.39 ID:r3vux1zYK
秋津洲は、山に囲まれた部分ですから、
〇〇ということになり、
第6代の秋津嶋宮もそこにあって考古学的に整合性が取れる、ということになります。
大倭の役所が三輪にあって繁栄していたので、
大倭=瀬戸内畿内経済圏の争奪戦が繰り広げられたわけですね。

293 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 19:58:29.22 ID:RWcyaZi50
腋上は〇後を見渡せる場所で、
阿志岐山城神籠石(筑紫野市)=古代磯城と被らないためには、
もう少し進んで、筑紫神社の辺りになりますね。

筑紫神社、竈門神社、宇美八幡宮、といった、内陸に、
なぜか玉〇姫がおわすのは、
ご本人は移転したけれども一緒に祀らていた母君は母系の氏神すなわちその地の人々の母系祖であったがゆえに
残さざるを得なかったのでしょうかね。

294 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 19:59:23.19 ID:RWcyaZi50
香椎、博多(那珂比恵遺跡)、春日(須玖遺跡群)、阿志岐山城神籠石(隈・西小田地区遺跡群)

久留米久留田・高良大社(祇園山古墳)

旧三輪町(薬師ノ上遺跡・大己貴神社・平塚川添遺跡)、朝倉市三奈木・美奈宜

295 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:55:45.44 ID:RWcyaZi50
>>274
70年の時点では、
旧伊都(早良平野)も奴国(福岡平野)も洪水土石流疫病で悲惨な状況で、
それらを併せて受け持った、
三雲南小路1号大王の兄=須玖岡本D地点被葬者は、
長兄として悲壮な覚悟を持ってそれらを担当した。

その名残りが、伊都に爾支。
 伊都(天)の副知事に泄謨觚と柄渠觚。
 奴国(地)には?馬觚。

泄謨觚(せつも・こ) 下水処理:排泄物を計画的に処理する
柄渠觚(へいきょ・こ) 上水整備:水渠を統括する

河川を整備し、排泄物を処理する、つまり都市機能を整備することで、
洪水の再発防止ならびに、疫病の予防を講じたのですね。

296 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:56:23.51 ID:RWcyaZi50
また奴国弥生銀座には?馬觚(しま・こ)を配置し、
経済復興を推し進めた。

「しま」は、「島」のほかに、「縄張り」の意味もありますから、
各種工房群の密集する奴国は、
貴重な収入源の集合体でもあったわけですね。

特に、洪水被害を免れた、「広義の奴国」の南部、
つまり、魏志倭人伝に「〇奴国」と分割記載された筑後領域については、
70年当時すぐに稼働できる経済特区として、
三雲南小路1号大王の兄=須玖岡本D地点被葬者が、重点的に開発をすすめていった、
ということでしょうね。

297 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:57:56.31 ID:RWcyaZi50
一方の、三雲南小路1号大王は、洪水被害から脱出して、
西の日向に新伊都を建設した。

対馬海峡を保有していますから、
銅原料、鉄原料、を始めとして莫大な安定利益が約束されています。

三雲南小路1号大王の兄が存命の間は、
三雲南小路1号大王を中心に伊都王家がまとまって、他族に付け入られる隙を作らない、
という目的意識が共有されていましたが、
107年〜125年の間に三雲南小路1号大王の兄が亡くなって、須玖岡本D地点に埋葬された後に、
〇向と〇本のバランスが崩れたわけですね。

なぜ125年かというと、延光四年、つまり室見川の銅版ですね。

渡来系の有力部族複数が、それぞれの秘伝の書体で、
室見川にいた王、つまりは三雲南小路1号大王の兄の息子の一人、
を褒め称えた。

まあ当たり前といえば当たり前で、
元々栄えていた早良平野福岡平野が復興して、
さらに筑後も新興経済地域として大発展。

東方では銅戈軍が朝日遺跡まで進軍して、その先のこれも前世代の東国軍神が死去して、
東日本も降伏。

なんでいつまでも対馬海峡に従っていなくちゃならないんだ、
となったわけですね。

298 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:03:42.30 ID:RWcyaZi50
魏志高句麗伝

「本有五族 有涓奴部 絶奴部 順奴部 灌奴部 桂婁部
 本涓奴部爲王 稍微弱 今桂婁部代之」

高句麗には有力五族があり、元々は涓奴部が王になっていたが、弱体化して、
魏代の今は、桂婁部が高句麗王の座をとってかわっている。

何らかの政争に敗れた涓奴部は単に衰えたのかそれともどこかへ行ったのか?

299 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:04:24.15 ID:RWcyaZi50
能登国一宮の気多大社。

元は万行遺跡の七尾市にあったそうですが、
崇神天皇の御代に現在の羽咋市に遷座したそうです。

祭神は大己貴命。

孝元天皇の御代に、大己貴命が出雲からやって来た。
あるいは、
孝元天皇の御代に従者を率いて渡来した異国の王子。
と伝えられています。

300 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:05:52.97 ID:RWcyaZi50
>>135
解析するならば、

20年頃、奴国有力者の御曹司兄弟が、平形銅剣女王に求婚競争をしましたね。
末弟が見初められて、結婚した。
それに不服な兄達が、末弟を付け狙う。

武力=金属製武器が、伊都勢力>>奴国>平形銅剣女王なので、
伊都国王系東征将軍の、田熊石畑遺跡将軍に末弟が預けられた。
末弟は将軍娘と懇ろになって、軍事力を得た。

>>132
末弟は逆襲に転じて、兄達を追い落とし、
兄達の一部は現出雲から内陸に逃げ込んだ。

末弟は奴国王となり、その息子の軍神が美保関にいたので、
兄達一族は内陸で蟄居しているしかなかった。
男系女系奴族なのと、中央政界と切り離されていた=在地勢力に気を使う必要が無かった、ので、
オリジナルの四隅突出型墳丘墓を継承していた。

301 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:07:16.62 ID:RWcyaZi50
>>152
70年に奴国王が失脚し、軍神は諏訪へ逃走した。

奴族の主流はAタカヒコとなり、ある意味、敵(ワニ系奴族)の敵は味方。

世代が代わったし、
そもそもの親族で、もはや利害関係も特に無くなったため、
仲直りして次第に日本海沿岸に出てくる。

丹後の伊都国王系丹後若狭湾水軍大将に取り入って、
なんとか縁戚を結び、配下として組織に組み込まれていく。

302 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:08:07.86 ID:RWcyaZi50
倭国乱が起きる。(第7代の時か)

日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國
を設立。

拘奴國は、西の有力女性指導者=卑彌呼「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」と同盟しており、
互いに協力して勢力拡大していく。

西谷墳墓群から次第に勢力範囲を広げ、
第8代の時に、一族の水軍を束ねる有力な若手水軍大将が、
能登半島を攻略して落とした。
当初は彼が祀られていた。
つまり奴国王の兄の子孫。

西の卑彌呼も倭国共立女王に抜擢される。

303 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:09:25.11 ID:RWcyaZi50
九州南部の狗奴国に協力していた、
長崎伊邪国の難升米が、対馬海峡領有権を手土産に、
倭国共立女王卑彌呼に寝返る。

難升米は大率長官となり、中国の刺史の如く、普段は伊都細石神社に勤めながら、
末盧〜対馬海峡〜狗邪韓國を領有する。

難升米は、越後〜東日本を支配する軍神一族の本来の嫡流であり、
難升米が卑彌呼邪馬台国に所属したことによって、
東日本も卑彌呼邪馬台国へ帰順する。

元は奴国同族である、四隅突出型墳丘墓国家=拘奴國も、
軍神一族と手打ち。

304 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:12:01.58 ID:RWcyaZi50
正始八年(247)卑彌呼死去。
邪馬台国軍大将の難升米は、筑後肥後境界での対狗奴国戦で、
衆目の中、ド派手に討ち死に。

次の男王。第10代。
北の伊都卑彌呼残党勢力と、南の狗奴国に挟まれて絶体絶命。

叔母の狗奴国王妃に仲介を依頼して、狗奴国と起死回生の同盟をすることで、
卑彌呼勢力を撃破。
さらに軍を進めて、親卑彌呼の四隅突出型墳丘墓国家・拘奴國を滅ぼす。

伊邪国難升米一族ならびに、東日本軍神一族は、
難升米の喪に服していたため、男王からはむしろ香典を頂くしんみりした関係。
邪馬台国勢力下の地方豪族として、そのまま男王配下に収まった。

男王の指導の下、万行遺跡に東日本からの年貢を納めることとなり、
祭神は、奴国王にしておきましょう。

305 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:32:26.75 ID:RWcyaZi50
>>297
池上曽根遺跡ですね。

同時代に驚くほど巨大な大型建物は、
炭素年代が100年ほど新しくなったので、従来通りの1世紀後半になるはず。

すぐ傍の、曽祢神社の祭神が、饒速日命と伊香我色雄命なわけですね。
後者は、魏志倭人伝の伊聲耆掖邪拘に比定する方もいますね。

7世紀の改革時には、池上曽根遺跡の繁栄は跡形もなく、
ただの小集落に寂れた曽祢神社があるだけだったので、
奇跡的に曽祢神社が残ったのでしょう。

306 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:02.98 ID:RWcyaZi50
少なくとも紀元前からあって、
三雲南小路1号大王の兄の時代には大型建物があって、
3世紀銀印の伊聲耆掖邪拘の名も残っているということは、
サンドイッチ理論で、
少なくとも「銅戈時代」には、三雲南小路1号大王の兄の勢力の、
大阪湾における主要拠点であったはず。

鉄工房もあったことから、
ますます三雲南小路1号大王の兄の勢力の拠点であり、
舟木遺跡から鉄器を融通してもらっていた。

環濠で防御はしていたが、
鉄器を保有していたから、
現地毛人の襲来があって銅鐸を鳴らして引きこもる必要はなく、
むしろ盛んに出撃したり、
場合によっては、周囲の倭種カモ系銅鐸環濠集落からの救援要請に応えて、
救出出陣もしていたでしょう。

307 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:35.79 ID:RWcyaZi50
それだけ重要な拠点であったのに、銅戈が出土していないんですよね。

と、いうことは、
祭祀型銅戈軍は、三雲南小路1号大王の兄の勢力ではなかった。

なればその候補は、
銅鐸Jアラート+環濠集落で先に畿内に入りこんでいた、カ〇勢力。
を女系として、
70年政変で北部九州の有力勢力にのしあがった、
Aタカヒコの勢力であったのではないか。

308 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:34:52.80 ID:RWcyaZi50
戈とは捕獲用兵器であり、
銅戈を奉じて勢力拡大して、107年に160人の生□を贈るまでになったということは、
つまりは新天地の原住民を戈で捕獲して、
船行一年かけて本国へ輸送していた。

なぜ一年かというと、船足の遅い輸送船での輸送。
途中の生□シマでの滞在。

巡り巡って、数百年後に、まさかのその新天地に新都を構えることになり、
生□の歴史をどうにかする必要が生じたのが課題の一つだった。

生□シマの名が残ったのも、当時はそんな島の名前をいちいち記載するほど
正確な地図は無く、
ごくごく地元の人々がそう呼んでいただけだったので、
これも奇跡的に中央の監視の目から漏れて、名前が残ってしまったのでしょう。

309 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:42:04.01 ID:RWcyaZi50
稲作の無い時代の土器の流れは、開拓者の流れ。
遠賀式土器ですね。
数十年で当時の稲の育つ北限まで達し、稲作にて繁殖していきました。

稲作が普及して稲作集落の発展した時代の土器の流れは、
租庸調。

供献土器が〇〇式だから、〇〇地方の祭祀が取り入れられた、
などもありえませんね。

数百年数千年経って、土器だけが残っているだけのことであり、
供献された当時は、
土器ではなく、土器に盛られた品々がメインだったわけですから。

冠婚葬祭でのお供えや、
神社での祭祀で、収穫米や、お酒、塩、などをお供えするのに、
中国製の器を使おうが、ドイツ製の器を使おうが、
中国人やドイツ人に支配されたわけではありません。
単なる器ですね。

310 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:47:25.08 ID:RWcyaZi50
武器にも威信材にもならない土器は生口に作らせた。
ついでに供献土器も生口に作らせた。
供献の主品はお供え品であり、土器は単なる器に過ぎない。

ですね。


庄〇式は海上輸送用。要するに北部九州倭国への貢物輸送用。
舟に積んで輸送するため、
薄手で軽量化。
尖り底を木枠に嵌めて固定。
次第に規格化されていくのは、大倭の輸送船が運送を一手に引き受けていたから。
それを作る土器製作者が他の土器も作ったから同じ系統の陸上土器もできただけ。

ですね。

311 :日本@名無史さん:2022/11/02(水) 20:27:13.71 ID:uEo+wQckf
なるほど。天才的ですね。

神々はA島にいた。A大王家もずっとA島にいた。
B勢力が資源に乏しい東の土地を先行侵略して、資源の代わりに先住者を奴隷にして儲けた時代があった。

数百年後、
A大王家が対外戦争で敗北し、弱体化して東遷する事態となった。

A大王家を迎えて東に本拠を構えるにあたり、
東の地における怨みによって、糾弾されて失脚する事態を予防するために、
B勢力が主体となって奴隷をこき使っていた歴史を消去しておく必要があった。

一つに、そのような事実を文字記録から抹消する。

しかし人々の言い伝えまでは消去できないので、
仕掛けたもう一つのカラクリが、

A1系統が先に東遷していて、
A2系統が次に東征してきて、その時にB勢力もやって来たことにした。

一見すると、先駆者の座を譲っているように見えるが、
主犯をA1系統になすりつけた。

312 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:23:20.72 ID:hyPx5R89C
>>221
青谷上寺地遺跡が一つのポイントになりますね。
・勒島遺跡との関係
・襲撃されている
・近畿型(樋分離型)銅戈片

卜占の流派で検討すると、
前314年に亡命燕第一波
神a派:勒島遺跡→前108年に青谷上寺地遺跡
神b派:勒島遺跡→旧伊都吉武遺跡での中央政争に敗れて唐〇カ〇遺跡へ

甲羅派:前108年過ぎに古浦遺跡

313 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:25:13.95 ID:hyPx5R89C
神a派と神b派は、
20年過ぎの奴国王の国内整備時代に共に協力的ですから、
親奴国王だったわけですね。

一方の甲羅派は、100年ほど田〇山姫と婚姻を重ねているうちに、
田〇山姫にも次第に卜占が伝えられていきます。

後10年過ぎの銅矛銅剣戦争後半において、
劣勢になった平形銅剣女王国から救援要請を受けて、
参戦することを決定します。

平形銅剣女王国領域からの銅鐸供出と、古浦の燕復興資金の青銅と、を溶かして、
銅剣を製作しますが、
露見して、
中広形銅矛軍の16尋の大軍によって制圧されますね。

誰がチクったんでしょうね?
西隣りに常駐していたであろう、東征将軍配下のワニ系部隊でしょうか。
東隣りの、神a派でしょうか。

314 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:26:34.80 ID:hyPx5R89C
20年頃に荒神谷遺跡で降伏調印式。
古浦の燕系貞人はおそらく粛清された可能性が高いですね。

ただ、甲羅派の卜占技法は、田〇山女王→Aタカヒコと伝えられていきます。
もはや男系女系共に燕とは無関係になってしまいますが。

奴国王時代になって、
30年頃から、古浦周辺は若き軍神領に。
青谷上寺地遺跡は親奴国王ですから、軍神とも親しかった筈ですね。

70年に奴国王が失脚しますね。
軍神が持ち去った金印を追って、銅戈軍が血眼になって追いかけていきます。

(金印は軍神の長男が西へ秘匿して比良夫水軍→難升米へと繋がっていきますが)

315 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:30:50.15 ID:hyPx5R89C
卜占の技法における、ケズリに注目してみます。

要するに、単なる神事で結果が何でもよければ、
何も加工せずにただ焼灼してヒビ割れを見るだけでいいのですが、
政治的要求が高くなればなるほど、
コントロールする必要性が高まりますから、
ケズリをしっかりと入れて規格を整える必要があるのですね。

この観点から見ると、やはり古浦遺跡出土の卜占は、
いきなり最終形のケズリDが入っています。
骨を両面とも完全に平坦に成形する高度な技法ですね。
燕王族お付きの貞人が一緒に渡来して来たのでしょう。

(弥生前期となっていますが、ケズリDが出現するには早すぎるので、
おそらく前108年以降なのでしょう)

甲羅派秘伝の高度なケズリ技法(焼灼V+ケズリD)が、
田〇山姫→Aタカヒコ→カ〇系大倭長官と伝わり、
肥前の牟田寄遺跡(狗奴国王妃)
倉敷の上東遺跡(狗奴国王族) 楯築墳丘墓の領民集落
唐〇カ〇遺跡(大倭カ〇関連)
などに出土して、
その後全国に広がっていくことになります。

基本的には大倭長官であることが多いので、土器もその系統が絡んできますね。

316 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:34:09.04 ID:hyPx5R89C
70年に奴国王が失脚して、軍神が古代出雲(宗像)から、諏訪まで逃走する際に、
金印捜索隊によって、軍神逃走経路上の関係者が次々にとばっちりを喰らったわけですね。

平和を愛する貝輪職人であった、軍神の兄=土井ケ浜遺跡英雄
もその一人ですし、
青谷上寺地遺跡の人々も、そうなのでしょうね。

軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。

よって、
東国の軍神領域での卜占は、青谷上寺地遺跡の前半の技法がメインとなりますし、
軍神は、銅戈軍に負けないための現実的な即効性のある政治や軍事をしなければなりませんでしたから、
神権政治は必要なく、
卜占はあくまでも形式的な祭祀レベルでよかったので、
原初的な卜占面焼灼面一致型の卜占で事足りたわけですね。

中には焼いただけでヒビすら入っていないものも出土しているので、
青谷上寺地遺跡から連れてこられた人の子孫が、神事の際に形式だけ真似れば十分だったということでしょう。

317 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:37:11.77 ID:hyPx5R89C
青谷上寺地遺跡は一度滅亡した後地に、銅戈系の人々が入り、
ケズリDの卜占も出現したのでしょう。

近畿型(樋分離型)銅戈は、近畿→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡と侵攻したわけですね。
柳沢遺跡に攻め込んだ将軍は軍神に撃破されてしまいましたが。

祭祀型銅戈の中では初期に属しますので、
おそらくAタカヒコ本人あるいはその有力な部下が、近畿にいて、
初期にはそこから軍を発したのでしょう。

Aタカヒコはそのまま北部九州倭国の遷都建国の重鎮になりましたから、
すぐに北部九州倭国各地から九州型(樋結合型)銅戈が活動を開始することになりましたが。

318 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:50:09.53 ID:hyPx5R89C
青谷上寺地遺跡に銅戈系の人々が入って、
持ち込んだ近畿型(樋分離型)銅戈を、
占領の証に地鎮祭埋納してあったか、あるいは祀ってあったのを、

後の銅矛銅戈戦争時か、倭国乱時に、青銅原料として再利用して、
銅鏃などを作ったわけですね。

>>209
青谷上寺地遺跡には四隅突出型墳丘墓がありませんから、
後漢書の拘奴國=日本海沿岸倭種の四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
とは敵対もしくはそれまでに衰退していた。

70年まで三次市に押し込められていた、奴国王の兄達の末裔である拘奴國は、
どちらかというと、ワニ系奴国王と敵対だったわけですから、
奴国王を打倒したカモ系銅戈勢力とは敵の敵で味方のはずですね。

そう考えると、
青谷上寺地遺跡は本来は神a派で、勒島遺跡の人々も受け入れたりした。
奴国王の側についていた。
70年奴国王失脚時に一度滅ぼされ、跡地に甲羅派(焼灼V+ケズリD)が入った。
その甲羅派も、銅矛銅剣戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。
と、いうことになりますかね。

319 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 23:15:18.44 ID:hyPx5R89C
>>317
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

>>318
その甲羅派も、銅矛銅戈戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。

銅矛銅戈戦争であれば、
金属器ルート上流の新伊都2代目VS大倭経済圏の構図ですから、
金属原料が枯渇して、
手持ちの青銅器を供出しなければならなかったのですね。
>銅戈片→銅鏃

320 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:46:26.01 ID:qV1ymmbMb
>>79
古代豊国=古代出雲+古代伯耆の、
西の有力部族がワニ
東の有力部族がカモ

それぞれ相手が邪魔になるので、
ワニは対馬海峡〜半島権益を志向する傾向があり、
カモは関門海峡〜列島権益を志向する傾向があった。

なれば、当然のことながら、
>>312
神a派はワニと組んで、半島出兵を促す傾向があったことになりますね。
特需もありますし、
自領の保全にもなりますから。

321 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:47:33.07 ID:qV1ymmbMb
奴国王が平形銅剣女王と結婚した直後から、
神a派が奴国王に協力的であったということが、
いずれは半島出兵をすることになる伏線であったことになります。

奴族は親漢であり、
楽浪郡使ともある程度連携していた。

燕系の神a派は、本来は微妙に反漢の立場ですが、
故国復興はもうあきらめて、
奴族に楔を入れて、末弟をバックアップして、
奴国を親神a派にして利用しようと画策したのでしょうかね。


また、東方からやってきた神b派のことを、
わざわざ卜占の辞で身分確認しなければならなかった、
という逸話から、
神b派が奴国王政権に合流したのは、ずっと遅く、
銅剣銅矛戦争が終わって、中広形銅矛将軍が奴国王になってから、
であることがわかります。

322 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:48:33.52 ID:qV1ymmbMb
>>132-135
以上から、
前108年過ぎに、青谷上寺地遺跡に亡命していた神a派は、
奴国王擁立に最初から関わっていた。

10年代後半に、中広形銅矛将軍が、田熊石畑将軍の配下の立場で、田熊石畑将軍の娘である妻を連れて、
奴族の兄達を追って現出雲に来た時は、
現出雲市のワニ系部隊が現地で迎え入れたし、
東の青谷上寺地遺跡の神a派も中広形銅矛将軍に助力した。

その時はまだ、古浦甲羅派や田〇山遺跡女王は中立。

兄達が中国山地に逃走したことで、
中広形銅矛将軍は奴国領主の立場を確立したため、
一旦北部九州へ引き上げた。

323 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:49:11.00 ID:qV1ymmbMb
その数年後に銅剣銅矛戦争が勃発し、
次いで義父の田熊石畑将軍が戦中に亡くなり、
中広形銅矛将軍が東征将軍位を継いだ。

20年頃に、甲羅派の銅剣女王側への参戦準備を聞きつけて、
中広形銅矛将軍が16尋の大軍で押し寄せた。

この時の兵は、おそらく、
主力のワニ部隊が中広形銅矛14尋、
応援の神a部隊が中細形銅矛2尋、
だったのではなかろうか。

324 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:50:03.56 ID:qV1ymmbMb
70年に飛びますが、

>>317
近畿型(樋分離型)銅戈は、
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡
と進攻したと予想されるわけですね。

土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡での惨劇が起きるわけです。

片や、石鏃で拷問を受けた後に処刑され、さらに顔面を潰されています。
かたや、新生児3人や若い女性たちを含む109人が頃され、遺骨は環濠に散乱していますから、皆頃しで埋葬もされず放棄されたのですね。

325 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:51:31.40 ID:qV1ymmbMb
日本海沿岸は、扇谷遺跡の運営から、
紀元前3世紀頃には、吉武高木大王によって統一されていたことが示唆されますね。

鉄資源や鉄器が、対馬海峡〜伊都〜丹後半島を常に行き来していたわけで、
要するに「平時」においては警察力が機能していたわけです。

吉武高木大王からすると、
地方領主が勝手に争って、年貢が減ったら困りますし、
あるいは
勝手に武装蜂起すること自体が、危険分子として粛清対象になりますね。

よって、2遺跡の惨劇は、
まずまず「戦時」の出来事だったということになります。

しかし戦時であっても、
かような事件はなかなか起きないわけですね。

特に100人以上を皆頃しとなると、数十人以上の部隊が実行したことになり、
部隊が大きければ大きいほど、
ある程度の規律が必要であって、
要するに、サイコパスやシリアルキラーなどが味方にいたら、
例え味方であっても危険な集団だとなります。

柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍だと、8尋の大軍ですから、
それなりの軍紀がないと機能しないわけで、
まずまず無茶はしない筈、だとなります。

326 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:52:28.40 ID:qV1ymmbMb
二つの遺跡を比較してみます。

土井ヶ浜遺跡では、酷い目に会ったのは村長だけですね。
なぜなら、これだけの頃され方をしたにもかかわらず、
きちんと埋葬されているわけですから。
さらに、他の墓もおそらく金印捜索のため荒らされたけれども、
埋葬され直している。

と、いうことは、
他の集落民はほぼ避難していたことが確実ですね。

金印捜索が主目的なので、
集落民が複数捕らえられればそれは全員拷問を受けて、
徹底的に洗いざらい吐かされることになりますから。

327 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:53:31.94 ID:qV1ymmbMb
一方の、青谷上寺地遺跡ですが、
これは妙ですよね。

金印捜索が主目的なら、乳幼児まで手にかける必要は無いわけです。
まるで全滅させることが主目的のようだ、ということになります。


英雄の方は、奴国王の息子で、古代越の八岐大蛇。
なので、個人ではなく、所属組織ですでに色々ある。

伊都国王系の隊長から見たら、金印を入手して調子に載っている賤奴。
カモ系の隊長から見たら、銅剣銅矛戦争の屈辱やら、女王を初め各地の女性領主を奴国王に手籠めにされた。
古浦の生き残りがいれば、これも故郷を蹂躙された
など、
本人の生き方とは別に、
政治と無関係ではいられないわけですね。

328 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:54:37.93 ID:qV1ymmbMb
>>316
>軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
>青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。

逃走する軍神の視点で考えると、
弥生東日本や、半島での異民族戦を経験しているわけですから、
友邦の危険度も判断できたはずですね。

その軍神から見て、土井ヶ浜遺跡は危険度最大。
兄に危険を告げ、一緒に逃げるよう説得したが、
頑固な兄は頑として受け入れなかった。
「せめて領民だけでも逃すんだ、いいか皆すぐに逃げてくれ!」
と故郷の皆に警告して、急いで去ったのでしょう。

英雄はさすがに他の皆は逃がし、集落に一人残って対応した。

平和憲法九条の精神を、二千年前に命がけで実践し、
矢を射こまれながらも、
「お前たち、なんて野蛮なことをするんだ、やめなさい!」
「金印なんかどうでもいいじゃないか。そんなもの意味はない」
「暴力はよくないぞ。いくらでも話し合おうじゃないか」
といったことを説得し続けたのでしょうね。

銅戈隊長に処刑され、父や弟に似た顔を破壊されましたが、
弥生時代の軍人には理解不能な英雄の訴えがなんとなく通じて、
ああ、この集落は金印とは無関係なんだろうな、ということがわかって、
領民は救われた、ということでしょうね。

329 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:56:25.27 ID:qV1ymmbMb
一方で、軍神から見て、
神a派の集落は、まずまず危険性はないだろう、と判断されたわけですね。

(ちなみに、男性に縄文系がいたとのことですが、
 戦士階級は軍神が連れて行ったと考えると、残された男性は生口だった可能性があります)

卜占で重んじられ、古くからの名家である神a派だから、
女子供などは、捕らえられるが、教養もある美人揃いだからどこぞにもらわれていくだろうし、
男はあるいは奴隷などにはされるかもしれないが、
さすがに頃されることはなかろう。
いずれ捲土重来して救出する時も来るはず。
と思ったわけですね。

また、土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡それぞれの村長の危機管理意識についても、
むしろ青谷上寺地遺跡の方が、つい100年前に勒島遺跡を追われた記憶が残っているわけで、
滅亡の危険性については十分に理解していた筈です。

よって、軍神から見ても、村長から見ても、
残した領民が全滅する危険性は低かった、はずです。

では、神a派を全滅させるほどの恨みを持っていたのは誰か。

330 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:16.02 ID:qV1ymmbMb
要するに、卜占の主流派争いですね。

神a派は前4世紀には渡来して、吉武高木大王擁立に参加して、
倭地においては卜占を司る有力古豪となっていた。

そこに、前1世紀に、祖国から王族が貞人や青銅職人などを率いて亡命してきた。

数百年の時間差は大きく、
甲羅派の方がケズリDなど技法も最新式だし、
全般的に知識や技術も最新。
カモも女王系を嫁がせるなど、それらを吸収しようと大人気。

なので、銅剣銅矛戦争末期に、甲羅派が銅剣女王国側に参戦すると聞いて、
神a派の部隊2尋が、古浦の甲羅派集落を滅ぼしたのでしょう。

331 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:54.21 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の生き残りがいたわけですね。

>>93
一つは、各地から供出される銅鐸を、古浦の青銅器工房へ輸送護衛していた兵達。
出張先の各所で、故郷の滅亡を知ったことになります。

もう一つは、急襲された古浦から命からがら脱出した人たち。

銅矛水軍の大軍が押し寄せたので、
逃走経路は中国山地に逃げ込むしかなく、
その先には、奴国王の兄達の一族がいて、敵の敵は味方で匿ってくれたわけですね。

(後の西谷墳墓群と吉備の縁の始まりでしょうか)

その中には、燕王族の末裔がいた可能性が非常に高く、
そしてその勢力が、カモに匿われて、

70年に、Aタカヒコの出陣要請に応えて、紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地から出撃した、6尋の銅戈軍とイコールあるいはその一部となったわけですね。

332 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 20:09:02.53 ID:qV1ymmbMb
紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

奴国王捕縛のため終結したのは、
九州型銅戈軍の十数〜数十尋を主力とする大軍だったのでしょうけども、
逃げた軍神を追いかけるには、
長距離用の舟、つまり準構造船で追いかける必要があったわけですね。

紀伊から遥々遠征して来た近畿型銅戈軍6尋は、遠距離を準構造船で疾駆してきたので、
そのまま軍神追跡部隊に回った。
九州勢は、佐賀〜福岡県北岸での移動なので、普通の軍船だったので、
旗艦などの準構造船で1尋を急造して、参加した。

>>91
前中西遺跡の方形周溝墓に副葬された石戈が樋分離型ですから、
近畿からの武人が大将を勤めたこともわかりますね。

史実に合わせるなら、
軍神水軍が乗って来た軍船(これらも準構造船だったわけでしょう)を焼き払って、
本軍は上陸追跡し、
伝令が帰った。(軍神はもう戻って来れません→来ません)

333 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:43:28.46 ID:qV1ymmbMb
>>144
>>256
??=Sが生きのびたわけですね。
男系は高い確率で太子丹の血統。
ですが、
女系では、Aタカヒコと女王母を同じくする、父違いの兄でもある。

カ〇女王系なので、当然カ〇勢力に保護された。

Aタカヒコも丁度豊国宰相から、東方振興地域担当の大倭に、
1世紀当時としては格下げにされた。
ので、兄勢力を匿うのに大いに助力できた。

334 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:44:45.37 ID:qV1ymmbMb
後60年代の激しい政争だったわけですね。

伊都国側は、57年金印がもたらした疫病で一時的に弱体した奴国王に、
恭順するよう使者を送る。

しかし奴国王はその使者を寝返らせる。

つまり、
〇ワカヒコを伊都国王にして、伊都国とカ〇系を治める。
軍神は金印奴国王で、奴国と全体を。
奴族で倭地を乗っ取ろうという作戦ですね。

一方の伊都国側も調略を進めていて、
母子共に冷遇されたAタカヒコですね。

〇ワカヒコの抹●は伊都国王家の命運をかけた一大事であり、
ここはクリアされた。

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