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物流の歴史

1 :世界@名無史さん:2018/12/07(金) 11:00:14.74 0.net
元日本通運株式会社の従業員でした。
三井物産グローバルロジスティクス株式会社に入社したいです。

356 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 21:44:40.85 0.net
>>355
そもそも写真に写っているのは電車なのか
それとも客車なのか、という議論からよろしく

357 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 21:49:41.14 0.net
>>356
電車とか好きそう

358 :ウムウル :2019/05/12(日) 15:32:48.87 0.net
>>331>>332


これjは記憶の方がダメで
近世での公的郵便制度でも事件が多発していたらしく
19世紀までは強盗事件が余裕で記録されているそうな

359 :世界@名無史さん:2019/05/12(日) 19:11:24.53 0.net
郵便配達人が拳銃を所持するのはよくあること。
日本でも郵便制度初期の頃は拳銃を所持していた。

ただ、国鉄で現金輸送専用車ができたのは戦後になってからで
戦前は普通に荷物車を使っていたらしい。

360 :世界@名無史さん:2019/05/12(日) 20:35:48.99 O.net
国鉄の緊急連絡用砂袋…通信袋だっけ?いつ頃まで使われてたのかな…
通過駅ホームに放り投げる奴…何かのドラマでみた記憶が…

361 :ウムウル :2019/05/12(日) 21:45:06.52 0.net
>>359
英国の馬車郵便は
ラッパ銃もって乗る護衛役と
運転手も拳銃装備することになってたんでしたか

362 :359:2019/05/12(日) 23:19:29.15 0.net
修正だが戦前の現金輸送は荷物車ではなく貨車で貨物列車による輸送だった。
戦前はインフレがあまりなかったので東京の日銀本店から各地方へは年1回程度の輸送で済んだらしいが
日銀職員は貨車の中に同乗して数日がかりで現金輸送の警戒に当たった。
ちなみに当時の輸送は東京-大阪間で約3日かかったらしい
ソースは現金輸送車物語

正直、筋金入りの鉄オタでもこの仕事はやりたがらないと思う。

363 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 00:32:49.58 0.net
鉄オタっていつ頃生まれたんやろう
戦前にも乗り鉄撮り鉄がおったんかな

364 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 01:09:42.89 O.net
ビッグコミックオリジナルの『てつぼん』て鉄オタ漫画に…たまに主人公の祖父の昔話があるね。
冷凍みかん食べながら車窓の景色を楽しんだり…

365 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 06:38:02.55 0.net
大正生まれの祖母は時刻表を買ってきては、
赤鉛筆でビッシリと書き込み
ローカル線に乗るのが好きだった。
一種の鉄オタかもしれぬ。

366 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 23:41:03.58 0.net
>>363
映像の世紀で活動写真黎明期から撮り鉄がカメラに収められてたから
少なくとも20C初頭にはいた

367 :世界@名無史さん:2019/05/14(火) 00:29:50.48 0.net
>>363
19世紀後半の有名な鉄オタの一人
アントニン・ドヴォルザーク
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF

世界初の鉄道開業から1年たたないうちに、リバプールとマンチェスター間を鉄道に乗るという体験を繰り返す為だけに
鉄道に乗る人がいたそうだから、開業早々から鉄オタはいたようだ。

368 :世界@名無史さん:2019/05/14(火) 08:56:28.13 0.net
「高輪ゲートウェイ」は山手線に予定の新駅で、
名前に一部から不評を買った。
江戸時代に高輪大木戸が設置されていて、
東海道から江戸に入る玄関だった。
また芝浦の船着き場に近く、
陸海双方の江戸の玄関口だったと言える。
従って、本来は「高輪大木戸」の駅名がふさわしい。

忠臣蔵四十七士は本懐を遂げた後、
高輪大木戸を通過して泉岳寺に入った。
本来なら木戸は閉じられているはずの夜の時間帯に。
赤穂義士を幕府役人たちが応援していたのかもしれない。
高輪大木戸から東海道や芝浦に行こうとすると、
泉岳寺が見える。
そこに浅野内匠頭と四十七士が眠っており、
沿道に忠臣蔵にまつわるお土産屋が多数あったという。
陸海の旅人たちは忠義の物語を聞かされて、
全国に語り伝える役割を担う。

369 :ウムウル :2019/05/18(土) 22:00:28.51 0.net
>>291>>191

塩のさんの中の人の本に
スペイン船が地中海で
新大陸の獲得物を
ジブラルタルの内側を運ぶ際に
海賊に持っていかれると書いていたのだが
受け入れ側は実際のとこどうなっていたのだろうか、、、

370 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:05:42.67 0.net
おいらあんまり印象ありません
石炭使うようになってからのイメージです


ライン川文明の歴史
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1526119947/1

1 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2018/05/12(土) 19:12:27.33 0
「エジプトはナイルの賜物」というが、アルプス以北の欧州も、ライン川の文明だ

暗黒の中世においても、ライン川の周辺だけは別格の先進地

そんなライン川の歴史を語る

371 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:37:48.32 0.net
【考古学】紀元前450年ごろに歴史家ヘロドトスが見たナイル川の貨物船「Baris」は実在した[03/18]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1552892870/1

1 名前:しじみ ★[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 16:07:50.64 ID:CAP_USER
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの著作「歴史」第2巻にはナイル川についての記述があり、「Baris」と呼ばれる貨物船が描写されています。
長らく、学者たちはその文章の解釈に苦労していましたが、ナイル川河口近くで沈んでいた船の調査により、Barisがどういうものだったのかが明らかになっています。

Nile shipwreck discovery proves Herodotus right – after 2,469 years | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2019/mar/17/nile-shipwreck-herodotus-archaeologists-thonis-heraclion
https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/03.jpg

This Nile Shipwreck Is First Evidence That Herodotus Wasn't Lying About Egyptian Boats
https://www.sciencealert.com/a-stunning-nile-shipwreck-provides-the-first-archaeological-evidence-of-a-boat-described-by-herodotus
https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/00.jpg

ヒルティ財団の支援を受けて、アレキサンドリア近海の調査を行っていたオックスフォード大学海洋考古学センターは、
水没した港湾都市「トロニス-ヘラクレイオン」の遺跡周辺で、船体の70%が残っているという極めて状態のよい難破船「Ship 17」を発見しました。

調査に携わったアレクサンダー・ベロフ氏の論文掲載の資料によると、見つかった時点の姿はこんな形だったとのこと。
https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/01.png

トロニス-ヘラクレイオンはこのあたり。アレキサンドリアの北東に位置します。
https://www.google.com/maps?ll=31.304167,30.100556&z=10&t=m&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&cid=4716057926406606565

372 :世界@名無史さん:2019/05/21(火) 21:38:06.42 O.net
プロイセンが列強への地歩を固める経済力を手にするのは…ナポレオン戦争の報奨にラインラントを手にしてから?
フランスへの矢面に立たせてやろうとするメッテルニヒの嫌がらせかもしれないけど…

373 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:41:54.04 0.net
>>371

Ship 17は最も長い部分で28mある、大きな三日月型の船体と、厚板にほぞを組み合わせた構造が特徴的です。
これはまさに、ヘロドトスが「歴史」第2巻に記した、
長さ約1mにカットした厚板をレンガのように並べてほぞをかませて作る「Baris」と呼ばれる貨物船と共通しており、
ヘロドトスの書き記した内容がそのまま本当であったことがわかります。

ヘロドトスが「竜骨(キール)に穴が開いていて舵を通していた」という操舵システムは、このようなものであったと考えられています。


オックスフォード海洋考古学センターでは研究結果をまとめて出版しており、
Ship 17についての話は「Ship 17: a baris from Thonis-Heracleion」という書籍にまとめられているとのことです。


GIGAZINE

374 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:43:17.51 0.net
書き込めない謎がなぞでした、、、
>>373

GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20190318-herodutus-egyptian-boat/

https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/02.png

375 :ウムウル :2019/05/21(火) 22:55:43.68 0.net
>>372
ロスチャイルドと結び付けたかったのですが
おいら失敗を認めざるをえませんでした

376 :世界@名無史さん:2019/05/23(木) 00:12:52.89 0.net
底辺産業というイメージはいつごろからだろう。

377 :世界@名無史さん:2019/05/23(木) 06:07:32.00 0.net
>>376
港の荷揚げ労働の場合はキツイ、危険、低賃金と世界中どこでも昔から相場が決まってる。
荷揚げ労働者たちを仕切るのはヤクザ者で荒っぽいし、船乗りたちに春を売る女たちを集めたり、酒場や歓楽興行も反社会的勢力が仕切る。
神戸港で発展した山口組は典型だが、
同様の様相はコンテナ輸送が広まる以前に世界の港で見られてた。
底辺視される由縁かも?

378 :世界@名無史さん:2019/05/23(木) 07:29:52.00 0.net
>>376
昔、荷役や道普請を夫役、労役で人民を強制使役して行なわせるもの。
社会インフラを支える重要な業務だが、
辛い苦役だもんな。
現代、長時間労働を厭わないトラック野郎。
運転手個人でトラックを購入する人もいるぐらいだから、収入はいいはず。

379 :ウムウル :2019/05/29(水) 00:16:49.74 0.net
ビルカ

ビルカ(Birka)は、現在のスウェーデンの首都ストックホルム西方約29kmのメーラレン湖のビェルケ島にあるヴァイキング時代の都市遺跡である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%AB


ビルカの記録

ビルカについての文字記録はフランク王国の宣教師アンスカル(en:Ansgar)の弟子リンベルト(en:Rimbert)が875年以前に著した『聖アンスカル伝』に登場する。

この中ではビルカはシンクと呼ばれる民会で自治が行われていること。遠くオランダのドーレスタットなどと交易していることを記録している。
またビルカは要塞を有しており外敵からの襲来にたいして備えていることも記されている。

ビルカがどこと交易しているかは遺跡に無数にある墓からの副葬品で窺い知ることができる。
ビルカ周辺の墓は少なくとも2000基程あることが判っており、そのうち1100基が発掘されている。
その副葬品は以下に分けられる。西ヨーロッパから渡来した品々。ラインラントの壷や盃、フランクの宝飾品、アイルランドの青銅製品などがそれである。
またそれを購入するためのビルカ独自のコイン「ビルカコイン」も多数出土している。

これらの発掘は9世紀の墓に集中しており、10世紀の墓からは副葬品自体が少なくなっているが、
東方のロシア、ヴォルガ川流域からの物産が見つかっている。
10世紀末にはイングランドのエセルレッド王のコインがゲルマンコインがスカンディナヴィアで広く流通しているが、ビルカからは発見されていない。
そのため980年以前にはビルカは消滅したものと考えられる。

380 :ウムウル :2019/05/29(水) 00:37:49.26 0.net
東方植民
ロカトール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%A4%8D%E6%B0%91

概要

民族移動後のゲルマン人の定住地域の東境は、
ほぼエルベ川とその支流ザーレ川、ボヘミアの森とバイエルン境を連ねる線であり、それ以東はスラブ人の居住地であった。
10世紀以降、この地域のキリスト教会が精力的に活動を行い、多数の司教座が建設された。

領邦諸侯や騎士団は、実際の植民事業の遂行をロカトール(Locator)とよばれる請負人にゆだねた。
ロカトールは、ドイツ本国において植民者を募集し、彼らを率いて植民村落の建設を行った。
ロカトールは村長として裁判権などの特権を賦与され、村民から地代を徴収して、領主である諸侯や騎士団に納めた。

植民地域の建設都市のうち、バルト海沿岸の海港都市や比較的大きな商業都市のように、
ハンザ都市その他本国の都市が母都市となり、母都市の商人団が娘都市(Tochterstaad)を建設したものもあるが、
内陸の中・小都市の多くは、植民村落の場合と類似の方法で、ロカトールの請負により建設された。

381 :ウムウル :2019/05/29(水) 01:44:02.30 0.net
>>28

ナイル川の瀑布
おいら何故か8つかと思ってましたが
六段階で大丈夫そうですね

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Nubia_today.png


木村書店WEB文庫無料公開
『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章2

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-51-602.html

(第6章2) 母なるナイル
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-6-nairu.gif

382 :ウムウル :2019/05/29(水) 01:52:25.71 0.net
>>381

@エレファンティネ島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8D%E5%B3%B6

エレファンティネ島はナイル川の第1急流(英語版)を構成する無数の島や岩礁のひとつであり、当該第1急流の北端に位置する(#地理)。
古代エジプトの地理概念ではエレファンティネ島が上エジプトの南端であり、第一急流を越えてナイル川を遡るとそこは「ヌビア」と呼ばれる地域であった。
また、エレファンティネ島には第1行政区(ノモス)の主都が置かれた[1](#歴史)。

Abou, Yeb (アブー、イェブ)

島の名前 ?bw は古代エジプト語で「象」或いは「象牙」を意味する[3]。
「象牙の島」という名称から推測するに、エレファンティネ島は遥か南のサヘル地方で産出される象牙の取引所として重要な場所であったようである。
別の説では、島は象から身を守る場所であって、その意味のギリシア語の単語エレファス(ελ?φα?) が古代における島の名前であったとする。


スント「浮く町」

古王国時代エジプトにおいてエレファンティネ島は「南への扉」という別名で知られており[4]、
「エジプト」という国ないし地域の南限であると考えられていた(この島より南は「ヌビア」という別の国ないし地域)[4]。
島の南部には、紀元前4000年前からスント(Sount)という城が築かれていた。
スントには「浮く町」という意味がある。古代王国は、この街を税関として、また南の国との交易の場所として利用していた。

383 :ウムウル :2019/05/29(水) 02:11:15.71 0.net
>>381

一覧表がみつからないので
いまのところ、この日程表がよさそうです


スーダンからエジプトへ 大ヌビア紀行
ハルツームからアブシンベルへ、究極のナイル流域遺跡探訪の旅
https://www.saiyu.co.jp/itinerary/new/GASD12/index.html

384 :ウムウル :2019/05/29(水) 20:03:15.78 0.net
>>381

ハルツームが青と白がマーブルにナイルところなのですが
ここは瀑布ではないですね

https://www.internationalrivers.org/sites/default/files/styles/600-height/public/images/campaign/ian_elwood/nubian_dams_web.jpg?itok=ANZmEm7x

D第五瀑布はアトバラ川の合流点なのですが
そこはスーダン鉄道の結節点になっております

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5b/Railways_in_Sudan.svg/1024px-Railways_in_Sudan.svg.png

ここのサイトでは黒ナイルと記載してありますね
https://yascovicci.exblog.jp/16510014/

385 :ウムウル :2019/05/30(木) 22:53:10.60 0.net
どこかの衛星とリンクしているらしい、、、
そして運行速度が遅くて各地で顰蹙を買っているらしい、、、


朝鮮民主主義人民共和国最高指導者専用列車

朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者が利用する特別編成の列車。
太陽号とも1号列車とも呼ばれる。

通常、ディーゼル機関車2両と客車17-21両で運行されるが、指導者の乗車の有無をカモフラージュするために、外見が同じ編成の列車を複数運行することもある


産経ニュース
「地球10周分疾走」隠されたハイテク専用列車内 「3万4千キロ」空の旅の謎
https://www.sankei.com/premium/news/141219/prm1412190006-n1.html

長大な距離の視察や外遊で用いた専用列車は17両編成で、「太陽号」とも呼ばれる。
旧ソ連の指導者スターリンから金日成(イルソン)主席に贈られた。
外見は古く見えるが、実際は米国などの衛星からの追跡を逃れるため、
赤外線を吸収する特殊コーティングが施され、防弾鋼板で補強、窓は防弾ガラスとなっている。

 内装も絶えず最新式の装備で改良を重ねてきた。
金総書記がよく使う3車両は、大理石のような材質の床に世界最高級の家具を備えつけ、
電子地図モニターやテレビ、パソコン、電話といった機器は衛星回線とつながっているという。

386 :ウムウル :2019/05/30(木) 23:56:43.06 0.net
四ツ橋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%83%84%E6%A9%8B

四ツ橋(よつばし)は、大阪市内に唯一存在した「堀川の十字交差部」に架橋されていた4つの橋を一括して称した「四つ橋」[1]、およびその周辺の地域の通称である。
道路、水路、その後の市電にとっての重要な交通の要所であった。
その後、堀川は埋め立てられ、現在は交差点名や駅名としてその名を残している[2]。

「四つ橋」(橋)
現在、ともに埋め立てられている長堀川と西横堀川が十字に交差した地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称である[3]。
これら4つの橋は、長堀川が開削された1622年(元和8年)より間もなく架けられたと考えられる[1]。

橋脚は3本の柱を横梁で補強されており、径間数は7-8で、橋脚間の幅は平均4-5メートルであったと推定される。
橋の幅は、江戸時代前期にはそれぞれ約3メートルであったが、1881年(明治14年)の記録においては約6メートルになっている。
本流の淀川より離れた位置にあるが、1845年(弘化2年)の淀川の洪水では、四つ橋のうち1つが流された記録がある[1]。

上繋橋(かみつなぎばし)
下繋橋(しもつなぎばし)
炭屋橋(すみやばし)
吉野屋橋(よしのやばし)


昭和初期に四つ橋は、第一次都市計画事業に基づき、それぞれ全長25-34メートル、幅が上繋橋で27.4メートルであるほかは約9メートルのアーチ橋に架け替えられた。
アーチ橋としたのは河川舟運を考慮したものと考えられる[1]。
しかし、太平洋戦争後の高度成長期になると自動車の交通量が急増し、道路拡張のため[4]、
1964年(昭和39年)、西横堀川の埋め立てにより上繋橋と下繋橋は撤去され、
1970年(昭和45年)には、長堀川の埋め立てにより炭屋橋と吉野屋橋も撤去された[1]。

387 :ウムウル :2019/06/02(日) 23:09:46.31 0.net
>>384

ちなみにメロエダムはメロエじゃないところに作られており
瀑布の近くにあるドンゴラは新ドンゴラです。

なかなかややこしいww

388 :ウムウル :2019/06/06(木) 01:43:08.62 0.net
≪前漢書≫地理誌には、

“日南の障塞しょうさい(今の越南の順化フエ:Hue)や
徐聞じょぶん(今の広東省海安 )・
合浦がっぽ(朝鮮半島南端の軍港)・
都元とげん国(今のスマトラの西北部)は、
船で行くと5ケ月で到達できる。

さらに船で行くこと4ケ月で盧没ろぼつ国(今のミャンマーのタンルウィン川の河口西)へ、
さらに航行20余日でェ離しんり国(今のイラワジ川沿岸)に至る。

そこから歩いて10日あまりで夫甘都廬ふかんとろ国(今のイマラジ川の俾謬ぴい:Prom付近)へと至る。
夫甘都廬国から航行2カ月あまりで、黄支おうし国(今のインドのチュンナイ付近)*12に至る”とある

389 :ウムウル :2019/06/06(木) 02:05:16.19 0.net
歴史マニアのための魏晋南北朝史〜歴史の真髄?
http://www.rekishinoshinzui.com/entry/2017/11/09/063000

刊溝
これは運河である。

●刊溝はどこにあるか。
●刊溝はいつ作られたか。
●刊溝を作った呉王夫差の目的
●越王勾践も?溝を活用する。
●呉楚七国の乱で前漢の呉王劉?が?溝を活用。
●後漢末から三国時代の刊溝 孫権も使う。
●西晋時代の刊溝は平和利用。
●東晋では?翼も桓温も北伐で使った。
●建康から洛陽までを繋ぐ刊溝 その道のり
●隋は刊溝を使って陳を滅ぼした後、大運河の一部とする。

江南の歴史を語る際に重要な運河である

●刊溝はどこにあるか。

長江から南北に淮水を繋いでいる。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kazutom925/20171027/20171027085358.jpg

390 :ウムウル :2019/06/06(木) 02:35:32.28 0.net
>>389

東北へ射陽湖を経由するルートから
途中の湖を数珠繋ぎに直線化するルートに変更されたらしい


《宋史》卷九十六?志第四十九?河渠六:
「春秋時,?穿?溝,東北通射陽湖,西北至末口。
漢?王?開?溝,通運海陵。隋開?溝,自山陽至揚子入江。」

とあるので、なんとなく前漢っぽい気がするのだが
賈逵 (魏)と同じ時代として紹介されておりました

391 :ウムウル :2019/06/06(木) 02:45:54.67 0.net
>>390
この「賈侯渠」はワードが腐ってて
ルート図を載せれませんでした


賈逵 (魏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%88%E9%80%B5_(%E9%AD%8F)

建国後

曹丕が魏王になると、賈逵は?県令となり、やがて魏郡太守に昇進した。
曹丕が遠征した際は、丞相主簿祭酒に任命され随行した。また厳しく軍律を履行し、沛国?県についたときには豫州刺史を任された。
賈逵は、豫州の治政が緩んでいたのを見て官吏の綱紀粛正に努め、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。この功で関内侯に封じられた。

豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と充実に励んだ。
中でも特筆すべきが、二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれた。

呉との軍役にも何度か参加し、呂範を破るなど功績を挙げ、建威将軍・陽里亭侯となった。
また、呉軍の東西に伸びた防備ラインを打ち破るため、長江までの直通の通路を整備することを主張した。曹丕(文帝)はこれを賞したという。

392 :ウムウル :2019/06/06(木) 21:15:34.47 0.net
>>388
尋常じゃなく時間かかってるけど
大丈夫なんだろうかww

地中海の移動と比べるとヤバイ感じがするっすね

393 :世界@名無史さん:2019/06/06(木) 21:19:32.34 0.net
何でウムウムとやらは自分で自分にレスしとるんや?

394 :ウムウル :2019/06/08(土) 07:55:58.09 0.net
おいら最近流行のひきこもりなので
じぶんと会話するの得意ですね

395 :世界@名無史さん:2019/06/13(木) 22:55:25.90 0.net
自衛隊のミサイル「81式短距離地対空誘導弾」が荷崩れ 積み替えでPA一時閉鎖


輸送は軽視、日本の伝統をかたくなに守っているとはホルホル

396 :ウムウル :2019/06/15(土) 10:58:38.11 0.net
ホルムズ海峡で襲われた日本のタンカー
フィリピン人さんが中の人でした、、、

このスレでも誰か書いてたような

397 :世界@名無史さん:2019/06/15(土) 14:38:19.78 0.net
東芝系列会社、追い出し部屋を設置。退職拒む者に単純作業を強制
 ↓
単純作業って何?
 ↓
運搬や仕分け、倉庫作業
 ↓
物流・倉庫業をなめるんじゃねー!!!!!

398 :ウムウル :2019/06/25(火) 20:11:08.04 0.net
別子銅山の輸送は明治になるまで
牛舎道が開通せず山麓の中は
仲持ちの中の人が男子45kg女子30kgの荷物をを
200年近く背負って運搬したらしい、、


銅の道
http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/cutrans.htm
http://www2.dokidoki.ne.jp/tomura/image/cutrans01.jpg

@ 第一次仲持道   元禄4年(1691)〜元禄15年(1702)
23km 仲持 ⇒足谷山−弟地−芋野仲塾−小箱越−勘場平中宿−中の川−浦山
12km 牛馬 ⇒浦山=天満浦
仲持輸送 (弟地仲持 180人   天満仲持 200人 )


A 第二次仲持道  元禄15年(1702)〜寛延2年(1749)
12km仲持 ⇒足谷・東延−西赤石南側−雲ヶ原−西赤石と上兜山の中間−石ヶ山丈−立川中宿
6km 牛馬 ⇒立川中宿=新居浜口屋

B 第三次仲持道   寛延2(1749)年〜明治13年(1880)  
6km 仲持⇒足谷−銅山越−角石原−馬の背−御番所−東平−端出場−立川中宿
6km 牛馬⇒立川中宿=新居浜口屋

明和6(1769)年:立川仲持 360人  炭仲持 250人
明治元年(1868):立川仲持 400人

399 :ウムウル :2019/06/25(火) 20:56:38.02 0.net
>>398

地図はこっちの方が見やすい
銅山越の経路の開通が遅かったのは
藩境界が影響していたとのことです


泉屋道さんの中の人のページがめっちゃディープでした、、、
http://h2o.sakura

第一次泉屋道

.ne.jp/bessi/oukan/1_0/top1.html
.ne.jp/bessi/oukan/1_0/tizu2.gif


.ne.jp/bessi/oukan/izumiya0.html

400 :ウムウル :2019/06/28(金) 00:41:15.38 0.net
>>328

日本の古道は規制がなくなると
そうそうに農地に転換されたようなので
ローマの道路が長生きしたのは
他用途へ転換するのにめっちゃコストかかるから
かもしれないっすねぇ

401 :世界@名無史さん:2019/07/04(木) 14:08:23.20 0.net
https://i.imgur.com/tL7Poz4.jpg

402 :ウムウル :2019/07/17(水) 00:40:59.93 0.net
鹿島神宮と香取神宮が
霞ヶ浦水運のロジスティクスの中心だったそうな

ブラタモリでやってました

403 :ウムウル :2019/07/17(水) 01:03:55.95 0.net
>>402
ここに江戸時代のルートが載ってますね
関宿経由です

霞ヶ浦の舟運
那珂湊内海江戸廻り
http://www.ktr.mlit.go.jp/kasumi/kasumi00116.html

利根川東遷(成り立ち)以来、霞ヶ浦は東北と江戸を結ぶ内陸舟運に重要に役割を果たしていました。
いくつあるルートにうち最も古くから利用されていたのが、那珂湊内海江戸まわりと呼ばれるコースです。

那珂湊から涸沼まで遡ったあと陸路で霞ヶ浦に達します。
そこから潮来を経て、利根川へ入り江戸へ向かうコースです。

このコースは航海の危険は少なかったのですが、途中積み替えの手間がかかることから、しだいに衰退していきました。

404 :ウムウル :2019/07/17(水) 20:23:54.21 0.net
>>402
語源をググルと出来すぎな気がしますね、、、

「鹿島」地名の由来では、船を繋ぐ杭=「カシ」を打った「カシ」の島、「カシシマ」が「カシマ」に転訛したという説
http://bunkasi.com/?page_id=191

「香取」が「かじとり(?取・楫取・梶取)」による説、
?織(かたおり)など?(かとりぎぬ)による説、葛を採る葛取による説、神集(かんづまり)にちなむ説、経津主命が邪神を平定したことにちなむ勝取説、
鹿狩りによる鹿取説、神鳥(かんとり)説など諸説ある。
「かと(崖・自然堤防)・り(接尾語)」、「か(接頭語)・とり(崖・自然堤防)」で崖地という意味か、または「かけ(欠)・とり(取)」で崩壊地を指したものか。

405 :ウムウル :2019/07/19(金) 22:40:11.81 0.net
>>403
古代のルートは>>327のヨコハマ古道紀行さんのとこの
リンク先にありましたね
大元はこの中っぽいです

『古代交通研究』バックナンバー案内
http://kodaikoutsu.g1.xrea.com/index.htm

常陸国の古代駅路W-@香取海を渡り下総常陸ルートの首駅へ


https://www.flickr.com/photos/130812483@N08/18550918885/in/photostream/
山路直充_2004年「衣河の尻と香取の海」_「古代交通研究」第13号

406 :ウムウル :2019/07/19(金) 23:37:23.97 0.net
意外と江戸の物流の要衝
関宿は説明でないんすねぇ

ここには変遷は載ってますが
具体的な物流が記載されておりません

>>403

第22回里川文化塾 関宿で学ぶ、江戸時代の舟運と産業
http://www.mizu.gr.jp/bunkajuku/houkoku/022_20151107_sekiyado.html

http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu01.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu02.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu03.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu04.gif
http://www.mizu.gr.jp/images/main/bunkajuku/houkoku/022/zu05.gif

407 :ウムウル :2019/07/22(月) 22:06:18.29 0.net
ついに公共交通機関を
公共に利用しないことで
混雑を解消することになったらしい、、、



【都政】「スムーズビズ」始まる。都職員、朝は公共交通機関利用しない
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1563766503/1

1 名前:記憶たどり。 ★[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:35:03.75 ID:MMN6C1BX9
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190722/k10012003111000.html

来年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて交通混雑の緩和に取り組む「スムーズビズ推進期間」が
22日から始まり、東京都はおよそ1万人の職員が、混雑する朝の時間帯に公共交通機関を利用しない取り組みを始めました。

(以下略)

408 :ウムウル :2019/07/24(水) 19:59:25.34 0.net
意外と日本の依存度が低いですね、、、


【中東】トランプ氏「大金持ち国のために海峡警備」「我々は海峡に依存しない」中国は石油の65%、日本は25%が海峡依存
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1563954348/1

409 :ウムウル :2019/07/24(水) 20:05:36.18 0.net
>>408
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Crude_oil%2C_condensate%2C_and_petroleum_products_transported_through_the_Strait_of_Hormuz_in_2014_through_2018_%2848097472312%29_%28cropped%29.png

海峡迂回パイプライン[編集]

ホルムズ海峡は原油輸出の要衝であるため、中東の政情不安などで海峡が封鎖されると、世界の原油供給に多大な影響を及ぼしかねない。
そのためUAEは、安定的な原油輸出を目的とする陸上パイプライン建設を国家戦略とし、
アブダビ政府系の国際石油投資会社(英語版)(IPIC)が、アブダビ南方のハブシャン(英語版)油田から
インド洋側のフジャイラ港までの約370kmをホルムズ海峡を迂回する形で接続するハブシャン=フジャイラ石油パイプライン(英語版)を2008年から建設し、
2010年12月に試運転を開始した。

輸送能力はUAEの原油生産量の7割に相当する日量150万バレル程度と言われる。
なお、建設は中国企業が請負い、住友商事及び住友金属工業がパイプライン用の鋼管を受注している[4]
(他にドイツとインドの企業も受注している)。

410 :ウムウル :2019/07/24(水) 23:26:18.80 0.net
>>408
これは数値調べるかぎり
ありえない気がするので
たぶんトランプのマジックなのではww

411 :ウムウル :2019/07/24(水) 23:41:20.24 0.net
>>408>>410

社会科の授業らしいです。
このままだと小学生に負けますね、、、


( 3 )エネルギー資源による世界とのつながり - 経済産業省・資源エネルギー庁
www.enecho.meti.go.jp/category/others/tyousakouhou/kyouikuhukyu/.../2-3-b1.pdf

原油(2013年)
ホルムズ依存度 81%
マラッカ依存度 83%

天然ガス(2013年)
ホルムズ依存度 25%
マラッカ依存度 34%

時期が微妙だから天然ガスの方はあんまり宛てにならない気がします

412 :ウムウル :2019/08/08(木) 01:40:19.54 0.net
ヴォルガ・ドン運河
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/58/VolgoDon_Open_Street_Map_2016.jpg
ヴォルガ・ドン運河はヴォルゴグラードの南、クラスノアルメイスク付近(図右やや下)から始まり、少し南下したのち北西へと進み、ヴォルゴドンスコイ付近の貯水池(図左)に接続する。

ヴォルガ川とドン川を最短距離で結ぶ運河である。
水路の総延長は101kmで、そのうち45kmが川と貯水池である。

この2つの川の接続は、はるか昔からの課題であった。
1569年には、オスマン帝国の大宰相ソコルル・メフメト・パシャにより、対ロシア諸国および敵対するサファヴィー朝を牽制するため、
艦隊を黒海からカスピ海あるいはヴォルガ川流域に送る目的で、初めての運河建設工事が行われたが、工事の難航と莫大な工費負担による財政悪化のため挫折した。

また17世紀後半にはピョートル1世が建設を試みたが未完成に終わった。その後、いくつかの計画が考え出されたが、いずれも実行に移されることはなかった。


運用

この運河が完成したことにより、ヨーロッパ側のソ連における統一的な輸送機関システムの重要な一部となった。
ヴォルガ川とはヴォルゴグラードの南で接続され、ドン川とはチムリャンスク湖で接続されている。
閘室が1つある閘門が全部で13基あり、ヴォルガ川からドン川に向かう場合は、9基で88m上って4基で44m降りる。
運河に設置されている閘門の大きさはヴォルガ川のものよりも小さいが、総トン数5,000トンまでの船舶が航行可能である。

運河で使われる水は、ドン川から3基の強力なポンプ場を経由して供給されていて、この水は灌漑にも使われている。

ドン地域からヴォルガ地域へは、ドネツィクからの石炭、鉱物性建材、穀物などの貨物が運ばれ、
ヴォルガからドンへは、材木、黄鉄鉱、石油製品などの貨物が運ばれている。
どちらの方向にも、観光船が運航されている。

413 :ウムウル :2019/08/21(水) 06:52:49.46 0.net
逆ルートっていうのが意味不明だ、、、



【古代船で黒海からエジプトへ】数千年前の航海を再現
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1566194690/1

古代船で黒海からエジプトへ、数千年前の航海を再現
2019年8月19日 13:23 
発信地:ベロスラフ/ブルガリア [ ブルガリア エジプト 中東・北アフリカ ドイツ ヨーロッパ ]

【8月19日 AFP】何千年も前、古代エジプト人は水草を編み上げた船で、はるか黒海(Black Sea)まで旅したのだろうか。
8か国から集まった20人以上の研究者とボランティアによるチームが16日、同様の船を使い、逆ルートで黒海からエジプトを目指す試みを開始した。

(略)

414 :ウムウル :2019/08/28(水) 23:05:08.05 0.net
>>215
よそのキレイな空気をもって帰ってるんでしょうか、、、



「一帯一路」、中欧結ぶ貨物鉄道「空のコンテナだらけ」=中国メディア
大紀元時報
2019年8月21日 15:17

中国国有鉄道会社、国家鉄路集団はこのほど、中国と欧州を結ぶ貨物鉄道、「中欧班列(チャイナ・レールウェイ・エクスプレス)」に深刻な空コンテナの輸送問題があると公に認めた。
中国国内と香港のメディアが相次いで報じた。


同定期貨物鉄道は、中国当局が主導する巨大経済圏構想「一帯一路」を支える重要な交通インフラだ。
国家鉄路集団は、中国と欧州および「一帯一路」沿線国との間で、国際鉄道貨物輸送を運営する唯一の事業者である。
香港紙は、空コンテナ輸送が「一帯一路」プロジェクトに横行する資源の浪費と詐欺行為を浮き彫りにしたと指摘した。


中国紙・中国経営報は16日、「過去には41個のコンテナを載せて出発した中欧班列のある列車が、
今は1個のコンテナのみに貨物が積まれ、残り40個はすべて空っぽだと国家鉄路集団の関係者が語った」と伝えた。


国家鉄路集団の担当者は今月中旬、政府系メディア「環球時報」の取材に対して、空車運転が事実だと認めた。


香港英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト20日付は、多くの地方政府は「中欧班列」の利用を通じて、
中央政府に対して「一帯一路」への支持を示したい狙いがあるとの見方を示した。また、多くの中国輸出企業は、
同貨物列車で空コンテナを輸送することで、中央政府と地方政府から補助金をだまし取ろうとしているという。

続きはWEBで
https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_46173/
https://www.excite.co.jp/news/article/EpochTimes_46173/?p=2

415 :ウムウル :2019/09/06(金) 03:49:42.92 0.net
>>251
狄が車輪なしで生きていけるものなんだろうか、、、

416 :世界@名無史さん:2019/09/09(月) 21:04:37.06 0.net
sm35588488

417 :世界@名無史さん:2019/09/12(木) 09:45:41.49 0.net
>>11
日本は自軍の兵站も軽視するが、敵の兵站も軽視する。
第一次ソロモン海戦で日本海軍が大勝利を収め、
ガダルカナル島沖に多くの米艦が沈没したり大破し、米軍は真っ青。
だが米軍側は日本側の動きに首をかしげた。
日本艦隊や爆撃機は肝心の米軍輸送船団を無視して放置したままじゃんか。
何やってるんだ、あいつら。
結局、米軍はガダルカナル島への物資の揚陸に成功。
戦略的に米軍の大勝利。

418 :世界@名無史さん:2019/09/12(木) 09:58:07.12 0.net
日本軍は敵空母を追い回すが、輸送船は無視。
米国軍は敵空母を無視してでも、輸送船を沈めて回る。
この違いは大きい。

419 :世界@名無史さん:2019/10/05(土) 14:36:08.70 0.net
>>417

その後、日本は自動車の対米輸出台数が対米輸入台数を大きく上回る。
日本はアメ車の関税も下げてやったじゃんか。
何やってるんだ、あいつら。
結局、フォード・モーターが日本から撤退。
自動車貿易でも米国の大惨敗。

420 :世界@名無史さん:2019/10/05(土) 15:05:42.38 0.net
>>417
軽視したくてしたんじゃないだろうね。
弾薬も燃料も足りないんで輸送船攻撃とかに使いたくないのだろう。
本当に短期決戦しか考えてなかったんだよね、

421 :世界@名無史さん:2019/10/05(土) 15:25:05.46 0.net
>>417
70年以上前の昔の戦争勝利に慢心して、
直近の貿易競争で敗北し関税に頼ってしまうのは、アメリカの戦略的な失態といえよう

422 :世界@名無史さん:2019/10/05(土) 17:10:03.02 0.net
70年代

北米から日本への自動車輸入台数が約1万7千

日本からアメリカへの自動車輸出台数が約10万

423 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/10/26(土) 23:10:41 ID:0.net
>>121>>122

http://yamada-maritime.com/16portuguese15cnavart1.pdf

2.ポルトガルにおける海運、海軍の始まり
1)海運
英国、フランドル、フランスとの通商
地中海商人達は12世紀には、オリエントの産物を西ヨーロッパに運ぶのに、
フランス横断の陸路をイベリア半島迂回の海路に変えるようになった。
1192年:英仏海峡におけるポルトガル船の最初の情報
1226年:英国王による私掠船からのポルトガル船保護の特許状
1269年:アフォンソ3世が特定日の市の開催を認可

13世紀の終わり頃:ポルトガルにおける商業活動が活発化

1293年:商業銀行のごとき形態が商人間で契約され、王がこれを確認;
ポ王国の港で積載をする船(バルカ)は全て、税を収めることとし、
その金額が船の大きさ(100トンを境)によって決められた。
これを基金として、信用状が開設できた。 この契約は100年近く存続。
14世紀:さらに英国およびフランドル地方との通商が活発化。
船舶不足から、フランス人が傭船した船を使う必要があった。

424 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/10/26(土) 23:13:09 ID:0.net
>>423

自国の海運業の振興

1337年、1380年:フェルナンド王の特許状

(1)100トン以上の船(バルカ)を建造する者は王室所有地の木材の無償支給
(2)船の建造のために輸入する鉄、木材、コーキング材にたいする10
分の1税の免除
(3)自国の船主が外国船の購入契約をした場合、売り主と同様に買い主
にも課せられる10分の1税の免除
(4)その他の特典

1380年(?):ポルトガルの始めての海上保険
:
「船(ナウ)の会社」(Companhia das Naus)の制度(フェルナンド王年代記所載)

(1)「甲板を有する」100トン以上の船は全て、海上に持ち出す物の
購入日と金額をリストアップすること。

(2)その船の輸送で得られた傭船料と利益から、船主は「会社の金庫」
に対して2%を払い込むこと。

(3)暴風雨やその他の理由(私掠船による捕獲を含む)で船が失われた
場合、その資金より損害額が補填される。 資金が不足する場合
は、差額は積み荷額に比例して全会員に割当る。

(4)その他として、詐欺や怠慢(防衛に関して等)などの規定あり。
14世紀末から15世紀初頭にかけて、商業ブルジョアジーの力は強大となった。

425 :ウムウル :2019/11/09(土) 02:37:37.07 0.net
>>423
これ良くまとまってますね

やはりジェノバさんの中の人の先進性が気になります
気力があれば年代を書き写しておきたいところ


Title 1556年セビーリャ海上保険条例研究序説
近見正彦 著 - ?2005
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18079/1/0600904701.pdf

426 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/11/16(土) 15:13:58 ID:0.net
>>186
>>190>>191>>192
>>425>>369

続 3・1・1 スペイン、その破壊と略奪の交易
http://koekisi.web.fc2.com/koekisi4/page004.html


▼アメリカ交易を独占するセビーリャ▼


スペインのなかで、セビーリャは最大の商業と手工業の都市として成長しており、後背地では小麦、ブドウ、オリーブなどの商品作物栽培や牧羊業が展開されていた。
その内陸港は防衛に適しており、造船所を備え、アメリカ交易に従事する商人が住んでいた。

スペイン王室は、セビーリャにアメリカ交易の独占権を与えることで、
アルモハリファスゴ税(輸出入関税、1543年以後アメリカとの交易では輸出税2.5パーセント、輸入税7.5パーセント、アメリカからヨーロッパ向け輸出税15パーセント、
1566年以後アメリカとの交易について15パーセントと17.5パーセント)を効率よく徴収し、また貴金属の流出を防止しようとした。

 積み荷の検査は、スペインではセビーリャやカディスにおいて、
またアメリカ植民地向においてはその選ばれた3つの港―ベラクルス、現コロンビア北西部のカルタへーナ、またはノンブレ・デ・ディオス―で行われた。
アメリカ植民地から輸入された金銀は査定され、あらゆる商品にアルモハリファスゴ税を賦課された。

 スペイン王室は、1529年になってカスティーリャの10の港にアメリカ植民地と直接、
交易することを許す。ただ、その場合交易船は帰途、積荷を登録するため、セビーリャへの寄港を義務づけられていた。
この制限は、北スペインに帰帆する交易船にとっては不都合であったので死文化してしまい、1573年には廃止される。

 セビーリャはアメリカ交易を独占してきたが、17世紀半ばからグアダルキビル川の遡行が困難となり、まず船荷の積み込み、そ
して1680年からは陸揚げが、カディスで行われるようになる。
その結果、1717年アメリカ交易の独占権はカディスに移転されることとなり、1765年まで続く。
同年から1769年にかけて、アメリカ交易はカディスなど主要港に開放される。

427 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/11/16(土) 19:06:01 ID:0.net
>>368
本日無事にゲートウェイになったそうな
戦前から4分間隔の運行は凄いですね

428 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/11/17(日) 03:42:48 ID:0.net
>>196
これも見つけました

alcabala
販売税として税率2%
1630〜40年代に軍事費調達の名目で
税率4%に増税とのこと

もうちょっと細かい年代ありそうです

429 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/11/17(日) 11:28:45 ID:0.net
>>186>>187>>188
>>428>>190


1342年から採用されてるらしいので
スペイン興隆の時代もアルカバラしてたらしい、、、

だから直接に没落の原因とするとするなら
ネーデルランドの独立に一役かったとこですかね

予想に反して港ではなく個別の地域で徴収されたらしいので
めっちゃ徴税コストかかったんではないでしょうか

430 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/11/24(日) 02:01:06 ID:0.net
>>191
フロータス制度はネット上にあんまりいい情報が転がってないので
そのうちまとめておきまする

ドレイク船長の大活躍は
フロータス制度の開始前かと思っておりましたが
関係なかったですね

そうすると晩年のへっぽこぶりはただの衰えだったのかなぁ、、、

431 :世界@名無史さん:2019/11/26(火) 09:01:21 ID:0.net
今のギリシャって海運どうなのかな
昔は海運王って言われてたらしいけど

432 :ウムウル :2019/11/28(木) 21:50:52.27 0.net
>>295>>19

ふむぅ、これはめっちゃ歴史を感じますね
値切りチキンレースみたいなのも行われたんでしょうか



エーレスンド海峡通行税
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%B5%B7%E5%B3%A1%E9%80%9A%E8%A1%8C%E7%A8%8E


エーレスンド海峡通行税 (英: Sound Dues または Sound Toll、 丁: Oresundstolden) は、デンマークがエーレスンド海峡を通航する他国船舶に課していた通行税で、
16世紀から17世紀にはデンマークの歳入の実に三分の二を占めていた。

1429年にエーリク7世が導入したもので、1857年のコペンハーゲン条約まで有効であった。
なお、1660年から1712年まではスウェーデン船は免除特権が与えられていたが、1720年7月3日のフレデリクスボー条約で免除特権の返上が約された。

エーレスンド海峡を通航するすべての他国船舶は、デンマーク着か発かにかかわらず、ヘルシンゲルに停泊してデンマーク王室に通行料を支払うことが義務付けられた。
停泊を拒否した船舶は、ヘルシンゲルおよびヘルシンボリから砲撃して撃沈されることになっていた。

1567年に税額が積載する貨物の価格の1-2%に改められ、デンマークの税収は3倍になった。
船長が貨物の価格を過少申告して課税逃れすることを防ぐため、デンマークは目録に記載された価格で貨物を購入する権利を留保する、という実効性の高い対策が採られていた。

他の航路を利用して税逃れをすることを防ぐため、大ベルト海峡と小ベルト海峡でも通行税が徴収されていた。
他国船舶に対してエーレスンド海峡以外の通航が禁じられることもあり、違反した船舶は接収されたり沈められたりした。

433 :ウムウル :2019/11/28(木) 21:55:21.06 0.net
>>432
地図はいいのが見つからなかったので
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(1278) ロシア 41 ロマノフ朝 大帝の時代 11/18

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434 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/11/28(木) 22:06:09 ID:0.net
>>432

この通行税は何世紀にもわたってデンマーク王室にとって最重要の収入源で、この収入のおかげでデンマーク王室は枢密院と貴族の干渉をある程度防ぐことができた。
しかし、バルト海、特にスウェーデンとの間で貿易を行う国々にとっては重荷でしかなかった。 スウェーデンはデンマークとカルマル同盟を結成していたため、通行税が免除されていた。
しかし、1613年のカルマル戦争とクネレド条約により、デンマークはスウェーデンのバルト海領土からの貨物と、スウェーデンの貨物を運んでいる非スウェーデン船に通行税を課すようになった。
通行税に関する対立は、1643年のトルステンソン戦争の引き金となった。

1658年、デンマークは北方戦争で敗北し、エーレスンド海峡東岸のスコーネ地方、 ハッランド地方、ブレーキンゲ地方、ブーヒュースレーン地方およびヴェン島をスウェーデンに割譲させられた。
このため、それまで通りに徴税することはできなくなったものの、通行税の課税権は維持することができた。
1660年5月27日のコペンハーゲン条約により、スウェーデンは通行税の免除特権を得た。
その後、大北方戦争と1720年のフレデリクスボー条約により、エーレスンド海峡東岸はスウェーデン領であったにもかかわらず通行税の免除特権は返上された。


コペンハーゲン条約[編集]

1857年3月14日のコペンハーゲン条約[1][2]で通行税は廃止され、デンマーク海峡はすべての軍艦および商船に対して無税の国際水路とされた。
廃止の補償として、デンマークは条約締結国から3,350万デンマーク・リクスダラーの一時金を得た[3] 。
一時金のうち、イギリスとロシアがそれぞれ約3分の1を支払った[4]。
同年、米国との間で同様の条約が結ばれ、アメリカ船は393,000ドルを1回支払えば無期限の自由通航権が与えられるものとされた[4]。

435 :世界@名無史さん:2019/12/14(土) 21:50:12 ID:0.net
世界経済システムともいうべきものの端緒は
モンゴル帝国だと思う。
モンゴル人は商人を優遇し
道路を整備し、紙幣の流通で
交換の便宜を図り
広大な商業ネットワークが成立した。
これで空前の交易経済の繁栄となるはずだった。
だがモンゴルが整備した道路や駅で運んでしまったものがペスト菌。
雲南省から始まったペストで
1331年までに華北の人口の多くを消滅させ
1338年までに天山山脈を超えてキルギス地域の多くを壊滅。
1345年にヴォルガ川サライを襲い、
クリミア半島のジェノヴァ人居留地に達し、
コンスタンチノープル、シチリア島、カイロと続き、
1348年にイタリア、イギリスに入る。
1350年にフェロー諸島、アイスランド、グリーンランドに達し、
グリーンランドのヴァイキング集団が滅亡。
世界の総人口4億5千万のうち少なくとも
7500万人がペストの犠牲になった。
そしてモンゴル世界帝国の息の根を止めた。
中国は荒廃し、ペルシア、ロシアからの産物は届かなくなり、
各地域のモンゴル人グループが孤立。
1335年にイル ハン国が崩壊。1368年に大都陥落。。。。

436 :世界@名無史さん:2019/12/16(月) 18:46:17.55 0.net
コンテナ
パレット(シナゲタ)
フォークリフト(ハンドリフト)

現代はこれないと物流成り立たないと思います
当たり前のように皆使ってますけど
なくなったらどうやって仕事していいか分からない

437 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/12/17(火) 01:25:56 ID:0.net
>>435
そういえば海のシルクロードが汚染されてない気がするのですが
記録が残らなかっただけで
いっぱい亡くなってらっしゃるのかしら?

それとも気温的な問題でしょうか、、、

438 :世界@名無史さん:2019/12/17(火) 07:44:49.95 0.net
>>437
イタリアのシチリア島へは毛皮に付いたノミが媒体になったらしい。
毛皮を着用しない南国は免れたのか?
でもエジプトはやられててマムルーク朝が衰退する原因になってる。

439 :世界@名無史さん:2019/12/17(火) 08:21:22.23 0.net
14世紀のペスト、日本には来てないのかな?
もしそうなら元寇を勝ち抜いた価値があるな。
もし来てたら文字通りの末法の末世状態になってたんじゃないか?
船は余計なものも運んでくる。
最近はヒアリとか。

440 :世界@名無史さん:2019/12/17(火) 08:35:36.18 0.net
>>436
コンテナがなくても
山口組のようなヤクザもとい荷役労働者を管轄する組織が頑張りますんで大丈夫でっせ。
仕事も世話いたしやすんで。
ご安心を。

441 :世界@名無史さん:2019/12/17(火) 09:18:36.24 0.net
>>440
そこの荷役のお兄さん。
キツいお仕事に耐え、
事故も多いのに
生き抜いた筋肉マン。
アタイ大好きよ。
ねぇ、アタイのお店で遊びなよ。
いいお酒もあるわよ。
いっぱいサービスしちゃうもん。うふふ。

442 :ウムウル :2019/12/17(火) 20:32:29.14 0.net
ドイツでは座ったらしいが
東京では宙を漂うらしい
本場のインドなら屋根の上まで浮かぶんではなかろうか、、、


グレタ「超満員列車で移動。床に座った」 →ドイツ鉄道「1等車で座った貴女をもてなしたが?」→グレタ「途中から座れた」と訂正
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1576568650/1

443 :世界@名無史さん:2019/12/17(火) 21:08:21.33 0.net
グレタも二酸化炭素だと喚いて、飛行機に乗らないだのとわけのわからんことを
いうのであれば、マジで大学に行けとまでは言わん。
せめて郵便局のアルバイトでもやって物流について学んだほうがいいと
思うのだけどな。

444 :ウムウル :2019/12/17(火) 21:33:14.23 0.net
>>345

長生きしてた737も虫の息なのでは、、、
ナムナム

445 :世界@名無史さん:2019/12/17(火) 21:42:02.28 0.net
>>443
グレタさん海外でも批判されまくりだな
当たり前といえば当たり前だがww

446 :ウムウル :2019/12/17(火) 21:42:29.48 0.net
>>443
おいらはとしましては
箱入り娘として
宅配してもらえばと思いますね


>>438
病死した人の服ぱくった人も発病してましたね
薫蒸は効果あったらしいけど
死体は冬越してもぱわぁが残ってた気がします

447 :世界@名無史さん:2019/12/19(木) 13:49:15.45 0.net
>>446
キプチャクのハン、ジャニベクがクリミア半島の都市カッファを包囲したものの、
モンゴル軍にペストが発生したために包囲を解いて引き上げた。
その際にジャニベクは病死者の遺体を投石機で城壁内に投げ込んでおいた。
カッファ市民は遺体をすぐに海に投げ捨てたものの、
病気が爆発的に広がってしまった。
という話が伝わっているそうな。
本当ならば、まさに生物兵器。

448 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/12/19(木) 21:29:43 ID:0.net
>>447
おいらはこっちの戦時流通っぽいイメージでいたのですが
>>435みたいに日常流通で伝播していったという
考え方はちょっと目からウロコでしたね
それこそお札なんかが凶器になる可能性もあったのでしょうか

449 :世界@名無史さん:2019/12/20(金) 07:41:43.61 0.net
>>448
第一次世界大戦後のスペイン風邪は
明らかに米軍が大規模展開したのが経路。
軍隊の移動自体がパンデミックの引き金になる。
江戸時代に長崎発の流行り病があったのは異国船がもたらしたもの。貿易活動でもパンデミックは生じる。

450 :ウムウル :2019/12/21(土) 16:11:04.28 0.net
>>430
フロータス制度>>426より

▼スペインの護衛船団、外国船の入域増加▼
(略)

 アメリカ植民地向けの交易船は60-100隻ほどが、ヴェネツィアやポルトガルと同じように、船団を組んで出帆していた。
その大西洋横断は2か月ほどかかり、危険を伴ったが、水先案内人が不足していた。インディアスからの帰り荷に占める金銀の量が増加してきたため、
1561年から船団に護衛船を付けざるをえなくなる。

 護衛艦隊とは別に、帆と櫂を使って、ハバナからスペインまで28日で航行できる快速伝達船が組織され、
カリブ海地方の伝達船と連絡をとって、敵艦隊の動静を素早くつかみ、自国船が取るべき航路を迅速に指令、伝達していた。

 こうした防衛手段に要する経費の大部分は、インディアス通商院(カサ・デ・コントラタシオン)が
インディアス交易に従事した船舶の船価と積載貨物の価格に応じて徴収する護衛船団負担金(アベリア)によってまかなわれた。
その比率は、イングランドとの抗争が最高潮に達した、1596年にはほぼ7パーセントという高率になった。

 護衛船団は、ヌエバ・エスパーニャ向けとティエラ・フィルメ向け〔中央アメリカからベネスエラに至るカリブ海沿岸地方〕に分かれて、アンダルシアの港から出帆した。
それら船団は、6ないし8隻の戦艦に護衛され、ガレオネスあるいはガレオンという名前で呼ばれていたが、
前者が後に特にフロータと呼ばれるようになった。

 フロータは4月か5月にメキシコのベラクルス、後者のガレオンは8月にパナマ地峡のノンブレ・デ・ディオスに向けて出帆した。
往航は5週間から6週間ほどかかった。後者のペルー向けの貨物は、パナマ地峡北岸のポルトベロで陸揚げされ、
その後ラバの背に積まれて地峡を越え、パナマでペルー行きの船に積み替えられた。

彼らは積み荷を降ろすと、いずれもアメリカで越冬したが、後者はより安全なカルタへーナ港に避難した。
 それら船団は帰航するためにハバナに集結して、初夏、ハリケーンが襲来しはじめる前に、セビーリャに向けて出航しなければならなかった。
フロータはメキシコの銀やコチニールを積み込んで、貿易風に逆らいながら、3、4週間かかってハバナに着いた。
また、ガレオンはポトシからの銀の到着を待たった。

451 :ウムウル :2019/12/21(土) 16:13:13.84 0.net
>>450

 ポトシの銀は、2週間かけてリャマのキャラバンで、現チリのアリカの港まで運ばれ、
そこから1週間かけてリマの外港のカリャオまで運ばれ、
さらに3、4隻の船に積み替えられて20日間かけてパナマに着き、そこでラバの背に積み替えられて4日かかって地峡を越えた。

 インディアスから集められた金銀・財宝は、それが誰のものであれハバナにいったん陸揚げされ、
特別に建造された約200トンほどの武装快速船である、フレガスタに積み替えられるのが慣行となっていた。
このフレガタス船は、強敵に出会っても逃げ足が十分にあったので、船団を離れて単独に航海できた。

 護衛船団は夏の終わりか秋口にセビーリャ港に着いた。
そのため、折り返し就航できず、多数の船舶が係留され、越年した。それからいえば、護衛船団は2セット必要になるが、その実情は不明である。
それはともかく、護衛船団には多額の費用が必要であったし、その航海の正否は商人たちの死活を制したが、200年間も続けられた。

 「この[護衛]船団方式は非常に経費がかかったが、安全を守るという点からは十二分に効果のあることが証明された。
財宝を積んだガレオン船が敵の手におちることはあまりなかった。

その数少ない例としては、オランダ人ピート・ハイン[1577-1629]が3隻を除くすべての船を捕獲した1628年の事件と、
[イングランドのロバート・]ブレイク(1599-1657)によって船団が壊滅させられた1656年と1657年の事件などがあった」(エリオット前同、p.204)。

 ここに示されたスペイン海軍の敗北は、1658年オランダとのダウンズの海戦、1585年ドレイクによるサント・ドミンゴ略奪、
フランスの1638年ゲタリア湾や1691年バルセロナとアリカンテへの攻撃とともに、
それぞれの勢力に対してスペインの覇権が崩壊する始点と終点を示す明らかな指標とされるものであった。

452 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/12/21(土) 18:56:36 ID:0.net
>>430

調べた結果と>>450はかなり整合しておりました
復路の方がずっと時間がかかるとのこと


往路(北東貿易風)
?セビーリャ(グアダルキビール川)⇒カディス
?カナリア諸島(約7〜10日)

>>426
?-1「フロタス」→プエルト・リコ(約1ヶ月)→ベラクルス(約1ヶ月)
?-2「ガレオネス」→ノンブレ・ディオス、カルタヘナ(約2週間)

復路(偏西風)
?キューバ島ハバナ集結
?アゾレス諸島
?帰還


?はバハマ海峡(フロリダ海峡)を抜けるルートとして紹介されてましたがどうなのか
あと「ガレオネス」は行程が抜けてそうな気がしますね

453 :ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP :2019/12/22(日) 11:09:42 ID:0.net
>>437
イブン・バットゥータの大旅行記だとインド→ペルシャ間はまだセーフのようですね


>>438
毛皮ですか、ふむぅ確かに

おいらの記憶ですと着る物はアウトだった気がしますので
実はインドが服飾の輸出国だったことで
連鎖が途切れる部分があったのかもしれませんね

現代のペストはミナミの方もやられちゃってるから
気候的なものではない気がしました


帰郷とペスト[編集]
1346年に泉州に戻るとイブン・バットゥータはモロッコに帰る決心をする[95]。インドのカリカットに着くと、
もう一度ムハンマド・ビン・トゥグルクを訪ね慈悲を請うべきかと逡巡するが、そのままメッカへと向かうことにした。

バスラへ向かう航路でホルムズ海峡を通る。そのときにイルハン朝の最後の君主アブー・サイードがペルシアで死亡したことを知る。
イルハン朝はこのあとに起こるペルシア人とモンゴル人との間の激しい内戦により崩壊することになる[96]。
1348年、イブン・バットゥータは最初のハッジのルートをなぞるつもりでダマスカスに立ち寄る。そこで彼の父が15年前に他界していたことを知る[97]。

そして続く翌年からしばらくの旅は「死」が支配的なテーマとなった。
黒死病の流行が中東を襲い、彼はまさにペストの支配するシリア、パレスチナ、アラビア地域に居合わせていた。
メッカに到着すると、彼はモロッコへ帰る決断をする。
タンジェの家を発ってから実に四半世紀が経とうとしていた[98]。帰り道にサルデーニャへ最後の寄り道をした。
1349年フェズを通ってタンジェへの帰郷を果たす。彼は彼の母もまた数ヶ月前に他界していたことを知る。[99]。

454 :世界@名無史さん:2019/12/23(月) 06:26:09.81 0.net
明治10年よりコレラが流行したため、
明治政府は明治11年に検疫規則を制定しようとする。
だがイギリスやドイツなどが拒否。
ドイツ船が横浜入港を強行した騒動が起きた明治12年にコレラはさらに大流行した。
国民の間に不平等条約への不満が高まる要因になった。

455 :世界@名無史さん:2019/12/23(月) 07:22:28 ID:0.net
SARS騒ぎで中国の公衆トイレが大きく改善。
少なくとも有名観光地の公衆トイレはずいぶんキレイになったなぁ。

日本も国鉄時代はヒドかった。
トイレも汚いが、タレ流しの列車トイレがヒドい。。

456 :世界@名無史さん:2019/12/23(月) 07:31:00 ID:0.net
SARS騒ぎ以後に台湾に入国しようとしたら、
妻だけ別室に連れて行かれた。
センサーが働いたみたいで、別室で体温計を渡されたそうな。
37度丁度だったそうだが、水をたくさん飲みなと言われただけで、そのまま入国できた。

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