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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

711 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:02:32.50 ID:wdeeas71O
>>352
「蓬莱宮殿」ですね。

『史記』は当然のことながら陳寿ら当時の史学者達にとってもバイブルのような史書であり、
秦始皇帝が不老不死の薬を追い求めて徐福を派遣した話などは常識。
その象徴が東方海中に光り輝く「蓬莱宮殿」。
すなわち「吉武高木宮殿」ですね。

大航海時代の西洋人が、東洋の黄金の国ジパングを追い求めたのと同じく、
当時の中国人にとって、蓬莱宮殿は不老不死をイメージさせる存在だったわけですね。

57年に、蓬莱宮殿=吉武高木宮殿にて漢委奴國王金印授与式典が行われ、
その時に来倭した後漢使が実見した情報を報告したでしょうから、
そこからは夢の存在ではなく、倭地の政治議事堂としての現実の姿が知られたことでしょうけれども、
イメージとしては、昔からの蓬莱宮殿の好印象は残っていたはずですね。

里程の到伊都國=吉武高木宮殿=蓬莱宮殿

そして邪馬台国女王卑彌呼は蓬莱王族=伊都國王族

なので、陳寿にとっては、大先輩の司馬遷が記した「史記」を目標として、
必ず記録に残したい重要情報だったのですね。

712 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:03:39.91 ID:wdeeas71O
>>710
軍神は75でしたね。

曹操集譯注の鉄鏡のように、殉葬者数にも格付けがあって、
軍神は金印奴国王にはなれなかったので、100ではなく75なのでしょう。

卑彌呼は金印王ですから100なのですね。

ということは、奴族墓の格付けは殉葬土壙墓の多少である程度推測できることになります。
ただ、一つの土壙墓に何人殉葬されたかがわからないので、だいたいの予測になりますが。

713 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:09:16.61 ID:wdeeas71O
>>706
吉武高木遺跡も吉武大石遺跡も、甕棺墓もほぼ割竹形木棺と同じ向きに埋葬されていますね。

対馬海流と向きを揃えているので、これらの甕棺墓被葬者達も、
死生観としては北部九州縄文アマの死生観だと思われますが、

甕棺墓は屈葬なのと、
養蚕によって得られる富を、来世に生まれ変わっても引き続き得たい、という願いも込められているでしょうから、
黄泉の国に流れていって、そこで花開く、というイメージですかね。

石棺墓が無いのも気になりますね。
甕棺墓の中に、本来は石棺墓の人たち、
つまりはそもそも四眠蚕をもたらしてくれた石棚墓呉太伯の血が入った人たち、
は必ずいるはずだと思われますが、どうでしょうね。

それと、弥生時代に入って、ねずみ返し→水田稲作と、養蚕貿易とで、
陸上集落が栄えたので、
アマの王様が陸上に居を移したということでしょうけども、
アマの大部分の人は、舟葬を続けていたと思われますので、
一見すると、割竹形木棺大王の周りに甕棺墓ばかりで取り囲まれているように見えますが、

当時の風景としては、湾にはびっしりと家船が浮かんでいて、
弥生時代ですから、交易も移動も軍事も全て水上アマの独壇場であって、
彼らは舟葬だったから考古学的に残っていないだけなのだろう、という点に注意が必要ですね。

714 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:10:59.02 ID:wdeeas71O
その視点で、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓を見てみると、
吉野ヶ里遺跡最初期の、弥生時代前期後半の甕棺墓は、
中央列が見事に対馬海流と同じ角度で並んでいるのですね。

その角度は、どちらかというと吉武高木遺跡のものよりも、田熊石畑遺跡のものに近いように見えます。

それが前期末から中期に入ると、その列が崩れて、いろんな方向に向けて埋葬されるようになります。

つまり、吉野ヶ里遺跡を最初に開始したのは、北部九州沿岸のアマであり、
おそらくは豊国領域のアマ。(田熊石畑遺跡からなら結局は吉武高木伊邪伊都系列ですが)

その後養蚕で栄えて、数世代もすると、有明海に面した陸上生活者クニとしての性質が強くなり、
対馬海流を忘れた、
ということですね。

その後のいろんな方向にも意味があるのかもしれませんが。
それぞれの祖地(本貫)とか。

715 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:25:24.24 ID:sxTVszr6L
田熊石畑遺跡は多重環濠遺跡ですから、現地人に対して防御しており、
吉武高木の割竹形木棺アマ王族が将軍として派遣された、
在豊国の伊都国軍基地、と考えられますね。

田熊石畑遺跡の9号墓までの大多数が沖合の対馬海流と同じ向きであるのに対して、
6号墓と7号墓のみが、他と直交するように北北西に向かっていますね。南枕です。

その先にあるのが、沖ノ島。

吉武高木遺跡、そして田熊石畑遺跡の伊邪國アマ→伊都國王族の流れに直交してまで主張しているということは、
それだけ強い固有の死生観、宗教観を保持していることになります。

田熊石畑遺跡将軍の妻、つまりは豊国女性の死生観は、
対馬海流に乗って東方黄泉の国へ流れるのではなく、
沖ノ島を聖地として崇めていた、ということになりますね。

>>139
沖ノ島祭祀の源流を、現地の宗像において、さらに前2-3世紀まで遡ることができることになります。

716 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:27:24.42 ID:sxTVszr6L
田熊石畑遺跡の将軍は、豊国女王あるいはその宗女を娶ることで、
豊国支配権を裏付けていたでしょうから、
6・7号墓の時代には、その豊国母、豊国妻、の影響が強かったことになります。

>>475
花崗岩土壌が少なく、倭の海外主要交易品であった桑畑養蚕に適していなかった豊国において、
田熊石畑遺跡がなぜ独自支配権を維持できたかというと、
東方への交通の起点という地の利が一つと、
もう一つは、磨製石器ですね。

豊国産の石包丁は弥生時代の北部九州に広く流通した特産品でしたね。
国土地理院の表層地質図で見ると、遠賀川流域は泥岩が多く、
考古学的にも田熊石畑遺跡が開始した頃から、石棺墓が入っていって、
流域各地で石包丁が作られ、北部九州広域に流通しています。

青銅器や鉄器を使用しているといっても、全て朝鮮半島からの輸入ですから、
紀元前にはまだ輸入量に限度があり、石器も重宝されたわけですね。

ですから、金属器の取引先であった、燕国あるいは衛氏朝鮮が安定していれば、
金属器が比較的多めに輸入できるので、
田熊石畑遺跡にも金属器が回って来て、吉武高木王族である田熊石畑将軍の威光が盛んとなり、
割竹形木棺は、伊邪アマ式の、対馬海流方向になる。

燕国や衛氏朝鮮が戦時体制になったりして、金属取引量が減少すると、
豊国の石包丁が売れるようになり、豊国女王家の母や妻の力が強くなって、
割竹形木棺は、沖ノ島へ向かった。

ということでしょうね。

717 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:29:14.89 ID:sxTVszr6L
山鹿貝塚女王は、縄文屈葬で、北枕。
ただ、他の人々の中には、屈葬だけれども東に足を向けているものも多い。
というのが、豊国の陸上生活者クニの埋葬方法ですね。
埋葬方角については何とも言えません。
沖ノ島祭祀についてもあったともなかったとも言えませんね。

田熊石畑遺跡の6・7号墓については、

一)田熊石畑将軍の女系は豊国陸上生活者クニであった。
伊邪アマ流の、割竹形木棺による舟葬の死生観を知り、
古来豊国聖地であった沖ノ島信仰と結びついて、割竹形木棺を沖ノ島へ向けた。

二)田熊石畑将軍の女系は豊国水上生活者アマであった。
彼らは元々沖ノ島へ向けての舟葬など沖ノ島関係の葬祭をしていた。

などが考えられますね。

どちらにせよ、もともと沖ノ島が聖地だったので、
征服者である田熊石畑将軍の伊邪アマ流の対馬海流舟葬に逆らってまで、
沖ノ島を指向したのだろう、とは思われますね。

718 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:30:54.17 ID:sxTVszr6L
>>714
吉野ヶ里遺跡の初期甕棺墓は、田熊石畑遺跡の割竹形木棺と同じ方角に並んでいる。

だいぶ繋がって来ますね。

吉武高木遺跡がアマ大王。
田熊石畑遺跡がその王族東征将軍。
として、記紀を見ますと、

>>667
オー月ヒメ(筑後縄文女王)の所領を奪い、花崗岩土壌で養蚕・稲作・粟小豆麦大豆も育てて、
カ〇〇スビ(神a派)と交易。
この時点では新規所領は吉武高木王家に帰属。

古代出雲(宗像市など遠賀川以西)の肥河(釣川)にて、
八岐大蛇(縄文周防アマ+刻目突帯文土器奴人)を倒して、
須賀(田熊石畑遺跡)に拠点形成。

田熊石畑将軍の軍勢が、筑後からさらに西と南に支配地を広げ、
そこには田熊石畑将軍配下の人々が入った。
肥河の田熊石畑遺跡の影響下なので、肥国。後に肥前と肥後。

吉野ヶ里の初期支配層も田熊石畑将軍男系となった。
おそらく吉野川(遠賀川)。

719 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:37:56.21 ID:sxTVszr6L
>>575
オー月ヒメは口鼻尻から食事を出すわけですね。

これと対比されるのが、
>>507
山鹿貝塚女王は抜歯をしていない件ですね。

同じ縄文女性クニ領主ですが、
オー月ヒメは、自ら食料を調理するということは、
自ら咀嚼して、胃の中で溶かして、吐き出した。
つまり抜歯をしていて、奥歯が並んでいたのですね。

一方の、山鹿貝塚女王(イ〇ナミ)は抜歯していないから、歯並びは悪いけれども、
きちんと調理された食事を毎日献上されていたから、それでも摂取できていた。
女王としては格上となります。

ただ、調理の意味が、良く言うなら、脱穀籾摺りされて熱を通した食事を毎日献上されていた。
ただ可能性としては、周囲の抜歯召使たちが、オー月ヒメ方式で食事提供していたのかもしれません。

豊国ど真ん中の比婆山(山鹿貝塚)(古代出雲國=遠賀川以西と、古代伯伎國=遠賀川以東との境)
から、伊邪(伊耶) ノ (爾)支を追いかけてきた、
黄泉醜女(豫母都志許賣)というのも、
考古学的には、山鹿貝塚系の抜歯していない古代豊国巫女達であった、と推測されますね。

抜歯していなので、歯並びがガタガタだったわけです。(黄泉醜女さんたちすみません)

さらに考えると、
奴国王の最初の奥さんの八神ヒメも、山鹿貝塚直系の豊国正統女王だったでしょうから、
抜歯なしで、
田熊石畑将軍の娘さんは、抜歯していたでしょうから、

抜歯なしの熟女と、抜歯ありの同世代処女とで、若き奴国王が選んだのは・・。(本当にすみません)

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