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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
- 邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。
伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。
里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。
三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。
- 298 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:03:42.30 ID:RWcyaZi50
- 魏志高句麗伝
「本有五族 有涓奴部 絶奴部 順奴部 灌奴部 桂婁部
本涓奴部爲王 稍微弱 今桂婁部代之」
高句麗には有力五族があり、元々は涓奴部が王になっていたが、弱体化して、
魏代の今は、桂婁部が高句麗王の座をとってかわっている。
何らかの政争に敗れた涓奴部は単に衰えたのかそれともどこかへ行ったのか?
- 299 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:04:24.15 ID:RWcyaZi50
- 能登国一宮の気多大社。
元は万行遺跡の七尾市にあったそうですが、
崇神天皇の御代に現在の羽咋市に遷座したそうです。
祭神は大己貴命。
孝元天皇の御代に、大己貴命が出雲からやって来た。
あるいは、
孝元天皇の御代に従者を率いて渡来した異国の王子。
と伝えられています。
- 300 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:05:52.97 ID:RWcyaZi50
- >>135
解析するならば、
20年頃、奴国有力者の御曹司兄弟が、平形銅剣女王に求婚競争をしましたね。
末弟が見初められて、結婚した。
それに不服な兄達が、末弟を付け狙う。
武力=金属製武器が、伊都勢力>>奴国>平形銅剣女王なので、
伊都国王系東征将軍の、田熊石畑遺跡将軍に末弟が預けられた。
末弟は将軍娘と懇ろになって、軍事力を得た。
>>132
末弟は逆襲に転じて、兄達を追い落とし、
兄達の一部は現出雲から内陸に逃げ込んだ。
末弟は奴国王となり、その息子の軍神が美保関にいたので、
兄達一族は内陸で蟄居しているしかなかった。
男系女系奴族なのと、中央政界と切り離されていた=在地勢力に気を使う必要が無かった、ので、
オリジナルの四隅突出型墳丘墓を継承していた。
- 301 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:07:16.62 ID:RWcyaZi50
- >>152
70年に奴国王が失脚し、軍神は諏訪へ逃走した。
奴族の主流はAタカヒコとなり、ある意味、敵(ワニ系奴族)の敵は味方。
世代が代わったし、
そもそもの親族で、もはや利害関係も特に無くなったため、
仲直りして次第に日本海沿岸に出てくる。
丹後の伊都国王系丹後若狭湾水軍大将に取り入って、
なんとか縁戚を結び、配下として組織に組み込まれていく。
- 302 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:08:07.86 ID:RWcyaZi50
- 倭国乱が起きる。(第7代の時か)
日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國
を設立。
拘奴國は、西の有力女性指導者=卑彌呼「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」と同盟しており、
互いに協力して勢力拡大していく。
西谷墳墓群から次第に勢力範囲を広げ、
第8代の時に、一族の水軍を束ねる有力な若手水軍大将が、
能登半島を攻略して落とした。
当初は彼が祀られていた。
つまり奴国王の兄の子孫。
西の卑彌呼も倭国共立女王に抜擢される。
- 303 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:09:25.11 ID:RWcyaZi50
- 九州南部の狗奴国に協力していた、
長崎伊邪国の難升米が、対馬海峡領有権を手土産に、
倭国共立女王卑彌呼に寝返る。
難升米は大率長官となり、中国の刺史の如く、普段は伊都細石神社に勤めながら、
末盧〜対馬海峡〜狗邪韓國を領有する。
難升米は、越後〜東日本を支配する軍神一族の本来の嫡流であり、
難升米が卑彌呼邪馬台国に所属したことによって、
東日本も卑彌呼邪馬台国へ帰順する。
元は奴国同族である、四隅突出型墳丘墓国家=拘奴國も、
軍神一族と手打ち。
- 304 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:12:01.58 ID:RWcyaZi50
- 正始八年(247)卑彌呼死去。
邪馬台国軍大将の難升米は、筑後肥後境界での対狗奴国戦で、
衆目の中、ド派手に討ち死に。
次の男王。第10代。
北の伊都卑彌呼残党勢力と、南の狗奴国に挟まれて絶体絶命。
叔母の狗奴国王妃に仲介を依頼して、狗奴国と起死回生の同盟をすることで、
卑彌呼勢力を撃破。
さらに軍を進めて、親卑彌呼の四隅突出型墳丘墓国家・拘奴國を滅ぼす。
伊邪国難升米一族ならびに、東日本軍神一族は、
難升米の喪に服していたため、男王からはむしろ香典を頂くしんみりした関係。
邪馬台国勢力下の地方豪族として、そのまま男王配下に収まった。
男王の指導の下、万行遺跡に東日本からの年貢を納めることとなり、
祭神は、奴国王にしておきましょう。
- 305 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:32:26.75 ID:RWcyaZi50
- >>297
池上曽根遺跡ですね。
同時代に驚くほど巨大な大型建物は、
炭素年代が100年ほど新しくなったので、従来通りの1世紀後半になるはず。
すぐ傍の、曽祢神社の祭神が、饒速日命と伊香我色雄命なわけですね。
後者は、魏志倭人伝の伊聲耆掖邪拘に比定する方もいますね。
7世紀の改革時には、池上曽根遺跡の繁栄は跡形もなく、
ただの小集落に寂れた曽祢神社があるだけだったので、
奇跡的に曽祢神社が残ったのでしょう。
- 306 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:02.98 ID:RWcyaZi50
- 少なくとも紀元前からあって、
三雲南小路1号大王の兄の時代には大型建物があって、
3世紀銀印の伊聲耆掖邪拘の名も残っているということは、
サンドイッチ理論で、
少なくとも「銅戈時代」には、三雲南小路1号大王の兄の勢力の、
大阪湾における主要拠点であったはず。
鉄工房もあったことから、
ますます三雲南小路1号大王の兄の勢力の拠点であり、
舟木遺跡から鉄器を融通してもらっていた。
環濠で防御はしていたが、
鉄器を保有していたから、
現地毛人の襲来があって銅鐸を鳴らして引きこもる必要はなく、
むしろ盛んに出撃したり、
場合によっては、周囲の倭種カモ系銅鐸環濠集落からの救援要請に応えて、
救出出陣もしていたでしょう。
- 307 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:35.79 ID:RWcyaZi50
- それだけ重要な拠点であったのに、銅戈が出土していないんですよね。
と、いうことは、
祭祀型銅戈軍は、三雲南小路1号大王の兄の勢力ではなかった。
なればその候補は、
銅鐸Jアラート+環濠集落で先に畿内に入りこんでいた、カ〇勢力。
を女系として、
70年政変で北部九州の有力勢力にのしあがった、
Aタカヒコの勢力であったのではないか。
- 308 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:34:52.80 ID:RWcyaZi50
- 戈とは捕獲用兵器であり、
銅戈を奉じて勢力拡大して、107年に160人の生□を贈るまでになったということは、
つまりは新天地の原住民を戈で捕獲して、
船行一年かけて本国へ輸送していた。
なぜ一年かというと、船足の遅い輸送船での輸送。
途中の生□シマでの滞在。
巡り巡って、数百年後に、まさかのその新天地に新都を構えることになり、
生□の歴史をどうにかする必要が生じたのが課題の一つだった。
生□シマの名が残ったのも、当時はそんな島の名前をいちいち記載するほど
正確な地図は無く、
ごくごく地元の人々がそう呼んでいただけだったので、
これも奇跡的に中央の監視の目から漏れて、名前が残ってしまったのでしょう。
- 309 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:42:04.01 ID:RWcyaZi50
- 稲作の無い時代の土器の流れは、開拓者の流れ。
遠賀式土器ですね。
数十年で当時の稲の育つ北限まで達し、稲作にて繁殖していきました。
稲作が普及して稲作集落の発展した時代の土器の流れは、
租庸調。
供献土器が〇〇式だから、〇〇地方の祭祀が取り入れられた、
などもありえませんね。
数百年数千年経って、土器だけが残っているだけのことであり、
供献された当時は、
土器ではなく、土器に盛られた品々がメインだったわけですから。
冠婚葬祭でのお供えや、
神社での祭祀で、収穫米や、お酒、塩、などをお供えするのに、
中国製の器を使おうが、ドイツ製の器を使おうが、
中国人やドイツ人に支配されたわけではありません。
単なる器ですね。
- 310 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:47:25.08 ID:RWcyaZi50
- 武器にも威信材にもならない土器は生口に作らせた。
ついでに供献土器も生口に作らせた。
供献の主品はお供え品であり、土器は単なる器に過ぎない。
ですね。
庄〇式は海上輸送用。要するに北部九州倭国への貢物輸送用。
舟に積んで輸送するため、
薄手で軽量化。
尖り底を木枠に嵌めて固定。
次第に規格化されていくのは、大倭の輸送船が運送を一手に引き受けていたから。
それを作る土器製作者が他の土器も作ったから同じ系統の陸上土器もできただけ。
ですね。
- 311 :日本@名無史さん:2022/11/02(水) 20:27:13.71 ID:uEo+wQckf
- なるほど。天才的ですね。
神々はA島にいた。A大王家もずっとA島にいた。
B勢力が資源に乏しい東の土地を先行侵略して、資源の代わりに先住者を奴隷にして儲けた時代があった。
数百年後、
A大王家が対外戦争で敗北し、弱体化して東遷する事態となった。
A大王家を迎えて東に本拠を構えるにあたり、
東の地における怨みによって、糾弾されて失脚する事態を予防するために、
B勢力が主体となって奴隷をこき使っていた歴史を消去しておく必要があった。
一つに、そのような事実を文字記録から抹消する。
しかし人々の言い伝えまでは消去できないので、
仕掛けたもう一つのカラクリが、
A1系統が先に東遷していて、
A2系統が次に東征してきて、その時にB勢力もやって来たことにした。
一見すると、先駆者の座を譲っているように見えるが、
主犯をA1系統になすりつけた。
- 312 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:23:20.72 ID:hyPx5R89C
- >>221
青谷上寺地遺跡が一つのポイントになりますね。
・勒島遺跡との関係
・襲撃されている
・近畿型(樋分離型)銅戈片
卜占の流派で検討すると、
前314年に亡命燕第一波
神a派:勒島遺跡→前108年に青谷上寺地遺跡
神b派:勒島遺跡→旧伊都吉武遺跡での中央政争に敗れて唐〇カ〇遺跡へ
甲羅派:前108年過ぎに古浦遺跡
- 313 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:25:13.95 ID:hyPx5R89C
- 神a派と神b派は、
20年過ぎの奴国王の国内整備時代に共に協力的ですから、
親奴国王だったわけですね。
一方の甲羅派は、100年ほど田〇山姫と婚姻を重ねているうちに、
田〇山姫にも次第に卜占が伝えられていきます。
後10年過ぎの銅矛銅剣戦争後半において、
劣勢になった平形銅剣女王国から救援要請を受けて、
参戦することを決定します。
平形銅剣女王国領域からの銅鐸供出と、古浦の燕復興資金の青銅と、を溶かして、
銅剣を製作しますが、
露見して、
中広形銅矛軍の16尋の大軍によって制圧されますね。
誰がチクったんでしょうね?
西隣りに常駐していたであろう、東征将軍配下のワニ系部隊でしょうか。
東隣りの、神a派でしょうか。
- 314 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:26:34.80 ID:hyPx5R89C
- 20年頃に荒神谷遺跡で降伏調印式。
古浦の燕系貞人はおそらく粛清された可能性が高いですね。
ただ、甲羅派の卜占技法は、田〇山女王→Aタカヒコと伝えられていきます。
もはや男系女系共に燕とは無関係になってしまいますが。
奴国王時代になって、
30年頃から、古浦周辺は若き軍神領に。
青谷上寺地遺跡は親奴国王ですから、軍神とも親しかった筈ですね。
70年に奴国王が失脚しますね。
軍神が持ち去った金印を追って、銅戈軍が血眼になって追いかけていきます。
(金印は軍神の長男が西へ秘匿して比良夫水軍→難升米へと繋がっていきますが)
- 315 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:30:50.15 ID:hyPx5R89C
- 卜占の技法における、ケズリに注目してみます。
要するに、単なる神事で結果が何でもよければ、
何も加工せずにただ焼灼してヒビ割れを見るだけでいいのですが、
政治的要求が高くなればなるほど、
コントロールする必要性が高まりますから、
ケズリをしっかりと入れて規格を整える必要があるのですね。
この観点から見ると、やはり古浦遺跡出土の卜占は、
いきなり最終形のケズリDが入っています。
骨を両面とも完全に平坦に成形する高度な技法ですね。
燕王族お付きの貞人が一緒に渡来して来たのでしょう。
(弥生前期となっていますが、ケズリDが出現するには早すぎるので、
おそらく前108年以降なのでしょう)
甲羅派秘伝の高度なケズリ技法(焼灼V+ケズリD)が、
田〇山姫→Aタカヒコ→カ〇系大倭長官と伝わり、
肥前の牟田寄遺跡(狗奴国王妃)
倉敷の上東遺跡(狗奴国王族) 楯築墳丘墓の領民集落
唐〇カ〇遺跡(大倭カ〇関連)
などに出土して、
その後全国に広がっていくことになります。
基本的には大倭長官であることが多いので、土器もその系統が絡んできますね。
- 316 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:34:09.04 ID:hyPx5R89C
- 70年に奴国王が失脚して、軍神が古代出雲(宗像)から、諏訪まで逃走する際に、
金印捜索隊によって、軍神逃走経路上の関係者が次々にとばっちりを喰らったわけですね。
平和を愛する貝輪職人であった、軍神の兄=土井ケ浜遺跡英雄
もその一人ですし、
青谷上寺地遺跡の人々も、そうなのでしょうね。
軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。
よって、
東国の軍神領域での卜占は、青谷上寺地遺跡の前半の技法がメインとなりますし、
軍神は、銅戈軍に負けないための現実的な即効性のある政治や軍事をしなければなりませんでしたから、
神権政治は必要なく、
卜占はあくまでも形式的な祭祀レベルでよかったので、
原初的な卜占面焼灼面一致型の卜占で事足りたわけですね。
中には焼いただけでヒビすら入っていないものも出土しているので、
青谷上寺地遺跡から連れてこられた人の子孫が、神事の際に形式だけ真似れば十分だったということでしょう。
- 317 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:37:11.77 ID:hyPx5R89C
- 青谷上寺地遺跡は一度滅亡した後地に、銅戈系の人々が入り、
ケズリDの卜占も出現したのでしょう。
近畿型(樋分離型)銅戈は、近畿→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡と侵攻したわけですね。
柳沢遺跡に攻め込んだ将軍は軍神に撃破されてしまいましたが。
祭祀型銅戈の中では初期に属しますので、
おそらくAタカヒコ本人あるいはその有力な部下が、近畿にいて、
初期にはそこから軍を発したのでしょう。
Aタカヒコはそのまま北部九州倭国の遷都建国の重鎮になりましたから、
すぐに北部九州倭国各地から九州型(樋結合型)銅戈が活動を開始することになりましたが。
- 318 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:50:09.53 ID:hyPx5R89C
- 青谷上寺地遺跡に銅戈系の人々が入って、
持ち込んだ近畿型(樋分離型)銅戈を、
占領の証に地鎮祭埋納してあったか、あるいは祀ってあったのを、
後の銅矛銅戈戦争時か、倭国乱時に、青銅原料として再利用して、
銅鏃などを作ったわけですね。
>>209
青谷上寺地遺跡には四隅突出型墳丘墓がありませんから、
後漢書の拘奴國=日本海沿岸倭種の四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
とは敵対もしくはそれまでに衰退していた。
70年まで三次市に押し込められていた、奴国王の兄達の末裔である拘奴國は、
どちらかというと、ワニ系奴国王と敵対だったわけですから、
奴国王を打倒したカモ系銅戈勢力とは敵の敵で味方のはずですね。
そう考えると、
青谷上寺地遺跡は本来は神a派で、勒島遺跡の人々も受け入れたりした。
奴国王の側についていた。
70年奴国王失脚時に一度滅ぼされ、跡地に甲羅派(焼灼V+ケズリD)が入った。
その甲羅派も、銅矛銅剣戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。
と、いうことになりますかね。
- 319 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 23:15:18.44 ID:hyPx5R89C
- >>317
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡
>>318
その甲羅派も、銅矛銅戈戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。
銅矛銅戈戦争であれば、
金属器ルート上流の新伊都2代目VS大倭経済圏の構図ですから、
金属原料が枯渇して、
手持ちの青銅器を供出しなければならなかったのですね。
>銅戈片→銅鏃
- 320 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:46:26.01 ID:qV1ymmbMb
- >>79
古代豊国=古代出雲+古代伯耆の、
西の有力部族がワニ
東の有力部族がカモ
それぞれ相手が邪魔になるので、
ワニは対馬海峡〜半島権益を志向する傾向があり、
カモは関門海峡〜列島権益を志向する傾向があった。
なれば、当然のことながら、
>>312
神a派はワニと組んで、半島出兵を促す傾向があったことになりますね。
特需もありますし、
自領の保全にもなりますから。
- 321 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:47:33.07 ID:qV1ymmbMb
- 奴国王が平形銅剣女王と結婚した直後から、
神a派が奴国王に協力的であったということが、
いずれは半島出兵をすることになる伏線であったことになります。
奴族は親漢であり、
楽浪郡使ともある程度連携していた。
燕系の神a派は、本来は微妙に反漢の立場ですが、
故国復興はもうあきらめて、
奴族に楔を入れて、末弟をバックアップして、
奴国を親神a派にして利用しようと画策したのでしょうかね。
また、東方からやってきた神b派のことを、
わざわざ卜占の辞で身分確認しなければならなかった、
という逸話から、
神b派が奴国王政権に合流したのは、ずっと遅く、
銅剣銅矛戦争が終わって、中広形銅矛将軍が奴国王になってから、
であることがわかります。
- 322 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:48:33.52 ID:qV1ymmbMb
- >>132-135
以上から、
前108年過ぎに、青谷上寺地遺跡に亡命していた神a派は、
奴国王擁立に最初から関わっていた。
10年代後半に、中広形銅矛将軍が、田熊石畑将軍の配下の立場で、田熊石畑将軍の娘である妻を連れて、
奴族の兄達を追って現出雲に来た時は、
現出雲市のワニ系部隊が現地で迎え入れたし、
東の青谷上寺地遺跡の神a派も中広形銅矛将軍に助力した。
その時はまだ、古浦甲羅派や田〇山遺跡女王は中立。
兄達が中国山地に逃走したことで、
中広形銅矛将軍は奴国領主の立場を確立したため、
一旦北部九州へ引き上げた。
- 323 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:49:11.00 ID:qV1ymmbMb
- その数年後に銅剣銅矛戦争が勃発し、
次いで義父の田熊石畑将軍が戦中に亡くなり、
中広形銅矛将軍が東征将軍位を継いだ。
20年頃に、甲羅派の銅剣女王側への参戦準備を聞きつけて、
中広形銅矛将軍が16尋の大軍で押し寄せた。
この時の兵は、おそらく、
主力のワニ部隊が中広形銅矛14尋、
応援の神a部隊が中細形銅矛2尋、
だったのではなかろうか。
- 324 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:50:03.56 ID:qV1ymmbMb
- 70年に飛びますが、
>>317
近畿型(樋分離型)銅戈は、
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡
と進攻したと予想されるわけですね。
土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡での惨劇が起きるわけです。
片や、石鏃で拷問を受けた後に処刑され、さらに顔面を潰されています。
かたや、新生児3人や若い女性たちを含む109人が頃され、遺骨は環濠に散乱していますから、皆頃しで埋葬もされず放棄されたのですね。
- 325 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:51:31.40 ID:qV1ymmbMb
- 日本海沿岸は、扇谷遺跡の運営から、
紀元前3世紀頃には、吉武高木大王によって統一されていたことが示唆されますね。
鉄資源や鉄器が、対馬海峡〜伊都〜丹後半島を常に行き来していたわけで、
要するに「平時」においては警察力が機能していたわけです。
吉武高木大王からすると、
地方領主が勝手に争って、年貢が減ったら困りますし、
あるいは
勝手に武装蜂起すること自体が、危険分子として粛清対象になりますね。
よって、2遺跡の惨劇は、
まずまず「戦時」の出来事だったということになります。
しかし戦時であっても、
かような事件はなかなか起きないわけですね。
特に100人以上を皆頃しとなると、数十人以上の部隊が実行したことになり、
部隊が大きければ大きいほど、
ある程度の規律が必要であって、
要するに、サイコパスやシリアルキラーなどが味方にいたら、
例え味方であっても危険な集団だとなります。
柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍だと、8尋の大軍ですから、
それなりの軍紀がないと機能しないわけで、
まずまず無茶はしない筈、だとなります。
- 326 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:52:28.40 ID:qV1ymmbMb
- 二つの遺跡を比較してみます。
土井ヶ浜遺跡では、酷い目に会ったのは村長だけですね。
なぜなら、これだけの頃され方をしたにもかかわらず、
きちんと埋葬されているわけですから。
さらに、他の墓もおそらく金印捜索のため荒らされたけれども、
埋葬され直している。
と、いうことは、
他の集落民はほぼ避難していたことが確実ですね。
金印捜索が主目的なので、
集落民が複数捕らえられればそれは全員拷問を受けて、
徹底的に洗いざらい吐かされることになりますから。
- 327 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:53:31.94 ID:qV1ymmbMb
- 一方の、青谷上寺地遺跡ですが、
これは妙ですよね。
金印捜索が主目的なら、乳幼児まで手にかける必要は無いわけです。
まるで全滅させることが主目的のようだ、ということになります。
英雄の方は、奴国王の息子で、古代越の八岐大蛇。
なので、個人ではなく、所属組織ですでに色々ある。
伊都国王系の隊長から見たら、金印を入手して調子に載っている賤奴。
カモ系の隊長から見たら、銅剣銅矛戦争の屈辱やら、女王を初め各地の女性領主を奴国王に手籠めにされた。
古浦の生き残りがいれば、これも故郷を蹂躙された
など、
本人の生き方とは別に、
政治と無関係ではいられないわけですね。
- 328 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:54:37.93 ID:qV1ymmbMb
- >>316
>軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
>青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。
逃走する軍神の視点で考えると、
弥生東日本や、半島での異民族戦を経験しているわけですから、
友邦の危険度も判断できたはずですね。
その軍神から見て、土井ヶ浜遺跡は危険度最大。
兄に危険を告げ、一緒に逃げるよう説得したが、
頑固な兄は頑として受け入れなかった。
「せめて領民だけでも逃すんだ、いいか皆すぐに逃げてくれ!」
と故郷の皆に警告して、急いで去ったのでしょう。
英雄はさすがに他の皆は逃がし、集落に一人残って対応した。
平和憲法九条の精神を、二千年前に命がけで実践し、
矢を射こまれながらも、
「お前たち、なんて野蛮なことをするんだ、やめなさい!」
「金印なんかどうでもいいじゃないか。そんなもの意味はない」
「暴力はよくないぞ。いくらでも話し合おうじゃないか」
といったことを説得し続けたのでしょうね。
銅戈隊長に処刑され、父や弟に似た顔を破壊されましたが、
弥生時代の軍人には理解不能な英雄の訴えがなんとなく通じて、
ああ、この集落は金印とは無関係なんだろうな、ということがわかって、
領民は救われた、ということでしょうね。
- 329 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:56:25.27 ID:qV1ymmbMb
- 一方で、軍神から見て、
神a派の集落は、まずまず危険性はないだろう、と判断されたわけですね。
(ちなみに、男性に縄文系がいたとのことですが、
戦士階級は軍神が連れて行ったと考えると、残された男性は生口だった可能性があります)
卜占で重んじられ、古くからの名家である神a派だから、
女子供などは、捕らえられるが、教養もある美人揃いだからどこぞにもらわれていくだろうし、
男はあるいは奴隷などにはされるかもしれないが、
さすがに頃されることはなかろう。
いずれ捲土重来して救出する時も来るはず。
と思ったわけですね。
また、土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡それぞれの村長の危機管理意識についても、
むしろ青谷上寺地遺跡の方が、つい100年前に勒島遺跡を追われた記憶が残っているわけで、
滅亡の危険性については十分に理解していた筈です。
よって、軍神から見ても、村長から見ても、
残した領民が全滅する危険性は低かった、はずです。
では、神a派を全滅させるほどの恨みを持っていたのは誰か。
- 330 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:16.02 ID:qV1ymmbMb
- 要するに、卜占の主流派争いですね。
神a派は前4世紀には渡来して、吉武高木大王擁立に参加して、
倭地においては卜占を司る有力古豪となっていた。
そこに、前1世紀に、祖国から王族が貞人や青銅職人などを率いて亡命してきた。
数百年の時間差は大きく、
甲羅派の方がケズリDなど技法も最新式だし、
全般的に知識や技術も最新。
カモも女王系を嫁がせるなど、それらを吸収しようと大人気。
なので、銅剣銅矛戦争末期に、甲羅派が銅剣女王国側に参戦すると聞いて、
神a派の部隊2尋が、古浦の甲羅派集落を滅ぼしたのでしょう。
- 331 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:54.21 ID:qV1ymmbMb
- 甲羅派の生き残りがいたわけですね。
>>93
一つは、各地から供出される銅鐸を、古浦の青銅器工房へ輸送護衛していた兵達。
出張先の各所で、故郷の滅亡を知ったことになります。
もう一つは、急襲された古浦から命からがら脱出した人たち。
銅矛水軍の大軍が押し寄せたので、
逃走経路は中国山地に逃げ込むしかなく、
その先には、奴国王の兄達の一族がいて、敵の敵は味方で匿ってくれたわけですね。
(後の西谷墳墓群と吉備の縁の始まりでしょうか)
その中には、燕王族の末裔がいた可能性が非常に高く、
そしてその勢力が、カモに匿われて、
70年に、Aタカヒコの出陣要請に応えて、紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地から出撃した、6尋の銅戈軍とイコールあるいはその一部となったわけですね。
- 332 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 20:09:02.53 ID:qV1ymmbMb
- 紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡
奴国王捕縛のため終結したのは、
九州型銅戈軍の十数〜数十尋を主力とする大軍だったのでしょうけども、
逃げた軍神を追いかけるには、
長距離用の舟、つまり準構造船で追いかける必要があったわけですね。
紀伊から遥々遠征して来た近畿型銅戈軍6尋は、遠距離を準構造船で疾駆してきたので、
そのまま軍神追跡部隊に回った。
九州勢は、佐賀〜福岡県北岸での移動なので、普通の軍船だったので、
旗艦などの準構造船で1尋を急造して、参加した。
>>91
前中西遺跡の方形周溝墓に副葬された石戈が樋分離型ですから、
近畿からの武人が大将を勤めたこともわかりますね。
史実に合わせるなら、
軍神水軍が乗って来た軍船(これらも準構造船だったわけでしょう)を焼き払って、
本軍は上陸追跡し、
伝令が帰った。(軍神はもう戻って来れません→来ません)
- 333 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:43:28.46 ID:qV1ymmbMb
- >>144
>>256
??=Sが生きのびたわけですね。
男系は高い確率で太子丹の血統。
ですが、
女系では、Aタカヒコと女王母を同じくする、父違いの兄でもある。
カ〇女王系なので、当然カ〇勢力に保護された。
Aタカヒコも丁度豊国宰相から、東方振興地域担当の大倭に、
1世紀当時としては格下げにされた。
ので、兄勢力を匿うのに大いに助力できた。
- 334 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:44:45.37 ID:qV1ymmbMb
- 後60年代の激しい政争だったわけですね。
伊都国側は、57年金印がもたらした疫病で一時的に弱体した奴国王に、
恭順するよう使者を送る。
しかし奴国王はその使者を寝返らせる。
つまり、
〇ワカヒコを伊都国王にして、伊都国とカ〇系を治める。
軍神は金印奴国王で、奴国と全体を。
奴族で倭地を乗っ取ろうという作戦ですね。
一方の伊都国側も調略を進めていて、
母子共に冷遇されたAタカヒコですね。
〇ワカヒコの抹●は伊都国王家の命運をかけた一大事であり、
ここはクリアされた。
- 335 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:19.44 ID:qV1ymmbMb
- 葬儀の場でAタカヒコが騒ぎを起こし、
その後に喪主へ詫びを入れる。
喪屋を壊したお詫びに、カ〇一族が責任を持って〇ワカヒコを弔おう。
大倭の本部を、倭国(当時はまだ伊都国+奴国)の東端の旧三輪町に作ったように、
カ〇一族の貴種である〇ワカヒコは、
1世紀カ〇領域(銅鐸分布域)の東端である美濃国に祀って、
末永くカ〇領域ひいては大倭を見守ってもらいましょう。
と、卜占でお告げを出して、自らお詫びの出張に出かけたわけですね。
近畿の兄勢力達と挙兵時期を密談するために。
目立ちにくい近畿で軍備を整えたわけです。
- 336 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:55.76 ID:qV1ymmbMb
- 神戸市には、
7本の近畿型銅戈で有名な桜ヶ丘遺跡と、
保久良神社からも近畿型銅戈が出土しており、
祭神には椎根津彦命がいらっしゃいますね。
青亀の背に乗ってやって来たとの言い伝えが残っており、
つまりは亀卜。
卜占を伝える一族だったのでしょうか。
- 337 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:48:41.77 ID:qV1ymmbMb
- 甲羅派の卜占(焼灼V+ケズリD)が伝え残った経路は、
妻のT姫→Aタカヒコや姫達
だけでなく、
夫のS系統も生き残っていたわけですね。
銅戈時代に、紀伊→神戸→と移動し、
東征時に道案内をつとめたことで出世し、
倭国に領地を得たのだろう、ということになりますね。
ただ、どちらの系統についても、卜占の考古学的出土は限られています。
さらに、日本史書、中国史書、各種言い伝えでも、亀卜があったことは明らかなのに、
亀卜の甲羅が出土しませんから、
ただでさえ骨は残りにくいのに、
甲羅は骨よりもさらに残りにくいのか、
あるいは甲羅派の卜占神事の一環として、海に還すような手順があったのか、ということになります。
過去スレで検討したように、
T姫→娘達、の九州縄文女系子孫が、卑彌呼で、
「トト」というのは卜占を行っていたことを意味する可能性が高く、
卑彌呼や卑彌弓呼の「卑彌」「卑彌〇呼」も卜占を意味する可能性が高いですね。
ただ、
卑彌呼は第8代のトトであって、
第7代のトトは狗奴国王妃だと推定されますが。
同系統の卜占を行い、令亀法の辞だったのでしょう。
- 338 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:49:40.36 ID:qV1ymmbMb
- 70年以降は、Aタカヒコが実力者となりますから、
甲羅派も勢いを増したわけですね。
となると、神a派が失速し、
壱岐での卜占出土量が激減したわけですね。
壱岐の神a派、つまりはク〇ヒコの一族は、卜占を禁じられたか、
過去の神b派のように辺境へ流されたか。
(Aタカヒコ領域なのでさすがに処刑までは無かったと思いますが)
そのAタカヒコも銅剣銅戈戦争で失脚し、
甲羅派も一旦は転封され、
卑彌呼の祖のカ〇女系も一度は滋賀へ。
- 339 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 03:59:43.14 ID:brhHvmb/t
- >>332
軍神追跡軍は、近畿からは7尋でしたね。
紀伊の6尋と、他にも初期型の近畿型銅戈出土地から合流して、
宗像を目指したわけでしょう。
近畿勢は秘密の援軍であり、
軍神側はまさか相手方に甲羅派が参加しているとは知らなかったので、
青谷上寺地遺跡の一般人が危険に晒されるとは思いもしなかったのでしょうね。
九州型銅戈の主だった将軍隊長については、軍神は当然顔見知りであり、
戦時にどのような振る舞いをするかは予測がついたでしょうから。
九州型銅戈が柳沢遺跡までは来ているので、
軍神追跡軍の当初の将軍は、古代豊国軍のカ〇系将軍だったのでしょう。
イ〇ナギを追いかけた八雷神の流れですね。
軍神を捕らえていれば、連れ帰って奴国王と豊国宰相と三人並べて降伏文書に調印させていたわけで、
つまりは軍神を捕らえることはできなかった。
九州型銅戈将軍が、上越市関川河口辺りに泊めてあった軍神軍の準構造船団を焼き払って、
一旦宗像へ戻って状況報告したわけですね。
なぜ戻ったと思うかというと、
深入りした石戈の中に、九州型銅戈型の石戈が無いからですね。
- 340 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 04:05:05.94 ID:brhHvmb/t
- 残った近畿型銅戈軍の中に、甲羅派の将軍あるいは隊長がいて、
軍神軍、ならびに軍神軍の中にいる神a派に敵討ちしようと、
進軍を主張して暴走深入りしたのでしょう。
20年頃の荒神谷遺跡の時に10代後半で、銅鐸回収作戦に従事していた銅剣戦士がいたとすれば、
70年には60代後半ですから、まだ将軍隊長を勤めることのできる年齢ですからね。
近畿→宗像→軍神追跡軍に参加して日本海沿岸へ出航し、
遥か50年ぶりの故郷・古浦の浜に一時上陸して、
両親兄弟姉妹、あるいは恋人や、妻子、を思い出して涙し、
それがために、復讐心を燃え上がらせてから、その直後に、
青谷上寺地遺跡に上陸ですから、
他の部族の部隊から見ても、甲羅派部隊が青谷上寺地遺跡に復讐する流れがあったわけですね。
柳沢遺跡から、執拗に神a派を追跡攻撃しようとした、ということは、
もちろん金印のこともあるでしょうが、
20年頃に甲羅派の古浦集落を襲撃した、神a派の隊長なり勇士なり政治的実力者なり、
あるいはその有名な子孫が、
軍神軍と一緒に諏訪に逃げ込んでいた可能性が高いですね。
標的がいたのでしょう。
- 341 :日本@名無史さん:2022/11/14(月) 19:27:44.65 .net
- >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ
- 342 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 10:10:25.26 ID:JEXyyOMiN
- 後漢書
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼 去其國萬二千里」
三国志
「自郡至女王國 萬二千餘里」
後漢書に萬二千里が記載されていることから、里程は後漢代のもの。
大倭王=金印倭王=卑彌呼であり、
後漢代の卑彌呼が居たのが、
女王國=邪馬一国=奴國+不彌國+α=若き卑彌呼の前任地(>>186)
至は、その国の境界に至る
到は、その国の中心地点に到着する
7000+1000+方可400×2+1000+方可300×2+1000+500+100=12000
12000里で女王國=卑彌呼の前任地=奴国境界に至る。
日数は魏使の出張報告書からの転載。
- 343 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 22:22:47.63 ID:JEXyyOMiN
- 日数は魏使の出張報告書からの転載。
「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎて、
(通り過ぎてから)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭人支配地域の北岸である狗邪韓國に'到着'する。
「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭人支配地域の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。
「南至邪馬壹國
女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。
卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。
- 344 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 23:05:16.29 ID:JEXyyOMiN
- 日数は魏使の出張報告書からの転載。
「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國
乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎると、倭に至る。
(倭領に至ってから倭領投馬國の中を)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭領の北岸である狗邪韓國に'到着'する。
帯方郡から狗邪韓國までは、七千余里である。
「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭領の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。
「南至邪馬壹國
女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。
漢文では直前の単語にかかるため、
七千餘里→狗邪韓國
水行二十日→投馬國
水行十日陸行一日→女王之所都
にそれぞれかかる。
卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。
- 345 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:07:32.94 ID:LJrG5/A/p
- >>336
椎根津彦命の祖神は大国主命として、
保久良神社に一緒に祀られていますから、
ほぼほぼアジスキタカヒコネ一族。
ごくごく低い確率で、ヤガミヒメの木俣神系列の可能性もありますが。
記紀の同段に登場する方たちに燕人の痕跡は残されていませんね。
- 346 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:09:40.63 ID:LJrG5/A/p
- >>91
この時の近畿型銅戈7尋のうち少なくとも1将が燕系甲羅派の生き残り旧王族であり、
故郷古浦の燕系同郷人の仇討ちのため、徹底進軍を主張して深入りしたものの、
軍神の軍略に嵌められて全滅したわけですね。
>同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
>軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。
真逆かもしれませんね。
古浦の前々領主である燕系甲羅派の嫡流が、
近畿型銅戈軍の将として、
天下分け目の合戦に参加した。
古浦の前領主である奴国王系の軍神が、それを撃破した。
軍神が、捕縛した甲羅燕将と面会して、初対面で語り合ったわけですね。
古浦の甲羅派を全滅させたのは、神a派。
しかも軍神は、その後10年後に産まれた次男に過ぎない。
お互いに渡来系の将として、異民族の配下を率いて苦労した経験も共有できて、
古浦周辺の共通の知人、意外な近親者、の話題が見つかって盛り上がり、
お互いリスペクトして友情が芽生えかけたけれども、
時代の哀しさで、軍神は甲羅将を・・・遥か東方の地で・・・処刑せざるをえなかった。
前中西遺跡の方形周溝墓に丁重に葬った軍神の心中や如何に。
吠えたでしょうね。。。
- 347 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:33:24.88 ID:dlk2F1+sv
- 松本清張の「砂の器」で有名ですが、
東北弁と出雲弁(雲伯方言)がズーズー弁で似ているのですね。
東北地方に広く分布するズーズー弁が、
関東中部を飛び越えて、
なぜか西の出雲地方だけに飛び地的に存在するわけです。
また、現代日本人のDNA解析でも、東北地方の現代日本人と、出雲地方の現代日本人は、
DNA傾向が似ているそうです。
東北地方の縄文式土器が、沖縄でも出土していますから、
縄文時代からある程度の交流があったことはわかっていますが、
東北の人が自然に拡散するなら、出雲だけでなく、
日本海沿岸に広く薄くズーズー弁が分布するはずですね。
- 348 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:36:01.37 ID:dlk2F1+sv
- 伊都説から解析していくと、その謎も説明ができますね。
20年頃に、
青谷上寺地遺跡から出撃した神a派の中細形銅矛2尋が、
古浦の甲羅派集落を壊滅させた。(>>323)
30年代後半に、若きミホススミが古浦を含む現出雲東部地域の領主として着任して、
私的な東国攻略を開始した。(>>170)
ミホススミ範囲までは攻略に成功した。
自領の古浦地域が廃墟と化していたので、
東北弁の人たちを大勢連れてきて、古浦地域で稲作をさせて、年貢を納めてもらった。
被支配民ではあるが、稲作農民だと生活は安定するので、
東北弁の人たちはある程度増えて、東北弁が残った。
支配者は(>>152)何度か交代するが、
稲作農民は貴重な年貢を献上してくれる存在なので、
そのまま根付いたわけですね。
DNAもそれを示しています。
- 349 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:39:59.62 ID:dlk2F1+sv
- 後に軍神が諏訪に鎮座するわけですが、
北部九州と敵対した状態の軍神に、東国の人々が従ったということから、
ミホススミが東北弁の人々を連れてきた方法が、
奴婢や生口の形ではなく、
募集形式だったことがわかりますね。
豊かな西方に、既に一度耕されて肥沃だが、放置されている土地がある。
一家で移住して進んで弥生先進地域で暮らしてみませんか。
とか、
飢えている孤児を集めて稲作させたり。
とか、
平和な方法で集めてきたことが確実ですね。
そして、古浦にやってきた東北弁の人々の稲作が軌道に乗って、
それなりの生活をしていることが、
東北の知り合いにも伝わっていた。
70年までは、たまには親族に会いに来ることもあった。
ということでしょう。
- 350 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:45:05.94 ID:dlk2F1+sv
- 以上から解析すると、
東北弁と東北DNAが古浦にやってきたのは、
30年代後半〜70年だった、ということになりますね。
雲伯方言の分布範囲は、
島根県の出雲地方(飯南町を除く)
隠岐地方
鳥取県の伯耆地方西部(西伯郡・日野郡・米子市・境港市)
とのことですから、
まさに古浦を中心に拡散しています。
東北弁の人々は結構大勢やってきて、
貴重な労働力として周囲に入っていった、ということでしょうね。
飯南町に入っていないということは、
飯南町が奴国王の兄勢力の側だったからでしょうね。
後漢書の東の拘奴國=四隅突出国家、の発祥地域ですね。
- 351 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:46:08.60 ID:dlk2F1+sv
- 軍神の出身地である土井ヶ浜遺跡(の集落という意味ですが)は、
貝輪入手に特化していたのですから、
沖縄〜南九州〜長崎、の貝輪ルートの人々と密接な関係があった。
ので、縄文系の人々を差別する意識があまりなかったわけですね。
というかむしろ親戚感覚でしょうか。
特に、土井ヶ浜遺跡の領主であった兄の、英雄が、
二千年後の平和憲法の平等の精神を既に強く実践していて、
ミホススミが贈った縄文人も、皆と同じように扱い、
一族と同じ墓に入れるほどであった。
ので、生口のような奴隷商売をしたら、
兄や母に絶縁されるので、
家風のおかげで無茶はできなかったわけですね。
だがそのおかげで、北部九州で失脚しても、
東国に逃走してそこで支配者になることができた。
- 352 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:27:16.24 ID:dlk2F1+sv
- 徐福は東方の海中にある蓬莱に不老不死の薬を求めたのですから、
目的地は日本列島であったことは確実ですね。
前219年に1回目、前210年に2回目の出航をしています。
「史記」
・徐福は一回目の来倭時に、海中大神に遭遇した
・徐福は一回目の来倭時に、蓬莱山に到達した
・海神に出会い、蓬莱山はその東南にあった
・蓬莱山には宮殿があって、銅色で龍形の蓬莱王使者が面会してくれて、光り輝き天を照らしていた
・徐福の一回目の来倭時に、大鮫魚が邪魔をしたので、2回目は連弩を用意してもらった
・2回目に、男女三千人と、百工とを連れて行った
・徐福は平原廣澤の土地を得て、そこで王となって帰って来なかった
「後漢書」
・会稽の海外に、東?人がいて、二十余国をなし、また夷洲と?洲がある
・徐福一行は夷洲と?洲に留まって代々子孫を残し、後漢代には数万家にもなっていた
・夷洲と?洲の徐福子孫は時々会稽の市にやってくる
・逆に、会稽東冶県の人が遭難漂流して、?洲に漂着した人がいた
・?洲は遠絶で、往来できない
「三国志」
・呉の孫権が、夷洲を遠征したが、夷洲の数千人を得て還っただけで、損害の方が大きかった
- 353 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:28:17.18 ID:dlk2F1+sv
- 土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNA解析から、
斉の山東省臨錙(りんし)遺跡からの渡来人である可能性が高くなっていますね。
土井ヶ浜遺跡では、頭部を北西に向けて葬られているのが有名で、
その方角に山東半島がありますから、
まあ誰がどう見ても斉をルーツに持つ人々でしょう。
(むしろ反対する人というのは、なにか特別な思惑や目的があるのだろう、と考えられますね。)
ちなみに、鵜(フクロウ?)を抱く巫女、は、英雄の母系祖先ですね。
(同じミトコンドリアが、なぜかベトナムで見つかっています)
土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNAのハプロタイプはD4b2b1
- 354 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:29:59.28 ID:dlk2F1+sv
- 解析すると、
斉の方士であった徐福は、始皇帝の歓心を得るために、
不老不死の神薬を求めて来倭した。
1回目は、朝鮮半島経由で、対馬海峡に到達した。
>>112
燕系の衛氏朝鮮が建国する前ですから、秦の使者が通過できたわけですね。
そこで遭遇したのが、海神・大鮫魚、ですから、
サメ=ワニ、つまり古代出雲=宗像を本拠とした、熊鰐の勢力に遭遇したわけです。
対馬海峡の北岸は、燕系の神a派。
対馬海峡は、吉武高木王家の外戚だったであろう、女系ワニ。
が管理していて、
共に、吉武高木大王に従っていた。
とっくに稲作を開始していて、金属器も保有していて、国家運営していましたから、
秦始皇帝の探索隊を日本列島へ入れるなんてとんでもない話だったわけですね。
徐福は吉武高木宮殿に連れてこられたが、
大王や殿上人には会わせてもらえず、
口上の使者とだけお話させていただいて、追い払われた。
>>115
前285年の斉土笛難民は、政治色の無い避難民だったので、人道的に保護した。
けれども、
前219年の徐福は、秦始皇帝の配下で、
始皇帝は周囲の国々を滅ぼして奴隷化した恐るべき皇帝ですから、
青銅製武器で武装した軍隊でぐるりと取り囲んで徐福を威嚇して、
追い返したわけですね。
- 355 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:30:35.55 ID:dlk2F1+sv
- 追い返された徐福の立場で考えると、
斉の方士に過ぎない立場。
不老不死の神薬は手に入らない。というか、無い。
このままだと一族滅亡することが確定している。
かといって、海戦で、あの東夷海神の軍に勝つのは不可能。
となると、一族で亡命する以外に助かる道はなかったわけですね。
そこでついた嘘が
不老不死の神薬を手に入れるには、
「男女三千人と百工と、交換」するなら、手に入るそうです。
しかし、用心のために、「連弩で武装」させてください。
ということで、故郷の親族三千人と、新天地でやっていくための技術者と、護身用の連弩、を
始皇帝の資金で用意して、
前210年に2回目の出航をしたわけですね。
- 356 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:31:34.50 ID:dlk2F1+sv
- 対馬海峡に向かえば、今度こそ海神ワニ水軍=大鮫魚に襲われて、
間違いなく日本海の藻屑となりますから、
台湾沖縄経由で九州南部に入国したわけですね。
三千人の男女では、既に稲作をしていた九州を征服するのは不可能ですから、
現地の人たちと交わりながら、入居していった。
ワニに見つかると、始皇帝の手先として捕まりますから、
ワニがいない地域を選んで入っていく。
となると、
南部九州から有明海沿いに北上して、最終的には長崎の縄文系の人々と交わっていったわけですね。
南部九州から、東は四国や紀伊半島にも分布したかもしれませんが、
徐福集団も金属器ルートには近づきたかったでしょうから、
主勢力は長崎に入っていったのでしょうね。
徐福は長崎県で亡くなった可能性が高いですね。
前206年に秦が滅亡してくれますから、
始皇帝の手先のレッテルから解放されて、
ワニ活動地域に直接顔を出せるようになり、
前206年以降に、土井ヶ浜遺跡が開始となったのでしょう。
- 357 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:33:47.63 ID:dlk2F1+sv
- 対馬海峡渡海部分が、約200kmで、水行十日。
ただ、対馬海峡渡海は倭国直轄の重要海運部分で、舟・漕ぎ手や補給など最高級だったでしょうから、
他の渡海部分だともっと日数がかかったことになりますね。
長崎〜沖縄本島が、約800kmですから、水行四十日以上。
まあ2か月強だったのでしょう。
沖縄本島〜台湾対岸の福州市が、約900kmで、水行四十五日以上。
沖縄本島〜会稽だと、約1500kmですから、水行七十五日以上。
3世紀の孫権が攻め込むことが出来た夷洲は、沖縄でしょうね。
弥生時代に南西諸島を渡海していくのは、漂流すると太平洋ですから、
危険性が非常に高い。
よって、南部九州の?洲から南西諸島を経て、わざわざ中国大陸まで直接往来するのは、
利益に比べて損失が高すぎたので、
遠絶だったわけですね。
沖縄夷州からなら、たまに若手人員や物資が豊かな時期に、会稽まで交易船を送ることがあった。
- 358 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:37:12.90 ID:dlk2F1+sv
- 徐福が王となった、というのは、倭地全体の大王ではなく、
いわゆる旧百余国の中の一小国の王、ということですね。
技術者を連れていったけれども、
燕人なども既に来ていて、
北部九州での競争は厳しく、
青銅も鉄も入手経路は吉武高木大王直轄の対馬海峡しかなく、
徐福集団が利益を上げることが出来たのは、
沖縄との交易路を生かした、貝輪製作くらいしかなかった、
ということですね。
- 359 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 21:13:19.80 ID:dlk2F1+sv
- そう考えていくと、
東革是國というのが、台湾。
夷洲が、沖縄。
?洲が、南部九州。
徐福一行は、台湾は通り過ぎて、
沖縄〜南部九州(〜長崎〜土井ヶ浜遺跡)に定住した。
台湾は元々複数の部族に分かれて暮らしていたのですから、
東革是國の二十余国というのはそういうことでしょうね。
- 360 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:01:40.82 ID:dlk2F1+sv
- 臨錙遺跡のミトコンドリアDNAは現代ヨーロッパ人と共通する部分があるとのことですから、
徐福一行は彫りが深い顔立ちで、縄文人と似ていたのかもしれませんね。
斉系の後発組ですから、伊都国奴国になかなか入れず、
その外縁の、長崎伊邪國や、越土井ヶ浜、などに住んでいたということですね。
沖縄にも拠点があり、
長崎の上腕がモリモリ発達したプロ漕ぎ手集団が、
定期的に沖縄を訪れて貝を仕入れていた。
貝輪など貝製アクセサリーが倭人社会でヒット商品となって、
希少性があるので重宝されたということですね。
ちなみに、長崎出身で五輪で金をいくつも獲得したプロ選手がいましたが、
プロ漕ぎ手の子孫なのかもしれませんね。
世界で最も難しい海域を行き来していたのですから、
上腕モリモリで、海上移動するのでバランス感覚も優れていたわけで、
それに適した男性が何世代もセレクトされていくうちに、
世界トップレベルのプロ漕ぎ手→プロ選手が誕生したというわけでしょうか。
- 361 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:03:12.65 ID:dlk2F1+sv
- 70年に貝輪一族の軍神が金印を持ち去ったので、
貝輪一族=比良夫貝、が倭国軍に追い回されることになりますね。
倭人社会で考えると、
貝輪、もとい貝釧が大ヒットして、長らく貝釧をいくつも腕につけて、
シャラシャラと軽快な音を立てるのが身だしなみだった。
それが突然手に入らなくなったわけですね。
そこで考え出された代替品が、銅釧やガラス釧だったのでしょう。
貝釧をつける風習があったので、
銅釧やガラス釧をつけていた。
けれども、
銅釧は重いし、手入れしないと錆びて緑の輪になってしまう。
海上移動している時に転覆したりしたら、溺れる確率が上がりそうですよね。
ガラス釧は綺麗ですが、うっかりぶつけると割れてしまいますから、
おちおち酒も?めない。
ですから、時代が下ると銅釧やガラス釧は廃れていったわけですね。
- 362 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:12:57.13 ID:dlk2F1+sv
- 巴形銅器は、スイジガイを模していると言われていますが、
そもそもからして、元々は、
盾にはスイジガイが張り付けてあったのでしょうね。
現代でも沖縄では、スイジガイを魔除けとして軒先にぶらさげる風習が残っているそうです。
またスイジガイを加工した、スイジガイ製利器があちこちで発掘されています。
そしてスイジガイは食用にもなる。
よっておそらく、沖縄そして、沖縄と行き来する長崎比良夫貝は、
航海厄除け並びに非常食として、スイジガイをいくつか船べりにぶら下げていたのでしょう。
スイジガイなら突起が多いので、細紐でぶら下げておけますからね。
転じて、プロ漕ぎ手は当然のことながら、
平時の移動や輸送だけでなく、
戦時においても、引く手あまただった。
弥生時代の主戦場は海上戦ですからね。
で、身を護るための盾に、お守りとしてスイジガイを張り付けていたわけですね。
スイジガイを張り付けた盾は比良夫貝だから、これを射ると、比良夫貝と敵対することになって、
後々比良夫貝のプロ漕ぎ手が自軍と契約してくれなくなるし、
場合によっては海上で襲われることもあるかもしれない。
だからスイジガイの盾は攻撃するなという不文律ができあがって、
転じて皆スイジガイを張り付け始めた。
- 363 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:13:34.57 ID:dlk2F1+sv
- 渡海のプロ達の厄除け風習が、倭人の間にも流行して、
基本的に出陣する時はスイジガイを張り付けた盾が準備されて、
それを積んで出航するようになったわけですね。
これもまた、70年を境にスイジガイが手に入らなくなりましたから、
代替品として巴形銅器が開発されて、
当初はスイジガイと同じ六脚だったけれども、
時代が下るにつれて、スイジガイを見たことのない青銅器職人が作るようになって、
五脚や四脚のものが増えていったということですね。
- 364 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 23:27:10.00 ID:dlk2F1+sv
- 軍神の父は奴国王。
母は土井ヶ浜女王ですから、
母方の母系は土井ヶ浜女王系。
母方の父は伊都国王族の田熊石畑遺跡将軍でしょうね。
徐福一行は、
母系社会の九州縄文人と長年同居しているうちに、
徐福一行の代表者も女性が務めるようになった。
その一部が、長崎縄文人と、古代越=山口県の縄文人つまり八岐大蛇族のネットワークや、
先に渡来していた斉土笛集団との繋がりなどで、
土井ヶ浜に領地を得た。
ただし、八岐大蛇族は既に一度敗北しており、
山口県各地の女王は田熊石畑遺跡将軍の子を産むことで、領地安堵を受けていた、
と考えられますね。
その流れがあったので、
奴国王が、義父田熊石畑遺跡将軍から首尾よく将軍位を継いだ後に、
土井ヶ浜女王に子を産ませることができたのでしょうし、
また軍神も、
女系集団であるワニの女王筋の女性を娶り、
また母方の祖父が田熊石畑遺跡将軍だったので、
古代出雲の兵権を得ることが出来たわけですね。
- 365 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 23:28:14.01 ID:dlk2F1+sv
- >>178
金印を長崎に秘匿したとして、
比良夫貝が、なんで倭国と戦ってまで軍神の息子を匿ったのかを考えると、
その息子の母が比良夫貝の女王筋だったから、
としか考えられませんね。
つまり、軍神の最初の妻は、比良夫貝女王筋の女性だった。
だから、軍神は比良夫貝=長崎のプロ漕ぎ手集団、という強力なバックを持っており、
だから、若き軍神は、伊都国系の丹後若狭湾を飛び越えて、
遥か東国遠征をすることができた。
よって、ワニ女王筋の女性も娶ってワニ将軍に出世してからも、
対馬海峡渡海など有利に事を運ぶことが出来たし、
70年の時も、圧倒的な速さで東へ逃げ去ることができたわけですね。
- 366 :日本@名無史さん:2022/11/24(木) 03:13:18.98 ID:kOkvU7TjI
- >>353
D4b2b1dは、青谷上寺地遺跡出土人骨5個からも検出されていますね。
D4b2b1の場合は、朝鮮半島の6世紀半ば頃の全羅北道群山市の堂北里遺跡の甕棺からも検出されているようです。
D系統は日本民族と朝鮮民族で高頻度でみられ、このほかツングース系のウィルタ、モンゴル系のブリヤート、カルムイク、チュルク系のテレンギスなどでもよく見られるそうです。
また、中国や中央アジア、アメリカ先住民でもみられるようです。
D4だけの場合は、現代日本人では30%以上の頻度だそうです。
これを見ますと、古代の日本や朝鮮では、D4b2b1はそれほど特異なハプロではなかったようですが、どうなんでしょうか。
- 367 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/11/24(木) 18:58:43.64 ID:QjvKun0oJ
- 尊皇討奸
https://www.bing.com/videos/search?q=%e9%9d%92%e5%b9%b4%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%ad%8c&docid=603491150469136465&mid=FB1B7F367E25EA3EC637FB1B7F367E25EA3EC637&view=detail&FORM=VIRE
- 368 :日本@名無史さん:2022/11/24(木) 22:49:09.49 ID:/crA4hq91
- >>366
土井ヶ浜遺跡の女系解析は、ハプロタイプではなく、特定塩基配列部分の変異傾向をグループ分けして解析されていますね。
ハプロタイプはまた別の解析データ群で、覚書程度にメモしただけです。
そのデータ群での土井ヶ浜遺跡のデータは2体のみで、他の大勢も同じかどうかはわかりません。
ちなみに青谷上寺地遺跡32個体のハプログループはバラバラで、13ハプログループ29女系統もありますね。
最多のD4bですら24%しかいません。
これだけバラバラのハプログループが弥生集落に集まる理由としては、
「有力な王家」の存在が考えられますね。各地の部族から妻が送られる存在、ですね。
そういう王家があった、もしくは滅亡してどこかから避難してきた、などはどうでしょうか。
またD系統全て足してということであれば45%で半数近くなりますから、青谷上寺地遺跡本流の本来の母系はD系統の可能性が高くなりますね。
- 369 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 04:02:37.14 ID:r+gUZir6p
- そもそもの縄文人からしてmtDNAハプログループは意外とバラエティ豊かだったそうですから、
各地の弥生遺跡のハプログループを多数並べてみて、
弥生時代にはどの遺跡でもバラエティ豊かなら、
既に縄文から混じり合っていて、mtDNAは出自云々にはあまり使えない、同一集落内での母系家族関係の検索にしか使えない、
ということになりますし、
弥生遺跡のほとんどでは単一や少数のハプログループで占められているのに、たまにバラエティ豊かな集落があるのであれば、
それは希少な集落であって、特別な社会的地理的意味が付加されうる、
ということになるでしょうから、
やはり複数遺跡、複数地域、との比較が必要でしょうね。
- 370 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 18:46:14.77 ID:4B2ESdqhY
- なるほど、そこが焦点でしょうね。
一つの説として、青谷は渡来した入植者が集まるハブみたいな場所だったとする考えが出てくるのも、青谷が特別な集落と理解された結果ということになりますね。
ご指摘のように、青谷一般集落説も可能かもしれません。
古代史好きにとっては、欣喜雀躍するデータだと言えますね。
- 371 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:22:13.93 ID:r+gUZir6p
- ハプロタイプ数は、
隈西小田遺跡(筑紫野市)で35個体12グループ、
縄文晩期の、船泊遺跡(礼文島)13個体5グループ、中妻貝塚(取手市)29個体9グループ、下太田貝塚(茂原市)24個体13グループ、
ということですから、
青谷上寺地遺跡32個体13グループが特にバラエティ豊かではないようですね。
隈西小田遺跡と比べると、
青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4d1のみ。
隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1a1のみですから、
女系に関しては両遺跡は疎遠であったことがわかりますね。
D4b2bについては、
町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2b1、
沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4、見つかっています。
- 372 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:25:49.43 ID:r+gUZir6p
- >青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4d1のみ。
>隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1a1のみですから、
青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4dが1体のみ。
隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1aの1体のみですから、
女系に関しては両遺跡は疎遠であったことがわかりますね。
>D4b2bについては、
>町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2b1、
>沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4、見つかっています。
D4b2bについては、
町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2bが1体見つかり、
沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4体、見つかっています。
- 373 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:34:30.56 ID:r+gUZir6p
- から、
2回目航海で南西諸島経由で亡命してきた仮説を証明するまではいかなくとも矛盾はしないデータですね。
また神a派が元々勒島遺跡で対馬海峡の北岸側元締めとして栄えていたのであれば、
その頃に周囲から交通要衝の有力者に多数輿入れしてきて蓄積されたハプロタイプ群が、
前108年に勒島遺跡を追われて青谷上寺地遺跡に移動してきたことになり、
日本列島側だけでなく、半島側の紀元前女系ハプロタイプも多数含んだ状態で移動して来たことになり、
そのような可能性も考慮しながら他遺跡のハプロタイプ群と比較してみるのも興味深いかもしれません。
燕や斉の沿岸地方に分布していたD4が、縄文時代から時々漂着してきて、
国家が滅亡することが多くなる前3世紀頃からやや多数集団で落ちのびてくるようになって、
最期まで残っていたD4集団が徐福一行で、それもまた逃げてきた、ように見えますね。
- 374 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 03:38:00.56 ID:+/M0hzhdU
- 母系のDが日本、朝鮮、ツングース、モンゴル、チュルクでよくみられる母系ハプロであることと、
父系のC2が東アジア、シベリア、中央アジアに多くみられることは、関連がありそうです。
一方、父系C1a1は、青谷上寺地では4点のうち2点がみつかっているようです。
現代の日本ではこのC1a1は5%の頻度ですが、日本以外では韓国済州島、中国遼寧省、同河北省、北朝鮮黄海南道、韓国で少数みつかっているようです。
これらのエリアは東アジアの中緯度帯の北部といえますが、興味深いのはC1a1はアイヌ人ではゼロで、一方のC2については25%と高い頻度とされています。
C1a1は高緯度地方へは進出しなかったのかも知れませんね。
こうしたことからしますと、青谷のY-C1a1の人は、黄海周辺あたりから半島へ移動した血筋で、勒島からさらに海を渡って青谷まで移住したのかも知れませんね。
青谷の母系D4の女性と何かの関係があったのかもですね。
- 375 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:54:18.96 ID:TmmnFbGPN
- >>354
解析していくと、
海神=ワタツミ、大鮫魚=ワニ、の勢力としての中国史料初出の可能性が高いわけですね。
後の志賀島アズミも、女系はワニと考えられますから、
海神・大鮫魚は、
最初からアズミそのものの可能性もありますし、少なくともその女系祖、ということにはなります。
徐福が鮫と認識したということは、
鮫を連想させるような文身を入れていた
ワニ水軍が「鮫」あるいは「大鮫魚」と大書した旗を掲げていた
鮫皮の衣服を着ていた(防水性)
などが考えられますね。
後のワニ女王、トヨタマヒメが、出産の際に出身国での元の姿になると言って、
それを覗き見ると、ワニの姿に変身してのたうち回っていた、ということですから、
鮫皮の衣服(倭人の絹服と違って)の可能性が高いと思われますね。
- 376 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:56:17.58 ID:TmmnFbGPN
- 前約200年の時点でワニが対馬海峡を管轄しているのであれば、
そもそもワニ=吉武高木大王家だったのでは?とも連想されるわけですが、
一つには、
徐福が、海神には遭遇したにもかかわらず、
蓬莱宮殿では、宮闕=宮殿の門までで、大王の使者に会って終わっていることから、
蓬莱大王がトップで、海神はその配下だった。
という構図になりますから、
やはり男系吉武高木王家と、女系ワニだったと考えられます。
もう一つには、
これもトヨタマヒメが、日向王家に対して、自らを他国の人として発言していることから、
やはりワニも伊都国に対しての豊國の出の可能性が高いと思われますね。
伊都説だと、唐津湾岸の古代地名が吾田だった、と計算されるわけですが、
そうなると、アズミとは、
男系が吉武高木王系の女系ワニで、吾田にも拠点を持つ一族、
という意味だった可能性がありますね。
そうなると、吉武高木大王が既に存在している時代に、
対馬海峡を管轄していた大鮫魚とは、
吾田にも拠点を持つ女系ワニ族という意味での、古代アズミ一族だった可能性も出てきます。
- 377 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:57:38.38 ID:TmmnFbGPN
- 魏志倭人伝の「國」でも問題になりますが、
倭国の「國」や「王」については、注意が必要ですよね。
後漢書に「國皆稱王 世世傳統」とあることから、
百余国があって、それぞれに王がいて、
楽浪郡と外交していただけでも三十國とそれぞれの王がいたわけですね。
よって、倭王と倭国(卑弥呼時代に張政が当てた字が邪馬台国)が、
特別な共立大王と広域連合国家であって、
その中の多数の國というのは、都道府県や市町村レベル、
その多数の王というのは、戦国大名のようなもの、
だったわけで、
徐福が王となった、というのも、地方集落の自称王になって、なんとか生活の場を得た、
という意味だったことになりますね。
- 378 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 15:04:44.17 ID:TmmnFbGPN
- >>264
徐福は蓬莱山に到着したと認識していたので、
徐福の認識としては、蓬莱に着いた。吉武高木宮殿を見た。蓬莱王の使者と会った。
ということになります。
徐福は秦始皇帝のれっきとした使者ですから、
始皇帝の使者徐福が面会を求めて遥々やって来たけれども、
吉武高木大王はおろか政権首脳達も、謁見すらしてくれなかった、
ということになりますね。
元の使者に対する、鎌倉幕府の対応と並んで、
東アジアの外交史上とても大きなポイントだと思われます。
つまり倭人はしっかりした国家意識を持っていて、
中国国家だからといってなんでも従属だったのではなく、
気に入らなければ門前払いを喰らわせるだけの独立意識を持っていた、
ということですね。
- 379 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 15:08:34.94 ID:TmmnFbGPN
- >>264
5年東夷王について考えてみると、
徐福の時と同じ構図で考えるならば、
舟に乗って動き回っている王とは、
吉武高木大王ではなく、
倭の多数ある國の、多数いる王の一人、であった可能性が高く、
対馬海峡を管轄していた王、おそらくはその頃もワニ王ワダツミ、ひょっとするとアズミ、
であった可能性が高い、ということになりますね。
名前と肩書については、相手の自称を記録せざるを得ませんから、
私は倭地の「王」、私は奴国の「大夫」、私は倭国の「倭国王」、と言われたら、
中国側が否定する根拠もありませんから、
とりあえずそれがそのまま記録に残ったわけですね。
また107年師升についても、同じ構図で考えるなら、
伊都国王=吉武高木王が元首であって、
倭国王=三雲井原大王は幕府将軍であった、
と考えると辻褄は合ってきます。
- 380 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 16:37:00.64 ID:TmmnFbGPN
- >>82
中国初の統一皇帝である始皇帝(前221〜)の正式使者である徐福は、
倭王(伊都国王=吉武高木大王)に謁見を願い出たが、門前払いされた。
外交交渉に失敗した徐福は、処罰を恐れて、
一族全員で倭地へ亡命した。
- 381 :日本@名無史さん:2022/11/29(火) 16:16:51.90 ID:d1IZh6CDl
- >>379
弥生時代の国の元首は、部族シャーマンが務めたでしょうね。
一方、世俗的な首長は、そうした宗教的権威を持たない集落のリーダーだったのではないでしょうか。
こうした考えに立ちますと、部族シャーマンの宗教的権威を表す具体的な呪具としては、ゴホウラ貝腕輪がそれであったように思われます。
安徳台遺跡では、甕棺に葬られていた男性はゴホウラ貝腕輪を43個も腕につけていましたし、隅・西小田遺跡では41個と多数のゴホウラ貝腕輪が出土しています。
このゴホウラ貝腕輪をつけた人物は、そうした国の元首を務めた部族シャーマンだったと思われますね。
そこで、吉武高木遺跡の出土物をみてみますと、このゴホウラ貝腕輪がみつからないのです。
そうしますと、吉武高木遺跡の有力者は世俗的首長であったことが考えられます。
つまり、近隣の集落をまとめた広域の国のシャーマン元首ではなく、吉武高木集落一個のの首長だったのではないでしょうか。
そうなりますと、対外的に国を代表する王は元首でしょうから、吉武高木遺跡の有力者は国を代表する元首ではなかったことことが想像されます。
埋葬に際して副葬される品々の量や質は、シャーマン元首のそれより集落首長のほうが豊かだったことはあり得ることです。
しかし、その両者を分ける目印は、ゴホウラ貝腕輪の有る無しではないかと思いますが、いかがでしょうか。
- 382 :a:2022/11/30(水) 12:31:06.90 ID:znLbHJh1D
- http://www.geocities.ws/setsinrigaku/10.html
- 383 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:50:50.43 ID:XXic3JZbH
- >>381
たしかにそうですね。
貝腕輪=貝釧の出土傾向についていくつかポイントを挙げると、
・吉武遺跡から出土していない
・三雲井原王墓からも出土していない
・同一遺跡にて貝釧副葬墓はごく一部
・同一遺跡にて貝釧を10以上副葬された「貝釧多数副葬者」は1人が限度
(貝釧有力者の世襲を長く追えない)
・「貝釧多数副葬者」は立岩型甕棺墓、立岩型ゴホウラ貝釧、が多い
・「貝釧多数副葬者」の後に、貝釧は途絶える
この傾向から見ると、
貝釧を副葬された被葬者は、シャーマンなどの特定の役割をもった人物であった
けれども、例えば銅鏡や金属製武器の副葬のような、代々の権力者の世襲は追えない
わけですね。
- 384 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:51:27.09 ID:XXic3JZbH
- 個々の遺跡の中で比較検討して見ると、
例えば、
隅・西小田遺跡には甕棺墓が1500基あるにも関わらず、
貝釧が副葬された甕棺はわずか7基(ゴホウラ5・イモガイ2)しかないのですね。
唯一の「貝釧多数副葬者」が5号甕棺墓で、
たしかに立岩型ゴホウラ貝釧41個と銅鏡鉄剣鉄戈が見つかっていますが、
それ以外は、
ゴホウラ8+細形銅剣1が次点で、
後は貝釧のみで、ゴホウラ6、ゴホウラ1が2基、イモガイ10(おそらく女性)、イモガイ1(子供)
となっており、
とても指導者の系譜は追えないわけです。
あるいは、立岩遺跡では、
「貝釧多数副葬者」は34号甕棺墓のみで、ゴホウラ貝釧14+日光銘連弧紋鏡+鉄戈
ですが、
日光銘連弧紋鏡は、三雲南小路2号妃墓に7枚副葬された女系鏡であり、
>>270
伊都国王男系鏡と考えられる、清白銘連弧紋鏡が副葬された、
10号甕棺墓や32号甕棺墓には、貝釧は副葬されていませんでした。
- 385 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:52:02.16 ID:XXic3JZbH
- 伊都説で解析すると、
貝腕輪=貝釧については、
<伊都国から出土しない>
・吉武遺跡から出土していない
・三雲井原王墓からも出土していない
<伊都王族と想定される墓からも出土しない>
・伊都王族東征将軍の在豊国倭軍基地である、田熊石畑遺跡から出土していない
・伊都王族男系の証と考えられる、清白銘連弧紋鏡が副葬された甕棺墓からも出土していない
・三雲南小路1号大王の兄と考えられる、須玖岡本D地点王墓から出土していない
ということで、
伊都国王族ではない、別の男系勢力のものだと考えられる。
わけですね。
- 386 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:52:47.03 ID:XXic3JZbH
- 「貝釧多数被葬者」は、立岩型甕棺墓の同時期に、
各地の遺跡に一人ずつ、出現したわけです。
この時期の北部九州におけるゴホウラ貝の需要急増によって、
ゴホウラ貝釧の中には質がやや不良のものも含まれるようになりますし、
沖縄の供給基地では、
採取の容易なイモガイの備蓄がピークを迎えた同時期に、
出荷しまくったゴホウラ貝の備蓄が減少してしまいます。
- 387 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:53:23.39 ID:XXic3JZbH
- <魏志倭人伝>
對馬國 卑狗、副:卑奴母離
一大國 卑狗、副:卑奴母離
末盧國
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國 ?馬觚、副:卑奴母離
不彌國 多模、副:卑奴母離
<後漢書>
倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀
使人自稱大夫
倭國之極南界也
光武賜以印綬
- 388 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:54:29.10 ID:XXic3JZbH
- 「貝釧多数被葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」
と考えられますね。
銅剣銅矛戦争に勝利した奴国王が、
主にカモ系女性領主を集めて、子を成し、
母の所領へ官として赴任させた。
卑=カモ 奴=奴国王 母と離れて
と考えると、
雀居遺跡に集められた、カモ系女性領主(卑)が産んだ、(奴)国王の子が、
母と離れて、母の領地の官として赴任した。
ということですね。
解析結果の、卑彌呼も卑彌弓呼も女系はカモだった、という推測とも合致してきます。
- 389 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:55:34.57 ID:XXic3JZbH
- 紀元前に、吉武高木大王が、日本海沿岸を統一した証が、
翡翠の勾玉。
それに対して、奴国王は、「倭國之極南界也」ですから、
南海からの貝釧に重きを置いたわけですね。
流れで見ると、
半島南部に神a派(>>330)
対馬海峡はワニ(>>376)
前210年に徐福一行が沖縄→有明海→長崎入り
前206年に秦が滅亡して、徐福一行の伊都国通過解禁
前108年に衛氏朝鮮滅亡して、楽浪郡設置
甲羅派が古浦遺跡へ亡命、カモ女王系と縁戚に
神a派が没落して青谷上寺地遺跡へ
前1世紀後半〜1世紀初頭に、銅剣女王国が瀬戸内高地性集落群を整備して、
弥生時代の大規模油田=木俣にて木材・炭の大量生産体制を整える
対馬海峡保有ワニ VS 瀬戸内保有カモ <銅矛銅剣戦争>
- 390 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:56:06.07 ID:XXic3JZbH
- 奴国王は結果的には、ワニの中広形銅矛将軍におさまって勝利します。
對馬國 卑狗(ワニ系 or 神a派)
一大國 卑狗(ワニ系 or 神a派)
末盧國 伊都国王系
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國 卑奴母離(安徳台遺跡)
不彌國 奴国王
余旁國々 各国の王 官:卑奴母離
という感じに、
各地のカモ系女王に産ませた卑奴母離を赴任させていったわけですね。
対馬海峡と、豊國はワニ。
末蘆国と伊都国は伊都國王。
その他の国々に、「奴国王時代の卑奴母離」=「貝釧多数被葬者」を送りこんだ。
- 391 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:57:58.03 ID:XXic3JZbH
- 落ち目だった神a派と、徐福派も、奴国王についたわけですね。
神a派は元々半島南部を拠点としていて、壱岐にもヒコを輩出していたので、(>>220)
対馬海峡を管轄していたワニとは親しかった。
徐福派は、むしろ奴国王のほうが求めたのでしょうね。
ベースは八岐大蛇族ですし、徐福も最初の来倭が門前払いですから、
伊都国王とはあまり親しくない。
高い渡海能力や、徐福百工のそれなりの技術力がありますから、
奴国王が目をつけて、口説いたのが、
土井ヶ浜遺跡女王ということになりますね。
>>365
ちなみに、土井ヶ浜遺跡女王の次男である軍神の最初の奥さんは、
イモガイ貝釧の宮の本遺跡の女王系だった、ということになります。
70年に東へ落ちのびる際に、
宮の本遺跡女王との長男には、金印を渡して伊邪國の宮の本遺跡へ逃し、その子孫が難升米。
一方で、諏訪で失敗した際に自らの血統が途絶えるのを危惧して、
次男以下の一人を北海道有珠モシリ遺跡へと逃したわけですね。
宮の本遺跡で作られたイモガイ貝釧を装着しています。
- 392 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:59:17.92 ID:XXic3JZbH
- 70年に奴国王が失脚しますが、
その後は、カモ系Aタカヒコが有力者となりますから、(>>257)
カモ系卑奴母離の大多数は失脚や処刑まではいかず、
伊都国王系の支配官を受け入れて生きのびたわけですね。
伊都国側から見ても、
奴国王が登場する前の、百余国それぞれに王がいる状態よりも、
卑奴母離制度は残して、各国の政治に介入したほうがよろしいので、
伊都国王系の倭国王、を頂点として、
各地の王は伊都国王系以外全て任官制にしたのでしょう。
對馬國 卑狗(カモ系 or 甲羅派)
一大國 卑狗(カモ系 or 甲羅派)
末盧國 伊都国王系
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國 官:?馬觚 卑奴母離・卑狗
不彌國 官:多模 卑奴母離
余旁國々 各国の官 卑奴母離
- 393 :日本@名無史さん:2022/12/02(金) 00:04:26.40 ID:LEJYFLynh
- よって、
「貝釧多数被葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」
は、
20年代〜70年ということになりますね。
奴国王支配は終わりますから、
先の大戦終了時と同じで、
皆いっせいに貝釧を外したわけですね。
半分に割った貝釧を隠して取っておいた人が所々にいて、
自らの死去時にこっそりと副葬させたのでしょう。
奴族なのですね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/625
- 394 :日本@名無史さん:2022/12/03(土) 20:10:57.34 ID:kqhId1SG9
- 弥生時代中期になりますと、集落が広域に連携するク二が形成されるようになるそうです。
背景としては、気温の温暖化で農産物の収穫が増加するようになり、さらに増産を計るための可耕地の争奪が始まり、
この過程で集落の広域連合が進み、ク二が形成されるようになったとみられているようです。
こうした流れの典型とされます吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の中部地域の広域連合の盟主であったようです。
この弥生中期の吉野ヶ里の甕棺では、少女の人骨に9個のゴホウラ貝などの腕輪が付けられているものがみつかっています。
ゴホウラ貝腕輪は前期のうちに北部九州で用いられるようになりますが、
中期になりますと多数のゴホウラ貝腕輪の装着がみられるようになるようです。
広域のク二の成立により、広域連合の元首としてのシャーマンの威信財としてのゴホウラ貝腕輪の需要が高まったた結果だと思われます。
こうしたことをみますと、吉武高木遺跡は前期末から中期初頭の集落ですので、
広域連合のク二が成立する前の時代の個別的な集落だったということになります。
この時期の吉武高木集落のシャーマンには、まだ多数のゴホウラ貝腕は求められていなかったということでしょうね。
吉武遺跡群の調査報告書では腕輪の出土があったとされていますが、それがゴホウラ貝腕輪だったのかどうかはっきりしません。
ゴホウラ貝腕輪の出土に関する一覧表では、吉武遺跡は記載されていません。
こうしたことからしますと、吉武高木遺跡は広域連合のク二の盟主ではなく、他の近隣の集落に影響力は持っていたとしても単体としての集落であり、
その単体集落の元首である高木のシャーマンはゴホウラ貝腕輪を威信財としていなかったということなのかも知れませんね。
その後、北部九州で集落の広域連合化が始まり、吉武高木遺跡の集落は消滅していくのだと思います。
- 395 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:22:30.38 ID:A6QDbB09B
- >>394
ですから上で示した通り、
貝腕輪の需要が高まったのは「考古学的に」ごく一時期のみなわけです。
そこを無視してゴリ押しされても、どうにもなりませんよ。
伊都国男系は貝腕輪を求めておらず、
となれば、別系統の奴国王が伊都国に対抗して重視した威信材と考えられますね。
中広形銅矛もまた伊都国に入れておらず、
すなわち中広形銅矛将軍が奴国王となった。
中国史書で言うところの、伊都国男系が倭国系として、
金印奴国王が一代かぎり。
記紀でいうところの天神族に対して、大国主の天下が一代かぎり。
「貝釧多数被葬者」が、
ごく短期間に、
伊都国を除く各地に林立していることが、
それを示しています。
- 396 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:23:07.12 ID:A6QDbB09B
- 吉野ヶ里遺跡には、ゴホウラ貝輪の「貝釧多数被葬者」はいませんね。
36個のイモガイ貝釧を装着した女性甕棺墓被葬者は見つかっていますが、
副葬されていた銅鏡には「久不相見長毋相忘」の銘がありますから、
(久しく会うことができなくても、末永くお互いを忘れないようにしましょう)
地域女王ではあるでしょうが、どう見ても広域元首ではなく、
奴国王の数多くの妻の一人、であった可能性が非常に高いでしょうね。
そう考えると、
イモガイ貝釧の「貝釧多数被葬者」は、奴国王と結ばれた地域女王(女性首長)
ゴホウラ貝釧の「貝釧多数被葬者」が、「奴国王時代の卑奴母離」
奴国王は長寿だったので、先に亡くなる息子がいたのでしょうし、
70年に生きていた息子たちは貝釧を外したでしょうから、
ゴホウラ貝釧の「貝釧多数被葬者」の出土総数は、
実際にいた「奴国王時代の卑奴母離」よりは、少なくなる計算になりますね。
ゴホウラ貝釧は基本的に男性ですが、
奴国王が自らの男系にこだわった結果とも考えられるわけで、
極めて例外的に女児に与えられた吉野ヶ里での9個ゴホウラ貝釧は、
母のイモガイ貝釧「貝釧多数被葬者」が娘しか産まず、
かつ「倭國之極南界也」の奴国王にとって吉野ヶ里は重要地点であったため、
女性に与えることを特別に認められた、けれども夭逝してしまったのでしょうね。
- 397 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:24:33.83 ID:A6QDbB09B
- 銅鏡、剣(刀)、勾玉、というのは、
三種の神器にも、十種神宝にも入っており、
銅鏡や刀剣というのは、魏志倭人伝においても魏皇帝とやり取りされている威信材であります。
青玉というのが翡翠勾玉であり、
縄文時代から国際的に分布している倭の特産品であります。
それだと困る説が難癖をつけているだけで、じゃあ代替品はというと、はっきりしたものはありません。
貝輪は立岩式甕棺墓の時代までで急に途絶えていますし、
日本史書でも中国史書でも威信材としての記載はありません。
伊都にないものをなんとか見つけてそれを最大限に持ち上げて一発逆転、
という手法は、
桃の種と同じことで、結局は文献と齟齬が生じて論が空中分解してしまいますよ。
- 398 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:31:16.17 ID:A6QDbB09B
- 貝釧は途絶えますが、銅釧という形で風習は残ります。
ゴホウラ貝釧を模したと言われる有鉤銅釧もまた、鋳型は九州では奴国からのみ出土。
そして三雲井原王墓からは出てきません。
桜馬場遺跡からは有鉤銅釧が出土していますから、
奴族と何らかの繋がりがあるのでしょうが、
桜馬場遺跡は井原鑓溝大王の完全な臣下墓ですから、
釧の立ち位置というのがわかりますね。
その桜馬場遺跡末蘆國王家も倭国乱にて滅亡します。
前後に大王墓が無い事から、考古学的に長期政権女王だとわかる
平原女王墓にもまた、貝釧銅釧は無いことから、
釧というものは奴国王一代のごくごく短期間の威信材であったことになります。
そもそも基本的な考え方として、
卑弥呼時代に最重要地点の伊都國に平原女王墓があって、圧倒的豪華な副葬品があるわけですから、
それが卑彌呼だと考えるのが真っ当ですし、
卑彌呼が別にいて、平原女王はその配下だと主張するのなら、
別にあるとする卑彌呼墓は、墓制は平原女王墓と同じであるべきですし、
副葬品も平原女王墓と同じ系統でさらに豪華版であるのが真っ当ですね。
三雲南小路王墓と柏崎遺跡、井原鑓溝遺跡と桜馬場遺跡、のような関係で。
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