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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

331 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:54.21 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の生き残りがいたわけですね。

>>93
一つは、各地から供出される銅鐸を、古浦の青銅器工房へ輸送護衛していた兵達。
出張先の各所で、故郷の滅亡を知ったことになります。

もう一つは、急襲された古浦から命からがら脱出した人たち。

銅矛水軍の大軍が押し寄せたので、
逃走経路は中国山地に逃げ込むしかなく、
その先には、奴国王の兄達の一族がいて、敵の敵は味方で匿ってくれたわけですね。

(後の西谷墳墓群と吉備の縁の始まりでしょうか)

その中には、燕王族の末裔がいた可能性が非常に高く、
そしてその勢力が、カモに匿われて、

70年に、Aタカヒコの出陣要請に応えて、紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地から出撃した、6尋の銅戈軍とイコールあるいはその一部となったわけですね。

332 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 20:09:02.53 ID:qV1ymmbMb
紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

奴国王捕縛のため終結したのは、
九州型銅戈軍の十数〜数十尋を主力とする大軍だったのでしょうけども、
逃げた軍神を追いかけるには、
長距離用の舟、つまり準構造船で追いかける必要があったわけですね。

紀伊から遥々遠征して来た近畿型銅戈軍6尋は、遠距離を準構造船で疾駆してきたので、
そのまま軍神追跡部隊に回った。
九州勢は、佐賀〜福岡県北岸での移動なので、普通の軍船だったので、
旗艦などの準構造船で1尋を急造して、参加した。

>>91
前中西遺跡の方形周溝墓に副葬された石戈が樋分離型ですから、
近畿からの武人が大将を勤めたこともわかりますね。

史実に合わせるなら、
軍神水軍が乗って来た軍船(これらも準構造船だったわけでしょう)を焼き払って、
本軍は上陸追跡し、
伝令が帰った。(軍神はもう戻って来れません→来ません)

333 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:43:28.46 ID:qV1ymmbMb
>>144
>>256
??=Sが生きのびたわけですね。
男系は高い確率で太子丹の血統。
ですが、
女系では、Aタカヒコと女王母を同じくする、父違いの兄でもある。

カ〇女王系なので、当然カ〇勢力に保護された。

Aタカヒコも丁度豊国宰相から、東方振興地域担当の大倭に、
1世紀当時としては格下げにされた。
ので、兄勢力を匿うのに大いに助力できた。

334 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:44:45.37 ID:qV1ymmbMb
後60年代の激しい政争だったわけですね。

伊都国側は、57年金印がもたらした疫病で一時的に弱体した奴国王に、
恭順するよう使者を送る。

しかし奴国王はその使者を寝返らせる。

つまり、
〇ワカヒコを伊都国王にして、伊都国とカ〇系を治める。
軍神は金印奴国王で、奴国と全体を。
奴族で倭地を乗っ取ろうという作戦ですね。

一方の伊都国側も調略を進めていて、
母子共に冷遇されたAタカヒコですね。

〇ワカヒコの抹●は伊都国王家の命運をかけた一大事であり、
ここはクリアされた。

335 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:19.44 ID:qV1ymmbMb
葬儀の場でAタカヒコが騒ぎを起こし、
その後に喪主へ詫びを入れる。

喪屋を壊したお詫びに、カ〇一族が責任を持って〇ワカヒコを弔おう。

大倭の本部を、倭国(当時はまだ伊都国+奴国)の東端の旧三輪町に作ったように、
カ〇一族の貴種である〇ワカヒコは、
1世紀カ〇領域(銅鐸分布域)の東端である美濃国に祀って、
末永くカ〇領域ひいては大倭を見守ってもらいましょう。

と、卜占でお告げを出して、自らお詫びの出張に出かけたわけですね。

近畿の兄勢力達と挙兵時期を密談するために。
目立ちにくい近畿で軍備を整えたわけです。

336 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:55.76 ID:qV1ymmbMb
神戸市には、
7本の近畿型銅戈で有名な桜ヶ丘遺跡と、
保久良神社からも近畿型銅戈が出土しており、
祭神には椎根津彦命がいらっしゃいますね。

青亀の背に乗ってやって来たとの言い伝えが残っており、
つまりは亀卜。
卜占を伝える一族だったのでしょうか。

337 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:48:41.77 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の卜占(焼灼V+ケズリD)が伝え残った経路は、
妻のT姫→Aタカヒコや姫達
だけでなく、
夫のS系統も生き残っていたわけですね。

銅戈時代に、紀伊→神戸→と移動し、
東征時に道案内をつとめたことで出世し、
倭国に領地を得たのだろう、ということになりますね。

ただ、どちらの系統についても、卜占の考古学的出土は限られています。
さらに、日本史書、中国史書、各種言い伝えでも、亀卜があったことは明らかなのに、
亀卜の甲羅が出土しませんから、
ただでさえ骨は残りにくいのに、
甲羅は骨よりもさらに残りにくいのか、
あるいは甲羅派の卜占神事の一環として、海に還すような手順があったのか、ということになります。

過去スレで検討したように、
T姫→娘達、の九州縄文女系子孫が、卑彌呼で、
「トト」というのは卜占を行っていたことを意味する可能性が高く、
卑彌呼や卑彌弓呼の「卑彌」「卑彌〇呼」も卜占を意味する可能性が高いですね。

ただ、
卑彌呼は第8代のトトであって、
第7代のトトは狗奴国王妃だと推定されますが。
同系統の卜占を行い、令亀法の辞だったのでしょう。

338 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:49:40.36 ID:qV1ymmbMb
70年以降は、Aタカヒコが実力者となりますから、
甲羅派も勢いを増したわけですね。

となると、神a派が失速し、
壱岐での卜占出土量が激減したわけですね。

壱岐の神a派、つまりはク〇ヒコの一族は、卜占を禁じられたか、
過去の神b派のように辺境へ流されたか。
(Aタカヒコ領域なのでさすがに処刑までは無かったと思いますが)

そのAタカヒコも銅剣銅戈戦争で失脚し、
甲羅派も一旦は転封され、
卑彌呼の祖のカ〇女系も一度は滋賀へ。

339 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 03:59:43.14 ID:brhHvmb/t
>>332
軍神追跡軍は、近畿からは7尋でしたね。
紀伊の6尋と、他にも初期型の近畿型銅戈出土地から合流して、
宗像を目指したわけでしょう。

近畿勢は秘密の援軍であり、
軍神側はまさか相手方に甲羅派が参加しているとは知らなかったので、
青谷上寺地遺跡の一般人が危険に晒されるとは思いもしなかったのでしょうね。

九州型銅戈の主だった将軍隊長については、軍神は当然顔見知りであり、
戦時にどのような振る舞いをするかは予測がついたでしょうから。

九州型銅戈が柳沢遺跡までは来ているので、
軍神追跡軍の当初の将軍は、古代豊国軍のカ〇系将軍だったのでしょう。
イ〇ナギを追いかけた八雷神の流れですね。

軍神を捕らえていれば、連れ帰って奴国王と豊国宰相と三人並べて降伏文書に調印させていたわけで、
つまりは軍神を捕らえることはできなかった。
九州型銅戈将軍が、上越市関川河口辺りに泊めてあった軍神軍の準構造船団を焼き払って、
一旦宗像へ戻って状況報告したわけですね。

なぜ戻ったと思うかというと、
深入りした石戈の中に、九州型銅戈型の石戈が無いからですね。

340 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 04:05:05.94 ID:brhHvmb/t
残った近畿型銅戈軍の中に、甲羅派の将軍あるいは隊長がいて、
軍神軍、ならびに軍神軍の中にいる神a派に敵討ちしようと、
進軍を主張して暴走深入りしたのでしょう。

20年頃の荒神谷遺跡の時に10代後半で、銅鐸回収作戦に従事していた銅剣戦士がいたとすれば、
70年には60代後半ですから、まだ将軍隊長を勤めることのできる年齢ですからね。

近畿→宗像→軍神追跡軍に参加して日本海沿岸へ出航し、
遥か50年ぶりの故郷・古浦の浜に一時上陸して、
両親兄弟姉妹、あるいは恋人や、妻子、を思い出して涙し、
それがために、復讐心を燃え上がらせてから、その直後に、
青谷上寺地遺跡に上陸ですから、

他の部族の部隊から見ても、甲羅派部隊が青谷上寺地遺跡に復讐する流れがあったわけですね。

柳沢遺跡から、執拗に神a派を追跡攻撃しようとした、ということは、
もちろん金印のこともあるでしょうが、

20年頃に甲羅派の古浦集落を襲撃した、神a派の隊長なり勇士なり政治的実力者なり、
あるいはその有名な子孫が、
軍神軍と一緒に諏訪に逃げ込んでいた可能性が高いですね。
標的がいたのでしょう。

341 :日本@名無史さん:2022/11/14(月) 19:27:44.65 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

342 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 10:10:25.26 ID:JEXyyOMiN
後漢書
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼 去其國萬二千里」
三国志
「自郡至女王國 萬二千餘里」

後漢書に萬二千里が記載されていることから、里程は後漢代のもの。

大倭王=金印倭王=卑彌呼であり、
後漢代の卑彌呼が居たのが、
女王國=邪馬一国=奴國+不彌國+α=若き卑彌呼の前任地(>>186

至は、その国の境界に至る
到は、その国の中心地点に到着する

7000+1000+方可400×2+1000+方可300×2+1000+500+100=12000
12000里で女王國=卑彌呼の前任地=奴国境界に至る。


日数は魏使の出張報告書からの転載。

343 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 22:22:47.63 ID:JEXyyOMiN
日数は魏使の出張報告書からの転載。

「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎて、
(通り過ぎてから)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭人支配地域の北岸である狗邪韓國に'到着'する。

「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭人支配地域の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。

「南至邪馬壹國
 女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。


卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。

344 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 23:05:16.29 ID:JEXyyOMiN
日数は魏使の出張報告書からの転載。

「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國
 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎると、倭に至る。
(倭領に至ってから倭領投馬國の中を)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭領の北岸である狗邪韓國に'到着'する。
帯方郡から狗邪韓國までは、七千余里である。

「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭領の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。

「南至邪馬壹國
 女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。

漢文では直前の単語にかかるため、
七千餘里→狗邪韓國
水行二十日→投馬國
水行十日陸行一日→女王之所都
にそれぞれかかる。


卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。

345 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:07:32.94 ID:LJrG5/A/p
>>336
椎根津彦命の祖神は大国主命として、
保久良神社に一緒に祀られていますから、
ほぼほぼアジスキタカヒコネ一族。

ごくごく低い確率で、ヤガミヒメの木俣神系列の可能性もありますが。

記紀の同段に登場する方たちに燕人の痕跡は残されていませんね。

346 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:09:40.63 ID:LJrG5/A/p
>>91
この時の近畿型銅戈7尋のうち少なくとも1将が燕系甲羅派の生き残り旧王族であり、
故郷古浦の燕系同郷人の仇討ちのため、徹底進軍を主張して深入りしたものの、
軍神の軍略に嵌められて全滅したわけですね。

>同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
>軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。

真逆かもしれませんね。

古浦の前々領主である燕系甲羅派の嫡流が、
近畿型銅戈軍の将として、
天下分け目の合戦に参加した。

古浦の前領主である奴国王系の軍神が、それを撃破した。

軍神が、捕縛した甲羅燕将と面会して、初対面で語り合ったわけですね。

古浦の甲羅派を全滅させたのは、神a派。
しかも軍神は、その後10年後に産まれた次男に過ぎない。

お互いに渡来系の将として、異民族の配下を率いて苦労した経験も共有できて、
古浦周辺の共通の知人、意外な近親者、の話題が見つかって盛り上がり、
お互いリスペクトして友情が芽生えかけたけれども、
時代の哀しさで、軍神は甲羅将を・・・遥か東方の地で・・・処刑せざるをえなかった。

前中西遺跡の方形周溝墓に丁重に葬った軍神の心中や如何に。

吠えたでしょうね。。。

347 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:33:24.88 ID:dlk2F1+sv
松本清張の「砂の器」で有名ですが、
東北弁と出雲弁(雲伯方言)がズーズー弁で似ているのですね。

東北地方に広く分布するズーズー弁が、
関東中部を飛び越えて、
なぜか西の出雲地方だけに飛び地的に存在するわけです。

また、現代日本人のDNA解析でも、東北地方の現代日本人と、出雲地方の現代日本人は、
DNA傾向が似ているそうです。


東北地方の縄文式土器が、沖縄でも出土していますから、
縄文時代からある程度の交流があったことはわかっていますが、
東北の人が自然に拡散するなら、出雲だけでなく、
日本海沿岸に広く薄くズーズー弁が分布するはずですね。

348 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:36:01.37 ID:dlk2F1+sv
伊都説から解析していくと、その謎も説明ができますね。

20年頃に、
青谷上寺地遺跡から出撃した神a派の中細形銅矛2尋が、
古浦の甲羅派集落を壊滅させた。(>>323

30年代後半に、若きミホススミが古浦を含む現出雲東部地域の領主として着任して、
私的な東国攻略を開始した。(>>170
ミホススミ範囲までは攻略に成功した。

自領の古浦地域が廃墟と化していたので、
東北弁の人たちを大勢連れてきて、古浦地域で稲作をさせて、年貢を納めてもらった。

被支配民ではあるが、稲作農民だと生活は安定するので、
東北弁の人たちはある程度増えて、東北弁が残った。

支配者は(>>152)何度か交代するが、
稲作農民は貴重な年貢を献上してくれる存在なので、
そのまま根付いたわけですね。
DNAもそれを示しています。

349 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:39:59.62 ID:dlk2F1+sv
後に軍神が諏訪に鎮座するわけですが、
北部九州と敵対した状態の軍神に、東国の人々が従ったということから、
ミホススミが東北弁の人々を連れてきた方法が、
奴婢や生口の形ではなく、
募集形式だったことがわかりますね。

豊かな西方に、既に一度耕されて肥沃だが、放置されている土地がある。
一家で移住して進んで弥生先進地域で暮らしてみませんか。
とか、
飢えている孤児を集めて稲作させたり。
とか、
平和な方法で集めてきたことが確実ですね。

そして、古浦にやってきた東北弁の人々の稲作が軌道に乗って、
それなりの生活をしていることが、
東北の知り合いにも伝わっていた。
70年までは、たまには親族に会いに来ることもあった。
ということでしょう。

350 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:45:05.94 ID:dlk2F1+sv
以上から解析すると、
東北弁と東北DNAが古浦にやってきたのは、
30年代後半〜70年だった、ということになりますね。

雲伯方言の分布範囲は、
島根県の出雲地方(飯南町を除く)
隠岐地方
鳥取県の伯耆地方西部(西伯郡・日野郡・米子市・境港市)
とのことですから、
まさに古浦を中心に拡散しています。

東北弁の人々は結構大勢やってきて、
貴重な労働力として周囲に入っていった、ということでしょうね。


飯南町に入っていないということは、
飯南町が奴国王の兄勢力の側だったからでしょうね。
後漢書の東の拘奴國=四隅突出国家、の発祥地域ですね。

351 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:46:08.60 ID:dlk2F1+sv
軍神の出身地である土井ヶ浜遺跡(の集落という意味ですが)は、
貝輪入手に特化していたのですから、
沖縄〜南九州〜長崎、の貝輪ルートの人々と密接な関係があった。

ので、縄文系の人々を差別する意識があまりなかったわけですね。
というかむしろ親戚感覚でしょうか。

特に、土井ヶ浜遺跡の領主であった兄の、英雄が、
二千年後の平和憲法の平等の精神を既に強く実践していて、
ミホススミが贈った縄文人も、皆と同じように扱い、
一族と同じ墓に入れるほどであった。

ので、生口のような奴隷商売をしたら、
兄や母に絶縁されるので、
家風のおかげで無茶はできなかったわけですね。

だがそのおかげで、北部九州で失脚しても、
東国に逃走してそこで支配者になることができた。

352 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:27:16.24 ID:dlk2F1+sv
徐福は東方の海中にある蓬莱に不老不死の薬を求めたのですから、
目的地は日本列島であったことは確実ですね。
前219年に1回目、前210年に2回目の出航をしています。

「史記」
・徐福は一回目の来倭時に、海中大神に遭遇した
・徐福は一回目の来倭時に、蓬莱山に到達した
・海神に出会い、蓬莱山はその東南にあった
・蓬莱山には宮殿があって、銅色で龍形の蓬莱王使者が面会してくれて、光り輝き天を照らしていた

・徐福の一回目の来倭時に、大鮫魚が邪魔をしたので、2回目は連弩を用意してもらった
・2回目に、男女三千人と、百工とを連れて行った
・徐福は平原廣澤の土地を得て、そこで王となって帰って来なかった

「後漢書」
・会稽の海外に、東?人がいて、二十余国をなし、また夷洲と?洲がある
・徐福一行は夷洲と?洲に留まって代々子孫を残し、後漢代には数万家にもなっていた
・夷洲と?洲の徐福子孫は時々会稽の市にやってくる
・逆に、会稽東冶県の人が遭難漂流して、?洲に漂着した人がいた
・?洲は遠絶で、往来できない

「三国志」
・呉の孫権が、夷洲を遠征したが、夷洲の数千人を得て還っただけで、損害の方が大きかった

353 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:28:17.18 ID:dlk2F1+sv
土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNA解析から、
斉の山東省臨錙(りんし)遺跡からの渡来人である可能性が高くなっていますね。

土井ヶ浜遺跡では、頭部を北西に向けて葬られているのが有名で、
その方角に山東半島がありますから、
まあ誰がどう見ても斉をルーツに持つ人々でしょう。

(むしろ反対する人というのは、なにか特別な思惑や目的があるのだろう、と考えられますね。)

ちなみに、鵜(フクロウ?)を抱く巫女、は、英雄の母系祖先ですね。
(同じミトコンドリアが、なぜかベトナムで見つかっています)

土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNAのハプロタイプはD4b2b1

354 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:29:59.28 ID:dlk2F1+sv
解析すると、

斉の方士であった徐福は、始皇帝の歓心を得るために、
不老不死の神薬を求めて来倭した。

1回目は、朝鮮半島経由で、対馬海峡に到達した。
>>112
燕系の衛氏朝鮮が建国する前ですから、秦の使者が通過できたわけですね。
そこで遭遇したのが、海神・大鮫魚、ですから、
サメ=ワニ、つまり古代出雲=宗像を本拠とした、熊鰐の勢力に遭遇したわけです。

対馬海峡の北岸は、燕系の神a派。
対馬海峡は、吉武高木王家の外戚だったであろう、女系ワニ。
が管理していて、
共に、吉武高木大王に従っていた。

とっくに稲作を開始していて、金属器も保有していて、国家運営していましたから、
秦始皇帝の探索隊を日本列島へ入れるなんてとんでもない話だったわけですね。

徐福は吉武高木宮殿に連れてこられたが、
大王や殿上人には会わせてもらえず、
口上の使者とだけお話させていただいて、追い払われた。

>>115
前285年の斉土笛難民は、政治色の無い避難民だったので、人道的に保護した。
けれども、
前219年の徐福は、秦始皇帝の配下で、
始皇帝は周囲の国々を滅ぼして奴隷化した恐るべき皇帝ですから、
青銅製武器で武装した軍隊でぐるりと取り囲んで徐福を威嚇して、
追い返したわけですね。

355 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:30:35.55 ID:dlk2F1+sv
追い返された徐福の立場で考えると、
斉の方士に過ぎない立場。
不老不死の神薬は手に入らない。というか、無い。
このままだと一族滅亡することが確定している。
かといって、海戦で、あの東夷海神の軍に勝つのは不可能。

となると、一族で亡命する以外に助かる道はなかったわけですね。

そこでついた嘘が
不老不死の神薬を手に入れるには、
「男女三千人と百工と、交換」するなら、手に入るそうです。
しかし、用心のために、「連弩で武装」させてください。

ということで、故郷の親族三千人と、新天地でやっていくための技術者と、護身用の連弩、を
始皇帝の資金で用意して、
前210年に2回目の出航をしたわけですね。

356 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:31:34.50 ID:dlk2F1+sv
対馬海峡に向かえば、今度こそ海神ワニ水軍=大鮫魚に襲われて、
間違いなく日本海の藻屑となりますから、

台湾沖縄経由で九州南部に入国したわけですね。

三千人の男女では、既に稲作をしていた九州を征服するのは不可能ですから、
現地の人たちと交わりながら、入居していった。

ワニに見つかると、始皇帝の手先として捕まりますから、
ワニがいない地域を選んで入っていく。

となると、
南部九州から有明海沿いに北上して、最終的には長崎の縄文系の人々と交わっていったわけですね。

南部九州から、東は四国や紀伊半島にも分布したかもしれませんが、
徐福集団も金属器ルートには近づきたかったでしょうから、
主勢力は長崎に入っていったのでしょうね。
徐福は長崎県で亡くなった可能性が高いですね。

前206年に秦が滅亡してくれますから、
始皇帝の手先のレッテルから解放されて、
ワニ活動地域に直接顔を出せるようになり、
前206年以降に、土井ヶ浜遺跡が開始となったのでしょう。

357 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:33:47.63 ID:dlk2F1+sv
対馬海峡渡海部分が、約200kmで、水行十日。

ただ、対馬海峡渡海は倭国直轄の重要海運部分で、舟・漕ぎ手や補給など最高級だったでしょうから、
他の渡海部分だともっと日数がかかったことになりますね。

長崎〜沖縄本島が、約800kmですから、水行四十日以上。
まあ2か月強だったのでしょう。

沖縄本島〜台湾対岸の福州市が、約900kmで、水行四十五日以上。

沖縄本島〜会稽だと、約1500kmですから、水行七十五日以上。

3世紀の孫権が攻め込むことが出来た夷洲は、沖縄でしょうね。

弥生時代に南西諸島を渡海していくのは、漂流すると太平洋ですから、
危険性が非常に高い。

よって、南部九州の?洲から南西諸島を経て、わざわざ中国大陸まで直接往来するのは、
利益に比べて損失が高すぎたので、
遠絶だったわけですね。

沖縄夷州からなら、たまに若手人員や物資が豊かな時期に、会稽まで交易船を送ることがあった。

358 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:37:12.90 ID:dlk2F1+sv
徐福が王となった、というのは、倭地全体の大王ではなく、
いわゆる旧百余国の中の一小国の王、ということですね。

技術者を連れていったけれども、
燕人なども既に来ていて、
北部九州での競争は厳しく、

青銅も鉄も入手経路は吉武高木大王直轄の対馬海峡しかなく、

徐福集団が利益を上げることが出来たのは、
沖縄との交易路を生かした、貝輪製作くらいしかなかった、
ということですね。

359 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 21:13:19.80 ID:dlk2F1+sv
そう考えていくと、
東革是國というのが、台湾。
夷洲が、沖縄。
?洲が、南部九州。

徐福一行は、台湾は通り過ぎて、
沖縄〜南部九州(〜長崎〜土井ヶ浜遺跡)に定住した。

台湾は元々複数の部族に分かれて暮らしていたのですから、
東革是國の二十余国というのはそういうことでしょうね。

360 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:01:40.82 ID:dlk2F1+sv
臨錙遺跡のミトコンドリアDNAは現代ヨーロッパ人と共通する部分があるとのことですから、
徐福一行は彫りが深い顔立ちで、縄文人と似ていたのかもしれませんね。

斉系の後発組ですから、伊都国奴国になかなか入れず、
その外縁の、長崎伊邪國や、越土井ヶ浜、などに住んでいたということですね。

沖縄にも拠点があり、
長崎の上腕がモリモリ発達したプロ漕ぎ手集団が、
定期的に沖縄を訪れて貝を仕入れていた。

貝輪など貝製アクセサリーが倭人社会でヒット商品となって、
希少性があるので重宝されたということですね。


ちなみに、長崎出身で五輪で金をいくつも獲得したプロ選手がいましたが、
プロ漕ぎ手の子孫なのかもしれませんね。
世界で最も難しい海域を行き来していたのですから、
上腕モリモリで、海上移動するのでバランス感覚も優れていたわけで、
それに適した男性が何世代もセレクトされていくうちに、
世界トップレベルのプロ漕ぎ手→プロ選手が誕生したというわけでしょうか。

361 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:03:12.65 ID:dlk2F1+sv
70年に貝輪一族の軍神が金印を持ち去ったので、
貝輪一族=比良夫貝、が倭国軍に追い回されることになりますね。

倭人社会で考えると、
貝輪、もとい貝釧が大ヒットして、長らく貝釧をいくつも腕につけて、
シャラシャラと軽快な音を立てるのが身だしなみだった。

それが突然手に入らなくなったわけですね。

そこで考え出された代替品が、銅釧やガラス釧だったのでしょう。
貝釧をつける風習があったので、
銅釧やガラス釧をつけていた。
けれども、
銅釧は重いし、手入れしないと錆びて緑の輪になってしまう。
海上移動している時に転覆したりしたら、溺れる確率が上がりそうですよね。
ガラス釧は綺麗ですが、うっかりぶつけると割れてしまいますから、
おちおち酒も?めない。

ですから、時代が下ると銅釧やガラス釧は廃れていったわけですね。

362 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:12:57.13 ID:dlk2F1+sv
巴形銅器は、スイジガイを模していると言われていますが、
そもそもからして、元々は、
盾にはスイジガイが張り付けてあったのでしょうね。

現代でも沖縄では、スイジガイを魔除けとして軒先にぶらさげる風習が残っているそうです。
またスイジガイを加工した、スイジガイ製利器があちこちで発掘されています。
そしてスイジガイは食用にもなる。

よっておそらく、沖縄そして、沖縄と行き来する長崎比良夫貝は、
航海厄除け並びに非常食として、スイジガイをいくつか船べりにぶら下げていたのでしょう。
スイジガイなら突起が多いので、細紐でぶら下げておけますからね。

転じて、プロ漕ぎ手は当然のことながら、
平時の移動や輸送だけでなく、
戦時においても、引く手あまただった。
弥生時代の主戦場は海上戦ですからね。

で、身を護るための盾に、お守りとしてスイジガイを張り付けていたわけですね。

スイジガイを張り付けた盾は比良夫貝だから、これを射ると、比良夫貝と敵対することになって、
後々比良夫貝のプロ漕ぎ手が自軍と契約してくれなくなるし、
場合によっては海上で襲われることもあるかもしれない。
だからスイジガイの盾は攻撃するなという不文律ができあがって、
転じて皆スイジガイを張り付け始めた。

363 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:13:34.57 ID:dlk2F1+sv
渡海のプロ達の厄除け風習が、倭人の間にも流行して、
基本的に出陣する時はスイジガイを張り付けた盾が準備されて、
それを積んで出航するようになったわけですね。

これもまた、70年を境にスイジガイが手に入らなくなりましたから、
代替品として巴形銅器が開発されて、
当初はスイジガイと同じ六脚だったけれども、
時代が下るにつれて、スイジガイを見たことのない青銅器職人が作るようになって、
五脚や四脚のものが増えていったということですね。

364 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 23:27:10.00 ID:dlk2F1+sv
軍神の父は奴国王。
母は土井ヶ浜女王ですから、
母方の母系は土井ヶ浜女王系。
母方の父は伊都国王族の田熊石畑遺跡将軍でしょうね。

徐福一行は、
母系社会の九州縄文人と長年同居しているうちに、
徐福一行の代表者も女性が務めるようになった。
その一部が、長崎縄文人と、古代越=山口県の縄文人つまり八岐大蛇族のネットワークや、
先に渡来していた斉土笛集団との繋がりなどで、
土井ヶ浜に領地を得た。

ただし、八岐大蛇族は既に一度敗北しており、
山口県各地の女王は田熊石畑遺跡将軍の子を産むことで、領地安堵を受けていた、
と考えられますね。

その流れがあったので、
奴国王が、義父田熊石畑遺跡将軍から首尾よく将軍位を継いだ後に、
土井ヶ浜女王に子を産ませることができたのでしょうし、

また軍神も、
女系集団であるワニの女王筋の女性を娶り、
また母方の祖父が田熊石畑遺跡将軍だったので、
古代出雲の兵権を得ることが出来たわけですね。

365 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 23:28:14.01 ID:dlk2F1+sv
>>178
金印を長崎に秘匿したとして、
比良夫貝が、なんで倭国と戦ってまで軍神の息子を匿ったのかを考えると、
その息子の母が比良夫貝の女王筋だったから、
としか考えられませんね。

つまり、軍神の最初の妻は、比良夫貝女王筋の女性だった。

だから、軍神は比良夫貝=長崎のプロ漕ぎ手集団、という強力なバックを持っており、
だから、若き軍神は、伊都国系の丹後若狭湾を飛び越えて、
遥か東国遠征をすることができた。

よって、ワニ女王筋の女性も娶ってワニ将軍に出世してからも、
対馬海峡渡海など有利に事を運ぶことが出来たし、

70年の時も、圧倒的な速さで東へ逃げ去ることができたわけですね。

366 :日本@名無史さん:2022/11/24(木) 03:13:18.98 ID:kOkvU7TjI
>>353
D4b2b1dは、青谷上寺地遺跡出土人骨5個からも検出されていますね。
D4b2b1の場合は、朝鮮半島の6世紀半ば頃の全羅北道群山市の堂北里遺跡の甕棺からも検出されているようです。
D系統は日本民族と朝鮮民族で高頻度でみられ、このほかツングース系のウィルタ、モンゴル系のブリヤート、カルムイク、チュルク系のテレンギスなどでもよく見られるそうです。
また、中国や中央アジア、アメリカ先住民でもみられるようです。
D4だけの場合は、現代日本人では30%以上の頻度だそうです。

これを見ますと、古代の日本や朝鮮では、D4b2b1はそれほど特異なハプロではなかったようですが、どうなんでしょうか。

367 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/11/24(木) 18:58:43.64 ID:QjvKun0oJ
尊皇討奸

https://www.bing.com/videos/search?q=%e9%9d%92%e5%b9%b4%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%ad%8c&docid=603491150469136465&mid=FB1B7F367E25EA3EC637FB1B7F367E25EA3EC637&view=detail&FORM=VIRE

368 :日本@名無史さん:2022/11/24(木) 22:49:09.49 ID:/crA4hq91
>>366
土井ヶ浜遺跡の女系解析は、ハプロタイプではなく、特定塩基配列部分の変異傾向をグループ分けして解析されていますね。

ハプロタイプはまた別の解析データ群で、覚書程度にメモしただけです。
そのデータ群での土井ヶ浜遺跡のデータは2体のみで、他の大勢も同じかどうかはわかりません。
ちなみに青谷上寺地遺跡32個体のハプログループはバラバラで、13ハプログループ29女系統もありますね。
最多のD4bですら24%しかいません。
これだけバラバラのハプログループが弥生集落に集まる理由としては、
「有力な王家」の存在が考えられますね。各地の部族から妻が送られる存在、ですね。
そういう王家があった、もしくは滅亡してどこかから避難してきた、などはどうでしょうか。
またD系統全て足してということであれば45%で半数近くなりますから、青谷上寺地遺跡本流の本来の母系はD系統の可能性が高くなりますね。

369 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 04:02:37.14 ID:r+gUZir6p
そもそもの縄文人からしてmtDNAハプログループは意外とバラエティ豊かだったそうですから、
各地の弥生遺跡のハプログループを多数並べてみて、
弥生時代にはどの遺跡でもバラエティ豊かなら、
既に縄文から混じり合っていて、mtDNAは出自云々にはあまり使えない、同一集落内での母系家族関係の検索にしか使えない、
ということになりますし、
弥生遺跡のほとんどでは単一や少数のハプログループで占められているのに、たまにバラエティ豊かな集落があるのであれば、
それは希少な集落であって、特別な社会的地理的意味が付加されうる、
ということになるでしょうから、
やはり複数遺跡、複数地域、との比較が必要でしょうね。

370 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 18:46:14.77 ID:4B2ESdqhY
なるほど、そこが焦点でしょうね。
一つの説として、青谷は渡来した入植者が集まるハブみたいな場所だったとする考えが出てくるのも、青谷が特別な集落と理解された結果ということになりますね。
ご指摘のように、青谷一般集落説も可能かもしれません。

古代史好きにとっては、欣喜雀躍するデータだと言えますね。

371 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:22:13.93 ID:r+gUZir6p
ハプロタイプ数は、
隈西小田遺跡(筑紫野市)で35個体12グループ、
縄文晩期の、船泊遺跡(礼文島)13個体5グループ、中妻貝塚(取手市)29個体9グループ、下太田貝塚(茂原市)24個体13グループ、
ということですから、
青谷上寺地遺跡32個体13グループが特にバラエティ豊かではないようですね。

隈西小田遺跡と比べると、
青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4d1のみ。
隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1a1のみですから、
女系に関しては両遺跡は疎遠であったことがわかりますね。

D4b2bについては、
町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2b1、
沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4、見つかっています。

372 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:25:49.43 ID:r+gUZir6p
>青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4d1のみ。
>隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1a1のみですから、

青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4dが1体のみ。
隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1aの1体のみですから、
女系に関しては両遺跡は疎遠であったことがわかりますね。

>D4b2bについては、
>町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2b1、
>沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4、見つかっています。

D4b2bについては、
町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2bが1体見つかり、
沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4体、見つかっています。

373 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:34:30.56 ID:r+gUZir6p
から、
2回目航海で南西諸島経由で亡命してきた仮説を証明するまではいかなくとも矛盾はしないデータですね。

また神a派が元々勒島遺跡で対馬海峡の北岸側元締めとして栄えていたのであれば、
その頃に周囲から交通要衝の有力者に多数輿入れしてきて蓄積されたハプロタイプ群が、
前108年に勒島遺跡を追われて青谷上寺地遺跡に移動してきたことになり、
日本列島側だけでなく、半島側の紀元前女系ハプロタイプも多数含んだ状態で移動して来たことになり、
そのような可能性も考慮しながら他遺跡のハプロタイプ群と比較してみるのも興味深いかもしれません。

燕や斉の沿岸地方に分布していたD4が、縄文時代から時々漂着してきて、
国家が滅亡することが多くなる前3世紀頃からやや多数集団で落ちのびてくるようになって、
最期まで残っていたD4集団が徐福一行で、それもまた逃げてきた、ように見えますね。

374 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 03:38:00.56 ID:+/M0hzhdU
母系のDが日本、朝鮮、ツングース、モンゴル、チュルクでよくみられる母系ハプロであることと、
父系のC2が東アジア、シベリア、中央アジアに多くみられることは、関連がありそうです。

一方、父系C1a1は、青谷上寺地では4点のうち2点がみつかっているようです。
現代の日本ではこのC1a1は5%の頻度ですが、日本以外では韓国済州島、中国遼寧省、同河北省、北朝鮮黄海南道、韓国で少数みつかっているようです。
これらのエリアは東アジアの中緯度帯の北部といえますが、興味深いのはC1a1はアイヌ人ではゼロで、一方のC2については25%と高い頻度とされています。
C1a1は高緯度地方へは進出しなかったのかも知れませんね。

こうしたことからしますと、青谷のY-C1a1の人は、黄海周辺あたりから半島へ移動した血筋で、勒島からさらに海を渡って青谷まで移住したのかも知れませんね。
青谷の母系D4の女性と何かの関係があったのかもですね。

375 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:54:18.96 ID:TmmnFbGPN
>>354
解析していくと、
海神=ワタツミ、大鮫魚=ワニ、の勢力としての中国史料初出の可能性が高いわけですね。

後の志賀島アズミも、女系はワニと考えられますから、
海神・大鮫魚は、
最初からアズミそのものの可能性もありますし、少なくともその女系祖、ということにはなります。

徐福が鮫と認識したということは、
鮫を連想させるような文身を入れていた
ワニ水軍が「鮫」あるいは「大鮫魚」と大書した旗を掲げていた
鮫皮の衣服を着ていた(防水性)
などが考えられますね。

後のワニ女王、トヨタマヒメが、出産の際に出身国での元の姿になると言って、
それを覗き見ると、ワニの姿に変身してのたうち回っていた、ということですから、
鮫皮の衣服(倭人の絹服と違って)の可能性が高いと思われますね。

376 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:56:17.58 ID:TmmnFbGPN
前約200年の時点でワニが対馬海峡を管轄しているのであれば、
そもそもワニ=吉武高木大王家だったのでは?とも連想されるわけですが、
一つには、
徐福が、海神には遭遇したにもかかわらず、
蓬莱宮殿では、宮闕=宮殿の門までで、大王の使者に会って終わっていることから、
蓬莱大王がトップで、海神はその配下だった。
という構図になりますから、
やはり男系吉武高木王家と、女系ワニだったと考えられます。

もう一つには、
これもトヨタマヒメが、日向王家に対して、自らを他国の人として発言していることから、
やはりワニも伊都国に対しての豊國の出の可能性が高いと思われますね。

伊都説だと、唐津湾岸の古代地名が吾田だった、と計算されるわけですが、
そうなると、アズミとは、
男系が吉武高木王系の女系ワニで、吾田にも拠点を持つ一族、
という意味だった可能性がありますね。

そうなると、吉武高木大王が既に存在している時代に、
対馬海峡を管轄していた大鮫魚とは、
吾田にも拠点を持つ女系ワニ族という意味での、古代アズミ一族だった可能性も出てきます。

377 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:57:38.38 ID:TmmnFbGPN
魏志倭人伝の「國」でも問題になりますが、
倭国の「國」や「王」については、注意が必要ですよね。

後漢書に「國皆稱王 世世傳統」とあることから、
百余国があって、それぞれに王がいて、
楽浪郡と外交していただけでも三十國とそれぞれの王がいたわけですね。

よって、倭王と倭国(卑弥呼時代に張政が当てた字が邪馬台国)が、
特別な共立大王と広域連合国家であって、

その中の多数の國というのは、都道府県や市町村レベル、
その多数の王というのは、戦国大名のようなもの、
だったわけで、
徐福が王となった、というのも、地方集落の自称王になって、なんとか生活の場を得た、
という意味だったことになりますね。

378 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 15:04:44.17 ID:TmmnFbGPN
>>264
徐福は蓬莱山に到着したと認識していたので、
徐福の認識としては、蓬莱に着いた。吉武高木宮殿を見た。蓬莱王の使者と会った。
ということになります。

徐福は秦始皇帝のれっきとした使者ですから、
始皇帝の使者徐福が面会を求めて遥々やって来たけれども、
吉武高木大王はおろか政権首脳達も、謁見すらしてくれなかった、
ということになりますね。

元の使者に対する、鎌倉幕府の対応と並んで、
東アジアの外交史上とても大きなポイントだと思われます。

つまり倭人はしっかりした国家意識を持っていて、
中国国家だからといってなんでも従属だったのではなく、
気に入らなければ門前払いを喰らわせるだけの独立意識を持っていた、
ということですね。

379 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 15:08:34.94 ID:TmmnFbGPN
>>264
5年東夷王について考えてみると、
徐福の時と同じ構図で考えるならば、
舟に乗って動き回っている王とは、
吉武高木大王ではなく、
倭の多数ある國の、多数いる王の一人、であった可能性が高く、
対馬海峡を管轄していた王、おそらくはその頃もワニ王ワダツミ、ひょっとするとアズミ、
であった可能性が高い、ということになりますね。

名前と肩書については、相手の自称を記録せざるを得ませんから、
私は倭地の「王」、私は奴国の「大夫」、私は倭国の「倭国王」、と言われたら、
中国側が否定する根拠もありませんから、
とりあえずそれがそのまま記録に残ったわけですね。

また107年師升についても、同じ構図で考えるなら、
伊都国王=吉武高木王が元首であって、
倭国王=三雲井原大王は幕府将軍であった、
と考えると辻褄は合ってきます。

380 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 16:37:00.64 ID:TmmnFbGPN
>>82
中国初の統一皇帝である始皇帝(前221〜)の正式使者である徐福は、
倭王(伊都国王=吉武高木大王)に謁見を願い出たが、門前払いされた。

外交交渉に失敗した徐福は、処罰を恐れて、
一族全員で倭地へ亡命した。

381 :日本@名無史さん:2022/11/29(火) 16:16:51.90 ID:d1IZh6CDl
>>379
弥生時代の国の元首は、部族シャーマンが務めたでしょうね。
一方、世俗的な首長は、そうした宗教的権威を持たない集落のリーダーだったのではないでしょうか。
こうした考えに立ちますと、部族シャーマンの宗教的権威を表す具体的な呪具としては、ゴホウラ貝腕輪がそれであったように思われます。
安徳台遺跡では、甕棺に葬られていた男性はゴホウラ貝腕輪を43個も腕につけていましたし、隅・西小田遺跡では41個と多数のゴホウラ貝腕輪が出土しています。
このゴホウラ貝腕輪をつけた人物は、そうした国の元首を務めた部族シャーマンだったと思われますね。

そこで、吉武高木遺跡の出土物をみてみますと、このゴホウラ貝腕輪がみつからないのです。
そうしますと、吉武高木遺跡の有力者は世俗的首長であったことが考えられます。
つまり、近隣の集落をまとめた広域の国のシャーマン元首ではなく、吉武高木集落一個のの首長だったのではないでしょうか。
そうなりますと、対外的に国を代表する王は元首でしょうから、吉武高木遺跡の有力者は国を代表する元首ではなかったことことが想像されます。

埋葬に際して副葬される品々の量や質は、シャーマン元首のそれより集落首長のほうが豊かだったことはあり得ることです。
しかし、その両者を分ける目印は、ゴホウラ貝腕輪の有る無しではないかと思いますが、いかがでしょうか。

382 :a:2022/11/30(水) 12:31:06.90 ID:znLbHJh1D
http://www.geocities.ws/setsinrigaku/10.html

383 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:50:50.43 ID:XXic3JZbH
>>381
たしかにそうですね。

貝腕輪=貝釧の出土傾向についていくつかポイントを挙げると、
・吉武遺跡から出土していない
・三雲井原王墓からも出土していない

・同一遺跡にて貝釧副葬墓はごく一部
・同一遺跡にて貝釧を10以上副葬された「貝釧多数副葬者」は1人が限度
(貝釧有力者の世襲を長く追えない)

・「貝釧多数副葬者」は立岩型甕棺墓、立岩型ゴホウラ貝釧、が多い
・「貝釧多数副葬者」の後に、貝釧は途絶える

この傾向から見ると、
貝釧を副葬された被葬者は、シャーマンなどの特定の役割をもった人物であった
けれども、例えば銅鏡や金属製武器の副葬のような、代々の権力者の世襲は追えない
わけですね。

384 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:51:27.09 ID:XXic3JZbH
個々の遺跡の中で比較検討して見ると、

例えば、
隅・西小田遺跡には甕棺墓が1500基あるにも関わらず、
貝釧が副葬された甕棺はわずか7基(ゴホウラ5・イモガイ2)しかないのですね。

唯一の「貝釧多数副葬者」が5号甕棺墓で、
たしかに立岩型ゴホウラ貝釧41個と銅鏡鉄剣鉄戈が見つかっていますが、
それ以外は、
ゴホウラ8+細形銅剣1が次点で、
後は貝釧のみで、ゴホウラ6、ゴホウラ1が2基、イモガイ10(おそらく女性)、イモガイ1(子供)
となっており、
とても指導者の系譜は追えないわけです。

あるいは、立岩遺跡では、
「貝釧多数副葬者」は34号甕棺墓のみで、ゴホウラ貝釧14+日光銘連弧紋鏡+鉄戈
ですが、
日光銘連弧紋鏡は、三雲南小路2号妃墓に7枚副葬された女系鏡であり、
>>270
伊都国王男系鏡と考えられる、清白銘連弧紋鏡が副葬された、
10号甕棺墓や32号甕棺墓には、貝釧は副葬されていませんでした。

385 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:52:02.16 ID:XXic3JZbH
伊都説で解析すると、

貝腕輪=貝釧については、

<伊都国から出土しない>
・吉武遺跡から出土していない
・三雲井原王墓からも出土していない

<伊都王族と想定される墓からも出土しない>
・伊都王族東征将軍の在豊国倭軍基地である、田熊石畑遺跡から出土していない
・伊都王族男系の証と考えられる、清白銘連弧紋鏡が副葬された甕棺墓からも出土していない
・三雲南小路1号大王の兄と考えられる、須玖岡本D地点王墓から出土していない

ということで、
伊都国王族ではない、別の男系勢力のものだと考えられる。
わけですね。

386 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:52:47.03 ID:XXic3JZbH
「貝釧多数被葬者」は、立岩型甕棺墓の同時期に、
各地の遺跡に一人ずつ、出現したわけです。

この時期の北部九州におけるゴホウラ貝の需要急増によって、
ゴホウラ貝釧の中には質がやや不良のものも含まれるようになりますし、

沖縄の供給基地では、
採取の容易なイモガイの備蓄がピークを迎えた同時期に、
出荷しまくったゴホウラ貝の備蓄が減少してしまいます。

387 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:53:23.39 ID:XXic3JZbH
<魏志倭人伝>
對馬國 卑狗、副:卑奴母離
一大國 卑狗、副:卑奴母離
末盧國
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國  ?馬觚、副:卑奴母離
不彌國 多模、副:卑奴母離

<後漢書>
倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀
使人自稱大夫
倭國之極南界也
光武賜以印綬

388 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:54:29.10 ID:XXic3JZbH
「貝釧多数被葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」

と考えられますね。

銅剣銅矛戦争に勝利した奴国王が、
主にカモ系女性領主を集めて、子を成し、
母の所領へ官として赴任させた。

卑=カモ 奴=奴国王 母と離れて

と考えると、
雀居遺跡に集められた、カモ系女性領主(卑)が産んだ、(奴)国王の子が、
母と離れて、母の領地の官として赴任した。
ということですね。

解析結果の、卑彌呼も卑彌弓呼も女系はカモだった、という推測とも合致してきます。

389 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:55:34.57 ID:XXic3JZbH
紀元前に、吉武高木大王が、日本海沿岸を統一した証が、
翡翠の勾玉。

それに対して、奴国王は、「倭國之極南界也」ですから、
南海からの貝釧に重きを置いたわけですね。


流れで見ると、
半島南部に神a派(>>330
対馬海峡はワニ(>>376

前210年に徐福一行が沖縄→有明海→長崎入り
前206年に秦が滅亡して、徐福一行の伊都国通過解禁

前108年に衛氏朝鮮滅亡して、楽浪郡設置
甲羅派が古浦遺跡へ亡命、カモ女王系と縁戚に
神a派が没落して青谷上寺地遺跡へ

前1世紀後半〜1世紀初頭に、銅剣女王国が瀬戸内高地性集落群を整備して、
弥生時代の大規模油田=木俣にて木材・炭の大量生産体制を整える

対馬海峡保有ワニ VS 瀬戸内保有カモ <銅矛銅剣戦争>

390 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:56:06.07 ID:XXic3JZbH
奴国王は結果的には、ワニの中広形銅矛将軍におさまって勝利します。

對馬國 卑狗(ワニ系 or 神a派)
一大國 卑狗(ワニ系 or 神a派)

末盧國 伊都国王系
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚

奴國  卑奴母離(安徳台遺跡)
不彌國 奴国王

余旁國々 各国の王 官:卑奴母離

という感じに、
各地のカモ系女王に産ませた卑奴母離を赴任させていったわけですね。

対馬海峡と、豊國はワニ。
末蘆国と伊都国は伊都國王。

その他の国々に、「奴国王時代の卑奴母離」=「貝釧多数被葬者」を送りこんだ。

391 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:57:58.03 ID:XXic3JZbH
落ち目だった神a派と、徐福派も、奴国王についたわけですね。

神a派は元々半島南部を拠点としていて、壱岐にもヒコを輩出していたので、(>>220
対馬海峡を管轄していたワニとは親しかった。

徐福派は、むしろ奴国王のほうが求めたのでしょうね。

ベースは八岐大蛇族ですし、徐福も最初の来倭が門前払いですから、
伊都国王とはあまり親しくない。

高い渡海能力や、徐福百工のそれなりの技術力がありますから、
奴国王が目をつけて、口説いたのが、
土井ヶ浜遺跡女王ということになりますね。


>>365
ちなみに、土井ヶ浜遺跡女王の次男である軍神の最初の奥さんは、
イモガイ貝釧の宮の本遺跡の女王系だった、ということになります。

70年に東へ落ちのびる際に、
宮の本遺跡女王との長男には、金印を渡して伊邪國の宮の本遺跡へ逃し、その子孫が難升米。

一方で、諏訪で失敗した際に自らの血統が途絶えるのを危惧して、
次男以下の一人を北海道有珠モシリ遺跡へと逃したわけですね。
宮の本遺跡で作られたイモガイ貝釧を装着しています。

392 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:59:17.92 ID:XXic3JZbH
70年に奴国王が失脚しますが、
その後は、カモ系Aタカヒコが有力者となりますから、(>>257
カモ系卑奴母離の大多数は失脚や処刑まではいかず、
伊都国王系の支配官を受け入れて生きのびたわけですね。

伊都国側から見ても、
奴国王が登場する前の、百余国それぞれに王がいる状態よりも、
卑奴母離制度は残して、各国の政治に介入したほうがよろしいので、

伊都国王系の倭国王、を頂点として、
各地の王は伊都国王系以外全て任官制にしたのでしょう。


對馬國 卑狗(カモ系 or 甲羅派)
一大國 卑狗(カモ系 or 甲羅派)

末盧國 伊都国王系
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國  官:?馬觚 卑奴母離・卑狗
不彌國 官:多模 卑奴母離

余旁國々 各国の官 卑奴母離

393 :日本@名無史さん:2022/12/02(金) 00:04:26.40 ID:LEJYFLynh
よって、
「貝釧多数被葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」
は、
20年代〜70年ということになりますね。

奴国王支配は終わりますから、
先の大戦終了時と同じで、
皆いっせいに貝釧を外したわけですね。

半分に割った貝釧を隠して取っておいた人が所々にいて、
自らの死去時にこっそりと副葬させたのでしょう。
奴族なのですね。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/625

394 :日本@名無史さん:2022/12/03(土) 20:10:57.34 ID:kqhId1SG9
弥生時代中期になりますと、集落が広域に連携するク二が形成されるようになるそうです。
背景としては、気温の温暖化で農産物の収穫が増加するようになり、さらに増産を計るための可耕地の争奪が始まり、
この過程で集落の広域連合が進み、ク二が形成されるようになったとみられているようです。

こうした流れの典型とされます吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の中部地域の広域連合の盟主であったようです。
この弥生中期の吉野ヶ里の甕棺では、少女の人骨に9個のゴホウラ貝などの腕輪が付けられているものがみつかっています。
ゴホウラ貝腕輪は前期のうちに北部九州で用いられるようになりますが、
中期になりますと多数のゴホウラ貝腕輪の装着がみられるようになるようです。
広域のク二の成立により、広域連合の元首としてのシャーマンの威信財としてのゴホウラ貝腕輪の需要が高まったた結果だと思われます。

こうしたことをみますと、吉武高木遺跡は前期末から中期初頭の集落ですので、
広域連合のク二が成立する前の時代の個別的な集落だったということになります。
この時期の吉武高木集落のシャーマンには、まだ多数のゴホウラ貝腕は求められていなかったということでしょうね。
吉武遺跡群の調査報告書では腕輪の出土があったとされていますが、それがゴホウラ貝腕輪だったのかどうかはっきりしません。
ゴホウラ貝腕輪の出土に関する一覧表では、吉武遺跡は記載されていません。

こうしたことからしますと、吉武高木遺跡は広域連合のク二の盟主ではなく、他の近隣の集落に影響力は持っていたとしても単体としての集落であり、
その単体集落の元首である高木のシャーマンはゴホウラ貝腕輪を威信財としていなかったということなのかも知れませんね。
その後、北部九州で集落の広域連合化が始まり、吉武高木遺跡の集落は消滅していくのだと思います。

395 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:22:30.38 ID:A6QDbB09B
>>394
ですから上で示した通り、
貝腕輪の需要が高まったのは「考古学的に」ごく一時期のみなわけです。
そこを無視してゴリ押しされても、どうにもなりませんよ。

伊都国男系は貝腕輪を求めておらず、
となれば、別系統の奴国王が伊都国に対抗して重視した威信材と考えられますね。
中広形銅矛もまた伊都国に入れておらず、
すなわち中広形銅矛将軍が奴国王となった。

中国史書で言うところの、伊都国男系が倭国系として、
金印奴国王が一代かぎり。

記紀でいうところの天神族に対して、大国主の天下が一代かぎり。

「貝釧多数被葬者」が、
ごく短期間に、
伊都国を除く各地に林立していることが、
それを示しています。

396 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:23:07.12 ID:A6QDbB09B
吉野ヶ里遺跡には、ゴホウラ貝輪の「貝釧多数被葬者」はいませんね。

36個のイモガイ貝釧を装着した女性甕棺墓被葬者は見つかっていますが、
副葬されていた銅鏡には「久不相見長毋相忘」の銘がありますから、
(久しく会うことができなくても、末永くお互いを忘れないようにしましょう)

地域女王ではあるでしょうが、どう見ても広域元首ではなく、
奴国王の数多くの妻の一人、であった可能性が非常に高いでしょうね。

そう考えると、
イモガイ貝釧の「貝釧多数被葬者」は、奴国王と結ばれた地域女王(女性首長)
ゴホウラ貝釧の「貝釧多数被葬者」が、「奴国王時代の卑奴母離」

奴国王は長寿だったので、先に亡くなる息子がいたのでしょうし、
70年に生きていた息子たちは貝釧を外したでしょうから、
ゴホウラ貝釧の「貝釧多数被葬者」の出土総数は、
実際にいた「奴国王時代の卑奴母離」よりは、少なくなる計算になりますね。

ゴホウラ貝釧は基本的に男性ですが、
奴国王が自らの男系にこだわった結果とも考えられるわけで、

極めて例外的に女児に与えられた吉野ヶ里での9個ゴホウラ貝釧は、
母のイモガイ貝釧「貝釧多数被葬者」が娘しか産まず、
かつ「倭國之極南界也」の奴国王にとって吉野ヶ里は重要地点であったため、
女性に与えることを特別に認められた、けれども夭逝してしまったのでしょうね。

397 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:24:33.83 ID:A6QDbB09B
銅鏡、剣(刀)、勾玉、というのは、
三種の神器にも、十種神宝にも入っており、

銅鏡や刀剣というのは、魏志倭人伝においても魏皇帝とやり取りされている威信材であります。

青玉というのが翡翠勾玉であり、
縄文時代から国際的に分布している倭の特産品であります。

それだと困る説が難癖をつけているだけで、じゃあ代替品はというと、はっきりしたものはありません。

貝輪は立岩式甕棺墓の時代までで急に途絶えていますし、
日本史書でも中国史書でも威信材としての記載はありません。

伊都にないものをなんとか見つけてそれを最大限に持ち上げて一発逆転、
という手法は、
桃の種と同じことで、結局は文献と齟齬が生じて論が空中分解してしまいますよ。

398 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:31:16.17 ID:A6QDbB09B
貝釧は途絶えますが、銅釧という形で風習は残ります。

ゴホウラ貝釧を模したと言われる有鉤銅釧もまた、鋳型は九州では奴国からのみ出土。
そして三雲井原王墓からは出てきません。

桜馬場遺跡からは有鉤銅釧が出土していますから、
奴族と何らかの繋がりがあるのでしょうが、
桜馬場遺跡は井原鑓溝大王の完全な臣下墓ですから、
釧の立ち位置というのがわかりますね。

その桜馬場遺跡末蘆國王家も倭国乱にて滅亡します。

前後に大王墓が無い事から、考古学的に長期政権女王だとわかる
平原女王墓にもまた、貝釧銅釧は無いことから、
釧というものは奴国王一代のごくごく短期間の威信材であったことになります。


そもそも基本的な考え方として、
卑弥呼時代に最重要地点の伊都國に平原女王墓があって、圧倒的豪華な副葬品があるわけですから、
それが卑彌呼だと考えるのが真っ当ですし、

卑彌呼が別にいて、平原女王はその配下だと主張するのなら、
別にあるとする卑彌呼墓は、墓制は平原女王墓と同じであるべきですし、
副葬品も平原女王墓と同じ系統でさらに豪華版であるのが真っ当ですね。

三雲南小路王墓と柏崎遺跡、井原鑓溝遺跡と桜馬場遺跡、のような関係で。

399 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:44:01.32 ID:A6QDbB09B
吉武高木大王と呼ぶのは、
吉武高木遺跡の大型建物=高殿、が長らく政治の場として維持されていたのと、
高木神、高皇産霊神、に比定されうるのと、
魏志倭人伝の里程の「到伊都國」の基準点であるのと、
からそう呼んでいるわけで、

王墓自体は、同じ吉武遺跡の中で、
吉武高木遺跡→吉武樋渡遺跡と続いていますし、
近衛戦士階級である吉武大石遺跡も立岩式甕棺墓の時代まで続いていますね。


吉武遺跡(旧伊都) 高天原 魏志倭人伝里程

奴国王一代 葦原那珂津國  短期間の「貝釧多数被葬者」時代

三雲井原遺跡(新伊都) 日向 魏志倭人伝日程


吉武遺跡では、銅剣は基本装備。
翡翠勾玉は、日本海沿岸を安定支配している時期に副葬なので、ほぼ基本装備。
銅鏡は、外交で入手した時のみ副葬なので、あったりなかったりするのでしょう。

神話でも八咫鏡はアマテラス時代の途中、岩戸隠れの時に作られていますし。

400 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 16:49:51.28 ID:RuSNcyUD8
>>396
吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪の数をどう見るかですね。
ゴホウラ貝腕輪は奴国が一手に配布していたようですし、その配布経路の主軸は奴国から立岩遺跡方面の東西方向に延びていますから、
吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪は築後川方面からの交易支路を経由して入手されたものでしょう。
そうしますと、吉野ヶ里はその交易路支路の末端付近に位置しますから、吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪の数はそうした交易上の制限や奴国などとの政治的な関係に起因したことが考えられます。
吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪の数は、そうした吉野ヶ里の立ち位置によるものでありますが、それでも佐賀平野中部のク二の盟主としてはそこそこの数だったように見えますね。

同じ北部九州で、吉武高木遺跡付近だけが宗教的威信財としてのゴホウラ貝腕輪を受け入れなかったとは考えにくいですね。
調査報告書では「腕輪」の出土が明記されていますから、宗教的威信財としての貝腕輪の文化は吉武高木遺跡の集落にもあったと思われます。
ゴホウラ貝腕輪の出土がないことについては、なんらかの理由で入手できなかったのではないかと思われますね。

401 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 17:54:30.49 ID:RuSNcyUD8
>>398
弥生中期後半から後期、古墳前期まで用いられたゴホウラ貝腕輪を模した有鉤銅釧は、唐津市桜馬場遺跡の宝器副葬のための甕棺からも出土しました。
被葬者が身につけていなかったものですね。
この有鉤銅釧の内側は角ばっていて、直接腕に付けるには不向きなようです。
こうしたことから見ますと、有鉤銅釧が持つ宗教的威信財としての価値は相当減じていたと思われます。
建物の柱穴付近からも出土したりしているそうですから、もはやシャーマンが身に付けた呪具のゴホウラ貝腕輪とは別の祭祀具のような価値に変質していたのではないでしょうか。
ゴホウラ貝腕輪と同列には論じられないように思いますね。

402 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 18:20:35.41 ID:RuSNcyUD8
>>400
吉武高木遺跡出土の「腕輪」は、ウィキの「吉武高木遺跡」では銅製腕輪2個としています。
これは、宗教的威信財のゴホウラ貝腕輪とは別の威信財と考えるのがよいようですね。

403 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 00:25:18.27 ID:GkcD2C3vT
やはり伊都王族には貝釧の風習はないようですね。

短期間のみ北部九州各地の「旧百余國」に出現した「貝釧多数被葬者」は、
「倭國之極南界也」の奴国王が派遣した「奴国王時代の卑奴母離」なのでしょうね。

日本海沿岸を支配する証の青玉=翡翠勾玉に対抗しての、
南方に展開した証の貝釧。

基本的にはカモさん領域に派遣されていくわけですが、
女系カモさんが既に各種男系を受け入れており、非常に解析しづらいですね。
男系の主系統だけでも、
カモさん自身の男系
吉武高木王家
 田熊石畑遺跡将軍家
燕系神a派
 神b派
燕王家系甲羅派
奴国王系
と種々ありますからね。

ただ、一つわかることは、
「貝釧多数被葬者」に、キ龍紋鏡が副葬されていない、
という、超重大な事実から、

58年に来倭した金印後漢使によってもたらされたキ龍紋鏡は、
疫病の流行やらなんやらで周囲に配布されず、奴国の宝庫に保管されていたのが、
70年にAタカヒコに渡った。

だから、キ龍紋鏡は、皆が貝釧を外した70年以降からしか副葬されない。

404 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 00:26:58.96 ID:GkcD2C3vT
>>256
さらに、外戚となった柏崎遺跡から出土しないことから、
キ龍紋鏡は、カモ系統の中でも、Aタカヒコの子孫並びに親族のみに限定配布された銅鏡であることがわかります。

よって、平原遺跡に副葬された、面径16.5cmの最大規模の
キ龍紋鏡の所持者はAタカヒコ関係者にかなり絞られることになります。

・Aタカヒコは、新伊都二代目の時に、復権したワニ(広形銅矛)に敗れて失脚している。
・後漢が倭国を認識しており、その禅譲後継国である魏が、卑彌呼を倭国王と認定している。

ことから、卑彌呼の男系は倭国王で、伊都国王系であり、
Aタカヒコの直系ではないだろう。

と、いうことは、
Aタカヒコと父(伊都国王系の田熊石畑遺跡将軍に娘しかいなかったので、その娘婿として将軍位を継いだ奴国王)も母(T姫)も一緒の可能性がある、
Aタカヒコと同世代の豊国女王である、I姫。

新伊都二代目の時に、I姫の娘が失脚して、東方荘園の琵琶湖沿岸に都落ちした。

卑彌呼はその女系直系であった、ということで、
前スレでの解析と合致してきます。

405 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 00:29:39.17 ID:GkcD2C3vT
女系は世界遺産に認定されましたし、

男系は世界最古の帝王家。

なぜに7世紀に隠さなければならなかったのか、
と、考えると、

卑彌呼には子孫はいない。
卑彌呼の弟と親族は滅ぼされた。

有力家臣の難升米は皆が唖然とするほどド派手に討ち死に。

あと問題があるとするならば、銀印の片方ですね。ゴリさんじゃありませんよ。

「魏率善」
高位の者が進出したが故に、逆にトップを狙う権利も生じたわけですね。

406 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 13:31:57.73 ID:rbFGgkQf7
>>403
吉武高木遺跡やそのあとの三雲・井原遺跡からゴホウラ貝腕輪が出土しないことの理由を推測しますと、次のことが考えられます。
弥生時代には、三雲などの集落がある怡土地域と志麻地域の間に海が貫入して水道ができていました。
ですので、怡土地域の平地部はかなり限られた広さしかない地域でした。
北部九州の各地方で広域をまとめたク二が成立する時期になりますと、怡土地域の限られた数の集落はク二を形成することができませんでした。
このことから、怡土地域はク二としての構造を持つことなくク二の時代に入った地域だったと考えることができます。

そして、他のク二の宗教的盟主はゴホウラ貝腕輪を宗教的権威の象徴とする宗教的体制を共有しますが、ク二としての宗教的体制を形成していない三雲の地域では、
ゴホウラ貝腕輪の配布を受けることができなかったと考えることができそうです。
その結果、クニの時代の前段階の吉武高木の集落で権威の具とされた銅腕輪が、三雲・井原の集落でも引き続き権威の象徴として継続されたのではないでしょうか。

つまり、怡土地域はク二ではなかったことが、ゴホウラ貝腕輪が出土しない理由だとみなすことになります。
そうしますと、3世紀前半に伊都国とされた地域は、こうした事情を背負ったごく狭い広さの地域であったとすることが可能です。
倭人伝では、伊都国は規模の大きな国のように描写されていますし、国名も伊都と華美な字が使われていますが、
しかしながら、倭人伝より前に成立しました魏略では伊都国にそのような描写はなく、むしろ対馬、壱岐と同じ扱いの国として書かれています。
このことは、伊都国が対馬、壱岐と同じ人口規模の小さい地域であったことを示すものです。

こうしたことからしますと、弥生時代中期の怡土地域は、ゴホウラ貝腕輪の配布を受けることができないク二の前段階にある地域集落ということになってきます。
伊都国に対するこれまでの考え方は、かなりの修正が必要ではないでしょうか。

407 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 13:47:26.20 ID:dD+hgK0wU
YouTubeでトンカラリンさんの邪馬台国1〜5を見ると伊都国説で間違いみたいですね。

408 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 20:11:56.02 ID:rbFGgkQf7
トンカラリンさんは、動画の冒頭で金印の「委奴」をイドと読んで、伊都国のことだとしています。
倭の字を用いていないから「委奴」をワノナと読むのは間違いとするわけです。

しかし、倭の字を当時の中国人がワと発音したという保証はありません。
と言いますのも、委と倭は同じ発音をする場合があるからです。
金印が造られた後漢時代の発音は、上古音として再構されています。

中国語(上古音)
委=iuar(イウア)
倭=uar(ウア)、iuar(イウア)

上のように、倭をイウアと発音していたとすれば、これは委のイウアの発音と同じになります。
そうしますと、委も倭も同じ音でありますので、委(イ)と倭(ワ)のように区別することができなくなります。
つまり、委と書いてあるので倭とは別だとすることができなくなるわけです。

また、奴の発音では、

中国語(上古音)
奴=nan(ナン)

中国語(中古音)
奴=no、ndo(ノ、ンド)

となりますので、後漢時代の金印では、奴の発音はナンです。
ドの発音が出てくるのは後漢時代よりもあとの時代になります。
そうしますと、後漢時代の委奴の字をイドと発音するのは無理ということになります。

こうしたことから、トンカラリンさんが冒頭で「委奴はイドの発音なので伊都国を意味している」とする考えは成り立たなくなりますね。

409 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:48:49.55 ID:GkcD2C3vT
>>403
伊都説で解析を進めると、

70年に奴国王が失脚したことで、
「奴国王時代の卑奴母離」である「貝釧多数副葬者」も失脚した。

>>391
また、軍神の長男が、金印を秘匿して、
母の故郷である宮の本遺跡(伊邪分國)へと逃れて、
伊邪國(長崎県)プロ漕ぎ手水軍=比良夫貝、として倭国と対立したことで、
南方からの貝ルートが閉ざされてしまった。

わけですね。

けれども、
約30年ほど経った、新伊都二代目の外戚と考えられる桜馬場遺跡の時代に
ゴホウラ貝釧を模倣した有鉤銅釧が復権していますね。

410 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:50:45.86 ID:GkcD2C3vT
新伊都一代目の三雲南小路遺跡にも、
外戚の柏崎遺跡にも、釧はありません。

新伊都二代目の井原鑓溝遺跡にも、釧はありませんが、
外戚の桜馬場遺跡には、有鉤銅釧が出現します。

伊都説だと、桜馬場遺跡は八尋ワニ勢力になりますね。

>>152
一方で、カモ系と考えられるキ龍紋鏡は貝釧も銅釧も伴いません。
平原遺跡も釧はありませんね。

以上から、
・ゴホウラ貝釧ならびに有鉤銅釧は、伊都国男系はつけない
・ゴホウラ貝釧ならびに有鉤銅釧は、奴国男系であってもカモ女系ならつけない
と考えられます。

となると、桜馬場遺跡の男系は伊都国王系ではない、つまり奴国王系である可能性が非常に高くなり、
柏崎遺跡が失脚して、
桜馬場遺跡=奴国王男系+ワニ女系(=アズミ?)
ではないかという推定が浮上してきますね。

有鉤銅釧の鋳型も、奴国領域の、「香椎」、古賀市、筑前町、から出土しています。

411 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:54:14.92 ID:GkcD2C3vT
>>363
桜馬場遺跡の巴形銅器は、元になったスイジガイと同じ六脚のものですから、
最初期の巴形銅器ですね。

よって、
有鉤銅釧も巴形銅器も、アズミが作り始めたものである可能性が高くなりますね。

有鉤銅釧副葬者が、「新伊都二代目三代目時代の卑奴母離」

巴形銅器が、「アズミ外戚時期の倭国軍の盾飾り」

豊国から出土しないのは、
豊国が倭国に対して独立性を保っていた(墓制・石製品流通など)ためであり、
また、
男系ワニの本貫ワニや、男系田熊石畑遺跡将軍のワニが、治めていたからかもしれません。


一方で、広形銅矛は、桜馬場遺跡からも、豊国からも出土しますが、
こちらは広義の女系ワニ勢力の共通旗印、と考えれば説明がつきますね。

412 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:55:53.30 ID:GkcD2C3vT
東日本に逃げ込んだ軍神領域(長野〜関東〜千葉)からも、
こちらは帯状円環銅釧が出土していますね。

奴族の軍神は軍神で、
北部九州とは分断された状態で、別個に貝釧の代わりを創出したのでしょう。
東国の卑奴母離ですね。

土井ヶ浜遺跡の生まれで、しかも
一緒に逃れた妻がアズミならば有鉤になりそうなものですが、
>>391
宮の本遺跡との関係や、アズミであっても女系を重視するなら、
イモガイ貝釧の方を模倣することになったのかもしれませんね。

413 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 17:51:32.15 ID:N9J93a0NY
>>410
ゴホウラ貝腕輪や銅腕輪をどのような背景でとらえるかですね。

弥生後期の二塚遺跡(前原市)では、ガラス腕輪が出ています。
一方、同じ後期〜晩期の平原遺跡では、ガラス玉やガラス小玉は出ていますが、腕輪は出ていません。
これを宗教的祭祀者(元首)のいる集落と行政的リーダーのいる集落とに分け、この2頭立ての体制の連携集落がこの時期の北部九州にあったとします。
この体制は、3世紀にも続いていて、倭国の元首となった卑弥呼のいる邪馬台国では、卑弥呼のいた所と卑弥呼の弟とされる行政的リーダーの人物がいた所は別々であったように倭人伝などでは描かれています。

このパターンで見ますと、ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡は、クニにおける宗教的祭祀者のいた所と行政的リーダーのいた所という2頭立て体制の関係にあり、
また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。

そうしますと、クニのような広域連携体制を形成することができなかったものの、怡土地域では重要な集落であった後期の二塚遺跡のガラス腕輪は、この集落には元首的な祭祀者がいたことを示していて、
ガラス腕輪を持たない行政的リーダーのいる平原遺跡とペアを組んでいたと考えることが可能になります。
そして、中期中頃の三雲南小路遺跡ではガラス玉類はたくさん出土しますが、ガラス腕輪が出ていないことから、この集落は行政的リーダーのいる所だったとみなすことができます。
そうなりますと、この三雲南小路遺跡の集落とペアを組んでいた宗教的祭祀者のいる集落が別にあったことが想定されます。
この集落はまだ見つかっていないとみなすことも可能でしょう。

いずれにしましても、怡土地域でもガラス腕輪を宗教的権威の印として身につけた人物がいたと見ることができそうです。
それがなぜゴホウラ貝腕輪でなくガラス腕輪だったのかについては、答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。

414 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 21:29:08.98 ID:hLJ0G8259
>>413
吉武遺跡群→三雲井原遺跡、はそれぞれの時代に圧倒的ですから、
それを素直に解釈できないあなたの説は、最初の土台から希望的先入観で成り立っていて、説得力がありません。

ゴホウラ貝釧については、先に示した通り、各遺跡で一瞬だけ保有者がいただけであり、
集落ごとに色分けすることはできませんね。
ゴホウラ貝釧多数副葬者と同じ遺跡に、その前後に伊都系銅鏡副葬者がいることも多く、
どちらかというと、行政的リーダーが、
伊都銅鏡系リーダー→奴国貝釧系リーダー→伊都銅鏡系リーダー
と変遷しているように見えます。

>ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡
須玖岡本遺跡のは、有鉤ではない、ただの銅釧では?

>また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。
ゴホウラ貝釧が出土する遺跡を、連携集落とみなすのに対して、
銅鏡その他の威信材が大量に出土する伊都とその関連遺跡を、連携集落あるいは広域国家、とみなさない時点で、
あなたの仮説は矛盾していますよ。

日本古来の神道における宗教的権威の印といえば、銅鏡あるいは剣・矛であり、
三種の神器、十種神宝、神社のご神体もそうですよね。沖ノ島祭祀品もそうです。
それらの弥生時代総元締めが伊都ですね。

>答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
>ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。
ガラス腕輪は、北部九州からわずか2か所。
日本海沿岸からも3か所。出土していますので、
あなたの仮定だと、伊都が日本海沿岸を広域支配していた、と言っているのと同義になりますね。

貝釧に妙にこだわって、伊都を敵視している所からみると、
失礼ながら、
あなたは奴族の「貝釧多数副葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」の末裔かもしれませんね。

415 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:27:25.31 ID:hLJ0G8259
時代が進んでしまいますが、話題に出たので、
ガラス釧ですね。

鉛ガラス釧(緑)
・二塚遺跡(前原市長野川沿)  甕棺墓
・二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町) 甕棺墓
・西谷墳墓群2号墓(出雲市大津町) 四隅突出型墳丘墓
・比丘尼屋敷墳墓(京丹後市大宮町) 弥生後期墳墓

カリガラス(青)
・大風呂南1号墓(与謝郡与謝野町)
  方形台状墓・舟形木棺 有鉤銅釧13、貝輪残欠、鉄剣11

以上全てが弥生時代後期後葉です。

416 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:28:16.52 ID:hLJ0G8259
大風呂南1号墓でよくわかりますね。

先祖が外した貝釧が残っていた。
ゴホウラ貝釧を模した有鉤銅釧を保有していた。
ガラス釧を保有していた。

同系統の権力を示す、全セットが揃っています。
男系奴國王系+女系ワニ系の丹後若狭湾水軍将軍だったわけですね。

その名の通り、河内青玉繋でしょうか?

417 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:30:52.60 ID:hLJ0G8259
二塚遺跡については、伊都近郊に出張設置された、末蘆國藩邸でしょうね。

長野川が、末蘆國と伊都國の県境だったものと推定されます。
「又渡一海千餘里 至末盧國」の上陸地点は筑前深江であり、余裕で末蘆國側ですね。

三雲南小路大王=新伊都の倭国王一代目、の外戚が、
 柏崎遺跡で、男系伊都国王系+女系カモ
  <関連重要拠点に配下のお抱え工人(オルドス式銅剣)の足跡>

井原鑓溝遺跡=新伊都の倭国王二代目(師升)の外戚が、
 桜馬場遺跡で、男系奴国王系+女系ワニ(有鉤銅釧、巴形銅器)

桜馬場遺跡の親族が、新伊都近郊に設置した末蘆國藩邸が、二塚遺跡でしょうね。
 <関連重要拠点にガラス釧>

418 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:33:00.25 ID:hLJ0G8259
ガラス製品自体は、勾玉や管など各種製品として、主に伊都と丹後に大量出土しますから、
ガラス釧というのは、「釧」であることに意味があったことになりますね。

>>132
西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓は、奴国王の兄達の子孫と考えられるわけですが、
3号墓→2号墓→4号墓→9号墓→6号墓、の順に作られたそうです。

興味深いのは、
3号墓 特殊器台
2号墓 ガラス釧
4号墓 特殊器台
の並びですね。

三輪山、保久良神社、楯築遺跡、など、
巨岩を並べる磐座、立岩の遺構が残るのは、
基本的には大倭の輸送拠点跡地と考えられ、
>>315
基本的にはカモ系Aタカヒコ一族の管轄であり、卜占・亀卜の出土や説話が付随しますね。
弧帯文の亀石もその名の通り、亀卜の亀を崇めたものでしょう。

>>337
そこに、義兄であるS系統も、諏訪で深入りした嫡男は討ち取られましたが、
親族あるいは郎党が若干は残って大倭で働いていたと考えられ、
>>331
命を救われた恩としての交流があった。

よって、西谷墳墓群においても、相変わらずの、
3号墓 特殊器台 カモ大倭系
2号墓 ガラス釧 ワニ系
4号墓 特殊器台 カモ大倭系
の女系せめぎ合いがあったわけですね。

419 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:54:35.28 ID:hLJ0G8259
>>3
しかし不思議ですね。
>「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
>◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

同じ三国志にこれだけわかりやすい例文が沢山あるのに、
なぜそれを用いて解釈しないのか。

『到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘? 世有王
 皆統屬女王國』

<訳ではなく説明>
伊都國の官には爾支がいて、副官には泄謨觚と柄渠觚がいて、千余戸の人々がいて、同時代にも伊都国王がいる。

女王國=奴國+不彌國+α(東に豊国が挟まるので、旧奴国領域内に限定=せいぜい福岡県内)=邪馬一国
は地方女王卑彌呼の本領であり、
元々は、伊都國と女王國は別々の自治体だった。

倭国乱を収拾するために、
卑彌呼が倭国王に共立された<新たな所属変化>のに伴って、
伊都國の王以下の皆は、倭国王に共立された卑彌呼の、”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になった。


卑彌呼は倭国王になったのですから、(〇奴国王ではない)伊都國王系。

伊都國には伊都國王がいて、
奴国などには伊都國王系の卑彌呼が派遣されていた。
卑彌呼が優秀だったので、卑彌呼を共立して、
広域国家倭国=卑彌呼時代邪馬台国が成立して、本家の伊都國王ら皆は倭国の一員となった。

という至極単純な話ですが。

420 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 23:03:03.29 ID:hLJ0G8259
卑彌呼は元々は、女王國=奴國+不彌國+α(東に豊国が挟まるので、旧奴国領域内に限定=せいぜい福岡県内)=邪馬一国
の地方女王で、
府庁のあった不彌國にいたわけですね。

ですから、後漢書と被る部分は、不彌國時代のことになります。
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
 自爲王以來 少有見者
 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入
 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人 持兵守衞」

里程については、56年頃の奴国王金印後漢使の時のものでしょうが、
奴国王も卑彌呼も、不彌國にいたのは同じですから、
伊都國の基準点は吉武高木遺跡宮殿でいいですし、里程の最終到達地点は不彌國。
「居處宮室樓觀、城柵嚴設」を見つけたければ福岡空港を掘り返してください。

卑彌呼治世の最終期に、佐賀=旧・阿耶訶→邪馬嘉國、を狗奴国から奪取して、
魏との外交活動が活発になったことで、
卑彌呼が新伊都へ移動してきたわけですね。
それが魏使の旅行日誌に記された日程の「女王之所都水行十日陸行一日」になります。

421 :コロナの特効薬は「イベルメクチン」!!!!:2022/12/16(金) 21:36:09.61 ID:nliTu59aa
ミカエル 「日本予言!! 世界経済崩壊!!」

秋ごろから日本経済が悪化する!!「経済崩壊」!!「日本経済破綻!!」
銀行が次々につぶれるだろう!!
「預金封鎖」がおこる!!
「黒田総裁と竹中平蔵たち」と「ビル・ゲイツ」が「アメリカ国債を25%」
引き出し、アメリカを世界大恐慌におとしいれるだろう!
「日本人はアメリカ人から憎まれる」!!
黒幕は「ロックフェラー財団」と「ビル・ゲイツ」と
カルト集団の教祖「ロード・マイトレーヤ」が真犯人!!
「黙示録の獣」=「ロード・マイトレーヤ」が不気味に笑うだろう!!

日本で失業者が公園にあふれるだろう・・・
ミカエル「ニューディール政策」を思い出せ!!
「日本の銀行」が次々につぶれる!
「サル痘」が流行し、大勢の人間が死ぬだろう!!

「世界統一銀行」が世界を支配する!!
「世界統一銀行」は預金者の預金を奪う「ドロボー銀行」だった!!
世界中で「マイナンバー・カード」が盗まれる事件が多発する!!
「世界統一政府」と「ロード・マイトレーヤ」は、人間の「ひたい」と「右手」に
「獣の数字」をイレズミさせ、全人類を支配しようと計画する!!
「レイザータトゥーガン」=「レーザーイレズミ銃」
「マイナンバー」の正体は「獣の数字」!!
中東で大戦争がおこるだろう!!
「たくさんのユダヤ人」が中東の戦争で戦死するだろう!!運命!!

「新型コロナ」の特効薬は「イベルメクチン」!
「サル痘」の特効薬は「テコビリマット」!!
「秘密の本」→「戦慄の聖母予言」(せんりつのせいぼよげん)!!
                予言の書 ミカエル

422 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 15:43:25.41 ID:w6g0A55EK
>>414
吉武高木の集落と三雲井原の集落の間には、高祖山の山領が東西につらなっています。
こうした山領は、その前と後の平地に立地する集落の連携を阻みます。
吉武高木と三雲井原は、そうした立地の典型でしょう。

両集落が連携した関係にあったとは考えにくいです。
吉武高木は早良平野の集落との連携関係をみるのが良いでしょうね。
吉武高木と三雲井原の間の山領は、日向峠のある谷筋が通行路であったことは明瞭ですが、
双方は、やはり別の生活圏にある集落とみるほうがいいですね。

423 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 15:58:46.56 ID:w6g0A55EK
>>418
筑前平野と佐賀平野などにみられるゴホウラ貝腕輪は、それぞれ政治的背景を持つク二のつながりを見ることが可能ですが、
一方、怡土平地の二塚遺跡のガラス腕輪の場合、出雲や丹後などのガラス腕輪と相当な遠隔地でありますので、それらのガラス腕輪による政治的なつながりは考えにくていです。
出雲や丹後のガラス腕輪は、それぞれの集落が交易で入手したものを単独で宗教的威信財としたものでしょう。
出雲などは政治的連携に関して墳丘墓をその印として採用していたようですから、ガラス腕輪はシャーマン個人の威信財として用いられたとみるのが良いでしょうね。

いずれにしましても、ゴホウラ貝腕輪をク二間の政治的連携の印として用いたのは筑前平野や佐賀平野などの地方で顕著だったのかも知れません。

424 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 20:42:10.59 ID:q23UeCZza
>>414
須玖岡本遺跡の中の伯玄社遺跡出土の中期小児甕棺からは南海産腕輪が出ているそうですが、
これはイモ貝製腕輪の可能性が高いですね。
女性や子供の腕輪の場合は、イモ貝製腕輪が普通だったとされています。

この例からしますと、集落にはごく普通にシャーマンがいて、日常の祭事を行っていたことが考えられます。
そのシャーマンの子供が、伯玄社遺跡の小児甕棺に葬られていた人骨でしょうね。
こうした一集落所属のシャーマンとク二の元首となった大シャーマンの役割は大きく異なり、その大シャーマンの威信を表すものとしてゴホウラ貝腕輪が装着されたのでしょう。

425 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:49:09.75 ID:Ttr88fH2l
>>423
ほら、あなたの説はどんどん破綻していますよ。
高価なガラス釧を交易で求めることが出来るのであれば、
より一般的な貝釧はなおさらのこと交易で求めることが出来た筈ですね。

交易で求めたものであれば、これもまたただ一代のみ装着されているので、
一過性のお洒落アイテムではありえても、
宗教的威信材にはなりえないでしょうね。

>>424
奴国の一等地である須玖岡本遺跡で、必死に探してそれだけなのですから、
逆に奴国王家というのも、貝釧の風習は無かった、と考えるのが妥当ですね。

伊都国王家も、奴国王家も、本家に関しては、共に貝釧の風習は無かった、
と考えられます。


貝釧は「縄文時代」から広域に存在しますし、
北部九州であれば、古代豊国の山鹿貝塚の女性たちが多数貝釧を副葬されています。

この時点で、貝釧があるからクニだというあなたの仮定は破綻しています。

縄文時代の貝釧は近海産なので、
ゴホウラなど南海交易に意味を置くとするなら、

結局のところ広域交易が重要ということになり、振り出しに戻って、
当然のことながら、
・海外からの銅鏡
・楽浪土器
・青銅器鉄器
が豊富な伊都国こそが、クニの中枢、ということになります。

426 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:50:41.55 ID:Ttr88fH2l
山鹿貝塚は、縄文時代早期から約6000年間続いた貝塚で、
貝輪をつけた女性被葬者が多数見つかっていますね。

有名なのが、2号人骨と3号人骨で、
いずれもタマキガイ(ベンケイガイ)の腕輪を多数装着しており、

3号人骨(30代女性)が、右腕に15個、左腕に11個の貝輪、
鹿骨のかんざし2本

2号人骨(20代女性)が、右腕に4個、左腕に14個の貝輪、
緑色大珠、鹿角のアクセサリー2本、サメ歯イヤリング2個
2号人骨の右腕に4号人骨(新生児)

3号人骨と2号人骨は共に、肋骨や鎖骨、脊椎を抜き取られていた、
という非常に特色のある女性首長=女性巫女であったと考えられています。

427 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:52:51.45 ID:Ttr88fH2l
過去スレで検討しましたが、
山鹿貝塚女王こそが、後に遠賀式土器を伴って全国に稲作を広めた、
古代豊國イザナミ一族に比定されうると考えられ、

遠賀川を挟んで、
西が古代出雲國、東に古代伯伎國。
その境にあったのが、共立女王の砂丘墓地である山鹿貝塚=比婆山。

古代豊國に八雷神という縄文系八部族がいて、
共立女王を立てていた。

女王を決める方法が、記紀に伝わる骨抜き神事。
先代女王が亡くなると一旦山鹿貝塚へ埋葬し、
満月の夜に掘り返して(蛆はわくが蠅は飛ばない)、
各部族がそれぞれの担当場所の骨をつまみ、同時に抜き取る。

最もたやすく抜き取ることのできる部位=最も早く腐敗転生が進んでいる部位であり、
その部族の高位女性に次の女王が産まれてくる。

チベット族のダライ・ラマ、あるいはクマリ、といった宗教指導者の決め方に似ていますね。

他部族のイザナギがその縄文系秘事を盗み見たので、八雷神が怒って追いかけてきたわけですね。

428 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:54:28.69 ID:Ttr88fH2l
西の古代出雲の最有力がワニ。
イザナギと婚姻を結んだのはワニ系のイザナミであり、
在豊国倭軍基地である、田熊石畑遺跡を誘致した。

西へ展開する傾向があり、吉武高木大王の外戚として、対馬海峡も管轄することになります。
>>375
サメ歯のアクセサリーは縄文時代から多数出土しており、
サメは貴重な海の幸として捕獲されていたわけですね。

舟乗りは耐水性に優れたサメ皮の革ジャンを着て、
サメ頭部の皮でできた帽子をかぶる者もいたので、
見た目でサメが歩いているようなものだったわけですね。

東の古代伯伎の最有力がカモ。
遠賀式土器、あるいは鐘崎式土器、を伴って東方展開していった、
日本人の母系とも言えますね。

後の東方へ、八雷神全てが分布するのではなく、
火雷のみが伝えられていることから、
火雷(胸)→淤縢山津見(胸)→カモ

こちらはおそらくですが、
大雷(頭)→正鹿山津見(頭)→ワニ
なのでしょう。

429 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:55:10.11 ID:Ttr88fH2l
山鹿貝塚の二人の女王は、
共に近海産の貝輪を多数装着し、
共に骨抜き神事を施行され、
共に鹿骨や鹿角をまとっていますね。

サメ歯イヤリングをしている方が、古代ワニ系女王で、
していないほうが、古代カモ系女王でしょうか。

緑色大珠は、成分分析では厳密には翡翠ではありませんが、
古代に成分分析はありませんから、
翡翠と同系の宝石製の、大珠、と認識して使用していたものと思われます。

吉武高木遺跡の翡翠勾玉の女系祖、ということになりますね。

430 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:56:26.55 ID:Ttr88fH2l
貝輪、貝釧というものについて俯瞰してみると、
縄文時代から、タマキガイ(ベンケイガイ)など近海産の貝輪を、
女性有力者がつける風習が日本全国にあったわけですね。

南海産貝を素材とした貝釧は、
縄文時代末〜弥生時代開始期の、前5,6世紀くらいから、登場してくるわけですが、
オオツタノハ(種子島・トカラ列島、伊豆諸島南部)
→イモガイ・ゴホウラ(沖縄以南)
の順に登場してきますから、

沖縄から売り込んできたのではなく、
北部九州から、種子島・トカラ列島→沖縄と求めて、次第に交易路を拡大していったことがわかりますね。

>>352
前210年に徐福一行が亡命してきた頃から、ゴホウラ・イモガイ製貝釧が増えてきます。
沖縄には北部九州への輸出用と考えられる、貝集積地や前処理加工品集積地が増え、
北部九州では男性のゴホウラ貝釧装着者が出現してきますね。

そして、奴国王期と考えられる、立岩式甕棺墓の時代の一時期に、
各遺跡に一人ずつの「貝釧多数副葬者」が登場しますが、
それを最期に、貝釧副葬者は消滅してしまいます。

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